松山人車軌道

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松山町内の人車軌道

松山人車軌道(まつやまじんしゃきどう)とは、宮城県志田郡松山町(現・大崎市)にあった人車軌道、およびその運営会社である。営業は1922年大正11年)から1928年昭和3年)までで、廃止とともに「人車軌道」社名のまま乗合バス事業を開始した。1945年(昭和20年)に運輸局より企業統合の指令を受け、仙北鉄道に吸収されて会社解散した。

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歴史

室町時代応永8年(1401年)、鎌倉公方から大崎平野志田玉造加美3郡の奉行に任命された遠藤盛継[† 1]は、大崎平野の南辺の大松沢丘陵北東麓の当地に千石城北緯38度30分27.5秒 東経141度3分15.7秒)を築いた[1]。以降約200年間、遠藤氏が居城としたが、安土桃山時代天正19年(1591年)に遠藤氏が転封され、石川昭光古田重直が領主を歴任した[1]慶長8年(1603年)、仙台藩地方知行により茂庭良元が領主となるが、明暦3年(1657年)に茂庭定元が上野館(北緯38度30分42.8秒 東経141度2分57.4秒)に居館を移した[1]。千石城の城下町は「松山」と呼ばれ、大崎平野各地や松島方面、仙台平野から大松沢丘陵を越える街道などが集まり、宿場機能も持った[2][3][4][5]

1889年明治22年)4月1日、城下町・松山を擁する千石村は、周辺の金谷村・須摩屋村・次橋村・長尾村とが合併して松山村となり、翌1890年(明治23年)3月15日町制を施行して松山町となった。同年4月16日日本鉄道(現・JR東日本東北本線)が延伸され、旧城下から直線距離で北に約3km、鳴瀬川を挟んで対岸の場所に小牛田駅が開業した。このとき同線は、大松沢丘陵東端を迂回し、旧・千石村の東隣の旧・金谷村を南北に縦貫する形で敷設された。日露戦争を機に1906年(明治39年)公布の鉄道国有法によって日本鉄道が国有化されると、1908年(明治41年)12月25日、旧・金谷村の同線に松山町駅が開業した。

1918年大正7年)9月29日、交通運輸の拡充を掲げる原内閣が成立すると、1919年(大正8年)5月1日仙台鉄道管理局が新設され、1920年(大正9年)5月15日には鉄道院鉄道省に昇格した。このような行政の変化に当地の住民がどのように影響されたかは不明だが、同年10月、松山町駅前から町役場や郵便局などがある旧城下[† 2]までの軌道敷設を申請するに到った。

後に社長となる松本善右衛門は各地の馬車鉄道や人車鉄道を視察した結果、近距離を輸送する場合は馬を飼育するため経費がかかる馬車鉄道よりも人車鉄道のほうが経済的であると判断した。ただ人車軌道としては開業が後発であり、鉄道省や内務省では「いまさら人車鉄道ではなく馬車鉄道にすべき」と意見があった。これに対し会社の回答は「馬力では収支が償わないので後日変更するので認めてほしい」とした結果、将来速やかに人力から他の動力へ切り換えることを条件に認可された[6]。そのため車両も保存されており、図面も残っていたため、後に復元も可能となった。なお、旅客のほかに貨車も所有し、貨物営業も行っていた。

人車としての営業は6年で終了しており(決算自体は黒字であった[6]が、上記のようにもともと人力を長く続ける予定はなかった)、「人車」社名のままバス事業を開始し、松山町駅を起点に陸前古川駅鹿島台駅へ路線バスを運行していた[† 3]

2009年平成21年)2月5日通商産業省が松山人車軌道の保存線路と保存・復元車両を近代化遺産に認定した[7]

年表

路線

路線データ

※運行停止時点

  • 路線距離:金谷 - 千石 約2.5km
  • 軌間:610mm
  • 駅数:4駅(起終点含む)
  • 電化区間:なし(全線非電化)

駅一覧

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※運行停止時点

金谷は松山町駅と接続。

接続路線

運行形態

1日約15往復の運行で平均80人の乗客を運んでいた。片道約2.5kmを移動するのに要した時間は約15であり、移動速度は10km/hほどであった。運賃は大人20、小人10銭となっていた[12][13]

輸送・収支実績

年度 人員
(人)
貨物数量
トン
営業収入
(円)
営業費
(円)
営業益金
(円)
雑収入
(円)
雑支出
(円)
1922年(大正11年) 4,834 0 766 659 107
1923年(大正12年) 26,835 0 5,306 3,896 1,410 利子23
1924年(大正13年) 24,569 500 5,433 3,758 1,675 償却金300、利子24
1925年(大正14年) 25,268 424 5,604 3,850 1,754 償却金400
1926年(昭和元年) 22,762 424 5,192 3,861 1,331
1927年(昭和2年) 21,360 393 4,582 3,505 1,077
1928年(昭和3年) 19,312 394 4,135 3,816 319
1929年(昭和4年) 46,667 197 6,780 6,616 164 償却金10,056
  • 鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計より

車両

鉄道博物館に展示の松山人車軌道車両
大崎市松山ふるさと歴史館の復元人車
大崎市松山酒ミュージアムの複製人車

車体の大きさは全長1.82m、幅1.21m、高さ1.82mとなっていて、定員は8人であり、満員時には15〜16人が乗車できた人車を、全部で4両所持していた。一説には、かつて帝釈人車鉄道(現・京成金町線)で使われていた車両が笠間人車軌道を経て松山人車軌道へ来たものだとも言われているが、笠間人車軌道で使われていた車両と松山人車軌道で使われていた車両では窓の数など車体構造が異なっている[13][14][† 6]

現存車両

4両のうち2両は廃止時に解体されたが、残りの2両と複製された1両を合わせた3両が2010年1月現在でも以下の場所で保存されている。

鉄道博物館埼玉県さいたま市
実物。廃止後は町内の神社境内に据え置かれていたが、1963年(昭和38年)にNHK仙台中央放送局へ寄贈され、国鉄大井工場(現・東京総合車両センター)での修復を経て交通博物館において展示されていた[15]。その後、鉄道博物館開館に伴い移設。
大崎市松山ふるさと歴史館(宮城県大崎市松山千石)
復元。小牛田町で梨畑の監視小屋に使われていたものを、1972年(昭和47年)に仙台放送が「鉄道百年祭」で展示するために探し出して、仙台市交通局電車部が復元したもの[15]。「鉄道百年祭」終了後は仙台放送の会社敷地内(大年寺山)に保存されていたが、1987年(昭和62年)7月に松山町へ寄贈されて、現在地に移設された。1989年(平成元年)8月15日に有形文化財(工芸品)として町の指定文化財に選定され、2006年の自治体合併によって大崎市へ継承された[16]
大崎市松山酒ミュージアム(宮城県大崎市松山千石)
複製。大崎市松山御本丸公園(コスモス園)で毎年9月に行なわれるコスモス祭りにおいて、園内での運行に使用されていた上記復元人車が町の指定文化財であったため、代わりとしてJR東日本仙台総合車両所(現・新幹線総合車両センター)が上記復元人車を元にして製作したレプリカであり、1992年(平成4年)9月3日に車両所内で落成記念式が行われた[15][17]。コスモス祭り開催期間中を除いて酒ミュージアムに展示されている[18]

脚注

注釈

  1. ^ 文覚上人(遠藤盛遠)を祖とする。
  2. ^ 千石 - 竹ノ花間にあった町役場や郵便局は、いずれものちに竹ノ花 - 金ヶ崎間に移転した。
  3. ^ 昭和17年の時点で資本金1万円、保有自動車1台、営業キロ2.2キロであった。『仙北鉄道社史』341頁
  4. ^ 大正11年度鉄道省鉄道統計資料では11月2日許可。他の資料でも開業日が3日や4日がある。
  5. ^ 1934年時バス1台1路線2.2キロ『全国乗合自動車総覧』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  6. ^ この点に関して白土は『松山町史』の「はじめ茨城の笠間から人車を譲り受け4台を常備し、その後4台の新車を購入し、」という記述から、笠間から購入した人車が老朽化したため、やむを得ず無認可で人車を新造(または改造)し、旧車体は廃棄したのではないかと推測している。

出典

  1. ^ a b c おおさき古道ガイド・古川高城道・松山周辺(宮城県)
  2. ^ おおさき古道ガイド・古川高城道(宮城県)
  3. ^ 番号197 『御領分絵図』(年代不明)宮城県図書館
  4. ^ 番号200 『御領分絵図』(慶応元年(1865年))(宮城県図書館)
  5. ^ 番号204 『仙台領分図』(寛文10年(1670年) - 延宝6年(1678年))(宮城県図書館)
  6. ^ a b 『かつしかブックレット15 帝釈人車鉄道 -全国人車データマップ-』、葛飾区郷土と天文の博物館、2006年、31頁
  7. ^ 経済産業省「近代化産業遺産認定遺産リスト(都道府県別) (PDF) 」、2008年度、2009年2月6日発表。
  8. ^ 『宮城県史 5』、696頁
  9. ^ 「軌道特許状下付」『官報』1922年5月18日(国立国会図書館デジタル化資料)
  10. ^ 昭和4年度鉄道統計資料
  11. ^ 「軌道運輸営業廃止」『官報』1930年4月16日(国立国会図書館デジタル化資料)
  12. ^ 朝日新聞 2007年10月27日 東京地方版/宮城 『(散歩みち:112)松山 往年の人車、祭りで運行 /宮城県』
  13. ^ a b 読売新聞 2009年2月7日 東京朝刊 『近代化遺産「松山人車」など認定=宮城』
  14. ^ 『かつしかブックレット15 帝釈人車鉄道 -全国人車データマップ-』、30頁
  15. ^ a b c 『かつしかブックレット15 帝釈人車鉄道 -全国人車データマップ-』、96頁
  16. ^ 大崎市 | くらしのガイド | 文化財
  17. ^ 河北新報 1992年9月4日 『レールの上人力でコトコト/宮城・松山町/懐かしの「人車」完成』
  18. ^ 弊社のあらまし詳細

参考文献

  • 『仙北鉄道社史』、仙北鉄道株式会社
  • 『かつしかブックレット15 帝釈人車鉄道 -全国人車データマップ-』、葛飾区郷土と天文の博物館、2006年
  • 『松山町史』1980年、1237 - 1240頁
  • 『宮城県史 5』1960年
  • 『帝国鉄道年鑑』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 白土貞夫「帝釈人車軌道客車に関するノート」『鉄道ピクトリアル』No.755 2004年12月号

関連項目

外部リンク

  • 松山人車軌道 - 御本丸公園内コスモス園の復元人車の運行模様(電鉄倶楽部)