杉敏介

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杉敏介

杉 敏介(すぎ としすけ、1872年5月28日 - 1960年7月2日)は、日本の教育者第一高等学校 (旧制)、国文教授 - 校長。通称はびんすけ。夏目漱石吾輩は猫である』の津木ピン助のモデル。歌人としても知られ、号は烏山。

経歴

  • 山口県玖珂郡差川村(現岩国市)で誕生。
  • 1891年9月 - 旧制山口高等学校英法科・文科に入学。
  • 1893年9月 - 帝国大学文科大学に進学。
  • 1896年 - 帝国大学文科大学を卒業。
  • 1899年 - 第一高等学校国文教授
    作文・文学史を講じ、文芸部顧問として多くの俊英を育てた。
  • 1924年9月13日 - 第一高等学校第10代校長に就任。
  • 1925年 - 神奈川県高座郡藤沢町鵠沼に居住。
    かつての教え子高瀬弥一邸の筋向かいに住み、交流した。
  • 1926年1月10日 - 山中湖畔に完成した一高の寮を「嘯雲寮」と命名。
  • 1929年7月2日 - 第一高等学校校長を離任。
  • 1930年 - 鵠沼を去り、鎌倉に転居。
  • 1956年3月1日 - 旧制一高寮歌集抜粋版の表紙題字を揮毫。
  • 1960年7月2日 - 没。享年89。
    谷崎潤一郎、追悼文「敏介とビン助」を口述。

著名な教え子

一高文芸部新旧役員 1908年5月撮影
後列 杉田直樹・立澤剛・行森昇
中列 田中徹・岸巌・大貫雪之助・佐野秀之助
前列 笠森伝繁・谷崎潤一郎・新渡戸稲造校長・杉敏介教授・和辻哲郎

著作

  • 『中等教科 日本文典』1898年 文学社
  • 『日本小語典』1900年 内外出版協会
  • 『国語講義』1901年
  • 『本邦文学史講義』1902年 弘文館
  • 『音韻解説仮名遣法』1910年 新潮社
  • 『長井雅楽周旋に関する世論に就いて』

エピソード

  • 斗酒を辞せず豪放にて洒脱、全校の輿望を集めた。大きな事件の決断に速なると共に、細かいことにも配慮の行き届く人であった。 (第一高等学校ホームページ)
  • 『 (岸信介が)戦犯容疑者に指名されて田布施を離れるとき、長州出身で一高時代の恩師でもある杉敏介から、「名を惜しむなら命を捨てよ」という意味の「自決」を促す短歌を贈られる。岸はこれを拒否して次のような返歌を杉に届けている。「名にかへてこのみいくさ(聖戦)の正しさを来世までも語り残さむ」。』(岩波新書「岸信介」原彬久著121p)

関連項目

参考文献

  • 守随憲治:『真の教育者 杉敏介先生』1973年 新潮社

外部リンク