日経

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日経 妙祐久遠寺蔵

日経(にっきょう、永禄3年2月28日1560年3月24日) - 元和6年11月22日1620年12月15日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の法華宗顕本法華宗)の僧。号は常楽院。

経歴

1560年3月24日(永禄3年2月28日)、上総国二宮領南谷木一松(現在の千葉県茂原市)で生まれる。長久寺檀林で法を学んだという。強引な折伏で他宗を改宗して名を轟かしていた。1597年(慶長2年)、日経は方墳寺を建立した。1599年(慶長4年)、妙満寺27世を継いだ。大坂城で行われた対論(大阪対論)によって対馬に流された妙覚寺日奥の赦免運動に努めた。1608年(慶長12年)、尾張国熱田で行った浄土宗正覚寺沢道との宗論は、増上寺を経て徳川家康に上訴され、1608年(慶長13年)に増上寺・廓山らと江戸城で宗論(慶長宗論)が行われることとなった。その結果、不受不施義を説いてきた[1]日経は敗れ[2][3]、1609年(慶長14年)耳と鼻を削がれ酷刑となった。1613年(慶長18年)、加賀国金沢へ赴き、1615年(元和元年)に越中国婦負郡外輪野村(現在の富山市婦中町外輪野)に庵室を設けて布教を続け、同地で没した。大正年間に同所で墓所が整備された。

脚注

  1. ^ 世界百科事典内の日経の言及 「妙満寺」より
  2. ^ 当代記の記述ではこの問答時に日経は発病と称して、問答には答えなかったと記している。
  3. ^ 慶長年録では前日に何者かに棒で殴打され、知覚を失った状態であるのに乗じて対問がなされたとある。