松平康親

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松平康親
松平康親肖像
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 大永元年(1521年
死没 天正11年6月17日1583年8月4日
改名 松井忠次→松平康親
別名 金四郎、左近尉、左近(通称)
周防守(受領名
戒名 空閑院殿厳誉豊月崇輝大居士
墓所 法応寺愛知県幡豆郡吉良町
主君 今川義元松平忠茂松平甚太郎家忠松平忠吉
氏族 三河松井氏(松井松平家)
父母 父:松井忠直
兄弟 康親松井光次
正室:江原政秀
継室:松平重吉
康重忠喬井伊直政室)
他に養女5名
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松平 康親(まつだいら やすちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め松井 忠次(まつい ただつぐ)と称す。通称は金四郎、左近将監、左近尉、左近、後に松平周防守康親と改称したとされるが異説もある。松井忠直の子。松井松平家(三河松井氏)の祖。

生涯[編集]

大永元年(1521年)、松井忠直の子として三河国幡豆郡吉良庄相場小山田村(現在の愛知県西尾市吉良町小山田)にて生まれる。この地を本貫地とする三河松井氏の惣領。

寛政重修諸家譜』の松井松平氏の記述では、父・忠直(金四郎)は松平宗家の松平清康広忠に歴仕して松平氏の家臣とされるが、新井白石は著書『藩翰譜』の松井氏の項で東条の家人であったという見解を示しており、松井忠次(康親)の出身地の小山田村が東条吉良氏領であったことからも、忠次の実家が初期には東条吉良氏の属臣(家臣ではない)であったと推定される。また、『寛政重修諸家譜』の按文の内容から、三河松井氏は二俣城主で今川氏重臣であった遠江松井氏と系譜的に共通しており、駿河今川氏の影響力により、三河吉良氏領移住と吉良氏への付属がなされたと解釈される。

東条松平家の名代[編集]

当初は今川氏の家臣として史料上に現れる(天文20年(1551年)12月11日付松平忠茂宛今川義元判物)。この文書で忠次は松井左近尉と記され、今川義元より山内助左衛門尉とともに松平甚太郎(忠茂)に付属すべき内容が示される。この時より、忠次はいわゆる東条松平家寄騎として付属したと考えられている。これは甚太郎の兄で尾張国織田氏についた甚二郎(忠吉)を義元が排斥した事後処理として行われたと推測される。

忠次は主君・松平忠茂に妹を嫁がせて外戚となる。ところが弘治年間、今川氏から離反した東三河の奥平氏菅沼氏の鎮圧のため、弘治2年(1556年)2月、主君・忠茂は松井衆らを率いて、三河日近城奥平貞直(日近久兵衛尉)を攻めるものの戦死、東条松平勢は撤退を余儀なくされた(日近合戦)。この時、忠次が事態を収拾し東条勢の殿軍を務め、籠城軍・日近勢は追撃を試みたものの戦果を挙げるには至らなかった。

この合戦後に今川義元は、忠茂の嫡男・亀千代(1歳)の遺領相続(同年2月27日)及び、忠次が亀千代の名代となること(同年9月2日)をそれぞれ文書で指示した。これは先に追放された松平甚二郎が、忠茂の死を知って旧領に復帰する動きをみせたことに対応する措置だったと考察されている。以後、忠次は亀千代の名代として今川方の軍事行動に参陣した。

松井松平家の成立[編集]

永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が戦死し、永禄4年(1561年)に今川氏より自立した徳川家康に主君・亀千代と共に帰属した。

同年4月、東条城の吉良義昭を攻め、6月より津の平(現在の愛知県西尾市吉良町津平)に砦を構えて対陣、9月に至り藤波畷の戦いに破って降伏させた。永禄6年(1563年)、義昭が三河一向一揆に主将として担がれ東条城に籠城すると、忠次は再度これを攻めて翌年春に降伏させた。義昭は追放され、かわって亀千代が東条城主になる(東条松平家の事実上の成立)。また、忠次も500貫文加増で3,500貫文を知行し、松平重吉の娘を娶って松平姓を許されたとされる(松井松平家の成立)。ただし、松井松平家の家臣である岡田治部右衛門の書付には松平姓を与えられたのは、遠州牧野城に入った時(後述)と記されている。

東海地方平定戦[編集]

主君・亀千代は松平甚太郎家忠と改め、西三河国衆として徳川軍の主要構成部隊のひとつになり姉川の戦いや近江平定戦に参加。徳川氏は旧今川氏領をめぐり武田氏と対立、元亀3年(1572年)には三方ヶ原の戦い武田信玄に大敗し、松井忠次一族も家康を守って多数戦死した。信玄病死後、その子・勝頼とも東条の兵を率いて戦いを継続した。天正3年(1575年)5月の鳶巣城攻略、同年8月の遠州諏訪原城(牧野城)守備での功績により家康より偏諱と周防守の称号を許されて、以後は松平周防守康親と称す。

ただし、柴裕之は従来、酒井忠次が発給したと考えられてきた天正10年(1582年)と確定できる午年[注釈 1]の年次と「忠次」の署名が入った黒印状[1]に捺された黒印が松井松平家の家印であることからこの発給者は(松井)松平忠次であると述べて、天正10年の段階で松平忠次は「康親」を名乗ってはおらず、その翌年に没していることから康親への改名は事実ではなく、次代の康次が家康の偏諱を与えられた事実が誤認された伝承である可能性を指摘している[2]

対北条戦[編集]

天正9年(1581年)、主君・家忠が病死すると、家康はその後継に自分の四男・福松(後の松平忠吉)を入れ東条松平家を存続させる一方で、康親に引き続き名代・後見をさせた。翌天正10年(1582年)に武田氏が滅亡すると、駿河国沼津の三枚橋城に在城して、駿河国富士郡駿東郡の郡代を任されて後北条氏と対陣する。以後康親・康重2代にわたり約8年間、ここを拠点に北条氏と戦う。松井忠次(松平康親)は三河東条城、遠江牧野城と、徳川氏領国の東側境界の要所を任されてきたこと、駿河の東部二郡は戦国時代において北条・今川・武田の三氏の間で独自の地位を保ってきた葛山氏の支配地域であったことから、郡代としての権限が与えられたとみられている[3]

天正11年(1583年)6月、対陣中の三枚橋城にて死去。享年63。法名は空閑院殿厳誉豊月崇輝大居士。三河国幡豆郡斑馬(愛知県幡豆郡吉良町駮馬)の法応寺に葬る[4][注釈 2]

家族[編集]

正室は江原丹波守政秀の女、継室は松平次郎右衛門の女。

2男1女あり。

  • 嫡子・康次(松平康重、母は次郎右衛門女、徳川家康の落胤とも)
  • 次男・忠喬(松井金七郎、母は康次に同じ)
  • 長女・唐梅院井伊直政の室となる、母は江原政秀女)

他に5人の養女あり(いずれも石川右馬允康正の女)。

鹿野藩亀井政矩は女婿。

弟に松井次郎兵衛光次がある。光次は三男金七郎が上州大胡藩牧野氏に付属(後に家臣)のため大胡に赴き、当地にて死去。光次の子孫は尾張国清洲藩名古屋藩越後長岡藩家臣となった。 

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 当該文書で安堵を受けた大鏡坊は駿河国東部(現在の静岡県富士宮市)にあり、徳川氏領国だった時代の午年は天正10年に限定される。
  2. ^ 法応寺は昭和30年に廃寺となった。また、中島次太郎は『徳川家臣団の研究』の中で駮馬の法応寺跡に松平義春両名の墓と共に壮大な康親の墓があると述べている。東条城近くの法応寺跡には松平家忠・松平義春両名の墓と共に康親の墓があったが、同寺跡を地権者が売却し、土砂採取により乱開発され、家忠・義春両名の墓および康親の顕彰碑などは平成23年に吉良町岡山の花岳寺(東条吉良氏の菩提寺)境内に移築された。但し、死去した三枚橋城近隣の浄土宗乗運寺(静岡県沼津市)にも康親の墓が存在し、実際にはこの墓に葬られたらしい。また茨城県笠間市笠間の月崇寺にも墓所が存在する。

出典[編集]

  1. ^ 『村山浅間神社文書』天正10年4月3日付大鏡坊宛黒印状
  2. ^ 柴 2014, pp. 211–212.
  3. ^ 柴 2014, pp. 229–230.
  4. ^ 寛政重修諸家譜』巻第373

参考文献[編集]

  • 『新訂 寛政重修諸家譜 第六』 (続群書類従完成会、1984年)
  • 『新編 藩翰譜 第二巻』(人物往来社、1967年)
  • 『今川氏と観泉寺』(観泉寺史編纂刊行委員会編、1974年)
  • 中島次太郎 『徳川家臣団の研究』 (国書刊行会、1966年刊行、1975年復刊)
  • 松平君山(原著)「士林泝洄」(『名古屋叢書 続編』(第20巻)、1968年)
  • 高野栄軒(編著)「諸士由緒記・全」/『長岡藩政史料集(2)』(『長岡市双書』 No.15、1991年)
  • 柴裕之「徳川氏の駿河河東二郡支配と松井忠次」『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』2014年、ISBN 9784872948844 (原論文は『戦国史研究』42号、2001年・45号、2003年)


先代
松井忠直
三河松井氏(松井松平家)当主
1542年 - 1583年
次代
松平康重