斎藤秀一

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斎藤 秀一(さいとう ひでかつ、1908年12月24日 - 1940年9月5日)は、日本言語学者、僧侶。エスペランティストローマ字論者。別名に森馥鳥海昇北島三郎野沢愛蘭

来歴[編集]

明治41年、山形県東田川郡山添村(現:鶴岡市櫛引地区)泉流寺の長男に生まれる。鶴岡中学(現・山形県立鶴岡南高等学校)、1931年駒澤大学文学部東洋文学科卒業。大学在学中、日本エスペラント学会、カナ文字会、秋田雨雀らのソビエトの会の会員となる。

大学卒業後、朝日村大泉小学校教員となり大平や八久和などの分校に勤めていたが、軍国主義教育に批判的であったことと、児童にローマ字を教えていたことが問題視され、赤化教員の疑いで鶴岡警察署に1度目の逮捕。4日後に釈放されるも、この検挙を理由に1932年に教師を解雇された[1]

教員時代から、国語国字論、方言研究、中国の文字改革運動の紹介、ローマ字運動、エスペラント運動などに関わる。教員を免職後も自宅で執筆活動を継続。1934年には言語問題のガリ版雑誌『文字と言語』を発行。ローマ字論田中館愛橘方言論東条操石黒修高倉テルなど第一線の言語学者から寄稿を得た。また1937年には全文エスペラント語の雑誌「Latinigo」(ラティニーゴ、意味はローマ字化)を刊行。中国の魯迅葉籟士などと交流し中国、インドシナインドネシアなどのアジアのローマ字運動の論考を集めた。また『東京方言集』などを自費出版する。一時、東北帝国大学の図書館に勤務。しかし、国外との文通、反戦傾向の言動ゆえ、1938年治安維持法違反で特高課により3度目の検挙、秋田刑務所に服役する。その後、肺結核にかかり、治癒が絶望となり釈放されるも数ケ月で腹膜炎を併発し1940年に病死した。

国際共通語エスペラントを通じて非戦と世界平和を訴えた活動は、反戦抗日を主張して著名な長谷川テルに匹敵するとされる[2][3][4]

著書[編集]

編著[編集]

  • 『東京方言集』1935年(1976年に国書刊行会から復刻)
  • 『支那語ローマ字化の理論』1936年。魯迅葉籟士他著、斎藤秀一訳

参考文献[編集]

関連作品[編集]

  • 朗読・劇『野に咲く花は空を見ている』 特高に奪われた青春 言語学者 斎藤秀一の生涯(脚本: 池田はじめ、演出: 廣野浩二)2021年、山形平和劇場[5]

脚注[編集]

外部リンク[編集]