日本とフィリピンの関係
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歴史
豊臣秀吉とフィリピン
日本とフィリピンはスペインによるフィリピンの植民地化(1592年)以前より関係があった。1591年豊臣秀吉はスペインのゴメス・ペレス・ダスマリニャス総督に、日本に入貢を促す書簡を持たせて原田孫七郎を派遣した。 1592年7月、ルソン総督ゴメス・ペレス・ダスマリーニャスは、ドミニコ会士のフアン・コポスを派遣、秀吉に書信と贈物を届けると共に、在ルソン日本人をマニラのデイオラ地区に集団 居住させる措置を採った。(日本人町の始まり)
朱印船貿易と日本人町
豊臣秀吉はキリスト教布教の伴わない南蛮貿易を望み、自らルソンとの交易を推進しようとしていた。両国が本格的に貿易を始めたのは1592年、豊臣秀吉によって朱印船貿易がおこなわれるようになってからである。スペインは当時、同じくスペイン領のメキシコとマニラを結ぶガレオン貿易を重要視しており、フィリピンには商人やキリスト教のアジア布教を目的とした宣教師が多く訪れている状況であった為、日本人が東南アジアに進出すると自然とこれらの商人を相手とする通商が発展していった。貿易に従事する多くの日本人が東南アジアに移り住み各地で日本人町を形成し、フィリピンにもマニラなどに日本人町が作られた。
1570年には20人ほどだった日本人居住者は、17世紀には1500人、最盛期には3000人にもなった。1614年にはバテレン追放令を受けてマニラに到着した大名、高山右近をスペイン人フィリピン総督、フアン・デ・シルバらが歓迎している。しかし1633年以降の鎖国令によって、日本人町は衰退しやがて消滅する。
鎖国の後、日本は公的な外交を中国(明、清)、朝鮮、オランダ、そして事実上の勢力下においた琉球に限っており、フィリピンを含む各国との交流はほぼ断絶した。
開国後
1868年に日西修好通商航海条約が結ばれ、日本とスペインの国交が樹立される[1]。1895年に「国境確定ニ関スル日西両国宣言」が東京で調印された。この宣言は両国の所領権を明確にするため、台湾(日本領)とフィリピン(スペイン領)の間のバシー海峡を両国の境界線と定めた。1899年に米比戦争が起こると、日本の明治政府は戦争遂行のための武器弾薬を運搬する布引丸の購入を支援するなどフィリピン独立革命の支援を行っており、1913年フィリピン第一共和国が崩壊すると、アルテミオ・リカルテ将軍らの政治亡命を受け入れたりしていた。
- ダバオの日本人街
1910年代に農園経営の為の日本人労働者がダバオに大量に移民し、1916年には町の日本人人口が1万人を越え日本人街が形成された。日本人学校や神社仏閣なども建設され発展したが、太平洋戦争が始まると日本人は強制収容された。日本軍のフィリピン占領によって日本人は解放されるが、1944年にフィリピンをアメリカが再奪回した際に街は激戦地となり壊滅した。
第二次世界大戦
第二次世界大戦がはじまると日本は東南アジア各地に進軍し、南方作戦の一環として1941年フィリピンにも上陸する。日本軍は150日でフィリピンを占領するが、その際バターン要塞から数万人のアメリカ兵およびフィリピン兵捕虜を食糧補給が可能な地点まで100kmにわたって徒歩により移動させたため多くを死亡させるバターン死の行進事件が起きた。米比戦争によって崩壊したフィリピン第一共和国のエミリオ・アギナルド元大統領やアルテミオ・リカルテ将軍などの独立運動家は日本軍への支持を表明し、日本はフィリピンの独立を支援しフィリピン第二共和国が建国された。フィリピン経済はアメリカ軍の攻勢期になると日本の軍票の価値の下落などによりインフレーションに陥り混乱した。日本と協力するマカピリなどの組織とフクバラハップなどの抗日組織の対立・戦闘も各地で起き、飢餓の発生などとともにフィリピンは混乱を極めた。アメリカ軍によるフィリピン再奪回により1945年9月に戦闘は終結するが、その過程でのフィリピン人死者数は110万人を超えた。
戦後
日比間の戦争状態が正式に終結されたのは1956年の日比賠償協定締結時である。日本は1976年までに、フィリピンに対して1902億300万の賠償金を支払っているほか、戦後補償の意味合いも込めた日本からフィリピンへの援助供与が積極的に行われるようになり、以後フィリピンにとって日本は最大の援助供与国となっている。 1960年日比友好通商航海条約が調印されたが、フィリピンにおける対日感情が改善しない影響で批准は1973年まで待たなければならなかった。 1980年代には、多くのフィリピン人の間で第二次世界大戦の記憶は薄れ、あるいは忘れられつつあり、彼らにとって日本は開発援助・貿易・投資・観光の資金源でしかなく、そのため両国間の外交摩擦はほとんど見られなかった。1986年11月、コラソン・アキノ大統領(当時)は日本を訪れ、第二次大戦に対する謝罪を望んでいた昭和天皇と面会した。そして彼女の訪日中に、新たな援助が両国間で合意された。1989年、アキノ大統領は昭和天皇の葬儀参列のために再訪日、1990年には今上天皇の即位の礼参列のためにまた日本を訪れた。
1990年代初頭において両国の関係は良好なものであった。
2008年12月と2009年2月に、藤崎一郎駐米大使が、2010年9月13日、日本の岡田克也外務大臣がバターン死の行進について正式な謝罪を行った。 現在フィリピンにとって日本は最大の輸出相手国、輸入相手国となっており(中国からは香港を除く)、海外からフィリピンへの直接投資も58.1%(2009年)[2]で過半を占めている。
2008年には日比経済連携協定が結ばれている。フィリピンが二国間の包括的経済連携協定を結んでいるのは日本のみである[3]。
日本の海上保安庁は、フィリピン沿岸警備隊の創設時から多大な貢献をしている。またアキノ大統領と安倍晋三総理の相性は格別に良いという評価もある。2013年11月の台風ヨランダでフィリピンが甚大な被害を受けた際、フィリピン政府の要請により、日本は過去最大となる自衛隊の派遣を行い、救助活動や復興活動を助けた[4][5]。
日本はフィリピンの政情面でも貢献しており、フィリピンのイスラム過激派で、反政府闘争を続けるモロ・イスラム解放戦線(MILF)と、フィリピン政府との仲介を行っている。2011年には、日本政府の仲介でアキノ大統領が極秘来日し、MILFの最高指導者ムラド・エブラヒム議長と8月4日に東京近郊で非公式会談を行った。政府・MILFのトップ同士の会談は初めてである[6]。また、国際協力機構は、この地域の事業への資金供給を行っており、アキノ大統領は、MILFとの和平において「日本の貢献は計り知れない」と謝意を示している[7]。
年表
- 1591年 豊臣秀吉、スペインのマニラ総督に対し入貢を要求。
- 1592年 朱印船貿易開始。以後日本町がマニラに発展。
- 1601年 フィリピンから出港したスペイン船により、日本にたばこが伝来。
- 1603年 フィリピン総督の書簡を携えたルイス・ソテロが来日。
- 1614年 日本を追放された高山右近がマニラに到着。
- 1609年 フィリピン総督ドン・ロドリゴが上総国に漂着。
- 1633年 鎖国令により日本からの出入国が厳しき制限され、以後日本町は衰退。
- 1698年 ガレオン貿易ルートを経て、サツマイモが日本に伝わる。
- 1830年 備前国を出港した神力丸がフィリピン北部に漂着。
- 1835年 肥後国を出港した船がルソン島に漂着。
- 1868年 日西修好通商航海条約が結ばれる。
- 1888年 マニラに日本領事館が開設。ホセ・リサール来日。
- 1899年 布引丸事件が発生。フィリピン独立革命の支援船布引丸が暴風雨によって沈没した。
- 1905年 日米間による桂・タフト協定で、日本はアメリカの植民地フィリピンに対し領土的野心がないことを表明。
- 1908年 日米間による高平・ルート協定で、フィリピンにおけるアメリカの管理権を日本が承認。
- 1941年 フィリピンに日本軍が上陸(フィリピンの戦い (1941-1942年))、占領。
- 1943年 大東亜会議に日本代表とフィリピン代表が出席。
- 1944年 フィリピンに連合軍が上陸(フィリピンの戦い (1941-1942年))、占領。
関連項目
脚注
- ^ 1568年から1898年まではフィリピンはスペインの植民地。
- ^ 外務省「最近のフィリピン情勢と日・フィリピン関係」より
- ^ “最近のフィリピン情勢と日・フィリピン関係”. 外務省. (2013年10月25日) 2014年2月23日閲覧。
- ^ 松本太 (2014年2月21日). “「弱者」の戦い方で中国に立ち向かうフィリピン マニラで痛感、日本を守るのは自らの力と同盟”. 日本ビジネスプレス 2014年2月22日閲覧。
- ^ “自衛隊 フィリピンで被災者支援”. 時事通信. (2013年11月24日) 2014年2月23日閲覧。
- ^ フィリピン・ミンダナオ和平に関するアキノ大統領とムラド・モロ・イスラム解放戦線(MILF)議長との非公式会談について 外務省 2011年8月5日
- ^ “比大統領、日本に謝意 広島でミンダナオ和平会議”. 産経新聞. (2014年6月24日) 2014年6月24日閲覧。
- ^ 2006年12月10日付 産経新聞朝刊