抹消された世界遺産

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UNESCO世界遺産リストは後世に伝えるべき「顕著な普遍的価値」を持つ文化遺産自然遺産の一覧であるが、登録理由となった要素が失われたと世界遺産委員会によって判断された資産[注釈 1]などは、リストから抹消されることもある。そのような抹消された世界遺産は2015年の第39回世界遺産委員会終了時点で2件存在している。UNESCOの世界遺産センターが公表している世界遺産リストでは、それらの物件は打ち消し線を引かれた状態で掲載されている。なお、その2件以外にも、過去に抹消の可能性が世界遺産委員会の審議で俎上に載せられた資産は複数存在している。

世界遺産センターが英文で deletion と表現する手続きについて、日本では「抹消」と訳す文献[1]と、「削除」と訳す文献[2]がある。また、抹消された世界遺産について、「元・世界遺産」と表現する文献[3]もある。

規定

世界遺産条約には、世界遺産リストからの資産の抹消に関する規定は存在しない。しかし、「世界遺産条約履行のための作業指針」(以下、「作業指針」)には、以下のような規定が存在する。

192. 委員会は、世界遺産一覧表からの登録抹消に係る手続きとして、以下の手順を採択した。
a) 世界遺産一覧表への登録を決定づけた資産の特徴が失われるほど資産の状態が悪化していた場合。
b) 世界遺産資産の本来の特質が、登録推薦の時点で既に人間の行為により脅かされており、かつ、その時点で締約国によりまとめられた必要な改善措置が、予定された期間内に実施されなかった場合 ( 第116段落参照)。
193. 世界遺産一覧表登録資産の状況に深刻な劣化があった場合、又は、必要な改善措置が、予定された機関内に実施されなかった場合、当該資産を有する締約国は事務局に対して、その旨を通知すること。
194. 事務局が、そのような情報を、関係締約国以外の情報源から入手した場合は、当該締約国と協議の上、情報源及び情報の内容について可能な限り確認を行い締約国からのコメントを求める。
195. 事務局は、関係諮問機関に対して、受け取った情報に対するコメントを求める。
196. 委員会は、入手したすべての情報を審議し決定を行う。条約第13条第3項に従い、決定は出席しかつ投票した委員会メンバーの2/3以上の多数による議決で行う。この問題に関して事前に当該締約国と協議を行うまでは、委員会は登録抹消を決議することはできない。
197. 委員会決議は当事締約国に通知される。委員会は、直ちに本決議について公示する
198. 委員会の決議により、世界遺産一覧表を変更する必要がある場合は、次に発行される世界遺産一覧表更新版において変更が反映される。 — 「作業指針」第192段落から第198段落、日本の文化庁による翻訳[4][注釈 2]

第192段落の規定にあるように、登録された後に状態が悪化して抹消される場合と、懸念材料を抱えた状態で登録され、そのまま改善が見込めずに抹消される場合がある。後述するように、前者に該当するのがドレスデン・エルベ渓谷の事例であり、後者に該当するのがアラビアオリックスの保護区の事例である。顕在的ないし潜在的脅威が存在する資産については危機にさらされている世界遺産(危機遺産)リストに記載して、国際的な支援を促すことが行われているが、状態の悪化が即座に抹消に繋がるとは限らない。たとえば、ターリバーンによって大仏が破壊された後に世界遺産登録された「バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群」(アフガニスタンの世界遺産、2003年登録)のような事例もある[5]

なお、規定で何も言及がない通り、抹消に先立って危機にさらされている世界遺産(危機遺産)リストに記載されていることは必須要件ではない。実際、アラビアオリックスの保護区の場合、危機遺産登録期間なしに登録を抹消された。

抹消された事例

抹消された世界遺産は以下の通りである。

抹消された世界遺産の一覧
資産名 保有国 世界遺産登録年 登録時の適用基準 危機遺産登録期間 抹消年
アラビアオリックスの保護区 オマーンの旗 オマーン 1994年 (10) なし 2007年
ドレスデン・エルベ渓谷 ドイツの旗 ドイツ 2004年 (2), (3), (4), (5) 2006年 - 2009年 2009年

アラビアオリックスの保護区

アラビアオリックス(UAEで撮影された画像)

アラビアオリックスの保護区はオマーンが1982年に設定した自然保護区であり、1994年に世界遺産リストに登録された。まっすぐ伸びた2本の角を持つウシ科アラビアオリックスは、ユニコーンのモデルとも言われるが、角を目当てにした乱獲によって、1972年に一度は野生絶滅に追い込まれた[6]。オマーン国王はジダット・アル・ハラシース平原に保護区を設定し、アメリカ動植物保護協会から譲り受けたアラビアオリックスの再導入を試みた[6]。この資産の審議にあたり、世界遺産委員会の諮問機関(自然遺産分野)である国際自然保護連合 (IUCN) は、保護管理面の不備を理由に「登録延期」を勧告したが、委員会でオマーン代表がしかるべき対応をとることを約束したことから登録が認められた[7]

ところが、オマーン政府は2007年1月に、自然保護区の範囲を27,500km2から2,824 km2へと大幅に縮減した[8]。実に約90 %におよぶ縮減である。この背景には天然ガス石油などの資源開発優先の意向があった[9]。この縮減は世界遺産委員会に無届けで行われたものであり、IUCNは世界遺産としての顕著な普遍的価値が失われたとして、「抹消」を勧告した[7]

委員会では抹消に躊躇する意見も複数出され、投票に持ち込まれたものの、抹消支持は13票で決議に必要な3分の2(21か国中14か国以上の賛成)に届かなかった[8]。その後、ワーキンググループによる検討を経て、再び委員会審議になり、 委員国から以下のような反対意見が寄せられた。

顕著な普遍的価値が損なわれ、単に一覧表から削除するだけなら、世界遺産委員会は一体何のためにあるのか — インド代表[10]
これは遺産保有国だけでなく、世界遺産委員会の失敗であるとも言えよう。削除する前にできるだけの努力をするべきである — 日本代表[10]

しかし、オマーン当局が開発優先の意向を堅持したため、抹消と決議された[7]。なお、登録時点で改善を約束した代表者と、抹消時点で開発優先を明示した代表者は同一人物である[7]。これが世界遺産リストから抹消された初の事例である。

ドレスデン・エルベ渓谷

ドレスデンの夜景
ヴァルトシュレスヒェン橋と周辺の景観

ドレスデン・エルベ渓谷は、ドイツの世界遺産の一つとして2004年に登録された。18世紀に「エルベ川フィレンツェ」の異名をとった歴史的な都市ドレスデンとその周辺、ユービガウ城からピルニッツ城までのエルベ川沿岸約18 km が対象であった[11]。ドレスデンには、18世紀にはマイセンで築いた巨富を背景に華々しい建造物群が建てられ、19世紀には工業都市として成長する中でネオ・ルネサンス様式ゼンパー・オーパー(歌劇場)などが建てられた[11]。世界遺産としては、ドレスデンとその周辺に残る歴史的建造物群のみならず、周辺の自然と一帯になった文化的景観としての登録であった[12]

しかし、ドレスデンには第二次世界大戦以前から大規模な架橋計画が存在していた[13]。その具体的な建設に向けた住民投票が2005年2月に実施され、橋(ヴァルトシュレスヒェン橋)の建設が決まった[7]。そこで、翌年の第30回世界遺産委員会で危機遺産リストに加えられるとともに、建設が開始されたならば、世界遺産リストからの抹消もありうると決議された[14]

ドレスデンの住民投票では、賛成した場合に世界遺産リストから抹消されうるという危険性が周知されていなかったとして、若年層を中心に反対意見が出されることとなった[15]。また、委員会の決定を受け、ドレスデンの市議会では建設中止が決議されたが、これを州政府が拒否し、ザクセン州裁判所と連邦憲法裁判所も支持した[7]。しかし、すぐさま建設が強行されなかったことから、2007年の第31回世界遺産委員会では、ひとまず結論は先送りとされた[7]。この時期のドイツでは、世界遺産委員会の姿勢に対する不満なども報じられていたという[16]

第32回世界遺産委員会(2008年)の時点で既に工事が始まっていたが、ドレスデン市当局が計画の変更などを模索している旨の報告があり[17]、建設の撤回とすでに着工された部分の復元を条件になおも1年の猶予が与えられることとなった[18]。しかし、ドレスデン州議会が建設の推進を決議し、2008年11月に上部構造の建設が始まると、もはや不可逆の状態に至ったものとして、翌年の第33回世界遺産委員会で抹消が決議された[19]。第32回の時点で着工されていたこともあり、この第33回委員会では抹消やむなしという雰囲気があったという[20]。形式的にオマーン当局による要請という形になったアラビアオリックスの保護区と異なり、世界遺産委員会が主体的に抹消を決議した最初の事例である[19]

決議では付帯事項として、文化的景観としての完全性は損なわれたものの、顕著な普遍的価値を有する部分も残ることから、異なる資産範囲と価値基準での再推薦を妨げない旨が盛り込まれた[21][22]。なお、問題となったヴァルトシュレスヒェン橋は、2013年8月に開通しており[23]、再推薦は当然これを除外したものとなるはずである。しかし、その具体的な区域設定には難航も予想されている[24]。少なくとも、第39回世界遺産委員会(2015年)終了時点では、ドイツの暫定リスト(世界遺産推薦候補)18件にドレスデン関連は含まれていない[25]

登録範囲の縮小

 
バグラティ大聖堂
(上・再建前、下・再建後)

世界遺産リストに登録された資産は、その価値を強化する構成資産を拡大登録することがしばしば見られる。しかし、第39回世界遺産委員会では、その逆に登録範囲の縮小が議題に上った。中世グルジア建築の傑作として世界遺産登録された「バグラティ大聖堂ゲラティ修道院」(グルジアの世界遺産、1994年登録)がそれである。

この資産は、バグラティ大聖堂の大規模な再建計画をめぐり、2010年に危機遺産リストに登録された経緯があった[26]。バグラティの再建案は、世界遺産としての完全性と真正性を満たさなくなるとの危惧からである[27]。その再建工事が実際に行なわれたことで、世界遺産としての顕著な普遍的価値が失われたと判断されたことから、バグラティ大聖堂を世界遺産リストから抹消し、ゲラティ修道院単独での登録に切り替える申請がなされたのである。

世界遺産委員会の諮問機関である国際記念物遺跡会議 (ICOMOS) は、ゲラティ修道院単独でもその顕著な普遍的価値の証明は可能と判断したが、保存計画の不備などから「情報照会」を勧告した。委員会審議でもその判断が踏襲されたため、「情報照会」決議となり[28]、バグラティ大聖堂のリストからの抹消はひとまず見送られた。

回避された事例

過去には世界遺産リストからの抹消の可能性が検討されたものの、回避された事例も存在する。以下のリストは登録年順に並べてあるので、問題が顕在化した時期は前後している場合がある。

画像 資産名 保有国 登録年 分類 危機遺産登録期間
ガランバ国立公園  コンゴ民主共和国 1980年 自然 1984年 - 1992年、1996年 -
ガランバ国立公園はキタシロサイの貴重な生息地域であり、かつては1,000頭以上が生息していた[29]。しかし、密猟のほか、近隣諸国の内戦や政情不安によって流入した兵士らによる殺戮により、2005年12月時点でのキタシロサイの生息数は10頭以下となっていた[30]。その年7月の第29回世界遺産委員会では、翌年の委員会の時点でキタシロサイが確認されなかった場合の、登録抹消の可能性が指摘された[31]。その後、2012年の第36回世界遺産委員会ではついに野生絶滅に至った可能性が認められたが、登録抹消ではなくキタシロサイの再導入などによる環境改善が勧告されるにとどまった[32]
カカドゥ国立公園 オーストラリアの旗 オーストラリア 1981年 複合 なし
カカドゥ国立公園はすぐれた岩絵群が残るアボリジニの聖地であるとともに、固有の生物相を多く含む自然保護区である[33]。しかし、一帯には豊富なウラン鉱脈が存在し、1979年の国立公園設定時点で開発予定区域が除外されていた[33]。そして、除外された地区の一つであるジャビルカ地区でのウラン採掘事業が、自然と文化的伝統の双方にとって脅威になるとして反対運動が起こった[33]。この計画については世界的な注目を集め、危機遺産登録を要請する声が高まった[34]。2000年の第24回世界遺産委員会ではひとまず危機遺産登録も回避されたものの[33]、当時UNESCO事務局長だった松浦晃一郎は登録抹消の可能性も視野に入っていたとし、それを是が非でも回避しようとするオーストラリア当局が開発延期を決めたと、後に述懐した[35]
ケルン大聖堂 ドイツの旗 ドイツ 1996年 文化 2004年 - 2006年
ケルン大聖堂は、1248年から1880年まで中断を挟んで600年以上を費やして建設された大聖堂で[36]、「ゴシック建築の最高峰」と評されることもある[37]。その尖塔の高さ157 mは、完成当時には世界最高を誇った[38]。問題となったのは周辺の開発で、ケルンの傑出したランドマークであった大聖堂の象徴性を弱める高層建築群が計画されていた[39]。そのため、2004年には危機遺産リストに登録されたが、景観問題を理由とする初の事例となった[40]。そして、第29回世界遺産委員会(2005年)で登録当時の大臣書簡(周辺環境に留意する旨の文言があった)が俎上に載せられ、「作業指針」第192段落bに抵触する可能性が指摘されたことで、次回での登録抹消の可能性が明記された[41]。ケルン市当局は当初、都市の発展を理由として規制に消極的だったが、登録抹消による観光収入悪化への懸念などもあり、最終的には建造物群の高さ規制に踏み切った[39]。これにより、危機遺産登録は2006年に解除された。
ウィーン歴史地区  オーストリア 2001年 文化 なし
ウィーン歴史地区は、古代ローマ時代以来の歴史を持つウィーンにおいて、中世から近代までの時代ごとに異なる多様な建造物群が保存された地区である[42]。また同時に、「音楽の都」として、ヨーロッパ音楽史の発展と密接に結びついてきた都市でもある[43]。しかし、2001年の世界遺産リスト登録直後に、緩衝地域での高層ビル建築計画が明らかになり、世界遺産委員会ではそのまま実行された場合、世界遺産リストから抹消すべきという提案まで出されることとなった[40]。このケースでは計画が修正されたため、抹消はもちろん、危機遺産リストに記載されることも回避された[40]
月の港ボルドー フランスの旗 フランス 2007年 文化 なし
ボルドーガロンヌ河岸の三日月状の屈曲部に発達したことから、「月の港」の異名を持つ[44]。貿易港として繁栄した18世紀に築かれた古典主義建築新古典主義建築群が残る[44]。しかし、世界遺産登録直後に歴史的な旋回橋が取り壊され、代替橋が計画されていることが明らかになったため、登録翌年の第32回世界遺産委員会では、次回の登録抹消を視野に入れた決議がなされた[45]。その第33回世界遺産委員会ではICOMOSが代替橋の影響を限定的としたのに対し、世界遺産センターが逆の評価を下し、両論併記される形で委員会審議に掛けられた[46]。結局、フランス当局に更なる改善が要請されるにとどまり、それ以上の対応はなされなかった[47]

脚注

注釈

  1. ^ 世界遺産リストに掲載されている文化財や自然保護区は公式には「資産」(property) と呼ばれる(日本ユネスコ協会連盟 2010, p. 31ほか)。
  2. ^ 第39回世界遺産委員会(2015年)終了時点での「作業指針」は2015年版であるが、ここで引用した段落は2015年版の英語本文(The Operational Guidelines for the Implementation of the World Heritage Convention / 段落番号も同じ)と対照してもごく微細な変更しか存在しないため、文化庁の翻訳はより古いバージョンからの翻訳ではあるが、あえてそれを引用した。なお、誤字と思われるもの等はそのままである。

出典

  1. ^ 世界遺産検定事務局 2010, p. 221
  2. ^ 日本ユネスコ協会連盟 2013, pp. 41, 44
  3. ^ 佐滝 2009
  4. ^ 世界遺産条約履行のための作業指針(文化庁)(2015年9月15日閲覧)
  5. ^ 佐滝 2009, pp. 51–52
  6. ^ a b 講談社 2002, p. 230
  7. ^ a b c d e f g 日本ユネスコ協会連盟 2008, p. 38
  8. ^ a b 下間 2007, p. 16
  9. ^ 日本ユネスコ協会連盟 2008, pp. 15, 38
  10. ^ a b 下間 2007, p. 17より引用。
  11. ^ a b 世界遺産アカデミー & 世界遺産検定事務局 2009, p. 217
  12. ^ 佐滝 2009, pp. 53, 56
  13. ^ 日本ユネスコ協会連盟 2010, p. 35
  14. ^ 平澤 2006, p. 50
  15. ^ 佐滝 2009, p. 57
  16. ^ 下間 2007, p. 18
  17. ^ 日本ユネスコ協会連盟 2009, p. 40
  18. ^ 西 2008, p. 14
  19. ^ a b 日本ユネスコ協会連盟 2010, p. 35
  20. ^ 西 2009, p. 37
  21. ^ 古田 & 古田 2013, p. 132
  22. ^ 佐滝 2009, p. 60
  23. ^ 木曽 2015, p. 25
  24. ^ 七澤 2010, p. 58
  25. ^ Germany - State Party(UNESCO WHC)(2015年9月16日閲覧)
  26. ^ 古田 & 古田 2013, p. 107
  27. ^ 日本ユネスコ協会連盟 2011, pp. 26, 30
  28. ^ World Heritage Centre 2015, p. 215
  29. ^ 平山 2006, p. 100
  30. ^ 日本ユネスコ協会連盟 2007, pp. 21, 26
  31. ^ 平山 2006, p. 101
  32. ^ World Heritage Centre 2012, p. 15
  33. ^ a b c d 日本ユネスコ協会連盟 2000, p. 56
  34. ^ 平山 2006, p. 164
  35. ^ 日本ユネスコ協会連盟 2010, p. 15
  36. ^ 古田 & 古田 2013, p. 128
  37. ^ 佐滝 2009, p. 54
  38. ^ 小林 2009, p. 113
  39. ^ a b 日本ユネスコ協会連盟 2007, p. 38
  40. ^ a b c 日本ユネスコ協会連盟 2007, p. 51
  41. ^ 日本ユネスコ協会連盟 2006, p. 45
  42. ^ 世界遺産アカデミー & 世界遺産検定事務局 2009, pp. 173–176
  43. ^ 世界遺産アカデミー & 世界遺産検定事務局 2009, p. 175
  44. ^ a b 世界遺産アカデミー & 世界遺産検定事務局 2009, p. 148
  45. ^ 日本ユネスコ協会連盟 2009, p. 40
  46. ^ 日本ユネスコ協会連盟 2010, pp. 35–36
  47. ^ 日本ユネスコ協会連盟 2010, p. 36

参考文献