東国

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関東地方

東国(とうごく、あづまのくに)とは、近代以前の日本における地理概念の一つ。東国とは主に、関東地方坂東と呼ばれた)や、東海地方、即ち今の静岡県から関東平野一帯と甲信地方を指した。実際、奈良時代防人を出す諸国は東国からと決められており、万葉集東歌防人歌は、この地域の物である。尚、東北地方蝦夷(えみし)や陸奥(みちのく)と呼ばれていた。

概要

「日本」という国号が定められる前、「ヤマト」がそのまま国全体を指す言葉として使われていた当時――7世紀中葉以前の古代日本においては、現在の東北地方北部はまだその領域に入っておらず、東北地方南部から新潟県中越下越地方及び九州南部は未だ完全に掌握できていない辺境であり、ヤマトの支配領域は関東地方北陸地方から九州北部までであった。つまり、「あづま」とは、「ヤマト」の東側――特にその中心であった奈良盆地周辺より東にある地域を漠然と指した言葉であったと考えられている(ただし、初めから「あづま」を東の意味で用いていたものなのか、それとも元々は別の語源に由来する「あづま」と呼ばれる地名もしくは地域が存在しておりそれがヤマトの東方にあったために、後から東もしくは東方全体を指す意味が付け加えられたものなのか、については明らかではない)。

「あづま」・「東国」と言う言葉が元々漠然としたもので、きちんとした定義を持って用いられた言葉ではないために、時代が進むにつれて「あづま」・「東国」を指す地理的範囲について様々な考え方が生じたのである。

分類

鈴鹿関・不破関東側

これは古代(恐らくは律令制成立以前)に畿内を防御するために設置されたとされている東海道鈴鹿関東山道不破関北陸道愛発関三関のうち、古来より大和朝廷と関係が深かった北陸道を除いた鈴鹿不破両関よりも東側の国々を指すものである。

事実上、畿内の東部に位置する地域である[1]

壬申の乱では、大海人皇子(後の天武天皇)が、「東国」に赴いて尾張国伊勢国美濃国を中心とした兵に更に東側の国々の援軍を受けて勝利した。

大山(日本アルプス)東側

これは律令制に導入された防人を出すべき「東国」として定められたのが遠江国信濃国以東(陸奥国出羽国除く)13ヶ国に限定されており(『万葉集』の「防人歌」にもこれ以外の国々の兵士の歌は存在していない)、これは現在の日本アルプスと呼ばれる山々の東側の地域と規定する事が可能である。

倭の五王の1人とされる「武」が中国南朝に出した上表文には「東の毛人(蝦夷)55ヶ国を征す」と記され、また『旧唐書』日本伝によれば、日本の東界・北界には大山横切りその外側に毛人が住む」とある。この大山こそが現在の日本アルプスでその外側の毛人(即ち毛野国の領域)が住む地を日本でいう東国であると考えられる。

更に鎌倉幕府が成立した際に幕府が直接統治した国々が「東国」13ヶ国と陸奥・出羽両国であり陸奥・出羽が後世に朝廷に掌握された土地であると考えると、大山(日本アルプス)より東側=東国という図式がこの点でも成立する。

足柄峠・碓氷峠以東(坂東)

今日では関東地方と称せられるこの地域を坂東・東国と呼ぶ例が多い。

日本神話の英雄日本武尊(倭建命)が東国遠征の帰りに途中で失った妻(弟橘媛)のことを思い出して、東の方を向いて嘆き悲しみ、碓日坂において東側の土地を「吾嬬(あづま)」と呼んだと伝えられている[2]。ところが、その土地については『古事記』は足柄坂(足柄峠[3]、『日本書紀』は碓氷山(碓氷峠)であったとされている。

この逸話を直ちに実話とすることは不可能ではあるが、奈良時代の律令制において足柄より東の東海道を「東(ばんとう)」・碓氷より東の東山道(未平定地の陸奥出羽を除く)を「東(さんとう)」と呼んだ。

後に蝦夷遠征のための補給・徴兵のための命令を坂東・山東に対して命じる事が増加し、やがて両者を一括して「坂東」という呼称が登場した。その初出は『続日本紀神亀元年(724年)の記事を最古とする[4]。以後、従来の五畿七道とは別にこれらの国々を「坂東」の国々あるいは「坂東」諸国として把握されるようになり、蝦夷遠征への後方基地としての役目を果たすようになった。

その後も地理的に一定の区域を形成したこの地区を1つの地区として捉える考え方が定着し、その呼称も短縮されて「東国」とも呼ばれるようになったと考えられている。

その他

主に現代において、東日本のことを指すこともある[5]。ただし、東日本と西日本の境界については諸説ある。

また、古代〜近世において、畿内の東側にある国を総称して指すこともあった(北陸除く)。具体的には五畿七道の東海道・東山道(近江国除く)である。東北においては前述の通り古くは国内という概念がなかったとされるが、時代が進むと東北もその範疇に加わった。また、北海道も後の時代には東国の概念に加わることもあった[6]

開発

飛鳥時代から平安時代にかけては、朝廷の政策により、朝鮮半島から多数の渡来人難民が東国方面に移住・入植した経緯がある。六国史を始めとする記録からは、これら半島出身者の東国への移住が、朝廷により逐一把握されていたことが分かる。

  • 推古天皇9年(601年)、対馬に到った新羅の間諜迦摩多を捕えて貢上し、上野に流す。[7]
  • 斉明天皇6年(660年)、百済が俘100余人を献上する。今の美濃国不破郡片縣郡の唐人等である。[8]
  • 天智天皇5年(666年)、百済人の男女2000人以上を東国に移住させる。凡そ緇素(出家者と非出家者)を択ばず。癸亥年より3年間、同様に官食を給賜する。[9]
  • 天武天皇13年(684年)、百済人の僧尼及び俗人の男女23人を武蔵国へ移す。[10]
  • 朱鳥元年(686年)、新羅沙門行心が謀反し、飛騨国の伽藍に徙す。[11]
  • 持統天皇元年(687年)、投化した高麗56人を、常陸国に居住させ、[12]投化した新羅人14人を下野国に配する。[13]又、新羅の僧侶及び百姓の男女22人を武蔵国に移住させる。[14]いずれも土地と食料を給付し、生活が出来るようにする。
  • 持統天皇2年(688年)、百済の敬須徳那利を甲斐国に移す。[15]
  • 持統天皇3年(689年)、投化した新羅人を、下毛野に居住させる。[16]
  • 持統天皇4年(690年)、帰化した新羅の韓奈末許満等12人を武蔵国に居住させる。[17]又、帰化した新羅人等を、下毛野国に居住させる。[18]
  • 霊亀元年(715年)、尾張国人の席田君邇近及び新羅人74家が美濃国を本貫地とし、席田郡を建てる。[19]
  • 霊亀2年(716年)、駿河・甲斐・相模上総下総・常陸・下野七カ国の高麗人1799人を武蔵國に移し、始めて高麗郡を立てる。[20]
  • 天平5年(733年)、武蔵国埼玉郡の新羅人徳師等の男女53人に請われ、金姓とする。[21]
  • 天平宝字2年(758年)、日本に帰化した新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の閑地に移住させ、はじめて新羅郡を置く。[22]
  • 天平宝字二年(758年)、美濃国席田郡の子人・吾志等、賀羅造を賜姓される。[23]
  • 天平宝字4年(760年)、帰化した新羅人131人を武蔵国に置く。[24]
  • 天平宝字五年(761年)、新羅征討に備え、美濃・武蔵各国の少年20人ずつに、新羅語を習わせる。[25]
  • 天平神護2年(766年)、上野国の新羅人子午足ら193人が吉井連を賜姓される。[26]
  • 宝亀十一年(780年)、武蔵国新羅郡人の沙良・眞熊等2人が広岡造を賜姓される。[27]
  • 延暦七年(788年)、美濃國厚見郡人の羿鹵濱倉が美見造を賜姓される。[28]
  • 延暦8年(789年)、信濃国筑摩郡人の後部牛養が田河造を賜姓される。[29]
  • 延暦16年(797年)、信濃国人の前部綱麻呂が安坂姓を下賜される。[30]
  • 延暦18年(799年)、百済姓の甲斐国人190人、高麗姓の信濃国人12人等、朝廷に願い出て日本姓を下賜される。[31]
  • 弘仁5年(814年)、化来した新羅人加羅布古伊等6人を美濃国に配す。[32]
  • 弘仁11年(820年)、遠江国・駿河国に配された新羅人700人が反逆する。(弘仁新羅の乱[33]
  • 天長元年(824年)、新羅人辛良金貴、賀良水白等54人を陸奥国に安置する。法により復を給し、乗田を口分田に充てる。[34]
  • 貞観12年(870年)、新羅人20人の内、清倍、鳥昌、南卷、安長、全連の5人を武蔵国に、僧香嵩、沙弥傳僧、關解、元昌、卷才の5人を上総国に、潤清、果才、甘參、長焉、才長、眞平、長清、大存、倍陳、連哀の10人を陸奧国に配する。[35]

脚注

  1. ^ 松村明監修『大辞林』三省堂(1999年)
  2. ^ 『日本書紀』景行天皇40年是歳条
  3. ^ 「足柄坂本」で坂の神を下し、坂に登り「吾妻はや」とのたわったので、「その国を号けて阿豆麻と謂う」とされている。
  4. ^ 四月癸卯条に「坂東九国軍三万人をして騎射を教習し、軍陳を試練せしむ」とある。この「坂東九国」は、坂東八国(相模・上総・下総・常陸・上野・武蔵・下野・安房)に陸奥国を含んだ総称。
  5. ^ 松村明監修『大辞泉』小学館(1998年)
  6. ^ 松村明監修『大辞林』三省堂(1999年)
  7. ^ 『日本書紀』巻二二推古天皇九年(六〇一)九月戊子八
  8. ^ 『日本書紀』巻二六斉明天皇六年(六六〇)十月
  9. ^ 『日本書紀』天智天皇五年是冬
  10. ^ 『日本書紀』天武天皇十三年五月甲子
  11. ^ 『日本書紀』巻三〇持統天皇即位前紀朱鳥元年(六八六)十月丙申廿九
  12. ^ 『日本書紀』持統天皇元年三月己卯
  13. ^ 『日本書紀』持統天皇元年三月丙戌
  14. ^ 『日本書紀』持統天皇元年四月癸卯
  15. ^ 『日本書紀』持統天皇二年五月乙丑
  16. ^ 『日本書紀』持統天皇三年四月庚寅
  17. ^ 『日本書紀』持統天皇四年二月壬申
  18. ^ 『日本書紀』持統天皇四年八月乙卯
  19. ^ 『続日本紀』霊亀元年七月丙午
  20. ^ 『続日本紀』霊亀二年五月辛夘
  21. ^ 『続日本紀』天平五年六月丁酉
  22. ^ 『続日本紀』天平宝字二年八月癸亥
  23. ^ 『続日本紀』巻廿一天平宝字二年(七五八)十月丁夘廿八: 美濃國席田郡大領外正七位上子人。中衛无位吾志等言。子人等六世祖父乎留和斯知。自賀羅國慕化來朝。當時未練風俗。不著姓字。望隨國号。蒙賜姓字。賜姓賀羅造。
  24. ^ 『続日本紀』天平宝字四年四月戊午
  25. ^ 『続日本紀』巻廿二天平宝字五年(七六一)正月乙未九
  26. ^ 『続日本紀』天平神護二年五月壬戌
  27. ^ 『続日本紀』巻卅六宝亀十一年(七八十)五月甲戌十一
  28. ^ 『続日本紀』巻卅九延暦七年(七八八)九月丁未乙巳朔三、『続日本後紀』巻五承和三年(八三六)閏五月乙酉十七: 乙酉。美濃國人主殿寮少属美見造貞繼。改本居貫附左京六條二坊。其先百濟國人也。
  29. ^ 『続日本紀』巻四十延暦八年(七八九)五月庚午廿九
  30. ^ 『日本後紀』巻五延暦十六年(七九七)三月癸夘十七
  31. ^ 『日本後紀』延暦十八年十二月甲戌
  32. ^ 『日本後紀』弘仁五年八月丙寅
  33. ^ 『日本紀略』弘仁十一年二月丙戌
  34. ^ 『日本後紀』巻卅二逸文(『類聚国史』一五九口分田)天長元年五月癸未
  35. ^ 『三代実録』貞観十二年九月十五日甲子

参考文献

  • 佐々木虔一『古代東国社会と交通』(校倉書房、1995年) ISBN 4751725106
  • 伊藤喜良『日本中世の王権と権威』(思文閣出版、1993年) ISBN 4784207813

関連項目