斎藤隆 (野球)

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斎藤 隆
東北楽天ゴールデンイーグルス時
(2013年5月12日、QVCマリンフィールド
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 宮城県仙台市若林区
生年月日 (1970-02-14) 1970年2月14日(54歳)
身長
体重
188 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 投手
プロ入り 1991年 ドラフト1位
初出場 NPB / 1992年4月7日
MLB / 2006年4月9日
最終出場 NPB / 2015年10月4日
MLB / 2012年9月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

斎藤 隆(さいとう たかし、1970年2月14日 - )は、宮城県仙台市若林区出身の元プロ野球選手投手)。

同リーグ時代の愛称は”Sammy”(サミー)だった。

経歴

プロ入り前

東北高校時代は2年先輩に後に大学・プロで同じチームメイトになる佐々木主浩と阪神で活躍した葛西稔がいた。3年時には一塁手として、第69回全国高校野球選手権大会に出場している。高校卒業後、東北福祉大学に進学。大学進学後も野手としてプレーしていたが、2年時の練習中に遊びで投手の練習をしていたのを監督が注目し、それがきっかけとなりそのまま本格的に投手に転向した。日米大学の選抜に選ばれる程の選手に成長した。

1991年ドラフト会議横浜大洋ホエールズ中日ドラゴンズから1位指名を受け、抽選の結果大洋が指名権を獲得。推定契約金1億円、年俸900万円で入団した。同期に三浦大輔永池恭男らがいる。

大洋・横浜時代

ルーキーイヤーの1992年、即戦力として期待され、プロ初登板を果たすが未勝利に終わる。

1993年、開幕ローテーションには入れなかったが、ほどなく先発ローテーションに定着し規定投球回をクリアする。新人王有資格者中最多の8勝を挙げたが、伊藤智仁ヤクルト)に敗れ、惜しくも新人王を逃した。

1994年、開幕から91回2/3連続被本塁打0を続けるなど好成績を残し、オールスターゲームに初出場した。しかし、実力はありながらも勝負どころで打たれるなど敗戦が先行し、ローテーション入りをした1993年から1995年の3年間は、なかなか二桁勝利には届かなかった。

1996年、先発投手として独り立ちさせようとした新監督の大矢明彦の采配により11完投をし、プロ入り初の二桁勝利を記録。しかし敗戦も同数の10敗を記録した。奪三振数206で最多奪三振のタイトルを初獲得。4月には自身初の月間MVPも獲得した。一方で31被本塁打を記録し、中でも巨人の松井秀喜に7本塁打を浴びる。

1997年、春季キャンプ中に右ひじに遊離軟骨が発見され、除去手術を行う。終盤二軍で登板復帰はしたものの、チームが大躍進をしていた事もあり、1軍登板できずにシーズンを終えた。

1998年、4月5日に中継ぎ投手として復帰登板し、4月29日には583日ぶりの勝利を挙げる。中盤以降先発に復帰を果たし、13勝5敗1セーブの好成績で38年ぶりのリーグ優勝、日本一に貢献。日本シリーズでは史上9人目の初登板初完封を挙げる活躍で、優秀選手に選ばれた。セ・リーグカムバック賞を受賞した。

1999年、自己最高の14勝を記録し、敗戦数もわずか3で、.824という高い勝率を記録するも、3年前を越える32被本塁打を記録した。

2000年は6勝10敗、防御率5.52と前年から大きく成績を落とした。

横浜では1999年オフに、チーム不動のリリーフエース佐々木主浩がフリーエージェントでアメリカ・メジャーリーグのシアトル・マリナーズに移籍して以降、チームに確固とした抑え投手が不在だったため、2001年に就任した新監督の森祇晶は「俺はお前と心中する」という言葉で、当初転向に難色を示していた斎藤をストッパーに転向させる。

この転向は成功し、同年は7勝1敗27セーブ、防御率1.67の好成績を挙げる。この時の経験が後の先発、そしてメジャーでの生活に活きたと本人は述べている。

2002年も抑え投手として活躍。オフにはFAとなり、メジャーリーグへの移籍を模索したが、結局横浜と3年で総額7億3,000万円の契約を結んで残留した。

新監督の山下大輔の意向により、2003年からは先発に復帰し、安定感を欠きながらも6勝を挙げた。

2004年は精彩を欠きわずか2勝5敗でシーズンを終えた。

2005年は2年ぶりに投球回数が100を超えたが、3勝4敗と不本意な成績でシーズンを終えた。オフ、斎藤は「たった一度でもいいからメジャーで投げたい」と家族を説得し、再度メジャーリーグ挑戦を目指して自由契約となり、ジョー・アーボンと代理人契約を結ぶ。だが36歳になる高齢であることや、この数年不振が続いていたことから、斎藤に興味を示す球団はなかなか見つからなかった。

ドジャース時代

ドジャース時代(2007)

2006年2月7日にロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結び、スプリングトレーニングに招待選手として参加。7試合に登板して防御率4.09、WHIP1.27の成績に終わり、3月23日にAAA級ラスベガス行きを通告され、チームの開幕戦はスタンドで観戦したという。しかしレギュラーシーズン開幕直後にクローザーを務めていたエリック・ガニエが右肘を痛めて故障者リスト入りしたため、入れ替わりで4月7日にメジャーに昇格。9日のフィラデルフィア・フィリーズ戦でメジャー初登板、18日のシカゴ・カブス戦で初勝利を飾り、チームメイトのサンディー・アロマー・ジュニアから「ウェルカム・トゥ・ザ・ビッグリーグ!」と声をかけられ祝福されたという。当初はセットアッパーとして起用されていたが、登板8試合目まで無失点、4月は12試合に登板し13回を7安打1失点15奪三振の好成績を残すと、5月にはガニエの代役を務めていたダニス・バエスに代わってクローザーに指名され、5月15日のコロラド・ロッキーズ戦でメジャー初セーブを挙げる。6月2日にガニエが復帰したため一時セットアッパーに戻ったが、ガニエの右肘痛再発により再びクローザーに指名され、7月5日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦まで15試合連続無失点を記録。

9月18日のサンディエゴ・パドレス戦はチームのプレーオフ進出に向けて絶対に負けることのできない試合だったが、9回表に1点ビハインドの状況からマウンドに上がるも制球が定まらず打ち込まれ、差を4点に広げられてしまう。ベンチに戻ってからはうなだれて下を向いていたが、チームメイトから「上を向け」、「おまえがいたからここまで来られたんだ」、「俺達が点を取ってやるから見てろ」と励まされたという。9回裏、奮起したドジャース打線が反撃を開始、4番のジェフ・ケントから4者連続でソロ本塁打を打ち同点に追いつく[1]。この後10回表にアーロン・シーリーが再び1点を勝ち越されるも、斎藤を一番に励ましていたというノマー・ガルシアパーラが10回裏に逆転サヨナラ2ランをレフトに放ち、劇的な勝利を収めた[1]。「ノマーとは運命的なものを感じる」と泣きながら感謝の言葉を口にした[2]。ガルシアパーラは24日のダイヤモンドバックス戦でもサヨナラ満塁本塁打を放ち、斎藤に白星をつけた。30日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦では球団新人記録となる24セーブ目を挙げる。

この年はチーム最多の72試合に登板し防御率2.07、リリーフ投手中リーグ1位のWHIP0.91、同じく両リーグ最多となる107奪三振の好成績を挙げ、サイ・ヤング賞の選出投票で8位となった[3]。後にピッツバーグ・パイレーツと契約する桑田真澄は、この斎藤の成功が自身にメジャー挑戦を決断させたと語っている。ポストシーズンではニューヨーク・メッツとのディビジョンシリーズで2試合に登板し2回2/3を無得点に抑えたものの、リードした場面での登板機会はなくチームは3連敗を喫した。オフには1年100万ドル(約1億1500万円)、出来高30万ドルで契約を更新。

2007年もクローザーとして起用され、開幕から順調にセーブを積み重ねる。6月には負けが込んでいたチームの悪い雰囲気をぬぐい去るため、試合後にロサンゼルスの店で侍の衣装を購入し、次の試合前に侍の格好でロッカールームを歩き回ってチームメイトたちを笑わせた(次の日の試合前にも侍姿で登場した。普段は滅多に笑わないジェフ・ケントも好評だったという)。また本人のブログによると、対戦相手のニューヨーク・メッツの選手にも大ウケされ、和ませてしまったらしい[4]。26日のダイヤモンドバックス戦では日本人メジャー最高球速となる99mph約159km/h)を記録[5]。これはレギュラーシーズン中に日本人選手の計測した球速としては伊良部秀輝五十嵐亮太山口和男を抜いて歴代最速となった(2010年由規が161km/hを記録して更新)。この試合では98mph(約158km/h)も計時し、本人によれば日本での自己最速は153km/hであったため「この年で99マイルはどうなんですかね」と本人も半信半疑だったが、球場内の表示とテレビ中継の表示は共に同じ数字を示していた[5]。また同日に記録したセーブによりメジャーデビュー以来48度のセーブ機会で45の成功を収め、初セーブ機会からの救援成功率で44/48のガニエを抜きメジャー新記録を樹立した。前半戦だけで23セーブを挙げるなど変わらぬ安定感が評価され、7月11日に行われたオールスターゲームに監督推薦で初出場。最速97mph(約156km/h)を計時し1イニングを三者凡退に抑えた。8月にも抜群の安定感を示し、月間MVPは候補に留まったものの、日本人投手初となるDHL デリバリー・マン・オブ・ザ・マンスを受賞した。シーズンも佳境となった9月19日、ロッキーズとのダブルヘッダー第二戦で1点リードの9回裏に登板。熾烈を極めるワイルドカード争いの中で迎えたこの一戦で、逆転サヨナラ2ランを浴びシーズン初黒星を喫する。結果的にロッキーズはこの勝利から奇跡的な快進撃を続け、サンディエゴ・パドレスとのワンデイプレーオフを制してワイルドカードを獲得。ドジャースは急激に調子を落とし、ワイルドカード争いから脱落することとなってしまった。しかし斎藤はこの年ナ・リーグ3位の39セーブ、リーグのリリーフ投手の中で最も低い防御率1.40とWHIP0.72を記録(メジャー全体ではJ・J・プッツの防御率1.38、WHIP0.70に次ぐ2位)するなど抜群の成績を残した。

オフには年俸200万ドル(約2億1600万円)+出来高20万ドルでドジャースと再契約を結ぶ。また毎年オフに発表されるアメリカのスポーツ統計専門会社イライアス・スポーツ・ビューローによる現役メジャー格付けランキングにおいて、ナ・リーグの救援投手部門トップの評価を受けた(日本人メジャーリーガーでは初のランク1位)。このランキングはFA補償の公式資料として認知されており、投手の場合は登板数、防御率など、あらゆる成績から独自の計算式で得点化している。補償に関しては過去2年分の成績が対象となる。2年間通算で63セーブはリーグ7番目(最多はトレバー・ホフマンによる88セーブ)だったが、2年間通算でそれぞれリーグ1位の防御率1.77、WHIP0.82、被打率.166、奪三振率11.67が評価された。

ロアイザ、プロクター、ブロクストン、バイムルら他のドジャース投手陣と(2008年)

2008年もクローザーとして起用され、前半戦は防御率2.18、WHIP1.06と好投を続けていたが、7月12日のフロリダ・マーリンズ戦で右肘靭帯を痛め故障者リスト入り。9月15日のピッツバーグ・パイレーツ戦で復帰したが、復帰後は防御率4.76、WHIP1.92と本調子を欠き、ポストシーズンでもカブスとのディビジョンシリーズでは3連打を浴び降板。フィリーズとのリーグチャンピオンシップシリーズではロースターから外れた。

レッドソックス時代

レッドソックス時代(2009年)

2009年1月10日ボストン・レッドソックスと1年150万ドル+出来高600万ドルで契約を結んだ(2年目は球団オプション)[6][7][8]。レッドソックスではマニー・デルカーメン岡島秀樹らと共にセットアッパーとしての起用が見込まれ[6]、契約では「8回とジョナサン・パペルボンの休養日の抑え」と伝えられたと報じられている[9]。6月11日に日米通算100勝目を挙げ、日米通算100勝100セーブを達成。翌日も勝利投手となり、日本人メジャーリーガー初の2試合(2日)連続勝利投手になった[10]。前半戦は防御率3.52、WHIP1.37と振るわず、最終的に奪三振率、与四球率、WHIP共に自己最悪の成績に終わるが、後半戦は防御率1.08、WHIP0.92と好投し、メジャー入り以来4年連続での防御率2.50未満を記録した。翌年の契約オプションは球団側が持っていたが、2010年の年俸となる「2009年の年俸+出来高」が600万ドルという、セットアッパーとしては異例の高額に及んでしまったため、オプションを行使せずにウェーバー掲示された[11]。12月4日にアトランタ・ブレーブスと1年契約を結んだ。

ブレーブス時代

2010年はクローザーのビリー・ワグナーに繋ぐセットアッパーとして起用され、両リーグのリリーフ投手中4位のウェルヒット率(アウトやヒットに関わらず相手打者に良い当たりを打たれた率).124、同ナ・リーグ9位のFIP2.43、同6位の奪三振率11.50を記録するなどチームのプレーオフ進出に貢献[12]。この年は特に速球が効果を発揮し、速球の奪空振り率は両リーグトップの33.5パーセントを記録した[13]。5月30日のパイレーツ戦で初勝利を挙げ、同時に日本人メジャー投手初となる40歳代での勝利を達成。8月8日のジャイアンツ戦で3点リードの9回1死から二塁打を打たれた以外は3者空振り三振に抑え、日本人メジャー投手初となる40歳代でのセーブを達成した。7月31日には日本人メジャー投手では長谷川滋利以来となる5年連続40登板を達成。8月29日にはブライアン・マッキャンのMLB初のビデオ判定によるサヨナラ本塁打で2勝目を記録した。その後も9月16日まで6試合連続無安打無失点と好投を続けるも、9月17日のメッツ戦の8回に2者連続三振を奪った後の3人目の打者へ2球目を投げた後、右肩の痛みを訴え降板。チームがプレーオフ争いを続けていることもあり「薬でも注射でも使って戻ってきたい」と語った[14]。検査の結果右肩腱炎と診断され、故障者リスト入りはせずに10月2日のフィリーズ戦の5点ビハインドの9回に登板し復帰。しかし打者6人と対戦し2安打3四球。1死一、二塁で適時二塁打を許し、さらに満塁で押し出し四球を与え1死しか奪えず降板し、レギュラーシーズンを終了した。

ポストシーズンではジャイアンツとのディビジョンシリーズの選手登録から外れ、リーグチャンピオンシップシリーズでの復帰を目指しフロリダの教育リーグでの調整を命じられていたが、ディビジョンシリーズ第2戦で左脇腹を痛めたビリー・ワグナーに代わり第3戦で選手登録された。しかし登板はなくチームは第4戦で敗退した。

ブルワーズ時代

2011年1月5日ミルウォーキー・ブルワーズと1年契約を結んだ[15]。4月4日のブレーブス戦で左太ももを痛めて故障者リスト入りする。28日にはAAA級ナッシュビルで調整登板したが、左脇腹を痛め降板。6月15日に再びAAA級ナッシュビルで調整登板したが、その後再び左脇腹を痛め、7月2日のミネソタ・ツインズ戦でメジャーに復帰。7月20日のダイヤモンドバックス戦でメジャー通算300試合登板を達成。8月14日のパイレーツ戦では最速94mph(約151km/h)を記録する投球で3勝目を挙げる。8月16日には同点の9回表に登板し三者凡退に抑え、その裏味方がサヨナラ勝ちを収めたことによりシーズン4勝目を挙げた(2014年現在、41歳183日での白星は日本人メジャーリーガー最年長勝利記録となっている)。後半戦は25試合の登板で3勝1敗8ホールド、防御率1.66、WHIP1.06と好投を続けチーム29年ぶりの地区優勝に貢献し、松井秀喜を抜いて日本人メジャーリーガー史上最多となる5度目のポストシーズン出場を果たした。

ダイヤモンドバックスとのディビジョンシリーズ第2戦では6回に登板。最速93mph(約150km/h)を記録する投球で1回を無失点に抑え、ポストシーズン初白星を記録[16]。チーム29年ぶりのディビジョンシリーズ突破に貢献した[17]セントルイス・カージナルスとのリーグチャンピオンシップシリーズではアルバート・プホルスを2打数無安打に抑えて「プホルスが回ったら出番」という指示も受け[18]、第6戦で佐々木主浩に並ぶ日本人メジャーリーガー最長タイ記録となるポストシーズン通算7試合連続無失点を記録する[19]など、プレーオフ計6試合7イニングスを無得点に抑える好投を見せたが、この試合でチームは敗退し、涙で目を腫らしながら「頂上を取って仙台に帰りたかった」と語った[20]ブッシュ・スタジアムでのカージナルスとテキサス・レンジャーズワールドシリーズでは、NHKテレビ中継で現地からゲスト解説を務めた。

オフにはプレーオフでの安定感や過去の実績、豊富な経験を評価され6球団以上から興味を示され、FAランクは日本人選手唯一となるA判定を受け、代理人のネズ・バレロは「彼はワインと同じ。年を重ねるごとに良くなっている」と話した[21]

ダイヤモンドバックス時代

12月14日にアリゾナ・ダイヤモンドバックスと1年175万ドル(約1億3600万円)で契約を結ぶ[22]。同球団に日本人選手が所属するのは初となった。

2012年は開幕前に右ふくらはぎを痛め、DL入りして開幕を迎える[23]。その後マイナーで調整を続けていたが、20日に再び右ふくらはぎを痛める。6月からマイナーでのリハビリ登板を始めるが、6月30日には右肩の炎症を起こし[24]、ルーキーリーグでリハビリ登板した後、7月21日にDLから復帰。しかし10試合に登板した後、8月14日に左太もも裏を痛めて再びDL入りし[25]、9月1日に復帰。速球の平均球速は前年と同じ90.7mph(約146km/h)、最速93mph(約150km/h)を記録するも、12回を投げて4本塁打を浴びるなど、16試合の登板で防御率6.76、WHIP1.83を喫する。チームもポストシーズン出場を逃し、シーズン終了後には「今年も全力を出し切ったつもりだが、例年とは違う感じがする。今年ほど体調管理の難しさを感じたことはない」と語った[26]

楽天時代

2012年12月29日に東北楽天ゴールデンイーグルスと1年契約で合意したことが発表された[27]。横浜時代の2005年以来8年ぶりの日本球界復帰となった。

日本野球機構(NPB)復帰1年目の2013年は、怪我の影響から開幕を二軍で迎えた。5月6日の対オリックス・バファローズ戦(Kスタ宮城)で、復帰後初の一軍公式戦登板。1イニングを無失点に抑えたところ、チームの勝ち越しによって、NPBで自身2768日振りの勝利投手になった[28]。43歳6カ月で臨んだ8月24日の対千葉ロッテマリーンズ戦(Kスタ)では、9回表にクローザーのダレル・ラズナーが故障したことを受けて、1死から急遽登板。打者3人を被安打1・自責点0で抑えた結果、NPBで自身3986日振り(2002年9月25日の対広島戦以来)のセーブを記録。このセーブは、NPN史上2番目の年長記録でもあった[29]。さらに、ラズナーが故障で戦線を離脱してからは、クローザーとして球団初のパシフィック・リーグ優勝に貢献。レギュラーシーズンでは、公式戦30試合の登板で3勝4セーブを記録するとともに、防御率を2点台にとどめた。ポストシーズンでは、ロッテとのクライマックスシリーズ ファイナルステージ第4戦(10月21日・Kスタ宮城)に4番手で登板。2/3イニングを抑えるとともに、NPBのポストシーズン史上最年長勝利投手になった[30]

2014年には、44歳4カ月で迎えた7月2日の対オリックス戦(京セラドーム大阪)でセーブを記録。小宮山悟が持っていた44歳0カ月のNPB公式戦最年長セーブ記録を更新した[31]7月11日の千葉ロッテマリーンズ戦(コボスタ宮城)でも、9回表の1イニングを無失点に抑えて最年長セーブ記録を更新。44歳4ヶ月で臨んだ7月21日の埼玉西武ライオンズ戦(西武ドーム)では、NPBの右投手としての最年長勝利を記録[32]。シーズン通算では、一軍公式戦31試合の登板で、防御率2.59を記録した。

2015年には、開幕を二軍で迎えたが、4月14日にシーズン初の出場選手登録[33]。しかし、翌15日の対西武戦(西武プリンスドーム)で26歳年下(19歳)の森友哉に本塁打を浴びる[34]など不調で、2試合に登板しただけで同月17日に登録を抹消された[35]。「(加齢に伴う登板後の疲労回復の遅れや故障などで)戦力にならず、若手のチャンスをつぶしている。やれることを突き詰めてやってきたが、無意識のうちに(若手へ)託すものができた」[36]として、8月16日仙台市内で開かれた記者会見でこの年限りでの現役引退を表明[37][38]。楽天球団では、雨天中止による振り替え試合であった10月4日の対ソフトバンク戦(コボスタ宮城)を、斎藤の引退試合として開催した[39]。9回表の無死から「打者1人」という条件で登板した斎藤は、細川亨から空振りで三振を奪って現役生活を終了。試合後に開かれた引退セレモニーでの挨拶では、「今日まで魂を込めて、白球にこの身を挺してきましたが、心技体、チームの力にもなれず、私の体は限界です。後輩たちに全ての思いを託し、『野球人・斎藤隆』として、新しい第2の人生を歩んでいこうと思っています」と述べた[40]11月24日付で、日本野球機構(NPB)から任意引退選手として公示[41][42]

現役引退後

2015年10月には、NHK総合テレビの『サンデースポーツ』で「マンスリーキャスター」を務めた[43]。2015年4月からマンスリーキャスター制度を導入した同番組が、野球関係者をマンスリーキャスターに起用したのは、2014年まで楽天の一軍監督だった初代(4月担当)キャスターの星野仙一[44]以来2人目である。

『サンデースポーツ』の「マンスリーキャスター」担当最終日(2015年10月25日)の放送では、「メジャーリーグをはじめ、アメリカのさまざまな野球のシステムについて学んでいきたい」という抱負を明らかにするとともに、現役選手時代にマネジメント契約を結んでいた吉本興業に契約社員として入社することを公表した。同社がマネジメントを担当していたプロ野球選手を、現役引退後に契約社員として採用したのは、斎藤と同じく投手としてメジャーリーグからのNPB復帰を経験した石井一久2014年4月1日付で採用)に次いで2例目である[45]

2015年11月18日には、プロ野球球団の編成部門における実務を学ぶ目的で、インターン(無報酬の研修生)という立場でサンディエゴ・パドレスの編成業務に加わることを表明。同月22日高知東部球場で日本国内初のトライアウトを視察した[46]ことを皮切りに、同年12月から1年間にわたって、ウィンター・ミーティング、編成、データ分析、代理人との折衝などに携わる[47]

2016年には、パドレスにインターンとして所属しながら、2月から月に1回のペースで『朝日新聞』の夕刊スポーツ面に「斎藤隆の米見聞録」というコラムを寄稿[48]1月28日には、横浜時代の一軍コーチ・監督だった権藤博と共に、野球日本代表の投手コーチへ就任することが発表された。背番号は45で、吉本興業やパドレスに籍を置いたまま、チャイニーズ・タイペイ代表との強化試合(3月上旬に日本国内で開催)に向けた練習から投手陣を指導する[49]

選手としての特徴

スリークォーターからスライダーフォーシームを武器に三振を奪い、2010年までメジャー通算の奪三振率は11.0を記録している[50]。他にもカーブシュートを持ち球とし[51]、かつてはフォークも投げていたが、メジャー移籍に際して、自信のあるボールしか通用しないと考え、失投の確率のあるフォーク、シュートを封印し、フォーシーム、スライダー、カーブの3球種だけを投げるようになった[9]

メジャーで成功を収めることができた要因として、持ち球のひとつである右打者の外角へ鋭く逃げるスライダーが、メジャーリーグの外に広いストライクゾーンに適合していたことが挙げられる[52]。加えて左打者へのバックドア(外のボールゾーンからストライクゾーンに入ってくるスライダー)も大きな武器になり、日本ではボールと判定されていたコースでストライクを取れるため、左右に関係なく優位に対戦を進めることができるようになり[5][53]、2007年までドジャースの監督を務めたグレイディ・リトルは斎藤について「サミーをクローザーに持つということは、銀行に貯金がたくさんあることと同じ。あのスライダーがある限り、崩れることはない」と高く評価した[5]。また、日本時代に比べて10km/h近く球速がアップし2007年には平均球速93.2mph(約150km/h)と最速99mph(約159km/h)を記録[5]。更に40歳を越えてなお平均球速91.8mph(約147.8km/h)と最速95mph(約153km/h)を記録し、2010年には速球の被ウェルヒット率(アウトやヒットに関わらず相手打者に良い当たりを打たれた率)で両リーグ3位の.139、奪空振り率で両リーグ1位の33.5パーセントを記録[13]川上憲伸は「40歳であの球を投げるとは」と驚嘆したという[54]

人物

ブレーブスの投手だった2010年には、メジャーリーグが舞台のテレビアニメメジャー』の第6シリーズ(NHK教育テレビ)を、現役メジャーリーガーの立場で監修した。

2015年シーズンまでは、横浜大洋ホエールズに入団した選手のうち、谷繁元信(1989年ドラフト1位)・自身と同期入団の三浦大輔と共にNPBで現役生活を続けていた。しかし、斎藤・谷繁とも、同年限りで現役を引退。2016年シーズンからは、後継球団の横浜DeNAベイスターズに一軍投手コーチ兼任で所属する三浦が、横浜大洋出身者で最後の現役選手になる[55]

現役引退の直後には、NPBの球団から、コーチへの就任を打診された。しかし、「野球選手が(引退して)社会に出ると、『(自分は社会で通用するだけのスキルを)何も持っていない』という現実にぶち当たる。スポーツ界で必要とされる人材になるには、野球選手として一番得意なコーチを務める前に、それなりのスキルを身につけないといけない」という理由で打診を固辞。東北楽天でNPBへ復帰した際に待遇面でのMLBとの違いに疑問を感じたこともあって、MLB球団のインターンとして、編成の現場で実務を学ぶ道を選んだ[48]。ただし実際には、インターン期間中に、野球日本代表の投手コーチを務めている。

NPBでのプレー経験がある日本人の元プロ野球選手で、選手時代に在籍した球団とは無関係のMLB球団のフロントへ留学した人物は、斎藤が初めてである[56]。ちなみに、斎藤と同じくパドレスへの在籍経験がなかった元メジャーリーガーの野茂英雄も、斎藤が留学した2016年からパドレスのアドバイザーを務める。

現役時代に在籍していなかったパドレスを留学先に選んだことには、ドジャースのスカウト部長時代に斎藤の獲得へ奔走したローガン・ホワイト[57]が、パドレスのゼネラルマネジャー付きシニアアドバイザーを務めていることが大きく影響している。斎藤は、現役引退を表明した2015年の8月中旬に、日本人選手の視察で来日していたホワイトと東京で再会。ドジャースへの入団以来「恩人」と慕っているホワイトに対して、現役引退を直々に報告するとともに、「今後はできれば球団の中のこと(編成業務)を勉強したい」と打ち明けた。当日にアメリカへ戻ることを予定していたホワイトは、交通機関が軒並み混雑するお盆休み中にもかかわらず、当時住んでいた仙台から7時間がかりで会いに来た斎藤の誠意に感激。再会の直後には、球団の上層部に対して、斎藤の受け入れを打診した[56]。その結果、「NPBのどの球団にも所属しない」「パドレスから報酬や通訳を出さない」「編成部内のほぼすべての会議へ参加させる」「球団の機密事項をすべて公開する」「会議を含めて、編成部員としてのコミュニケーション手段をビジネス英語に限る」「編成部内の会議には録音機器を持ち込まない」という条件で、1年間の受け入れが認められた[48]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1992 大洋
横浜
6 2 0 0 0 0 2 0 -- .000 76 16.0 18 2 10 0 0 21 2 0 16 15 8.44 1.75
1993 29 23 2 0 0 8 10 0 -- .444 627 149.0 127 15 61 1 6 125 7 0 66 63 3.81 1.26
1994 28 27 7 3 1 9 12 0 -- .429 769 181.0 175 5 69 4 8 169 2 0 70 63 3.13 1.35
1995 26 26 2 0 0 8 9 0 -- .471 682 162.0 166 13 45 1 6 132 1 0 79 71 3.94 1.30
1996 28 27 11 2 0 10 10 0 -- .500 801 196.2 157 31 63 1 11 206 4 1 80 72 3.29 1.12
1998 34 18 1 0 0 13 5 1 -- .722 572 143.2 131 9 23 1 2 101 2 0 49 47 2.94 1.07
1999 26 26 5 2 2 14 3 0 -- .824 754 184.2 178 32 31 0 6 125 1 1 83 81 3.95 1.13
2000 19 19 1 1 0 6 10 0 -- .375 493 115.2 123 17 36 1 3 97 1 0 74 71 5.52 1.37
2001 50 0 0 0 0 7 1 27 -- .875 251 64.2 51 6 14 3 0 60 0 0 12 12 1.67 1.01
2002 39 0 0 0 0 1 2 20 -- .333 197 47.2 37 5 15 3 4 46 0 0 17 13 2.45 1.09
2003 17 17 1 0 0 6 7 0 -- .462 439 103.1 103 16 22 1 9 72 1 0 59 48 4.18 1.21
2004 16 7 0 0 0 2 5 0 -- .286 211 44.1 64 12 13 0 2 37 1 1 41 38 7.71 1.74
2005 21 16 0 0 0 3 4 0 1 .429 457 106.0 111 12 29 1 7 93 2 0 50 45 3.82 1.33
2006 LAD 72 0 0 0 0 6 2 24 7 .750 303 78.1 48 3 23 3 2 107 2 0 19 18 2.07 0.91
2007 63 0 0 0 0 2 1 39 1 .667 234 64.1 33 5 13 0 3 78 0 0 10 10 1.40 0.72
2008 45 0 0 0 0 4 4 18 0 .500 197 47.0 40 1 16 3 2 60 1 0 14 13 2.49 1.19
2009 BOS 56 0 0 0 0 3 3 2 3 .600 240 55.2 50 6 25 2 5 52 1 0 16 15 2.43 1.35
2010 ATL 56 0 0 0 0 2 3 1 17 .400 221 54.0 41 4 17 2 0 69 2 0 20 17 2.83 1.07
2011 MIL 30 0 0 0 0 4 2 0 10 .667 108 26.2 21 2 9 2 1 23 2 0 6 6 2.03 1.13
2012 ARI 16 0 0 0 0 0 0 0 2 ---- 60 12.0 17 4 5 1 1 11 1 0 14 9 6.75 1.83
2013 楽天 30 0 0 0 0 3 0 4 4 1.000 111 26.2 25 1 10 0 1 25 2 0 7 7 2.36 1.31
2014 31 0 0 0 0 1 1 3 9 .500 134 31.1 27 2 15 2 2 21 2 0 9 9 2.59 1.34
2015 3 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 12 2.1 5 1 1 0 0 1 0 0 2 2 7.71 2.57
NPB:16年 403 208 30 8 3 91 81 55 14 .529 6586 1575 1498 179 457 19 67 1331 28 3 715 657 3.75 1.24
MLB:7年 338 0 0 0 0 21 15 84 40 .583 1363 338.0 250 25 108 13 14 400 9 0 99 88 2.34 1.06
  • 2015年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 大洋(横浜大洋ホエールズ)は、1993年に横浜(横浜ベイスターズ)に球団名を変更

タイトル

NPB

表彰

NPB
MLB

記録

NPB(初記録)
  • 初登板・初先発:1992年4月7日、対広島東洋カープ1回戦(横浜スタジアム)、4回1/3を3失点で敗戦投手
  • 初奪三振:同上、1回表に野村謙二郎から
  • 初勝利・初完投勝利:1993年4月29日、対読売ジャイアンツ4回戦(横浜スタジアム)、9回1失点
  • 初安打・初打点:同上、7回裏に桑田真澄から左中間適時二塁打
  • 初完封勝利:1994年4月10日、対中日ドラゴンズ2回戦(ナゴヤ球場
  • 初セーブ:1998年4月12日、対読売ジャイアンツ3回戦(横浜スタジアム)、6回表に2番手として救援登板・完了、4回無失点
  • 初ホールド:2005年7月10日、対広島東洋カープ7回戦(鹿児島県立鴨池野球場)、7回表2死に2番手として救援登板、1/3回無失点
NPB(節目の記録)
NPB(その他)
  • ポストシーズン最年長勝利投手:43歳8カ月、2013年10月21日、対千葉ロッテマリーンズ戦(クリネックススタジアム宮城)、7回途中から登板、クライマックスシリーズファイナルステージ第4戦
  • 最年長セーブ:44歳4カ月、2014年7月11日、対千葉ロッテマリーンズ10回戦(コボスタ宮城)、9回表に6番手として登板、1回無失点
MLB

背番号

  • 11 (1992年 - 2005年)
  • 44 (2006年 - 2008年、2013年 - 2015年)
  • 24 (2009年)
  • 40 (2010年 - 2011年)
  • 48 (2012年)

脚注

  1. ^ a b September 18, 2006 San Diego Padres at Los Angeles Dodgers Play by Play and Box Score” (英語). Baseball-Reference.com. 2008年3月16日閲覧。
  2. ^ MLB30チーム・レポート シーズン総括編『月刊スラッガー』2007年1月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-1、83頁。
  3. ^ 2006 Awards Voting” (英語). Baseball-Reference. 2013年8月31日閲覧。
  4. ^ [1]
  5. ^ a b c d e 斎藤隆 ジンクスを物ともせず『月刊スラッガー』2007年12月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-12、50-53頁。
  6. ^ a b Busy Red Sox add reliever Saito Ex-LA closer joins Penny, Smoltz, Baldelli as Boston signees”. mlb.com. 2009年1月11日閲覧。
  7. ^ Red Sox sign free agent righthanded pitcher Takashi Saito to one-year contract with option for 2010”. Redsox.com. 2009年1月11日閲覧。
  8. ^ Smoltz says he's determined, focused”. ESPN.com. 2009年1月14日閲覧。
  9. ^ a b 斎藤勲章「日米100勝&100セーブ!」”. スポニチ. 2009年6月13日閲覧。
  10. ^ NHK-BS1 MLBハイライトより引用
  11. ^ http://www.baseballdailydigest.com/2009/11/11/pacific-perspectives-postseason-watch-list/
  12. ^ 2010-11 MLB投手白書 アラカルト 『月刊スラッガー』2011年2月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-2、45頁。
  13. ^ a b 2010 速球/救援投手部門別ベスト5 『月刊スラッガー』2011年2月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-2、11頁。
  14. ^ 斎藤「薬でも注射でも使って戻りたい」 日刊スポーツ、2010年9月18日。
  15. ^ Saito signing is officialJSOnline、2011年1月6日。
  16. ^ 41歳斎藤1回0封PO初勝利日刊スポーツ、2011年10月4日。
  17. ^ 斎藤ブ軍29年ぶり地区S突破日刊スポーツ、2011年10月9日。
  18. ^ 斎藤「プホルス・キラー」だ日刊スポーツ、2011年10月15日。
  19. ^ 斎藤は通算7戦連続無失点日刊スポーツ、2011年10月18日。
  20. ^ 斎藤涙の終戦「凄く悔しい」日刊スポーツ、2011年10月18日。
  21. ^ 41歳斎藤に6球団以上が興味=代理人「彼はワインと同じ」時事通信、2011年12月8日。
  22. ^ 斎藤隆、ダイヤモンドバックスに移籍”. ロイター (2011年12月16日). 2011年12月16日閲覧。
  23. ^ 斎藤残念「開幕前なので慎重に」日刊スポーツ、2012年4月5日。
  24. ^ 斎藤は右肩の炎症「長くなりそう」日刊スポーツ、2012年7月2日。
  25. ^ 斎藤が再びDL入り 左太もも裏痛める日刊スポーツ、2012年8月15日。
  26. ^ 斎藤終戦も「引退思い浮かばない」日刊スポーツ、2012年10月4日
  27. ^ 斎藤隆選手との契約合意に関して東北楽天ゴールデンイーグルス公式サイト 2012年12月29日。
  28. ^ “楽天・斎藤、復帰初登板で2768日ぶり勝利!”. SANSPO.COM. (2013年5月6日). http://www.sanspo.com/baseball/news/20130506/gol13050617040001-n1.html 2013年5月6日閲覧。 
  29. ^ 楽天 斎藤 日本3986日ぶりセーブ 緊急登板もあせりなしスポーツニッポン2013年8月25日配信
  30. ^ 斎藤 ポストシーズン史上最年長勝利投手、短期決戦強い!3戦3勝スポーツニッポン2013年10月22日配信
  31. ^ 楽天の斎藤 最年長セーブ記録更新NHK NewsWEB 2014年7月2日配信
  32. ^ 楽天44歳斎藤が右投手最年長勝利更新 - デイリースポーツ 2014年7月22日
  33. ^ 楽天が斎藤を1軍登録 - 日刊スポーツ 2015年4月14日
  34. ^ 西武森2発 初左腕打ち1号&26歳差斎藤打ち2号 - 日刊スポーツ 2015年4月16日
  35. ^ 楽天 西田ら1軍登録、斎藤隆らを抹消 - 日刊スポーツ 2015年4月17日
  36. ^ 楽天斎藤隆が引退会見「辞める理由が見つかった」  - 日刊スポーツ 2015年8月18日
  37. ^ 楽天斎藤隆が引退会見「晴れやかな気持ちでいます」 - 日刊スポーツ(2015年8月17日15時42分)
  38. ^ 斎藤隆選手 記者会見 | 東北楽天ゴールデンイーグルス オフィシャルサイト - 2015年8月17日配信
  39. ^ 10/4(日)福岡ソフトバンク戦は「斎藤隆選手引退試合」を開催 - 東北楽天ゴールデンイーグルスオフィシャルサイト 2015年9月10日配信
  40. ^ 楽天斎藤隆「私の体は限界です」引退あいさつ全文 - 日刊スポーツ 2015年10月5日
  41. ^ 2015年度 任意引退選手 - 2015年11月25日閲覧
  42. ^ 【11月24日の公示】楽天・斎藤隆が任意引退 - スポーツニッポン 2015年11月24日
  43. ^ 10/11(日)斎藤隆選手がNHK(全国) サンデースポーツに出演 - 東北楽天ゴールデンイーグルスオフィシャルサイト 2015年10月11日配信。担当初日(4日)のみ、前述した自身の引退試合と重なったため、引退セレモニーの終了後にNHK仙台放送局スタジオからの生中継で出演した(参考)。
  44. ^ 出演時点では楽天球団のシニアディレクターで、2015年9月から副会長に就任。
  45. ^ 斎藤隆 吉本興業の契約社員に「メジャーのシステムを学びたい」- スポーツニッポン 2015年10月25日配信。
  46. ^ “元燕・江村がサイドスロー!パドレス入団テストでキラリ”. サンケイスポーツ. (2015年11月23日). http://www.sanspo.com/baseball/news/20151123/npb15112305020001-n1.html 
  47. ^ 現役引退の斎藤隆、パドレス球団入り「このタイミングしかないと」- スポーツニッポン 2015年11月18日配信。
  48. ^ a b c “(スポーツヒューマン)斎藤隆 球団運営学ぶ、45歳の渡米”. 朝日新聞. (2016年1月20日). http://digital.asahi.com/articles/DA3S12167640.html 
  49. ^ 侍ジャパン強化試合「日本vsチャイニーズ・タイペイ」コーチングスタッフ発表! 野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト (2016年1月28日) 2016年2月17日閲覧
  50. ^ 2010-11 MLB投手白書 主要250投手ピッチ・アナリシス/救援投手編 『月刊スラッガー』2011年2月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-2、37頁。
  51. ^ 友成那智、村上雅則『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2010』廣済堂出版、2010年、283頁頁。ISBN 978-4-331-51439-9 
  52. ^ 友成那智、村上雅則『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2007』廣済堂出版、2007年、406頁頁。ISBN 978-4-331-51213-5 
  53. ^ 友成那智、村上雅則『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2008』廣済堂出版、2008年、438頁頁。ISBN 978-4-331-51300-2 
  54. ^ 衰えない40歳の速球、斎藤、4試合連続無失点 産経新聞、2010年7月7日。
  55. ^ “番長改めレジェンド?De三浦最年長に”. デイリースポーツ. (2015年9月30日). http://www.daily.co.jp/newsflash/baseball/2015/09/30/0008444208.shtml 2015年10月12日閲覧。 
  56. ^ a b “斎藤隆氏 フロント留学が実現したワケ 恩人を感激させた“誠意””. スポーツニッポン. (2015年12月1日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/12/01/kiji/K20151201011603370.html 2016年1月28日閲覧。 
  57. ^ “斎藤隆「引き際」考え10年…運命変えたドジャースとの契約”. スポーツニッポン. (2015年9月3日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/09/03/kiji/K20150903011057030.html 2016年1月28日閲覧。 

関連項目

外部リンク