本領信治郎

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本領信治郎

本領 信治郎(ほんりょう しんじろう、1903年(明治36)10月8日 - 1971年(昭和46)7月24日)は、京都府出身の東京府東京市選出の政治家、教育者。衆議院議員早稲田大学(以下、早大)教授早大ラグビー部監督 & 選手。

来歴[編集]

京都市立第一商業学校(現、京都市立西京高等学校)を経て早大に進学。同校のラグビー部で活動し、ポジションはスクラムハーフ(SH)1927年(昭和2)のオーストラリア遠征では主将を務めた。卒業後の1928年(昭和3)に早大監督に就任し、2シーズン同職を歴任。

その後、母校の早大で教鞭を執る傍ら、中野正剛の知遇を得て東方会に入党の後、大政翼賛会総務局宣伝部副部長を歴任。そして、1942年(昭和17)4月30日に執行された第21回衆議院議員総選挙において、東京5区(中選挙区時代)から東方会(非推薦)で立候補し当選した。

当選後は中野正剛らとともに翼賛政治会に入り、大日本政治会を経て、無所属倶楽部に所属した。

第二次世界大戦後、公職追放となり[1]、追放解除後は日本民主党相談役、日本ラグビーフットボール協会理事等を務めた。

主な著書[編集]

  • 『ラグビー通になるまで』(野球界社 1930年
  • 『写真ヒトラー総統伝』(日本電報通信社出版部 1942年)
  • 『青年の信条』(拓南社 1942年)
  • 『ドイツ戦時経済叢書』(翻訳者として執筆。日本電報通信社出版部 1942年)

脚注[編集]

  1. ^ 公職追放の該当事項は「翼賛中央本部副部長、東方会常任理事」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、128頁。NDLJP:1276156 

参考文献[編集]