松島基地

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松島飛行場
Matsushima Air Field
基地正門
IATA: N/AICAO: RJST
概要
空港種別軍用
所有者防衛省
運営者航空自衛隊
所在地宮城県東松島市矢本字板取85
指揮官第4航空団司令
所在部隊第4航空団
標高6 ft / 2 m
座標北緯38度24分17秒 東経141度13分10秒 / 北緯38.40472度 東経141.21944度 / 38.40472; 141.21944
地図
RJSTの位置(日本内)
RJST
RJST
空港の位置
滑走路
方向 全長 表面
ft m
07/25 2,701×46 舗装
15/33 1,500×46 舗装
松島基地の位置
松島基地の位置
RJST
松島基地の位置
松島基地付近の空中写真。1984年撮影の8枚を合成作成。
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

松島基地(まつしまきち。JASDF Matsushima Airbase)は、宮城県東松島市矢本に所在する航空自衛隊の基地(軍用飛行場)。基地司令第4航空団司令が兼務。

所属する航空部隊はF-2Bの操縦訓練を実施する第21飛行隊(第4航空団隷下)、自衛隊の展示飛行隊である第11飛行隊ブルーインパルス、第4航空団隷下)、捜索救難を行う松島救難隊(航空救難団隷下)である。

松島基地は、旧ソ連およびロシア軍が有する戦闘機の戦闘行動半径の外側にある地政学的条件を活かして、有事の際は北方からの脅威に襲われる千歳基地や三沢基地を支援する戦略拠点となる。東京都青森県の中間に位置するため、百里基地などの関東地方の各自衛隊基地や三沢基地が天候不順などで使用できない場合に、航空機代替着陸を行うことが可能な基地としても重宝されている。

歴史

1937年昭和12年)7月7日日中戦争開戦を機に大日本帝国海軍海軍航空隊の基地として設置され、松島海軍航空隊が置かれた。豊橋海軍航空隊および松山海軍航空隊と共に陸攻隊を編成して沖縄戦を戦い、約200名が戦死した。

戦後、一時進駐軍に接収されたが後に日本に返還された。戦後もパイロットの教育部隊が置かれているが一貫して航空自衛隊[1]が管理しており、海上自衛隊の航空部隊は利用していない[2]

なお、戦時中から占領期頃まで仙石線宮城電気鉄道)から専用線が基地内に引かれていたが、現在は廃線となっている。

年表

  • 1938年昭和13年) - 工事開始。
  • 1942年(昭和17年) - 第1・第2滑走路が完成。
  • 1943年(昭和18年) - 霞ヶ浦海軍航空隊松島分遣隊が開隊。戦闘機搭乗員教育が行われた。
  • 1944年(昭和19年) - 松島海軍航空隊が開隊。横須賀鎮守府隷下。
  • 1945年(昭和20年)
  • 1954年(昭和29年)
    • 6月1日 - 米軍から返還。保安隊臨時松島派遣隊が船岡柴田町)で編成。
    • 6月2日 - 「キャンプ松島」に移動。
    • 6月22日 - T-6練習機によるパイロット養成開始。
  • 1955年(昭和30年)11月1日 - 第2操縦学校新編。松島基地設置。
  • 1957年(昭和32年)
    • 7月31日 - 第2操縦学校宇都宮へ移動。
    • 8月1日 - 第2操縦学校臨時松島訓練隊、(第1航空団)臨時松島派遣隊編成。
    • 12月1日 - 第3航空団編成。
  • 1958年(昭和33年)
    • 2月16日 - 臨時松島派遣隊廃止、第4航空団編成完結。操縦者教育の準備に入る。
    • 5月12日 - 第3航空団小牧へ移動。(基地司令は4月24日に交代)
    • 8月1日 - 第2操縦学校臨時松島訓練隊が第2操縦学校第2分校として静浜基地へ移動。(第15飛行教育団として1964.5.31廃止)
    • 11月25日 - 第5飛行隊が第1航空団から第4航空団隷下に編入される。
  • 1959年(昭和34年)
    • 6月1日 - 飛行教育集団発足に伴い、第4航空団が長官直轄から飛行教育集団に隷属替え。
    • 12月1日 - 第5航空団が編成される。
  • 1960年(昭和35年)
    • 2月1日 - 第5航空団に第7飛行隊編成。
    • 7月1日 - 第4航空団改編。第5、第7飛行隊を隷下にし、航空総隊中部航空方面隊に編入。戦闘航空団となる。第5航空団は司令部のみ新田原基地へ移動。
  • 1961年(昭和36年)
  • 1962年(昭和37年)
    • 5月15日 - 第7航空団が入間基地へ移動。
    • 6月24日 - 整備員による不法操縦事件が起きる。T-33が大破。
    • 8月31日 - 偵察航空隊が入間基地へ移動。
  • 1971年(昭和46年)
    • 7月1日 - 第4航空団第5飛行隊廃止。第1航空団松島派遣隊編成。F-86Fによる教育訓練開始。
    • 7月30日 - 第1航空団松島派遣隊のF-86Fと全日空機が岩手県雫石上空で衝突。全日空機雫石衝突事故
  • 1972年(昭和47年)1月17日 - 第1航空団松島派遣隊のT-33練習機によるパイロット養成開始
  • 1973年(昭和48年)
    • 8月23日 - 中部航空方面隊より飛行教育集団に編入。第1航空団松島派遣隊を吸収する形でT-33にる第35飛行隊が編成。
    • 8月24日 - 第1航空団松島派遣隊廃止。
  • 1975年(昭和50年)
    • 3月 - 臨時T-2訓練隊新設。
    • 3月22日 - T-2初号機受領。
  • 1976年(昭和51年)
    • 3月25日 - 臨時T-2訓練隊を整理し臨時第21飛行隊を新設。
    • 10月1日 - 第21飛行隊新編。
  • 1977年(昭和52年)7月1日 - F-86Fの第7飛行隊整理。
  • 1978年(昭和53年)
    • 4月5日 - T-2の第22飛行隊新編。
    • 6月12日 - 宮城県沖地震発生。災害派遣を行う。
  • 1982年(昭和57年)1月12日 - 飛行群第21飛行隊に戦技研究班が新編。
  • 1982年(昭和57年)11月14日 - 戦技研究班のT-2が浜松基地での公開飛行中に墜落。パイロット1名が殉職、周辺住民12名が負傷。
  • 1991年(平成3年)7月4日 - 戦技研究班のT-2、2機が訓練中に墜落。2名殉職。
  • 1995年(平成7年)12月22日 - 第21飛行隊戦技研究班(T-2ブルーインパルス)が解散、第11飛行隊(T-4ブルーインパルス)が新設。
  • 2000年(平成12年)7月4日 - 第11飛行隊のT-4、2機が訓練からの帰投中に墜落。3名が殉職する。
  • 2001年(平成13年)3月27日 - 第22飛行隊の飛行訓練が廃止される。
  • 2002年(平成14年)4月1日 - 臨時F-2教育飛行隊設置。
  • 2003年(平成15年)7月26日 - 宮城県北部地震。基地の一部が損傷し、基地内に災害対策本部が設置される。翌日に予定されていた航空祭は中止となった。
  • 2004年(平成16年)3月29日 - 臨時教育F-2飛行隊を整理、第21飛行隊へ改編。T-2からF-2へ機種転換。
  • 2011年(平成23年)3月11日 - 東北地方太平洋沖地震東日本大震災)に伴う津波により冠水、基地機能喪失。
  • 2012年(平成24年)4月19日 - F-2による飛行訓練再開。
  • 2013年(平成25年)3月30日 - 第11飛行隊が帰還。翌3月31日に防衛大臣出席のもと帰還式が開かれた。
  • 2016年(平成28年)3月20日 - 第21飛行隊が帰還。防衛大臣政務官出席のもと帰還式が開かれた[3]

東日本大震災

水没したF-2を見るアメリカ軍兵士

2011年(平成23年)3月11日14時46分頃に東北地方太平洋沖地震東日本大震災)が発生、東松島市では震度6強を観測。14時50分、宮城県に15時00分に高さ6mの津波が到達するとの気象庁発表[4]。地震発生から約1時間10分後の15時54分頃、基地は高さ2m以上の津波に襲われた[5][6]

本来なら震度5以上なら直ちに航空機で上空から被害確認にあたるが、天候による視界不良、津波到来の時刻が当初不明だったこと、揺れで捜索機の前輪がずれたこと、激しい余震が予期される中での救難ヘリコプターの離陸は回転翼が機体をたたく危険性があること、滑走路や誘導路に亀裂や断裂が生じている懸念の対策等から津波に襲われるまでに航空機を飛ばすことができず[7]、駐機場および格納庫に駐機していた航空機28機(F-2B戦闘機×18機、T-4練習機×4機、U-125A救難捜索機×2機、UH-60J救難ヘリコプター×4機)全てが水没し[8][9][10]、冠水のため基地機能も完全に喪失した(その後、水没した18機のF-2のうち修理可能な機体は13機と判明)。

当時基地で勤務していた隊員約900名は建物屋上に避難し全員無事だったが、休暇中の隊員1名が死亡した[11]

翌日の夜明けより隊員の手作業により滑走路の復旧に着手、同日午後には他基地から重機が到着し本格的に作業が行う一方で[12]、津波被害を免れた2台のトラックを救助活動に向かわせた。3月15日に滑走路が復旧され、翌3月16日より救援物資の輸送に使用された[13]

ブルーインパルスは、震災翌日に予定されていた九州新幹線全線開業の祝賀飛行[14]のため3月10日から福岡県芦屋基地に展開していたため、被害を受けたのは基地に残っていた予備機1機のみであった。

2016年(平成28年)3月に駐機場を4m嵩上げする津波対策工事と新しい格納庫の建設が完了。同月には修理を終えた6機を含めた10機のF-2で第21飛行隊が松島基地に帰還を果たした[3]。残り7機のF-2も2017年度までに復帰させる予定である。

航空管制

種類 周波数
GND 275.8MHz
TWR 126.2MHz,236.8MHz,304.6MHz
APP&DEP 120.1MHz
APP 261.2MHz,315MHz
DEP 362.3MHz
RDR 134.1MHz,335.6MHz
TCA 123.85MHz
RESCUE 123.1xMHz,138.05MHz,247.0xMHz
周波数のxは、周波数が変動することを表す

航空保安無線施設

局名 種類 周波数 識別信号
松島 TACAN 1177.0MHz MXT

配置部隊

航空教育集団隷下

航空総隊隷下

航空支援集団隷下

防衛大臣直轄部隊

クラブ活動

航空祭

毎年8月に開催、ブルーインパルスの展示飛行を実施していたが、2011年以降は東日本大震災の影響により開催されていない。なお、2006年平成18年)から基地内駐車場を原則として廃止したため公共交通機関での来場を呼びかけていた。

事故等

  • 1977年昭和52年)8月31日、地上のT-2高等練習機から誤って座席が射出。パラシュートが開かず教官1名が死亡した。
  • 2000年平成12年)3月22日、松島基地所属のT-2高等練習機1機が宮城県牡鹿郡女川町の山林に墜落。乗員1名が死亡した。
  • 2000年平成12年)7月4日、コーク・スクリューの訓練を行った後に帰投する予定であったT-4ブルーインパルス仕様機5・6番機が無線交信の直後に牡鹿町(当時)の山中に墜落した。事故当日は悪天候であったため、救難機が捜索するも発見出来ず、翌日になって事故機・パイロットの遺体は発見された。パイロット3名が殉職・T-4を2機失うという、ブルーインパルス史上、最大の惨事となった。
  • 2003年平成15年)7月26日、宮城県北部(鳴瀬町矢本町河南町周辺)を震源とした、震度5弱~震度6強の地震(宮城県北部地震)が連続して発生した。この地震の影響により松島基地内も一部が損傷し、翌7月27日(日)に松島基地航空祭が予定されていたが中止になった。基地内に設けられていた「航空祭対策本部」を「災害対策本部」に替え、同基地所属の松島救難隊が情報収集に緊急発進した。しかし航空祭が中止になった事を知らずに多くの人が基地を訪れてしまい、基地正面門前や最寄り駅に隊員を派遣して、「航空祭は中止になりました」との呼びかけや対応を行った。
  • 2014年平成26年)1月29日、金華山沖の練習空域でT-4ブルーインパルス仕様機2機が訓練中に空中で接触。松島基地に緊急着陸し乗員は無事だった。

脚注

  1. ^ 発足前は保安隊で編成された臨時の派遣隊
  2. ^ 宮城県内に海上自衛隊の基地はない
  3. ^ a b 「困難を乗り越え、本日をもって松島基地は復興する」 帰ってきたF2戦闘機 第21飛行隊、訓練再開へ 宮城県”. 産経新聞 (2016年3月20日). 2016年3月20日閲覧。
  4. ^ 気象庁 - 平成23年 3月11日14時50分 気象庁発表
  5. ^ 東松島市 - 松島基地の基地機能の回復とT-4ブルーインパルス機の松島基地での早期訓練再開を要望する意見書
  6. ^ 毎日jp(毎日新聞) - 検証・大震災:自衛隊員10万人、史上最大の作戦(2)
  7. ^ 証言3・11:東日本大震災 松島基地、無念の全員退避 吹雪の中、迫る津波 飛べずに28機全滅毎日新聞 2012年4月29日
  8. ^ 空自松島基地の全航空機水没2011年3月12日 日本経済新聞
  9. ^ F2戦闘機18機など水没 松島基地 1機120億円2011年3月12日 asahi.com(朝日新聞社)
  10. ^ 広田防衛政務官、「パイロット養成に支障、防空態勢に困難」 松島基地被災で2011年3月22日 MSN産経ニュース
  11. ^ 朝雲ニュース - 東日本大地震 松島基地の機能回復
  12. ^ 東日本大地震 松島基地の機能回復
  13. ^ 空自松島基地の滑走路復旧 救援物資の輸送拠点に - 東日本大震災2011年3月16日 asahi.com(朝日新聞社) 2011年3月31日閲覧
  14. ^ 3月11日の午前(大地震発生前)の事前飛行は行われたが、12日の祝賀飛行は自粛された

関連項目

外部リンク