東欧革命

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東欧革命
ファイル:Autumn of Nations 1989.PNG
種類 民主化運動
目的 共産党一党独裁の打倒、民主政治の樹立、市場主義経済への移行
対象 東ヨーロッパ
結果 (1)共産党国家の連続的崩壊、非共産党国家の成立(2)冷戦の終結
発生現場 東ヨーロッパ

東欧革命(とうおうかくめい)とは、1989年ソビエト連邦(ソ連)の衛星国であった東ヨーロッパ諸国で、共産党国家が連続的に倒された革命である。1989年革命と呼ばれる事もある。

概説

範囲

時期的な範囲については3通りがある。

  1. ポーランド6月18日)とハンガリー10月23日)における非共産党国家の成立に始まり、11月9日ベルリンの壁崩壊11月17日チェコスロヴァキアビロード革命を経て、12月25日ルーマニアチャウシェスク政権の崩壊に至るまでとする、「1989年に起こった革命」という狭義的な捉え方である。
  2. エストニアラトビアリトアニアバルト三国のソビエト連邦からの分離独立ソビエト連邦の崩壊に至るまでとする、「1989年革命からソビエト連邦の崩壊まで」という広義的な捉え方である。
  3. ソ連崩壊後の、ユーゴスラビア紛争アルバニア社会主義人民共和国の崩壊(1992年)まで含める最も広義的な捉え方である。なお英語版の記事(en:Revolutions of 1989)はバルト三国、ソビエト連邦、ユーゴスラビアでの出来事も含まれている。

名称

「東欧革命」「1989年革命」以外にも、「東欧民主化革命」(発生当時はこの名称が一般的であった)、共産党一党制国家のソビエト連邦が崩壊する序章となった点から「共産主義の崩壊」といった名称も見られる。また英語では「Spring of Nations」(「諸国民の春」、1848年革命)から、「Autumn of Nations」(「諸国民の秋」)という名称も作られた。なお「1989年革命」は中国の六四天安門事件に至る反体制運動も含む呼称として用いられることが多い。

本項目においては、歴史学の分野で一般的となりつつある「東欧革命」を表題とした。

意義

東欧革命は、冷戦を終わらせた出来事として有名であるが、民衆自身が立ち上がって一党独裁制寡頭政治(共産党政府)による横暴を倒し、民主政治を立てた革命としても有名である。

20世紀世界史でも重要な出来事であり、これにより東欧諸国が次々と民主化した。また東欧革命を皮切りにして、東欧以外の地域でも民主主義へ移行する国が増えた。

2011年現在、ヨーロッパ史で「現代」というと、この東欧革命以後の時代を指す例が一般的である。

過程

簡単な過程を、なるべく時系列通りになるように記す。個々の事件についての詳細は右テンプレートを参照されたい。

予兆

東欧革命の予兆は、1978年ポーランド出身のヨハネ・パウロ2世ローマ教皇に就任したことに始まる。共産主義政権側の人々でさえも尊敬するヨハネ・パウロ2世の存在は、それまで政府と反体制運動との間の力ずくの闘争であったポーランドの民主化運動の大転換を促すものであった。

ポーランドでは1980年独立自主管理労働組合「連帯」が結成されると、民主化運動は一時的に急進化・暴徒化した。この「革命」運動を抑えるためヴォイチェフ・ヤルゼルスキ書記長により戒厳令が敷かれた。「連帯」側もレフ・ワレサ議長のもと組織の内部で変化が起こって急進路線を放棄され、穏健路線が確定した。穏健派の中心メンバーおよび若手メンバーにより、ポーランドの民主化は精緻な理論化が行われた。情勢が安定すると、ポーランドでは政府と反体制運動との間での非公式協議が幾度か開催され、段階的・穏健的な改革へ向けて進展した。対立から協力へ、急進から穏健へ、と方針転換したことで、ポーランドの民主化は体制側と反体制側の対話が進み、理論面・制度面・社会面で地盤が固まっていった。問題は、ポーランドをはじめとしたヨーロッパの共産圏一帯を政治・軍事支配するソビエト連邦の存在であった。ポーランドによる民主主義・市場経済への体制転換が少しでもクレムリンを刺激した場合、ソビエト連邦によるポーランドへの政治的・軍事的な反動介入が起こる恐れがあった。

その後に起こった東欧革命の本格的展開は、1985年ソビエト連邦ミハイル・ゴルバチョフ政権が始めた「ペレストロイカ」により起こった。これは、ソビエト連邦の政治・経済の硬直を打開するために開始された政治改革であり、外交でも従来のソビエト連邦の外交政策の転換を図った。 ゴルバチョフの外交に対する新方針は、一つは冷戦体制に基づいた旧来の外交政策を緊張緩和の方向に転換する(新思考外交)事。もう一つは、ソビエト連邦が持っていた東側諸国の共産党国家に対する統制、いわゆる「ブレジネフ・ドクトリン」の撤廃であった。このペレストロイカに則った「新思考外交」は、1988年3月の新ベオグラード宣言の中にも示され、またフランク・シナトラのヒット曲「マイ・ウェイ」から「シナトラ・ドクトリン」と呼ばれた。

「新思考外交」に対する東欧諸国の反応は様々であった。その中で、ポーランドハンガリーは、情勢の変化を巧みに読み取り、また共産党内での体制変革の要求、ソビエト連邦に対する不信感から、この機会を利用して積極的に国内改革に取り組もうとする動きが起こった。上記のポーランドの民主化は一気に具体化することになり、1989年には「円卓会議」が開催され、「国民全体が参加する改革」の準備が最終的な仕上げの段階に入り、あとは実施するのみとなっていた。他方、ハンガリーでは共産主義政権側が「グヤーシュ社会主義」とよばれる経済政策のもと、西側(とくに西ドイツオーストリア)の資本を積極的に導入しこれを経済的担保とすることで「上からの改革」を行うことにした。

ポーランド「連帯」と「円卓会議」

この中で、選挙の結果レフ・ヴァウェンサ率いる非共産党系の自由主義勢力である独立自主管理労働組合「連帯」の活動が進み、体制側と反体制側の代表者が集まって「円卓会議」を続けた結果、1989年6月18日に一部不完全ながら自由選挙を初めて行ったのは、ポーランドであった。共産党(ポーランド統一労働者党)系のヴォイチェフ・ヤルゼルスキ大統領のもとで「連帯」系のタデウシュ・マゾヴィエツキ内閣が成立し、平和的・穏健的・段階的な政権移譲が行われた。後に完全自由選挙の下で大統領上下両院の選挙が行われ、制度的な民主化が完成した。この1989年6月18日の普通選挙により、ポーランド統一労働者党ならびにポーランド人民共和国は解体され、多党制に基づくポーランド第三共和国が樹立された。

ハンガリー民主化運動

ハンガリー人民共和国は、社会主義労働者党(共産党)政権のもと、1989年2月に複数政党制を正式に導入し、5月にハンガリーとオーストリア間の国境を開放した。そして、8月19日汎ヨーロッパ・ピクニックを引き金にして、1989年10月23日には新憲法「ハンガリー共和国憲法」が施行され、ハンガリー人民共和国は崩壊した。

汎ヨーロッパ・ピクニック

1989年8月19日。ハンガリー国民のために開放されていたハンガリー・オーストリア国境を1000人ほどの東ドイツ市民が集団越境し、オーストリア経由で西ドイツに亡命した事件。この事件が報道されるや、東ドイツ市民が大挙してハンガリー、チェコスロバキアに押しかけ西ドイツへの脱出を試みた。ベルリンの壁の存在意義は相対的に低下し、11月の歴史的なベルリンの壁崩壊をもたらすきっかけとなった。

ベルリンの壁崩壊とドイツ再統一

ドイツ民主共和国(東ドイツ)では、1989年10月18日エーリッヒ・ホーネッカーが失脚し、エゴン・クレンツが最高指導者に代わった。1989年11月9日夕方、クレンツ政権のギュンター・シャボウスキー報道官は、突如として東ドイツ市民の旅行を自由化すると発表した。この発表は、東ドイツ政権内部での事務的な手違いによるものだとされる。これにより、11月10日に日付が変わるとベルリンの壁は破壊され、その影響は世界史的に広まった。この「鉄のカーテンの撤去」なくして、東欧革命を語れない。ベルリンの壁崩壊を受けて、翌年の1990年10月3日に東西ドイツは統一された。又、ベルリン問題に一応の決着を見たため、1989年12月3日マルタ会談では冷戦の終結が宣言された。そして何より、チェコスロバキアやルーマニアにおいて、民主化を要求する市民たちを大いに鼓舞した。

ブルガリアの民主化

ブルガリアはスラヴ系、正教会の国家であり、他の東欧社会主義国よりも比較的親ソ的であった。このため、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーのような反ソ的運動は起きず、1954年からブルガリア共産党トドル・ジフコフ書記長(国家評議会議長兼務)の長期政権が続いていた。しかし、1984年に始まるトルコ系住民へのスラヴ名強制などの民族同化政策は1989年に至ってトルコ系住民のトルコへの大量流出、それによる労働人口の減少などを招き、ブルガリア国内の不安定化と国際社会の反発を生んだ。これに危機感を抱いた政治局員・外相のペタル・ムラデノフ、政治局員・国防相のドジル・ジュロフら党幹部は11月10日にジフコフを辞任に追い込んだ。ブルガリアの場合、長期政権を崩壊させたのは民衆に拠るものではなかった。

後任となったムラデノフらはあくまでも一党独裁制の枠内での自由化を進めようとしたがこれをきっかけに市民側のデモが活発化し、12月には党の指導性を放棄することや自由選挙の実施などを決定せざるを得なくなった。1990年の自由選挙ではブルガリア社会党(共産党が改名)が過半数を制して政権を維持し、ムラデノフが大統領となった。しかし、1990年6月になると前年にデモの武力鎮圧を示唆したとされるムラデノフの発言が問題視され、ムラデノフは大統領を辞任し、翌1991年に行われた2回目の自由選挙で社会党は下野した。

ビロード革命

ベルリンの壁崩壊を受けて、東欧の共産党国家の連鎖的な崩壊が始まった。チェコスロバキアでは、ポーランドやハンガリーのような予告された民主化の約束はなかった。しかし、ベルリンの壁崩壊に勇気付けられたチェコスロバキアではは、1989年11月17日に至り、民主化勢力を中心にデモストライキゼネストを度重なって行った。それらの事態を収拾できなくなった共産党政府はなし崩し的に民主化勢力との話し合いによる解決を模索することとなり、結果、両者は共産党による一党独裁体制の放棄と複数政党制の導入を妥結した。この「革命」では後のルーマニアのような流血の事態には陥らなかった。これを指してビロード革命と言う。

ルーマニア革命

ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアでは国内の政権移譲が穏健に済んだのに対して、当初から国内の改革に全く否定的で共産党が政権の座に固執し続けたルーマニア社会主義共和国では、1989年12月16日民主化革命が勃発し、治安維持部隊と市民の間で、衝突が起こり多数が犠牲となった上、12月25日にはルーマニア共産党の最高指導者であったニコラエ・チャウシェスクが射殺されて終結した。チャウシェスクの死体はテレビを通じて世界中に晒され、チャウシェスクの死によってルーマニア社会主義共和国は崩壊し、民主政体を敷くルーマニア共和国が成立した。

革命の原動力

文化背景の違い

すでに1970年代から一部の知識人や反体制派の間で西でも東でもない「中欧」という空間が注目を浴びていた。例えばミラン・クンデラは1984年のエッセイ「誘拐された西欧――あるいは中央ヨーロッパの悲劇」(和訳は『ユリイカ』掲載)において「最小限の空間における最大限の多様性」である「中欧」と、「最大限の空間に最小限の多様性」であるロシア/ソ連とを対照させ、共産党体制が「中欧」とされる地域にとって異質なものであることを指摘した。

革命の後にポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアスロベニアクロアチアなど「東欧」と呼ばれていた国々は揃って「自分たちは『東欧』ではなく、『中欧』であると主張し始めた。以降それらの国々の主張に従って彼らを旧共産圏で、ヨーロッパの東側にあったことから単純に「東欧」と呼ぶのを止め、「中欧」と呼ぶ試みが始められている。これは現在でも東欧と語られることの多いロシアと比べても文化的背景が異なっていたことを示している。これは宗教的な面で大きく、これらの地域は同じスラブ人が多く住みながらも

と正教会以外のカトリックないしルター派の信徒が多数派を占めていることが多く、その正教会が主流であるルーマニアやブルガリア、セルビアも総主教座は異なっているため宗教的なメンタリティーはロシアから独立していると言ってもよく、またルーマニア人はスラヴ系ではなくラテン系言語を使用している。特にポーランドにおける初期の状況ではこの宗教性の違いが反ソ連支配および自由主義への大きなナショナリズムを生み出すことになった(ポーランド民主化運動参照)。

また、これらの国は歴史的に見て広義的なドイツ語圏の中に含まれている。中でもスロベニア等では現在も地方公用語としてドイツ語が使われている。歴史的に見てもポーランド南部、ハンガリー、チェコスロバキア、クロアチア、スロベニア、セルビア北部のヴォイヴォディナ、モンテネグロのコトル湾岸、ボスニア・ヘルツェゴビナ、そしてルーマニアのトランシルヴァニア1918年まで、オーストリア・ハンガリー帝国の領域であったし、東ドイツ、ポーランド西部はドイツ帝国の領域であった。これらの地域にすむ各民族は個々の民族主義を主張しながらも、同じドイツ語圏にあって非常に似通った考え方をしていた事が分かっている。この似通った考え方の一つが、自分たちはヨーロッパ史に参加しているという意識である。

このような彼らに共通する経験が「中欧」と言う意識、あるいは「ロシア」とは異なると言う意識を醸成した。そして「ロシア的」なものは「ヨーロッパ的」ではない。という意識が芽生えてくる。これらの国々は革命後漏らさずに北大西洋条約機構(NATO)に加盟し(もしくは「平和のためのパートナーシップ」を結び)、欧州連合(EU)に加盟しようとしているが、ここでも「ヨーロッパへの復帰」が強く意識されている。

テレビの力

東欧革命の波及には、テレビが大きな役割を果たした。

この時期すでに、ほぼすべての出来事がリアルタイムでニュースとして世界中に配信され、同時代人はこれを共通の体験として受け止めることができた。一方、東欧各国の共産党政府は国営放送を一元的に管理下に置いていた。これは政府が国民の受け取る情報を一貫してコントロール可能であることを意味する(そのため、ルーマニア革命では救国戦線軍が真っ先に国営放送を占拠した)が、にもかかわらず、周辺地域において進行する一連の革命を国民に隠すことは出来なかった。国外からの電波、特に西側諸国衛星放送(エストニアではフィンランドのテレビ放送。東ドイツでは西ドイツのテレビ放送)が視聴できたためである。

こうして、次々と入ってくる周辺諸国での変革の情報が、東欧各国での革命をさらに進行させることとなった。1989年6月18日ポーランド人民共和国の解体を皮切りにして、同年末日までの短期間で、東欧のすべての共産党国家が連鎖反応的に潰れた背景には、このようなメカニズムがあったのである。

革命の影響

冷戦の終結

東欧革命は、イデオロギー抗争という面を持った冷戦を終わらせた。特にベルリンの壁の崩壊によって、冷戦の最大懸案事項になっていたベルリン問題の解決に目処が付いたことが、理由としては大きい。1989年12月3日マルタにおいてアメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュソ連共産党書記長(当時)のミハイル・ゴルバチョフが会談(マルタ会談)を行い、冷戦の終結が宣言された。冷戦の終結の意義は、世界史的に見てもきわめて大きい。

そして、東欧革命から2年後、1991年7月1日にはワルシャワ条約機構が廃止され、同年12月25日にはソビエト連邦が崩壊した。そして、ソビエト連邦が崩壊すると、米露二大国による「核兵器による平和」は崩壊し、インドパキスタンを初め世界中に核兵器が拡散した。

脱共産化

東欧革命によって成立した新国家は、国旗国歌国章を一斉に変更した。この時、共産党時代の「鎌と鎚」と「赤い星」は、国旗と国章から全て抹消された。

そして、ソビエト連邦崩壊後(1991年以後)の東ヨーロッパでは、脱共産化の一環として、共産主義ソビエト連邦の標章「鎌と鎚」を禁止する動きも起こっている。1993年以後のハンガリー2007年以後のエストニア2008年以後のリトアニア2009年以後のポーランドがそれぞれ、「鎌と鎚」の使用を法律で禁止している。又、これらの国々では、共産主義の標章以外にも、ナチスドイツの標章である「鉤十字」も禁止している。これは、ナチスドイツとソビエト連邦と共産党一党独裁による圧制が要因になっている。

この他の脱共産化政策として、共産党時代に実施された「政府がエリートを選ったアスリートの育成」が廃止された。この結果、東欧のスポーツ界からは「共産主義の伝令官」という色彩が一掃された。

歴史認識の混乱

「東欧革命」「冷戦終結」「湾岸戦争」「ソビエト連邦崩壊」といったカドラプルパンチは、世界中の人々に大きな衝撃を与え、価値観の転換を迫った。

」の恐怖に怯えながらも、冷戦という対立構造は、歴史学に「安定した時代」として安寧をもたらし、政治思想にも「共産主義vs反共主義」という「二者択一の安定」をもたらしていた。しかし、東欧革命は、この「安定」を覆した。「安定」を覆された混乱は大きく、歴史学では「近代」という枠組みのあり方に大きな議論を呼んだ。フランシス・フクヤマの言う「歴史の終わり」や、ナタン・シャランスキーが言う「圧制に打ち勝つ自由の力」という発想も、1989年から1991年までの3年間の出来事から生まれた発想である。

2011年現在のヨーロッパ史では、東欧革命までが「近代」という枠の中で捉えられているが、東欧革命以前から行われてきたPostmodernポストモダン)という近代を批判的に捉える運動すら「近代」の枠組みに入ってしまうという混乱を招いた。つまり、歴史学は、もう一度歴史の再点検を迫られたのである。

又、ソビエト連邦が崩壊した後のアメリカ合衆国では、第二次世界大戦の連合国だった時代の歴史認識が復活している。アメリカ合衆国の政治家は、単に「反共主義」なのではなく、「民主主義」と「ファシズム」を区別するようになっている。つまり、政治思想の対立軸が、「共産主義vs反共主義」から、「全体主義vs民主主義」に変わったのである。

第二次世界大戦は「民主主義vs共産主義vsファシズム」の構図とも言えるが、その後に到来した冷戦時代には、「第二次世界大戦は、『国際主義連合国vsファシズム枢軸国』の葛藤」という歴史認識が広まっていた。しかし、東欧革命によって、「共産主義とファシズムは同じ全体主義体制だった」という歴史認識が広まるようになった。この「全体主義vs民主主義」という歴史認識が、バルト三国や東ヨーロッパで「鉤十字」と「鎌と鎚」を同等に禁止する運動(前述)につながっている。

関連項目