斯波義敏

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斯波義敏
斯波義敏像(霊泉寺蔵)
時代 室町時代中期 - 後期
生誕 永享7年(1435年
死没 永正5年11月16日1508年12月8日
別名 勘解由小路武衛、源三位入道[1](通称)
戒名 即現院殿道海深叟
官位 従五位下従四位下左兵衛佐
左兵衛督、正四位下従三位
幕府 室町幕府越前尾張遠江守護
氏族 斯波氏(大野家→武衛家)
父母 父:斯波持種、母:家女房藤原氏
養父:斯波義健
兄弟 義敏義孝(実家・大野家を継承)、政種
義寛(義良)、娘(斯波義孝室)、寛元
義雄政敏(子に奥田秀種
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斯波 義敏(しば よしとし)は、室町時代後期の武将守護大名越前尾張遠江守護。斯波氏(武衛家)10代当主。父は斯波持種、義父は斯波義健。子に義寛斯波義孝室、寛元義雄

生涯

重臣との対立

永享7年(1435年[2]、斯波一門の大野持種の嫡男として誕生する。宝徳3年(1451年)12月12日に元服が行われた(『康富記』)。

この頃の武衛家(斯波本家)は当主の早世が相次ぎ、一門の筆頭格であった持種と、家臣の筆頭格であった執事の甲斐常治(越前・遠江守護代)が幼君に代わって武衛家家中を指揮していた。しかし一門と家臣をそれぞれ代表する持種と常治は相容れず、家中での主導権を巡って対立する状況にあった。

享徳元年(1452年)9月、義敏と同年齢であった武衛家当主の義健が18歳の若さで死去。義健には嗣子が無かったため、持種の子である義敏が将軍及び重臣に推されて武衛家当主と越前・尾張・遠江の三ヶ国守護を継承し、従五位下左兵衛佐に任官した[3]。義敏が家督を相続したことにより、持種対常治という一門筆頭と家臣筆頭の対立は、義敏対常治という主従の争いへと形を変えていくことになる。

他の原因として義敏は常治と元から折り合いが悪かったといわれ、義敏が常治の弟を登用しようとしたり、主家をないがしろにする傍若無人な常治の排除を企てていたとする個人的な事情から、領国越前の支配権の大半を手中に収めた常治派を排除すべく義敏を頼った越前国人衆と、彼らと結託して常治から権力を奪い返そうと目論む義敏と常治の権力闘争があったともいわれる。

常治は室町幕府8代将軍足利義政や斯波家重臣・朝倉敏景などの協力を得て越前等の領国経営を押し進め、義政の不知行地還付政策を支持したため、義敏は幕府に常治の専横を訴えたが、長禄元年(1457年)には逆に義敏が甲斐氏をはじめ、朝倉氏織田氏と直接戦闘を交えて敗れ東山東光寺に篭居する羽目となった[4]。翌長禄2年(1458年)2月に義政や細川勝元が両者の仲裁をはかり、ひとまず和解して義敏は自邸に戻ったが、常治と義敏の対立は収まらず、越前では義敏派の国人堀江利真と常治派の朝倉敏景(後に義敏より受けた「敏」の字を棄てて孝景と改名)らが衝突、7月頃についに長禄合戦へと発展していった。

緒戦は利真率いる義敏派が連戦連勝して戦局を有利に展開したが、幕府が不知行地還付政策で寺社の荘園直接支配を推進した時に利真が拒絶したため幕府の態度は硬化、朝倉孝景と常治の息子甲斐敏光らが越前侵入を窺っていた。一方、義政は長禄2年9月になって、義敏と常治に関東堀越公方足利政知の救援のために出陣を命じて越前から遠ざけようとしたが、両者は互いに警戒して動かず越前の戦乱は収まらなかった。12月に義敏は改めに出陣を命じられたものの近江国で留まったままであった。だが長禄3年(1459年)1月には越前国にて義敏方と甲斐方の衝突が再燃し、同年5月、義敏は義政からの再三の命令によって関東出陣のために兵を集めたが、その兵をもって甲斐方の金ヶ崎城や敦賀を攻めて逆に敗れたため、義政の忌避に触れて家督を息子の松王丸(義寛)に譲らされ、周防大内教弘の元へ追放された[5]

こうして長禄合戦は同年8月に常治派の勝利となるが、直後に常治が京都で病死、利真も越前に侵攻した孝景に討たれたため、幕府の関東政策によって寛正2年(1461年)9月に松王丸が廃され、渋川義鏡の息子の斯波義廉が継承することとなった(『大乗院社寺雑事記』寛正2年8月2日条には朝倉孝景と甲斐敏光が関与していたとする[6]。一方で孝景・敏光の工作説は共に遠江と関東に出陣していた為、疑問)[7]。そのため、義敏は反義廉となって幕府側近などに対し、復帰工作を行うようになる。

武衛騒動

義政は側近の伊勢貞親季瓊真蘂らの進言を受け容れ、寛正4年(1463年)11月、生母日野重子の逝去に伴い義敏を赦免された(同じく畠山義就も赦免された)が京都への復帰はみとめられず、寛正6年(1465年10月22日になって上洛を許す御内書が出され、12月29日に上洛した義敏は翌30日に父・持種とともに義政と対面する(『蔭涼軒日録』、『大乗院寺社雑事記』は対面を29日のこととする)が、これを知った義廉が義政に迫ったために領国は引き続き義廉が支配するようにとする幕府の奉行人奉書が30日付で出され、この奉書を受けた興福寺尋尊(『大乗院社寺雑事記』の著者)は義政の意図を図りかねて困惑している。

文正元年(1466年7月23日には義敏に対して斯波家家督を与え、8月25日に尾張・遠江・越前3ヶ国の守護に任じた。ところが、家督を奪われることとなった義廉が義父(妻の父)の山名宗全を頼り、一色義直土岐成頼らも義廉に味方するようになる。さらに、同年に貞親の助言で大内教弘の子・政弘が赦免されると、これに反対していた細川勝元までもが反貞親として義廉の味方となり、9月6日には貞親や真蘂、赤松政則らが失脚する文正の政変に発展し、義敏も越前へ下る[8]

応仁の乱と朝倉氏との戦い

このような斯波家の内訌に加え、足利将軍家の継嗣問題や、畠山氏の家督争いなどが関係して応仁の乱が起きると、義敏は細川勝元率いる東軍に属して戦い、京都での戦乱を後目に、いち早く越前において西軍の義廉陣営を掃討していくなど相応の戦果を上げた。また将軍義政を擁した東軍に属したということで、応仁2年(1468年)7月には義敏・松王丸父子に武衛家家督と三ヶ国守護がそれぞれ返還(西軍内では依然として義廉が武衛家当主及び三ヶ国守護扱い)されるなど、義廉陣営に対して有利な立場に立った。しかし、文明3年(1471年)に越前国主の餌に釣られて東軍へ寝返った孝景により、越前の実力支配を押し進められる。この時、義敏と孝景は同じ東軍でありながらかつて敵対していたため、義政は義敏に孝景が合戦を起こしても行動しないように命じたので中立化したが、やがて越前の西軍勢力を駆逐した孝景の勢力の前に義敏は苦境に立たされる。

最後は越前統一を目前とした孝景に対抗するため、越前大野の土橋城に籠もるも、文明7年(1475年)末に孝景の総攻撃を受けたため、城を抜け出ると孝景によって京都に送り帰された(『応仁記』)。ただし、この『応仁記』の記述には西軍方であった甲斐氏が義敏に加担していると記述するなど矛盾があり(同氏が義敏と結んだ事実は確認できない)、この記事は虚偽であるとする見解もある。記録などから義敏と孝景の対立が公然化しているのが確認できるのは元服して義良(後に義寛)と名を変えた松王丸が越前に下向する文明11年(1479年)以降になる[9]

元服して義良が越前奪還に出兵したり、越前の回復を求め幕府にたびたび訴訟を起こすが(長享の訴訟・延徳の訴訟)、ついに越前の回復を果たせなかった[10]

晩年

帰京後の義敏は文化的活動が主となり、武衛家当主としての実質的な活動は義寛に任せて、前将軍義政の側にあったと思われる。文明13年(1481年)に斯波氏嫡流の事績及び自分の嫡流相続の経緯をまとめ『斯波家譜』として残す[11]。また歴代の武衛家当主達と同じく連歌などもよく行い、『新撰菟玖波集』には7首が入選している。文明17年(1485年)8月に義政に従って出家、入道道海と号し、名実共に義寛に武衛家家督を譲る。永正5年(1508年)に死去。享年74。法名は即現院殿道海深叟。

武衛家の家督自体は、義敏が将軍父子を擁する東軍に属し、西軍の義廉に追討令が下ったこともあって取り戻すことには成功した。しかしこの一連の家督争いの間に、高祖父高経以来の領国であり斯波氏の本拠地ともいえる越前を家臣に過ぎなかった朝倉氏に奪われるなど、斯波氏はその後衰退してゆくこととなる。

官歴

※日付は旧暦

  • 享徳元年(1452年)、家督相続。従五位下左兵衛佐。越前、尾張、遠江守護補任。
  • 長禄3年(1459年)、三ヶ国守護職罷免。家督剥奪。
  • 文正元年(1466年)7月、家督再承。
  • 文正元年(1466年)8月、三ヶ国守護職再任。
  • 文正元年(1466年)9月、三ヶ国守護職罷免。
  • 応仁2年(1468年)7月、嫡子松王丸(義寛)に三ヶ国守護職補任。
  • 文明7年(1475年)10月、尾張に赴く。
  • 文明10年(1478年)7月24日、従四位下に昇叙。これ以降、左兵衛督に転任か?
  • 文明16年(1484年)8月8日、従三位に昇叙。
  • 文明17年(1485年)8月、出家。入道道海と号す。

偏諱を受けた人物

参考文献

  • 小川信『足利一門守護発展史の研究』吉川弘文館、1980年。
  • 今谷明藤枝文忠編『室町幕府守護職家事典〔下〕』P50 - P51、新人物往来社、1988年。
  • 福井県『福井県史 通史編2 中世』福井県、1994年。
  • 松原信之『越前 朝倉一族<新装版>』新人物往来社、2006年。
  • 谷口克広『尾張・織田一族』新人物往来社、2008年。
  • 『歴史と旅 増刊「守護大名と戦国大名」』秋田書店、1997年。
  • 水藤真人物叢書 朝倉義景』吉川弘文館、1981年。
  • 渡邊大門『戦国誕生 中世日本が終焉するとき講談社現代新書、2011年。
  • 小泉義博「斯波氏三代考」(初出:『一乗谷史学』6号(1974年)/木下聡 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第一巻 管領斯波氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-146-2
  • 瀬戸祐規「『大乗院寺社雑事記』『文正記』に見る長禄・寛正の内訌」(初出:大乗院寺社雑事記研究会 編『大乗院寺社雑事記研究論集 第三巻』(和泉書院、2006年)/木下聡 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第一巻 管領斯波氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-146-2
  • 『武衛系図』(「続群書類従」)。
  • 尊卑分脈』。
  • 系図纂要』。

関連項目

脚注

  1. ^ 『東寺過去帳』「源三位入道武衛義敏」。
  2. ^ 小泉(2015)は『康富記』の元服記事から永享9年生まれ説を採用する。
  3. ^ 『斯波家譜』。なお、『尊卑分脈』『応仁記』などには右兵衛佐と記されているが、幕府発給文書には「左兵衛佐」と記されており誤伝と思われる。また、小泉義博は斯波義種系(大野斯波氏)の初任官は民部少輔であることから、義敏も元服時に同氏の後継者として民部少輔に任ぜられ、翌年の武衛家の家督継承によって左衛門佐に転じたと推定する(小泉(2015)、P287 - P288)。
  4. ^ (『大乗院寺社雑事記』『経覚私要妙』『碧山日録』『在盛卿記』)福井県、P597 - P599、松原、P38 - P41、水藤、P5、渡邊、P75 - P77。
  5. ^ 松王丸の家督継承の時期は不明であるが、長禄3年7月19日時点で甲斐常治が幕府の命によって施行状を発していることが確認できる(通常は幕命を受けて守護の施行状が出され、守護の施行状に基づいて守護代の施行状が出されるが、守護が幼少である場合には守護の施行状が省略される場合があった)ため、この段階で松王丸が既に斯波氏家督・守護であったことが判明する(小泉(2015)、P289 - P290)。
  6. ^ 瀬戸(2015)、P262
  7. ^ 義政は事前に孝景・敏光両者を召してこの措置を伝え、孝景には領地を7箇所も与えて今後の越前守護代に関しても何らかの言い含めがあったとされる。福井県、P599 - P606、松原、P41 - P47、谷口、P42 - P43、水藤、P5 - P6、渡邊、P77 - P80。
  8. ^ 14日に義敏の守護職と家督は剥奪され、再度義廉が任命されている。福井県、P609 - P610、松原、P48 - P49、谷口、P43 - P44、水藤、P6 - P9、渡邊、P81 - P85。
  9. ^ 小泉(2015)、P291 - P293
  10. ^ 福井県、P612 - P630、P637 - P642、松原、P52 - P73、P84 - P91、水藤、P9 - P18、P23 - P29。
  11. ^ 『斯波家譜』の奥書では、「高祖父高経の肖像を見た将軍足利義尚日野富子の母子より武衛家の詳しい次第を尋ねられたものの、自身が出陣中のために、その問いに満足に答えられなかった事を無念と思い、これを著した」とある。尚、「現在自分は在陣中であり、伝来の古記録等が手許に無い為、内容に多少の相違もあると思う」との断りも書かれてある。
  12. ^ 織田敏信については、織田良信と同一人物であり、義敏の子・斯波義良(のちの義寛)の偏諱を受けた良信が義敏の守護復帰後に重ねて偏諱を受けて改名したものとする説もある(横山住雄『織田信長の系譜』より)。