杉元相

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杉 元相
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 大永2年(1522年
死没 天正13年1月26日1585年2月25日
改名 杉隆相→杉元相
別名 次郎左衛門(通称)
墓所 興元寺山口県周南市
官位 従五位下、勘解由判官
主君 大内義隆義長毛利元就輝元
氏族 杉氏
父母 父:杉隆宣
元宣
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杉 元相(すぎ もとすけ、大永2年(1522年) - 天正13年1月26日1585年2月25日))は、日本の戦国時代の武将。初名は隆相、後に元相。通称は次郎左衛門。大内氏配下で、後に安芸毛利氏に従う。父は杉隆宣。子に杉元宣周防国の名族杉氏の一門であるが、その正確な系譜は不明。

生涯

1540年天文9年)の吉田郡山城の戦いでは、大内氏家臣として毛利元就の救援に向かい、吉田の坂・豊島に駐屯し、尼子軍の攻撃に備えた。同年9月23日池の内の戦いで、湯原宗綱粟屋元良らと挟撃し、討ち取った。

1543年(天文12年)5月7日に父の杉隆宣が討死して、その跡を継いだ。1550年(天文19年)10月17日に従五位下に叙せられる。1551年(天文20年)の陶隆房による大内義隆への謀反(大寧寺の変)、また1555年(弘治元年)の厳島の戦い前後での、その動向は不明。1556年(弘治2年)に毛利元就防長経略の最中、毛利氏に降伏。毛利隆元の偏諱を賜り「元相」と名乗った。また、1569年(永禄12年)の大内輝弘の乱では手勢を率いて富海近くの椿峠に布陣し、大内輝弘の残存兵の逃亡を防ぎ、壊滅させた(大内輝弘の乱)。

元相は、金剛山山麓(現在の徳山動物園前)に館を構え、1574年(天正2年)には一の井手に菩提寺として興元寺を建立する。天正年間に、織田信長によって京を追われた足利義昭の警護のため、備後国に赴いたこともあった。

1585年(天正13年)に病死。享年64。元相・元宣父子の墓所は興元寺にあり、周南市指定文化財になっている。

関連項目