東京ヴェルディ1969

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東京ヴェルディ1969
原語表記 東京ヴェルディ1969
呼称 東京ヴェルディ
クラブカラー     グリーン[1]
創設年 1969年
所属リーグ 日本プロサッカーリーグ
所属ディビジョン J2リーグ
クラブライセンス J1
ホームタウン 東京都[1]
ホームスタジアム
味の素スタジアム[1]
収容人数 49,970[1]
運営法人 東京ヴェルディ1969フットボールクラブ株式会社[1]
代表者 羽生英之[1]
監督 日本の旗 冨樫剛一
公式サイト 公式サイト
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ
東京ヴェルディ1969フットボールクラブ株式会社
TOKYO VERDY 1969 FOOTBALL CLUB, Inc.[2]
種類 株式会社
本社所在地 206-0812
東京都稲城市矢野口4015-1(よみうりランド本社ビル内)[1]
設立 1991年10月1日[2]
業種 サービス業
法人番号 8013401002036 ウィキデータを編集
事業内容 プロサッカークラブの運営など
代表者 羽生英之(代表取締役
資本金 2億8,200万円[3]
売上高 12億2,000万円 (2015年1月期)[3]
営業利益 400万円 (2015年1月期)[3]
経常利益 500万円 (2015年1月期)[3]
純利益 500万円 (2015年1月期)[3]
純資産 2,500万円 (2015年1月期)[3]
総資産 4億2,800万円 (2015年1月期)[3]
決算期 1月期
主要株主 バディ企画研究所ほか13社 98.8%
京王エージェンシー
三和
稲城市多摩市日野市立川市
(2010年10月30日現在)
関係する人物 渡邉恒雄崔暢亮
外部リンク http://www.verdy.co.jp/
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東京ヴェルディ1969(とうきょうヴェルディいちきゅうろくきゅう、Tokyo Verdy 1969)は、日本東京都をホームタウンとする[1]日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。呼称は「東京ヴェルディ」(とうきょうヴェルディ)である。

概要

1969年に創部された読売サッカークラブが前身[1]となり、1991年にJリーグへ加盟した[1]オリジナル10のひとつ)。クラブ名のヴェルディは、ポルトガル語の「Verde」(緑の意味)からの造語である[1]。エンブレムに描かれている鳥は始祖鳥。マスコットキャラクターはコンドルをモチーフにしたヴェルディくんである[1]

運営会社商号(会社名)は東京ヴェルディ1969フットボールクラブ株式会社である(1998年までは「株式会社読売日本サッカークラブ」、1998年から2009年10月20日までは「株式会社日本テレビフットボールクラブ」の商号)[1]

ホームスタジアムは味の素スタジアム[1]、クラブハウス・練習場はヴェルディグラウンド[1](東京都稲城市と川崎市多摩区に跨って位置するよみうりランドの敷地内)を、男子トップチーム以外の下部組織と一緒に使用している(詳細は#スタジアム・練習場を参照)。なお、クラブハウス及びグラウンドは川崎市内だが、京王よみうりランド駅前の株式会社よみうりランド本社ビル内に本社が設置されているため、登記上の住所は東京都稲城市となっている。ユースなどの下部組織チームは、V川崎時代においても東京都サッカー協会の所属のままだった。

名称・呼称

チーム名(正式名称)は、Jリーグ加盟から1999年1月31日までは「読売日本サッカークラブ」、同年2月1日より2009年10月20日までは「FCニッポン[4][注 1]、2009年10月21日以降は現名称の「東京ヴェルディ1969」となっている。

ホームタウンを東京都に移転した2001年に、ヴェルディ川崎から東京ヴェルディ1969に改称。この1969は、1969年に前身の読売サッカークラブが創設されたことに由来する。2008年より「東京ヴェルディ」に呼称を変更した。

新聞社のスポーツ欄掲載の記録ページでは、1998年までは単に「川崎」と表していたが、1999年から川崎フロンターレがJリーグへ加盟したことから、これとの区別のため、「V川崎」(ナビスコ杯には、フロンターレも準加盟枠で参加したため、1997年以後この表記)としていた。東京移転後の2001年からは、FC東京と区別するため、「東京V」としている。一部新聞等では、「東京ヴ」と表記していることもある。

チーム名の変遷
  • 1969年-1991年 読売サッカークラブ
  • 1991年-1998年 読売日本サッカークラブ
  • 1999年-2009年 FCニッポン[注 1]
  • 2009年-東京ヴェルディ1969
呼称の変遷
  • 1969年-1991年 読売サッカークラブ
  • 1992年-2000年 ヴェルディ川崎
  • 2001年-2007年 東京ヴェルディ1969
  • 2008年-東京ヴェルディ

歴史

前身

1969年に創部された読売サッカークラブが前身となる。1972年日本サッカーリーグ(JSL)2部、1978年にJSL1部に昇格。Jリーグが謳う下部組織の充実と地域に根ざした活動をいち早く実践し、JSL優勝5回、天皇杯優勝5回、JSLカップ優勝3回の戦績を残した。

1991年 - 2000年

1991年10月、Jリーグ開幕に備えて、読売新聞社株式会社よみうりランド日本テレビ放送網の讀賣グループ3社の出資による運営会社「株式会社読売日本サッカークラブ」が設立され、東京都に同リーグの規格に合ったスタジアムがなく、川崎市の等々力陸上競技場を本拠地とした。等々力陸上競技場は当初の収容人員がJリーグの規格外であったが、1995年までに25,000人収容となった。

Jリーグ発足前後の92年から93年にかけて、クラブの出資者である、読売系のメディアを中心として読売ヴェルディと言う呼称が用いられていた[注 2]。既に長年、クラブチームとして「読売」の呼び名でファンに親しまれていたという理由に加え、プロ野球と同じようにJリーグも企業重視の姿勢が必要であること、「川崎」は鉄鋼メーカー・川崎製鉄(現:JFEスチール)と重機械メーカー・川崎重工業の商標であること、東京への移転問題などといった理由が読売側から挙げられた。Jリーグはチーム名表記に際して企業名を排除してホームタウンの自治体(都道府県名、ないしは市区町村名)+ニックネームで使用する方針を定めていたため、1994年のシーズン開幕前から読売系のマスメディアでも「ヴェルディ川崎」に表記を統一するようになった。

1992年のJリーグカップ(ナビスコカップ)で清水エスパルスを破り、初代王者に輝く。

1993年Jリーグ開幕節5月15日)で横浜マリノスと対戦、オランダ人FWのヘニー・マイヤーがJリーグの第1号ゴールを決めた(試合は1-2で敗北)。1stステージは序盤オランダ流のサッカーを目指す松木安太郎監督の方針と、JSL時代からのブラジル流サッカースタイルを貫きたい選手達との間での確執があった影響がありつまづき優勝を鹿島アントラーズに奪われ、2位となった。2ndステージはブラジル流のサッカースタイルに戻したことでチームの歯車が合い見事優勝。Jリーグチャンピオンシップで鹿島を破り、初代Jリーグ年間王者となった。ナビスコカップも2連覇を果たした。 当時のヴェルディは主将の三浦知良を先頭にラモス瑠偉ビスマルク北澤豪武田修宏柱谷哲二ペレイラ都並敏史菊池新吉などを擁し、まさにチームとしての黄金期であった。 1994年も2ndステージを制覇。1stステージ制覇のサンフレッチェ広島をチャンピオンシップで破り、2年連続の年間王者となった。ナビスコカップ3連覇を果たす。天皇杯はジャパンフットボールリーグ(旧JFL)優勝のセレッソ大阪に敗戦。

1993年から1995年のJリーグチャンピオンシップは国立霞ヶ丘陸上競技場で行われた。1994年の2ndレグの試合は等々力で開催されることが一度決まっていたが、等々力は芝生の状態が思わしくなかったことや、改修工事の第2期を行うことが決まっていたこともあり、等々力での開催を返上。国立での開催を決めたが、当初予定の11月30日は翌12月1日に行われるトヨタカップのための練習を行った関係で使えず、12月2日に延期した。

1996年エメルソン・レオンが監督に就任。天皇杯で優勝もリーグ戦では7位に終わった。またこの年長年チームを牽引してきたラモスが京都へ移籍した(翌シーズンに復帰)。

1997年加藤久が監督就任。ビスマルクが退団。当時最高金額の移籍金である推定3億5千万円で前園真聖を獲得。しかし、チーム成績は1stステージ16位、2ndステージ12位と初の2桁順位に低迷。

1998年シーズン終了後に読売新聞社と株式会社よみうりランドが経営から撤退し、日本テレビ放送網の全額出資となる。それに伴い運営法人名は「株式会社読売日本サッカークラブ」から「株式会社日本テレビフットボールクラブ」、トップチーム名は「FCニッポン」に変更された。同時に経費削減を目的に三浦や柱谷ら高額年俸のベテラン選手がチームを去った。

1999年には前年より導入された現役高校生を強化指定選手(現在の特別指定選手)として受け入れを開始、その3選手のうち最年長で帝京高等学校3年(義務教育終了4年目)矢野隼人が「J1公式戦出場した強化指定選手」第1号となった。 リーグ戦では1stステージ2位と復活の狼煙を上げ、また中澤佑二がチームとしては3年振りのベストイレブンに選出されるも、カズ・ラモス・前園といった攻撃の核が抜けたことが大きく響き、2ndステージは10位に留まる。

2000年2月15日のJリーグ理事会において翌年からの東京都移転が承認された[5]

ヴェルディ川崎に在籍経験がある現役選手*()は現在、東京ヴェルディに在籍している選手
ポジション 選手
GK 高木義成
DF 森勇介 中澤佑二 土屋征夫 山田卓也 池端陽介
MF 飯尾一慶永井秀樹
FW 三浦知良平本一樹

2001年 - 2005年

クラブスローガン :2002年「突破」 :2003年「BE TOUGH ~疾風怒涛~」 :2004年「STRONG SOUL

2001年にホームタウンを川崎市から東京都[注 3] に移転し、呼称も東京ヴェルディ1969となり、ホームスタジアムを調布市東京スタジアム(現:味の素スタジアム)にした。ホームタウンである稲城市の他周辺の多摩市日野市や清水建設、京王電鉄系列の広告代理店である京王エージェンシーなど地元企業も出資し、日本テレビの出資比率は約79%となった。2008年立川市も出資した。

チーム名が変わった2001年シーズン、チームは松木安太郎を再び監督に招聘し、菊池・前園・永井といった黄金期を知るメンバーが復帰、また元サッカー日本代表小倉隆史三浦淳宏が移籍加入し、さらに小林大悟富澤清太郎が加入。1stステージは最下位。成績不振とフロントとの確執もあり松木は1stステージ終了をもって解任、監督を小見幸隆に代えて迎えた2ndステージではシーズン中盤に獲得したマルキーニョス、さらに終盤に獲得したブラジル代表のエジムンドのブラジル人コンビが2ndステージでチームが挙げた22得点の内14得点を叩き出して9位。年間総合順位で自動降格圏の15位福岡との勝ち点差わずか3の14位で残留。

2004年、アルディレス体制2年目。天皇杯全日本サッカー選手権大会を制し、東京移転後初のタイトルを獲得。同日行われた全日本女子サッカー選手権大会では女子チームのベレーザが優勝し、全日本選手権初の男女同時優勝を達成。

2005年、アルディレス体制3年目。ブラジル全国選手権得点王のワシントンを獲得したが、7月2日G大阪戦、7月6日浦和戦、7月17日磐田戦での大量失点が響き、アルディレスが解任され、バドンが監督に就任したが、思うように試合が運ばず、11月26日戦で1-5の大敗を喫し、Jリーグ ディビジョン2(J2)降格が決まった(柏は、後の監督であるラモス瑠偉がコーチを務めていた)。これを受けてバドンは退任した。天皇杯優勝によって獲得した2006年AFCチャンピオンズリーグ(ACL)の出場権がJ2降格によって剥奪されるのではないかと心配されていたが、AFCから出場が認められた。

2006年 - 2007年(J2)

2006年

クラブスローガン :「All for win.

OBのラモス瑠偉が監督に就任。J1最多失点を喫した守備陣の立て直し、J2(48試合)とACL(最低でも予選6試合はこなさなくてはならなかったが、インドネシア、タイからの代表クラブが失格となったため、予選は蔚山現代FCとの2試合になった)を含め年間50試合以上の公式戦をこなさなくてはいけないため、選手のモチベーションの維持といった課題を克服する必要があった。しかも、前年22点を挙げたワシントンの浦和への完全移籍や、林健太郎米山篤志の戦力外通告などの主力の大量流出により、チームは土台からの作り直しを余儀なくされた。

4月18日、サイバーエージェントが株式の48.1%を取得し、50.7%を保有して同社を連結子会社として維持する日本テレビ放送網に次ぐ大株主となった[6]

開幕後、課題とされた失点の多さは解消されなかった。スタメンがほぼ毎試合ごとに入れ替わり、デジマールヒキアナイウソンバジーリオの外国籍選手4人はシーズン途中に解雇。最終順位は7位であった。天皇杯は初戦で栃木サッカークラブ(当時はJFL所属)に敗退した。

2007年

フッキ
クラブスローガン :「全緑疾走!

ラモス体制2年目。選手会長だった柳沢将之を含めて選手を大量に放出。新たに元日本代表の服部年宏名波浩を始め土屋征夫佐藤悠介などのベテラン選手を獲得。外国籍選手では既に契約を更新していたマルクス横浜F・マリノスへ移籍したが、フッキディエゴを獲得。また、新人選手も7人が加入、結果的に約半数のメンバーが入れ替わった。萩原敏雄代表は「内容が悪ければ早期での解任もありえる」と発言した。

開幕5試合は4勝1分と順調にスタートしたものの、第7節(福岡戦)から第13節(水戸戦)までクラブワーストタイの7連敗を喫し9位へ転落。ラモスの解任騒動に発展したが、京都戦に4-1で快勝するとその後は1度の連敗もなく安定して勝ち点を積み重ね、最終節で優勝は逃したが2位の成績でJ1復帰を果たした。また、フッキが37ゴールを挙げてJ2得点王となった。シーズン終了後にラモスが監督を退任して、エグゼクティブディレクターになり、柱谷哲二が監督に就任した。天皇杯は初戦でHonda FCに敗退。

第2位株主のサイバーエージェントが思うように利益を得ることが出来なかったことを理由に株式を売却した(サイバーエージェントは2008年は胸スポンサーのみ、2009年にスポンサーからも撤退)。再び日本テレビが単独大株主となった。

2008年(J1)

クラブスローガン :「全緑疾走2008闘強

柱谷体制1年目。この年より呼称から1969が取り除かれ、東京ヴェルディとしてJ1での再出発を切った。FC東京から元日本代表MF福西崇史やGK土肥洋一横浜FMからDF那須大亮清水からDF和田拓三を獲得。新外国人としてサンパウロFCからFWレアンドロ、6月に大黒将志を獲得した。前シーズン後に川崎にレンタル復帰していたフッキを開幕後に再度獲得したが、監督との確執もあり7月にはFCポルトに移籍した。

初勝利は第5節の神戸戦となるが、フッキ加入後は次第に勝ち星が増え始める。しかしフッキ退団後には思うように勝てなくなり、9月には4戦全敗を喫する。終盤には、チームの攻撃の核であるディエゴを累積警告と天皇杯での退場による4試合出場停止で欠き、深刻な得点力不足に陥る上に試合終了間際での失点なども増えていき、第33節終了時点で16位にとどまる。最終節を川崎に引き分け以上、もしくは17位の千葉が引き分け以下なら自動降格は免れる状況で0-2で敗れ、かつ千葉が勝利したことから17位に。J2自動降格が決まった。柱谷はシーズン終了後に監督を退任した。

親会社の日本テレビが37年ぶりに赤字に転落。その影響を受け2009年の費用は大幅に削減されることとなり、土肥、服部、福西など多くの主力選手と来期の契約を結ばないことを発表(土肥と服部は再契約という形で残留)。日本テレビがほぼ100%保有している株式の譲渡を検討していることが一部マスコミに報じられた。 こういったネガティブな状況や不明瞭な強化方針に対し、一部サポーターから不満が噴出。最終節終了後の7時間半に及ぶ座り込み、2009年度シーズンチケット不買運動、ラウンドテーブル(フロント、サポーターによるミーティング)開催にあたっての公開質問状提出など、一連の抗議行動へと発展した。

2009年 -(J2)

2009年

クラブスローガン :「VERDY 40EVER(ヴェルディ フォーエバー)

クラブ設立40周年となるこの年は、前年コーチを務めた高木琢也が監督に就任。那須が磐田、ディエゴが京都へ移籍。和田もレンタル元の清水へ戻った後、千葉へ移籍。2008年はJ2のクラブへのレンタル移籍であった戸川健太一柳夢吾も、レンタル先へ完全移籍した。新たに、横浜FCで高木と共にJ1昇格を経験した滝澤邦彦岩倉一弥、磐田のベテランMF河村崇大、ジュニアユース時代に東京Vに所属していた永里源気を獲得。過去2年レンタル移籍していた弦巻健人レオナルドが復帰、大黒も残留した。そして、一度は戦力外と発表された土肥、服部、船越優蔵と再契約を結んだ。

胸スポンサーのサイバーエージェントが撤退後、この年は年間通して胸スポンサーが入らなかった。日本テレビも経営から撤退した。高木をシーズン途中で解任。ベレーザ前監督、ユース監督の松田岳夫をトップ監督に昇格させたが、1度も昇格争いに絡むことなく7位でシーズンを終えた。天皇杯は初戦でホンダロックサッカー部に敗北。

2010年

クラブスローガン :「結集のチカラ

川勝良一が3度目の監督に就任。服部、高木義成らと契約を更新せず、資金難により2009年の大卒新人3人を全員放出。レアンドロ、大黒と攻撃陣の核となっていた選手も放出され、16人がクラブを去った。新たに加わった選手は川勝の法政大学時代の教え子である吉田正樹菊岡拓朗、下部組織出身の佐伯直哉清水康也など12人である。選手人件費はレンタル移籍している選手を除いて1億3000万円程度となった[7]。ユースからは前年Jリーグデビューを果たした高木俊幸が昇格し、2010年シーズンから高木善朗小林祐希南秀仁がユース所属のままJリーグデビューした。J2へ昇格した北九州に初勝利かつ唯一のシーズン勝利を献上するなど一時は18位に低迷。その後巻き返して4位にまで浮上したが、11月20日に福岡に敗れてJ1昇格を逃し、5位でシーズンを終えた。天皇杯は初戦でFC町田ゼルビアに敗れ、6年連続の初戦敗退となった。

2011年

東京ダービー(2011年5月4日開催)での東京Vサポーター
クラブスローガン :「原点回帰~All for VERDY~

川勝体制2年目。この年よりエンブレムの文字が「FC NIPPON」から「FOOTBALL CLUB」へと変更された[8]。前年チーム内で最長出場の柴崎晃誠川崎フロンターレに、得点数2位の高木俊幸が清水エスパルスに移籍した。小林祐希ら4人をユースより昇格させ、川崎で契約非更新となっていた森勇介や、期限付き移籍で岡山からキムテヨン喜山康平(4年ぶりの復帰、8月にJFLカマタマーレ讃岐へ移籍)、大宮から市川雅彦、甲府からマラニョンなどを獲得。6月に高木善朗がエールディヴィジFCユトレヒトへと移籍した。7月には、元京都中谷勇介、元アルテ高崎秋葉勇志を獲得。ジュニアコーチの塗師亮を選手登録し、関西学院大学梶川諒太特別指定選手として登録した。8月には、元日本代表の巻誠一郎を獲得した。J1昇格争いに加わっていたが最終的に5位に終わりJ1昇格を逃した。なお、天皇杯は7年ぶりに初戦を突破した。

2012年

クラブスローガン :「One.

川勝体制3年目。17年在籍していた菅原智が引退。富澤清太郎横浜F・マリノス河野広貴FC東京菊岡拓朗栃木SC井上平FC岐阜福田健介ヴァンフォーレ甲府吉田正樹松本に完全移籍、北九州にレンタル移籍していた福井諒司に完全移籍、平繁龍一市川雅彦がレンタル移籍期間満了となった。一方、千葉から昨シーズンC大阪にレンタル移籍していた中後雅喜愛媛からジョジマール吉弘充志草津からアレックス磐田から西紀寛京都から鈴木慎吾水戸から小池純輝大分から刀根亮輔G大阪から太洋一を完全移籍で獲得。仙台から島川俊郎を期限付き移籍で獲得した。さらに昨シーズン特別指定選手だった梶川諒太が加入した。また杉本竜士南秀仁舘野俊祐田中貴大がユースから昇格した。 コーチ陣は、元柏監督の高橋真一郎と元京都監督の秋田豊がトップチームコーチに就任した。

シーズン開幕後は3月28日に杉本健勇セレッソ大阪より同年7月17日までの期限付き移籍で、6月1日に練習に参加していたペ・デウォンを獲得した。杉本がC大阪に戻った後、7月26日に柴崎晃誠を川崎より2013年1月31日までの期限付き移籍で、7月28日に日系三世のニコラスがCRフラメンゴより2013年1月1日までの期限付き移籍で、8月13日に松本から木島良輔を完全移籍で、8月14日にジミー・フランサを清水より2013年1月31日までの期限付き移籍で獲得した。

6月23日に行われた第20節で千葉に勝利して首位に立ち、リーグ戦前半は2位で折り返した。しかし8月に入ると勝利から遠のくようになり、8月23日にジョジマールとの契約を解除。9月6日に川勝が監督および強化本部長を退任。高橋が監督代行の後、9月11日に監督に就任したが、第41節の横浜FC戦に敗れ、7位以下が確定。プレーオフ進出を逃した。最終順位は7位。天皇杯は3回戦で清水に敗退。シーズン終了後に高橋が監督を退任した。

2013年

クラブスローガン :「TOKYO GLOCAL[注 4] STANDARD

2012年11月25日、OBで前北九州監督の三浦泰年の監督就任が発表される。それに伴い、常盤聡安田晃大佐藤優也金鐘必関光博ら5選手が北九州からいずれも完全移籍、北九州に在籍した時に三浦監督の元でプレーした福井諒司が完全移籍で復帰、北九州にレンタルしていたキローラン菜入キローラン木鈴が復帰など北九州に在籍した選手を数多く獲得した。その他福岡から鈴木惇清水から高原直泰が完全移籍、湘南から石神直哉が期限付きで加入した。さらに特別指定選手だった関西学院大学の井林章が加入した。一方、佐伯直哉中谷勇介木島良輔吉弘充志アレックス秋葉勇志新井章太竹中公基との契約を更新せず、期限付き移籍だったジミー・フランサ柴崎晃誠も所属元に復帰、磐田にレンタル移籍していた小林祐希がそのまま磐田に移籍、和田拓也仙台高橋祥平大宮梶川諒太が湘南、土屋征夫甲府深津康太吉弘充志町田へそれぞれ完全移籍した。また柴崎貴広横浜FC田中貴大と北九州に期限付き移籍していた高野光司が町田へいずれも期限付き移籍し、町田に期限付き移籍していた平本一樹は甲府へ期限付き移籍、富山に期限付き移籍中の舘野俊祐は移籍期間1年延長となったため、チームの陣容が大幅に入れ替わることとなった。

2月19日、カマタマーレ讃岐との練習試合で、ペ・デウォンが接触プレイにより讃岐の藤田浩平に右足関節開放性脱臼骨折の重傷を負わせ、クラブ公式ホームページに謝罪文を掲載する事態に発展[9]、さらに同試合における三浦監督の言動も問題視され、「選手を守るためであったとはいえ、決して許される行為ではない」として、三浦監督にリーグ戦開幕節および第2節のベンチ入り停止、ペ選手についても最長3月一杯まで対外試合出場停止というクラブの自主的処分が下された[10]。7月2日、ニコラスが期限付き移籍が終了でフラメンゴに復帰し、7月5日には練習に参加していた三渡洲舞人を獲得した。

7月9日、ジュニアからユースまで東京Vに所属していた慶応義塾大学の端山豪を特別指定選手として登録した。

リーグ戦は不調が続き、第6節のFC岐阜戦で初勝利を上げた後も勝ち切れない試合を重ねていく。怪我人も相次ぎ、2連勝以上の連勝も一度も無く、最終成績は14勝14分14敗での13位。Jリーグ創設後、チーム史上最低の成績を記してしまった。

天皇杯は3回戦で川崎フロンターレに敗退した。

2014年

クラブスローガン :「ONE FLAG

三浦体制2年目。下部組織出身で長年クラブを支え2013年度のキャプテンの飯尾一慶小池純輝と共に横浜FC中島翔哉FC東京(2014年はシーズン途中まで富山へ期限付き移籍)、刀根亮輔名古屋巻誠一郎熊本西紀寛ポリス・ユナイテッドFCなど2013年度の主力選手が数多く移籍。また吉野恭平広島に完全移籍しレンタルバックの形で残留(8月6日にレンタル期限が終了し、広島に移籍した)。

一方仙台から田村直也日本体育大学から北脇健慈を獲得。期限付き移籍していた舘野俊祐田中貴大南秀仁杉本竜士柴崎貴広平本一樹が復帰。清水から姜成浩を同年7月31日までの期限付き移籍で獲得。また新外国人のギリャルメニウドも期限付きで加入した。コーチは寺門大輔間瀬秀一から久永辰徳安田好隆になった。 選手の多くは下部組織出身で若いメンバーとなった。

シーズン開幕後に昨年度チーム得点王の高原直泰相模原に期限付き移籍で退団し、前年まで琉球に所属した永井秀樹が6年ぶりに復帰した。また8月13日にオペラリオに所属していたアブダを獲得した。

第31節終了後、J3降格圏寸前の20位に低迷していたため三浦監督を解任[11]。また、安田好隆、吉岡宏の両コーチも解任、久永辰徳も辞任した[12]。後任の監督には東京Vユース監督の冨樫剛一が就任、コーチには、なでしこリーグ日テレ・ベレーザのコーチをしていた村田達哉、GKコーチには育成GKコーチだった土肥洋一が就任、さらに竹本一彦をテクニカルダイレクターに招聘した。

監督交代後も勝ち切れない試合が続き、21位の讃岐と熾烈な残留争いを繰り広げた。しかし守備の改善によって失点数を減らし、引分ながら勝ち点を積み重ね、シーズン20位とチームの最低順位記録を更新してしまったが、41節のザスパクサツ群馬戦でJ2残留を決めた。

天皇杯は2回戦でギラヴァンツ北九州に敗戦した。

2015年

クラブスローガン :「ONE FLAG 野心

冨樫体制2年目。常盤聡熊本鈴木惇福岡金鐘必湘南ニウド札幌キローラン菜入松本田中貴大関東1部浦安舘野俊祐中国1部松江に移籍し、アブダが契約満了により退団した。また相模原に期限付き移籍していた高原直泰と前年8月から岐阜に期限付き移籍していた森勇介が共に相模原に完全移籍し、前田直輝が松本に、楠美圭史JFLV大分にそれぞれ期限付き移籍した。

一方、ユースから三竿健斗中野雅臣を昇格させ、かつて共に東京Vユースに所属していた中央大学渋谷亮駒澤大学大木暁を獲得。外国人選手は中国の深圳紅鑽足球倶楽部からブルーノ・コウチーニョ、相模原からウェズレイ、香港リーグの南華足球隊に所属していた高敬竣を完全移籍で、ECヴィトーリアからアラン・ピニェイロを期限付き移籍で獲得した。また、前年7月から鳥取に期限付き移籍していた安田晃大が復帰した。選手の平均年齢は24.95歳となり、同年のJ1・J2リーグで最も若いチームとなった。

スタッフ面では竹本一彦がゼネラルマネージャーに就任。通訳には2012年に加入し、その後は育成GKコーチなどを務めた藤井隆昌がトップチームに復帰。トレーナーには三浦雄大東京農業大学サッカー部から能登篤史が加わった。

目標を「勝点60以上で9位以内」と掲げ、シーズン前半は8勝7分6敗の8位で折り返した。7月に北脇健慈FC鈴鹿ランポーレに、キローラン木鈴秋田に、安田晃大が愛媛にそれぞれ期限付き移籍し、清水から高木善朗が期限付き移籍で4年半ぶりに復帰した。

第24節から5連勝、特に5連勝目の第28節横浜FC戦では6-1と圧勝し、同節終了時点で、J1自動昇格圏の2位磐田に勝点差2と迫る3位にまで順位を上げたが、その直後の第29節から14試合の間に無得点の試合が10試合、合計でも僅か6得点(17失点)と不調に陥り2勝3分9敗と低迷、それでも最終節まで昇格プレーオフ圏内の6位となる可能性を残していたが、最終節でセレッソ大阪に敗れてPO進出を逃した。最終順位は8位で、目標の9位以内には入ったものの、勝点は58で目標の60には達しなかった。

天皇杯は2回戦で大宮アルディージャに敗戦した。

2016年

クラブスローガン :「ONE FLAG 真価

冨樫体制3年目。ブルーノ・コウチーニョ高敬竣秋田に期限付き移籍していたキローラン木鈴が退団し、松本へ期限限付き移籍していた前田直輝横浜FM福井諒司山口佐藤優也千葉三竿健斗鹿島安田晃大が期限付き移籍先の愛媛へ完全移籍、ポープ・ウィリアム岐阜畠中槙之輔町田渋谷亮鈴鹿菅嶋弘希が千葉へ期限付き移籍した。

一方、岐阜から太田岳志、町田から平智広ナウチコからドウグラスタイ2部エアフォース・ユナイテッドFCから船山祐二清水から高木純平を完全移籍で、横浜FMから鈴木椋大を期限付き移籍で獲得。また、期限付き移籍していた北脇健慈楠美圭史が復帰し、アラン・ピニェイロは完全移籍に移行、高木善朗の期限付き移籍期間が延長された。

スタッフ面では仙台でアカデミースカウトを担当していた蓮見知弘がトップチームのコーチに就任した。

成績

タイトル

国内タイトル

国際タイトル

個人別

個人成績

ハットトリック

J1
J2

スタジアム・練習場

ホームスタジアム

国立霞ヶ丘陸上競技場

読売クラブ時代は、練習場がよみうりランド内にあったため、日本サッカーリーグ(JSL)のホームゲームは駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場等々力陸上競技場を利用していた。また、下部組織の選手達も東京都神奈川県にまたがる地域から集まっていた。

Jリーグ加盟後、ヴェルディ川崎時代(ホームタウンは川崎市)は等々力陸上競技場をホームスタジアムとしていた(その他の開催スタジアムは「当項目」を参照)。

Jリーグ発足年の1993年、東京都のアメリカ軍調布基地跡地に「武蔵野の森スタジアム(仮称)(現:味の素スタジアム)構想が持ち上がると、V川崎は、同地への移転構想を発表し、調布市も市議会定例会で「プロサッカーチーム誘致に関する決議」を全会一致で決定するなど[13]、積極的に誘致に乗り出した。数年後のスタジアム完成までの本拠地が不透明で、なおかつJリーグ開幕初年度での移転構想という事もあり、地域密着理念の全面否定と受け取ったJリーグは拒絶した。また、等々力陸上競技場の大規模改修に着手した時点での移転通告を受けた川崎市が反発し[14]、移転には同意しないと通告。調布市も非難の声が寄せられたこともあり[15] 誘致の前提条件として円満解決を提示[14]。程なくして、V川崎はJリーグ実行委員会からの白紙撤回勧告を了承することになり移転は立ち消えた[14]

1999年10月、V川崎は再度東京への移転構想を発表した[16]。「東京スタジアム」の2001年からの開業が見込まれており(なお、東京都内では東京ガスサッカー部(現在のFC東京)が「東京スタジアム」の将来利用を前提として活動)、移転後も川崎フロンターレの昇格によって等々力でJ1の試合を開催できるという環境が整い[17]、川崎市からの移転容認も得られたが、東京移転後は等々力でのホームゲーム開催を一切認めないなど、両者の関係は冷却したままで終了することになった。V川崎は2001年シーズンより川崎市から東京都へホームタウンを移し、東京スタジアムをホームスタジアム[注 3]とした。

味の素フィールド西が丘
(国立西が丘サッカー場)
多摩市立総合体育館に設置された
東京Vを応援する垂れ幕

東京への移転後は味の素スタジアム(以下「味スタ」)をホームスタジアムとしている(その他の開催スタジアムは「当項目」を参照)。

東京V主催試合で、味スタ使用の場合はJ2では多くの試合で経費削減のためスタジアムの上層部は閉鎖となる。なお、試合当日に雨が降った場合、下層部の大半の席が雨に濡れてしまうということもあり、上層部の一部を開放することもある。

2010年9月11日付のスポーツニッポンによると、練馬区にあるとしまえん敷地内に建設予定の3万人規模の新スタジアムへの移転構想があり[18]、具体的には2015年頃の移転を想定しており、練習場なども併設されるとした。都心23特別区を本拠地とするJクラブは存在しないため、仮に実現すれば初の特別区を本拠とするクラブになる。東京都及び練馬区では、2011年にとしまえん及び周辺を含む一帯を「練馬城址公園」として整備する方針を示しており(としまえん#東京都による敷地買収・公園整備に関する一連の動きも参照)、検討資料の中で大規模集客施設としてサッカー場の建設を有力としている上に「区内へのプロサッカーチーム(Jリーグ・なでしこリーグ)誘致の可能性がある」と明言しており[19]、行政側も誘致に積極的な姿勢を示している。なお、東京Vはこの件に関してコメントを出していない。

練習場

東京移転後は地域活動も活発に行っており、Jクラブの中でも地域活動回数はトップ。東京Vの運営会社の経営理念によると、ホームタウン[注 3]はクラブ所在地の稲城市のほか、町田市[注 5] を除く南多摩地区の日野市多摩市立川市八王子市と認識しており、稲城、日野、多摩、立川の4都市は出資もしている。その他に、移転計画のある練馬区や、古くから準本拠地と位置付けるスタジアムのある渋谷区新宿区国立霞ヶ丘陸上競技場周辺)、北区(味の素フィールド西が丘周辺)などで積極的にイベント・PR活動を盛んに展開しているが、都心23区FC東京とも競合している。また、東京Vは東京都内の他に、神奈川県相模原市(京王電鉄沿線)、栃木県小山市千葉県習志野市静岡県岩手県にも下部組織を編成して運営している。

2010年10月29日には、羽生英之社長が「練習場の賃料が高すぎる」ことを理由によみうりランドから撤退し、練馬区移転までの間トップチーム・ユース・女子チームがそれぞれ別々の練習場を使用する考えのあることを明らかにした。よみうりランドの使用料は従来年間で約3億5000万円と非常に高額で、利用料減免を受けた2010年でも約1億5000万円となお経営を圧迫していたことが理由として挙げられた[20]。新練習場の候補としては、大株主のバディの施設がある八王子市[21] などが挙がっていた。

2010年12月31日、2011年もよみうりランドを練習場として継続使用することが公式発表された[22]。なお、2011年より一部練習において多摩市立陸上競技場を使用する。

ユニフォーム

ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st) [1] [1] [1]
FP(2nd) [1] [1] [1]
GK(1st)
GK(2nd)
FP 1st
FP 2nd
GK 1st
GK 2nd

チームカラー

  •     グリーン

ユニフォームスポンサー

掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
クリエイト Create 2016年 -
背中上部 ミロク情報サービス MJS 2009年 - 2008年はパンツ
背中下部 緑の心臓[注 6] 緑の心臓 2016年 - 2014年途中 - 2015年は胸
錦秀会グループ 錦秀会グループ 2016年 -
パンツ BRIグループ BRI 2015年 -

ユニフォームサプライの遍歴

  • 1992年:プーマ
  • 1993年 - 1996年:ミズノ(1995 - 96年度のカップ戦では1993 - 94年度で使用していたリーグ・カップ戦兼用のユニフォームを使用)
  • 1997年 - 2006年:ナイキ(1997年度のリーグ戦ではナイキがJリーグのサプライ契約を結んでいなかったので、ナイキのロゴを付ける事が出来ずヴェルディの自主製作扱いとされた)
  • 2007年 - 2010年:カッパ
  • 2011年:エネーレ
  • 2012年 - 現在:アスレタ

歴代ユニフォームスポンサー年表

年度 背中上部 背中下部 パンツ サプライヤー
1992 CocaCola CocaCola 解禁前 マクドナルド - PUMA
1993 mizuno
1994
1995
1996 MALT'S SUNTORY KONAMI
1997 NIKE
1998
1999 KONAMI KONAMI
2000
2001
2002 楽天
ICHIBA
CORNES
2003 M support FIELDING
2004 LEOC TOMAS
2005 CyberAgent サイバーエージェント
2006 CyberAgent(J2) /
日テレ(ACL)
CyberAgent SOPH.
2007 Ameba byCyberAgent vap Kappa
2008 Ameba - /
日テレ55
MJS
2009 - MJS 中央高等学院
2010 - /
XEBIO
法律事務所オーセンス - /
Victoria
2011 飯田産業 XEBIO Victoria ennerre
2012 ATHLETA
2013 - /
GAGA MILANO
2014 - /
緑の心臓[注 7]
2015 緑の心臓 BRI
2016 Create 緑の心臓 錦秀会グループ

※:「マクドナルド」は「」ロゴのみ表記。

※:エンブレム上に、リーグ年間優勝回数を表す星が2つ付いている。

下部組織

読売サッカークラブ時代からユース組織による育成を行っており、男子トップチームの下部組織として小学生段階からスクールを全国各地に展開している。ユース年代で継続して良い成績を残し、ユースからトップへの昇格も多い。2005年には東京Vユースが日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会の2冠を達成した。2010年には東京Vユースが東京都サッカートーナメントで優勝し、第90回天皇杯全日本サッカー選手権大会に出場(1回戦敗退)した。クラブで育った選手がそのままコーチとして子供たちを教えることが多いのが東京Vの育成組織の一つの特徴である。

東京Vユースの主要世界・全国タイトルは、Jリーグユースチーム最多の計20回である。 東京Vジュニアユースの主要全国タイトルは、Jリーグジュニアユースを含むジュニアユース世代のチームの中で全国最多の計16回である。東京Vジュニアのフットサル主要全国タイトルは、Jリーグジュニアを含むジュニア世代のチームの中で全国最多の計6回である。

男子チームの他に、女子チーム日テレ・ベレーザとその下部組織である日テレ・メニーナを所有している。

サッカー以外では、2001年の東京移転にあわせて、バレーボールの東京教員クラブを引き継ぎ、東京ヴェルディバレーボールチームを発足させ、トライアスロンのチームもある。これらは、Jリーグの目指す総合スポーツクラブへの一環である。

アカデミー

  • ヴェルディユース
  • ヴェルディジュニアユース
  • ヴェルディジュニア
  • 全国支部
    • ヴェルディレスチ
    • ヴェルディAJUNT
    • ヴェルディ小山
    • ヴェルディ岩手花巻
    • ヴェルディ相模原
  • 女子サッカー
    • 日テレ・ベレーザ
    • 日テレ・メニーナ
    • 日テレ・メニーナ・セリアス
  • 準支部
    • 習志野
    • 三島
    • 武蔵丘

主な獲得タイトル

ユース

全国大会

優勝14回(1979年、1980年、1981年、1985年、1986年、1988年、1989年、1990年、1991年、1992年、1993年、2005年、2010年、2011年)
優勝2回(1993年、1996年)
優勝1回(2005年)

世界大会

優勝1回(2015年)

世界招待大会

優勝2回(2006年、2008年)

地域リーグ

優勝1回(2012年)
優勝1回(2010年)

ジュニアユース

優勝6回(1986年、1988年、1989年、1990年、1991年、2004年)
優勝5回(1989年、1993年、1996年、2003年、2004年)
優勝5回(1997年、1999年、2000年、2001年、2006年)
優勝1回(2007年)

ジュニア

優勝3回(1988年、1999年、2007年)
優勝6回(1991年、1994年、1999年、2002年、2007年、2009年)

経営問題

ヴェルディ川崎

1996年には20億円、1997年には26億5000万円、1998年には22億円の赤字を計上[16]等々力陸上競技場での観客動員減少も続き、川崎フロンターレとの競合も避けられないことから、1999年10月に経営再建策として[23][16]、「投資してもリターンがない」(坂田信久社長)[5] 川崎を離れ、東京への移転計画を発表。Jリーグ側が安定経営・経営改善のためならば了承するという姿勢を採ったため[14]、2001年より実行に移した。

東京ヴェルディ1969

  • これに先立つ9月15日のJリーグ理事会で上記の株式譲渡が承認された[25]。そこでは、
  1. 2009年度の東京Vの運営費用は、日本テレビ放送網株式会社が負担する。
  2. 東京VHDは、2009年11月16日までにスポンサー料収入として、5億4,000万円分の契約を確定し計画の金額を満たさなければならない。
  3. スポンサー契約が事業計画の金額に満たない場合は、2009年シーズンをもってJリーグを退会。

等の条件が課された。

  • 2009年10月21日、運営会社の商号(社名)を株式会社日本テレビフットボールクラブから「東京ヴェルディ1969フットボールクラブ株式会社」(東京VFC)に変更
  • 2010年3月19日には情報通信大手「ネクシィーズ」が東京Vの過半数の株式取得を検討しているとリリース[26]、6月28日、両社から「交渉は白紙となった」ことが発表された[27]
  • 2009年11月16日までにJリーグから条件提示されていたスポンサー料の5億4千万円に対しての協賛支援表明等が集まり、理事会で2010年シーズンもJリーグ加盟が認可された[28]
  • 2010年1月29日のJリーグ臨時理事会[29]、2月16日の同理事会にて経営状況についての審議が行われた際には、予算が理事会承認時の予算よりも1億5000万円上回っていたことが判明し、予算の見直しを受けるとともに、同理事会前にJリーグが作成した合意書に調印する旨を言い渡された。

Jリーグが2010年5月に行った業務監査では、スポンサー収入5億4000万円のうち、実際に入金されたのは半分程度で、人件費の穴埋めなどを入れると4億円程度の資金投入が必要とされたため、このままの状態では2010年6月にも資金が底を突く可能性が濃厚となった。2月に行われたJリーグチェアマン鬼武健二と東京ヴェルディ会長崔暢亮の会談を経て、Jリーグは5月の臨時理事会で合意書締結にのっとり、2010年度のチーム継続を前提として4億6500万円の緊急融資枠を決定し、融資条件として東京VFCの株式の全株式をJリーグへ譲渡し経営陣が交代。その上で7月以後リーグ主導で経営再建に乗り出し随時融資を実行し安定した運営ができる方針を固めた。 しかし、4億6500万円の緊急融資枠全額は払い込まれなかったという。 [30] [31]

  • 2010年6月29日、東京VHDが保有する東京VFC株式約98.8%が、社団法人日本プロサッカーリーグを経て、株式会社ジェイリーグエンタープライズに譲渡[32] され、東京VFC臨時株主総会で、旧経営陣の辞任と新経営陣の選任が行われ[33]、Jリーグ事務局長の羽生英之が東京VFCの社長に就任した[34]。なお、羽生の周囲には「ここできれいに潰した方が将来的にはJリーグのためになる」と助言する者もいた[35]
  • 2010年10月29日、Jリーグ臨時理事会で「バディ企画研究所(以下バディ)」を筆頭株主として[注 8]、「オフィスて・ら」、「山愛[1][注 9]]」「斉藤氏」など13の出資者の決定、および「ゼビオ」との包括スポンサー契約を結んだことにより2011年度予算8億1500万円確保できたため、2011年以降のクラブ存続が正式に了承された。これを受けて羽生が(社)Jリーグを退職(東京VFCの社長は続投)、バディ社長の鈴木威が東京VFCの会長に就任した[38]
  • クラブライセンス交付第一審機関(FIB)からは、2013年にクラブ経営上、改善が必要な事項につき「個別通知」が[39]、2014年[注 10]には経営上の「是正通達」が[41] なされている。

コラボレーション・プロモーション

  • 2014年、アニメ とある科学の超電磁砲とコラボ。
    • 特別デザインのユニフォームや限定グッズを販売。11月1日のコンサドーレ札幌戦をコラボ試合として行い、主人公の御坂美琴役の佐藤利奈と白井黒子役の新井里美をゲストとして迎えた。両名は同試合での選手紹介も行なった。
  • 2015年、3月8日のセレッソ大阪戦で映画スーパーヒーロー大戦GP 仮面ライダー3号とコラボ。
    • スタジアムに仮面ライダー3号を始めとする5名のライダーが来場。握手会などが行われた。
  • 同年、過去にアニメとのコラボイベントを行なった水戸ホーリーホックFC岐阜と共同で、アニ×サカ!!というコラボイベントを行う。
    • ホームタウンの稲城市をモデルにしている甘城ブリリアントパークとコラボした。多数のコラボ商品を販売した他、3月21日の水戸戦には同作品の主要キャラであるモッフルが来訪。4月11日の岐阜戦ではモッフルに加え、主人公の可児江西也役の内山昂輝とラティファ役の藤井ゆきよをゲストとして迎えた。
  • 同年、J2に東京(東京V)・千葉(ジェフユナイテッド千葉)・神奈川(横浜FC)・埼玉(大宮アルディージャ)のチームが揃った事に合わせて4クラブ合同企画「首都圏バトル4~じゃない4の逆襲~」が行われる事になった。
    • 残り試合数に合わせて価格が変動するホーム&アウェイ共通Tシャツチケットを販売。各チーム6試合ずつのマスコット対決、Tシャツチケットの販売枚数、アウェイゲーム入場者数、フェアプレーの結果をポイント制として集計される。最終結果は1位千葉、2位大宮、3位ヴェルディ、4位横浜となり、千葉が「首都圏バトル4」王者として表彰された。

脚注

注釈
  1. ^ a b ただし、2010年までクラブのエンブレムには「FC NIPPON」と描かれていた。
  2. ^ 特にスポーツ報知・日本テレビでは他チームにも「日産横浜マリノス」「AS横浜フリューゲルス」「パナソニックガンバ大阪」「三菱浦和レッズ」と企業名を付けて呼称した。
  3. ^ a b c なお2001年のJリーグイヤーブック、ファンズガイド(いずれも当時は「トランスアート」発売・制作)には「東京都稲城市」のみをホームタウンとする記述があったが、翌2002年(NTT出版発売・制作)以後は「東京都全域」に修正されている。
  4. ^ “GLOCAL”とは造語で、東京という地域(LOCAL)から世界(GLOBAL)を目指すという意味が込められている。
  5. ^ FC町田ゼルビアの本拠地。
  6. ^ クラブ経営の支援を目的に、有志で結成された組織。
  7. ^ 10月4日に行われたロアッソ熊本戦よりロゴ提出した。
  8. ^ バディの出資額は推定1億円[36]。また、羽生の息子がバディのサッカースクールに所属しているという繋がりがあった[37]
  9. ^ 2008年より清水エスパルスのユニフォームスポンサーも務めている。
  10. ^ 同時期、Jリーグ理事の大河正明からは「純資産が少なく債務超過に陥る恐れがある」と指摘された[40]
出典
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u クラブガイド:東京ヴェルディ”. 日本プロサッカーリーグ. 2014年4月12日閲覧。
  2. ^ a b 会社概要”. 東京ヴェルディ1969公式サイト. 2013年7月5日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g 2014年度(平成26年度)Jクラブ個別情報開示資料”. 日本プロサッカーリーグ. 2015年7月31日閲覧。
  4. ^ 東京ヴェルディ 法人名・チーム名変更について Jリーグ・ニュースリリース2009年10月20日
  5. ^ a b ヴェルディ川崎から東京ヴェルディ? 観客減…2001年の移転を承認 - ウェイバックマシン(2000年9月14日アーカイブ分) 朝日新聞デジタル (2000年2月16日)
  6. ^ Jリーグ東京ヴェルディ1969と資本・事業提携及びユニフォームメインスポンサー契約を締結 サイバーエージェントプレスリリース 2006年3月30日
  7. ^ サッカー批評 48』双葉社、2010年、87頁
  8. ^ エンブレムデザイン一部変更のお知らせ 東京ヴェルディ公式ウェブサイト 2010年12月20日閲覧
  9. ^ 東京ヴェルディ (2013年2月20日). “2/19(火)vsカマタマーレ讃岐 練習試合結果”. 2013年2月24日閲覧。
  10. ^ 東京ヴェルディ公式のツイート(305984673853603840)
  11. ^ 三浦泰年監督解任のお知らせ 東京ヴェルディ公式サイト ニュース 2014年9月15日付
  12. ^ ドタバタ東京V…三浦泰年監督解任をLINEで選手に通達(スポーツニッポン2014年9月15日 9月16日閲覧)
  13. ^ 「調布市は、FC東京を応援しています。」 調布市ホームページ、2009年11月20日
  14. ^ a b c d ヴェルディ東京移転YES 川淵チェアマンGOサイン - ウェイバックマシン(2000年1月23日アーカイブ分)スポーツ報知 (1999年10月19日)
  15. ^ 平成5年 第4回 定例会 - 12月10日 02号 市長 (吉尾勝征 君) P.117 調布議事会 議事録
  16. ^ a b c ヴェルディ東京移転正式決断 2001年春 - ウェイバックマシン(2000年1月25日アーカイブ分)スポーツ報知 (1999年10月28日)
  17. ^ ヴェルディ東京移転へ着々 川崎F昇格で等々力”空き家”の心配なし - ウェイバックマシン(2000年1月24日アーカイブ分)スポーツ報知 (1999年10月21日)
  18. ^ 東京V 練馬区新スタジアムへ移転構想も - スポーツニッポン 2010年9月11日
  19. ^ 平成23年度検討のまとめ 事例研究・資料(練馬区)のp.8を参照。
  20. ^ 東京V5年間放浪 よみうりランド撤退 - nikkansports.com・2010年10月30日
  21. ^ 東京V存続承認…八王子に移転へ - スポーツ報知・2010年10月29日
  22. ^ 東京V、よみうりランドの練習場など来季も継続使用 - スポニチアネックス・2010年12月31日
  23. ^ ヴェルディ川崎!東京移転 - ウェイバックマシン(2000年4月16日アーカイブ分)スポーツ報知 (1999年10月15日)
  24. ^ “子会社の株式譲渡に関するお知らせ”. 日本テレビ放送網プレスリリース. (2009年9月16日). http://www.ntv.co.jp/info/news/522.html 2010年11月21日閲覧。 
  25. ^ “東京ヴェルディ 株式譲渡承認の件”. (2009年9月17日). http://www.j-league.or.jp/release/000/00003173.html 
  26. ^ “本日の一部報道について”. ネクシィーズプレスリリース. (2010年3月19日). http://www.nexyz.co.jp/press/2010/pdf/100319_release.pdf 2010年11月21日閲覧。 
  27. ^ “株式会社ネクシィーズとの交渉結果について”. 東京ヴェルディ公式ウェブサイト. http://www.verdy.co.jp/topics/club-info/club-info-2010/株式会社ネクシィーズとの交渉結果について.html 2010年6月28日閲覧。 
  28. ^ “名門ヴェルディ、存続岐路に 新運営会社に懐疑的見方も”. (2009年11月15日). http://www.sanspo.com/soccer/news/091115/sca0911150505001-n1.htm “東京V、存続に自信「数字的にはクリア」”. SANSO.COM (産経新聞社). (2009年11月15日) 
  29. ^ “経営難ヴェルディの経理担当者増員へ”. asahi.com (朝日新聞社). (2010年1月30日). http://www.asahi.com/sports/update/0130/TKY201001290534.html 
  30. ^ “経営難の東京ヴ再建へ Jリーグ、4億円超の資金投入”. asahi.com (朝日新聞). (2010年5月25日). http://www.asahi.com/sports/update/0525/TKY201005250443.html 2010年5月26日閲覧。 
  31. ^ “資金不足の東京V、Jリーグが経営権取得準備へ”. YOMIURI ONLINE (読売新聞). (2010年5月25日). http://www.yomiuri.co.jp/sports/soccer/news/20100525-OYT1T01040.htm 2010年5月26日閲覧。 
  32. ^ 東京ヴェルディ1969フットボールクラブ株式会社 株主変更のお知らせ 東京ヴェルディ・クラブからのお知らせ2010年6月29日
  33. ^ 東京ヴェルディ1969新経営陣が表敬訪問 稲城市・市長室へようこそ2010年7月6日
  34. ^ 役員人事について 東京ヴェルディプレスリリース 2010年6月29日
  35. ^ サッカー批評 49』双葉社、2010年、77頁
  36. ^ 東京V 筆頭株主に「バディ」が内定 スポーツニッポン、2010年10月29日
  37. ^ サッカー批評 49』双葉社、2010年、78頁
  38. ^ 東京ヴェルディ会長就任について BUDDY SOCCER CLUB
  39. ^ クラブライセンス交付第一審機関(FIB)による 2014シーズン Jリーグクラブライセンスの交付について Jリーグ (2013年9月30日)
  40. ^ Jリーグ:13年度 5クラブ2期連続の赤字 Jリーグ (2014年7月22日)
  41. ^ クラブライセンス交付第一審機関(FIB)決定による 2015シーズン Jリーグクラブライセンス交付について Jリーグ (2014年9月29日)

関連項目

外部リンク