木村守男
木村守男 きむら もりお | |
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生年月日 | 1938年1月24日(86歳) |
出生地 | 青森県南津軽郡藤崎町 |
出身校 | 日本大学法学部 |
選挙区 | 青森2区 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 |
1980年 - 1983年 1986年 - 1990年 1990年 - 1993年 1993年 - 1995年 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1995年2月26日 - 2003年5月16日 |
木村 守男(きむら もりお、1938年1月24日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(4期)、青森県知事(第14代、第15代、第16代)を歴任した。父は元衆議院議員の木村文男、長男は衆議院議員の木村太郎。
来歴・人物
青森県南津軽郡藤崎町出身。東奥義塾高校から浪岡高校を経て1960年日本大学法学部法律学科を卒業。
1967年から青森県議会議員を3期務め、その間、青森県議会農林常任委員長などを務める。
衆議院議員
1980年、新自由クラブ公認で衆議院議員青森2区に出馬、初当選する[1]。木村本人も新自由クラブの青森県連代表を務めていたが、同年12月に新自由クラブを離党し1981年、自由民主党に入党し派閥は田中派に所属する。1983年の田中判決選挙には落選したが、1986年の衆参同日選挙ではトップ当選で返り咲く。経世会から、同派分裂に際しては改革フォーラム21に参加する。羽田派メンバーの中では唯一、宮澤内閣不信任決議案に対して欠席という対応をとる。1993年、新生党に参加する。1994年の新進党結党に参加した。
細川内閣では農林政務次官を務めた際、それまでの選挙ではコメの輸入自由化に反対することを公約で表明してきたが、一転輸入自由化を受け入れる側となった[2]。
青森県知事
1995年より青森県知事。2003年1月の県知事選挙で当選し3期目に入った。知事としては、岩手県、秋田県との連携を強化し北東北三県による広域自治体・経済圏を模索していた。また、1998年3月に六ヶ所村のむつ小川原港への高レベル放射性廃棄物の搬入のため寄港しようとした輸送船の入港を拒否。橋本龍太郎首相と会談し廃棄物の搬入を認めた。
不祥事
三選直後、『週刊新潮』で「セクハラ不倫疑惑」が取り上げられ、事情の説明を求めた県議会と対立。同年2月27日、『週刊新潮』の記事で名誉を傷つけられたとして、発行元の新潮社と記事掲載に関与したと見なした参議院議員田名部匡省を東京地裁に提訴し、2005年まで裁判が続いた[3][4]。
2003年3月7日に法的拘束力がない知事辞職勧告決議が採決され、与党自民党会派も津島派をはじめとして大部分が賛成票を投じ、賛成39票・反対9票と79.59%の賛成を得て可決されたが、辞職を拒否。3月18日の法的拘束力がある知事不信任決議案が採決されたが、前回の辞職勧告決議で反対に回った自民党議員(木村派)が再び反対するだけでなく、賛成に回った自民党議員(大島派)が「辞職勧告と不信任は違う」として反対に回り、賛成35票・反対14票で71.43%と不信任可決に必要な75%に満たず僅差で否決された。
4月の統一地方選挙で県議会議員選挙が実施され、不信任決議案に反対した議員が多く落選。選挙後の臨時議会で再び不信任決議案が提出され、可決必至の情勢の中、採決の前日に辞意を表明。不信任決議案は結局採決されなかった。2003年5月16日に県知事を辞職した。
政界引退
2015年10月19日、自身の政治団体の総会で政界引退を表明した[5]。
関連項目
脚注
- ^ “木村守男”. 国会議員白書. 2016年3月21日閲覧。
- ^ 諏訪益一 (1995年6月29日). “平成7年第202回定例会(第6号)本文”. 青森県議会議事録. 2013年8月24日閲覧。
- ^ “田名部参院議員らを提訴 青森県知事が名誉棄損で”. 共同通信社. 47NEWS. (2003年2月27日) 2012年10月5日閲覧。
- ^ なお、木村の後任の知事である三村申吾は新潮社の出身であり、田名部から三村を経由し情報が漏れたと追及している。
- ^ “元知事・木村守男氏が政界引退を表明”. 陸奥新報. (2015年10月20日) 2016年3月21日閲覧。