斎藤邦彦 (外務官僚)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。219.102.21.185 (会話) による 2015年12月18日 (金) 06:58個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

斎藤 邦彦(さいとう くにひこ)は、日本外交官

経歴

外務省主流派を歩んだエリート官僚であり、「ミスター外務省」「外務省のドン」と畏怖された人物である。今でも外務省に絶大な影響力を持つとされる。

1958年(昭和33年)に東京大学法学部を卒業後、外務省に入省。 英語研修(イギリス)を経て、スイス、マレーシア、フランス、ベルギー(EC)にて勤務。条約局長、イラン大使、外務審議官などを歴任し、1993年(平成5年)外務事務次官を務める。1995年(平成7年)、駐米国大使に就任した。

1999年(平成11年)に外務省を退官した後は国際協力事業団(JICA)の総裁を務めていたが、2001年外務省機密費流用事件の責任を問われ、給与自主返納をしたものの、小泉純一郎総理大臣の意向で更迭された[1]。その後、国際親善協会(FEC、現在の民間外交推進協会)の理事長を務めている。 2013年、瑞宝重光章受章。

その他

  • 1991年の湾岸戦争の際、イラン大使であった斉藤は「イラン国内にイラク軍機がいる」という情報を日本へ打電し評価された。イラン大使館には優秀なペルシャ語の専門家がおり、情報源を培っていたのが原因といわれる。イラン大使館ではさらに情報収集を行い、「イランは中立を守るだろう」という見通しを伝えている。
  • 斉藤は中曽根康弘竹下登の両内閣当時の条約局長で、当時密約がどう扱われたか知り得る立場にいた。そのため2010年3月に国会招致を受けた。
  • 警視総監台湾総督府総務長官等を歴任した斎藤樹の四男。母禎子は司法大臣鉄道大臣等を歴任した小川平吉の三女。数学者東京大学名誉教授の斎藤正彦は実兄。

参考文献

脚注

  1. ^ 「<小泉首相>田中外相要望の人事先送りは認めず やま場を迎える」毎日新聞2001年8月2日