日本の慰安婦
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日本の慰安婦では、日本軍の慰安婦(いわゆる従軍慰安婦)及び慰安婦問題について概説する。
概要
「慰安」とは、一般に「心をなぐさめ、労をねぎらうこと。また、そのような事柄」「日頃の労をねぎらって楽しませること」を意味し[1][2][3] 、慰安婦とは「戦地で将兵の性の相手をする女性のことで性の相手をさせられた女性」という意味である。
国家による管理売春は公娼制度といい、慰安婦・慰安所も公娼制の一種と考えられている[4][5][6]。軍人に対し売春を行っていた婦女は日本に限らず、米国、韓国、ドイツ、フランスなど多くの国で存在していたが[7]国家管理型の慰安婦制度を採っていたのは第二次世界大戦時に於いては日本とドイツだけである(慰安婦を参照)。
しかし、韓国・北朝鮮・中国・国際連合人権委員会・日本の一部研究者などは、日本軍慰安婦については性奴隷であったと主張している。日本では慰安婦制度を作った軍と委託していた民間業者との関係性や制度の管理・運営、慰安婦たちの置かれた環境や境遇や報酬体制、また強制連行や強制性の有無、占領現地の軍政下の慰安所に於ける慰安婦の扱いなど多岐に渡って研究され、国際的な誤解が生じないよう対抗した主張がなされている(日本軍慰安婦問題の論点の節、ほか後述)。
近代日本の公娼・慰安婦の歴史
一般的な公娼
近代公娼制は、性病対策と軍隊慰安を目的としてフランスで確立し、その後ヨーロッパ各国、アメリカ合衆国や日本にも導入された[5]。
1802年、フランスで警察による公娼登録が開始され[8]、1828年にはフランス風紀局衛生課が設置され、検診で性病の見つかった娼婦は病院に送られ、治療後、売春業の許可がおりるという体制になった[9]。18世紀末に梅毒が流行し、ナポレオン戦争による大規模の人の移動のため性病がヨーロッパ中にひろがったが、同時に医学研究もすすんだ[10]。プロシアでは一旦廃止されたあと1851年に性病予防のために公娼制度が軍によって再開され[8]、風紀警察が特別に設置された[11]。イギリスはクリミア戦争の際の性病問題に対してイギリス軍の提案[12]で1864年から1869年にかけての伝染病(性病)法によって公娼制度が導入され[8]、警察が娼婦とみなした女性を逮捕し、検診を強制できるようになり、性病に感染していない場合は娼婦(公娼)として正式に登録された[12]。1873年、ウィーン国際医療会議で売春統制を各国共通にするための国際法が提案された[8]。
1870年代になってジョセフィン・バトラー[13]らの売春婦救済運動(廃娼運動[14])が盛んになり、19世紀末のイギリスやアメリカ合衆国では本国では公娼制が廃止される[14]が、植民地においては存在し続けた[15][16][17]。
明治時代
日本の公娼制は年季奉公の一形態として発展し、徳川幕府に認可された遊郭が形成されていた。明治維新後の1873年(明治6年)に公娼取締規則が制定された。
朝鮮での遊郭業と日清戦争
1876年に李氏朝鮮が日朝修好条規を締結した開国して以降は、釜山と元山に日本人居留地が形成され、日本式の遊郭なども開業していった[18]。1881年10月には釜山で「貸座敷並ニ芸娼妓営業規則」が定められ、元山でも「娼妓類似営業の取締」が行われた[18]。翌1882年には釜山領事が「貸座敷及び芸娼妓に関する布達」が発布され、貸座敷業者と芸娼妓には課税され、芸娼妓には営業鑑札(営業許可証)の取得を義務づけた[18]。1885年には京城領事館達「売淫取締規則」が出され、ソウルでの売春業は禁止された[19]。
しかし、1894年〜1895年の日清戦争後には料理店での芸妓雇用が公認(営業許可制)され[19]、1902年には釜山と仁川、1903年に元山、1904年にソウル、1905年に鎮南浦で遊郭が形成された[18]。
娼妓取締規則と婦女売買国際条約
1900年には娼妓取締規則が制定され、娼妓の年齢を18歳以上とし(従来は15〜16歳),住居や外出に制限を加えた。翌年の1901年に軍医の菊池蘇太郎は「軍隊ニオケル花柳病予防法」を発表し、公娼制度の目的は性病(花柳病)予防と風俗頽壊防止を目的としていたと記している[20]。
廃娼運動は国際条約に結実し、1904年5月に欧州12カ国で「醜業を行わしむるための婦女売買取締に関する国際協定」が、ついで1910年5月に13カ国間で「醜業を行わしむるための婦女売買禁止に関する国際条約」が締約された。国際連盟では規約23条でこれら取決めの一般監視を行うとしたため、1921年9月の第二回国際連盟総会において婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約として再締約された(23カ国)[21]。このさいに日本も条約に加盟したが、すでに娼妓取締規則があり年齢に関する条項(21歳未満を禁止)については留保した。
日露戦争と妓生制の崩壊
1905年の日露戦争の勝利によって日本が朝鮮を保護国として以降はさらに日本の売春業者が増加した[19]。ソウル城内双林洞には新町遊廓が作られ、これは財源ともなった[18][19]。1906年に統監府が置かれるとともに居留民団法も施行、営業取締規則も各地で出されて制度が整備されていった[18]。同1906年には龍山に桃山遊廓(のち弥生遊廓)が開設した[19]。日本人の居住地で知られる京城の新町、釜山の緑町、平壌の柳町、太田の春日町などには数十軒から数百軒を数える遊郭が設けられ、地方の小都市にも十数件の青桜が軒を連ねた[22]。
日本人売春業者が盛んになると同時に朝鮮人業者も増加していくなか、ソウル警務庁は市内の娼婦営業を禁止した[18]。1908年9月には警視庁は妓生取締令・娼妓取締令を出し、朝鮮の伝統的な売春業である妓生を当局許可制にし、公娼制に組み込んだ[18]。1908年10月1日には、取締理由として、売買人の詐術によって本意ではなく従事することを防ぐためと説明された[18]。
日本統治下の朝鮮
1910年の韓国併合以降は統監府時代よりも取締が強化され、1916年3月31日には朝鮮総督府警務総監部令第4号「貸座敷娼妓取締規則」(同年5月1日施行)が公布、朝鮮全土で公娼制が実施され、日本人・朝鮮人娼妓ともに年齢下限が日本内地より1歳低い17歳未満に設定された[19]。
他方、併合初期には日本式の性管理政策は徹底できずに、また1910年代前半の女性売買の形態としては騙した女性を妻として売りとばす事例が多く、のちの1930年代にみられるような誘拐して娼妓として売る事例はまだ少なかった[19]。当時、新町・桃山両遊廓は堂々たる貸座敷[23][19]であるのに対して、「曖昧屋」とも呼ばれた私娼をおく小料理店はソウル市に130余軒が散在していた[23][19]。
第一次世界大戦以降
第一次世界大戦前後には戦争景気で1915年から1920年にかけての朝鮮京城の花柳界は全盛を極めた[19]。朝鮮人娼妓も1913年には585人であったが1919年には1314人に増加している[19]。1918年の京城・本町の日本人居留地と鍾路署管内での臨検では、戸籍不明者や、13歳の少女などが検挙されている[19]。1918年6月12日の『京城日報』は「京城にては昨今地方からポツト出て来た若い女や、或は花の都として京城を憧憬れてゐる朝鮮婦人の虚栄心を挑発して不良の徒が巧に婦女を誘惑して京城に誘ひ出し散々弄んだ揚句には例の曖昧屋に売飛して逃げるといふ謀計の罠に掛つて悲惨な境遇に陥つて居るものが著しく殖えた」と報道した[19]。
1910年代の戦争景気以前には、朝鮮人女性の人身売買・誘拐事件は「妻」と詐称して売るものが多かったが、1910年代後半には路上で甘言に騙され、誘拐される事例が増加している[19]。1920年代には売春業者に売却された朝鮮人女性は年間3万人となり、値段は500円〜1200円であった[24]。
大正から昭和に入ると、公娼廃止運動が盛んになる。宗教家の高島米峰は報知新聞1931年4月5日号に発表した「国際信義と公娼廃止」において、「今や、公娼廃止は、世界の通念であるばかりでなく、日本国内においても、既に一般の与論となっている。現に、県会で廃娼を決議したものは九県に上り、また、廃娼を断行したものは二県となった。そうして、中央社会事業恊会の如き、中央教化団体連合会の如き、大日本宗教大会の如き、大阪社会事業連盟の如き、関東々北医師大会の如き、岩手県医師会の如き、最も有力なる団体が、それぞれの立場々々からして、公娼制度の撤廃を決議して居る。今はただ、内務大臣が、明治三十三年に公布した「娼妓取締規則」を撤廃しさえすれば、それでよいというだけになって居るのである」と当時の状況について記している[21]。
朝鮮における人身売買・誘拐事件
1930年代の朝鮮では10代の少女らが誘拐される事件が頻発し、中国などに養女などの名目で売却されていた。斡旋業者は恐喝を行ったり、また路上で誘拐して売却していた。朝鮮総督府警察はたびたびこうした業者を逮捕し、1939年には中国への養女供与を禁止している。当時の人身売買および少女誘拐事件については警察の発表などを受けて朝鮮の新聞東亜日報や毎日新報(毎日申報。現・ソウル新聞)、また時代日報[24]、中外日報[24]で報道されている。朝鮮総督府統計年報によると、略取・誘拐での検挙数は1935年は朝鮮人2,482人・日本人24人[25]、1938年は朝鮮人1,699人・日本人10人[26]、1940年は朝鮮人1,464人・日本人16人[27]となっている。主な報告例を挙げると、
- 1932年3月、巡査出身の33歳の男が遊郭業者と共に少女を恐喝し、誘拐した容疑で検挙された(東亜日報[28])。
- 1933年5月5日の東亜日報には「民籍を偽造 醜業を強制 悪魔のような遊郭業者の所業 犯人逮捕へ」という見出しで、漢南楼の娼妓斡旋業者だった呉正渙が慶尚南道山清邑で16歳の少女を350円で買い、年齢詐称のため兄弟の戸籍で営業許可を取ろうとしていたこと警察の調べで発覚したと報道した[29][30]。
- 1933年6月30日の東亜日報では、少女を路上で誘拐し中国に売却していた男がソウル市鐘路警察によって逮捕され、さらに誘拐された少女が35歳の干濱海に20ウォンで売却された後に殺害されたと報道[31][30]。
- 1934年4月14日の東亜日報は、災害地で処女が誘拐されたと報道[32]。
- 1934年7月17日には、養父から金弘植という業者に売却されたという11歳の少女が警察に保護されている[33]。
- 1936年3月15日の東亜日報では「春窮を弄ぶ悪魔! 農村に人肉商跳梁 就職を甘餌に処女等誘出 烏山でも一名が被捉。」との見出しで、ソウル近郊の農村烏山で「人肉商」(人身売買)業者が処女を誘拐していることが報道されている[30]。
軍隊による公娼(慰安婦)
強姦は戦時に限らず平時でも発生する[34][35]が、戦争におけるレイプなどの性暴力については1990年代以降、「戦時性暴力」として研究されている[36][37]。戦争において性暴力は、勝者への褒美、敗者への懲罰、また単なる快楽として行使されてきた[38]。 秦郁彦によれば、第二次世界大戦当時の戦地での性政策には大別して自由恋愛型(私娼中心。イギリス軍、米軍)、慰安所型(日本、ドイツ、フランス[39])、レイプ型(ソ連、朝鮮[40])の3つの類型があった[41]。
日本における慰安婦の制度・運用・実態に関する研究については、戦後の経緯から主に日華事変以降(特に大東亜戦争期)に限定されており、さらにその論争の中でもイデオロギーの思惑が見え隠れするため、客観的な叙述をすることは困難である。
日清戦争から満州事変まで
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日中戦争(支那事変)
南京事件と日本軍慰安所
1937年7月7日、盧溝橋事件が発生し、日中戦争(支那事変)がはじまり、その全面戦争が本格化する前に日本軍は、「野戦酒保規程」を改正して慰安所を造るための法整備を行った[42]。1937年9月29日の陸達第48号「野戦酒保規程改正」には「必要ナル慰安施設ヲナスコトヲ得」と書かれており、慰安所は軍の後方施設として兵站部が管轄することが規定されている[42]。その後1937年12月の南京攻略戦の後、南京市を占拠した日本軍による南京事件が発生した。
事件当時、南京市内の安全区(難民区)の設置に関わり、被害にあうことを怖れて安全区内にある金陵女子文理学院にやってきた女性難民の保護にあたったミニー・ヴォートリンの日記には、強姦事件の被害者からの聞き取り内容や、強姦目的で金陵女子文理学院のキャンパスに侵入した日本軍の兵士とのやりとり(追い払った、女性難民が拉致された、構内で強姦に及んだ兵士を制止した、など)が記録されている[43]。また1937年12月24日の日記には、日本軍の某師団の高級軍事顧問の訪問を受け、避難民1万人の中から売春婦100人を選別させてもらいたいという要求に対して、以後女性を連行しないことを条件に選別を許し、日本軍が21名を連れて行ったこと、日本軍側は、兵士が利用するための正規の慰安所を開設すれば、強姦被害が減ると考えていると説明したことが記録されている。[44]
陸軍が視察を依頼した精神科医早尾乕雄の論文である『戦場心理の研究』[45][46]によれば1938年の上海では強姦や輪姦が頻発し、南京では「皇軍に強姦されたら、幸運に思え」と怒鳴った隊長がいたと報告している[47][48]。こうした強姦の多発により、慰安所の設置を急いだことが『飯沼守上海派遣軍参謀長の日記』[49]『上村利通上海派遣軍参謀副長の日記』[50]『北支那参謀長通牒』などの史料から分かる[51]。また小川関治郎の陣中日記の1937年12月21日条には「尚当会報ニテ聞ク 湖州ニハ兵ノ慰安設備モ出来開設当時非常ノ繁盛ヲ為スト 支那女十数人ナルガ漸次増加セント憲兵ニテ準備ニ忙シト」との記述が見られる[52]。
日本軍慰安所設置は主に強姦対策のためになされたが[53]、強姦は跡を絶たなかったともいわれる[54][55][56]。
売春斡旋業者の取り締まり:1937-1938
1937年から翌38年にかけて売春斡旋業者の取り締まりに関する通達等が多数出された。1937年(昭和12年)8月31日には外務次官通牒「不良分子ノ渡支ニ関スル件」が出され、斡旋業者の取り締まりについての注意命令が出された[57]。1937年9月29日の陸達第48号「野戦酒保規程改正」では「必要ナル慰安施設ヲナスコトヲ得」とある[58]。
- 1938年1月19日付群馬県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」 と同年1月25日付高知県知事発内務大臣宛「支那渡航婦女募集取締ニ関スル件」、同日付山形県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「北支派遣軍慰安酌婦募集ニ関スル件」[59]などでは、警察から「皇軍ノ威信ヲ失墜スルコト甚タシキモノ」とされた神戸の貸座敷業者大内の言葉として、上海での戦闘も一段落ついて駐屯の体制となったため、将兵が現地での中国人売春婦と遊んで性病が蔓延しつつあるので3000人を募集したとある[60]。業者大内によれば、契約は二年、前借金は500円から1000円まで、年齢は16才から30才迄とあった[42]。永井和は「大内の活動は当時の感覚からはとりたてて違法あるいは非道とは言い難い。まして、これを「強制連行」や「強制徴集」とみなすのはかなりの無理がある」と述べている[42]。
- 1938年2月7日付和歌山県知事発内務省警保局長宛「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」。1938年1月6日、和歌山田辺で、支那で慰安婦に就職しないかと勧誘した挙動不審の男らが誘拐容疑で逮捕された。男らは軍の命令で募集していると称していたので、和歌山県刑事課長は長崎県外事警察課に問い合わせ、その回答である38年1月20日付文書には「皇軍将兵慰安婦が渡来するので便宜供与をしてください」という依頼文が添付されている[61]。この公文「皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件」(在上海総領事館警察署発長崎県水上警察署宛、1937年12月21日付)には、「稼業婦女(酌婦)募集ノ為本邦内地並ニ朝鮮方面ニ旅行中ノモノアリ」とも記録されている[62]。
- 1938年2月14日には茨城県知事から内務大臣・陸軍大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」、翌2月15日には宮城県知事発内務大臣宛で同名の通達がなされた[63]。
- 1938年2月18日に起案され、2月23日に内務省警保局長より各庁府県長官に宛てて「支那渡航婦女の取扱に関する件」(内務省発警第5号)が通達された[64][42][65]。この通達では中国に渡航させる慰安婦は満21歳以上の、現役の娼妓や醜業を営む女性に限定し、身分証明書の発行の際には、婦女売買または誘拐などがないかよく注意することや、募集に際し、軍の名をかたったり、募集の広告宣伝をする者、虚偽や誇大なことをいう者も厳重に取り締まるよう命じている。
日本の陸軍省による注意命令(軍慰安所従業婦等募集に関する件)
朝鮮で頻発する人身売買・誘拐事件に対し、陸軍省 兵務局 兵務課は1938年(昭和13年)3月4日に軍慰安所従業婦等募集に関する件』(陸支密第745号)を発令した。この通達では女性を「不統制に募集し社会問題を惹起する虞あるもの」「募集の方法誘拐に類し警察当局に検挙取調を受くる」など、軍の威信保持上ならびに社会問題上遺漏なきように注意をせよと命じた[66]。
2月23日の内務省発警第5号支那渡航婦女の取扱に関する件に応じて作成されたこの通牒が北支那方面軍及中支那派遣軍参謀長宛てに出されていることが、旧日本軍が慰安婦の募集や慰安所の運営、管理に関与していた証拠であると吉見義明が主張した。この通牒の発見者であった吉見は、同時に発表した6つの資料[要出典]とともに「軍の関与は疑う余地のない明らかなものである」とし、兵務局が立案し、当時の陸軍大臣杉山元が委任し、後のミズーリでの降伏文書の署名者であった梅津参謀総長(当時次官)が決裁している以上「慰安所の設置は軍上層部が関与する組織的なものであった」としている。さらに「慰安婦設置の為、内地に於いて之が従業婦を募集するに当たり」という記載が見られることから、支那渡航婦女の取り扱いに関する件と同様に、この通牒は「日本内地においてのみ適用された事を示している」と主張している[67][68]。朝日新聞1992年1月11日の記事などでは、この通達を日本軍が朝鮮の少女を強制連行した証拠として報道した。他方、秦郁彦、小林よしのり、高橋史朗らはこの通達は「慰安婦を誘拐まがいの募集を行なう業者がいるから注意せよという「関与」を示すものだ」と「よい関与論」を唱え反論し、水間政憲もこの指令書は当時の朝鮮社会における誘拐事件や人身売買の実態をふまえれば、悪徳業者を取り締まれと解釈するべきで、日本軍の関与は良識的な関与であったと主張している[30]。
マンダレー慰安所
旧日本軍には:ビルマ・マレー・インドシナ・フィリピン・オセアニアなど様々な方面軍があり、最終配置としては南方8方面が知られ、1938年5月26日付の中部ビルマのマンダレー駐屯地慰安所規定によれば、「慰安婦の他出に際しては、経営者の証印ある他出証を携行せしむるものとす」[69]とあり、料金時間は下兵30分、他に「慰安所における軍人軍属など使用者の守るべき注意事項」として、「過度の飲酒者は遊興せざること」「従業員(慰安婦を含む)に対し粗暴の振る舞いをなさざること」「サック」を必ず使用し確実に洗浄を行い性病予防を完全ならしむること」[70]「違反者は慰安所の使用停止のみならず、会報に載せられ、その部隊の使用停止につながりうる」[71]という規定が存在した。
南支派遣軍慰安婦
1938年11月4日には、支那渡航婦女に関する件伺が南支派遣軍(第21軍)古荘幹郎部隊参謀陸軍航空兵少佐久門有文及陸軍省徴募課長より出され、南支派遣軍の慰安所設置のため「醜業を目的とする婦女」慰安婦約四百名の渡航配意を要請されている。
河允明誘拐事件と「処女貿易」
しかし、その後も朝鮮での人身売買事件は多発し、1938年11月15日には、群山市の紹介業者・田斗漢が釜山で19歳と17歳の女性に対して満州での就職を斡旋するとして遊郭に売却する委任状を作成している時に逮捕されている[72][30]。
1939年3月には河允明誘拐事件が発覚した[73][74]。1939年3月5日の「毎日新報によれば、逮捕された売春斡旋業者の河允明夫婦は1932年頃から朝鮮の農地でいい仕事があるとして約150人の貧農を満州や中国に700円〜1000円で人身売買し、また京城の遊郭には約50人の女性を売却し、警察が捜査を開始すると、それらの女性を牡丹江や山東省に転売したことが発覚した[74]。同年3月9日の東亜日報は18歳の女性が山東省の畓鏡慰安所に転売されたことを報じた[75]。3月15日の東亜日報では「誘拐した百余の処女」「貞操を強制蹂躙」との見出しのもとに「処女」たちが河夫妻に多数誘拐されたと報道された。東亜日報は同年3月29日に社説で「誘引魔の跋扈」を掲載、このような悪質な業者が朝鮮で跋扈していることを批判した。雑誌「朝光」(朝鮮日報社刊)1939年5月号も河允明誘拐事件について「色魔誘拐魔 河允明」と題して、処女の貞操が蹂躙されたと報じている。
また、河允明に続いて逮捕されたペ・シャンオンは1935年から1939年にかけて約100人の農村女性を北支と満州に、150余人を北支に売却していた[74]。また下級役人が戸籍偽造に協力していた汚職も発覚した[74]。
- 朝鮮総督府警察による中国への養育取引禁止
1939年5月には、朝鮮総督府警察が中国人による朝鮮人養女を引き取ったり、また養育することを禁止した[76]。
同様の事件はその後も頻発し、「処女貿易」を行なっていた「誘引魔」が逮捕されたとの報道(東亜日報、1939年8月5日)や、釜山の斡旋業者(特招会業者)による誘拐被害者の女性が100名を超えていたとの報道(東亜日報、1939年8月31日)があった[77][30]。
支那事変の経験より観たる軍紀振作対策
1940年9月19日、『支那事変の経験より観たる軍紀振作対策』を各部隊に配布[78]。その内容は、以下に引用するように、軍慰安所は軍人の志気の振興、軍規の維持、略奪・強姦・放火・捕虜虐殺などの犯罪の予防、性病の予防のために必要であると説いている。
「事変勃発以来の実情に徴するに、赫々たる武勲の反面に略奪、強姦、放火、俘虜惨殺等、皇軍たるの本質に反する幾多の犯行を生じ、為に聖戦に対する内外の嫌悪反感を招来し、聖戦目的の達成を困難ならしめあるは遺憾とするところなり」
「犯罪非行生起の状況を観察するに、戦闘行動直後に多発するを認む」
「事変地においては特に環境を整理し、慰安施設 に関し周到なる考慮を払い、殺伐なる感情及び劣情を緩和抑制することに留意するを要す。」
「特に性的慰安所より受くる兵の精神的影響は最も率直深刻にして、之が指導監督の適否は、志気の振興、軍紀の維持、犯罪及び性病の 予防等に影響するに大ならざるを思わざるべからず。」--『支那事変の経験より観たる軍紀振作対策』
太平洋戦争(大東亜戦争)
1941年12月8日、日本軍による真珠湾攻撃で太平洋戦争(大東亜戦争)勃発。
- 1941年刊行(推定)清水一郎陸軍主計少佐編著『初級作戦給養百題』(陸軍主計団記事発行部『陸軍主計団記事』第三七八号附録)第一章総説に、師団規模の部隊が作戦する際に経理将校が担当する15項目の「作戦給養業務」が解説され、「其他」項目の解説に以下の任務が列挙されている[79]。
1 酒保ノ開設 2 慰安所ノ設置、慰問団ノ招致、演藝會ノ開催 3 恤兵品ノ補給及分配 4 商人ノ監視
- 1942年9月3日の陸軍省課長会報で倉本敬次郎恩賞課長は「将校以下の慰安施設を次の通り作りたり」としてその結果を報告した。それによると、設置された軍慰安所は、華北100、華中140、華南40、南方100、南海10、樺太10、計400ヶ所であった。
日本の内地においては1941年の灯火管制下の治安維持のために戦時犯罪処罰ノ特例ニ関スル法律を制定し、性犯罪の厳罰化が図られた[80]。
朝鮮における「挺身隊」と「慰安婦」の混同と流言
当時の日本での「挺身隊」と「慰安婦」はまったく異なるものである。「挺身隊」は「女子勤労挺身隊」のことで、主に工場などでの勤労労働に従事する女性を指し、「慰安婦」は戦地や占領地・内外地での公娼を意味していた。しかし、朝鮮社会では両者が混同され、挺身隊動員の計画を聞いてパニックに陥っていた家族もあった。
女子挺身勤労令
大東亜戦争(太平洋戦争)末期の1944年8月、日本内地において日本人女性を工場などへ強制動員する「女子挺身勤労令」が出され、これは12歳から40歳までの未婚女子が対象であった[81]。同時に学徒勤労令も出され、中等学校二年以上の学徒も軍需工場などで勤労した[82]。男子は1939年の国民徴用令で強制動員されていたが、朝鮮では実施を遅らせて民間企業による自由募集、1942年1月からは官斡旋(朝鮮労務協会が実務)となり、1944年9月になって徴用令が発動された[82]。いわゆる「強制連行」はこの徴用令に基づく内地等への労働力移入を指す[82]。
このように、朝鮮半島の女子については日本内地における徴用令も女子挺身勤労令も発令されなかった[82]が、斡旋によって挺身隊が日本内地へ向かった事例もあったため、挺身隊と慰安婦が混同され、「挺身隊に動員されると慰安婦にされる」との流言(デマ)が流布した[83]。デマによってパニック状態[82]になった朝鮮の未婚女性や親は、学校を中退させたり、結婚することで徴用を逃れようとした[84]。例えば、韓国で挺身隊=慰安婦という認識を広めた韓国挺身隊問題対策協議会初代代表の尹貞玉(1925年生)も父親の忠告に従って1943年4月に入学したのを同年9月に退学している[84]。
そのようなデマについて政府も認識しており、1944年6月27日の内務省文書では
と「荒唐無稽なる」「悪質な流言」と記載があり、日本政府はそうしたデマを民族主義者による反日謀略とみなしていた可能性も指摘されている[84]。1944年10月には朝鮮総督府が「国民徴用の解説」で女子挺身勤労令を発動しないと答弁した[82]。
尹明淑によれば、労働力として国民登録する朝鮮の女子はあまりに少なかったため、学校教師による勧誘が進められたが、内地に動員されたことが多かったためデマの元になったとしている[85]。実際、官斡旋による女子挺身隊動員は小学校や女学校の教師が指名勧誘する事例が多かった[82]。日本内地へ動員された女子挺身隊の総数は一万人と推計され[86]、確実な記録では1944年6月頃から日本の富山の不二越工場に1090人(そのうち約420人は1945年7月に朝鮮の沙里工場へ移動)[86]、名古屋の三菱航空機道徳工場へ約300人、東京麻糸紡績沼津工場へ約100人が学校の教師に引率されて派遣され、終戦直後に帰国している[86](この記録の合計は1490人)。また名古屋三菱・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟の訴状では、日本語の上手な低年齢世代が内地に行くことが多かったが、工場では夜学の夢が破れ、軍隊式のひどい扱いを受けたという不満を語る人もいる[87]。ただし、1960年代までは、その噂を事実と認める韓国の研究者はいなかった[85]。
日本における挺身隊の結成率は1944年5月でわずか7%であり、挺身隊の結成率があまりにも低かったため、1944年8月の女子挺身勤労令で挺身隊は強制動員になった[要出典]。1944年以降の12歳以上の生徒や学生の動員は300万人だったという。(1940年当時の日本の人口は7,000〜7,500万)[88]
台湾での慰安婦
台湾軍が南方軍の求めに応じて「慰安婦」50人を選定し、その渡航許可を陸軍大臣に求めた公文書「台電 第602号」がある[要出典][89]。
終戦期
ソ連軍・朝鮮保安隊による戦時性暴力と慰安婦
ソ連(ロシア)では慰安所は設置されていないがレイプが黙認された[90]。ソ連軍は満州や朝鮮半島では日本人女性の強姦行為を各地で繰り返し[40]、ソ連軍によって監禁された約170名の日本女性が強姦を受け、23人が集団自決した敦化事件も起きている。また大古洞開拓団(三江省通河県)ではソ連軍による慰安婦提供の要請を受けて、2名の志願慰安婦を提供した事例もある[91]。満州開拓団にソ連軍が進駐した際には兵士の妻でなく単身女性が慰安婦として提供された黒川開拓団や郡上村開拓団の例がある[92]。
また、朝鮮人(朝鮮保安隊)も朝鮮半島の吉州郡や端川市などでソ連兵とともに非戦闘員の女性引揚者への集団強姦行為をおこない、強姦後に虐殺するケースもあった[40]。強姦により妊娠した引揚者の女性を治療した二日市保養所の1946年(昭和21年)の記録では、相手の男性は朝鮮人28人、ソ連人8人、中国人6人、アメリカ人3人、台湾人・フィリピン人各1人であり、場所は朝鮮半島が38件と最も多く、満州4件、北支3件であった[93]。1947年に閉鎖されるまで二日市保養所では4500件の中絶手術が行われた[94]。ヨーコ・カワシマ・ワトキンズの自伝『竹林はるか遠く-日本人少女ヨーコの戦争体験記』でもソ連軍や朝鮮共産党軍に日本の市民が朝鮮半島において暴行・強姦の被害にあったことが記録されている[95]。
このほか、中国共産党軍による通化事件が起きたほか、引揚列車に乗り込んできた中国共産党軍によって拉致された女性もいた[96]。
米軍と慰安婦
アメリカ軍は1941年米陸軍サーキュラー170号規定において、「兵士と売春婦との接触はいかなる場合でも禁止」されたが、実際には買春は黙認されており[97]、太平洋戦線ではビルマ方面で日本軍の慰安所を参考に売春婦をインドで集め慰安所を設置していた。しかし慰安所について米国国内で論争が発生し、1944年9月には、売春宿(慰安所)の廃止が決定され[98]、1945年4月24日付で「海軍作戦方面における売春について」との通達が米国陸軍高級副官名で出され、同年9月1日に発令された[99]。
朝鮮半島においては、連合軍による軍政が敷かれ慰安所、慰安婦ともにアメリカ軍に引き継がれた[100][101]。
戦後
占領軍と慰安婦
特殊慰安施設協会(RAA)の設置
占領軍による日本の一般女性に対するレイプ事件が予測された為、日本政府は「日本女性の貞操を守る犠牲として愛国心のある女性」を募集し、連合軍向けの慰安所(特殊慰安施設協会)を設立し、総計55,000人が集まった[102]。
占領軍の性対策については警視庁が8月15日の敗戦直後から検討し、8月22日には連合軍の新聞記者から「日本にそういう施設があることと思い、大いに期待している」との情報が入った[103]。また佐官級の兵士が東京丸の内警察署に来て、「女を世話しろ」ということもあった[104]。8月17日に成立した東久邇内閣の国務大臣近衛文麿は警視庁総監坂信弥に「日本の娘を守ってくれ」と請願したため、坂信弥は一般婦女を守るための「防波堤」としての連合軍兵士専用の慰安所の設営を企画し、翌日の8月18日には橋下政実内務省警保局長による「外国軍駐屯地に於る慰安施設について」との通達が出された[105]。早川紀代によれば、当時の慰安所は東京、広島、静岡、兵庫県、山形県、秋田県、横浜、愛知県、大阪、岩手県などに設置された[106]。また右翼団体の国粋同盟(総裁笹川良一)が連合軍慰安所アメリカン倶楽部を9月18日に開業している[107]。こうした慰安所は公式には特殊慰安施設協会と称され、英語ではRecreation and Amusement Association(レクリエーション及び娯楽協会, RAA)と表された。
進駐軍の性犯罪
RAAは8月22日に設置されたが、30日に上陸した進駐軍は横須賀や横浜をはじめ、民家に侵入し日本人女性を強姦する事件が多発した[108][109]。28日、9月2日開業予定の小町園慰安所にはマシンガンで武装したアメリカ軍兵士達が乗り込みすべての慰安婦たちを強姦した[110]。横浜では、100名を超える武装したアメリカ兵が開業前日の慰安所に乗り込み慰安婦14名を輪姦した[110]。9月1日には野毛山公園で日本女性が27人の米兵に集団強姦された[108]。5日には神奈川県の女子高校が休校した[108][111]。19日にGHQがプレスコードを発令して以後は連合軍を批判的に扱う記事は新聞で報道されなくなった[108]。武蔵野市では小学生が集団強姦され、大森では病院に2〜300人の米兵が侵入し、妊婦や看護婦らが強姦された[108][112]。これらのアメリカ軍による集団強姦事件はダグラス・マッカーサー元帥やロバート・アイケルバーガー将軍も把握しており[113]、アメリカ軍は強姦から女性を守ろうと設立された自警団に対しては戦闘車両で鎮圧し自警団幹部らを長期間にわたって刑務所に監禁した[113]。進駐軍相手の日本人娼婦(街娼)は「パンパン」などと呼ばれていた。占領直後の性的暴行や強姦の件数については確定していないが、藤目ゆきによれば上陸後一ヶ月だけでも最低3500人以上の女性が連合軍兵士によって被害をうけ、その後も1947年に283人、1948年に265人、1949年に312人の被害届けが確認されているがこれらは氷山の一角であり、藤目は占領とは「日本人女性に対する米軍の性的蹂躙の始まり」でもあったと述べている[114]。
GHQ軍医総監による慰安婦斡旋の要請
占領軍はRAAだけでは満足できずに、GHQの軍医総監と公衆衛生福祉局長サムス大佐が9月28日に、東京都衛生局防疫課長与謝野光に対して、都内で焼け残った花街5カ所と売春街17カ所に触れながら、占領軍用の女性を世話してくれと要求した[115][116]。また、与謝野光は将校、白人兵士、黒人兵士用の仕分けの相談も応じた[117][118]。またGHQは「都知事の責任において進駐軍の兵隊を性病にかからせてはいけない」と検診を命令し、与謝野はこれを受けて東京都令第一号と警視庁令第一号で性病予防規則を制定し、週一回の強制検診を実施した[119]。
1945年12月時点で在日連合軍は43万287人駐屯していた[120]。
朝鮮戦争
1946年2月14日、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁が南朝鮮(現韓国)での公娼制を廃止[121]。
アメリカの支援を受けて1948年8月15日に建国された大韓民国では、朝鮮戦争以降、韓国政府が韓国軍・米軍向けの「特殊慰安隊」を設立した[122][123][124]。
朝鮮戦争では韓国人女性が慰安婦として集められる(韓国軍慰安婦)とともに、日本人慰安婦も在日米軍基地周辺、また朝鮮半島へも日本人慰安婦が連れて行かれたこともあった[125][126]。
サンフランシスコ講和条約と在日米軍
1951年9月8日に連合国諸国とサンフランシスコ講和条約を締結し[127]、関係諸国との請求権問題を解決し[128]、また同時に在日米軍の駐留が容認された[129]。
その後も在日米軍による犯罪は続き、1952年5月から1953年6月の警察資料でも殺人8、過失致死435、強姦51,暴行704など合計4476件の犯罪が報告されており、1954年2月には宇治市大久保小学校の四年生の女子児童が強姦されたあとに陰部から肛門まで刃物で引き裂かれる事件が発生し、ほかにも4歳の幼児が強姦され、危篤状態になった事件や、突然狙撃されて死亡した事件などが多発した[130]。1952年の奈良の慰安施設RRセンターでは2500名の慰安婦がいた[131]。
日本の運動側には「醜業婦」観があり、たとえばYWCAの植村環は『婦人公論』(1952年5月号)で「アメリカの寛大な統治を悦び、感謝しており」とする一方で慰安婦たち「卑しい業を廃めさせ」るよう要求したり、「パンパン」を「大方は積極的に外人を追いかけて歩き、ダニのように食いついて離れぬ種類の婦人」と述べたり、「あんなに悪性のパンパンに対しては、白人の方だって、あの位の乱暴は働きたくなりますさ」などと語るなど[132]、売春問題を買う男ではなく売る女性の方を問題としていた[133]。
戦時中の慰安婦の諸側面
慰安所の総数
日本政府調査によれば、日本軍慰安所は、日本(別の資料からであるが、沖縄[134])、中国、フィリピン、インドネシア、マラヤ(現:マレーシア)、タイ、ビルマ(現:ミャンマー)、ニューギニア(当時)、香港、マカオ及びフランス領インドシナ(当時)に設置されたことが確認されている。国家管理型の慰安婦・慰安所制を導入したドイツ軍には500箇所あったといわれ、ドイツと同様の制度を導入した日本軍の慰安所は400箇所あったとされる[135]。
慰安所は1942年9月3日の陸軍省人事局恩賞課長の報告「金原日誌」によれば400箇所が設営された[136](地域別の内訳は北支100、中支140、南支40、南方100、南海(南西太平洋)10、樺太10)。しかしこの報告書で言及された施設のすべてが慰安所であったかどうかは不明であり、新設計画を含めたものかどうかも不明である。秦郁彦は、陸軍の慰安婦関係は1942年の4月から人事局恩賞課が担当したが、1942年夏に要望があったがうまく派遣を実行できず、業者が部隊と連絡して行なったという。資料の「金原日誌」9月3日には将校以下の慰安施設として数字があるだけであると指摘している[137]。
事業場慰安所
また、労務動員により炭坑や鉱山で肉体労働に従事した朝鮮人・中国人労働者のためにも事業場慰安所が設立された[42][138]。
慰安婦の募集方法
軍慰安所従業婦等募集に関する件によれば、民間業者による甘言、就業詐欺も少なくなかったと考えられている。また中国やフィリピン、インドネシアなど占領地域では暴力的な方法による強制連行との証言が多い[139]。朝鮮人元慰安婦の証言では、民間業者による騙し・甘言による誘拐が多く見られるが暴力的な強制連行との証言も報告されている。十分な情報の得られる証言者43人中、大多数は就業詐欺だが、強制連行も数件存在する[140]。
日本国内では、1938年2月23日の内務省発警第五号の「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」[141]により、慰安婦は、日本国内で事実上醜業(売春)を営み、満21歳以上の伝染病なき者に募集を限定し、身分証明書を発給していたことが伺える。また、発給の際には本人自らが警察署に出頭すること、親または戸主の承認を得ること、婦女売買や略取誘拐などの無きよう調査すること、正規の許可などの無い募集周旋は認めない事などが取り決められていた。
「醜業ヲ行ハシムル為ノ婦女売買禁止ニ関スル国際条約」及び「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」では「他人ノ情欲ヲ満足セシムル為醜行ヲ目的トシテ未成年ノ婦女ヲ勧誘シ誘引シ又は拐去シタル者」を犯罪として処罰するために必要な措置をとることを加盟国に義務付けており、日本もこれを批准していたため、もしも未成年の婦女(これらの条約上の「未成年ノ婦女」とは「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」第5条により満21歳未満の婦女を指すものとされている。)への勧誘等があった場合には、犯罪行為として処罰するために必要な措置をとっていたか否かについて問題となり得る。ただし、台湾や朝鮮などの外地は、これらの条約の効力の対象外だった(「醜業ヲ行ハシムル為ノ婦女売買禁止ニ関スル国際条約」第11条は締約国が条約を植民地や属地等に実施させようとするときは文書により通告・寄託しなければならない旨を定めているが、日本が台湾や朝鮮などの外地に条約を実施する旨の通告・寄託はなされていなかった。また、「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」第14条は署名国がその署名が植民地や海外属地等を包含しないことを宣言できる旨を定めているが、日本は条約の規定に基づきその署名が朝鮮、台湾、関東租借地、樺太及び南洋委任統治地域を包含しない旨を宣言した[142]。
(なお条約と別に、公娼の年齢制限は、朝鮮・台湾で17歳、内地で18歳以上であった。[143])
- 1944年に、当時の朝鮮の最大手の新聞『京城日報』(7月26日付)が「慰安婦至急募集」との紹介業者の広告を掲載。300円(京城帝国大学の卒業生の初任給75円の約4倍に当たる)以上の月収と記載されていた。また 朝鮮総督府の機関紙『毎日新報』(10月27日付)の「軍慰安婦急募集」との紹介業者の広告では行き先は部隊の慰安所であると明記されている。
- 1992年・1993年の宮澤内閣当時の日本政府の調査報告や「河野談話」においては、「軍当局の要請を受けた慰安所の経営者が、斡旋業者に慰安婦の募集を依頼することが多かった、戦争の拡大とともに慰安婦の必要人数が高まり、業者らが甘言や脅迫等によって集めるケースが数多く、官憲等が直接これに荷担するケースもみられた」と報告されている。ただし、「軍ないし官憲などの公権力による強制連行」を示す資料はなかったが、総合的に判断した結果、一定の強制性があるとしたものであることが1997年の国会での政府答弁[144][145]や河野洋平元官房長官、や石原信雄元官房副長官などによって明らかにされている。
- 海軍省の潜水艦本部勤務を経てペナン島の潜水艦基地司令部に勤務していた井浦祥二郎によれば、軍中央がペナン島に将兵の娯楽ために慰安所を設置することを公然と指示し、各地の司令部が慰安所の管理をしたという。井浦は「わざわざ女性を戦地にまで連れてきたことをかわいそうだ」と感じ、「そのくらいならば、現地女性を慰安婦として募集した方がよかった」という旨を自著で述べている[146]。
現地への輸送
日本軍は、業者が慰安婦らを船舶等で現地に送るに際には、彼女らを特別に軍属に準じた取扱いにし、渡航申請に許可を与え、日本政府が身分証明書等の発給を行ったりした。軍の船舶や車両によって戦地に運ばれたケースも少なからずあり、現地に置き去りにされた事例もあったという[147]。1962年の国会において、厚生省(現:厚生労働省)は「慰安婦は、軍属にはなっていないが、敵襲を受けるなどの部隊の遭遇戦で亡くなった場合は戦闘参加者として準軍属の扱いをしているはず」と答弁している[148]。
- 吉見義明によると、地域の状況を問わず、軍の進出に伴い、兵士が存在する地域には慰安所が設置されていったため、慰安婦が前線基地に派遣される場合も多く、そのため、慰安婦が空襲や爆撃の被害を受けたこともあった[149][150]。
慰安所の管理・運営
- 太平洋戦争の生き残りの兵士として有名になった小野田寛郎は1940年前後に、商事会社の漢口(現・武漢)支店に勤務していた時代に、朝鮮半島では悪徳詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話をしばしば聞いたという。中国江西省南昌の「慰安所」は連隊本部の守備陣地の一隅に鉄条網で囲まれて営業しており、軍規の維持とゲリラの奇襲攻撃を警戒するため、鉄帽を被り、銃と剣を携えた歩哨らが、慰安所の内部まで巡察し、利用者数の記録を確認したという[151]。
- 安秉直ソウル大学教授によると営業者の半数が朝鮮人であるとしている[152]。
- 陸軍経理学校では慰安所の経営についても講義があったといわれ、陸軍経理学校を卒業した鹿内信隆は「調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの、〝持ち時間〟 が、将校は何分、下士官は何分……といったことまで決めなければいけない(笑)。こんなことを規定しているのが「ピー屋設置要綱」というんで、これも経理学校で教わった。」[153][42]と述べている。
- 『産経新聞』紙上の証言として「軍の経理を担当した当時、日本人や中国・朝鮮人の売春業者から兵隊相手の売春宿をやりたいと申し入れが相次ぎ許可した。これが慰安所の始まり。それまで上層部から設置を指示されたことはなかった」(八王子市の94歳男性)、というものがある[154]。
慰安婦の収入
日本軍慰安婦が報酬を得ていたことを示すものとしては以下のものがある。
- 当時の新聞『京城日報』1944年7月26日の慰安婦募集広告では「月収300円以上、前借金3000円可」と記されていた[155]。なお、からゆきさんの場合、女衒は、前金300円で、3年後渡航費用と食事代と利息で2,000円になると称していたといわれる[156]。
- 日本人戦争捕虜尋問レポート No.49によれば、北ビルマのミートキーナの慰安所の慰安婦たちは月平均で1500円の総収益を上げ、750円を前借金の返済にあてた。同報告によれば稼ぎは月に1000 - 2000円、年季は半年から一年で一部は帰還した者もおり、慰安婦には一カ月毎に麦粉2袋、その家族には月毎に雑穀30キロが配給され、慰安婦の衣食住、医薬品、化粧品は軍が無料配給され、兵士の月給は15円 - 25円であったことが記されている[157][158]。
- 大韓民国大法院は1964年当時に慰安婦として働いていた女性が月5,000大韓民国ウォンの収入を得ていたことを判決文に明記している[159]。
- 中国漢口の約三十三万人と全兵士の金銭出納帳を調べたら、三分の一が飲食費、三分の一が郵便貯金、三分の一が「慰安所」への支出だったといい、ある内地人(日本人)の慰安婦は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」と語っていたという。慰安所の料金は女性の出身地によって上中下にランク分けされており、兵士の方は、階級が上であるほど、利用できる時間は長くなり、料金は割高になっていたという[151]。
- 吉原で10年間、娼婦をしていた高安やえは、内地(日本)で商売を始めるために、10倍稼げるという理由でラバウルで慰安婦となったといい「一人5分と限り、一晩に200円や300円稼ぐのはわけがなかった」と回想している[160]。
- 慰安婦に対する給与の支払いは、多くは軍票という政府紙幣の一種によってなされていた。戦地において軍票が大量発行されたため、軍票の価値が暴落しており、慰安婦が受け取る軍票の額面は膨れあがったケースがあった。吉見義明は「慰安所の開設にあたって最大の問題は、軍票の価値が暴落し、兵たちが受け取る毎月の棒給の中から支払う軍票では、慰安婦たちの生活が成り立たないということであった。」と推定している[149]。また、戦後この軍票に対する日本政府の支払義務が免除されたため、軍票が紙くず同然となり[161]、払戻しを受けられなくなったケースもあった。
- スマラン事件(白馬事件)のBC級裁判の判決文が引用した証人・被害者に対する警察の尋問調書によれば、何人かの女性は報酬を断ったが、受け取った女性はそのお金で自由な時間を得ることができたことを報告している。「将校倶楽部」では、一晩に一人の男性の相手にし、男性が料金として支払った4ギルダーのうち、1ギルダー1セントを受け取り、そのお金で食べ物や衛生用品を購入したとされ、「慰安所日の丸」では、一時間1ギルダー50セントの料金のうち、45セントを受け取ったと慰安婦自身が証言している[162]。
慰安婦への支払いは預金通帳へ半分、残り半分を慰安所経営業者を通じて軍票で支払われ、軍主計局の監査と官憲の監視取締り下で慰安婦への不払いが起きないよう管理されていた[163]。が、慰安婦には給与が無い場合が多かったとしている[164]。 文玉珠のように金銭目的で慰安所に入った場合、故郷に日本円1000円で家を建て、5000円を兄に送ったなどの例もある[165]。 日本から海外へ渡ったからゆきさんとして有名な北川サキは、10歳で売られ、前借りは300円、渡航費用と食事代と利息で2,000円とされた[166]。日本軍を相手とした場合は兵士が支払った料金の半分以上が女性の手取りとなり、残りが業者のものとなった[167]。大正中期から昭和前期のボルネオ島では、一人2円のうち娼婦の取り分は1/2、その内で借金返済分が1/4、残り1/4から着物・衣装などの雑費10円を出すのに、月20人の客を取る必要があった。「返す気になってせっせと働けば、そっでも毎月百円ぐらいずつは返せた」 といい、それは最少で月110人に相当する。(なお、フィリピン政府衛生局での検査の場合、週一回の淋病検査、月1回の梅毒検査を合わせると、その雑費の二倍が娼婦負担にさせられていた。)
- 兵士が支払う慰安所の利用料金については「日本軍の慰安所」を参照
慰安婦の貯金
- 元慰安婦の文玉珠は、1992年、慰安婦時代の2年半の間に貯めた郵便貯金2万6145円の返還請求訴訟を行ったが、日韓基本条約に付随する日韓請求権並びに経済協力協定で解決済みとされ敗訴した。裁判で明らかにされたところによると、彼女は26,245円の貯金から5,000円を朝鮮の実家に送っており[168][169]、彼女の体験記によれば「千円もあれば故郷の大邱に小さな家が一軒買えた」という[170]。また、訴状の請求趣旨に郵便貯金の返還要求は記載されていない。[171]上野千鶴子の慰安婦裁判の取材によれば、郵便預金返還訴訟を起こした文玉珠の貯金は、性交労働の代償ではなく、軍人からのお駄賃をため込んだものであるという[172]。
- 李榮薫は、中国漢口の日本人女性130名と朝鮮人女性150名が在籍していた慰安所では、慶子という名前の朝鮮人慰安婦がおり、すでに3万円を貯めたが5万円になったら京城(ソウル)で小料理屋をもつことを夢見ているとの彼女の話が司令官に伝わり「なんとたいしたオナゴであるか」として表彰されたとしている[169]。
当時の物価
当時の陸軍大将の俸給は年に約6600円、二等兵の給料は年間72円であった[151]。1943年7月時点では二等兵の月給は7円50銭、軍曹が23〜30円で、戦地手当を含めてもそれらの倍額で、慰安婦の収入の10分の1または100分の1であった[173]。中将の年俸は5800円程度であった[174]。当時の貨幣価値を企業物価指数で計算すると1931年時点での100円は現在に換算すると88万8903円、1939年では45万3547円、1942年では34万7751円となり[175]、3万円の貯金とは現在での約1億3606万円となる[176]。なお平安北道出身の朴一石(パク・イルソク)が経営していた慰安所「カフェ・アジア」は1937年で資本金2000円で開業し、1940年には資本金6万円となっていた[177]。
日本の大正中期から昭和の第二次世界大戦前までの物価はほぼ同じレベルにあり、のちに慰安婦が増えた時期と同水準だったといわれる[178]。米価は上下変動があり第二次上海事変から特に欧州戦争が始まってから大きく上昇が始まる。
仲介業者による中間搾取や不払い
- 吉見義明や尹明淑によれば、現在証言の得られる元慰安婦のほとんどは、慰安婦の直接の雇用主である業者が、慰安婦から「前借金」「衣装代」「食料代」等の名目で給与を天引きしており、慰安婦の手元に渡された給料はほんのわずかというケースが少なくなかった[179]。
- 李榮薫はこうした業者は女衒であったとしている[169]。秦郁彦も業者が慰安婦に支払わなかったことや楼主の不払いについて指摘している[161]。
- また、1930年代の朝鮮では人身売買業者が女性や少女を恐喝や嘘をついて勧誘したり、誘拐し、満州や中国に売却する事件が頻発していた(#1930年代の植民地朝鮮における人身売買・誘拐を参照)。
慰安婦の生活状況
- ビルマで慰安婦だった文玉珠によると、母親へ何軒も家が建つほどの金額を送金したことや、「週に一度か二度、許可をもらって外出することができた。人力車に乗って買い物に行くのが楽しみだった」「ビルマは宝石がたくさん出るところなので、ルビーや翡翠が安かった。(中略)わたしも一つぐらいもっていたほうがいいかと思い、思い切ってダイヤモンドを買った」という現地の生活状況を証言している[180]。
- 日本軍の元慰安婦らの証言によれば、戦況次第では一日に十人以上の兵士との性行為に従事する場合も少なくなかった。そのような場合に慰安婦に拒否する自由はほとんど与えられておらず、体調にかかわらず兵士の相手をしなければならなかった[181]。吉見義明は、慰安婦の状況を「1日数10人などの肉体的に過酷な条件のため、陰部が腫れ上がり、針も通らないようになった」事がたびたび(年数回)あったと書いている[149]。
- 慰安婦との性行為の際には、主として軍が作成した慰安所規程において、避妊具(当時は、「サック」と呼ばれた)の使用が義務づけられていた[182]。ただし、元慰安婦らの中には、慰安所での性行為によって妊娠したと訴えている者も存在する。
- 慰安婦の多くは故郷から戦地へと派遣されていた場合が多く、そのような場合は、事実上慰安所から逃亡することはほぼ不可能であった。許可制により外出が認められていた場合はあるが(文玉珠は主計将校と偽の結婚の約束をして、結婚前の準備のため家に帰るとして中国の慰安所から朝鮮の家までの通行許可証を得ることで慰安所を脱走したという[183])、多くの場合、軍機密や安全等の必要から制限を課されていた。また、自らだけの意思で慰安婦を辞めることは事実上不可能であり、辞めることを許されたのは、妊娠後期になったり、精神的疾病を発症して、慰安婦としての任務を遂行できなくなった場合に限られていたのがほとんどであったとする吉見義明の見解もある[149]。
- 米国戦争情報局心理作戦班報告によれば、ビルマのミートキーナの慰安婦らは、前借金を返済した女性に帰省を命じ、何人かの女性は朝鮮へ帰省した。また、同報告によれば慰安婦らは個室を与えられ、接客を断る自由もあり、週一日は検診のため休日であり、生活は豊かで町へ買い物に行くことも許され、娯楽やスポーツやパーティを楽しみ、また兵士と結婚した慰安婦もいた[184]。
- 1938年から終戦まで中国北部で兵士として服務し、戦後作家になった伊藤桂一は、慰安婦達の相談係のような役目もしたといい、自身が見た慰安婦については「借金を返済し、結婚資金を貯え、結婚の際の家具衣装箱も充分用意していた。」として生活は「かなり恵まれていた」と述べている[185]。
- 日本軍慰安婦の契約期間は前金の額に応じて契約期間は6ヵ月から1年間であった[184]。李榮薫は契約期間は通常2年間であったとし、ただし船便が途絶える場合などもあり、相当数の慰安婦は2年間というわけには行かなかったと述べている[169]。
- 港に船が入ったときは娼館は満員となり、一晩に30人の客を取った時もあった。現地人を客にすることは一般に好まれず、ある程度接客拒否ができたようである。しかし、月に一度は死にたくなると感想を語り、休みたくても休みはなかったという。
休日は無しか、月1回。朝鮮人慰安婦の証言[誰?]によると月経時も休むことは許されていない[186]。 慰安所利用規程や元慰安婦の証言から、慰安婦に廃業の自由、行動の自由はほとんどなく、また中国や東南アジアでは休日に自由があっても、交通の便のため事実上逃亡は不可能であった。[要出典]利用規定では、一日の就業時間と休日が厳守され、将兵は軍政に部隊責任者が届け出た日に時間を割り当てられ、軍兵站部を通じて軍政から支給された花券で利用した[187]。
日本軍が住民に嫌われていたと言われる中国・フィリピンなどでは、開業前や休日でも出歩ける範囲に制限があったり[188]、監視警備区域内に住まわせられていた。漢口特殊慰安所は日華混在地区にあり、前に歩哨と憲兵がいたという[189]。
外出規則は地域によって違いがあったことが知られている。外出の自由については、1932年までの郭(くるわ)内の公娼(集娼制)もまた外出はできない状況にあった[190]。
ビルマ中部のマンダレーでは、経営者の証印がある他出証を携行すれば他出可能で、インドネシアのセレベス島の場合は、全て原住民系慰安婦で休養外出自由だった。[191]。また、国内と違って占領地の軍隊専属のために、休日だけでなく部隊移動にともなう繁忙・閑散期の差が大きい[192]。
日本兵の休日の慰安が他にないこと、相対的に数が少ないことなどから、少ないときで10人程度、多い場合は1日数10人が1人の慰安婦に詰めかける状況が生まれている[193]。 「私は軍人を相手にすると何度も性器がパンパンに腫れ上がりました。そうなったら病院に行くのですが下腹が張り裂けんばかりに痛みました。(中略)私は何度も性器が腫れて1年に3、4回は入院しました」[要出典]と李英淑は回想している[186]。 吉見義明は慰安婦は就業詐欺など違法行為による強制的な徴集、より厳しい行動の制限、多く見られる兵士による暴力など、むき出しの奴隷的制度であるとしている[194]。 秦郁彦は慰安婦は公娼より報酬の条件がいい[195]一方で、戦地であることや酔った兵の横暴にさらされやすかったなどの危険が、内地の低級娼婦よりも多かったと見ている。
兵士との関係
- 熊本県の活動家田中信幸は、日本陸軍第6師団の分隊長であった父親が、慰安所に行くことを「楽しい外出」、日本人・朝鮮人・中国人女性を慰安婦として扱うことを「日本、中国、朝鮮を征伐する」と日記に記していたことを、韓国挺身隊問題対策協議会に報告した[196]。
- 近衛師団通信隊員総山孝雄によれば、シンガポール陥落の時、イギリス兵相手だった売春婦たちが自発的に慰安婦に志願したが、予想もしない人数を処理するという彼女らには未経験の種類の過酷な労働だったので、一人が4、5人目でもうできないと言い出し、当番兵が打ち切りを宣言したところ、戦闘が終わった後で列を成して待っていた兵士達が騒ぎだし、怯えた当番兵は、ベッドに縛り付けてそのまま兵士の相手をさせようとしたこともあったという(その次の順番に当たって中に入った兵士(目撃者)が驚いて逃げ帰ったので、その後の情報はない)[197]。
- 元兵士の伊藤桂一は、慰安婦らは「ときには性具のように取扱われはしても、そこにはやはり連帯感のつながりがあった。だから、売りものに買いもの、という関係だけではない、戦場でなければ到底持ち得ない、感動のみなぎる劇的な交渉も、しばしば持ち得たのである」と述べ、当時の兵士と慰安婦たちの人間的な交流があったエピソードを紹介している[185]。
- 吉見義明は、兵士から見れば慰安婦は血なまぐさい戦場で、身近の唯一の女性であり、恋愛を含めた心の交流があったと話す場合が多いが、元慰安婦の証言からはそうした状況はまったく違って述べられているという。慰安婦側から見れば、愛想良く対応しないと殴られる、兵士の求めるような形で応対する事で少しでも楽に「仕事」を済ましたい、将校と仲良くなることで少しでも待遇をよくしてもらいたい、という動機であるとしている[150]。
- 1944年の米国戦争情報局心理作戦班報告によればビルマのミートキーナーの慰安所では、日本の軍人からの求婚もあり、実際に結婚したもケースも報告されている[184]。このほか、酒に酔った兵に脅された例、逆に刀を刺してしまった例、無理心中させられそうになった例、慰安婦に頼まれて自由にする金を横領した主計将校など様々な逸話がある[要ページ番号][147]。
慰安所の朝鮮人管理人の日記
2012年5月に韓国で発見された、1943から44年にかけビルマとシンガポールの日本軍慰安所に勤務していた朝鮮人の日記が、落星台経済研究所により現代韓国語に翻訳され、2013年8月に『日本軍慰安所管理人の日記』として韓国で出版された[198]。2013年9月には、堀和生と木村幹の監訳による日本語訳も公表された[199]。
それによると、慰安婦は食事や衣服住居を与えられ健康的であった。彼女らは医療的配慮の上出産し、望まぬ妊娠の場合は病院で堕胎していた。何人かは結婚し夫と一緒に暮らすことを望んでいたが、また慰安婦として戻されていた。
米軍報告における慰安婦(ビルマのミッチーナーの慰安所)
1944年9月にインドのレドで作成された日本人戦争捕虜尋問レポート No.49では、ビルマの戦いのミッチーナー陥落後の掃討作戦において捕獲された慰安所経営者の日本人夫婦及び朝鮮人慰安婦20名に対する尋問内容が記録されている。この報告では「慰安婦」とは日本軍に特有の用語で、軍人のために軍に所属させられた売春婦は内容の正確な説明がなされないままに勧誘されたこと、署名による契約で前借金数百円が与えられたこと、応募した女性には娼婦もいたことや、ミッチーナでの生活環境は買い物や外出などが可能で、比較的良好であり、将兵と共にスポーツ、ピクニック、娯楽、社交ディナー等、蓄音機も楽しんだこと。接客を断る自由もあり、軍人が泥酔していた時には断ることもしばしばあったこと。避妊用具が支給され、軍医による週1回検診などで彼女らの健康状態は良く、日本軍人と結婚した者もいたこと、慰安所経営者は借金額に応じて彼女らの総収入の40〜60%を受け取っていたこと。彼女らは月平均で1500円の総収益を上げ、750円を経営者に返済していたこと、(但し後の米軍ATISの調査報告書No.120 1945/11/15 では慰安婦の売り上げ(gross)は最高1500円、最低300円/月で慰安婦は経営者に最低150円/月は支払わなければならなかったとの証言記録がある)(当時の日本兵の月給は二等兵で6円、少尉で70円、大将で550円[200])。彼女達は十分なお金を持ち、衣服、化粧品、タバコといった嗜好品を購入できたこと。一方で、経営者は食事や品物に高値を付け、彼女らの生活を厳しいものにしたといったこと。日本軍が借金を返済した慰安婦は帰国することができるようにせよとの命令書を発行したために一部の慰安婦は帰国を許されたことが記録されている。小林よしのりは、同報告書からは、慰安婦の生活状況が悲惨ということとは程遠く、むしろ恵まれていたのではないかと主張している[201]。
日本の慰安婦問題
日本の慰安婦・日本軍慰安婦問題には、様々な認識の差異や論点があり、現在までに日本、韓国、アメリカ、中国、北朝鮮、国連などで国際的な議論ともなってきた。これらには、制度としての慰安婦は、軍相手の「管理売春」という商行為をおこなう存在であり、慰安婦には報酬が支払われていたこと[202]、また、民間業者が新聞広告などで広く募集するなどして日本人および日本人以外の女性に対しても慰安婦として採用していた[203]と合法性を主張するものや、主として韓国から主張される日本の場合だけは強制連行された無報酬の性奴隷であったとするもの[204]があり、論争となっている(強制連行の有無の節を参照)。
「慰安婦問題」[205]は戦後すぐに起こったのでなく、1970年代になってから、旧日本軍の公娼制度に批判的な論調や戦地の女性を強制連行し、慰安婦にしたとする本が出版されはじめて議論となるようになった。初期ウーマン・リブの運動家田中美津の1970年の著作に「従軍慰安婦という一大便所集団」の「大部分は朝鮮人であった」[206])「貞女と慰安婦は私有財産制下に於ける性否定社会の両極に位置した女であり、対になって侵略を支えてきた」[207]という記述がある[208][134]。
1973年には千田夏光『従軍慰安婦』(双葉社)が刊行され、朝鮮人女性が20万連行され、そのうち5〜7万が慰安婦とされたと書く。のちのアジア女性基金調査(高崎宗司)によれば、これはソウル新聞の記事の誤読ではないかとし、また数値の根拠は不明としている(千田夏光#朝鮮人慰安婦強制連行「20万」説参照)[209]。千田の著作に対しては他にも虚偽が含まれ、数十箇所にもおよぶ矛盾や問題点が指摘されており、千田自身関係者に謝罪したとされるが出版元の三一書房と講談社は問題箇所を改訂することなく出版し続けた[210]。千田の著作はこのように検証されることなく他の著作へと孫引き引用され国連人権委員会の報告にも使用されている。
吉田証言と慰安婦論争
いわゆる慰安婦論争が再燃する契機となったのは、元陸軍軍人を自称する吉田清治(本名:吉田雄兎)が自著『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社 1977年)で、軍の命令で自身が韓国の済州島で女性を「強制連行」して慰安婦にしたと告白し、さらに1982年に樺太裁判で済州島で朝鮮人奴隷狩りを行ったと証言し、1983年7月に戦中済州島で自ら200人の女性を拉致し慰安婦にしたと証言する『私の戦争犯罪―朝鮮人強制連行』(三一書房)を出版したことに始まる[211][212]。1983年11月10日には朝日新聞が「ひと」欄で吉田清治を紹介し、以後吉田を計16回取り上げて報道した[213]。この吉田の著作内容はのちに済州新聞の許栄善記者や秦郁彦らの調査の末、捏造が指摘され吉田本人も創作と認めることとなるが、慰安婦問題は著作を離れ独り歩きすることとなる[214][215]。最初期から吉田証言を取り上げ、吉田が創作を認めた後も史実として報道していた朝日新聞は32年の間、問題を放置し、2014年8月5日になってようやく独自検証の結果、吉田証言の証拠が見つからず、虚偽と認定し記事を撤回したものの謝罪は一切無かった。[216]。
1984年には韓国で宋建鎬(朝鮮語)が挺身隊として動員された女性は20万人でありそのうち5万人から7万人が朝鮮人であった(数値は千田前掲書と同一)とする1969年の韓国日刊紙の報道を日帝が挺身隊の名目で20万人の朝鮮女性を連行し、そのうち5万から7万人を慰安婦としたと置き換えて報じたことを発端として、現在では、北朝鮮は朝鮮女性20万人が強制的に慰安婦にされ840万人が強制連行されたとし、大韓民国国定教科書は数十万人の朝鮮女性が強制的に慰安婦にされ、650万人の朝鮮人が強制的に動員されたと主張している[217][218]。これらの韓国・北朝鮮両政府の公式見解について、李栄薫ソウル大学教授は、1940年当時の16歳から21歳の朝鮮女性は125万人であり、20歳から40歳の朝鮮人男性は321万人であるため、これらの数値は正しくないと述べている[217][218]。
吉田の著書は1989年に韓国でも出版され、同年中に済州島新聞(1989年8月14日付[212])[219]や済州島郷土史家の金奉玉によって虚偽であることが判明し日本人の悪徳を表す軽薄な商魂の産物であるとされたが[211][169]、「朝鮮と朝鮮人に公式謝罪を・百人委員会」事務局長青柳敦子と在日朝鮮人宋斗会が韓国で謝罪と補償を求める訴訟の原告を募い[220][211]、吉田は韓国に渡り、謝罪碑建立と謝罪活動を始めた[211]。
こうしたことを背景に1990年には慰安婦の調査を行なって来た梨花女子大元教授の尹貞玉(ユン・ジョンオク)が日本軍慰安婦問題を新聞などのメディアで告発し、多数の女性団体が結集した「挺身隊対策協議会」を初めとして、様々な団体[要出典]がこの問題に取り組み韓国において日本軍慰安婦問題が大きな運動になる[要出典]。1991年には、韓国で元慰安婦が初めて名乗り出て、自らの体験を語った。その後も韓国、フィリピン、台湾などで、元慰安婦であったと名乗り出る女性が多数現れ、日本の弁護士らの呼びかけで、日本政府に謝罪と賠償を求める訴訟がいくつも起こされるようになる[221]。
吉田はその後も日本、韓国、アメリカなどで講演を行なったり、メディアに精力的に出演し[222]、数々の裁判の加害証人として加害証言を続け、1990年代には国連の人権委員会に働きかけるなど[要出典]、世に広く知られるようになった。
吉田証言は済州島の新聞社の調査や秦郁彦らの検証を通じて疑義が出され、吉田は「本に真実を書いても何の利益もない」などと主張し、時と場所を創作した事を認めた[223][224]。済州島の郷土史家金奉玉は吉田による証言について、「数年間も追跡調査を行った結果、事実ではないことが明らかになった。この本は日本人の浅ましさをあらわす軽薄な商魂の産物であると考える」と述べている[169]。
しかし、この吉田証言は日本官憲が女性を徴発したとする今日の韓国人の集団的記憶形成に決定的に寄与したといわれ[212][225]、2012年9月5日にも朝鮮日報は吉田清治の手記を取り上げ「この本一冊だけでも日帝の慰安婦強制連行が立証されるのに十分である」として再び強制連行の証拠であると主張している[226]。
2014年8月5日、朝日新聞は済州島を独自に再取材したが、証言を裏付ける証拠は得られず、また研究者への取材でも証言の矛盾がいくつも明らかになったとし、吉田証言を虚偽と認定し当時の記事を撤回した[213]。
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日本の新聞の報道・慰安婦訴訟
『朝日新聞』は、1982年9月2日(大阪版)22面において「朝鮮の女性 私も連行 元動員指揮者が証言 暴行加え無理やり 37年ぶり危機感で沈黙破る」、1983年11月10日朝刊3面「ひと 吉田清治さん」で、吉田清治を取り上げて報道。1984年11月2日には「私は元従軍慰安婦 韓国婦人の生きた道」と題し、「邦人巡査が強制連行 21歳故国引き離される」と元慰安婦と主張する女性のインタビュー記事を掲載。
『読売新聞』でも1987年に「従軍慰安婦とは、旧日本軍が日中戦争と太平洋戦争下の戦場に設置した「陸軍娯楽所」で働いた女性のこと。昭和十三年から終戦の日までに、従事した女性は二十万人とも三十万人とも言われている。「お国のためだ」と何をするのかも分からないままにだまされ、半ば強制的に動員されたおとめらも多かった。」と説明がされている。(読売新聞社の元記者小俣行男は「『戦場と記者 - 日華事変、太平洋戦争従軍記』冬樹社,1967年」にもビルマ(現在のミャンマー)での従軍慰安婦についても書いていて読売社内での従軍慰安婦についてはいくらか浸透していたと見られる。)[227]
『朝日新聞』(東京の社会部市川速水記者が取材チームを率いていた[228]。)1991年5月22日『朝日新聞』大阪版が再び吉田証言を紹介し[229]、同1991年8月11日に朝日新聞が「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」(植村隆韓国特派員・ソウル発)記事で元慰安婦の金学順について「女子挺身隊の名で戦場に連行され」たと報道する。同年8月15日韓国ハンギョレ新聞は金学順が「親に売り飛ばされた」と報道し[211]、また金学順の裁判での供述との矛盾などもあり[230]、西岡力は、朝日新聞による一連の報道は誤報であると述べている[231]。しかし朝日新聞による「従軍慰安婦」報道は韓国でも伝えられ、反日感情が高まり、慰安婦問題は日韓の政治問題となっていった。同年10月10日には朝日新聞大阪版が再度、吉田清治へのインタビューを掲載する[232][211]。同年12月10日には「第2次大戦の直前から『女子挺身隊』などの名で前線に動員され、慰安所で日本軍人相手に売春させられた」、1992年1月11日には「太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は8万とも20万ともいわれる」と報道。
1991年10月7日から1992年2月6日にかけて韓国のMBC放送が20億ウォンの予算[233]を投入して製作したドラマ『黎明の瞳[234]』を放映し、最高視聴率58.4%を記録した。物語ではヒロインが従軍慰安婦として日本軍に連行され、日本軍兵士が慰安所を利用したり、朝鮮人兵士を虐待する場面がそのまま放映され、反日感情を煽った[233]。原作は金聖鍾の全10巻にも及ぶ小説で、1975年10月から韓国の日刊スポーツ新聞で連載されていたもの[235]。
池田信夫によると、福島瑞穂や高木健一らは原告になる元慰安婦を募集するために韓国で金学順を発掘し、福島はNHKにこの話を売り込んだうえ、NHKのスタジオに立ち会い、金学順に「親に売られてキーセンになり、義父に連れられて日本軍の慰安所に行った」と台詞指導をおこなった。この時点では敗戦で無効になった軍票で支払われた給与の賠償が目的だった[236]。1991年12月6日には、福島瑞穂、高木健一などが日本政府に慰安婦補償を求めた初の損害賠償請求裁判を提訴し[237]、アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件として裁判が開始される(2004年最高裁で敗訴確定)。これを朝日新聞は当該訴状で「親に売られてキーセン(妓生。娼婦のこと)になった」と記載されているものを「軍が慰安婦を女子挺身隊として強制連行した」と書き変えて報じた[237]ため、福島らも訴状を「軍に連行された」に変更した[236]。
宮沢喜一首相の訪韓を前にした1992年1月11日、朝日新聞が一面で「慰安所、軍関与示す資料」「部隊に設置指示 募集含め統制・監督」「政府見解揺らぐ」と報じる。この記事は陸支密大日記を吉見義明が「発見」したと報道されたが、研究者の間ではこの資料は周知のものであったと秦郁彦は指摘している[238]。同日朝日新聞夕刊では「韓国メディアが朝日新聞の報道を引用して報道」とのソウル支局電を掲載した[239]。翌1月12日の朝日新聞社説では「歴史から目をそむけまい」として宮沢首相には「前向きの姿勢を望みたい」と主張した。またジャパン・タイムズは1月11日夜のテレビ番組で渡辺美智雄外相が「なんらかの関与があったということは認めざるをえない」との発言を、「日本の政府責任者が戦時中に日本軍がhundreds of thousands(何十万人)ものアジア人慰安婦への強制売春 (forced prostitution) を初めて認めた」との記事を掲載した(秦郁彦は、実際の発言内容とは異なると述べている)[239]。1月13日、加藤紘一官房長官が「お詫びと反省」の談話を発表[211]、1月14日には韓国で、女子挺身隊を誤解歪曲し「国民学校の生徒まで慰安婦にさせた日帝の蛮行」と報道[211]、同1月14日、宮沢首相は「軍の関与を認め、おわびしたい」と述べ[239]、1月16日には天皇の人形が焼かれる[239]など反日デモが高まる韓国に渡り、首脳会談で8回謝罪し、「真相究明」を約束した[211]。毎日新聞ソウル支局の下川正晴特派員は当時の会見の様子について「韓国の大統領主席補佐官は、韓国人記者たちに謝罪の回数まで披露した。こんな国際的に非礼な記者発表は見たことがない」とのちに述べている[240]。
朝日新聞による慰安婦報道の訂正、取消
朝日新聞は1997年3月31日に吉田の「著述を裏付ける証言は出ておらず、真偽は確認できない」との記事を掲載した[241]が、訂正記事は出さなかった[242]。しかし、2014年8月5日朝日新聞は慰安婦問題に関する「慰安婦問題を考える」・「読者の疑問に答えます」と題した検証記事(16-17面)を掲載した。1982年9月2日大阪本社版朝刊社会面の吉田の記事初掲載から確認できただけで16回掲載したとし、1992年4月30日、産経新聞朝刊の秦の吉田証言への疑問との指摘や、1997年3月31日の特集記事のため虚偽との指摘や報道があるとして取材面会を申し込むが吉田から拒否され、吉田は「体験をそのまま書いた」と電話で答えた、その後朝日新聞として吉田のことは取り上げていないとしている。2012年11月自民党安倍晋三総裁の日本記者クラブ主催の党首討論会での朝日新聞の誤報による詐欺師のような吉田の本がまるで事実のように伝わり問題が大きくなったとの安倍の指摘までなどを順次経過を追って記述し、「2014年4月から5月にかけて済州島内で70代後半から90代の計約40人から話を聞いたが強制連行したという吉田の記述を裏付ける証言は得られなかったとして『「済州島で連行」証言 裏付け得られず虚偽と判断』とした」。また「読者のみなさまへ」として「当時、虚偽の証言は見抜けませんでした。」としている[243][244][245][246]。吉田の長男によれば、妻は日記(西部軍の動員命令を記してあると吉田氏が主張した)をつけていなかったという。また93年5月に吉見義明中央大教授と会った際「強制連行の日時や場所を変えた場合もある」と述べた[213]。
2014年9月11日、朝日新聞社社長木村伊量や取締役編集担当らが過去の記事の訂正に関して謝罪会見を行った。同年5月20日記事の吉田調書に関して作業員の撤退と報じた事は誤報であったと訂正し会見で謝罪した。また同年8月5日慰安婦に関する吉田証言を虚偽と訂正を報じた後、謝罪会見がないと指摘があったが、この会見で付随して謝罪した[247]。また二日後13日付け社説や1面コラムでも謝罪した[248]。9月27日、しんぶん赤旗も吉田証言の記事を取り消した[249]。2014年9月29日、朝日新聞朝刊は、1982年9月2日大阪本社版朝刊社会面の吉田の記事初掲載以降16回掲載され、初回掲載の元記者は吉田の講演を聞き記事にしたとされたが、その元記者の渡航履歴では講演の日には日本に居らず、その元記者は初回を書いのは記憶違いで書いていなかった、しかしその後数回書いたと明らかにし、別の元記者が吉田の記事を1回だけ書き、初回掲載は自分かもしれないと名乗り出たと、32年前の記事記載元記者に関する訂正を行った[250][251]。2014年9月27日、しんぶん赤旗も朝日新聞の8月5日の特集記事を機会に検証し、1992年から93年に3回「吉田証言」や著書を取り上げたが信ぴょう性がなかったとして取り消し・謝罪記事を掲載した[252]。
また、朝日新聞は記事以外でも吉田証言から謝罪までの間に天声人語で15回、声の欄で朝日新聞の主張に沿ったもののみ480回慰安婦問題を取り上げており[253]、2014年9月13日付けの天声人語、社説でも謝罪している[254]。
2014年12月23日、吉田清治への取材から「2回ほど朝鮮半島に出かけ、“朝鮮人狩り”に携わった」と報じた記事など追加で2本取り消し、朝日新聞の一連の記事取り消しは計18本となった[255][256]。
朝日新聞による「週刊新潮」「週刊文春」広告拒否・伏せ字問題
朝日新聞社は、同新聞が掲載した従軍慰安婦問題の記事についての批判を掲載した「週刊文春」[257]と「週刊新潮」[258](いづれも9月4日号。8月28日発売=関東基準、以下同文)の広告掲載を拒否した。
このことについて、文芸春秋は「当該号には、慰安婦問題に関する追及キャンペーンが記載されている」として、「新聞の愛読者が、当該記事のみならず他の記事の広告まで知る機会を一方的に奪うのは、社会の公器として、あるまじき行為」として、抗議文を提出した[257]。
また新潮社も「週刊新潮」に「朝日新聞社の辞書に『反省』『謝罪』の言葉はない!!」とする批判の見出しを掲載し、朝日がこの広告掲載を見合わせたことについて「批判されたからといって広告を拒否するとは言語道断。来週号で検証したい」と広報が語っている[258]。
そして、9月11日号(9月4日発売)の広告について、一部を伏せ字で隠す処置を施して掲載すると、朝日新聞社広告局から連絡があった。「週刊新潮」[259]は「売国」「誤報」などの文言、「週刊文春」[260]も「不正」「捏造」などの文言をそれぞれ黒丸か白丸で隠して掲載した。また、「週刊文春」は、9月11日号で、広告拒否問題についての批判を掲載した。
朝日新聞社の経営的打撃
2014年に植村の虚偽報道問題が露になり東京電力の吉田調書誤報問題と重なって朝日新聞の契約数は減少している。同年6月では740万部あった契約数が同年10月で約700万部まで減少している(日本ABC協会調べ)[261][262][263]。販売部数の減少等により、同社の同年9月中間連結決算では営業利益が50.5%減となった。同社広報部は慰安婦報道・原発報道の問題の影響につき「中間決算には限定的だったが、通期では一定程度の影響が出るものと考えられる」と説明している[264][265]。長年同社の販売部門を担当し新体制において会長職に就いた飯田真也は、新聞販売所や取引先から厳しい叱責を受けていると説明している[266]。
朝日新聞による「慰安婦問題」の国際問題化について
朝日新聞による慰安婦強制連行記事は吉田清治が自著を捏造と認めた後も長らく訂正されることがなく、慰安婦強制連行が国際問題化した要因であると指摘されており、安倍晋三総理大臣も朝日新聞を名指しで批判している[267]。朝日新聞が一連の自社報道の問題検証のため発足させ検証を行っていた「第三者委員会」でも「日本軍が集団的、暴力的に女性を拉致した」とのイメージを定着させた証拠は決定的ではないとしつつも、「韓国における慰安婦問題の過激な言説を、朝日新聞やその他の日本メディアがエンドース(裏書き)し、韓国での批判を過激化させた」と指摘した[268]。「第三者委員会」の報告については自己弁護に過ぎるという指摘もみられる中で、内外のメディアはその報告を受けて次のような見出しで報じている。
メディア | 記事見出し |
---|---|
ガーディアン紙 | 性奴隷報道により日本のイメージが傷つけられたという証拠はない、と専門家 |
米ワシントン・ポスト紙 | 朝日に、日本非難の責任はない |
ロイター | 日本の日刊紙は、従軍慰安婦報道への批判を受け、改革を約束 |
毎日新聞 | 朝日慰安婦検証:「自己弁護が目立つ」第三者委報告書 |
産経新聞 | 第三者委が「国際的影響」認める報告書 |
読売新聞 | 朝日の慰安婦報道「読者の信頼裏切る」第三者委 |
朝日新聞報道が国際社会に影響を与えた経緯について読売新聞は次のように報道している。朝日新聞に掲載された吉田証言は同じく朝日新聞の植村隆の慰安婦強制連行記事とともに韓国メディアに取り上げられ、1990年代後半には国際社会へと拡散されていった。吉田証言を採用した国際的な決議や報告には1996年の国連人権委員会のクマラスワミ報告、1998年のマクドゥーガル報告書、2007年のアメリカ合衆国下院121号決議などがある。国際問題化する過程では、朝日報道を韓国メディアが引用して取り上げることで、韓国世論で日本への批判が高まり、今度は朝日がそれを再び報じるということが繰り返され、朝日と韓国のメディア、世論による一種の「共鳴」とも言える状況がみられた[269]。 また、2015年2月19日、朝日新聞の慰安婦報道を外部から検証してきた「朝日新聞『慰安婦報道』に対する独立検証委員会」が報告書を発表。報告では、朝日新聞の慰安婦報道について「強制連行プロパガンダ(宣伝)」と断定し、このプロパガンダによって国際社会に誤った事実が拡散し、日本の名誉を傷つけていると結論づけている[270][271][272]。
宮沢首相による謝罪から「河野談話」まで
宮沢首相は盧泰愚大統領との首脳会談で事実関係の調査を経ることなく[220]慰安婦問題について何度も謝罪し[220][211]、「真相究明を約束する」と表明した。一方で同じ92年、日本の歴史家秦郁彦によって吉田清治本に対する済州島での現地調査の結果が公表され、吉田の主張が虚偽であることが確認された[211]。
秦の指摘によれば[273][274]、日本弁護士連合会(日弁連)は1992年に戸塚悦朗弁護士を海外調査特別委員に任命し、海外の運動団体と連携し、国連へのロビー活動を開始し、同1992年2月、戸塚弁護士はNGO国際教育開発(IED)代表として、朝鮮人強制連行問題と「従軍慰安婦」問題を国連人権委員会に提起し、「日本軍従軍慰安婦」を「性奴隷」として国際社会が認識するよう活動していったとされる[275][274]。当時日弁連会長だった土屋公献も日弁連が国連において慰安婦を「性的奴隷(Sex SlavesまたはSexual Slavery)」 として扱い、国連から日本政府に補償をおこなうように働きかけたことを言明している[276]。その結果として1993年6月のウィーンの世界人権会議において「性的奴隷制」が初めて「国連の用語」として採用され[276]、1996年のクマラスワミ報告書では「軍隊性奴隷制 (military sexual slavery)」と明記されることとなったと西岡力は主張する[277]。
中韓国交正常化
1992年8月24日、韓国と中国が中華人民共和国と大韓民国との外交関係樹立に関する共同声明を発表、戦後はじめて中韓の国交が正常化される[278][279][280]。
1992年12月25日には釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟が始まる(2003年最高裁で敗訴確定)。1993年4月3日には、元慰安婦の宋神道が提訴し、在日韓国人元従軍慰安婦謝罪・補償請求事件についての裁判がはじまる(2003年最高裁で敗訴確定)。
1993年、韓国政府は日本政府に日本の教科書に慰安婦について記述するよう要求する(歴史教科書問題参照[211])。
河野談話
慰安婦の強制連行に関する日本政府の第一次調査では「軍の関与」は認めたものの、「強制連行」を立証する資料は無かったとした。これに対して、韓国政府は強制性を認めるよう要求する。日本政府は再度調査を行ない、1993年8月4日、宮沢改造内閣は慰安婦調査の結果「いわゆる従軍慰安婦問題について」[281]を発表した。ここでも強制連行を示す資料は存在しなかったと明記されたが、同日、政府調査発表の際に、河野洋平官房長官が「河野談話」を発表する[282]。河野談話では「日本政府が強制したということは認めたわけではない」が[283][284]、日本軍の要請を受けた業者によって女性が意志に反して集められ、慰安婦の募集について「官憲等が直接これに加担したこともあった」「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。」として、「日常生活に強制性が見られた」と解釈し[283]、反省とお詫びの意を示した。また、平成六度版の高校歴史教科書から、韓国政府から強く要請されていた慰安婦の記述がなされるようになり、高校・中学校のほとんどの歴史教科書で従軍慰安婦として記載される[211]。
その後、河野談話が国内外から出される対日非難決議の根拠とされることもあり[285][286][284][220]、河野談話の評価については議論が分かれている(後述)。
1994年には永野茂門法務大臣が「慰安婦は公娼である」と述べたことで辞任に追い込まれた[211]。
河野自身は慰安婦募集の強制性(強制連行)について、読売新聞「時代の証言者」(2012年10月8日)において、それを裏付ける「紙の証拠(は)ない」と証言している[287][288][要検証 ]。
後に、談話の記載内容について韓国政府の事前関与があったことがあきらかになっている。2012年はに野田佳彦首相が、「強制連行の事実を文章で確認できず、日本側の証言もなかったが、いわゆる従軍慰安婦への聞き取りから談話ができた」との答弁をおこなった[289]。
2014年6月20日、河野談話の作成過程について、但木敬一、秋月弘子、有馬真喜子、河野真理子、秦郁彦の5人からなる検討チームの報告書「慰安婦問題を巡る日韓間のやりとりの経緯〜河野談話作成からアジア女性基金まで〜」が政府の名義で公表された。これに対して韓国は激しく非難している。
村山談話
1995年8月15日発表の村山富市内閣総理大臣談話(村山談話)[290]の中で、いわゆる従軍慰安婦問題について「女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、私はこの機会に、改めて、心からの深い反省とお詫びの気持ちを申し上げたいと思います。我が国としては、このような問題も含め、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、関係諸国等との相互理解の一層の増進に努めることが、我が国のお詫びと反省の気持ちを表すことになると考えており、本計画は、このような気持ちを踏まえたものであります。」との反省の弁が述べられた。
第2次橋本内閣での閣議決定
1997年1月に 第140回通常国会において、第2次橋本内閣の平林博内閣外政審議室長は、「政府が調査した限りの文書には慰安婦の強制募集を直接示すような記述は見いだせなかった」との答弁をおこなった。河野談話前の調査の信ぴょう性を問うた高市早苗の質問主意書を受けて、内閣は1997年12月に「軍や官憲による慰安婦の強制連行を直接的に示すような記述は見られなかった」とする答弁書を閣議決定した。直接証拠は存在しないものの「証言聴取なども参考に総合的に判断した結果」であるとした[291]。
吉田清治による証言否定とその後の日本国内の動向
吉田清治は自著の虚偽を指摘された後も韓国での謝罪行脚や朝日新聞での証言を続けていたが、1995年に「自分の役目は終わった」として著書が自身の創作であったことを認め[211]、朝日新聞は1997年に「吉田証言の真偽は確認できない」との記事を掲載した[211]。2007年に安倍晋三首相は「虚偽と判明した吉田証言以外に官憲の関与の証言はない」と答弁している[292]。
1996年6月に文部省(現:文部科学省)が検定結果を公表した中学校教科書では全ての歴史教科書に慰安婦に関する記述がなされていたことを問題として同年12月に「新しい歴史教科書をつくる会」(略称・つくる会)が発足。教科書を「自虐史観」であると批判し、新しい歴史教科書をつくる運動を進め、慰安婦問題は「歴史認識問題」、「歴史教科書問題」にもなっていった。2001年4月、「つくる会」の中学校歴史教科書が検定を合格したが、強い反対運動もあり、実際にはほとんどの中学校で採択されなかったが一方、同年に検定通過した他の教科書において、政府の方針や世論の関心の高まりもあり、慰安婦の記述も減少し、1999年には中学歴史教科書からは「従軍慰安婦」という用語が消えた。
与党・自由民主党内においても、若手議員らが、「つくる会」と同様に現在の日本の歴史認識を「自虐的」として修正を求める運動を始めるようになる。翌1997年には、「河野談話」発表に至る調査に関わった政府関係者が、強制連行の証拠となる資料は一切なかったが、韓国政府の強硬な要請に押され、政治判断として強制性を認めたことなどを明かした[293][144][145]ことから、証拠もなく、日本を不利な立場に立たせたとして、「河野談話」への批判[294][295]もなされるようになり、強制連行の有無などをめぐり激しい議論がマスメディアで繰り広げられるようになる。
「河野談話」で強制性を認めた政府ではあったが、時折、自由民主党の所属議員が強制連行を否定する発言をし、それが大々的に報じられ、中国、韓国からの強い反発を招くということが繰り返されている。
アジア女性基金と韓国政府による受領拒否
1995年、日本政府は医療・福祉支援事業や民間の寄付を通じた「償い金」の支給などの元慰安婦に対する償い事業のために、民間(財団法人)からの寄附という形で「女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)」を設立し、運営経費や活動資金を負担した。
1996年には橋本龍太郎内閣総理大臣が元慰安婦(アジア女性基金が対象としていない日本人女性を除く)に対しておわびの手紙を出す[128]。同時に、サンフランシスコ講和条約、二国間の平和条約及び諸条約(日韓基本条約など)で法的に解決済みであることを明らかにし、また河野・村山いずれの談話も慰安婦という職業の存在を認め名誉を傷つけたとはしているが強制連行などをしたとの見解は表明していないともコメントした[290][128]。また橋本は女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であるとの認識のもと、道義的責任の観点から、アジア女性基金の事業への協力、日本人女性を除く元慰安婦に対する医療・福祉支援事業に対し資金拠出などを行った[128]。1997年1月よりアジア女性基金は償い金の給付と医療福祉援助を行い、韓国人、台湾人、オランダ人、フィリピン人女性など計285名の元慰安婦に対し、一人当たり200万円の「償い金」を受給した[296]。元慰安婦の認定が行われていないオランダに対しては現地の慰安婦関係者に対する生活改善支援事業に、元慰安婦の特定が困難なインドネシアに対しては高齢者社会福祉事業を援助した。2001年には小泉純一郎首相がおわびの手紙を[297]各慰安婦に送った。
韓国や台湾では日本政府に対し「法的責任を認め、国家補償を行なえ」という主張を掲げる運動の影響が強く、アジア女性基金を受け取ろうとする元慰安婦に対して、受け取るべきでないと圧力が加えられる。
特に韓国では、韓国政府や民間団体が「基金を受け取らないと誓約すれば300万円・200万円を支給する」ことを表明したため、韓国では半数以上の元慰安婦が受け取りを拒否した。韓国政府は当初歓迎の姿勢を見せたが、反対運動によって方針を変える。1997年に11名の元慰安婦が償い金を受領したが、1998年に韓国政府はアジア女性基金の償い金の受け取りは認めない方針を示した[296][298]。これに対して日本側は医療施設建設など事業転換を提案したが、1999年6月に韓国政府は改めて拒否を通告した[296]。
これにより、韓国政府はアジア女性基金による償い金受けとらないと誓約した元日本軍慰安婦には生活支援金を支給することとし、韓国政府認定日本軍慰安婦207人のうち、アジア女性基金から受給した元慰安婦や既に亡くなったものを除く142人に生活支援金の支給を実施した[296][299][298]。一方、アメリカ軍相手の売春を強制されていた女性達は謝罪と補償を求めているが[300][299]、自発的な売春婦であるとして一切の謝罪・補償をおこなっていない[299]。韓国政府やアメリカ人によりアメリカ軍相手の売春を強制されていた女性達は、韓国政府の日本に対する絶え間ない賠償要求は韓国自身の歴史に対する欺瞞であると訴えている[300]。フィリピン政府としては売春を強制されたフィリピン人女性のために韓国で訴訟活動を行っている[301]。2000年代以降、挺対協や韓国政府主催の世界韓民族女性ネットワークは日本軍慰安婦への謝罪と賠償を求める活動を世界各地でおこなっている[302][303][304][305][306]。日本からは民主党の岡崎トミ子議員が韓国でのデモに合流している[307]。
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日韓慰安婦問題に関する合意
2015年12月 日韓両政府は長年の問題となっていた慰安婦問題について解決すべく合意に至る。 岸田文雄外相と尹炳世(ユン・ビョンセ)外相がソウル市内で行われた記者発表にて発表された合意内容によると下記の通りである。
日本政府:岸田の発言
(1)慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、かかる観点から、日本政府は責任を痛感している。 安倍首相は、日本国の首相として改めて、慰安婦としてあまたの苦痛を経験され、心身にわたり癒やしがたい傷を負われた全ての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを表明する。
(2)これまでも本問題に真摯(しんし)に取り組んできた所、その経験に立って、今般、日本政府の予算により、全ての元慰安婦の方々の心の傷を癒やす措置を講じる。
具体的なもの;(韓国政府)元慰安婦の方々の支援を目的とした財団設立。→日本政府の予算10億円程度で資金を一括拠出。
目的:日韓両政府が協力のもとで全ての元慰安婦の方々の名誉と尊厳の回復、心の傷の癒やしのための事業。
上記表明すると共にこれらの措置を着実に実施するとの前提で、今回の発表により、この問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する。
あわせて、日韓両国政府と共に、今後、国連等国際社会において、本問題について互いに非難・批判することは控える。
@以上については日韓両首脳の指示に基づいて行ってきた協議の結果であり、これをもって日韓関係が新時代に入ることを確信している。
韓国政府;尹炳世(ユン・ビョンセ)
(1)日本政府の表明と今回の発表に至るまでの取り組みを評価。
※日本政府が表明した措置が着実に実施されるとの前提
今回の発表により、日本政府と共にこの問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する。
(韓国政府)日本政府の実施する措置に協力する。
(2)日本政府が在韓国日本大使館前の少女像に対して公館の安寧・威厳の維持の観点から懸念していることを認知。
可能な対応方向について関連団体と話し合いを行い、適切なかたちで解決するよう努力する。
(3)日本政府と共に、今後、国連等国際社会において、本問題について互いに批判することは控える。
@今般日本政府が表明した措置が着実に実施されるとの前提
尹炳世(ユン・ビョンセ)の発言
国交正常化50年の今年中に岸田外相とこれまでの交渉に終止符を打ち、この場で交渉妥結を宣言できることをうれしく思う。
今回の合意のフォローアップ措置が着実な形で履行され、辛酸をなめさせられた元慰安婦の方々の名誉と尊厳が回復され、心の傷がいやされることを心より祈念する。
また両国の最もつらく厳しい懸案であった元慰安婦被害者問題の交渉が妥結したことを機に、来年からは新しい気持ちで、新しい日韓関係を切り開いていけることを期待する。
国連人権委員会の報告書
クマラスワミ報告
韓国の運動団体や日本カトリック教団[308]や日本弁護士連合会[309]などの組織が、国連人権委員会に対して慰安婦問題の積極的なロビー活動を行った。1996年、国連人権委員会は「女性に対する暴力」の審議でラディカ・クマラスワミを特別報告者に任命し、その報告書が国連人権委員会に提出された(クマラスワミ報告書)。この報告書の附属文書では慰安婦制度を国際法違反とし、日本政府に対して慰安婦に対する賠償を勧告している。しかし、この報告書が典拠としている吉田清治の証言(#吉田証言と慰安婦論争も参照)について後に虚偽であったことが判明しており、同じく典拠としているジョージ・ヒックスの著作『性奴隷』について二次文献をまとめたもので研究書としての価値は低く事実誤認と歪曲が多数あるとの指摘がある[310]。他にも多数問題点があるとして、日本の運動団体「日本の戦争責任資料センター」の荒井信一[311]や吉見義明、秦郁彦らの歴史学者による批判がある[312]。
マクドゥーガル報告書
1998年にマクドゥーガル報告書が提出された[284]が、その序論において「1932年から第二次世界大戦が終わるまで、日本政府と日本帝国軍は20万以上のアジア女性を強制的にアジア各地のレイプセンターの性奴隷とした。」「連日の虐待を生き延びた女性はわずか25%にすぎないと言われる。」(アジア女性基金 訳)としている。この「20万」や「25%」という数字について、日本のアジア女性基金の調査では出典の信憑性がないとした(女性のためのアジア平和国民基金#マクドゥーガル報告書を参照)が、マクドゥーガル報告書が提出されると、報告書を検証することなしに日本のカトリック教会枢機卿白柳誠一は日本政府に謝罪と補償を求める[313]とともに「応じよ!国連勧告」100万人署名運動を呼びかけた[308]。2000年には、朝日新聞元編集委員の松井やよりが主催する「戦争と女性への暴力」日本ネットワークや韓国挺身隊問題対策協議会などの団体によって「女性国際戦犯法廷」という民衆法廷が開かれた。「法廷」では「昭和天皇および日本国は有罪」との「判決」が下され、取材をおこなった海外のメディアが「日本国が女性を強制連行して性奴隷にした」と報じたことで慰安婦問題は世界各国でも認識されるようになった。
2004年8月10日、東京造形大学教授で国際人権活動日本委員会の前田朗は、ジュネーブで開かれた国連人権促進保護小委員会において20万人もののコリア、中国などの女性が日本軍の慰安婦としての性労働を強いられたうえに拷問や栄養不良などで殺害されたり、なかには爆撃下のたこつぼ(蛸壺壕)でレイプされた女性もいたとして大量虐殺的強姦という概念を提唱し、日本政府は何も聞こうともせず、いまだ何も行っていないと非難し、犯罪者である日本を処罰する権利と被害者の救済を要請した[314]。
当時、慰安所営業者の半数は朝鮮人であり[152]、日本軍は慰安婦募集の誇大広告を禁止するとともに渡航する女性が本人自ら警察署で身分証明書の発給を受けて誘拐でないことを確認するよう通達を出していた[315]。朝鮮では日本の官憲が日本人や朝鮮人の女性を誘拐して売買をおこなった者を取り締まっていたが[316]、戦後1993年の一部官憲の関与を認めた河野談話以降は、海外から「日本政府が数十万人の女性を強制連行して性奴隷にした」として非難され、日本国内では女性の人権などの観点をめぐって様々な議論となった。元慰安婦を名乗る韓国人女性たちの証言の信憑性についても疑問視されてもおり、証言が虚偽または創作でないかの検証が韓国や日本で行われている[317]。
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米国での慰安婦訴訟
ヘイデン法
1999年2月26日、元反戦運動家でカリフォルニア州の上院議員トム・ヘイデンとロッド・パチェコ下院議員・マイク・ホンダ下院議員らが、第二次世界大戦中にナチスドイツや日本から強制労働を強いられた被害者が州裁判所レベルで賠償を求めることができるとする州法の戦時強制労働補償請求時効延長法[318](朝日新聞は「第2次世界大戦奴隷・強制労働賠償法」と表記[319])を提案した[318](法案番号SB1245「補償- 第二次世界大戦奴隷・強制労働」、法律216号「補償に関して民事訴訟法に第354条第6項[320]を追加し、即時に発効さすべき緊急性を宣言する法律」[318]。ヘイデン法[318][321])。同州法は7月15日にカリフォルニア州議会両院で全会一致で可決、施行された[318]。この州法は1929年から1945年までの間のナチスドイツによる強制労働の被害者補償を目的としたもので、ナチスの同盟国であった日本の責任も追求できるとされた[319]。提訴期限は2010年末で、それまでに提訴すれば時効は適用されない[322]。
対日非難決議
ヘイデン法成立直後の8月にはマイク・ホンダ下院議員[318]が、第二次世界大戦時の戦争犯罪について日本政府が公式謝罪と賠償を求める決議を提案、カリフォルニア州議会は採択した[323][322]。ホンダ議員が提案した「日本の戦争犯罪」とは、強制労働と5万人の捕虜抑留者の死、30万人の中国人を虐殺した南京大虐殺、従軍慰安婦の強要を指す[318]。議会ではジョージ・ナカノ下院議員が「日本に対する古い敵意をあおることは、日系人に対する反発を駆り立てる」として反対し、また原爆投下は残虐行為ではないかとする緑の党議員に対して民主党議員は「原爆投下によって戦争終結をはやめ、多くの人命が救われた」と反論するなどした[318]。ホンダ議員とナカノ議員の対立は、日系アメリカ人社会の内紛ともなり、ダニエル・イノウエ上院議員がナカノ議員側を支持した[324]。マイク・ホンダ議員は中国系の反日団体の世界抗日戦争史実維護会から多額の献金を受領し緊密な連携をとっているとして、ナカノ議員はホンダ議員が対日非難活動を行う理由は「選挙キャンペーンでの政治献金の問題だ」と語っている[324]。なお、決議には法的拘束力はない[318]。
戦時強制労働の対日賠償請求運動
ヘイデン法成立後、同法を根拠にしてシーメンスやフォルクスワーゲン、ドイツ銀行などがナチス時の強制労働の損害賠償をユダヤ系団体から請求され提訴される[322]のと並行して、日本企業への集団訴訟もカリフォルニア州で相次いだ。1999年8月11日、元米兵が太平洋戦争時に捕虜となり炭鉱で強制労働させられたとして三井鉱山、三井物産など日系企業を損害賠償でロサンゼルス郡上位裁判所[318]に提訴[319]。9月7日には在米韓国人が八幡製鐵での労働についてワシントン地裁に提訴[325]し、担当したサンディエゴ市在住のデービッド・ケーシー弁護士は「これは始まりに過ぎない。今後、米国内でこの種の訴訟は激増する」と声明を発表した[322]。
- 抗日戦争史実維護会などの支援活動
1999年9月9日には中国系の反日市民団体の抗日戦争史実維護会(世界抗日戦争史実維護会)が日本に強制労働を強いられた元米兵・中国・朝鮮人ら約500人が日本企業1000社に対して損害賠償を求める集団訴訟を行うと発表[326]。抗日戦争史実維護会は世界に41の支部を持ち、対日集団訴訟を支援した[318][327]。同団体はアイリス・チャンの著書『ザ・レイプ・オブ・南京』の宣伝販売を行うなどの活動でも知られ[328]、サンディエゴ州立大学名誉教授アルビン・コークスは対日集団訴訟が広がった背景には、史実として未確認の叙述の多いアイリス・チャンの著書の影響があり、「南京大虐殺=第二次大戦の忘れられたホロコースト」という文言がアメリカで独り歩きしていると指摘した[318]。
このほか、サンフランシスコに本部を置く国際NGO「アジアでの第二次世界大戦の歴史を保存するための地球同盟」[318]や、在米韓国・中国人からなる反日団体の「ワシントン慰安婦問題連合Inc (Washington Coalition for Comfort Women Issues Inc.)」なども集団訴訟を支援した[329][330]。ワシントン慰安婦問題連合は1992年12月に結成され[331]、2000年12月の東京での女性国際戦犯法廷にも関わり、また抗日戦争史実維護会と同じく『ザ・レイプ・オブ・南京』の宣伝販売を支援した[329]。古森義久は、これらの反日組織は日本の戦争犯罪を誇張し、日本の賠償や謝罪の実績をなかったことして非難を続けるとした[329]。さらに対日攻撃の手段が米国での訴訟やプロパガンダであり、慰安婦問題訴訟はその典型であり、「米国での日本糾弾は超大国の米国が国際世論の場に近いことや、日本側が同盟国の米国での判断やイメージを最も気にかけることを熟知したうえでの戦術だろう」と評している[329]。集団訴訟の原告側の弁護士は2001年春に上海で開かれた慰安婦問題シンポジウムに参加している[318]。
1999年9月14日、元米兵が三菱マテリアル、三菱商事をオレンジ郡上位裁判所に提訴[318]。10月8日には韓国系アメリカ人が太平洋セメントを集団訴訟の形式でロサンゼルス郡地裁に提訴した[332]。10月22日には在米韓国人が石川島播磨重工業と住友重機械工業を集団訴訟でサンフランシスコ上位裁判所に[318]提訴し、訴状では戦時中日本に強制連行された朝鮮人の総数は約600万人で、約150万人が日本本土に連行されたと主張された[333]。2000年2月24日、元英兵がジャパンエナジーを提訴[318]した。
- 日本側の反応
1999年11月9日、柳井俊二駐米大使は日本国との平和条約第14条、19条で請求権問題は解決しており、集団訴訟には法的根拠がないと答弁した[318]。また対日集団訴訟は、ナチス戦争犯罪追求に便乗したもので「日本はそのような犯罪は犯していない。杉原千畝氏のような人もいる。ナチスと一緒にされてはたまらない」と述べた[318]。
1999年11月4日、民主党シューマ−議員がユダヤ人団体の訴えを支援して、ヘイデン法と同様の法案を米上院に提案した[318]。2000年4月には東部のロードアイランド州上院議会でヘイデン法と同様の法案が可決され、さらにネブラスカ州、カンザス州、ウエストバージニア州、テキサス州、フロリダ州、ジョージア州、ミズリー州などでも同様の法案が提出された[318][334][335]。
2000年5月16日には韓国人とフィリピン人グループらが日本企業27社を提訴、原告集団は数十万人にのぼった[318]。同年8月22日、中国人が三菱グループをロサンゼルス郡上位裁判所に提訴、原告集団は数十万人[318]。
- 米上院司法委員会公聴会
2000年6月28日の米上院司法委員会公聴会で共和党のハッチ委員長は「日本はビルマに賠償しており、米国民も日本に賠償請求する権利がある」と述べた[318]。これに対して国務省ベタウアー法律顧問代理は「日本国との平和条約26条はソ連など共産主義国との講和交渉で、日本に領土問題などで不当な要求を受け入れさせないための措置だった」として、企業への民事訴訟は想定されていないと答弁した[318]。ハッチ委員長は「条文解釈を再検討すべき」と述べた[318]。ウォールストリート・ジャーナルは2000年8月30日の社説[336]で、「戦時中の日本軍の残虐行為を忘却してはならないが、今の日本企業を半世紀以上前に起こった行為ゆえに非難することは軽々しくすべきではない」として、平和条約による請求権放棄、また日本は戦後、中国をはじめとして270億ドルの賠償金および多額の対外経済協力を行なってきたと、原告側を批判した[318]。
慰安婦訴訟
2000年9月18日、第二次世界大戦中に日本軍に慰安婦にさせられたとする在米中国人や韓国、フィリピン、台湾人女性ら計15人が、日本政府を相手取って損害賠償請求の集団訴訟をワシントン連邦地方裁判所で起こした[329][337]。原告のなかにはアメリカ市民でないものも多かったが外国人不法行為請求権法に依拠した[337][338]。アメリカに限らず国際民事訴訟においては外国主権国家に対して主権免除の原則があり、外国の国家を裁くことはできない[329][338]が、アメリカ法の外国主権者免責法 (en:Foreign Sovereign Immunities Act; FSIA)[339] では国家の商業行為は例外とされており、元慰安婦ら原告側は「日本軍慰安婦制度には商業的要素もあった」として訴えをおこした[329]。日本政府は「日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)での国家間の合意で解決ずみ」としてワシントン地裁に訴えの却下を求めた[329]。
- 連邦地方裁判所判決「ウォーカー判決」と米政府見解
2000年9月21日、サンフランシスコ連邦地方裁判所は「日本国との平和条約において請求権は決着済み」「追加賠償を求めることは同条約によって阻まれている」として元米兵や元連合軍人らの集団訴訟12件に対して請求棄却した[318]。集団訴訟の請求内容が日本国との平和条約に密接に関係するため、サンフランシスコ連邦地方裁判所のボーン・R・ウォーカー判事が「アメリカの連邦法や条約に関わる訴訟は連邦裁判所が裁判管轄権を有する」として27件を一括処理した[318]。ウォーカー判事は、元軍人による13件の訴訟については、連合国が対日賠償請求権を放棄した日本国との平和条約14条に抵触することは明白とし、さらに原告が日本国との平和条約26条について「日本は他の六カ国との協定で賠償責任を認める好条件を出したから、連合国国民も請求できる」と主張した件については「26条の適用請求を決定するのは条約の当事者である米国政府であって、原告個人ではない」と却下した[318]。他方、中国・韓国人・フィリピン人らの集団訴訟には他の争点があるため審理継続とされた[318]。
2000年10月31日、米上院は「強制労働被害者と日本企業の賠償問題について政府は最善の努力をすべき」とする決議案[340]を全会一致で可決した[318]。
2000年12月13日の法廷でウォーカー連邦裁判事は5件を請求棄却し、これにより元軍人の請求はすべて棄却され、「戦後補償は平和条約で解決済み」とする日米両政府の立場が司法判断で確認された[318]。被告側のマーガレット・ファイファー弁護士は「フィリピンは平和条約を批准しており、賠償請求権はない」とし、条約締結国でない韓国と中国については日韓基本条約と日中共同声明が日本国との平和条約の枠内にあり、請求権は放棄されていると述べ、また米司法省代理人も「カリフォルニア州法それ自体が合衆国憲法に違反し、アメリカと日本、韓国、中国、フィリピンの国際関係を破壊するもの」と指摘した[318]。
クリントン民主党政権下の米政府の意見書では
「平和条約は中国や韓国との賠償問題については二国間条約で解決するよう求め、日本はそれを果たした」
「こうした各条約の枠組みが崩れた場合、日本と米国および他国との関係に重大な結果をもたらす」
2001年5月、共和党ブッシュ政権下の司法省はワシントン地裁に法廷助言(アミカス・キュリエ)を行い、「日本国との平和条約の解釈が論点となる訴訟の管轄権は連邦裁判所に属する」とし[318]、またアメリカ政府は外国主権者免責法にもとづき日本政府の要請を支持すると表明した[338]。2001年6月にはアメリカ上院司法委員会の公聴会で国務省・司法省ともに「訴訟は無効」とした[318][342]。
2001年9月4日、元米兵が日本政府に1兆ドルの賠償金を請求して提訴[343]。9月6日に、米国務省のバウチャー報道官が対日賠償請求運動について「平和条約で決着済み」と声明を出し[343]さらに8日にはパウエル国務長官が同見解を述べた[344]。
しかし、9月10日には米上院で、司法省と国務省が対日賠償訴訟に関して意見陳述を行うことを禁じる修正条項法案が可決した[345](提案者は共和党ボブ・スミス上院議員)。2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生。10月には元駐日大使のトーマス・フォーリー、ウォルター・モンデール、マイケル・アマコストが修正法案は「米国の安全保障に緊要な条約の破棄になりかねない法案」であり、「訴訟に根拠を与えるいかなる措置も平和条約の重要な条項に違反する」として、日本国との平和条約は米国の太平洋地域の安全保障の要石であり、またドイツは連合国と平和条約を締結しなかったが、日本はドイツと異なり明確に決着したこと、また元軍人には日本からの接収資産から一人3000ドル(2万3000ドル)の補償もすでに行われていると批判した[346]。11月20日、米国議会は上下両院で可決した修正法案を最終審議の議会両院協議会で抹消した[347]。
2001年9月17日、米連邦裁ウォーカー判事は中国・韓国・フィリピン人による対日賠償請求訴訟について「フィリピンは平和条約を批准しており、賠償請求をできない」、中国・韓国人については「ヘイドン法が憲法違反であり、したがって訴訟も無効」と判決し、訴えを却下した[348]。原告は控訴。
2001年10月4日、ワシントン米連邦地裁は慰安婦訴訟について日本側の主張を認め請求棄却[337][349]。原告側はD.C.巡回区控訴裁判所(高裁)へ控訴。
- 米最高裁判決
2003年1月15日にカリフォルニア州高裁は、1999年に施行された戦時中の強制労働への賠償請求を認めたカリフォルニア州法は合憲とした[350]。しかし、1月21日にサンフランシスコ連邦高裁は
としてカリフォルニア州法のヘイドン法を憲法違反と司法判断し、日本企業への集団訴訟28件をすべて却下した[350][351]。
慰安婦訴訟についてワシントンD.C.巡回区控訴裁判所(高裁)が主権免除の商業活動例外は法の不遡及によって適用されないとして2003年6月27日に一審判決を支持し棄却[352]。2003年10月6日、米国連邦最高裁判所は上告棄却[353]。2004年6月14日、米国連邦最高裁判所はワシントン高裁へ差し戻す[354]、2005年6月28日、ワシントン高裁は平和条約と請求権については司法府に審査権が付与されない政治的問題として一審判決を再び支持した[355]。原告側は最高裁へ再審請求し、2006年2月21日にアメリカ合衆国最高裁判所は、却下の最終司法判断を下した[329][356]。このアメリカ最高裁の判決によって米国の司法当局および裁判所が日本軍慰安婦案件については米国で裁くことはできなくなり、また米国で訴訟を起こすこともできなくなった[329]。これらの集団訴訟に際してアメリカ合衆国政府・国務省・司法省は一貫して「サンフランシスコ平和条約で解決済み」との日本政府と同じ立場を明言している[329]。ただし立法府(議会)はこの限りではない[329]ため、その後も下院などで非難決議が出されていく。
第一次安倍政権と米国下院決議
2007年1月末に民主党のマイク・ホンダ下院議員らが慰安婦問題に関する日本への謝罪要求決議案を提出した。過去にも同種の決議案は提出されていたが、いずれも廃案になっていた[357]。2月15日の下院公聴会で、李容洙、金君子、ジャン・ラフ・オハーンの3人の元慰安婦が証言。2007年2月25日フジテレビ放送の『報道2001』でホンダ議員は「反日決議案ではなく和解を意識したもの」と述べた[357]。
安倍発言
安倍晋三首相は2006年の組閣後、2007年3月1日に「旧日本軍の強制性を裏付ける証言は存在していない」と発言[358][359]、3月5日には対日決議案は「客観的事実に基づいていない」と述べた[360]。安倍首相は他方で当時の慰安婦の経済状況について考慮すべきこと、斡旋業者が「事実上強制していたケースもあった。広義の解釈では強制性があった」とも発言した[359]。この安倍発言は国内外で大きな波紋を呼び、ワシントンポストは「二枚舌」と批判した[361]。対日非難決議案の動きについて麻生太郎外務大臣は3月11日のフジテレビ番組で北朝鮮、韓国、中国などによる日米離間(分断)の反日工作と指摘した[362]。3月31日には元慰安婦へ補償を行なってきたアジア女性基金が解散。またアルジャジーラは「アメリカ合衆国は日本と中国・韓国との間に問題を作り出そうとしている」と報じた[363]。
安倍内閣は、2007年3月16日付で、「河野談話をこれからも継承していく」としつつ、「官憲が家に押し入って人さらいのごとく連れて行くという強制性、狭義の強制性を裏付ける証言はなかった」とし、「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述は見当たらなかった」とする政府答弁書を閣議決定した[364][365]。また第二次安倍内閣においては、総裁選から衆議院選挙を経て一貫して「河野談話の見直し・改変」を唱えていたが[366]、2013年5月24日、「安倍内閣の閣議決定は河野談話を引き継いでいる」と辻元清美の質問主意書には応えている[367][368]。
2007年4月3日、米議会調査局報告書で日本軍は朝鮮半島での直接の徴集を行っていないこと、これまでに日本は謝罪や賠償努力を行なってきたことを指摘して、これ以上の賠償要求を行うことに疑問を呈した[369]。安倍首相は4月27日に初訪米し「私の真意が正しく伝わっていない」と、また慰安婦が当時苦しい状況にあったことに「心から同情する」と述べた。前日の4月26日にはワシントン・ポストに在米韓国人団体が「日本は全面的な責任をとったことは一度もない」と意見広告を掲載していた。
2007年5月4日のAP通信が終戦直後のGHQと特殊慰安施設協会 (RAA) について報道。ホンダ議員はRAAについても議会調査局に調査依頼した。
米国下院121号決議
2007年6月26日にアメリカ合衆国下院外交委員会でアメリカ合衆国下院121号決議は賛成39票、反対2票で可決。続く7月30日、米下院本会議でナンシー・ペロシ下院議長のもと可決した。下院121号決議では日本軍慰安婦制度を「かつてないほどの残酷さと規模であった20世紀最大の人身売買の1つ」とし、「性奴隷にされた慰安婦とされる女性達への公式な謝罪、歴史的責任、あらゆる異論に対する明確な論破及び将来の世代にわたっての教育をすることを日本政府に要求する」と明記された[370]。日本では読売新聞、日本経済新聞、産経新聞、毎日新聞が米下院決議を批判し、朝日新聞は社説で安倍首相は河野談話と同様の談話を出すべきと報じた[371]。しかし日本政府は反論も抗議もせずに、安倍首相も「残念だ」とコメントするにとどまった[372]。古森義久は「日本の従順な態度は高く評価されて、もう同じ糾弾はしないようになると思ったら、とんでもない。現実は正反対なのだ。日本が黙っているのを見透かしたように同種の非難の矢がさらに激しく、さらに多方面から飛んでくる」と指摘している[372]が、この米国下院での決議以降、カナダ、ヨーロッパ、アジアでも対日謝罪決議が続いた。
韓国系・中国系住民によるロビー活動
- 在米韓国人のロビー活動と政治資金提供
対日謝罪要求決議の採択は、在米韓国人によって全米各地に慰安婦謝罪決議案採択のための汎対策委員会が設立され、対日謝罪要求決議が可決されるよう韓国系アメリカ人によるアメリカ下院議員へのロビー活動の結果だった[373]。日本政府も採択阻止のため4200万円かけてロビー活動を展開したが、失敗した[374]。在米韓国人による米国議員への政治後援金は2007年から2011年までで総額300万ドルにおよび、政党別では民主党へ179万7155ドル、共和党へ114万8597ドルで、年度別では2007年に70万4669ドル、2008年に101万2195ドル、2009年に86万4099ドル、2010年に36万4789ドルであった[375]。議員別ではマイク・ホンダが米国議員のなかで最も多額である13万9,154ドルの政治資金を集めた[375]。
- 在外中国人団体・世界抗日戦争史実維護連合会のロビー活動
マイク・ホンダ議員は在米中国人の反日団体の世界抗日戦争史実維護連合会(抗日連合会、Global Alliance for Preserving the History of WW II in Asia[376])からも政治資金の提供を受けている[377][378][379]。抗日連合会の本部は米国カリフォルニア州クパナティノで、ホンダ議員の選挙区内である[372]。その対日戦略の基本方針はアジアでの中国の覇権を確保するために日本の力を何があっても阻止するというもの[377]で、公式サイトでも「過去を忘却する民族がその過ちを今後繰り返すたびに、そのつど非難されねばならない」等と明記されている[380]。同団体は1997年にアイリス・チャンの『レイプ・オブ・南京』の宣伝と販売促進[378]、2005年には日本の国連安保理常任理事国入りに反対するために全世界で数千万人の署名を集めたり[378]、日本国内でも憲法9条改正の阻止[377]、従軍慰安婦問題・南京大虐殺・靖国神社問題などで戦争責任を繰り返し日本に叩きつけ、また米国をはじめとする世界各国での反日プロパガンダによって日米分断させ、日本の孤立化と弱体化をめざす[377]。2002年2月には上海で中国政府が開催した「第2次世界大戦の補償問題に関する国際法律会議」にも参加しており、中国政府との連携も指摘されている[377]。カナダでも抗日連合会支部が活動し、対日謝罪決議が採択された[372](後述)。
下院決議採択直後の2007年8月末にはマイク・ホンダ議員が中国系アメリカ人ノーマン・スー(徐詠芫)から資金提供を受けていたことが発覚し、謝罪した[381]。
米国での採択を受けて挺対協は対日謝罪要求決議が各国でもなされるよう運動し[373]、民団機関誌「民団新聞」も8月29日記事で日本への謝罪要求決議がアメリカに続けて世界各国で決議されるように活動することを呼びかけた[373]。2007年9月20日にオーストラリア上院、11月20日にオランダ下院、11月28日にカナダ下院で対日謝罪決議が採択された。
- 世界抗日戦争史実維護連合会カナダ支部のロビー活動
カナダの決議案では「日本政府は日本軍のための『慰安婦』の性的な奴隷化や人身売買は実在しなかったとするような主張は明確かつ公的に否定していくこと」と明記された[372]。カナダで対日謝罪決議を推進したのは野党の新民主党の中国系女性議員オリビア・チョウ(鄒至蕙)で[372]、またカナダには世界抗日戦争史実維護連合会の支部カナダALPHA(第二次世界大戦アジア史保存カナダ連合)がロビー活動を持続的に行なっており2005年にはカナダの教科書に南京大虐殺がユダヤのホロコーストに並んで記載され、この対日決議案も推進した[372]。カナダでの決議採択は2007年3月27日に国際人権小委員会で賛成4票、反対3票で可決、次にカナダ下院外交委員会で5月10日に審議されたがカナダ保守党議員らが「日本への内政干渉だ」「日本はすでに謝罪している」と反対、再調査として差し戻された[372]。以降、カナダALPHAの活動は過激化し、カナダ全土の中国系住民をはじめ韓国系・日系住民を動員し、トロントALPHA、ブリティッシュコロンビアALPHAなどの組織を編成、セミナーやロビー活動を展開した[372]。
2007年10月4日から6日まで米国ロスアンジェルスで開催された抗日連合会主催の日本糾弾国際会議[372]でエニ・ファレオマバエンガ米国下院議員が「今後は女性の弾圧や人権の抑圧に関して、日本の慰安婦問題から次元を高めて、国際的な条約や協定の違反行為へと監視の視線を向けていくべきだ。日本ばかりを糾弾しても意味がない。日本にいまさら慰安婦問題などで賠償を払わせることはできない」と主張したが、カナダALPHA議長セルカ・リットは「日本国民の意識を高めるために日本政府を非難し続けることの方が必要」と反論、同会議の声明では日本のみを対象とした謝罪賠償が要求された[372]。
2007年12月13日にEUの欧州議会本会議でも対日謝罪決議が採択された[382]。翌2008年3月11日にフィリピン下院外交委[383]、10月27日に韓国国会は謝罪と賠償、歴史教科書記載などを求める決議採択[384]、11月11日に台湾の立法院(国会)が日本政府による公式謝罪と被害者への賠償を求める決議案を全会一致で採択する[385]など、サンフランシスコ講和条約締結国[386]を多く含む国から日本のみを対象とする決議が次々に出された。
これらの対日決議を採択した国には朝鮮戦争に国連軍として参加した国も含まれ[387]、それらの国は戦時中に韓国の慰安所を利用していた[388]。古森義久や渡部昇一は東京裁判やサンフランシスコ講和条約で日本軍の戦争責任や賠償は終わっており、講和条約以前のことを持ち出すことは国際法違反と批判している[389][390]。
- 日本の地方自治体の意見書
「慰安婦」問題に対して日本政府が誠実な対応をするよう求めた意見書を2008年3月28日に兵庫県宝塚市議会が採択したのを始めとして2010年6月までに民主、公明、共産系が多数を占める25の市議会で採択、2009年に民主党が政権獲得後に増加し[391]、東京の清瀬市・三鷹市・小金井市・国分寺市・国立市、千葉船橋市、大阪箕面市・泉南市、京都京田辺市・長岡京市、奈良生駒市、ほか札幌市、福岡市・田川市が採択した[392]。
また民主党は2009年、日本人女性を除く元日本軍慰安婦に対して新たな謝罪と補償と「戦時性的強制被害者」という新たな呼称を定めるための戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案を提出した[393]。
2009年8月には韓国江原道知事の招待でマイク・ホンダ米下院議員が訪韓し、江原大学名誉博士号を受けたり韓国のナヌムの家を訪れた[394][395]。また韓国外務省はホンダ議員の対日行動に感謝の意を表明するとともにFTA批准の協力を求めた[396]。
日本国内では2010年頃より、在日特権を許さない市民の会や主権回復を目指す会などの「保守系住民団体[397]」は、「日本軍の従軍慰安婦への謝罪と補償」を要求している団体と激しく対立している[397]。
日韓外交交渉と韓国行政裁判所による判決 (2009)
韓国による賠償請求に対して日本政府は、1965年の日韓基本条約と日韓請求権・経済協力協定締結で、1000億円以上を供与するとともに、日本と韓国及びその国民間の請求権に関する問題が「完全かつ最終的に解決された」と条文に明記されており、また当時の韓国政府とともに確認したこと、従って法的に解決されたとの立場を再三言明している[398]。
2005年1月17日、韓国で日韓会談についての資料が公開され、韓国政府が「日韓基本条約」締結の際に、国民の個人請求権の放棄を確認していたことが初めて公になった。しかし韓国政府側は、2005年8月に1965年当時に「結ばれた協定には反人道的違法行為は含まない」と発表した[399]。
その後、2009年8月14日、ソウル行政裁判所は「1965年に締結された日韓請求権並びに経済協力協定により日本政府から無償で支給された3億ドル(1965年当時のレートで1080億円)で徴用者への未払い賃金への対日請求が完結しており、大韓民国外交通商部としては「すでに補償は解決済み」とした[400][399]。1966年にも大韓民国大法院は慰安婦の損害賠償請求を不法行為に基づくものであるとして棄却している[159]。
韓国外務省による再請求と韓国憲法裁判所判決 (2011)
しかし、大韓民国外交通商部は2010年3月15日に、慰安婦については「1965年の対日請求の対象外」として「日本政府の法的責任を追及し、誠意ある措置を取るよう促している」と発表[401]。同年3月17日、日本政府は改めて「日韓請求権並びに経済協力協定により、両国間における請求権は、完全かつ最終的に解決されている」とする見解を発表した[402]。2010年4月28日、フィリピン最高裁は、フィリピン政府に日本政府への謝罪要求を支持するよう求める訴えを退けた[403]。
2011年8月30日、韓国の憲法裁判所が「韓国政府が日本軍慰安婦被害者の賠償請求権に関し具体的解決のために努力していないことは違憲」と判決[404][405]。9月15日、韓国外交通商省の趙世暎東北アジア局長は「慰安婦と被爆者の賠償請求権が請求権協定により消滅したのかどうかを話し合うため、日韓請求権・経済協力協定第3条により両国間協議を開催することを希望する」という口上書を日本側に提出、9月24日のニューヨークでの日韓外相会談、10月6日のソウルでの日韓外相会談でも同様の要求をおこなう[405]。しかし10月19日のソウルでの日韓首脳会談では、慰安婦問題は議題にならなかった[405]。2013年5月22日、この件に関して岸田外務大臣が国会で「具体的な協議等が行われたということは承知しておりません。」と答弁した。[406]
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アメリカにおける日本軍慰安婦記念碑設置運動
2009年頃より米国で「慰安婦記念碑」を「ユダヤ人虐殺記念碑」と同等とみなして全米各地で建立する運動が韓国系住民によって行われるようになった[407]。韓国系住民が多く住むニュージャージー州バーゲン郡では11人の韓国系高校生が韓国系米国人有権者評議会(the Korean American Voters' Council)とともに、日本軍の被害者である朝鮮人をアイルランド人、アルメニア人、ユダヤ人、アフリカ系アメリカ人の苦難になぞらえて慰安婦記念碑の建設を進め、非韓国系住民をも説得して署名を集めた結果、バーゲン郡は図書館など公共施設の入り口への設置を許可した[408]。2009年9月、米下院外交委員会は対日謝罪要求決議を国連でも採択するよう働きかけた[409]。
その後アメリカ国内に次々と計9ヶ所の慰安婦の碑や慰安婦像が建てられている。
在米日本人社会の「悲鳴」
『夕刊フジ』によれば、アメリカでは慰安婦碑の設置が現地の在米日本人へ悪影響を及ぼし始めている[410]。自民党議員の山谷えり子のもとへは、複数の在米日本人女性から「夫の仕事に支障が出ないか」「子供がイジメられる」といった悲鳴のようなメールが届いているという[410]。水間政憲によれば、既に在米日本人の子供たちが“無実の韓国人女性をレイプした日本人の子孫”として白眼視され始めているという[411]。
山谷は、米国で初めて慰安婦の碑を建てたニュージャージー州パリセイズパーク市の市長に対し「政府で調べたが、日本の軍や警察が強制連行した事実はなかった。20万人を拉致して慰安婦にした事実はない」と当時の政府文書や新聞記事を英訳し説明したが、なぜか面会の場には韓国系団体が押し掛けてきており、邪魔するように大声でまくしたてたという[410]。山谷は「世界に真実を伝えるために、今一度、日本はきちんと見解を発信すべきでしょう」と述べている[410]。
2015年2月、産経新聞は国会内で報告会を開いた地方議員団および朝日新聞『慰安婦報道』に対する独立検証委員会の報告として、在米日系住民の被害を伝え[412][413]、在米邦人ら2000人が朝日新聞の報道によって「嫌がらせを受けるなど精神的苦痛を負った」として東京地方裁判所に慰謝料などを求める訴訟を起こしたことを報じた[413]。
韓国の慰安婦像と博物館
2011年 12月14日、韓国の日本大使館前に、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)によって慰安婦像が歩道上に違法に設置された。その後、韓国内に次々と計13箇所が設置されている。また2012年 5月5日、ソウル市西大門区に日本軍慰安婦問題について展示する戦争と女性の人権博物館[414]が3億円(35億ウォン)をかけて建設され[415]、開館した。この博物館には、日本でも日本建設委員会が結成され、多数の運動家・運動団体や研究者が呼びかけ人となり[416]、自治労、JR総連、NTT労働組合大阪支部などが寄付をおこなった[417]。
野田内閣での答弁
2012年に野田佳彦首相は、「強制連行の事実を文章で確認できず、日本側の証言もなかったが、いわゆる従軍慰安婦への聞き取りから談話ができた」との答弁をおこなった[418]。
第二次安倍内閣において
2013年6月18日,第二次安倍内閣は、旧日本軍による慰安婦の強制連行を示す証拠が、政府の発見した資料の中にあった事実を認めたとしんぶん赤旗は伝えた[419]。しかしこれは一部の軍人がおこない戦争犯罪として裁かれた白馬事件の「バタビア臨時軍法会議の記録」であり、安倍内閣は2007年の第1次安倍内閣において閣議決定した「(国による組織的な)強制連行資料なし」の認識は変わらないと答弁している。[419]。
米国における調査
米国ではクリントン、ブッシュ両政権下において8年かけてドイツと日本の戦争犯罪の再調査を行った(米国政府が国防総省、国務省、中央情報局(CIA)、連邦捜査局(FBI)などに未公開の公式文書を点検させ第二次大戦時のドイツと日本の戦争犯罪に関する資料の調査したもの)。在米中国系反日組織「世界抗日戦争史実維護連合会」は慰安婦問題についての調査を米政府に促していた。この調査の結果、慰安婦を日本軍が性的目的のために組織的に奴隷化したという米国側の資料は皆無であったことが2014年に明らかとなった[420]。
この調査結果を受け、慰安婦問題の分析を進める米国人ジャーナリスト、マイケル・ヨンは「これだけの規模の調査で何も出てこないことは『20万人の女性を強制連行して性的奴隷にした』という主張が虚構であることを証明した。日本側は調査を材料に、米議会の対日非難決議や国連のクマラスワミ報告などの撤回を求めるべきだ」と指摘した[420]。
その他の近年の動向
2012年8月14日には李明博大統領によって天皇に謝罪を求める発言が行れた(李明博による天皇謝罪要求)。
2013年1月16日、ニューヨーク州議会でトニー・アベラ上院議員らが「日本軍慰安婦は人道に対する罪で20世紀最大の人身売買」と断定し、日本に謝罪を求める決議案を提出[421]、2013年1月29日に上院で採択された[422]。
2013年5月13日に橋下徹大阪市長が「歴史をひもといたら、いろんな戦争で、勝った側が負けた側をレイプするだのなんだのっていうのは、山ほどある。そういうのを抑えていくためには、一定の慰安婦みたいな制度が必要だったのも厳然たる事実だ」などと慰安婦問題について発言し、日本、韓国、アメリカなどで話題になった{橋下徹#慰安婦問題への対応参照)
同年5月14日、読売新聞は、朝日新聞が1992年1月に報じた、女子挺身隊制度を「慰安婦狩り」とする誤報を含む、「日本軍が慰安所の設置や、従軍慰安婦の募集を監督、統制していた」との記事を発端とし、さらにその後、河野談話(謝罪)が曲解されたことで、日韓間の外交問題に発展したとする見解を示した[423]。
2015年12月28日、日韓が慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決し決着。日本政府が10億円を韓国が設立する元慰安婦支援のための財団に拠出。国連など国際社会で慰安婦問題に関する相互批判をやめることを申し合わせた[424]。
2015年12月28日の日本と韓国の合意について、12月29日に台湾の外交部長が記者会見し、台湾とも協議に応じるよう日本に要求した[425]。
大韓民国における『日帝下日本軍慰安婦被害者に対する生活安定支援および記念事業等に関する法律』
大韓民国では、「日帝下日本軍慰安婦被害者に対する生活安定支援および記念事業等に関する法律」(法律第9932号、2010年改正)に基づき[426][427]、日本により強制動員され、「慰安婦」としての生活を強いられた被害者に対し、国家が人道主義の立場から保護・支援を行う[428]。生活安定支援対象者になろうとする者は女性家族部長官に登録申請をし(第三条第一項)、国家は生計給与、医療給与、生活安定支援金の支給、看病人支援を行う(第四条第一項)[426][427]。女性家族部に置かれた審議委員会が、生活安定支援対象者登録申請事項の事実の有無の認定などを行う(第六条第一項)[426][427]。国家および地方自治団体は、①記念事業、②歴史的資料の収集、保存、管理、展示と調査、研究、③教育、広報および学芸活動、④国際交流および共同調査、の事業を行うことができる(第十一条第一項)[426][427]。
呼称
日本における呼称
日本では古くより遊郭での娼婦を遊女、女郎、などと呼び、19世紀後半の日本では海外への出稼ぎ娼婦をからゆきさんまた娘子軍とも呼んだ。芸娼妓解放令(1872年)や、朝鮮での「娼妓類似営業の取締」(1881年[18])、娼妓取締規則(1900年)等では「芸娼妓・娼妓」と呼んだ。 関東局(編)の『関東局施政三十年史』(原書房 1974年)によれば、1909年12月、日本政府は中国(当時は清)における日本の租借地である関東州において日本人と中国人女性に対して「娼妓取締規則」により「娼妓(遊女、娼婦)」として管理してきたそれまでの方針を変更し、対外関係を考慮して日本人女性に対してだけは娼妓家業を認めないことにし、芸妓、酌婦が公娼的行為をすることは黙認することにしたため、関東州、満州においては「酌婦[429]」が事実上、日本人娼妓を差す用語となったという。この後、内地(日本本土)や朝鮮において「酌婦」という仕事の名目で女性を「満洲」に連れ出し、実際には「娼妓」と同様の「売春」を強要する詐欺事件がしばしば起こったという。慰安婦業に従事する契約書においては、仕事内容は稼業婦や酌婦などと記されていた。1932年、1938年の上海でも「酌婦」が使われている[430]。
1932年4月1日の上海派遣軍の軍娯楽場取締規則では、慰安所は「軍娯楽場」、性的接客をする女性従業員であっても単に「接客婦」と表記されている[430]。1937年には「稼業婦女[429][42]」、軍慰安所従業婦等募集に関する件では「従業婦[431]」とも呼ばれた。売春を「醜業」と呼ぶ事もあり、1938年の支那渡航婦女の取扱に関する件では「醜業婦」と表記された。1939年1月17日の第11軍軍医部長会議指示では「特殊慰安婦」、1939年11月14日の在中支森川部隊特殊慰安業務に関する規定で「慰安婦」が使用された[430]。秦郁彦によれば「慰安婦」という語そのものは逐次広まったものであり、一方で公式用語として定着したわけではなかったと指摘している[430]。
また現地の軍人は、慰安婦のことを俗に「ピー」(prostitute 娼婦の頭文字[169])、慰安所のことを「ピー屋」と呼んでいたとも言われている[151][432]。慰安所に限らないが「娘子軍(=からゆき=海外出稼ぎ娼婦)」という言い方も多い。また、海軍では「特要員」の名の下に戦地に送られたとも言われている[433][434]。
戦後、慰安婦問題が表面化した頃から「従軍慰安婦」という呼称が浸透したが、現在は「慰安婦」とされている。
「従軍慰安婦」という呼称
「従軍慰安婦」という言葉は戦時存在せず、1973年の千田夏光[435]の著書からきた造語と主張されることがあるが、それより以前の1971年8月23日号『週刊実話』の記事「"性戦"で"聖戦"のイケニエ、従軍慰安婦」で使用されている[436]。慰安婦問題が社会問題となってこの呼称は浸透した。
“従軍”という言葉を巡り、藤岡信勝は「『従軍』という言葉は、軍属という正式な身分を示す言葉であり、軍から給与を支給されていた」から、従軍看護婦、従軍記者、従軍僧などと異なる慰安婦に使う用語ではないと主張した[437]。また、国学院大学名誉教授の大原康男も、大辞林では「従軍」とは「軍隊につき従ってともに戦地へ行くこと。」と定義されてあるように[438]、「従軍」は「従軍看護婦」などのように軍と公的な関係を持つ人々に関わる冠辞である。そのような実体を有しない人々を指す「従軍慰安婦」なる呼称は、戦後のある時期から使われ始めた通俗的な用語であるから、公文書で用いたり学術用語として使用したりすることなど極力避けるべきであると主張している[439]。一方、千田夏光は「従軍とは軍隊に従って戦地に行くことであり、それ以上の意味もそれ以下の意味もない」と主張[440]し、従軍看護婦の主力は「日本赤十字社救護看護婦」で、給与は日本赤十字社から出されていたことや、戦後の軍人恩給で一部の婦長を除き軍属ではないとして恩給対象から外されたことなども挙げている。
他方、慰安婦問題を追及する女性団体のなかにも「従軍という言葉は自発的なニュアンスを感じさせる」[441]、韓国挺身隊問題対策協議会「従軍慰安婦という言葉は正しい表現ではない」とし日本軍慰安婦と呼んでいるケースもある[442]。
当時の資料では、1940年5月7日の閣議決定に基づく「外事警察執行要覧」では、「特殊婦女」(慰安婦)は軍属ではなく、民間人として扱うことと定められている[443]。
1968年4月26日、衆議院の社会労働委員会において厚生省援護局長の実本博次は、慰安婦について「一応戦地におって施設、宿舎等の便宜を与えるためには、何か身分がなければなりませんので、無給の軍属というふうな身分を与えて宿舎その他の便宜を供与していた、こういう実態でございます。」と答えている[444]。
「いわゆる従軍慰安婦」という呼称も日本外務省やアジア女性基金、一部メディアで使用される。
日本でのその他の呼称
慰安婦制度を批判する側では、「慰安婦」という言葉が実態を反映していないとして、「日本軍性奴隷」という用語を使用したり、慰安婦を括弧付きで使用している例もある[445]。また、金銭授受が明確にあった事から「追軍売春婦」とも呼ばれる[要出典]。
日本では2000年代から民主党などによって日本軍慰安婦(日本人女性のみ除外[446])は「戦時性的強制被害者」[447]という新たな名称で呼ばれており、民主党などが提出する「元日本軍慰安婦とされる人々へ新たな謝罪と賠償を行う」とする法案名は「戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案」とされている。
韓国での呼称(「挺身隊」との混同)
朝鮮半島における「挺身隊」とは、日中戦争の頃、男女問わず「自ら身を投げ出して進めること」 という意味で、1940年から使用されていたが[448][449]、朝鮮でも未婚女性が官吏による斡旋や募集によって日本内地の工場などへ向かった女子挺身隊の例もあったため、慰安婦の募集と混同され「若い女性の挺身隊は慰安婦にされる」という流言が広がった。
韓国では、国連軍相手の慰安婦が韓国警察や韓国公務員により「挺身隊」とも呼ばれていたこともあり[450]、日本軍を対象とした慰安婦問題が起こった当初から、慰安婦のことを「挺身隊(정신대)」と言うことが一般に定着した。
慰安婦問題が社会的問題として表面化した1990年代初めでも、一般の韓国人は「挺身隊」を慰安婦の同義語と認識していることが多い。
そのほか、日本軍の慰安婦のみを糾弾している民間団体の「韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)」は「従軍慰安婦という言葉は正しい表現ではない」とし、「日本軍慰安婦」と呼んでいる[442]。
ただし、1966年の大韓民国大法院の判決文によれば、慰安婦とは「一般的に日常用語において、売春行為をしている女性を指すもの」としている[159]。
英語圏での呼称
英語圏では、「慰安婦」を直訳したComfort Womanという呼称[451]が用いられている場合が一般的である。
しかし、慰安婦制度を人権問題や戦争責任問題などとして告発する立場などにおいては、性奴隷の訳語に当たるSex Slaveという表現を使う場合もある(『ジャパンタイムズ』など)。
『ニューヨーク・タイムズ』は日本軍相手の女性達を性奴隷もしくは慰安婦と呼称しているが[452]、アメリカ軍相手の女性達については日本軍の慰安婦とは異なるとして売春婦と呼称している[300]。一方、アメリカ軍や韓国軍などを相手とした女性達への当時の韓国政府や韓国報道機関による公式呼称は慰安婦である[453][169]。
国連などでの呼称
- Sex Slaves(性奴隷)という呼称
1992年、NGOに日本に招待されたテオ・ファン・ボーベン(オランダ)は、元慰安婦の証言を聞き、その実態に衝撃を受けた。そこで国連の人権委員会の元に置かれていた差別防止・少数者保護小委員会の中で「戦時性暴力に関する研究」の必要性を提案し、翌年には「武力紛争下の強姦、性奴隷制および類似慣行に関する特別報告者」が設置された[要出典]。その報告者であったリンダ・チャベスは準備文書で「性奴隷制度である」と明記し、これが後のマクドゥーガル報告書につながったとされる[454]。ただし、リンダ・チャベスは報告書をまとめることなく1997年に辞任した[455]。
1992年2月25日、NGO国際教育開発(IED)代表で弁護士の戸塚悦朗が国連人権委員会で日本軍慰安婦問題を取り扱うように要請し、これが国連での初めての慰安婦問題提起であったと西岡力は指摘している[456]。戸塚自身も、当時慰安婦問題に関する国際法上の検討がなされていなかったため、「日本帝国主義の性奴隷(sex slaves)と規定した」と自分が「性奴隷」という言葉を発案したと回想している[457][458]。当初、国連では「性奴隷」という呼称は受入れられなかったが、戸塚は人権委員会の下位にある差別防止少数者保護小委員会(人権小委員会)や、人権小委員会で活動する現代奴隷制作業部会に働きかけた[459]。日本弁護士連合会(日弁連)会長(当時)で「慰安婦問題の立法解決を求める会」(1996年12月設立)[460][461]の土屋公献も、1992年から日弁連が国連において慰安婦補償を要求するなかで「性的奴隷(Sex SlavesまたはSexual Slavery)」 として扱うように働きかけ[276]、その結果、1993年6月のウィーンの世界人権会議において「性的奴隷制」が初めて「国連の用語」として採用されたとしている[276]。日弁連会長鬼追明夫は「軍事的性的奴隷」とも表現している[462]。
1996年に国連人権委に報告されたクマラスワミ報告では日本軍慰安婦制度(公娼制度[463][464])を「Military Sexual Slavery(軍性奴隷制[465])」また「性奴隷制」と明記された[466][467]。西岡力はクマラスワミ報告が吉田清治やジョージ・ヒックスの著作(ヒックスは吉田証言や当時のうわさ話を歴史的な真実として記載している)に依拠していること、そのため、慰安婦を「貧困を原因とする人身売買の被害者」としてでなく国家「権力による強制連行の犠牲者だと決めつけている」と批判している[468]。続いて、1998年のマクドゥーガル報告書でも「性奴隷制」と表現された。
ただし戦後に旧日本軍の調査を行ったアメリカ政府および軍の報告の中には、旧日本軍が慰安婦を奴隷として扱っていたという内容は存在しない(詳細は後述)。
- レイプ・センター
また、マクドゥーガル報告書では日本軍慰安所をレイプ・センター (rape centres) と表現した。秦郁彦はこの「レイプ・センター」とは、撫順の日本兵戦犯が認罪の過程で「慰安所」を「強姦所」と書き直すように戦犯収容所から強要された表現の英訳ではないかとしている[469]。
日本政府は、マクドゥーガル報告書はゲイ・マクドゥーガル個人報告書にすぎず、受け入れられないと回答した[470]。慰安婦問題を国連で扱うように活動してきた日弁連海外調査特別委員[471]の戸塚悦朗弁護士は、国連小委員会による日本政府への勧告にはいたらなかったことを失望し、ロビー活動の不足を訴えた[472][470]。のちに戸塚らの政治的活動は日弁連内部から目的外・職務外行為であるとして批判され、戸塚は1998年に解嘱された[461]。
呼称・表現をめぐる非難
2015年3月、安倍晋三がワシントン・ポストのインタビューで慰安婦問題を「人身売買(human trafficking)の犠牲」と表現したことに対し、韓国聯合ニュースは「20世紀最悪の人権蹂躙で、国際社会が『性奴隷』事件と規定する日本軍慰安婦問題の本質をぼかすための、計算された発言との指摘もある」と報じた[473][474]。
慰安婦の民族別内訳
慰安婦の民族別内訳は、日本政府の調査においては、慰安婦には日本人、朝鮮人、台湾人、中国人、フィリピン人、インドネシア人、オランダ人がいた。
秦郁彦は、日本国内の遊郭などから応募した者が40%程度、現地で応募した者が30%。朝鮮人が20%、中国人が10%程度として、慰安婦の出身者は日本人が最も多かったと推定している[475]。しかし、正確な内訳を把握することは困難である[136][476]。
総数
慰安婦の総数が把握できる正確な資料は発見されていないが、軍人の総数・公娼の人数などから多くの研究者により推論され、また韓国での慰安婦と女子挺身隊との混同から朝鮮人慰安婦20万人説の原因も推考されている。
資料
- 外地の日本軍・軍属の総数は、満州(40 - 66万人)を別として、太平洋〜ビルマ(現:ミャンマー)に展開した時期で140 - 150万人、「大陸打通作戦」の末期においては280万人程度とされている[477]。
- 当時の朝鮮半島の総人口は約2500万人前後[478]で、20歳前後の女性は約280万人とも推算される[479]。また、内地で実施され工場などに動員された女子挺身隊の結成率は1944年5月では7%である[88]。
- 内地の公娼は、第二次上海事変以前の1937年の21万をピークに太平洋戦争初期の1942年には14.5万人に減少するのに対し、中国本土の日本人娼婦は1935年よりも1940年時点では約1.2万人増加している[480][481][482]。朝鮮での公娼の総数は1930年代から1942年までは日本人を含めて約1万人である[483]。
日本における諸説
慰安婦の総数の計算法には、日本軍総数を母数とした慰安婦数の推算方法があり、交代率なども考慮されるが、いずれも各研究者によって異なる[136]。
- 日本大学教授秦郁彦は慰安婦総数を約2万人と推定している[484][136]。
- 吉見義明は、総数を4万5000人と推算(1995年)[136]。
- 民主党は、8 - 20万人としている[447]。
- その他、『マンガ嫌韓流』の著者山野車輪等は、総数を4000人程度であり、また彼女らの中には、現在での何億円にもあたる報酬を受け取っているとした[485][486]。
韓国における諸説
- 韓国政府は資料不足のため慰安婦にされた女性の数は正確には分からないとしているが、最小3万人最大40万人の学説があると述べている[487]。
- 1993年に「挺身隊研究会」会長の鄭鎮星(チョン・ジンソン)ソウル大学教授は「8万人から20万人と推定される慰安婦のうち、絶対多数を占めると思われている朝鮮人慰安婦」としたが、独自根拠不明[488]、詐欺を強制に含めている。
- 2009年中央日報は、名前は明らかにしないが歴史学者たちによると20万人以上としている[489]。
千田夏光の新聞報道の誤読
1969年、韓国の日刊紙が、「挺身隊動員を受けた女性が20万人、その内、朝鮮人が5 - 7万」と報じる[490][491]。
1970年8月14日、ソウル新聞が「1943年から1945年まで、挺身隊に動員された韓・日の2つの国の女性は全部でおよそ20万人。そのうち韓国女性は5〜7万人と推算されている」と報道する[209]。しかしアジア女性基金運営審議委員高崎宗司は、このソウル新聞記事における「5〜7万」の推算の根拠は不明であるとしている[492]。
在日朝鮮人運動史研究者の金英達(キム・ヨンダル)と高崎宗司の研究によれば、1973年の書籍『従軍慰安婦』で作者の千田夏光がこのソウル新聞の記事を「『挺身隊』の名の元に彼女らは集められた」「総計20万人(韓国側の推計)が集められたうち、『慰安婦』にさせられたのは5万人ないし7万人とされている」と誤読した上で著作の典拠とした、としている[493]。(この千田夏光による言及が、慰安婦と挺身隊との混同と慰安婦20万人説の始まりとされる。)
1984年に元『東亜日報』編集局長の宋建鎬(ソン・ゴンホ)が発表した『日帝支配下の韓国現代史』(1984年風濤社刊)において、「日本が挺身隊という名目で連行した朝鮮人女性は、ある記録によると20万人で、うち5〜7万人が慰安婦として充員された」と述べる(1969年の報道記録からと見られるという)[490]。これは、千田夏光がソウル新聞を誤読したうえで発表した内容[494]と同一である。これについて韓国の経済史学者の李栄薫 ソウル大学教授は、韓国の学者や北朝鮮の代表などが日本の収奪像を過度に誇張している、と批判している[490][491][217][218][495]。
国定教科書における記載
韓国国定教科書では朝鮮女性数十万人を慰安婦にし、650万人を強制連行したと記載している[217][218][496]が、学術的な根拠は不明。李榮薫 ソウル大学教授は、1937年に日本軍首脳は兵士150人につき1名の慰安婦を充当せよという指令を出したとしている[169]。
韓国政府による認定者
2004年までに韓国政府 女性家族部認定の元日本軍慰安婦は、既に亡くなった人を合わせて計207人[298]、2005年には計215人で内88人が死亡した[497]とし、2009年[498]と2011年には合計234人としている[499]。
- 2015年12月現在、計238人。内、生存者は46人。平均年齢は89,2歳[500](終戦当時19歳)。
北朝鮮の見解
北朝鮮は2005年4月に国連代表部金永好書記官がジュネーヴ 国連人権委員会で、朝鮮人慰安婦の総数は20万人、強制連行された人数は840万人だと主張している[501][217][218][502]。
中国における諸説
上海師範大学「中国慰安婦問題研究中心」所長の蘇智良は1999年、荒舩清十郎発言(14万2000人説)に依拠し、慰安婦総数は36万から41万で、このうち中国人慰安婦は20万と推算[136][503]。日本政府・アジア女性基金はこの推算について、根拠が荒船発言という個人の見解に基づくものであり、誤導された推論として批判している[136]。なお、蘇は1996年の計算では中国天津慰安所研究により、慰安婦総数を40万人、朝鮮人慰安婦20万人、中国人と日本人の慰安婦が各10万ずつとしていた。
その後2005年6月に蘇智良は『上海日軍慰安所実録』を刊行し、上海市内に慰安所が149あり、最初の日本軍慰安婦施設である「大一沙龍(サロン)」が設置されたとしたうえで、中国慰安婦記念館の設立を訴えた[504]。この訴えに応じて2007年7月5日、世界で三番目の慰安婦記念館となる中国慰安婦記念館が開館した[505]。
アメリカ合衆国における記述
- ニューヨークタイムズ記者ノリミツ・オオニシは名前は明らかにしないが日本人歴史学者達によると日本軍慰安婦は最大20万人であるとしている[452]。慰安婦のほとんどが家庭から拉致され最前線に連行された10代の朝鮮女性であるとしており、アメリカ軍の場合とはこの点で大きく異なるものであるとしている[102]。
- アメリカ合衆国の歴史教科書『Tradition & Encounters:A Global Perspective on the Past』では、最大で30万人もの14-20歳の女性たちを強制的に徴集して性行為を強要したとしている[506]。さらに、「日本軍は慰安婦たちを天皇の贈り物と言いながら兵士などに提供した。慰安婦たちは韓国と台湾、満洲、フィリピンなど東南アジア各国から連れてこられ、80%が韓国出身であった。逃げようとしたり性病にかかると日本兵などによって殺され、戦争が終わるころには兵士などが隠蔽するために慰安婦たちを大挙虐殺した。」などとしている[506]。この歴史教科書は2003年より数千校で100万人以上の学生に使用されている[506]。
- 韓国系米国人の運動により全米に建立された慰安婦の碑の多くには慰安婦の数を20万人以上と記している。
国連人権委員会
国連人権委員会に採択されたマクドゥーガル報告書で20万人以上とされている。
数値の根拠には「1975年(原文ママ。1965年の間違い[136])」の自民党議員荒舩清十郎による「14万2000人」[507]があげられているが、荒船議員が1965年11月20日に選挙区の集会(秩父郡市軍恩連盟招待会)で行った発言における数値については荒船議員が勝手にならべたものであり、これが根拠とされることは遺憾と明記している[136]。(詳しくは女性のためのアジア平和国民基金#マクドゥーガル報告書を参照)
日本軍慰安婦問題の論点
強制連行の有無
実際に強制性が存在したかについては、いわゆる強制連行の有無や、売春が強制下で行われたのではないかなどを含めて様々な議論がある。強制的に連れ去られた事実が存在したのか、また存在したとしてそれを行い売春を強要させた主体が日本政府(軍)だったのか、被害者の両親と金銭取引を行い、本人の意思を無視して連れ去った民間業者だったのかで意見が分かれる。
処女・少女の強制連行説
日本内地での工場勤労を意味する女子挺身隊と慰安婦を混同した認識[508]は戦後も続き、在日朝鮮人作家の金一勉は1976年の著書『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』で日本軍慰安婦について
地上のあらゆるエロ小説よりも奇怪にしてスリルに富み、残酷かつ野蛮なセックス処理の女たち[509]
と表現したあとで、
と記しており、このような「日本帝國」による「国家的大詐欺行為」によって集められた「処女」は推定20万人であったとしている[511]。なおこの金の本はクマラスワミ報告書における事実認定のほぼすべての出典として提示されているジョージ・ヒックスの『性奴隷』でも参照されており、歴史的事実の根拠として提示されている[512]。
小学生慰安婦説
「挺身隊」と「慰安婦」の混同、および「少女・処女」が「強制連行」されたとする認識は韓国(および日本での慰安婦問題活動家)の間では1990年代になっても存続し、1992年1月の宮沢首相の訪韓時に韓国の新聞は「小学生までが挺身隊にされ、慰安婦にされた」と、あたかも女子小学生が慰安婦にされたかのような報道を繰り返した[86]。東亜日報は1992年1月14日に「挺身隊、小学生まで引っ張っていった」、朝鮮日報は同1月15日に「日本、小学生も挺身隊に徴発」との見だしで報道した[86]。東亜日報は1992年1月15日の社説「十二歳の挺身隊員」では次のように報道した[513]。
本当に天と人とが共に憤怒する日帝の蛮行だった。人面獣心であるとか、いくら軍国主義政府が戦争を遂行するためだったとしても、このようなまでに非人道的残酷行為を敢えて行うことができたのかといいたい。(中略)
十二歳の小学生まで動員、戦場で性的玩具にして踏みにじったという報道に再び沸き上がってくる憤怒を抑えがたい。(中略)
これまで十五歳の少女が挺身隊に動員されたことは知られていた。しかし、十二歳の幼い子供まで連行されたことは初めて明らかにされたことだ。(中略)
勤労挺身隊という名前で動員された後、彼女らを従軍慰安所に回した事実が様々な人の証言で立証されている…(中略)
このように何もわからず父母のもとを離れ挺身隊に連行された少女らの数はわからない。泣き叫ぶ女性をなぐりつけ乳飲み子を腕から奪って赤ん坊の母親を連行したこともあった。このように動員された従軍慰安婦が八万〜二十万と推算される。
--東亜日報1992年1月15日社説「十二歳の挺身隊員」
現代朝鮮研究者の西岡力の調査によれば、1992年1月14日に報道された「小学生挺身隊」についての記事を初めて執筆したのは聯合通信の金溶洙記者であった[514]。西岡が実際に12歳の少女が慰安婦になったことは事実ではないのに、なぜ報道したのかと質問したところ、金記者は、富山県に動員された6人の児童が慰安所でなく工場に動員されたことは事実であるとして
6人の児童が慰安婦でなかったことは知っていましたが、まず勤労挺身隊として動員し、その後慰安婦にさせた例があるという話も韓国国内ではいわれていますので、この6人以外で小学生として慰安婦にさせられた者もいるかもしれないと考え、敢えて<勤労挺身隊であって慰安婦ではない>ということは強調しないで記事を書きました。
と弁解した[515]。この金溶洙記者による弁解で「小学生慰安婦」の存在が証明されたわけではないことが明らかになり[516]、またその後、当時挺身隊だった女性が名乗りでて、新聞報道が誤報であったことが判明する[86]。しかし、その後も「小学生慰安婦」について報道した新聞やテレビは報道を修正することはなく、「小学生や乳飲み子の母親までを連行して性の玩具にした」というイメージは韓国社会のなかで繰り返しテレビドラマなどで伝えられて、現在にいたっている[517]。慰安婦活動家においてもそのような認識が変更されることはなく、2012年には米国などでの慰安婦(成人女性)像設置運動に続いて「少女」像の建設運動が進められている[518]。
また、インドネシアのスリ(Sri Soekanti)は、わずか9歳で「性奴隷にされた」と証言している[519]。
「広義の強制連行」説
慰安婦問題において旧日本軍の責任追及の急先鋒だった中央大学教授吉見義明は、秦郁彦が済州島での実地調査で吉田証言が虚偽であったことが判明したと報告して間もなく、人狩りのようなことは“狭義”の強制連行であるが、詐欺などを含む「“広義”の強制連行」というものも問題であると主張するようになった[520]。吉見は、1997年に刊行した著書でも「官憲による奴隷狩りのような連行が朝鮮・台湾であったことは確認されていない」とした[521]。しかし、フィリピン、中国、インドネシアではそうした連行があったと主張している[521]。
朝日新聞は1997年3月31日付の社説で、「旧日本軍の従軍慰安婦をめぐって、日本の責任を否定しようとする動きが続いている。これらの主張に共通するのは、日本軍が直接に強制連行したか否か、という狭い視点で問題をとらえようとする傾向だ」と主張。
2006年9月13日に米上院外交委員会に提出された日本軍慰安婦問題に関し日本政府に謝罪を求める決議案 (H.Res.759) は「日本政府は性奴隷にする目的で慰安婦を組織的に誘拐、隷属させた」とし可決され[522]、2007年1月31日に提出されたアメリカ合衆国下院121号決議案も「日本政府は帝国軍への性行為という唯一の目的のために若い女性を職務として連行した」とし満場一致で採択されている。
2015年に尹明淑(一橋大学博士号取得)は「日本政府と軍が奴隷狩りのような慰安婦強制連行に直接介入したかどうかに焦点を合わせるのは、日本右翼のフレームに陥るようなもの」で「軍と統治機関が背後に隠れて業者を通じ統制・監督し、就職詐欺や人身売買という方法で徴募したこと、それ自体が暴力だ。また『本人の意志に反して連れて行かれた』ことは強制と言える」と主張したうえで、大日本帝国は朝鮮植民支配によって、朝鮮の絶対貧困化を加速させ、農民の70%が食事さえとれない状況になり、農民は極貧層に追い込まれ、慢性的な失業と低賃金、飢餓にさらされ、朝鮮人の多数が国外で彷徨い、数多くの10代の少女が家政婦、保母、接客、妓生、女工、慰安婦などに転落をせざるをえなくなったのであり、慰安婦徴募・移送に関与した朝鮮人の道知事や班長、区長、警察などの親日勢力の責任も忘れてはならないと述べた[523]。
強制連行説への批判
- 2008年、ソウル大学教授安秉直は韓国挺身隊問題対策協議会と共同で3年間に渡って日本軍慰安婦について調査をしたが、強制連行があったとする客観的資料は一つも見つからなかったとし[152]、また韓国陸軍元大佐の評論家池萬元も、元日本軍慰安婦は大半が厳しい経済事情のため自ら性売買を望んだ人だとしている[524]。しかし安秉直は、その後、2014年には「「女子愛国奉仕隊」などの名目で徴集されたという事実は、「慰安婦」の徴集が事実上、戦時動員だったことを意味する。」と書いている[525]。
- 小林よしのりは、吉見義明をはじめとする慰安婦制度批判派が、旧日本軍による強制連行を批判してきたのに、証拠が無いとわかっても自説の訂正や謝罪はせず、「広義の強制性」を持ち出してきたことを「論点のすり替え」だとして批判している[526]。
- 秦郁彦は実質的に強制であるかどうかではなくて、物理的な強制連行の有無が問題だとし、「そうしないと、ある世代の全員が『強制連行』になりかねない。」と吉見義明の「広義の強制性」論に異議を唱えている[527]。また、「強制連行」については、志願者が多数いたので「強制連行」する必要性はなかったとし、「強制連行」されたという証言は元慰安婦の証言のみで、第三者の目撃証言はこれまで一切なく、2000年の女性国際戦犯法廷においても60数人の元慰安婦の来歴には誰が慰安所に強制連行したかの記載がないことについて「連行事情が食いちがってはまずいと考えたのか、女性国際戦犯法廷の報告書は参加被害者の略歴欄から誰が騙したか、連行したかの主語を削り落してしまったと指摘している[167]。
- 日本に帰化した呉善花は「生活者の連帯意識も民族意識や民族愛も強い当時の朝鮮人が、娘たちが強制的に連れて行かれるのを見て黙っているわけがなく、そんな世界で女狩りなんてできるはずがない」 という当時を知る日本人の証言を紹介し、自身が韓国にいた間、「慰安婦」の話を耳にしたことがなかった意味が、ようやくわかったと自著で述べている[528]。
- 慰安婦に関する調査を実施した平林博・内閣外政審議室室長や石原信雄官房副長官は、政府の調査おいて、軍や官憲による慰安婦の強制募集を直接示すような証拠も証言もなかったと国会答弁[144][145]や新聞[293]、雑誌[529]等のインタビューにおいて語っている。
- フィリピンのアンヘレス市に当時いたダニエル・H・ディソンは、日本兵用の売春宿は存在したが、一般に強制性はなかったと目撃証言している[530]。
- 1991年当時NHK職員だった池田信夫は番組制作のため、韓国で数十人の強制連行されたという関係者に取材したが、軍が連行したという証言は得られなかったという[295]。
- 1992年7月から12月にかけて元慰安婦40人に聞き取り調査を行なった[531]安秉直ソウル大学名誉教授は2007年3月に「私の知る限り、日本軍は女性を強制動員して慰安婦にしたなどという資料はない。貧しさからの身売りがいくらでもあった時代に、なぜ強制動員の必要があるのか。合理的に考えてもおかしい」と発言し、当時兵隊風の服を来たものは多数いたし日本軍とは特定できない、また安倍晋三首相が厄介だから謝罪してはならない、そうした「謝罪」は韓国世論をミスリードすると発言している[532]。(#安秉直による検証調査も参照)
スマラン慰安所の白馬事件
- インドネシアの抑留所を管理していた第16軍軍政監部は、強制しないこと、自由意思で応募したことを証するサイン入り同意書を取るように指示していたが、それに反し、ある幹部候補生隊がオランダ人女性35人をスマランの慰安所に強制連行したこと(「白馬事件」)が戦後、連合国によるB,C級法廷で裁かれ、軍人のほかに、慰安所を経営していた日本人業者のうち、一人が死刑、10人が有罪となったとの記録が残っており、これが強制連行を行なっていた証拠であるとの指摘[533]がある一方、軍は事件後慰安所を閉鎖しており、元もと自由意思で応募する者だけを慰安婦にする方針だったので、むしろ強制連行を行なっていなかった証拠であるとの反論がある[534]。
「公娼」か「性奴隷」か
「性奴隷」言説
日本軍慰安所における慰安婦を「性奴隷」と表現する潮流がある。これについては日本弁護士連合会および日弁連海外調査特別委員の戸塚悦朗弁護士を中心に1992年頃から「慰安婦」という言葉でなく「Sex Slaves(性奴隷)」という表記の方が正しいとして国連でロビー活動を続けた結果、1993年以降、国連で浸透していったことが明らかになっており、日弁連も公式サイトでその旨を明記している[535](#国連などでの呼称および#宮沢首相による謝罪から「河野談話」までを参照)。以降、1996年のクマラスワミ報告、1998年のマクドゥーガル報告書でも「性奴隷」と明記された。
しかし、朝鮮人女性を奴隷狩りのように狩ったと加害証言してきた吉田清治が1996年5月に自らの証言を虚偽(フィクション)であることを週刊新潮で告白して以降[536][537]、慰安婦強制連行問題を追求してきた吉見義明も1997年には朝鮮で官憲による奴隷狩りを行ったとする証拠は確認されていないと明言した[521](#強制連行の有無参照)。
中国帰還者連絡会会員の湯浅謙も1998年に季刊『中帰連』に発表した文章において、戦時中、湯浅が中国の山西省南部の陸軍病院の軍医として従軍し、朝鮮人慰安婦の性病検査なども行なったとして、「当時の軍人にとって慰安婦は料金も払うし愛想もよかったので「公娼」に見えたが、植民地支配下にあって、彼女たちは抵抗することも「強制され連れて来られた」と異議を唱えることもできない状況下にあったので、「性的奴隷」であった旨を語っている[538]。
日本の戦争犯罪・戦争責任を追及しているNGO「日本の戦争責任資料センター」は2007年2月の声明において「『日本軍慰安婦』制度は、慰安婦たちに居住の自由、廃業の自由、外出の自由や慰安所での使役を拒否する自由をまったく認めていなかった」「故郷から遠く離れた占領地から逃亡することは不可能だった」などの理由から、「公娼制度を事実上の性奴隷制度とすれば、『日本軍慰安婦』制度は、より徹底した、露骨な性奴隷制度であった」旨を主張している[539]。2007年7月に採択されたアメリカ合衆国下院121号決議では「強制軍売春という『慰安婦制度』は“残忍さという点で前例のないもの”と認識されており、“20世紀における最大の人身売買の一つ”である」と主張した。
こうした性奴隷説について評論家金完燮は2004年に「軍隊という血気さかんな若者の集団にどうやって性欲を発散させるかは、どの国の軍隊にとっても重要な問題であり、“性奴隷”というのは反日キャンペーンのために発明された用語だ」と批判した[540]。産経新聞は2007年5月18日記事で、米国戦争情報局心理作戦班報告には「慰安婦の雇用条件や契約条件が明記されており、慰安婦の女性が一定額の借金を返せば解放されるという条項があるという点で、当時の米軍当局が日本軍の“強制徴用”や“性奴隷”とは違った認識を持っていた証拠になる」と指摘している[541]。
アジア女性基金で東京大学教授の大久保昭は「元慰安婦が性的奴隷にさせられたのはすべて日本の軍や警察権力による強制にもとづくという、一部の学者、NGO、メディアによって1990年代初期に唱えられた主張も、歴史的事実とは懸け離れた思い込みにすぎない」と批判している[542]。
2014年11月27日に産経新聞は、アメリカ政府が8年かけて調査し2007年4月にまとめられた「ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班(IWG)米国議会あて最終報告」の取材結果の記事を出した[543]。 これによると「日本の慰安婦にかかわる戦争犯罪や「女性の組織的な奴隷化」の主張を裏づける米側の政府・軍の文書は一点も発見されなかったことが明らかとなった」としている。
「公娼」言説
他方、日本軍慰安婦制度を「公娼」制度として認識する歴史学者もいる。1997年に発表した研究において歴史学者の藤目ゆきは、日本では前近代より公娼制度があったが、近代日本の公娼制度はヨーロッパの近代公娼制度をモデルとして再編成されたものと指摘したうえで[544]、
日本における従来の公娼制度と廃娼運動の研究は、一般に、近代日本の公娼制度を前近代の公娼制度からの延長線上に把握し、これを特殊日本的で前近代的な制度として認識してきた。「欧米の文明国」には公娼制度は存在しないと信じ込み、近代日本の公娼制度の存在をもっぱら日本の後進性・前近代性の表出と錯覚するのである[545]。
と指摘し、「日本にのみ公娼・慰安所があった」とする見方について批判し、各国における近代公娼制度の比較研究を展開した[546]。また、秦郁彦は、慰安婦を「戦前の日本に定着していた公娼制度の戦地版と位置づけるべき」と主張している[547]。このほか、山下英愛[18]、川田文子[548]、宋連玉[24]、藤永壮[19]、眞杉侑里[549]らも公娼制という概念によって研究をしている。ただし、公娼制の意味については論者によって異なるところもあり、統一見解がだされているわけではない[549]。
商社員として約三年半の間、中国漢口の慰安所について見聞きして来た小野田寛郎は2005年の文章で、慰安婦制度の背景について「兵士も、やはり(女性を求める)若い人間であり、一方にはそうまでしてでも金を稼がねばならない貧しい不幸な立場の女性のいる社会が実際に存在した」とし、「『従軍慰安婦』なるものは存在せず、ただ戦場で「春を売る女性とそれを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたと言うだけのことである。」と述べている[151]。
その他、歴史学者の倉橋正直は2010年の著書[550] で日本軍慰安婦には「性的奴隷型」と「売春婦型」の2つのタイプがあったとして、画一的な「従軍慰安婦」解釈を批判している。また倉橋は「近代日本における公娼制は検黴制などの近代的要素と前借制、楼主への人身の隷属などの封建的要素が複合している」と書いている[551][552]。
朴裕河世宗大学教授は自著『帝国の慰安婦』において慰安婦を「精神的な慰安者」「軍人の戦争遂行を助けた愛国女性」「自発的な売春婦」とする自身の研究結果を発表した、として元慰安婦9名からこの著書の出版停止を求めて提訴され、ソウル東部地裁は当該記述を削除しなければ、出版することを禁じる判決を下した[553][554]。しかし朴裕河本人は「自発的売春婦とは書いていない」とこれを否定し、争う姿勢を見せている[555]。
妓生と公娼
朝鮮に伝統的に存在していた妓生(キーセン)についてもこれが公娼か否かについての議論がある。川田文子は、朝鮮には妓生、女社堂牌(ヨサダンペ)、色酒家など様々の形態があったが、特定の集娼地域で公けの管理を行う公娼制度とは異なるとした[548]。また、金富子や梁澄子[556]、評論家の金両基[557]らは、妓生制度は売買春を制度化する公娼制度とは言えないと主張している。金両基は多くの妓生は売春とは無縁であり、漢詩などに名作を残した一牌妓生黄真伊のように文化人として認められたり、妓生の純愛を描いた『春香伝』のような文学の題材となっており[558]、70年代から90年代にかけて主に日本人旅行客の接待に使われたキーセン観光はとはまったく違うと反論した[558]。
日本統治時代の朝鮮において日本人の認識の事例としては、山地白雨による「妓生は日本の芸者と娼妓を一つにしたやうな者で、娼妓としては格が高く、芸者としては、其目的に添はぬ処がある」「其最後の目的は、枕席に侍して纏綿の情をそそる処にある」という1922年の記録[559]や、柳建寺土左衛門(正木準章)による「妓生とは朝鮮人芸者のことで京都芸者のようだ」「蝎甫(カルボ) は売春婦である」という同年の記録[560]、1934年の京城観光協会『朝鮮料理 宴会の栞』の「エロ方面では名物の妓生がある。妓生は朝鮮料理屋でも日本の料理屋でも呼ぶことができる。尤も一流の妓生は三、四日前から約束して置かないと仲中見られない」「猟奇的方面ではカルボと云うのがある。要するにエロ・サービスをする女である」「カルボは売笑婦」という記録があり、妓生と売春婦(カルボ)を区分して書かれていた[561]。
川村湊は「李朝以前の妓生と、近代以降のキーセンとは違うという言い方がなされる。江戸期の吉原遊郭と、現代の吉原のソープランド街が違うように。しかし、その政治的、社会的、制度的な支配−従属の構造は、本質的には同一である」とのべ[562]、現代のソウルの弥亜里88番地のミアリテキサスや清凉里 588といった私娼窟にも「性を抑圧しながら、それを文化という名前で洗練させていった妓生文化の根本にあるものはここにもある」と述べている[563]
日本政府による資料の扱い
作家千田夏光『従軍慰安婦』(1973年双葉社)で、朝鮮慰安婦に関する資料は朝鮮で「焼却されたと伝えられる」として、しかし残った資料は朝鮮総督府東京事務所にあり、敗戦後には朝鮮銀行(のちの日本債券信用銀行)の大金庫に保管されていると主張している[564]。
2007年時点で、植民地時代の朝鮮総督府警察の刑事事件の記録などは国立公文書館に移管されておらず、元自民党議員戸井田徹は、情報公開法に基づいて移管し公開すべきと2007年4月25日の衆議院内閣委員会で政府に要請した[565]。
元日本将兵の証言に関する問題点
千田夏光の著作における証言
作家千田夏光『従軍慰安婦』(1973年双葉社[566])はのちに国際問題となった「慰安婦」問題に大きな影響を与えた。しかし、アジア女性基金の高崎宗司(歴史学)の研究や、西岡力(朝鮮研究者)、加藤正夫(歴史学)らの検証で、千田の著書は事実ではないことを事実として虚偽記載したことが現在では明らかになっている。また同書に掲載されている原善四郎原(元関東軍参謀)や麻生徹男(軍医)の証言・インタビューは千田による創作であったことが千田本人が明らかにしており[567]、さらに1996年には麻生軍医の親族である天児都に「これらの著述は誤りであり、今後誤解をまねく記述はしない」と謝罪した[568]。
しかし、千田の著書は1973年に初版が発行されて以降、金一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(1976年)などでも参照され、ジョージ・ヒックスの『性奴隷』でも日本軍慰安婦制度に関する歴史的真実・事実として参照されている。さらに国連委託のクマラスワミ報告やマクドゥーガル報告書やアメリカ下院決議でもヒックスの著作が根拠とされており、すなわち千田の著書における記述は歴史的真実を描いた原典として受容され続けた。
- 慰安婦の総数についての誤認と虚偽記載
千田が記した「慰安婦が20万人いた」という数値については、ソウル新聞の記述の誤認であった(本項 #総数・#千田夏光の新聞報道の誤読 節を参照)。
関東軍特種演習・原善四郎証言の捏造
関東軍特種演習において慰安婦が強制的に集められたと、千田は同書で記載している[569]。千田は、
と書いた[570]。また、それ以降のページで原への対面インタビューが掲載されており、著者である千田の「70万人の兵隊に2万人の慰安婦が必要とはじき出した根拠というか基準は何だったのですか」という質問に対して、原が
はっきり覚えていないけど、それまでの訓練つまりシナ事変(日中戦争)の経験から算出した。
二万人と言われたが、実際に集まったのは8千人ぐらいだった。
集めた慰安婦を各部隊へ配属したところ、中には<そんなものは帝国陸軍にはいらない>と断る師団長が出たのです。ところが、二ヶ月とたぬうち、<やはり配属してくれ>と泣きついて来た
と語ったと記載された[571]。
この原証言に関する記載について1993年、現代史研究家の加藤正夫が「千田夏光著『従軍慰安婦』の重大な誤り」(『現代コリア』1993年2・3月号)を発表。加藤が千田夏光本人に矛盾点を問い詰めたところ、千田は原証言は実際に行ったインタビューではなく、千田自身がすべて創作したことを認めた[567]。また関東軍特種演習が慰安婦を集めたという記述については、島田俊彦(武蔵大学教授)の『関東軍』(中央公論社 1965年)に載っていた話を引用したと千田は答えた[567]。その島田の著作も出典はなく「慰安婦を集めた」と記載されているだけであった。
麻生徹男軍医に関する虚偽記載
千田同書では、上海に応召された軍医の麻生徹男へのインタビューが掲載されており[572][573]、麻生軍医は「はじめ陸軍慰安所という文字を見て、演芸か何かをやる場所だと思いました。ですから待機中の婦女子というのは、内地から慰問に来た三味線を弾いたり歌をうたう芸能人だと考えてきました。」などと千田に語ったと記されている[574]。このほか、麻生軍医の作成した報告書「花柳病ノ積極的予防法」が同書では全文掲載され、千田による解釈注釈が付されている。
麻生徹男軍医の娘で女医の天児都は千田の『従軍慰安婦』に裏付けのない記述や矛盾が多いと批判して、次の点を挙げている[568]。
- 千田が造語した「従軍慰安婦」という用語では「従軍」に強制の意味が含まれるため、容易に「強制連行」に結びつき、「性的奴隷」を容易に想像させたため、混乱のもととなった[568]。また、千田は根拠なく強制連行と慰安所・慰安婦を結びつけた[568]。
- ヨーロッパの軍も植民地に慰安婦制度を置いてたことは千田が引用している麻生報告書にも明記してあるのに、日本軍を「娼婦連れで戦った唯一の軍隊」として流布させた[568]。
- 1939年6月30日の軍医会同での講演で発表した麻生軍医の論文で80人の朝鮮人と20人の日本人を診察したことを根拠に、麻生軍医が「朝鮮人慰安婦強制連行」の責任者であると千田が主張した。
- 麻生論文では娼館(娼楼)ではない軍用娯楽所(音楽、活動写真、図書等)を提言しているのに、麻生軍医が娼婦を不可欠と主張したかのように千田が描いたこと。
千田は、麻生軍医を慰安婦制度を考案した責任者のようにほのめかしてしまったことを娘の天児に1996年4月15日消印の手紙で「これらの著述は誤りであり、今後誤解をまねく記述はしない」と謝罪した[7][568]。この千田による謝罪と自著否定発言を踏まえて天児は出版元の三一書房と講談社へその部分の改訂を要請したが、二社とも改訂しなかった[568]。天児は「慰安婦問題は千田夏光の誤りを検証せず、事実として平成3,4年頃出版した人たちが誤りを再生産して日本中に広め、それが海外へ流出して不幸な日本叩きの材料とされた事件だ」と、日本軍慰安婦問題(いわゆる「従軍慰安婦」問題)についてコメントを述べている[7][568]。
麻生徹男軍医は上海の慰安所と日本人慰安婦の写真10点を残している[568]。このうち慰安婦の写真とは、1937年12月の南京陥落前後に日本軍の行動が国際問題となったので、婦女暴行の対策として北九州地区で支度金1000円を支払って急遽集められて上海に行った日本人女性の写真である[568]。また麻生軍医は1957年に博多の雑誌『うわさ』に証言を述べたり、1977年に毎日新聞「不許可写真集」に写真を提供したり、1986年には『戦線女人考』を出版した[568]。1989年に死去した麻生軍医の遺稿は1990年に不二出版から出された『軍医官の戦場報告意見集』(高崎隆治編)[575]に掲載されている[568]。また天児都は1993年8月に『上海から上海へ』(石風社)を[568]、2010年には『慰安婦と医療の係わりについて』を刊行している[576][577]。
ほかに千田同書には匿名による証言として「女をやっつける兵隊ほどいわゆる強兵、強い兵隊です」という証言が紹介されている[578]。
元慰安婦の証言に関する問題点
元慰安婦の証言の検証と真正性
証言している慰安婦には、金学順・李容洙・姜徳景・金君子・金順徳・李玉善・鄭書云・文玉珠・黄錦周・宋神道・ジャン・ラフ・オハーン・ビクトリア・ロペス・プリシラ・バルトニコ・レメディオス・バレンシアなどおよそ80人がいる[要出典]。
韓国で初めて慰安婦であったことを名乗り出た金学順を初め、元慰安婦の証言の中に矛盾があるとして、その証言の信憑性を疑問視する指摘がこれまである[579]。慰安婦問題について日本政府を糾弾し続けてきた千田夏光も金学順証言について、親族が業者に売却したということからすると、日本軍による強制連行であったかどうかは不明確と述べている[580]。
秦郁彦は慰安婦たちの身の上話(証言)について「検証ぬきで採用するわけにいかない」としている[581]。秦はさらに「だまして連行した朝鮮人周旋人や数年間起居を共にした慰安所の経営者についてもフルネームを陳述したケースがまったくないのは不自然きわまる」と指摘している[582][583]。
元駐日韓国大使の呉在煕は1993年1月7日に「政府の調査は徹底した証拠主義だから『一方的な証言』は認定できない」として、日本政府調査で証拠が出てこなかったことに関しても「当事者の言葉だけを信じてどうして認定するのですか。それは公的な調査をする我が政府でも同じです。日本政府が故意的に強制動員についての資料を隠しているとは思いません」と記者会見で述べた[584][585]。また、呉は「真相にはきりがなく、一定の線を引かなければならない」とも述べた[585][586]。しかし、この発言が報じられると関係団体から抗議をうけたため金泳三時期大統領から謝罪を命じられ、大使職も交代となった[587]。なお呉在煕は1992年1月の宮沢訪韓の際の韓国政府内会議でも「トップ会談では慰安婦問題を出すべきではない」と進言したが、大統領府は慰安婦問題を積極的に持ち出すことで対日貿易赤字について日本側の譲歩を引き出せると反論した[588][589]。
ほかにフェミニズム研究者の上野千鶴子は「<善意>のインタビュアーたちは、自分が聞きたい物語を聞き出すように、語りの図式を変形するという権力を、その聞き取りの現場において行使している」として聞き取り調査のあり方を批判している[590]。
小室直樹は、慰安婦問題の核心は挙証責任(証明責任)にあると指摘している[591]。刑事裁判および民事裁判において証明責任は原告(検察)側にあり、検事は合法的に被告が有罪であることを完全に証明しなくてはならない[591]。証明責任のない被告はアリバイを証明する必要もない[591]と指摘したうえで、慰安婦問題について被告は日本政府であり、原告を日本や韓国の運動団体とすれば、証明責任は運動側にあると主張した[591]。また推定無罪原則によって、合理的な疑いを入れないまでに立証されない場合は被告人は無罪となる[592]。さらに小室は国際法上、国家が「謝罪」するということは国家責任を負うことを意味し、賠償に応ずることを意味すると指摘し、首相や外相が「可哀想なひとたちだから」という理由だけでひとたび謝罪すれば挙証責任を日本が負わされることになるとして「謝罪外交」を強く批判している[591]。
中国海南島戦時性暴力被害裁判の支援団体ハイナンNET[593]による台湾元慰安婦の調査報告や石田米子・内田知行ら[594]によれば、最近(2004年時点)の調査では1人の元慰安婦に数時間のインタビューを数回行い、日時・場所などについては他の資料とつき合わせて確認しており、研究者は証言の信頼性を確認しながら調査を行っているという。ただし、石田・内田らは1990年代の元慰安婦証言の批判的検証を行なっているわけではない。
他方、「被害者の証言を疑い、歴史学者や政府がその真偽を検討して判定しようとすること自体が被害者に対する抑圧であり、認められない」という主張がある[595]。東京大学教授で国際法学者の大久保昭はそのような主張を「被害者の聖化にほかならず、実際的意義を欠く」として、「『自分は慰安婦だった』と主張する人のなかに偽ってそう称する人が含まれることは、人間性の現実を受け入れるかぎり否定できない」と指摘している。[595]。また、「真偽の判定にあたって被害者(と主張する人)に最大の配慮をすべきことは当然だが、個人への償いは、被害者を認定するという作業を経なければならない。その際、『自分は慰安婦だった』と主張する人のなかに虚偽の主張者が含まれる可能性がある以上、すべての人を元慰安婦と認定することはできない。主張の真実性を認定する基準と手続きをつくらなければならない」と提言した[595]。
安秉直による検証調査
ソウル大学名誉教授安秉直を代表とする「挺身隊研究会」は韓国挺身隊問題対策協議会と共同で1992年7月から12月にかけて慰安婦と名乗り出たうちの生存者55人中約40人に聞き取り調査を行なった[596]。一人あたり5、6回以上の長時間の面接調査、記録資料との確認、スタッフは報告書を3回以上輪読、その後の再面談を経てまとめられた。調査の結果は半数以上が「意図的に事実を歪曲していると感じられる」などの理由から脱落し、最終的に証言集に掲載できたのは19人であった[597]。この調査報告書では強制連行は詐欺(主)を含めて大部分だとしている[488] p26p27)。調査は1993年2月に韓国で挺対協・挺身隊研究会編『証言集1 強制で連れて行かれた朝鮮人慰安婦たち』として刊行された[598]。しかし安秉直は「歴史学的に検証に堪える緻密な調査をすべきという私の考えに運動の論理が対立した」と挺対協との対立について回想し、証言集を発表してからは研究会を離れたとしている[599]。2006年、安は「強制動員されたという一部の慰安婦経験者の証言はあるが、韓日とも客観的資料は一つもない」「無条件による強制によってそのようなことが起きたとは思えない」と述べ、慰安婦は「自発的」であったことを述べ、現在の韓国における私娼窟における慰安婦をなくすための研究を行うべきであり、また共同調査を行った韓国挺身隊問題対策協議会は慰安婦のことを考えるより日本との喧嘩を望んでいるだけであったと非難している[600]。
現代朝鮮研究者の西岡力は安秉直調査による証言集に掲載された19人のうち、官憲等による「強制連行」だったと証言する女性は4人だけであり、その4人のうちの2人が語ったのは日本内地の富山県と釜山の「慰安所」であった[601]。しかしいずれも戦地ではなく、現地には公娼にいた遊郭があったため、軍がわざわざ強制連行する必然性がなく、信ぴょう性がないとした[601]。残り二人は金学順と文玉珠であり、文玉珠は当時2万6145円を貯金していた(当時の3万円は現在での約1億3606万[602])慰安婦であるが、高木弁護士の作成した訴状ではビルマの慰安所に連行されたと証言しているのに、安秉直教授らの調査ではビルマの前に満州に連行されたと異なる証言をしたが、訴状作成の時点でなぜ満州への連行を陳述しなかったのか、その合理的理由が不明であり、信ぴょう性にかけると西岡は指摘している[603]。また両名共、日本政府を訴えた裁判の訴状では元「キーセン」であったと自ら認めていると西岡が『文藝春秋』1992年4月号に発表した「慰安婦問題とは何だったのか」(以下、西岡論文)で指摘した[604][605][606]ところ、西岡の指摘後、金学順は「キーセンに売られて中国に連れて行かれたのだけど、業者の人と北京の食堂でご飯を食べていたら日本の軍人が来て連行された」とそれまでの証言を変えた[604][607]。金学順は1991年12月の訴状作成の時点では「養父に連れられて中国に渡った」と証言していたのを、1992年7月からの安秉直教授らの調査では「北京で日本軍人に暴力的に連行された」と証言を変更しており[608]、西岡は、裁判に有利なことを訴状で意図的に隠すとは思えず、こうした証言の変化は西岡論文での指摘を受けて付け加えたものとみるのが自然であると主張した[608]。また、信ぴょう性のある証言を行った日本軍に強制連行された朝鮮人慰安婦は一人もいなくなるとしている[608]。
吉見義明は1997年、研究者も強制連行のケースとは認定していない文玉珠に対し、強制連行ではないと主張しても研究上は意味をなさないと主張した[150]。しかし、文玉珠の証言は1993年の韓国の挺対協による調査においては、そのときの最も明白な強制連行の証言であった。それ以前の訴状には、騙されて掠われたことになっている[要出典]。
非公開証言と日本外務省による「強制性」認定
宮沢内閣は1993年の「河野談話」発表以前に韓国政府の強い要請を受け、元慰安婦16人の証言を聞いたが、この時の元慰安婦の人選は韓国の太平洋戦争犠牲者遺族会が行い、証言には福島瑞穂弁護士などの立会い人が付き添った[609]。日本政府はこの証言に対する質問も、裏付け調査をすることも許されず、この調査における慰安婦の氏名も証言内容も非公開とされた[609]。
この時内閣官房副長官であった石原信雄は、当時どれだけ歴史資料を探しても「日本側には強制連行の事実を示す資料も証言者もなく、韓国側にも通達、文書など物的なものはなかったが」、元慰安婦は強制性があると証言するので、「総合的に判断して強制性を認めた」と語っている[610]。そのような判断に至った理由を「強制性を認めれば、問題は収まるという判断があった」と語っている[610]。石原は、当時韓国政府は国家賠償を求めていなかったため、元慰安婦の名誉回復と日韓関係のために日本軍による強制性を認めたが、もし当時韓国側が日本政府による個人補償・国家賠償を求めていたら「通常の裁判同様、厳密な事実関係の調査に基づいた証拠を求めていた」と語っており、この非公開の「聞き取り調査」における元慰安婦の証言に裏付けはなく一方的な被害証言であったことを認めている[609][610]。なお慰安婦を被告として裁判したケースはないため、偽証罪[611]や事実認定[612]が法的に適用されたことはない。
平林博内閣外政審議室室長は、1997年3月12日の国会での小山孝雄参議院議員の質問に「政府が調査した限りの文書の中には軍や官憲による慰安婦の強制募集を直接示すような記述は見出せなかった」と答弁[613]、翌日の新聞では産経新聞をのぞいてこの「裏取りもせず、非公開のものだけで強制連行を認めた」とする政府答弁について報道するメディアはなく公聴会が開かれることもなかった[614]。西岡力は金縛りにあったように「誰も、なにもいえなかった」として、これは1988年に梶山静六がアベック失踪について北朝鮮による拉致が濃厚と答弁したときの翌日に産経と日経以外のメディアが報道しなかったことと同じ構図だったと述べている[615]。
この時の証言認定が河野談話の前提ともなり、また、韓国政府はその河野談話を日本政府が強制連行を認めた証拠として提示するようになる。
なお、河野洋平は河野談話発表後、「半世紀以上も前の話だから場所とか状況とかに記憶違いがあるかもしれない。だからといって、一人の女性の人生であれだけ大きな傷を残したことについて、傷そのものの記憶が間違っているとは考えられない。実際に聞き取り調査の証言を読めば、被害者でなければ語り得ない経験だとわかる。相当な強圧があったという印象が強い。」と、元慰安婦の証言の裏付けをとらずに証言は真正のものと認定している[616]。
「慰安婦問題」の政治的な背景
韓国による政治的利用
自国にも慰安婦が存在したにもかかわらず日本のケースのみを韓国(韓国軍がベトナム戦争時に現地女性を多数強姦し、私生児を残したことが社会問題になった)[617]や中国が殊更取り上げることについては、政治的なカードとして利用するプロパガンダであるとの主張もある[617][618]。また日本に対する道徳的優位を誇示することで得られるナショナリズム的な「民族的快感」のために韓国は慰安婦問題を国際社会において利用しているとする見方もある[619]。
アジア女性基金の大久保昭も「1990年代の韓国では、慰安婦問題は建国以来一貫して世論の底流をなす反日ナショナリズムの象徴となり、聖化された」「挺体協は90年代韓国のヒロインだった」と述べている[620]。
韓国系アメリカ人の研究者でサンフランシスコ州立大学教授のサラ・ソー (C. Sarah Soh) は2009年の著書で、慰安婦を「性奴隷」や戦争犯罪とむすびつけて描写するのは不正確であるとしたうえで、韓国政府と韓国議会が日本軍慰安婦問題を扇情的に扱い、異論を許さないまま「日帝による被害の物語」を国民に押し付け、誤導したと批判している[621]。ソー教授は「慰安婦が強制連行された」という物語は陳腐な教義[622]であり、韓国政府の政治戦略的な誇張が慰安婦問題の深い理解とその解決を妨害しているとして、韓国社会が被害者意識から脱却すること、また韓国もまた元慰安婦にトラウマを与えた共犯者であり、慰安婦制度それ自体は戦争犯罪ではなかったことを受け入れるべきだとした[621]。テンプル大学のジェフリー・キングストン教授はこの本について、勇気あるこの著書は慰安婦問題への理解を深めるものであり、また日本と韓国の和解を期待させると評した[621]。
日本の運動家による工作
また、特定の政治的意図を持った日本国内のマスコミや団体や人物などの工作と指摘する声もある。「河野談話」発表に関わった当時、内閣官房副長官だった石原信雄は、国会議員との会合において、初期の段階では韓国政府が慰安婦問題をあおるということはなく、むしろこの問題をあまり問題にしたくないような雰囲気を感じたが、ある日本の弁護士が韓国で慰安婦問題を掘り起こして大きくし、それに呼応する形で国会で質問を行うという連携プレーのようなことがあり「韓国政府としてもそう言われちゃうと放っておけない」という状況があったと語っている[623]。韓国の盧泰愚大統領も、慰安婦問題の発生について「日本の言論機関の方がこの問題を提起し、我が国の国民の反日感情を焚きつけ、国民を憤激させてしまいました。」と語っている[624]。
日本からの償い金受給者に対する韓国運動団体による差別
アジア女性基金が償い金を給付すると発表し、1997年1月から韓国人、フィリピン人など計285名の元慰安婦に対し、一人当たり200万円の「償い金」を受給を開始した[296]。韓国政府は当初は日本政府・アジア女性基金による償い金給付を歓迎した。しかし、挺対協の反対を受けて、韓国政府もアジア女性基金からの給付を拒否する一方、日本からの償い金を受けとらないと誓約した元日本軍慰安婦には生活支援金を支給し、韓国政府認定日本軍慰安婦207人のうち、アジア女性基金から受給した元慰安婦や既に亡くなったものを除く142人に生活支援金の支給を実施した[296][299][298]。
償い金給付に先立つ1996年10月、アジア女性基金に反対する「強制連行された日本軍『慰安婦』問題解決のための市民連帯」が韓国で結成され、独自の募金活動を行う[625]。
1997年5月28日、同市民連帯は目標の約30億ウォン(約4億円)には及ばなかったが、日本の市民運動から9731万ウォン(約1500万円)、全体で5億5000万ウォンの募金が集まったとして、必要経費を除き、一人当たり約350万ウォン(約46万6000円)を元慰安婦151人に配布すると発表した[625]。しかし、「日本からの一時金200万円と医療福祉事業としての300万円の計500万円を受け取った7人の元「慰安婦」に対しては配布しない」とした[625]。さらに、他の運動関係者らが償い金を受け取った7人の慰安婦に対して「いくら受け取った?」「通帳を見せろ!」と脅迫したり、「日本からの汚れた金を受け取れば、本当の娼婦になる。7人は娼婦だ!」と中傷したり、韓国政府の生活援助金を7人に対し打ち切るように働きかけた[626][625]。
挺対協の尹貞玉は「一部の人たちは、ハルモニたちが日本の募金を受け取ろうとするのをなぜ挺対協は邪魔するのかと言っているが、糖尿病にかかった夫が甘いものを食べようとすれば、涙をのんでもこれを止めさせるのが愛する妻のつとめである。ハルモニたちが、民族の自尊心と尊厳を日本に売り渡すことのないよう我々はハルモニたちを支えねばならない。」と弁明した[625]。
こうした日本からの償い金を受け取った慰安婦に対する差別や嫌がらせなどの行動について、日本の支援団体「日本の戦後責任をハッキリさせる会」の臼杵敬子は、「あらゆる活動、行事から7人を疎外する韓国運動体の制裁は、被害当事者の人権を無視した行動で慰安婦被害者をさらなる被害者とするもの」として批判し、75歳前後の高齢の被害者に対し、深い人権的な配慮を持つべきで、当事者が選択する意思が尊重されるべきだと主張した[625]。
またアジア女性基金の大久保昭ももともと多様であった被害者のなかにも「お金がほしい」という者も多数いたのであり、「そうした被害者の声が、過剰に倫理主義的な支援団体、NGO、メディアによってつくられた世論によって抑圧されていた」として、日本の歴代首相の謝罪手紙やアジア女性基金の償い事業に感謝した元慰安婦もおり、そのような被害者を「ありえない」と主張するのであれば「それは自分の被害者像を唯一の被害者像とする傲慢というもの」ではないかと批判した[627]。
韓国運動団体による補償金詐欺
2011年5月、韓国ソウル市警察は、太平洋戦争犠牲者遺族会や民間請求権訴訟団などの団体幹部39名を詐欺の容疑で摘発した[628]。摘発された団体は慰安婦問題や強制連行問題について活動してきた反日団体で、日本政府から補償金を受け取ってやるといって弁護士費用などの名目で会費15億ウォン(約1億2千万円)をだまし取っており、被害者は3万人に上った[628]。
ソウル市警察の発表によれば梁順任太平洋戦争犠牲者遺族会会長は各種団体への会員を募集する際に「動員犠牲者でなくても当時を生きた者なら誰でも補償を受け取れる」といって勧誘していた[628]。また会員を集めてきた場合には手当を支払うなどしていた[628]。
この梁順任会長は、1991年8月11日に「女子挺身隊の名で戦場に連行され」と朝日新聞紙面で誤報記事を執筆した記者植村隆の義母でもある[629]。
(本項#日本の新聞の報道・慰安婦訴訟、慰安婦#朝日新聞の報道・慰安婦訴訟も参照)
日韓基本条約「無効」論
- 日本政府は日韓基本条約および日韓請求権並びに経済協力協定で日韓の戦時中の補償問題は解決を見ているとの立場を一貫している。
- しかし、2009年1月27日、法改正推進国会の金映宣政務委員長は「日帝下日本軍慰安婦被害者に対する生活安定支援および記念事業等に関する法律」[426][427]改正案を国会に提出した際、日韓基本条約については無効と主張した[630]。2011年8月16日には、韓国で「日韓協定無効化のための国民行動」準備委員会が発足し、同団体は「日韓基本条約は無効」と主張し、韓国政府に日韓基本条約の破棄とその無効性を認めるよう働きかけるとしている[631]。
人権・人道に対する罪
戦後、ドイツは「人道に対する犯罪(人道に対する罪)には時効はない」と宣言した[632](ただしドイツ軍慰安婦への戦後補償は実施されていない[633])。ほか、日本のフェミニスト・女性学者や、クマラスワミ報告書やマクドゥーガル報告書などでは慰安婦問題を女性に対する暴力・性犯罪・強姦罪として問題にしている。
韓国系アメリカ人によるロビー活動においては近年、ホロコースト問題と日本軍慰安婦制度問題とを同列に考えようとしてユダヤ系アメリカ人との連携を進行させており、2011年12月15日にはコロンビア大学で「女性の権利」フォーラム主催のシンポジウム「人類の希望:ホロコーストと慰安婦の生存者の声」が開かれホロコーストの生存者である女性2名と、元慰安婦2名、チャールズ・ランセル下院議員、韓国系アメリカ人投票者協議会 (KAVC) のドンチャン・キム会長らが参加した[634]。また2012年5月に慰安婦の碑を建てたパリセイズ・パーク市に対して日本側が抗議を開始した直後に訪韓したヒラリー・クリントン国務長官は「(日本軍慰安婦制度の問題)は性奴隷の話であり、女性の権利と人道に対する罪の文脈で考えられなければならない」と内輪の席で述べたうえで、日本軍慰安婦制度は「唾棄すべきもの」で「巨大な規模の重大な人権侵犯」と語った[635]。
他方、当時は国が売春を認める「公娼制度」があった時代であり、性に対する倫理感覚、女性に対する人権感覚は現在と違っているのに、過去の歴史の出来事を現在の基準で裁くのは間違いだとの指摘もある[636]。政策研究大学院大学教授の北岡伸一も「21世紀の人権感覚を過去の歴史に適用するのは、いかにも乱暴」と述べている[637]。
元外交官の東郷和彦は日本での「強制連行」に関する議論に対して「必ずしも誤りでない」と理解を示しながらも[638]、2007年の安倍発言直後のカリフォルニア大学でのシンポジウムにおいて米国人女性の、米国における慰安婦問題の視点は「強制」であるかどうかなどは誰も関心がなく、「自分の娘が慰安婦にされていたらどう考えるか」という嫌悪感にもとづくものであり、「これは非歴史的 (ahistoric) な議論である。現在の価値観で過去を振り返って議論しているのだ」という発言を紹介している[639]。東郷は日本国内の慰安婦についての議論は国内でしか通用せずガラパゴス化しており[640]、今後の日本政府の対応次第では、日韓のみならず日本と欧米間に「深刻な対立を引き起こす可能性がある」と警告した[641]。他方で慰安婦問題とホロコースト問題とを同列に扱いえないことはユダヤ・ロビー自身が最も理解できるに違いないとしたうえで日本の外交戦略としてユダヤ・ロビーとの連携を訴えた[642]。また東郷は韓国政府がアジア女性基金による補償を受けようとした元慰安婦を非国民扱いしたことを強く批判し、戦後日本の法的秩序を全壊させかねないような過剰な「法的責任の追及」は遠慮してもらいたいと述べている[643]。
「いわゆる従軍慰安婦問題」について、具体的に(たとえば国家による強制連行の)証拠を明示せよと指摘された「慰安婦擁護側」が、証拠を明示できない場合に、この「人道的な価値観」を持ち出すことで、無意識のうちに問題をすり替えてしまうという指摘がある[644]。また、いわゆる進歩的文化人の論法の特徴の一つに、正面切って反対しにくい事柄を振りかざし、それに少しでも異議を唱えるものに「人道の敵」「人権侵害者」とレッテルを貼り、「慰安婦がかわいそうだとは思わないのか」と居丈高に断罪するというものがある、そこには事実に基づいた冷静で客観的な議論は無理であるという指摘もある[645]。
公的資料
※当時の日本軍、政府が発令した通達は本文を参照。
- 朝鮮での慰安婦
朝鮮半島では国家総動員法に次ぐ国民徴用令に基づいた挺身隊(女子の動員は1943年9月から)から、植民地女性を中心に慰安婦にさせられた場合があったとされているが、当時の朝鮮では「挺身隊」を「慰安婦」と混同するデマが流布しており(#韓国における「挺身隊」と「慰安婦」の混同と流言参照)、また慰安婦と称する者の証言以外には「慰安婦強制連行」の客観的証拠は見つかっておらず、朝鮮半島における命令書等の公文書は現在までに発見されていない。クマワスラミ報告書も「慰安婦の募集に関する公文書はなく、証拠は元慰安婦の証言だけ」としている[477]。吉見義明も1997年2月27日の朝鮮時報(朝鮮総連機関紙)で「『官憲による奴隷狩りのような連行』を裏付ける文書は今のところ出ていない」と認め、またアジア女性基金呼びかけ人で東京大学教授の和田春樹も「官憲による直接的強制」を立証する文書資料はまだ発見されていないと述べた[646][647]。
千田夏光や吉見義明らは「強制連行」を指示する資料が見つからないのは旧日本軍が資料を焼却処分したためであり、また、未だ公開されていない資料もあると推測している。河野洋平も2007年3月、「従軍慰安婦の徴集命令に関する旧日本軍の資料は処分されていたと推定もできる」と発言している[648]が、確実な資料が発見されたわけではなく、推測の域にとどまっている[649]。
- 東京裁判における資料
- 中国占領日本軍の 工場就職口実 従軍慰安婦募集 詐欺(「極東国際軍事裁判」判決[650])
- サンフランシスコ講和条約 11 条項: Japan accepts the judgments of the International Military Tribunal for the Far East(日本は「極東国際軍事裁判」の判決を認める)
- 日本政府による調査
- 1992年(平成4年)7月6日、加藤紘一内閣官房長官が 「朝鮮半島出身者のいわゆる従軍慰安婦問題に関する加藤内閣官房長官発表」を行い、慰安所の設置などに関して当時「政府の関与があったことが認められた」と発表した。
- 1993年(平成5年)8月4日、宮沢改造内閣は慰安婦調査の結果「いわゆる従軍慰安婦問題について」[651]を発表した。同日、河野洋平内閣官房長官が慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話(河野談話)[652]を発表した。この談話は以後、その意義や根拠について賛否両論を呼んだ。平林博内閣外政審議室室長は、1997年3月12日の国会での小山孝雄参議院議員の質問に「政府が調査した限りの文書の中には軍や官憲による慰安婦の強制募集を直接示すような記述は見出せなかった」と答弁[613]。同1997年3月には当時宮沢内閣の内閣官房副長官であった石原信雄も「随分探したが、日本側のデーターには強制連行を裏付けるものはない」とし[653]、また元慰安婦を強制的に連れてきたという軍関係者の証言を探したがなかったと明かした[293]。他方、1998年4月に慰安婦訴訟「関釜裁判」で山口地裁下関支部は河野談話発表によって国会議員に賠償立法の義務が生じたとし、国の立法義務、立法の不作為を認め、国に対し慰安婦側の損害賠償の訴えを一部認めた(後に控訴審で棄却)。西岡力は、河野談話では朝鮮人慰安婦に触れた段落では「官憲等」の加担については述べられていないと指摘している[654]。
- 宮沢内閣以降、アジア女性基金によるその後の調査は「政府調査「従軍慰安婦」関係文書資料」としてまとめられ、龍溪書舎から全5巻刊行され、公式HPでも公開されている(慰安婦関連歴史資料)。この資料集にはこれまでの当時の日本軍慰安婦関連の資料が網羅されている。
- 2011年(平成23年)8月、外務省は「慰安婦問題に対する日本政府のこれまでの施策」を発表し、これまでの慰安婦関連事業および日本政府による償い事業について再度説明した。
「慰安婦」訴訟・関連訴訟
韓国人、中国人などを中心に元日本軍慰安婦であると名乗り出た人々が強制的に慰安婦にされたとして日本国に対し謝罪と賠償を求める訴訟、およびそれに関する訴訟が日本、アメリカ合衆国、韓国、フィリピンなどで多数起こされて来た。しかし、時効・除斥期間の経過、大日本帝国憲法が定めていた「国家無答責の法理」(官吏が公権力の行使に当たる行為によって市民に損害を加えても国家は損害賠償責任を負わないとする)、「個人を国際法の主体と認めない」などの理由で全て敗訴している。
- 慰安婦問題に関する各国での訴訟
- 1966年、大韓民国大法院は慰安婦として35歳までに得られるはずであった報酬に見合う損害賠償を求めた慰安婦の告訴を棄却[159]。
- 1991年、アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件。2004年最高裁で敗訴。
- 1992年、釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟(2003年最高裁で敗訴) - この関釜裁判における一審判決(1998年4月27山口地裁下関支部)では、原告らが売春を強制されたことを事実認定し、国の立法義務、立法の不作為を認め、一人あたり30万円の支払いを命じた。しかし、控訴審(2001年3月29日、広島高裁)は一審判決を破棄し、立法行為への規制が司法判断になじまない事、該当事項に関する立法責任が明文化されていない事などを理由に原告側の請求を「全面棄却」。最高裁への上告(2003年3月25日)も棄却、原告敗訴が確定。この一審判決は現在唯一の原告の勝訴であるが、国際法学者の大久保昭は「法理論構成上きわめて無理の多い判決」と評している[655]。
- 1993年4月5日、元慰安婦の在日韓国人宋神道が767億5893万7500円の支払い補償と謝罪を日本国に対して提訴した(在日韓国人元従軍慰安婦謝罪・補償請求事件)。2000年11月30日、東京地裁は請求棄却。この際、判決効力に関連のない傍論において、裁判長は旧日本軍の慰安婦に対する行為が国際法違反であるとの意見を述べた。この傍論をもってVAWW-NETジャパンは「国際法違反であると事実認定された」と解釈している。[要出典] 2003年3月28日、最高裁判所が上告棄却により原告敗訴確定。
- 2000年9月、第二次世界大戦中に日本軍慰安婦にさせられたとする在米中国人および韓国人ら女性計15人が、日本政府を相手取って損害賠償請求の集団訴訟をワシントン連邦地方裁判所で起こした。アメリカ合衆国最高裁判所は、2006年2月21日却下の最終判断を下した(#米国での慰安婦訴訟を参照)[656]。
- 2009年8月14日、ソウル行政裁判所は日韓請求権並びに経済協力協定によって戦後補償は解決済みと判決。
- 2010年4月28日、フィリピン最高裁は自国民の日本政府に対する要求について裁判所が行政機関に意見することは出来ないとして請求棄却。また、日本との外交関係を混乱させ地域の安定を損なうとの外務省の判断があったと指摘した[657]。原告の慰安婦たちは、当局に国際司法の場に持ち込むよう要求、また1951年の日本国との平和条約は無効とし、アジア女性基金から償い金を受け取り謝罪を受け入れたフィリピン政府を国際法違反と主張した[657]
- 2011年8月10日、韓国の憲法裁判所が「韓国政府が元慰安婦の賠償請求に関する日韓間の協定解釈の相違をめぐる争いを解決しないことは憲法違反」と判決[658]。
- 模擬裁判
これらの裁判の他、2000年に東京で国際NGOや市民らによって自主的に開催された民衆法廷(模擬法廷)である日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷(女性国際戦犯法廷)が開かれた。(自主的な裁判であり公式の裁判ではない)。この市民法廷では「昭和天皇と日本国は奴隷制度・強制連行・強姦・人身売買により人道に対する罪で有罪」と判決。
年表
日本の慰安婦を描いた作品
- 日本映画
- 『暁の脱走』(1950年、監督谷口千吉、原作田村泰次郎『春婦伝』、東宝)慰問団歌手が登場。当初の脚本では、原作通り朝鮮人の慰安婦だったが、GHQの検閲により日本人の慰問の歌手に変更されたという。
- 『独立愚連隊』(1959年、監督岡本喜八、東宝)
- 『独立愚連隊西へ』(1960年、監督岡本喜八、東宝)
- 『新二等兵物語 敵中横断の巻』(1960年、監督福田晴一、松竹)
- 『いれずみ突撃隊』(1964年、監督石井輝男、東映)
- 『兵隊やくざ』(1965年、監督増村保造、大映)
- 『春婦伝』(1965年、監督鈴木清順、原作田村泰次郎、日活)
- 『血と砂』(1965年、監督岡本喜八、東宝)
- 『新・兵隊やくざ』(1966年、監督田中徳三、大映)
- 『赤い天使』(1966年、監督増村保造、原作有馬頼義、大映)
- 『兵隊やくざ 俺にまかせろ』(1967年、監督田中徳三、大映)
- 『兵隊やくざ 殴り込み』(1967年、監督田中徳三、大映)
- 『従軍慰安婦』(1974年、監督鷹森立一、原作千田夏光『従軍慰安婦 声なき声 八万人の告発』(双葉社(1973)、三一新書(1978)、講談社文庫(1984、ISBN 406183374X))、東映)
- 『大日本帝国』(1982年、監督舛田利雄、東映)
- 『きけ、わだつみの声 Last Friends』(1995年、監督出目昌伸、東映)
- 韓国映画
- 『従軍慰安婦』(1993年、原題에미 이름은 조센삐였다、監督チ・ヨンホ(지영호 池映鎬)、原作:尹静慕(ko:윤정모)『母・従軍慰安婦』(原題:에미 이름은 조센삐였다。鹿嶋節子訳、金英達解説、神戸学生青年センター出版部、1992年4月[659])、アルバトロス・フィルム (発売)[660])
- 中国映画
- 香港映画
- フィリピン映画
- 『戦場のアンジェリータ 従軍慰安婦の叫び』(1993年、原題:Comfort Women、監督セルソ・アド・カスティロ)
- 韓国ドラマ
- ドキュメンタリー
- 『戦場の女たち』(1989年、日本、監督関口典子)パプア・ニューギニアの日本軍慰安婦についてのドキュメンタリー。
- 『ナヌムの家』(1995年、韓国、監督ピョン・ヨンジュ)ナヌムの家についてのドキュメンタリー。
- 『ナヌムの家 II』(1997年、韓国、監督ピョン・ヨンジュ)
- 『破られた沈黙 - 韓国の日本軍慰安婦 (SILENCE BROKEN: KOREAN COMFORT WOMEN)』(1999年、監督Dai Sil Kim-Gibson、アジアンアメリカンメディアセンターメディアアーツ賞受賞、コダックフィルムメイカー賞受賞[662])日本軍慰安婦についてのドキュメンタリー。
- 『ガイサンシーとその姉妹たち』(2007年、日本、監督班忠義)中国の日本軍慰安婦についてのドキュメンタリー。
- 『“記憶”と生きる』(2015年、日本、監督土井敏邦)ナヌムの家に暮らす女性たちの記憶(第一部)や姜徳景の最期(第二部)を追ったドキュメンタリー映画。
脚注
- ^ デジタル大辞泉
- ^ 大辞林 第三版
- ^ 日本の法令では従業者に対する厚生福利の一部を成す概念として、たとえば以下の規制文書に、この言葉が用いられている(総務省 管轄法令)。
- 高速道路事業等会計規則(平成17年6月1日国土交通省令第65号)
- 東京湾横断道路事業会計規則(昭和63年1月21日建設省令第1号)
- 鉄道事業会計規則(昭和62年2月20日運輸省令第7号)
- 法人税法施行令(昭和40年3月31日政令第97号)
- 自動車道事業会計規則(昭和39年3月31日運輸省・建設省令第3号)
- 租税特別措置法(昭和32年3月31日法律第26号)
- ガス事業会計規則(昭和29年4月1日通商産業省令第15号)
- 船員職業安定法(昭和23年7月10日法律第103号)
- 船員職業安定法施行規則(昭和23年11月10日運輸省令第32号)
- 船員法(昭和22年9月1日法律第100号)
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参考文献
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- 金一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』三一書房、1976年1月
- 吉田清治 『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』 三一書房 1983年1 月 ISBN 4380832317
- 吉見義明『従軍慰安婦資料集』大月書店、1992年12月。ISBN 9784272520251。
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- ジョージ・ヒックス『性の奴隷 従軍慰安婦』三一書房、1995年10月。ISBN 978-4380952692。
- 国際法律家委員会明石書店、1995年。
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- アジア女性資料センター編 『「慰安婦」問題Q&A編―「自由主義史観」へ 女たちの反論』 明石書店 1997
- 藤岡信勝 『自虐史観の病理』 文藝春秋1997年8月(文春文庫2000)
- 大師堂常慰 『慰安婦強制連行はなかった―河野談話の放置は許されない』 展転社 1999年 2月 ISBN 9784886561633
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- 倉橋正直 『従軍慰安婦と公娼制度―従軍慰安婦問題再論』 共栄書房 2010年8月 ISBN 4763410407
- 東郷和彦「私たちはどのような日韓関係を残したいのか ─「普遍的人権」問題としての慰安婦」『世界』2012年12月号。
- 朴裕河 『제국의 위안부 - 식민지지배와 기억의 투쟁(帝国の慰安婦-植民地支配と記憶の闘争)』 뿌리와이파리(「根と葉」出版) 2013-08-05 ISBN 9788964620304
- 朴裕河『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』朝日新聞出版、2014年11月7日。ISBN 978-4022511737。
- 木村幹『日韓歴史認識問題とは何か』ミネルヴァ書房、2014年10月20日。ISBN 978-4623071753。
- 「週刊 金曜日増刊 特別編集 従軍慰安婦問題」『週刊金曜日』2014年10月29日、ASIN B00OHZ9TK6。
- 読売新聞取材班『慰安婦問題世界の眼日本の声』中央公論新社〈中公ムック〉、2014年11月18日。ISBN 978-4623071753。
- 歴史学研究会、日本史研究会『「慰安婦」問題を/から考える――軍事性暴力と日常世界』岩波書店、2014年12月13日。ISBN 978-4000610056。
- 青木理『抵抗の拠点から 朝日新聞「慰安婦報道」の核心』講談社、2014年12月17日。ISBN 978-4623071753。
関連項目
※本文で明記されたもの以外。
- NHK番組改変問題
- 朝鮮南部連続少女誘拐事件
- 芸娼妓解放令
- 歴史教科書問題
- 戦争犯罪・日本の戦争謝罪発言一覧
- 性的奴隷・人身売買
- 売春・妓生・遊女
- 遊廓・女衒
- セックスワーカー
- 城田すず子
- ニコン慰安婦写真展中止事件
- 占領期日本における強姦
- 強制連行肯定派
- 強制連行否定派
外部リンク
- I'm The Evidence(私が証拠) 大韓民国 女性家族部
- 慰安婦問題に対する日本政府のこれまでの施策 日本国 外務省
- 日本軍「慰安婦」制度について(「戦争と女性への暴力」リサーチ・アクション・センター)
- FIGHT for JUSTICE日本軍「慰安婦」問題webサイト制作委員会(日本の戦争責任資料センター・「戦争と女性への暴力」リサーチ・アクション・センター)
- いわゆる従軍慰安婦について歴史の真実から再考するサイト
- 『慰安婦神話の脱神話化』第一部: 実際に何が起きたのか WJF Project (YouTube動画)
- 『危機に瀕する日本』日韓紛争概説 第2巻: セックスと嘘と従軍慰安婦 WJF Project (YouTube動画)
- 日本の現代史と戦争責任についてのホームページ 林博史研究室
- 論文のページ 日本軍慰安婦問題/軍隊と性暴力
- 図書館の戦争関係文献について 「『従軍慰安婦』に関する計62点の新史料を発見」
- 韓国挺身隊研究所(韓国語・日本語・英語)
- SPリンク集 従軍慰安婦問題リンク集