新家氏

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新家氏(あらやし、しんけし、しんやし、にいのみし、にいやし、)は日本氏族のひとつ。関連する姓として新谷、新野、新屋、荒屋など。

古代豪族 新家氏(にいのみし)

新家首(にいのびのおびと)

物部氏の分流。新家は新たに設ける屯倉の意味。汗魔斯鬼足尼命の末裔という[1]

新家公(にいのみのきみ)

伊賀国の新家屯倉の首たりし一族。貞観10年(868年9月、伊賀国の節婦 新家福刀自が位階の昇叙を受ける旨、記録があるという[2]

新家連(にいのみのむらじ)

新家連は冒頭の新家首の末裔で新家首の宗家。宣化天皇の代に、物部麁鹿火をして新家連に、新家屯倉の穀を運ばせる旨の記録がある[3]。。

丹比新家連

河内国の大族であるという。前節同様、皇室の新家屯倉を預かる一族であるという。新家を作るにより、新家に二字を加えて、丹比新家連とするという[3]

新家忌寸

渡来系坂上氏の一族[3]

新家宿禰

伊勢国の新家連の流れで宿禰姓を賜った家系。度会郡の領家であるといい、延久年間(1069年1073年)の光明寺所蔵古券に検非違使新家宿禰成弘の名を載せる[3]

伊勢無戸の新家氏

新家連、新家宿禰の末裔。の『大神宮諸雑事記』の長和2年(1013年)の条に渡会郡大領新家望の名が見え 永承3年(1048年)の条に検非違使新家範経、康平2年(1059年)の条に渡会郡権大領新家惟長の名が見え、『光明寺文書』に以下の系譜が見える[3]

系譜 新家眞房―成房―成経―成弘―成俊―成信

また、同文書では永久4年(1116年10月に検非違使新家重房建久3年(1192年正月に検非違使新家眞用承久3年(1221年2月の条に総官検非違使新家眞景の名が確認される[3]

正嘉元年(1241年)9月には新家康盛元徳2年(1330年)8月の条に定興延元3年(1338年)8月の条には信政らの名が見える[4]

藤原姓新家氏

藤原姓の新家に二流あり。いずれも読み方が異なる。

新家氏(しんけし)

江戸幕臣に新家氏あり。家紋は披扇の左右台扇、左三巴。『寛政系譜』に以下の系図を収録する[4]

系譜 新家吉左衛門知定―権左衛門親良―吉左衛門知明

新家氏(にいのみし)

紀州藩士に新家氏(にいのみし)あり。本姓は藤原。家紋は丸に井桁[4]

系譜 新家與五左衛門―與五左衛門正孝―與五左衛門孝之

宇多源氏佐々木氏族 新家氏(あらやし)

宇多天皇を祖とする宇多源氏の流れを汲む近江源氏 佐々木氏の系統に新家氏あり[4]

『佐々木氏系図』に以下の系譜を載せる。

系譜 井上三郎大夫行実―井五郎行方―新屋源太行景―五郎景頼―八郎景綱

有道姓児玉党 新家氏(あらやし)

本姓を有道氏とする児玉氏の党に新家氏あり。上野国甘楽郡新屋郷より起こる[4]

系譜 秩父平太行重―行村―行氏―重氏

清和源氏 新家氏

清和天皇第六皇子 貞純親王の王子 経基王を祖とする清和源氏で、二代 満仲の長男 頼光の末裔に新家氏ありという[4]

三河国の新家氏

三河国幡豆郡の名族。西尾伊文天王神社新家筑後守千足ありという。[4]

甲斐国の新家氏

甲斐国巨摩郡極楽寺邑に新屋将監ありという[4]

常陸国の新家氏

常陸国水戸藩京都留守居役 安島七郎左衛門信可の次男 新家六郎資敬の養子となり、新家彦次郎信令と名乗るという。この彦次郎は水戸藩家老 戸田忠太夫安島帯刀兄弟の叔父にあたる[5]

また、新撰組局長も務めた新見錦は、水戸藩の浪人 新家粂太郎と同一人物ではないかとの説もある[6]

脚注

  1. ^ 太田亮著、上田萬年三上参次監修『姓氏家系大辞典 第2巻』(角川書店1934年)4533頁参照。
  2. ^ 太田亮前掲書(角川書店、1934年)4533頁、4534参照。
  3. ^ a b c d e f 太田亮前掲書(角川書店、1934年)4534参照。
  4. ^ a b c d e f g h 太田亮前掲書(角川書店、1934年)4535参照。
  5. ^ 財団法人水府明徳会彰考館蔵『水府系纂』第45巻8.5丁、145丁
  6. ^ 新見錦の項を見よ。

参照文献

  • 太田亮著、上田萬年、三上参次監修『姓氏家系大辞典 第2巻』(角川書店、1934年)
  • 財団法人水府明徳会彰考館蔵『水府系纂』第45巻8.5丁、145丁

関連項目