昭和

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昭和(しょうわ)とは、20世紀に定められた日本元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間[1] である1926年(昭和元年)12月25日から、1989年(昭和64年)1月7日まで。

昭和は、歴代元号の中で最長であり、外国の元号を含めても最も長いが、元年と64年が共に「7日」なので、実際は62年と14日である[2]。なお60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。

第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代現代に区切ることがある。

改元

昭和は、旧皇室典範登極令による制度での最後の元号であり、元号法で改めて制定された最初の元号である。

開始

1926年(大正15年)12月25日、大正天皇崩御。同日、皇太子裕仁親王(昭和天皇践祚を受け直ちに改元の詔書を公布して、昭和に改元した。西暦1926年12月25日は、大正15年であり昭和元年でもある[3]。なおこの際、東京日日新聞が「新元号は光文」と誤報した(光文事件)。

昭和改元の詔書(1926年〔大正15年〕12月25日)

朕皇祖皇宗ノ威靈ニ賴リ大統ヲ承ケ萬機ヲ總フ茲ニ定制ニ遵ヒ元號ヲ建テ大正十五年十二月二十五日以後ヲ改メテ昭和元年ト爲ス(以下略)

終了

1989年(昭和64年)1月7日(午前6時33分)昭和天皇が崩御して、即日今上天皇が皇位を継承した。そのため、元号法の規定に基き、元号を改める政令(1989年〔昭和64年〕1月7日政令第1号)を公布した。翌日の1月8日に同政令は施行されて、平成に改元した。

元号を改める政令(1989年〔昭和64年〕1月7日)

内閣は、元号法(昭和五十四年法律第四十三号)第一項の規定に基づき、この政令を制定する。

元号を平成に改める。

附則

この政令は、公布の日の翌日から施行する。

出典

「昭和」の由来は、四書五経の一つ書経尭典の「百姓明、協萬邦」による。漢学者・吉田増蔵の考案。なお、江戸時代にまったく同じ出典で、明和の元号が制定されている(「百姓昭、協萬邦」)。国民の平和および世界各国の共存繁栄を願う意味である。

当時枢密院議長だった倉富勇三郎の日記によれば、宮内省作成の元号案として「神化」「元化」「昭和」「同和」「継明」「順明」「明保」「寛安」「元安」があったが、数回の勘申の結果、「昭和」を候補とし、「元化」「同和」を参考とする最終案が決定した。

第一次大戦後

急速な技術進歩を続ける20世紀は、2度の世界大戦に象徴されるように、それまでの時代と異なり、国土そのものを破壊する大規模近代戦争を伴う動乱の時代でもあった。日本は国内的には立憲君主制の体裁をとり、当初の藩閥政治を脱して、1920年代には政党が内閣を構成するようになった。

しかし、政党政治がその一面で見せた腐敗は、相次ぐ不況下で困窮する国民の不信と怒りを買い、大陸侵略による事態の打開と国家改造を志向する勢力の台頭を招く。1920年代末から独立性を強めた軍部は、1930年(昭和5年)以降は政府の意思に反した軍事活動や戦闘を多数引き起こし、相次ぐ軍事クーデターにより、ついには政党政治を葬り去った。

金融恐慌

第一次世界大戦では、まれに見る好景気で日本経済は大きく急成長を遂げた。しかし大戦が終結して諸列強の生産力が回復すると、日本の輸出は減少して早くも戦後恐慌となった。さらに1927年(昭和2年)には、関東大震災の手形の焦げつきが累積し、それをきっかけとする銀行への取りつけ騒動が1927年(昭和2年)3月15日から生じて、4月20日前後には最高潮に達して、昭和金融恐慌となった。

若槻内閣鈴木商店不良債権を抱えた台湾銀行の救済のために緊急勅令を発しようとしたが、枢密院の反対にあい、総辞職した。

あとを受けた田中義一内閣は、高橋是清蔵相の下で三週間のモラトリアム(支払い猶予令)を発して全国の銀行の一斉休業と日本銀行から9億円もの緊急貸し出しによって急場をしのいだ。また、台湾銀行の救済策も出された。この後、銀行の整理統合が進み、五大銀行(三井銀行三菱銀行住友銀行安田銀行第一銀行)への預金が集中した。

一方、中国では1925年(大正14年)に死んだ孫文の後を蒋介石が継ぎ、1926年(大正15年)7月国民政府軍は蒋介石を総司令として北伐(中国革命で中国北部の軍閥勢力を平定すること)を開始して、10月武漢を占領して、ここに政府を移して、翌年の1927年(昭和2年)3月には上海を占領して、ついで南京も手中に収めた。[4]

田中内閣と山東出兵

田中内閣は、張作霖を動かして満蒙での諸懸案の解決を図ろうとして3回[5]に及ぶ山東出兵を行い、東京で外交・軍部関係者を集めて東方会議を開き、の利権を死守することを確認した。これに基づいて政府は満州の実力者張作霖と交渉して、満洲の権益の拡大を図ったが、張は応じず、関東軍は張の乗る列車を1928年(昭和3年)6月4日に爆破して暗殺した(満州某重大事件)。関東軍は当初この事件を中国国民政府軍の仕業だと公表したが、実際は関東軍参謀河本大作の仕業であった。このため国内の野党から「満州某重大事件」として追及され、田中は昭和天皇に上奏しようとしたが、天皇から説明を聞きたくないと不快感を表明され、田中義一内閣はこのため1929年(昭和4年)7月2日に総辞職した。世上では首相の名前(義一)を下から読んで、「一つもよしことなかった」と揶揄された。

田中内閣は、第二次護憲運動で生まれた護憲三派の内閣である加藤内閣とりわけ、外相である幣原喜重郎が行った外交政策である中国内政不干渉政策(幣原外交)を「軟弱外交」として批判して登場した。そのため、田中義一は自ら外相を兼任し、中国での革命の進展に対して強く干渉した。しかし、中国での武力行使に対する列国の批判をかわすためもあって、1928年(昭和3年)、パリで締結されたいわゆるパリ不戦条約には調印した。ただ、この不戦条約は、第1条で「人民ノ名ニ於テ」戦争を放棄することを謳っており、国体をないがしろにするものとする批判が国内に生じた。このため、新聞紙上でも喧々諤々の論議が行なわれた末、翌年に至り、「其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ」という文言を日本については適用外とする宣言を付して批准された。また、田中内閣は国内で思想取締強化をはかったことでも知られている。

普通選挙

特に1928年(昭和3年)2月20日普通選挙第16回衆議院議員総選挙)実施後、予想外の進出を示した無産政党や共産党に対する弾圧を強め、1928年(昭和3年)に三・一五事件、翌年に四・一六事件を起こして共産党系の活動家と同調者の大量検挙をおこなった。その間、緊急勅令により、治安維持法を改正して最高刑を死刑とした。

一方、文化や社会科学の研究ではマルクス主義が隆盛となり、1932年(昭和7年)には、野呂栄太郎らによる『日本資本主義発達史講座』が岩波書店から発行され、知識層に多大の影響を及ぼした。その執筆者は「講座派」と呼ばれたが、それに対して批判的な向坂逸郎らは雑誌『労農』により、「労農派」と呼ばれた。両派は以後、活発な論戦を繰り広げたが、国家主義的革新運動の台頭に伴い、弾圧を受け、強制的に収束して行くこととなった。

そのような状況下の1929年(昭和4年)10月24日ニューヨークウォール街での株価の大暴落によって世界恐慌が引き起こされた。それは日本にも波及し、翌年、田中内閣の後を受けた濱口雄幸内閣が実行した金解禁を契機として昭和恐慌が引き起こされた。この恐慌は戦前の恐慌の内で最も深刻なものであった。英国フランス米国などが植民地囲い込みによるブロック経済で建て直しを図ったが、第一次世界大戦の敗戦で天文学的賠償金を負っていたドイツや、高収益な植民地を持たない日本などは深刻化な経済不況に陥った。このことはファシズムの台頭を招き、ドイツではナチスを生み出す結果となり、日本では満洲は日本の生命線であると主張され、軍の中国進出を押し進めてしまう要因の一つとなった。 1930年(昭和5年)、米国や英国が中心となりロンドン海軍軍縮会議が開催された。これは第一に、主力艦を1936年(昭和11年)まで延長する、第二に、補助艦の保有比率を米:英:日=10:10:7とするものであった。全権大使若槻禮次郎はこれを受諾したが、海軍は、統帥権を侵していると内閣に反発した(統帥権干犯問題)。

満州事変

1931年(昭和6年)4月、若槻礼次郎首班の民政党内閣(第二次若槻内閣)が成立した。7月には長春付近で朝鮮移民と中国官憲・農民との衝突事件が起きて、一触即発の情勢が生まれていた。陸軍は8月に「満州問題解決方針の大綱」を決定していた。9月18日には関東軍の謀略により柳条湖事件を契機に満州事変が勃発した。関東軍は奉天長春、公主領、四平街などの満州鉄道沿線の首都と主要都市で軍事行動を起こして、戦時体制に入った。以後の14年間は、1945年(昭和20年)の敗戦までにわたる大戦争の第一歩となった[6]。 政府は戦争不拡大の方針をとったが、関東軍はそれを無視する形で発展していった(塘沽協定で日中間は一旦停戦となる)。日本の満洲建国に前後して、国際連盟リットン調査団を派遣して、その調査結果に基づいて、1933年(昭和8年)、日本の撤退勧告案を42対1[7]で可決した。日本は2月20日の閣議で、満州撤退勧告案が可決された場合、脱退することを決めていたので松岡洋右代表は退場(2月24日)して、3月27日には国際連盟脱退を通告した。このことにより日本は国際的に決定的に孤立の道を歩んでいったと同時に、政府は孤立化による国民感情の悪化を懸念したが、予想に反してこの決断は日本の意思を貫いた行為として賞賛された。[要出典] また、1932年(昭和7年)2月9日、第18回衆議院議員総選挙戦中に、民政党の井上準之助(前蔵相)が選挙応援中に射殺されて、3月5日には団琢磨(三井合名理事長)が三井銀行本店の入り口で射殺された。いわゆる血盟団事件である。つづいて5月には海軍将校らが犬養毅首相を射殺した五・一五事件が起こり犬養内閣が総辞職し、5月26日に斉藤実内閣が成立したが、帝人事件の贈収賄容疑が閣内に波及したため1934年(昭和9年)7月3日に総辞職をして、7月8日岡田啓介内閣が成立した。軍部急進派右翼団体を中心に、明治維新の精神の復興、天皇親政を求める国家革新昭和維新スローガンとする右翼思想が唱えられて、この思想の影響で1936年(昭和11年)には皇道派の青年将校が斎藤実内大臣や高橋蔵相らを射殺した二・二六事件が起こって軍部の暴走も顕著となり1936年(昭和11年)2月28日岡田内閣は総辞職して、政党内閣は終焉にいたった。その後、3月9日に成立した広田弘毅内閣では事件に伴って予備役とされた将軍達の影響を排除するために過去に廃止となった軍部大臣現役武官制を復活させた。一方で、現役軍人しか陸海軍大臣には就くことができず、軍の協力なしに内閣を組閣することができなくなり、軍部が内閣の活殺を握ることであり、議会はその役割を事実上停止する。同内閣成立早々、閣議で「重要国策」を審議決定することになったが、一旦決定された国策は、その後、日本の将来の道に決定的影響を及ぼした。8月7日、首相・外相・蔵相・陸相・海相の五相会議が開かれ、対外問題を中心にする重要国策(国策の基準)を決定した。内容は公表されなかったが、戦争政策の見取図・計画書であった。また、同月五相会議は「第二次北支処理要綱」を決定した。「国の基準」にもとづいて、軍備大拡張計画が立てられた。陸軍は国防充実12か年計画[8]、海軍は第二次補充計画[9]を立てた[10]。このため1937年度予算は、陸海軍両省合計で14億円に達した。11月末の予算閣議で30億円を超える巨額の予算案が短時間で決定された。前年度に比べ8億円を一挙に増額した。この膨大な歳出をまかなうため、4億2千万円の増税と8億3千万円の公債発行が行われた。この予算案が発表されると諸物価が高騰しはじめ、国民の生活に大きな影響を与えるものとなった。[11]。このように軍備拡張と戦時体制への整備が急速に推進された。 同内閣は1936年(昭和11年)11月ドイツ首都であるベルリン日独防共協定を調印した。 1937年(昭和12年)1月29日に閣内不統一で総辞職して、2月2日林銑十郎内閣成立するが5月31日には総辞職となり、6月4日に第一次近衛文麿内閣が成立する。 中国では西安事件で拉致された蒋介石周恩来の間で国共合作が成立して、抗日闘争が進められた(第二次国共合作)。

日中戦争へ

1937年(昭和12年)には、盧溝橋で日中両軍が衝突し(盧溝橋事件)、停戦協定後も通州事件第二次上海事変などが続き、日中戦争支那事変)が始まった。戦線の拡大に従って廣田内閣林内閣で盛んであった国防の観点から思想統制と国民生活向上を図って戦時体制への強力を国民に求めると言う「広義国防」論に代わって、国民・国力の全てを戦争遂行のために投入して総力戦を行おうとする総動員政策が台頭し、その結果国家総動員法が成立した。 国内の文化・思想に関しては、戦時体制が強化されるにともなって治安維持法による思想弾圧が目立ち、1937年(昭和12年)には、加藤勘十鈴木茂三郎らの労農派の関係者が人民戦線の結成を企図したとして検挙される人民戦線事件が起こった。この時期には、合法的な反戦活動は殆ど不可能になっていった。

近衛内閣の後を受けて1939年(昭和14年)1月5日平沼騏一郎内閣が誕生する。平沼は内務・司法官僚の大御所で、枢密院議長でもあった。この職には首相を辞職したばかりの近衛がつくといった具合で、首相の選任も一部の宮廷勢力が軍部の意向に逆らわないような形で行われていた。2月には軍部は南支那海の中国領海南島を占領し、3月にはフィリピン西方海上の無人諸島の領有を宣言して新南群島となづけた。この軍事行動は英米を大きく刺激した。また6月には天津の英仏租界を封鎖した。天津事件という。東京では、有田八郎外相とクレーギー英大使との会談が開かれた。7月になるとアメリカが日米通商航海条約を破棄したのでイギリスの対応もかわり日英会談は決裂した。[12] 満洲では日本とソ連は1939年(昭和14年)5月12日ノモンハン事件などで衝突した。8月には第23師団を中軸とする第6軍を新編成して、満州から集められるだけの飛行機と戦車を投入したが、一万数千人の死者が出た。第23師団は全滅に近い壊滅状態であった。それは機械化装備や火力、輸送力に格段の差を見せつけられ、敗北した。この事件後、陸軍当局は「精神力と並んで物力も顧慮しなければならぬ」と異例の談話を発表した。9月16日にノモンハン事件の停戦協定が結ばれた[13]

時にヨーロッパでは、一触即発の危機に陥り、情勢はめまぐるしく変転し、8月には独ソ不可侵条約が締結された。三国同盟問題を解決できなかった平沼内閣はここに至って混乱の極に達して、1939年(昭和14年)8月28日に平沼内閣総辞職をした。その理由を「今回締結せられた独ソ不可侵条約に依り、欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じたので、我が方はこれに鑑み、従来準備し来った政策はこれを打ち切り、更に別途の政策樹立を必要とするに至った」と説明している。この説明は、日本の支配層が国際情勢に順応しきれず外交政策をたてることができなくなっていたことを吐露したものと考えられる[14]

この後には8月30日阿部信行内閣が誕生した。この後すぐに第二次大戦が始まった。内閣は9月4日に「今次欧州戦争勃発に際しては帝国はこれに介入せず、もっぱら支那事変の解決に邁進せんとす」との声明を出した。 ドイツとソ連ではイデオロギーが相容れず手を結ぶことはないと考えていた日本支配層は、国際情勢に戸惑いを感じ、外交方針の見直しに迫られた。「防共」とか「東亜新秩序」のイデオロギーに縛られていた従来の外交方針を見直すよい機会となった。11月4日からは野村外相はグル-アメリカ大使と会談を始めた。また、決裂状態にあった日英会談再開の気運が生まれた。しかし、日米交渉は進まず、1940年(昭和15年)1月には日米通商航海条約は失効してしまった。[15] 1月第75議会で276人(衆議院定員の過半数)の衆議員が阿部内閣の退陣を決議した。日中戦争が始まっていらい3年、国民の不安と厭戦気分が広がり、また、官僚統制への不満が自然に広がっていった。閣内には解散論が渦増しだした。しかし、軍部は反軍的気運の生まれることを恐れて政府不支持の態度をとったので、1940年(昭和15年)1月4日に阿部内閣は退陣した。

つづく内閣には海軍大将米内光政を首班とする米内内閣が1月16日に成立した。この内閣には民政党・政友党から2名ずつ、財界からは藤原銀治郎が商相として入閣した。

1940年(昭和15年)11月10日11月14日紀元二千六百年式典(提灯行列、旗行列、音楽行進など)が全国で行われる。

第二次世界大戦

ヨーロッパでは1939年(昭和14年)8月23日に突如、独ソ不可侵条約が発表された。 9月1日にナチス・ドイツポーランドに侵入して、9月3日英仏が獨に宣戦布告して第二次世界大戦が開始された。日本は「欧州戦争に介入せず」と声明した。1940年(昭和15年)、フランスがナチス・ドイツに降伏し、ドイツ・イタリアの勢力が拡大するに及んで日独伊三国同盟を締結した。大西洋憲章を制定した米英の連合国に対して、日独伊は枢軸国と呼称されるようになった。また、ソ連との間に日ソ中立条約が締結されて、満洲国モンゴル人民共和国の尊重と相互不可侵が約束された。

占領地域を広げる日本(1937~1942年〔昭和12~17年〕)

日中戦争支那事変)開始後、陸軍は公然と倒閣運動に乗り出して、畑陸相は国防国家建設のため人心一新を求め単独辞職し、後任の陸相が決まらず1940年(昭和15年)7月16日米内内閣は総辞職した。

太平洋戦争への前夜

次期内閣は第二次近衛文麿1940年(昭和15年7月22日に成立)を中心とする新体制運動が進められて、同年10月には、大政翼賛会が結成されて、既成政党は解党して呼応した。この翼賛会は、経済新体制を創出する統制会大日本産業報国会と並んで政治面で日中戦争および太平洋戦争の遂行を支え、「高度国防国家体制」の創設を目指す大政翼賛運動の推進に当った。組織原則では、衆議は尽くすが最終的な決定は総裁が下すと言う「衆議統裁」形式が採られた。これはナチスドイツの組織原則を真似たものであると言われ、一党独裁のである、幕府の様に皇室を置物にするものであるという強い批判も出て、精神運動を中心に据えるように変わっていった。 その組織の総裁は首相を兼任して、歴代総裁には近衛文麿東條英機小磯國昭鈴木貫太郎が就任し、最初は総裁の指名によって事務総長に近衛側近の有馬頼寧(よりやす)が任命され、中央本部に総務・組織・政策・企画・議会の五局および23部が設置された。地方にもこの支部が設けられ、支部長の多くは知事・市町村長が任命され、中央・地方に協力会議が設置された。しかしその部内では主導権争いが頻発し、また1941年(昭和16年)には平沼騏一郎内務大臣により公事結社とされて政治活動は禁止されて、有馬らの近衛グループが退陣して、内務省および警察主導の行政補助機関となっていった。 1940年(昭和15年)1月アメリカ合衆国は通商条約の破棄など強硬な方策を採った。日本は、ナチスドイツイタリア王国と1940年(昭和15年)9月に日独伊三国軍事同盟を締結することで対処しようとしたが、アメリカ合衆国の反発を招くだけだった。その上、南部仏印進駐によってアメリカ合衆国から石油禁輸を招くにいたった。アメリカ合衆国・イギリス・中華民国・オランダとの関係がいっそう冷え込み、日本ではそれぞれの国の英語の頭文字をとってABCD包囲網と呼ぶ。一方日本では、陸軍を中心として対ソ連戦争を目指す北進論と南方に進出することを目標とする南進論との二派があったが、国境線が紛争となっていた張鼓峰ノモンハンで偵察的な戦闘をおこなった際、ソビエト連邦陸軍の戦車部隊に善戦したものの、結果的に惜敗した。これによって北方進出を諦め、日ソ中立条約を締結し北の守りを固めるなど対米戦争を準備する一方、外務省は1941年(昭和16年)晩秋まで日米交渉を続けた。しかし、軍の強硬姿勢に押される形で交渉は難航し、当時ナチスドイツに対し完全な劣勢であったウィンストン・チャーチルイギリス首相中華民国蒋介石らによるアメリカ合衆国の参戦の要望、及び日本海軍の動きにフランクリン・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領が激怒したことによりコーデル・ハル国務長官より中国大陸から撤退すべしとの交渉案(通称ハル・ノート)を受ける。これを全植民地からの撤退要求と解釈した日本は、事実上の最後通牒と認識し、対英米蘭開戦が決定された。こうして太平洋戦争大東亜戦争)が始まり、日本は第二次世界大戦へ参戦することとなった。アメリカ合衆国、イギリスは大西洋憲章を制定し、自陣営を連合国と称し、日本・ドイツ・イタリアの枢軸国と対抗した。

1941年(昭和16年)12月8日大日本帝国海軍ハワイ真珠湾を奇襲攻撃し、アメリカ太平洋艦隊に大損害を与えた。アメリカは「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」を唱えて日本との戦争に突入。写真は攻撃を受けて炎上するアメリカ戦艦。

太平洋戦争(大東亜戦争)

1941年(昭和16年)12月8日(現地時間12月7日)、ハワイ時間午前6時30分に航行制限区域に侵入した特殊潜航艇が撃沈される「ワード号事件」、日本のマレー侵攻の後、日本海軍は、真珠湾攻撃を行なった。しかし戦争の前途に確信があったわけではなく、開戦当初から、山本五十六連合艦隊司令長官は、1年間は戦況を維持しうるが、それ以上は無理であろうと語っていたと言われ、表面的な派手な宣伝にもかかわらず、事態の認識は最初からより悲観的であった。日本海軍は開戦当初、今でこそ一般的な航空母艦(空母)の艦載機という航空機を主力とする新しい戦法を用い、また連合国側を大きく上回る技量を備えたパイロットらを率いて、史上初めて航空機のみの攻撃によって行動中の戦艦を沈めるなど、連合国軍相手に常勝無敗であり、日本国民はこの初期の大勝利に酔いしれた。

1942年(昭和17年)、東條内閣は、初戦での勝利を利用して翼賛選挙を実施し、翼賛政治体制を確立した。また大日本産業報国会農業報国連盟商業報国会日本海運報国団大日本青少年団大日本婦人会の官製国民運動6団体を翼賛会に従属させた。さらに町内会部落会に世話役を、隣組に世話人を置いた。世話役は町内会長が兼任し、全国で約21万人、世話人は隣組長兼任で約154万人であった。町内会は生活必需物資の配給機構をも兼ねていたので、国民生活はすみずみまで統制と監視に晒されることとなった。

1943年(昭和18年)、大東亜共栄圏の結束を図るため大東亜会議を東京で開催。参加国は日本を含め7カ国。左からビルマ満州国中華民国日本タイフィリピン自由インドの各国首脳。

当時日本は石油備蓄量がたったの2年分であったことから、南方の石油天然資源の制圧に乗り出した。当時、東南アジアはまだまだ欧米諸国の植民地であったために、この戦争を独立の機会として日本軍に賛成する動きもあったが、日本側の資源搾取や現地住民をかり出した重労働、また日本軍が劣勢になるにつれて支持も離れていった。日本はアジアにおける権利の正当性を訴えるため、1943年(昭和18年)10月、東京で大東亜会議を開き、自主独立、東アジア各国の相互協力などを謳った大東亜共同宣言を発表した。これは東アジアで初めて開かれた国際的会議である。しかし実態は日本主導であり、未完成であった。

日本海軍は開戦当初は、奇襲攻撃を主作戦としたため連戦連勝であったが、ミッドウェー海戦での敗北を転機に戦線は次第に後退していく。そして、これまで劣勢だったアメリカ海軍はミッドウェー海戦を皮切りに巻き返した。これ以後は日本海軍とアメリカ海軍による一進一退の攻防が始まる事になった。ミッドウェー海戦では戦況の読み誤りから最重要の主力兵器である正規航空母艦4隻を失い開戦以来の大敗北をした。

この時から国民には偽りの戦況が伝えられ、国民は日本海軍が負けていることを知らされず、戦況を知ることができなくなっていた。このころ既に、中国戦線は敗北こそ無かったものの、中国軍によるゲリラ戦術で戦力が分断され、泥沼の膠着状態に陥っていた。また、最重要資源となっていた石油も、制海権をなくしつつあることで日本への輸送が困難となっていたことから備蓄は底をついていった。兵器・戦略物資の損失を補充するための財政力、工業生産力ともに米国の数十分の一でしかない日本の戦況は、目に見えて悪化していった。大政翼賛会は本土決戦体制への移行のため、1945年(昭和20年)に解散し、国民義勇隊に改組された。

1944年(昭和19年)7月にはサイパン島が陥落し、これにより日本本土は連日のように空襲に晒されるようになり、1945年(昭和20年)3月10日には東京大空襲が行なわれた。日本国内ではすでに燃料と材料不足で稼動停止していた工場群や道路・港湾・鉄道等の社会資本も徹底的に破壊され、生活物資すら窮乏するようになった。事ここに至り各種和平工作が企図されるが、この頃の連合国は全日本軍の無条件降伏以外は認めない方針を決定しており、日本の和平努力は実らなかった。同年7月26日連合国ポツダム宣言を発表するが、日本政府は直ちには正式回答せず(黙殺)、結果戦争継続の意思を示した。

広島・長崎に原爆投下される

この結果、1945年(昭和20年)8月には、アメリカ軍機(B29)により、6日に広島に投下され、非戦闘員を含め十数万人を殺傷した。9日には長崎に原子爆弾が投下され、さらに十数万人の死傷者が出た。これは、世界初の核兵器による爆撃であった。大本営はこの真相を国民に知らせず「新型爆弾」と発表した。

日本は、主要な国で当時唯一、中立条約により交戦国とはなっていなかったソビエト連邦の仲介での和平工作を試みたが、ソビエト連邦はヤルタ会談連合国の申し合わせに従って8月8日の夜に宣戦布告(ソ連対日参戦)し、翌9日未明から満洲や朝鮮半島北部、樺太、千島列島に進撃した。満洲では関東軍は総崩れとなり、またこの時にソ連兵による満洲での大規模な略奪行為も頻発するに至った。戦後も長らく解決を見なかった中国残留孤児問題は、この時に生じた。

ソ連参戦により講和の望みが絶たれ万策尽きた政府は、8月9日の最高戦争指導会議では、ポツダム宣言が要求している無条件降伏は問題を問題とせず、天皇の地位の保障を条件とする外相案とその他に自主的な武装解除、日本による戦争犯罪人の処罰、占領制限などの条件を付けよとする軍部案とが対立した。9日深夜に開かれた御前会議でも両案が対立したが、天皇の裁断によって天皇の地位の保障だけを条件に付けることが決定された(昭和天皇自身が天皇としての地位保障を求めたわけではない)。8月10日「天皇の国家統治の大権に変更を加うる要求を包含し居らざることの了解の下に」ポツダム宣言を受託するという申し入れをラジオと中立国を介して行われた。[16]

8月14日昭和天皇臨席の御前会議で、ポツダム宣言を受諾するとの結論に達した。この決定は8月15日正午に、昭和天皇自らの日本放送協会のラジオ放送(いわゆる玉音放送)により内地・外地の国民に伝えられた。

こうして日本だけでも300万人、関係諸国を入れると2000万人から3000万人(実数不明)の死者を出したと言われる未曾有の大戦争は終わりを告げた。なお、8月15日以降も、千島列島の占守島南樺太では、ポツダム宣言受諾後に侵攻してきたソ連軍と日本軍守備隊との熾烈な戦闘が行われた。樺太での地上戦が終了したのは、8月23日のことだった。9月2日には、ポツダム宣言に調印し、日本は主権を制限され、連合軍(GHQ)の占領下となった。またソ連軍の侵攻が終了したのは9月5日である(同日までに北方領土全てが占領される)。

日本国憲法下

概観

太平洋戦争大東亜戦争)後、1952年(昭和27年)まで連合国軍の軍事占領下に置かれたが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)の軍政は布かれず、直接的な統治は沖縄奄美群島トカラ列島の下7島・歯舞群島千島列島樺太小笠原諸島を除き日本国政府が行なう間接統治が行なわれた。連合国軍最高司令官総司令部は、出版停止やプレスコードと称される言論統制検閲などを通じて軍国主義反米・反連合国とGHQにみなされたものは報道できなかった。沖縄・小笠原諸島はアメリカの軍政が布かれた。

戦後、日本人は占領地だった諸地域や外地からの引き揚げを強いられた。ソ連軍占領地域となった内地(樺太および千島列島)の日本人のほとんども日本政府統治地域に引き揚げ、一部はシベリア抑留され強制労働に従事した。外地からの日本人の引き揚げは困難を極め、通化事件のような日本人虐殺事件が起きるような混乱の中、中国残留日本人問題を後に残した。また、インドネシア独立戦争ベトナム独立戦争国共内戦などに多くの日本人が加わった。旧満州国や台湾、朝鮮半島などでは日本人技術者が数年間インフラの管理を行い、その後現地の人々に管理が引き継がれた。

1946年(昭和21年)に公布された日本国憲法大日本帝国憲法の改正という形で成立したが、その成立過程にはGHQが深く関与した。その内容は、主権は国民に存するとした「国民主権(主権在民)」、法の下の平等及び自由権社会権参政権国務請求権などの権利を保障する「基本的人権の尊重」、戦争を放棄し、国際紛争を武力や武力による威嚇によって解決しない「平和主義」を三大原理とした。このため現在日本では徴兵制度は憲法違反として実施されない。また、天皇は日本国および日本国民統合の象徴とされ、天皇の国政への関与は禁じられた(象徴天皇制)。しかし、昭和天皇は1947年(昭和22年)9月22日にはGHQに対して「沖縄メッセージ」で沖縄の長期軍事占領を要望し[17]1975年(昭和50年)10月31日には「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、広島市民に対しては気の毒であるが止むを得ない事と私は思ってます」と発言した。

さらに、GHQの主導により農地改革財閥解体、結党の自由や日本共産党などの政治犯の釈放や公職追放レッドパージなどの政治介入、神道指令内務省の解体、労働組合結成の促進、婦人の解放婦人参政権の寄与、華族家制度貴族院の廃止など封建制度の撤廃、シャウプ勧告による税制改革、新しい教育制度6・3・3・4制を導入するアメリカ教育使節団報告書に基づいた学制改革教育基本法制定などの戦後改革が実施された。1952年(昭和27年)4月28日に日本国は主権を回復。GHQの進駐が終わった。

太平洋戦争によって著しく落ち込んだ経済は、朝鮮戦争ベトナム戦争をきっかけとして回復し、さらに1960年(昭和35年)から1970年代初頭(昭和40年代後半)まで高度経済成長を遂げ、アメリカ合衆国に次ぐ経済力と技術力を備えるようになった。その要因としては、農地改革や労組の拡大によってかつては貧しく、弱い立場に置かれていた労働者農民が大消費者層として解放され、国内市場が戦前に比べて飛躍的に拡大したことや、産業の高い技術開発力が大きく作用し、家電自動車などは国際的にもトップを争う位置にまで達したことが挙げられる。人々が豊かになるにつれ、生活と文化の洋風化・アメリカ化が進んだ。後にはそうした基盤の上に日本独自の文化が見直されるようにもなった。二度にわたるオイルショックを境に高度経済成長時代は終わり、安定成長時代を経てバブル景気へと突入した。

また、日本国憲法で軍隊を持たないことを定めたが、1951年(昭和26年)に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)と同時に日米安全保障条約を締結し、アメリカ合衆国軍の駐留をそのまま継続するとともに、翌1952年(昭和27年)には保安隊(後の自衛隊)も発足し、事実上の再軍備を行なった。冷戦期には米国と同盟してソ連に対抗した。冷戦後には国際連合に協力して海外でPKO部隊を展開するようになった。

GHQによる占領

終戦後、日本はそれまで統治権を持っていた、台湾朝鮮南洋群島、日本本土(内地)の一部であった南樺太千島列島及び色丹島歯舞群島小笠原諸島南西諸島の北緯30度以南を失った。このうち、南西諸島と小笠原諸島は後にアメリカ合衆国から返還された。千島列島については、樺太・千島交換条約によって領有権を確定しているため全千島が日本に属するとの見解もあるが、日本政府は、現時点では、千島列島のうち、南千島の国後島択捉島の2島についてのみ日本固有の領土であると主張し、歯舞群島及び色丹島の2島は北海道に属すると説明している。

米大使館に連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥を訪問した昭和天皇

1945年(昭和20年)から1952年(昭和27年)までの7年間にわたって、日本史上初めて他国(GHQ)に占領され、最高司令官としてダグラス・マッカーサー元帥が着任した。マッカーサーは政治的には共和党右派で、本来反共主義的な傾向があったが、戦後直後の民主化は戦争直後の内閣として組閣された東久邇宮稔彦王内閣の予想を超える急進的な内容を持っていた。東久邇宮稔彦王内閣は戦時中の政治の継続を行なっただけで、民主化の進展に対応できず、総辞職した。米国の占領下で、幣原内閣、次いで吉田茂内閣を通じ、農地改革財閥解体労働改革の三大経済改革と呼ばれる民主化措置が実施された。また婦人参政権が認められる一方で、治安維持法が撤廃されるとともに二次にわたる公職追放によって、社会の指導者層の20万人が軍国主義者として公職からの追放および被選挙権の停止なされた。吉田茂と首相の座を争う位置にいた鳩山一郎の場合、戦前の京大滝川事件時の文相であったことから、政治的活動が制約された。また、占領軍によって検閲が徹底され、連合国や朝鮮人について批判する報道は禁止された。また1946年(昭和21年)には、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷され、戦争犯罪人とされた人は、戦争を計画し遂行した平和への罪(A級)、捕虜虐待など通例の戦争犯罪(B級)、虐殺など人道に対する罪(C級)としてそれぞれ処断された(A級B級C級とは罪の大小を表すものではなく、それぞれの罪を分類するものである)。

連合国の日本占領政策は、ソ連が自国領に編入した南樺太・千島列島を除き事実上のアメリカ合衆国の単独で行われたが、直接統治方式による軍政(アメリカの高等弁務官による統治)は沖縄に施行されただけで、日本本土は間接統治方式によって日本政府を通じて占領政策が実施された。占領をめぐって、連合国内部にも意見の相違が表れ始め、ソ連スターリンは、北海道の北半分のソ連占領を提案したが、アメリカのトルーマンが拒否した。一方、トルーマンは「共産主義」封じ込めの必要を強調する「トルーマン・ドクトリン」を発表してギリシャでの内戦に介入し、チャーチルが「鉄のカーテン」演説で予測した東西「冷戦」が本格化した。

日本では、同じ敗戦国でも東西に分割されたドイツオーストリアウィーン、ソ連の単独占領となったルーマニアブルガリアハンガリーチェコスロバキアなどとは異なった占領形態が採られた。1951年(昭和26年)、マッカーサーは朝鮮戦争で原爆を使用せよなどの強硬な主張を行なったことなどからトルーマンと対立して解任され、後任にマシュー・リッジウェイ中将が着任した。日本では、表面的にはソ連占領地域(南樺太、千島列島)及びアメリカ占領地域(琉球列島、小笠原諸島)を除く日本政府統治地域(北海道、本州、四国、九州、伊豆諸島及びそれらの付属島嶼)では、日本にも主権があったが、全ての法令、文書は連合軍の厳しい事前検査と許可が必要であった。1946年(昭和21年)に日本国憲法が公布され、1951年(昭和26年)の日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)で連合国との講和が完了して後に日本は主権を回復した。しかし米軍はほぼそのまま残留し、全土基地方式と呼ばれる方法によって日本各地に米軍基地が残された。

日本国憲法第9条は、国権の発動である戦争と武力による威嚇または武力の行使は「国際紛争を解決する手段としては」放棄する平和主義を定めている。そのため、日米安全保障条約自衛隊の設置が、同条に違反しないかについては、戦後古くから議論があり、また国の自衛権についても議論がある。

大戦によって国内経済は壊滅し、国民生活は混迷の極みにあったが、中華人民共和国建国されて中国革命が進展した事と朝鮮戦争の勃発により事態は一変した。朝鮮戦争には、占領軍の要請のもとで官民8000名以上を国連軍の作戦に参加させ、多くの犠牲者を出した[18]。アメリカは当初、日本の完全武装解除により、非軍事化を遂行し、極東のスイスを建設すると言明していた。しかし政治反動の傾向は1947年(昭和22年)には早くも現れ始めていた。その上、1949年(昭和24年)に中国大陸で蒋介石に代わって毛沢東政権が成立すると、対日戦略を完全に転換し、日本の再武装を進め、東アジアの最重要軍事戦略拠点として位置づけ、「逆コース」とも呼ばれる政策の転換が次々と生じた。戦後の変化の特徴を示すのは労働運動の盛り上がりで、国鉄読売新聞等では労働組合による自主管理も行なわれた。1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙日本社会党が第1党となり、日本初の無産政党出身の片山哲総理大臣となった。昭和天皇は社会主義による急進的な変革は望まなかったが、片山哲の人柄に好感があり、労働問題で日本社会党が支持を得た民意に一定の理解を持っていた。民主党日本社会党国民協同党の連立政権である片山内閣芦田内閣によって国家公務員法の制定・内務省の解体・「自治体警察」を創設する警察制度の改革・労働省の設置・失業保険の創設・封建的家族制度を廃止を目標とした改正民法の制定・刑法改正・臨時石炭鉱業管理法(通称「炭坑国家管理法」)の制定などの社会主義政策が行われた。日本社会党は日本国憲法成立の際に、条文に社会権日本国憲法第25条を追加して、生活保護法を成立させて、1950年(昭和25年)に生活保護制度の運用を開始した。東宝争議では、社長が2つの赤(赤字と赤旗)の追放を目標とした人員整理を実施したところ、三船敏郎池部良久我美子らの映画スターを含む社員が街頭に出て、反対運動を行なった。しかしこの頃、国鉄の下山事件三鷹事件松川事件などの怪事件が次々と起こり、それらが労働運動によって起こされたと宣伝された。同時にレッドパージが行なわれ、小中高および大学の共産主義教員が追放されるに至った。それは、アメリカで吹き荒んだマッカーシー旋風赤狩り)に似ていた。

1952年(昭和27年)1月18日に韓国が竹島の領有を主張する李承晩ラインを宣言すると、数千人に上る漁民が抑留され[19]、翌年には竹島を軍事占領された。

文化面においては、日本映画が全盛時代を迎え、東映大映松竹東宝日活のメジャー5社が毎週競って新作を2本平均で上映する映画館は最大の娯楽施設となった。またラジオ放送も広範に普及し、歌謡曲やバラエティ、相撲野球の実況放送が好んで聞かれた。同時にアメリカをはじめとする外国映画やジャズポピュラーも急速に流入した。一方、国語のローマ字化は断念され、1946年(昭和21年)には現代かなづかい当用漢字の制定が行われた。同年に公布された日本国憲法をはじめとして、法令や公文書も現代かなづかいによって表記されることとされた。

講和後・高度経済成長期

高度経済成長の象徴のひとつ・東京タワー1958年(昭和33年)竣工

自由主義陣営諸国の旗頭である米国にとって最前線の重要拠点となった日本は、農地改革や労働改革によって戦前に比べて国内市場が広がったこと、有刺鉄線やドラム缶などの補給物資の生産や輸送による特需、そして膨大な駐留米軍の生活消費など需要の増大も少なからず影響したが、奇跡的な速度で経済が復興し、さらに昭和30年代(1955年1964年)に続く驚異的な高度経済成長を遂げるに至る。戦後の混乱期と戦後復興期には敗戦直後のインフレーション と経済も民主化などの戦後改革が行われた。 傾斜生産方式 を採用して、 ドッジ・ライン(安定恐慌)が起きる。朝鮮戦争勃発で朝鮮特需が起きる。1954年(昭和29年)から高度経済成長が開始されて、ガチャマン景気による繊維産業の好景気があり、昭和30年代の神武景気(三種の神器) ⇒なべ底不況 岩戸景気所得倍増計画オリンピック景気証券不況いざなぎ景気日本万国博覧会(大阪万博) ⇒ニクソン・ショック日本列島改造論があったのが1954年(昭和29年)から1972年(昭和47年)までの高度経済成長期である。戦後期の昭和20年代(1945年1954年)には、①白黒テレビ洗濯機冷蔵庫(他に炊飯器掃除機)の三種の神器が一般家庭の主婦たちの憧れの的となった。高度経済成長期には新三種の神器と呼ばれた①カラーテレビクーラー自動車3Cが憧れのヒット商品となった。昭和元禄[20]と呼ばれ、週刊誌や月刊誌の創刊が目立った。手塚治虫石ノ森章太郎藤子不二雄長谷川町子水木しげる赤塚不二夫など人気漫画家が書いたアニメなどの作品(子供向けの漫画)や黒澤明円谷英二映画監督となった邦画などの昭和文化大衆文化が生まれた。流行歌が普及して美空ひばり藤山一郎などの歌手や石原裕次郎渥美清などの俳優がスターとなり戦後の芸能界で活躍をした。漫画映画などの戦後文化と並んでテレビ放送も普及して、昭和40年代(1965年1974年)はV9時代であり、大相撲力道山などの格闘技人気があった。その事から、当時子供たちから人気があった「巨人大鵬卵焼き」などの流行語が誕生した。東海道新幹線開業(1964年〔昭和39年〕)名神高速道路開通(1963年〔昭和38年〕)東京オリンピックの開催(1964年〔昭和39年〕)日本万国博覧会1970年〔昭和45年〕の大阪万博)の成功によって最高潮を迎えたが、中東戦争がもたらしたオイルショックによって成長が終わる。

この奇跡の復興は、米国の戦略上の必要から国内治安と国土防衛のために微小な規模で警察予備隊(後に自衛隊)を保持したとはいえ、憲法では戦力の保持を禁じていたことにより、当時の自由主義諸国の国防費の対GDP比でいえば、完全に国防費負担から解放されているというに等しい財政上の僥倖が大きく寄与している。このことはドイツ、イタリアはもちろん、大戦後独立した多くのアジア諸国が、通常の国防費を支出しながらの日本と同じような速度での経済成長を望み得なかったことでも明らかである。その反面、日米安保条約日米地位協定によって米軍基地が日本各地に残されており、駐留国負担(後の思いやり予算)の出費も大きく、米軍犯罪時の裁判や事故などをめぐってトラブルも絶えず生じた。特に沖縄県ではこうした問題がしばしば起こった。また、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則が国是とされた一方で、日本政府とアメリカ政府との間で、有事における日本国内への核持ち込みを黙認する密約が結ばれたことも、明らかにされつつある。

若い人の農家離れによって、農民農家から会社員になるようになり、「母ちゃん、爺ちゃん、婆ちゃん」のいわゆる「三ちゃん農業」が急増して、機械化が進んで専業農家より兼業農家の方が多くなった。学校給食がパン食になって育った戦後世代の日本人主食からパンとなり、米余りになると減反政策を行い、転作によって小麦輸入が増加し、その結果日本の食料自給率が低下した。戦後期は捕鯨が盛んで鯨肉が主流の肉食であったが、反捕鯨国の多数が加入をしていたIWC(国際捕鯨委員会)で商業捕鯨が禁止された事によって牛肉豚肉鶏肉が主流の肉食となった。

戦後の住宅事情は、戦災による住宅焼失と復員引揚げによる人口増加で住宅が不足する住宅難となっていた。1950年(昭和25年)には、持ち家を建設する事を支援するために住宅金融公庫が創設された。1951年(昭和26年)には田中角栄を中心とする議員立法地方自治体が住宅を建設する公営住宅法が成立した。1955年(昭和30年)には、鳩山一郎内閣によって日本住宅公団が創設された。昭和30年代の高度経済成長期には、昭和一桁世代の夫婦2人と新人類世代子供2人の合計4人を平均家族モデルとするようになり、核家族で洋風生活をする団地族が出現した。女性史では、優生保護法の成立による人工妊娠中絶合法化女性参政権の獲得と女性解放運動の活発化、公娼制度・赤線姦通罪男尊女卑だった家制度の廃止、産婆から産婦人科での出産の増加などの女性政策が実施されて、ファッション面ではパンティーブラジャーなどの下着類の普及、ナプキンタンポンなどの生理用品の普及、ミニスカートズボンなどの服装や水着の着用の普及、髪型としてショートカットが社会的に認知されて、化粧品美容院美容整形などの美人ビジネスの普及、生活面ではスーパーマーケットの普及と専業主婦OLの増加などの変化があった。

急速な経済成長に合わせて人口はさらに増加した。戦後すぐの第1次ベビーブームを経て、昭和40年代には人口がついに1億人を超えた。ベビーブームで生まれた世代は団塊の世代と呼ばれ、戦争を知らず、その膨大な世代人口のなかで勝ち残るための競争に身をささげることになり、自己主張はどの世代よりも激しくなった。地方出身者は口減らしのために都市部へ集団で送り込まれ(集団就職)、かれらは「金の卵」と呼ばれ、集団就職列車も運行された。都市部の中小企業に就職したかれらの豊富な労働力が日本経済を支えた。

一方、都市出身者や金銭的に余裕のある者は高校と大学へ進学して、高等教育の大衆化が進んだ。この時期に起こったのは、「60年安保」1960年(昭和35年)安保闘争と、「70年安保」1970年(昭和45年)安保闘争をピークとする左翼運動の高潮であり、それは欧米のベトナム戦争反対闘争や五月革命などと期を一にしていた。こうした時代の雰囲気の中で、全共闘世代と言われる若者たちの一部は、「既成左翼」(日本共産党及び日本社会党)の平和革命路線に反発した新左翼運動に身を投じ、機動隊や日本共産党系、右翼系の若者と暴力的な衝突を繰り返し、その激しい自己主張をぶつけ合った。新左翼運動は、団塊の世代などの戦後生まれの若者が行った東大紛争日大紛争など全学共闘会議による日本の学生運動の挫折を経て、運動は孤立化して、日本赤軍連合赤軍などの左翼は過激化して、「内ゲバ」や一般市民を巻き込む日本赤軍事件あさま山荘事件などのテロ活動へと追い込まれていった。かれらの起こした数々の事件は、それまで比較的同情的な面もあった世論の反発を引き起こした。若者たちの多くも東大紛争が失敗に終わると過激化した学生運動から距離を置くようになり、都市部の市民の多くは支持政党を持たない無党派層となった。これはその後続く自由民主党の単独長期政権の存在を許す結果となる。

昭和30年代(1955年1964年)には高度経済成長の弊害として、四大公害病四日市ぜんそく水俣病イタイイタイ病新潟水俣病が発生した。モータリゼーションにより子供や老人が犠牲となる交通事故も激増して、交通戦争と言われるようになった。こうした中、野党日本社会党日本共産党創価学会を支持基盤とする公明党は公害対策や福祉政策に取り組み、主婦層や商工業者、サラリーマンなどの都市住民に支持を広げた。大企業優先の成長路線だった保守勢力の自由民主党も、佐藤栄作首相の強力なイニシアチブの下、1971年(昭和46年)に環境庁を新設した。

1972年(昭和47年)5月15日、沖縄県が日本に復帰した。県民の祖国復帰運動が実った結果だが、沖縄の米軍基地がそのまま在日米軍基地として残されたことは後に禍根を残した。

1973年(昭和48年)の第一次オイルショック(石油危機)に伴い、狂乱物価抑制のための総需要抑制策が執行されて、高度経済成長は終焉することとなった。田中角栄内閣石油天然ガスなど海外からの資源に依存する火力発電から脱却して原子力発電を推進するために、電源開発促進税法特別会計に関する法律発電用施設周辺地域整備法電源三法を成立させた。

安定成長期

高度経済成長により日本は、世界有数の人口密度に由来する過剰人口問題を解決して、国民の生活は有史以来初めてといえる豊かさになった。2度のオイルショック後の急激なインフレ(狂乱物価)と不況は短期間で終わり、素材産業など一部の重厚長大産業は没落したが、省エネルギー化を推進して、ハイテク産業サービス業が成長して、安定成長へと順調に移行することができた。欧米諸国がスタグフレーションに苦しむなか、自動車や電化製品の生産を激増させ、集中豪雨的な海外輸出の拡大によって貿易黒字は増大の一途をたどった。ついには日本の経済は昭和50年代の1980年(昭和55年)には、戦後わずか30数年にしてGNPレベルではアメリカ合衆国の経済に次ぐ規模を持うようになり、国民の生活レベルは一億総中流と呼ばれた。この間、日米経済摩擦が問題となり、日本の人口の増加は続いていたが、1975年(昭和50年)には出生率が2人を下回り、少子高齢化社会へと移行していく。

都市部の人口流入と農村部の人口減少が続き、農村部における過疎と都市部における過密が社会問題となった。昭和40年代(1965年1974年)には、大都市部を中心に革新勢力が台頭して、社会党と共産党の革新統一の為の協定が結ばれ、東京都美濃部亮吉をはじめとして、京都府大阪府神奈川県などの主要地方自治体で続々革新自治体が生まれた。中でも京都府では、蜷川虎三が7期28年にわたり知事を務めた。こうした中、保守勢力(自由民主党)は三大都市圏太平洋ベルト工業地域で深刻化した過密と農村部で深刻化した過疎の人口問題や地域格差の解決と、革新勢力への対抗のため、都市部のインフラ整備を急ぐとともに、農村部にも道路や圃場整備などの公共事業投資を増加させ、農村部の保守層からの支持を取り付ける利益誘導政策を行った。社会保障面でも、1973年(昭和48年)には老人医療自己負担無料化が実現して、本格的な福祉国家実現への機運が高まった。こうしてGDPの約1割を占めるほどに膨れ上がった公共事業投資と高齢化に伴い増加した社会保障投資は、財政悪化の主な要因となった。1972年(昭和47年)には、日本列島改造論を唱えた田中角栄内閣が成立した。ロッキード事件を経て、三角大福中自由民主党の派閥争いや金権政治の時代となった。保革伯仲国会で中道政党革新政党野党が勢力を伸ばす中、影の実力者の田中角栄が『闇将軍』として君臨した。

1976年(昭和51年)以降は新自由クラブ社会民主連合などの新党が結成されて多党化が進み、1980年(昭和55年)のハプニング解散による衆参同日選挙で自由民主党が大勝して保守政権が安定した昭和50年代に社共共闘が消滅したこともあり、保守勢力の巻き返しが顕著となる。昭和50年代になり(政治的)思想面では靖国神社問題歴史教科書問題保守層と左翼の対立が激化して、1979年(昭和54年)6月6日に国会で元号法が成立して、1979年(昭和54年)6月12日公布されて、即日施行された。文化面では芸能界のニュースが注目されて、山口百恵松田聖子などの芸能人が国民の間で話題となり、バブル期にはおにゃん子クラブなどのアイドルブームがあった。教育面では、受験競争偏差値教育・学歴社会いじめによる自殺・少年犯罪・非行などの教育問題がマスコミから非難されて、詰め込み教育から個性重視教育への転換と平成時代に実施されるゆとり教育が唱えられて、子どもたちの娯楽となったファミコンなどのゲームが誕生した。鈴木内閣中曽根内閣による臨調行革路線を皮切りに、老人医療無料化制度を廃止する。日本専売公社から → JT に移行する。日本国有鉄道から → 日本国有鉄道清算事業団JRグループに移行する。 日本電信電話公社から → NTTグループに移行する三公社民営化消費税導入が行われて、福祉国家路線は見直されて新自由主義路線へと舵が切られた。西側諸国のサッチャリズムレーガノミックス、東側諸国のペレストロイカ改革開放、そしてアジアNIEs諸国の躍進などの世界経済の大転換期のなかで、日本の経済はプラザ合意を発端とする円高の進行で日本銀行による円高不況対策が行われて内需拡大が続くバブル景気に突入した。1986年(昭和61年)に男女雇用機会均等法が執行されて、昭和60年代(1985年1989年)に女性の社会進出が進んだ。学生は就職売り手市場でありバブル世代と呼ばれた。好景気の中、昭和の時代は平成へと移り変わり、冷戦の終結を迎える。

戦後体制

戦後日本は、国際的には、終始米国を筆頭とする西側諸国(自由主義陣営)に属して、日米安全保障条約に基づく同盟国として、ソビエト社会主義共和国連邦を筆頭とする東側諸国(社会主義陣営)に対抗して、冷戦期を乗り切ることができた。政治体制外交関係経済構造家族制度太平洋戦争が終結した1945年(昭和20年)を境に大きく変化をして、歴史学的には戦前近代に、戦後現代に属するとされる。戦前の国家体制大日本帝国憲法下であり天皇主権体制の時代だった。戦後は日本国憲法冷戦下にあって、国民主権体制と日米安保条約体制の時代となった。1956年(昭和31年)に経済企画庁の『経済白書』が「もはや戦後ではない」と述べて、流行語となった。ただし、文化的・経済的には戦前と戦後の連続性も少なからずあり、むしろ戦時体制の時期(十五年戦争が開始された1930年代1938年(昭和13年)の国家総動員法制定及び1940年(昭和15年)の大政翼賛会大日本産業報国会が結成された時期から ~大東亜戦争が終結した1945年(昭和20年)まで)の時期と高度経済成長を達成した時代の(神武景気が始まった1954年(昭和29年)から~オイルショックがあった1973年(昭和48年)頃まで)の時期による変化も大きい。高度経済成長に伴い多くの伝統的な日本文化が変容を余儀なくされた。昭和後期にはハイカルチャー教養主義的権威も緩やかに解体に向かい、商業的な昭和文化大衆文化が隆盛を極める。

略年表

昭和初期から敗戦まで

昭和中期の年表

昭和後期の年表

西暦との対照表

昭和 元年 2年 3年 4年 5年 6年 7年 8年 9年 10年
西暦 1926年 1927年 1928年 1929年 1930年 1931年 1932年 1933年 1934年 1935年
干支 丙寅 丁卯 戊辰 己巳 庚午 辛未 壬申 癸酉 甲戌 乙亥
昭和 11年 12年 13年 14年 15年 16年 17年 18年 19年 20年
西暦 1936年 1937年 1938年 1939年 1940年 1941年 1942年 1943年 1944年 1945年
干支 丙子 丁丑 戊寅 己卯 庚辰 辛巳 壬午 癸未 甲申 乙酉
昭和 21年 22年 23年 24年 25年 26年 27年 28年 29年 30年
西暦 1946年 1947年 1948年 1949年 1950年 1951年 1952年 1953年 1954年 1955年
干支 丙戌 丁亥 戊子 己丑 庚寅 辛卯 壬辰 癸巳 甲午 乙未
昭和 31年 32年 33年 34年 35年 36年 37年 38年 39年 40年
西暦 1956年 1957年 1958年 1959年 1960年 1961年 1962年 1963年 1964年 1965年
干支 丙申 丁酉 戊戌 己亥 庚子 辛丑 壬寅 癸卯 甲辰 乙巳
昭和 41年 42年 43年 44年 45年 46年 47年 48年 49年 50年
西暦 1966年 1967年 1968年 1969年 1970年 1971年 1972年 1973年 1974年 1975年
干支 丙午 丁未 戊申 己酉 庚戌 辛亥 壬子 癸丑 甲寅 乙卯
昭和 51年 52年 53年 54年 55年 56年 57年 58年 59年 60年
西暦 1976年 1977年 1978年 1979年 1980年 1981年 1982年 1983年 1984年 1985年
干支 丙辰 丁巳 戊午 己未 庚申 辛酉 壬戌 癸亥 甲子 乙丑
昭和 61年 62年 63年 64年
西暦 1986年 1987年 1988年 1989年
干支 丙寅 丁卯 戊辰 己巳

その他

  • 大正天皇が崩御した際に、東京日日新聞(現:毎日新聞)が『新元号は光文』をスクープしたが、新元号は『昭和』と発表され(結果として)大誤報となってしまった。一説には「光文」がスクープされたために急遽「昭和」に差し替えられたとも言われている(光文事件)。しかし「光文」は内閣の新元号案に提示されているのみであり、実際に新元号作成中心になっていた宮内省の最終第3案まで残っていたのは「昭和」「神化」「元化」の3案とされる。枢密院議長、倉富勇三郎の日記によれば、その後の調整で1926年(大正15年)12月8日時点で「昭和」を最終候補とし「元化」「同和」を参考とする最終案が決定していた事が明らかになっている。「光文」は内閣案の一つが選定作業中に漏れたに過ぎず、記者が検証できないまま飛びついたというのが実情とされる(『昭和大礼記録』、石渡隆之『北の丸』第7号(1976年〔昭和51年〕9月)「公的記録上の「昭和」」、『倉富勇三郎日記』「倉富勇三郎関係文書」[23] )。
  • 昭和の「」は今でこそポピュラーな漢字だが、当時はまれに人名で使われたりする以外は[24]、学者や一部の貴族以外は馴染みのない漢字であったという(元来は「照」の原字で、意味も「照」と同じ)。そのため、「昭和」が最終案に選考された際には当時の一木喜徳郎宮内大臣から「章和」とする変更意見が出された程である。しかし「章和」は過去高昌で使用されていた元号であり、結局原案のまま「昭和」に確定した経緯がある。
  • 干支を見て分かるように、史上還暦を迎えた元号は日本の昭和と康熙だけである(昭和は丙寅で「還暦」している)。
  • 1926年(大正15年)12月25日に出生した新生児は、その当日が大正天皇崩御のため役所が休みとなったこともあって、出生届の提出が遅れ、戸籍上の誕生日が異なる(大部分が翌年(1927年)の昭和2年生)ケースが多発した。植木等関根潤三らがこうしたケースに当たる。
  • 日本では、嘗て使用した元号は二度と使用しないという慣例がある。昭和も例外ではないが、鎌倉時代に字は違うものの、「しょうわ」という同音の元号「正和」を使用した例がある。

現代(平成期)における「昭和」

国民の祝日に関する法律が一部改正され、2007年(平成19年)から毎年4月29日は、昭和の日に変更された[25]。祝日法には「昭和の日-激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」と定められている。

昭和ノスタルジー」という風潮が存在し、戦前期(昭和一桁・10年代)のアール・デコ建築や、高度経済成長期(昭和30年代・40年代)の古い町並みを活かして観光地化を進めている町もある。だがその一方で、ただの懐古主義に浸っているだけという批判もある。

昭和生まれの総人口は1984年(昭和59年)に1億人を突破して、その後も1億人以上を維持していたが、昭和生まれの高齢化によって死亡が増加した事で、2007年(平成19年)に「昭和生まれが1億人割れ」をして、全人口比では78.2%(9997万人)となり、平成生まれが、全人口比で16.3%(2081万人)となり、平成生まれが2000万人を突破した。昭和生まれは、昭和一桁世代・焼け跡世代全共闘世代団塊の世代しらけ世代新人類世代・バブル世代団塊ジュニア世代・ポスト団塊ジュニア世代・コギャル世代・松坂世代酒鬼薔薇世代(サカキバラ世代)・ミニマムライフ世代・ゆとり世代など複数の世代で構成されている。(大正生まれは大正世代平成生まれはゆとり世代のみである)。平成時代の流行語として、昭和専と呼ばれる昭和時代生まれの(主に団塊ジュニアから昭和60年代生まれ)の年上の男性を好んでいる平成生まれの若い女性を指す言葉が誕生した。

昭和を冠するもの

企業・団体

教育・学校

地名

他にも昭和町という地名は日本全国の至るところに存在している。

交通

公園

脚注

  1. ^ 昭和天皇は父・大正天皇の病を受け1921年(大正10年)11月25日に「摂政宮」に就いている。
  2. ^ ただし、元号は一般に、元年の中途から始まり、最終年も同じく中途で終わるので、実際の期間は年数より短く、特に昭和元年は年末の7日間のみである。
  3. ^ 「昭和改元の詔」の日付は大正15年12月25日であり、同じ日に公布された大喪使官制(昭和元年勅令第1号)の日付は昭和元年12月25日となっている。
  4. ^ 遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 32ページ
  5. ^ 第1回は1927年(昭和2年)5月28日「居留民保護」の名目で出兵。第一次大戦以来山東省には日本の各種の権益が多く、多くの日本人も居留していた。徐州に迫っていた国民政府軍(国民革命軍)の阻止が主目的で在った。第2回は1928年(昭和3年)4月19日に一次出兵と同じ目的で一個師団を投入した。しかし、中国統一や民族運動に譲歩していた英米とは違って、日本は中国の民族運動を抑えるためであった。5月3日には居留民殺傷という理由で済南城を攻撃し占領した。第3回は9日後の1928年(昭和3年)5月9日にさらに一個師団を増派し、合わせて15,000の大群で華北を抑えた。(遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 39と44-45ページ)
  6. ^ 遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 78-79ページ
  7. ^ 反対は日本のみ、ほかにシャム(タイ)のみが棄権
  8. ^ 飛行機、戦車、火砲などの近代装備の大幅な充実
  9. ^ 武蔵、大和などの世界最大の戦艦や航空母艦の建艦
  10. ^ 遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 135-137ページ
  11. ^ 遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 136ページ
  12. ^ 遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 169ページ
  13. ^ 遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 171ページ
  14. ^ 遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 172ページ
  15. ^ 遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 172-174ページ
  16. ^ 遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 239ページ
  17. ^ 沖縄県公文書館「天皇メッセージ」
  18. ^ 朝鮮戦争と日本の関わり―忘れ去られた海上輸送― 防衛研究所 防衛研究所戦史部石丸安蔵
  19. ^ 竹島領有権問題について 自民党領土に関する特別委員会委員長石破茂 2006年(平成18年)5月16日
  20. ^ “あのとき!1967年 非核の誓い、国会答弁”. 朝日新聞 (朝日新聞社). (2009年3月7日). http://www.asahi.com/information/db/anotoki/2009_0307.html 2011年4月3日閲覧。 
  21. ^ 今日の歴史(1月7日) 聯合ニュース
  22. ^ 朝鮮戦争に出動した日本特別掃海隊 海上自衛隊
  23. ^ コラム 6 元号伝説 - ポスト「大正」は「光文」か?、史料にみる日本の近代、国立国会図書館
  24. ^ 室町幕府第15代将軍足利義昭が一例で、その偏諱を貰って名前に「昭」の字を用いた大名も各地に存在した。他には徳川斉昭盛田昭夫も。
  25. ^ 元々は昭和天皇の誕生日。戦前・戦中は「天長節」、戦後は「天皇誕生日」という名称であったが、昭和天皇崩御を受け「みどりの日」と改められていた。

参考文献

  • 遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年

関連項目

外部リンク