日本人

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日本人(にほんじん、にっぽんじん)とは、一般に日本国国籍を持つ者、もしくは日本国内に古来より居住してきた、日本列島にルーツ(起源祖先由来等)を持つ人々の総称である。

日本人の多数を占める大和民族の例。
日本の北方民族の一つであるアイヌ。古代蝦夷の末裔で古代日本の風俗を残す。※ただし、近世のアイヌ文化や風俗はモンゴルヤクートニヴフなどとの交流で形成されたものである。

概要

日本では、国籍文化習俗民族遺伝的形質のそれぞれを基準とした分類による「日本人」の対象が重なることが多いため、概念的にもどの基準によるものかは日常的には明確にされず、しばしば混同される。


定義と分類

日本人は、次のような幾つかの考え方により定義・分類が可能である。

民族としての形成

以下、上記民族的分類による日本人について概説する。なお、近年の科学的研究の進展により従来の見方は大きく見直しが進んでいる。科学的な見地からは日本人特有のY染色体D2系統を保持する者を日本人と呼称する場合が多い(含む、大和、琉球、アイヌ民族)

縄文人と弥生人

先史時代の日本列島に住んでいた人間を縄文土器を使用していたことに因み縄文人と呼んでいる[7]。水稲農耕が始まった弥生時代の日本列島に居住する日本人を弥生人と呼んでいる。佐原真は弥生人について、渡来系の人々とその子孫、渡来系と縄文人が混血した人々とその子孫などの弥生人(渡来系)と、縄文人が弥生文化を受け入れて変化した弥生人(縄文系)に区別できるとした。ただし弥生時代において縄文文化のみを保持するものや渡来した後縄文文化を受け入れたものについては言及すらしていない。[8]。渡来系の人々の移動ルートについては諸説ある(下記「学説」参照)。 紀元前において倭人の居住地域は日本列島と朝鮮半島南部であったが、半島に居住していた倭人については弥生人と呼称されることは無い。 日本人の旧対外的な名称である倭人は、もっとも古い文献では紀元前2世紀に中国の『山海経』『論衡』にて登場する。この頃には既に他民族から見て日本人とその他周辺諸民族との区分けがなされていたことになる。

大和盆地の王を中心とした連合政権であるヤマト王権(大和朝廷)が成立すると、本州四国九州の住民の大半は大和民族として統合された。東北の蝦夷や南九州の熊襲と呼ばれた諸部族・諸王権は大和朝廷に服属せず、抵抗した。その後、それらの諸部族・諸王権は隼人の反乱の失敗や坂上田村麻呂の蝦夷征伐などにより、大和朝廷の下に統合されていった。白村江の戦い以後、倭国は朝鮮半島の支配から手を引いたが、代わりに東北日本へ進出し、現在の青森県にあたる本州最北部までを統一する。またこの頃は朝鮮半島の同盟国であった百済加羅からの亡命者も多く移住し、彼らもまた倭国(日本)に溶け込んでいった。朝廷の支配が揺らいだ平安時代の東日本では、平将門の将門政権や奥州藤原氏の平泉政権など半独立政権が築かれたものの、東日本と西日本の民族的統合は保たれ、後に関東地方を基盤とした武家政権が全国を支配することとなった。

このように、縄文系弥生人も弥生人もそのルーツはユーラシア大陸から移住した人々にあり、それぞれが日本の民族集団を形成する一部となっていった。

「日本民族」の形成

古墳時代、朝廷権力の拡大とともに「日本」という枠組みの原型が作られ、その後、文化的・政治的意味での日本民族が徐々に形作られていくとされる。

「日本人」「日本民族」という認識(ナショナルアイデンティティ)が形成され浸透していく経緯については諸説あり、ヤマト王権の支配が広い地域に及ぶ以前の弥生時代から倭人として一定の民族的統合があったとする説、また律令制を導入し国家祭祀体制を確立させた7世紀後期の天武持統期(飛鳥時代後期)にその起源を置く説、13世紀元寇鎌倉時代中期)が国内各層に「日本」「日本人」意識を浸透させていく契機となったとする見解などがある。

ネーションステート下の認識

大日本帝国の版図

日本が近代ネーションステート(国民 / 民族国家)として朝鮮半島台湾島を領有していた時代には、日本人という語は、公式には、朝鮮人、台湾人など日本国籍を付与された植民地先住民族を含む国籍的概念であった。大日本帝国多民族国家であることは強く意識され、現在の日本国民に相当する人々は「内地人」と呼ばれた。ただし、当該の先住民族の間では「日本人」が内地人と同義として使われることが多かった。

南樺太に住んでいたロシア人ポーランド人ウクライナ人ドイツ人朝鮮人ウィルタニヴフの中には日本国籍を持っていた者もいた。そのため、第二次世界大戦後、ソ連によって日本人として北海道に強制送還、ないしは自ら進んで移住した朝鮮人、ウィルタ、ニヴフがいた。また、反ソ分子として抑留された者もいた。ポーランド系日本国民の多くはポーランド国籍を取得しポーランドに移住した。

系統

以下、人類学的観点から、日本人の系統または起源に関する諸説について記述する。

系統関係

形質人類学的観点から日本人は、過去の縄文人・弥生人や現在の日本国内土着の住民が、いずれもモンゴロイドに属する。むろん「モンゴロイド」という分類概念では中国人や朝鮮人などの東ユーラシア人全体が包括され、イヌイットアメリカ先住民も含まれる。

だが、遺伝子の研究が進むにつれ、便宜的に使用される分類名称としての各人種も、推定される起源地(原初の居住地)の地理的名称を基準とすることが多い。モンゴロイド集団の分布は日本人形成過程の分析にとって今日もなお重要な手がかりである。

分子人類学による説明

ミトコンドリアDNAによる系統分析

1980年代からのミトコンドリアDNA研究の進展により、ヒトの母系の先祖を推定できるようになった(ミトコンドリア・イブ参照)。これにより、アフリカ単一起源説がほぼ証明され、また民族集団の系統も推定できるようになった。ミトコンドリアDNAやY染色体のようなゲノムの組換えをしない部分を用いた系統樹の作成は、集団の移動とルーツを辿るのに用いられる。たとえば日本人のミトコンドリアDNAのハプロタイプの割合と、周辺の集団つまり各ハプログループを比較することで、祖先がどのようなルートを辿って日本列島にたどり着いたかを推定できる。分析に用いられるのは、ミトコンドリアDNAの塩基配列のうち、遺伝子の発現に影響しない中立的な部分である。形態の生成等に関与せず、選択圧を受けないため、分析に用いることができる[9]。ただし、ミトコンドリアDNAは稀に男性のDNAが混じることや、人間より検証個体の多いネズミのDNA測定では、ハプログループの分岐や時期が事実とは全く異なっていたから、あくまでもY染色体DNA等、他の資料と共に考察する必要がある。

以下、ミトコンドリアDNAによる人類集団の系統分析を系統樹にしたものを参考に記す。

人類集団の遺伝的系統

多型マイクロサテライトによる人類の進化系統樹

この系統樹図によれば、最初にアフリカ人とその他の集団が分岐し、次にヨーロッパ人とその他の集団が分岐したこと、その次に東・東南アジア人とオーストラリア人が分岐し、最後の大きな分岐として東・東南アジア人とアメリカ先住民が分岐したということである。この系統樹で見られた主要な特徴は、従来のタンパク質多型や最近の核DNAの多型によって明らかにされた人類集団間の系統関係と大筋において一致する。

人類集団の遺伝的系統-2

近隣結合法による遺伝的近縁図

この図によれば、アフリカン(ネグロイド)からコーカソイド(白人)が分岐し、コーカソイドからオセアニアン(オーストラロイド)・東アジア人(モンゴロイド)が分岐、そして東アジア人からネイティブアメリカ人が分岐した。この人類集団の近縁関係は上記の遺伝的系統樹と現在の人類集団の地理的配置に一致する。

日本人特有のM7aグループ

日本には世界で(主に)日本人にしか見られないM7aというグループがある[10]。これは台湾付近で発生したと考えられ、沖縄・アイヌに多く本州で少ないという特徴的な分布をしている(Mグループについて、M7aは台湾・日本から朝鮮半島中国北東部への北上。M7b,cは南方及び中国沿岸へ)。M7aの最大集積地が(最も頻度の高い地域)は日本列島や沖縄南部であり北上の上限がシベリアであったとの見方が主流である。M7a、M7b、M7cについてもシベリア等からの発祥は考えにくく、南方から北方に移動があったとされている。

これに対して崎谷満は2009年の著書で、M7aは極東・アムール川流域にも見られるほか、シベリア南部(ブリヤート)、東南アジアにも見られるとし、発生したのはシベリア南部 - 極東あたりと予想する一方、台湾先住民にも台湾漢民族にも存在せず、台湾から北上して日本列島に入ったものではないと記している[11]。なお崎谷は上記の著書において、ミトコンドリアDNA・Y染色体といった分子人類学的指標、旧石器時代の石刃技法という考古学的指標、成人T細胞白血病ウイルスやヘリコバクター・ピロリといった微生物学的指標のいずれにおいても、東アジアのヒト集団は北ルートから南下したことを示し、南ルートからの北上は非常に限定的で日本列島には及ばなかったと述べている[12]。しかし、M7b,M7c等が台湾を中心に拡大していることからもM7は北上ルートでシベリアに達したと考えるのが一般的である。この為近年では崎谷満の説は一般的に受け入れられていない。

塩基多様度のネット値 (DA) 分析による系統関係

ミトコンドリアDNAの塩基配列の多様性の度合いを比較分析することによっても系統関係を計測できる。塩基多様度のネット値 (DA) 分析によって求められた集団間の遺伝距離をもとにした系統樹では、まずアフリカ人より西ユーラシア人(ヨーロッパ人)と東ユーラシア人(東アジア人)とが分岐し、次いで東ユーラシア人からアメリカ先住民が分岐し、次いでアイヌ人と東アジア人クラスターが分岐、次いで中国人と東アジア人が分岐、次いで琉球人と本土日本人とが分岐する[13]

Y染色体による系統分析

母系をたどるミトコンドリアDNAに対して、父系をたどるY染色体は長期間の追跡に適しており、1990年代後半からY染色体ハプログループの研究が急速に進展した[14][15][16]。ヒトのY染色体のDNA型はAからTの20系統がある。複数の研究論文から引用したY染色体のDNA型の比率を示す[17]。全ての型を網羅していないため、合計は100%にならない。空欄は資料なしで、必ずしも0%の意味ではない(日本人に関する調査で、O2aの欄が*になっている箇所は、O2に関する調査のみ実施。)。

  C DE NO
C1 C3 D1 D2 D3 N O1 O2a O2b1 O2b* O3
日本(野中、水口) 東京都 1 2 0 40 0 0 3 1 26 0 14
日本 (Hammer et al.) 青森県 8 0 0 39 0 8 0 0 31 0 15
静岡県 5 2 0 33 0 2 0 2 36 0 20
徳島県 10 3 0 36 0 7 0 3 33 0 21
沖縄県 4 0 0 56 0 0 0 0 22 0 16
日本 (Tajima et al.) アイヌ 0 13 0 88 0 0 0 * 0 0 0
九州 4 8 0 28 0 0 2 * 34 0 24
日本 (Shinka et al.) 北琉球 4 0 0 39 0 0 0 0 30 0 16
南琉球 0 0 4 0 0 0 67 0
北アジア (Karafet et al.) オロチョン 91 0 0 0 0
エヴェンキ 68 17
満州 27 4 0 0 4 38
ブリヤート 84 28 0 0 2 2
ハルハモンゴル 52 1 1 0 0 0 23
ユカギール 50 25
コリャーク 33 33
チュクチ 25 25
ケット 17
ニヴフ 38
東アジア北部 (Karafet et al.) 朝鮮 11 6 3 0 0 36 38
漢民族華北 5 2 0 0 66
6 0 0 0 28
チベット 3 16 33 0 0 0 33
東アジア南部・
東南アジア (Karafet et al.)
漢民族華南 5 15 30 33
漢民族台湾 11 7 0 0 60
台湾 1 69 7
16 9 0 0 33
トゥチャ 18 3 0 0 0 53
ミャオ 4 7 7 11 0 0 71
ヤオ 2 2 3 0 0 52
シェ 2 35 0 0 63
チワン 11 68 0 0 16
タイ 47 6 0
ベトナム 4 3 6 36 14 0 41
マレー 11 3 9 28 0 0 31
ジャワ 23 42
フィリピン 2 10 4 1 0 33

上記の分析から日本人の中には、D2系統とO2b系統が存在することが判明した。D系統はYAP型(YAPハプロタイプ)ともいわれ、アジア人種よりも地中海沿岸や中東に広く分布するE系統の仲間であり、Y染色体の中でも非常に古い系統である。

この系統はアイヌ人・沖縄人・本土日本人の一部に固有に見られるタイプで、朝鮮半島や中国人にはほとんど見られないことも判明した。これは縄文人の血を色濃く残すとされるアイヌ人88%に見られることから、D系統は縄文人(古モンゴロイド)特有の形質だとされる。もっとも、この系統はアイヌ人には多いが、本土日本人にはその内30〜40%程度の人に認められるのみである。

アリゾナ大学のマイケル・F・ハマー (Michael F. Hammer) のY染色体分析でもYAPハプロタイプ(D系統)が扱われ、さらにチベット人も沖縄人同様50%の頻度でこのYAPハプロタイプを持っていることを根拠に、縄文人の祖先は約5万年前に中央アジアにいた集団が東進を続けた結果、約3万年前に北方ルートで北海道に到着したとするシナリオを提出した[18][19][20]

現在世界でD系統は極めて稀な系統になっており、日本人が最大集積地点としてその希少な血を高頻度で受け継いでいる。それを最大とし、その他では遠く西に離れたチベット人等に存続するだけである。これは、後に両者を隔てる広大な地域にアジア系O系統が広く流入し、島国日本や山岳チベットにのみD系統が残ったためと考えられている。奇しくも大陸で駆逐されたD系統は、日本人として現在まで長く繁栄することになった。

なお東西に引き離されたD系統は、長い年月により東(日本)がD2、西(チベット等)がD1、D3となった。D2系統はアイヌ人・本土日本人・沖縄人の日本人集団固有であり他地域には希であるが、「日本人」全般に等しく見られるわけではない。アイヌ人に強く見られる遺伝子が沖縄人や本土日本人にも見られる場合があるという点には注意が必要である。これは、アイヌをはじめとした縄文人が居住していた日本列島に弥生人が流入し、北海道や沖縄という列島の端に縄文人が純粋に近いかたちで残ったという「二重構造モデル」に矛盾しない。

O2系統からは、他に東南アジアやインドの一部に見られるO2a系統と、日本のO2b1、中国東北部・朝鮮に多いO2b*にそれぞれ分類される。

形質人類学からの接近方法

日本人の形成過程を分析する形質人類学からの接近方法には原人や古人骨などの形態解析、石器の分布分析などが古典的な方法としてある[21]。形質人類学的な手法は、「ヒト集団の系統関係の把握」という用途に用いるにはかなり限界があるとの指摘が聞かれてきたところであり、この用途に限って言えば、完全に主役の座を分子人類学に譲り渡した感が強い。もっとも、遺跡発掘骨の年代推定は、発掘物のAMS放射性炭素年代測定法によりかなり正確に推定できる利点がある。

東大人類学教室の長谷部言人鈴木尚は豊富な発掘調査をもとに、日本人が時代を通じて変化してきたこと、明治以降の例でも分かるように、混血等がなくとも急激に形質が変化しうることを示し、一見、形質が大いに異なる縄文人と弥生人の間でも、実は連続していて、外部からの大きな遺伝子の流入を仮定する必要はないと主張し、1980年代半ばまで有力な説であった(これは「変形説」と呼ばれる)。

それに対して、現代日本人は日本の先住民族に置き換わって成立したという「置換説」も、幕末、明治のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトエドワード・S・モースの考察に早くから見られ、記紀神話などを参考に、在来の原住民を天孫族が征服して日本人が形成されたという論は盛んであった。エルヴィン・フォン・ベルツは日本人でも長州藩出身と薩摩藩出身では顔に形質的な違いがあるとして「混血説」を提唱した。京都大学清野謙次の論などが「混血説」の代表である。第二次世界大戦後、長谷部=鈴木ラインの説が唱えられると、一時期、表立って主張されにくい傾向があったが、同じ東大系の鈴木尚の弟子である埴原和郎が、1980年代半ばに日本人の起源は南方系の縄文人と北方系の弥生人であるとする「二重構造説」を唱えるに至って、一躍重層構造説が息を吹き返した。ただし埴原の「縄文人(アイヌ含む)を南方系、弥生人を北方系」とする仮説は近年の分子人類学の発展により否定されるようになり、縄文系も北方から来たことが有力視されるに至っている。

ミトコンドリアDNA・Y染色体に基づく系統分析以外の手法による諸説

集団遺伝学者の根井正利は、「現代人の起源」に関するシンポジウム(1993年、京都)にて、(アイヌを含む北海道から沖縄県までの)日本人の起源は約3万年前から北東アジアから渡来し、弥生時代以降の渡来人は現代日本人の遺伝子プールにはほんのわずかな影響しか与えていないという研究結果を出している[22][23]

分子人類学者の尾本恵市は埴原の原日本人(アイヌを含む縄文人)の南方起源説を否定しており、1995年に出した系統図では、日本人はチベット人と同じ枝に位置づけられ、アイヌ人とは異なるとしており、1997年に出した系統図では、本土日本人はアイヌや沖縄県人、チベットと近く、韓国人、中国人とは離れているという結果を出している[24][25][26]

松本秀雄はGm遺伝子の観点から、日本人の等質性を示す「日本人バイカル湖畔起源説」を提唱している[27]。また、ヒト白血球型抗原の遺伝子分析により、現代日本人は周辺の韓国人や台湾人よりも等質性が高い民族であるとの研究結果が発表されている(台湾50、韓国70、日本80)[28]

考古学の観点からは、弥生早期の遺跡に外来系の土器が玄界灘に面した大きな遺跡からしか発見されていないことから、弥生人(渡来系)の人数を1割程度に見積もる研究者が多い[29]。一方で、人類学者による研究では大量の渡来があったとされ(埴原和郎で100万人、宝来聰で65%が渡来系)、人類学者の中橋孝博らによる人口シミュレーションによると、農耕民の弥生人は狩猟民である縄文人よりも人口増加率が高く、渡来が少数でも数百年で大きく数を増やす可能性も示された[29][30]。ただし弥生時代の遺跡で出土した人骨では、北九州や山口県をのぞく地域では縄文系とされる人骨の方が多く、弥生時代に実際に稲作を行っていたのは縄文人の系譜を引く人々の方が多いと思われる。特に東日本においては渡来系の特徴を持つ人骨の比率は2割に満たない。

稲作の起源とその考古学的分析

日本人の渡来ルートを知るために稲作の渡来ルートを考える研究があり、いくつかの説が存在している。

かつて、佐々木高明らによる照葉樹林文化論は、稲作が中国雲南省などの山間部における陸稲を発祥としていると主張していたが、近年、長江文明の全貌が明らかにされるにつれ、稲作は長江下流域の水稲耕作を発祥とする説が有力視されつつある。 上記項目にて詳述。

「倭族」論

古代史・文化人類学研究者の鳥越憲三郎は「倭族」仮説(倭族論)を提唱している[31]。鳥越の定義では倭族とは「稲作を伴って日本列島に渡来した倭人、つまり弥生人と祖先を同じくし、また同系の文化を共有する人たちを総称した用語」である[32]。古代日本列島における倭人・倭国については『魏志倭人伝』(『三国志』魏書東夷伝倭人条)が有名であるが、鳥越は他の史書における倭人の記述(『論衡』から『旧唐書』に至るまで)を読解し[33]、長江(揚子江)上流域の四川省雲南省貴州省の各省にかけて、複数の倭人の王国があったことを指摘した。その諸王国はたとえば『史記』にある以下の諸国である[34]

さらに鳥越は、倭族の起源地を雲南省の湖・に比定し、水稲の人工栽培に成功したというシナリオを描く。以降、鳥越は古代史的な文献研究と現場調査を交差させ、倭族の一部が日本列島に移住し、また他の倭族と分岐していったことを示した。分岐したと比定される民族には、イ族ハニ族(古代での和夷に比定。またタイではアカ族[35])、タイ族ワ族[36]ミャオ族カレン族ラワ族などがある[37]。ほか鳥越は、高床式建物貫頭衣和服)、注連縄などの風俗を比較している。

また諏訪春雄は倭族を百越の一部としている[38]

いずれにせよこの倭族論(倭族仮説)は長江文明を母体にした民族系統論といってよく、観点は異なるが環境考古学安田喜憲の長江文明論や近年の稲作の渡来とも重なっている。

言語

日本語の起源を解明することで、日本人のルーツを明らかにするという研究もある。

日本語の起源は、従来、アルタイ諸語オーストロネシア語族との関連が想定されてきたが、比較言語学的にはまだ証明されていない。現在の所、日本語の起源については、いくつかの説が出ているが決定的な物はない。

学際研究による日本列島へのヒト渡来経路の総合的分析

平成17年(2005年)度から21年(2009年)度にかけて、日本学術振興会による共同研究「更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変遷に関する総合的研究」が行われ、2010年2月20日には国立科学博物館にて公開シンポジウム「日本人起源論を検証する:形態・DNA・食性モデルの一致・不一致」が開催され、また雑誌『科学』(岩波書店、2010年4月号)では同内容が掲載された[39]。研究代表者の溝口優司は、研究班員全員の同意が得られるようなシナリオは作れなかったと断ったうえで、日本列島へのヒト渡来経路は現時点では次のようになるとしている[40]

1.アフリカで形成された人類集団の一部が、5 - 6万年前までには東南アジアに渡来し、その地の後期更新世人類となった。
2 - 3.東南アジア後期更新世人類の一部はアジア大陸を北上し、また別の一部は東進してオーストラリア先住民などの祖先になった(典型性確率を使った頭蓋計測値の分析で、オーストラリア東南部出土の人骨化石であるキーロー[41]などに似た後期更新世人も、縄文時代人の祖先候補とすべきであることが指摘された)。
4.アジア大陸に進出した後期更新世人類は北アジア(シベリア)、北東アジア、日本列島、南西諸島などに拡散した。シベリアに向かった集団は、少なくとも2万年前までには、バイカル湖付近にまでに到達し、寒冷地適応を果たして北方アジア人的特徴を得た。日本列島に上陸した集団は縄文時代人の祖先となり、南西諸島に渡った集団の中には港川人の祖先もいた。
5.更新世の終わり頃、北東アジアにまで来ていた、寒冷地適応をしていない後期更新世人類の子孫が、北方からも日本列島へ移住した可能性もある。
6.シベリアで寒冷地適応していた集団が東進南下し、少なくとも約3000年前までには中国東北部、朝鮮半島、黄河流域、江南地域などに分布。


また同研究では、北海道縄文時代人は北東アジア由来かもしれないという仮説、縄文時代人の祖先は東南アジア・中国南部のみならず広くオーストラリアまでも含めた地域の後期更新世人類の中から探さなければならないという指摘、後期更新世の沖縄港川人はアジア大陸の南方起源である可能性が高いが、北海道 - 九州地方の縄文時代人とは下顎形態に多数の相違点が見出され、両者の間の系譜的連続性を認める従来の仮説は見直される必要があるという主張もなされた[42]

名称

美称

前者は日本男性、後者は日本女性を指す。武士道武芸、日本的道徳教養芸術和裁日本料理の技能などを備えていることの誉め言葉としてよく使われる。国際スポーツ大会で活躍した日本チーム・選手は、しばしば「日の丸○○」「サムライ○○」と呼ばれる。(例)日の丸飛行隊サムライブルーサムライジャパン

他の言語

アイヌ語で、アイヌ人以外の日本人を、「自分のそば」「隣人」という意味のシサムという。沖縄県の方言で、沖縄県民以外の日本人を、「内地の人」という意味のないちゃー、「大和の衆」という意味のやまとんちゅーなどという。それ以外の言語では、おおむね「漢語の日本の現地発音・ジパングに類似した固有名詞」+「国民・住民を表す接頭語・接尾語」で表現される。

その他

  • 邦人(ほうじん)」という言葉は元来「自国の人」という意味である。日本においては一般的に日本人のことを指し、特に、日本国外に居留する日本人に対して使われることが多い。例として、日本国外で事件や事故、天災などが起こった場合、ニュースなどで「邦人」の言葉が使われ、彼らの被害や消息を伝えている。邦人といった場合、日本の外国人日系人は含まないことが多い。
  • DNA分析によるルーツ(祖先)調査はナショナルジオグラフィック協会によるジェノグラフィック・プロジェクト(英語)(日本語による案内)(株)ローカスなどで可能である(有料)。
  • 東京都老人総合研究所の健康長寿ゲノム探索研究チームでも「健康長寿を可能にする遺伝的素因の解明」という主題のもとにDNA系統分析が行われている[43]
  • 歴史的に日本人の形質が大きく変化してきたことは鈴木尚らの研究により明らかになっているが、近代以降は下肢が伸び身長が高くなる、顎が縮小し面長になるなどの変化(小進化)が著しい。近年の傾向としてはの縮小と永久歯の減少が進んでおり、親知らずが生えない日本人が増えているが、それ以上に顎の退化が進み、歯並びが悪い若者が増えている。歴史的には同様の現象は徳川将軍家をはじめとする江戸時代の大名家にも顕著にみられ、柔らかい食べ物を好んで食べるようになったのが原因。

脚注

  1. ^ "日本人". 広辞苑.
  2. ^ 日本国憲法第10条
  3. ^ "日本人". マイペディア. 平凡社.
  4. ^ 北海道、環日本海交流、朝鮮半島、山東半島などからの渡来ルート。
  5. ^ 南西諸島、東南アジア諸地域またはインドなどからの渡来ルート。
  6. ^ 古代世界の航海技術は従来考えられてきたよりもずっとさかのぼって高度に発達していた可能性が近年の考古学では明らかになってきているが、まだ年代や具体的な技術の内容については確定できない。海部陽介『人類がたどってきた道』NHK出版ほかより。
  7. ^ なお、佐原真はこの語の原義である「縄紋土器を使用していた人間」ということを強調するために「縄紋人」という呼称を提唱している。
  8. ^ 『日本大百科全書』(小学館)「弥生文化」の項参照。
  9. ^ 篠田謙一 (2007), 日本人になった祖先たち - DNAから解明するその多元的構造, 日本放送出版協会 、p.32.
  10. ^ Haplogroup M7.
  11. ^ 崎谷満『新日本人の起源』勉誠出版、2009年、P45
  12. ^ 『新日本人の起源』P35 - 38、52
  13. ^ 宝来聡「DNA人類類進化学」岩波書店、116頁。宝来聡「ミトコンドリアDNAからみた日本人の成立」琉球大学医学部公開講座講演要旨、1997年3月
  14. ^ McDonald, J. D. (2005), Y chromosome and Mitochondrial DNA haplogroups, http://www.scs.uiuc.edu/~mcdonald/WorldHaplogroupsMaps.pdf 2008年4月14日閲覧。 
  15. ^ National Geographic, ed., Atlas of the Human Journey, https://www3.nationalgeographic.com/genographic/atlas.html 2008年4月14日閲覧。 
  16. ^ International Society of Genetic Genealogy, ed. (2007), Y-DNA Haplogroup Tree 2006, 1.24, http://www.isogg.org/tree/Main06.html 2008年4月14日閲覧。 要引用
  17. ^ 崎谷満 (2008), DNAでたどる日本人10万年の旅, 昭和堂, ISBN 978-4-8122-0753-6 
  18. ^ 道方しのぶ『日本人のルーツ 探索マップ』平凡社新書,2005年,61頁
  19. ^ Michael F. Hammer (2005) (PDF). Dual origins of the Japanese: common ground for hunter-gatherer and farmer Y chromosomes. The Japan Society of Human Genetics and Springer-Verlag. http://www.eva.mpg.de/genetics/pdf/Japan.pdf 2007年1月19日閲覧。. 
  20. ^ University of Pittsburgh, Jomon Genes - Using DNA, researchers probe the genetic origins of modern Japanese by John Travis
  21. ^ 馬場悠男「港川人1号人骨」東京大学総合研究資料館1996ほか。
  22. ^ 宝来聰『DNA 人類進化学』(岩波書店、1997年)
  23. ^ 月刊誌『選択』2007年12月号
  24. ^ 尾本恵市 (1996), 分子人類学と日本人の起源, 裳華房, ISBN 978-4785386382 {{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 要ページ表記
  25. ^ 斉藤成也『DNAからみた日本人』筑摩書房 p56
  26. ^ 篠田謙一 (2007), 日本人になった祖先たち - DNAから解明するその多元的構造, 日本放送出版協会, ISBN 978-4140910788 要ページ表記
  27. ^ 松本秀雄 (1992), 日本人は何処から来たか — 血液型遺伝子から解く, 日本放送出版協会, ISBN 978-4140016527 
  28. ^ 李成柱 (2001), “血液分析により民族の移動経路を判明する”, 東亜日報, http://japan.donga.com/srv/service.php3?biid=2001010317828 2008年4月14日閲覧。 
  29. ^ a b 篠田謙一『日本人になった祖先たち』(2007年)p185
  30. ^ 『日本人はるかな旅・5/そして日本人が生まれた』(NHK出版)
  31. ^ 鳥越憲三郎『原弥生人の渡来』(角川書店、1982年)『倭族から日本人へ』(弘文堂、1985年)『古代朝鮮と倭族』(中公新書、1992年)『倭族トラジャ』(若林弘子との共著、大修館書店、1995年)『弥生文化の源流考』(若林弘子との共著、大修館書店、1998年)『古代中国と倭族』(中公新書、2000年)、『中国正史倭人・倭国伝全釈』(中央公論新社、2004年)
  32. ^ 諏訪春雄編『倭族と古代日本』(雄山閣出版、1993年)7 - 8頁
  33. ^ 倭・倭人関連の中国文献倭・倭人関連の朝鮮文献
  34. ^ 三国志地名事典(索引)も参照
  35. ^ 『古代中国と倭族』(中公新書、2000年)263頁
  36. ^ 『弥生文化の源流考』(若林弘子との共著、大修館書店、1998年)
  37. ^ 中国の少数民族タイの民族
  38. ^ 諏訪春雄編『倭族と古代日本』(雄山閣出版、1993年)
  39. ^ 平成17年度〜平成21年度日本学術振興会科学研究費補助金(基盤研究(S))による研究「更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変遷に関する総合的研究 」日本人形成過程のシナリオまとめ2010年5月2010年9月20日閲覧。および『科学』岩波書店、2010年4月号
  40. ^ 溝口は「本プロジェクト研究班の班員全員の合意によるものではない」と明記している。同リンク先。
  41. ^ [1] キーローはメルボルンの北西19kmに位置し、1940年に約1万3000年前のキーロー頭骨と4万年前と考えられる石器が出土した。
  42. ^ 同リンク
  43. ^ 2009年8月30日閲覧。また『ここまでわかってきた日本人の起源』産經新聞社、2009年、17頁

関連項目

外部リンク