慶長遣欧使節
慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)は、慶長18年(1613年)に仙台藩( 宮城県全域および岩手県南部)初代藩主,伊達政宗が、家臣,支倉常長を使節団の代表者である使節(正使)として、政宗が庇護していたキリスト教,西方教会のカトリック教会(旧教)のフランシスコ会,宣教師であるスペイン人,ルイス・ソテロの本国,スペイン王国(スペイン帝国)の国王,フェリペ3世、およびローマ教皇,パウロ5世のもとにへ派遣した、日本史上初めてのヨーロッパへの 政治外交使節団(180余人)である。
政宗とソテロは、政宗が主要大名の一人として参戦した豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に、政宗が朝鮮から連れ去って自分の愛人にした朝鮮人女性が、政宗や関白,豊臣秀吉が住む首都,京都で病気になったとき、政宗がこの愛人をローマカトリック教の病院に連れて行ったことがきっかけで知り合った。
なお、東北地方の覇者,政宗は、秀吉が朝鮮戦争で朝鮮王国および明と戦った際に、朝鮮出兵における日本軍の最大拠点である佐賀県,名護屋城の正門(大手門)を、日本全国の諸大名の中でただ一人,秀吉から与えられた。
政宗は秀吉死去後の徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利したすぐあと(家康が江戸幕府,征夷大将軍に任命される前)、宮城県仙台市青葉区 (仙台市)の青葉山 (仙台市)に新たな居城,仙台城を造ったが、仙台城は秀吉が日本統一を達成したあと、政宗の仙台城築城当時には他の大名はほとんど誰も造らなかった,戦争のとき防御力が高い山城であり、政宗はこの天下獲りのための異例の城(居城),仙台城の正門(大手門)として、秀吉から与えられた名護屋の正門を海路,船で仙台まで運び、仙台城の正門にした。仙台城大手門には、大きな金色の皇室の家紋(菊の紋章)があった。
この仙台城大手門(名護屋城大手門)が存在した仙台城跡には、明治政府が東京の陸軍第一帝国指令本部に次ぐ格付けの陸軍第二師団司令本部を設置し、同様に旧制一高(第一帝国大学、現,東京大学)に次ぐ格付けの旧制二高(第二帝国大学、現,東北大学)を設置した。それは、薩摩藩と長州藩の薩長同盟が中心となIって明治天皇を擁立してつくった明治新政府が、明治維新成功のための前提条件である戊辰戦争において、奥羽越列藩同盟をつくって東武天皇(北白川宮能久親王)を擁立した仙台藩が薩長らに敗れたため、明治政府が仙台(宮城県)を中心とする東北地方に反乱を起こされないようにするための、旧仙台藩への懐柔策であった。仙台城大手門は、仙台市が第二次世界大戦末期にアメリカ軍から無差別空襲(仙台空襲)の被害を受けて焼失するまで、国宝に指定されていた(現場も交通事情のために再建されていない)。
背景と目的[編集]
大航海時代にキリスト教,西方教会のローマカトリック教会に属するヨーロッパ勢力は、世界各地に植民地をつくっていた。植民地獲得活動で先行していたのは、ローマカトリック教会のローマ法王の仲裁によって地球儀上の勢力範囲を二分された、スペインとポルトガル[1]であった(トルデシリャス条約)。ローマ法王が定めたスペイン,ポルトガルの地球儀上の勢力範囲は、基本的には、スペインはアメリカ大陸(アメリカ新大陸(新大陸)で、東方教会の最大勢力,ロシア(ロシア正教会)の勢力範囲を除き、アジアを含むユーラシア大陸はポルトガルであった。ただし、太平洋地域に於いてはスペインはフィリピンを植民地として、マニラ・ガレオンなどで多くの利益を上げ、ポルトガルは清(中国)の港町だったマカオを拠点にしていた。一方、植民地活動で遅れをとっていたキリスト教,西方教会の新教であるプロテスタントのイギリス,オランダも、スペイン,ポルトガルに対抗して積極的な活動をしており、江戸幕府初代征夷大将軍,徳川家康は、オランダの商船リーフデ号で豊後国(現・大分県)に漂着したイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦安針)を外交顧問としていた。
こうしたなか、慶長14年(1609年)に、スペイン王国(スペイン帝国)の前フィリピン総督ドン・ロドリゴの乗ったサン・フランシスコ号が上総国岩和田村(現御宿町)に漂着するという事件があり、慶長16年(1611年)には、スペイン国王,フェリペ3世 (スペイン王)からの答礼使としてセバスティアン・ビスカイノ提督がフェリペ3世の親書を携えて来日した。しかし家康は、スペイン側の二つの要求である日本との貿易と日本でのローマカトリックの布教のうち、ローマカトリックの布教を許せば、それをてこにしてスペインに植民地化されかねないが,プロテスタントである我がイギリス王国(とオランダ王国)は貿易だけを希望しているので大丈夫です、というウィリアム・アダムスの進言もあり、スペイン王国に対しては友好的な態度を取りながらも全面的な外交を開くことはしなかった。
このような状況のなか、関白,豊臣秀吉の死後の豊臣政権において、徳川家康と同じ立場の,同僚同士であり有力大名同士でもある仙台藩初代藩主,伊達政宗は、豊臣政権の全国の諸大名の中で初めて豊臣秀吉の遺言に背いて、家康とお互いの息子,娘を結婚させて軍事同盟を結び、徳川家康の豊臣氏からの政権奪取に協力した。
徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利した3年後に後陽成天皇から江戸幕府初代征夷大将軍に任命され、 全国の諸大名たちの上に立ったが、以前として伊達政宗は、副将軍格の別格の大名であった。そのよう立場の政宗は、日本全国の諸大名の中でただ一人だけ家康から日本国の政治,外交上の許可を得て、日本人として初めて、ヨーロッパ(西ヨーロッパ)のスペイン王国およびローマ教皇庁(ローマ法王庁)へ、家臣,支倉常長らの政治外交使節を派遣した。
慶長遣欧使節派遣の目的は、仙台藩とスペイン王国との、すなわちスペインの植民地の一つ,メキシコとの、伊達政宗が自ら建造した船で、日本史上初の仙台藩(日本側)から海外の貿易相手国に出向いて行っての、太平洋貿易であったとされている。しかし、伊達政宗の本当の目的は、スペインと軍事同盟を締結したうえでの、スペイン無敵艦隊を利用しての江戸幕府の打倒(倒幕)が目的であったとも言われている[2][3]。しかし(太平洋)貿易説を主張する側からの、(徳川幕府)倒幕説への反対意見もある[4][5]。更には(一部の説ではあるが)、慶長遣欧使節は、伊達政宗を後ろ盾とし政宗の居城,仙台城(宮城県仙台市)に滞在したこともあるローマカトリックのスペイン人宣教師,ルイス・ソテロが、自らの宣教師兼通訳と言う立場を利用して布教上の目的から企てたものであり、政宗らの権威がそれに利用されたに過ぎないとの主張もある[5]。
伊達政宗は仙台領内の石巻(現,石巻市)において、スペイン人提督,セバスティアン・ビスカイノに協力させて、日本史上最大の様式帆船である大砲付きの大船(軍艦)、ガレオン船,サン・フアン・バウティスタ号を建造した。この造船には、江戸幕府から派遣された船大工も参加していた[6]。当時、フェリペ3世を国王とするスペイン帝国は、世界最大の植民地帝国として、「太陽が沈まない(ほど広大な面積をもつ)帝国」と呼ばれてたたえられていた。スペインは、ガレオン船の建造技術を国家の最高機密としており、造船技術を外国に漏洩した者を死刑に処していた。
伊達政宗は、この日本史上初のスペイン王国およびローマ教皇庁への政治外交使節団の派遣において、それは日本史上初の太平洋および大西洋を渡るという壮大な規模であるため、体力的にも危険が大きい任務なので、年齢的にも働き盛りの年齢である優秀な家臣、仙台藩藩士・支倉常長を自分の代理人である使節(代表者)に任命し、支倉常長とルイス・ソテロを中心とする使節団,180余人を、スペイン王国およびローマ教皇庁(バチカン)へ派遣した。
しかし、伊達政宗の幕府打倒の陰謀に気づいた徳川家康は、日本国内でキリスト教徒を徹底弾圧してスペイン王国での伊達政宗および支倉常長の信用を失墜させ、政宗はスペイン王国との貿易条約の締結にも軍事同盟締結の条約にも失敗し、苦難の末に仙台藩(日本)に帰国した支倉常長は仙台で間もなく死亡し、政宗は仙台城下の広瀬川 (宮城県)でローマカトリック教の宣教師たちを処刑し、ルイス・ソテロも密入国した長崎で捕らえられ処刑された。
そして仙台藩(宮城県全域および岩手県南武)の宮城県北部には明治時代になるまで、弾圧に屈することなく信仰を守り続けた隠れキリシタンの里だけが残った。
使節の旅程[編集]
使節団は、慶長18年9月15日(1613年10月28日)にサン・フアン・バウティスタ号で牡鹿半島の月ノ浦(現在の宮城県石巻市)を出帆し、ヌエバ・エスパーニャ太平洋岸のアカプルコへ向かった。
出航から3か月後の1614年1月28日、アカプルコ入港。3月4日、使節団の先遣隊がメキシコシティに入った。先遣隊の武士がメキシコシティで盗人を無礼討ちにし、常長ら10人を除き武器を取り上げられた。3月24日、常長らがメキシコシティ入り。5月8日、メキシコシティを出発。6月10日、使節団はスペイン艦隊のサン・ホセ号でヌエバ・エスパーニャ大西洋岸ベラクルスのサン・フアン・デ・ウルアを出港した。
7月23日、キューバのハバナに到着。8月7日、ハバナを出港した[7]。
10月5日、スペイン南部のサンルーカル・デ・バラメーダに到着。セビリアの貴族であるソテロの本拠地、セビリアに入った。10月27日、常長はセビリア臨時市議会に臨み、使命を述べた。11月25日、使節団はセビリアを出発した。
12月20日、使節団はスペインの首都マドリードに入った。1615年1月30日、常長ら使節はスペイン国王フェリペ3世に謁見した。2月17日、常長はフェリペ3世ら臨席のもと、王立修道院の付属教会で洗礼を受けた。8月22日、使節団はマドリードを出発した[8]。
10月25日、使節団がローマに到着。10月29日、使節団がローマで、栄誉あるローマ入市式を行った。11月3日、常長、ソテロらが、ローマ教皇・パウロ5世に謁見。11月20日、常長らにローマ市民権証書が授与される。1616年1月7日、使節団はローマを出発し再びスペインのセビリアへ。
1617年7月4日、使節団はセビリアを出発しヌエバ・エスパーニャまで戻り、1618年4月2日、迎えのサン・フアン・バウティスタ号でアカプルコを出港。同年8月10日、フィリピンのマニラに到着。
サン・フアン・バウティスタ号をマニラで売却し、常長は便船で元和6年8月24日(1620年9月20日)日本へ帰国。元和8年7月1日(1622年8月7日)、常長死去。
ソテロは、元和8年9月18日(1622年10月22日)、マニラから密入国しようとしたが捕らえられ、寛永元年7月12日(1624年8月25日)大村で火刑により殉教した(49歳没)。
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関係者のその後[編集]
しかし日本でのキリスト教取り締まりに伴い、この外交交渉は成功しなかった。元和6年(1620年)遣欧使節の副使であった常長はマニラ経由で帰国したが、その2年後に失意のうち没し、その墓は宮城県仙台市の光明寺にある。遣欧使節の正使のソテロも、元和8年(1622年)キリスト教禁止下の日本に潜入を図るが捕らえられ、寛永元年(1624年)火刑に処せられた。常長がスペイン、ローマから帰国したとき、日本は幕府の方針によって、キリスト教禁止の時代になっていた。
常長の息子の時代、家来のキリスト崇拝が露顕し支倉家は一時「お家断絶」の憂き目を見ている。この事実から、ローマで洗礼を受けてキリシタンになった常長は、生涯キリスト教に執着していたと考えられている。
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結果と意義[編集]
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政宗は仙台藩がスペインと貿易を行うとの理由で、家康からガレオン船の建造と使節をスペインへ派遣する許可を獲得した。ただ、海流と偏西風の関係で太平洋を横断する基地として最も適当なのが現在の石巻付近であったこと、かつ既に避難寄港のためにスペイン船により当地付近の測量が済んでいたことから、家康がかの地での造船と出航にまつわる仕事を領主である政宗に命じたに過ぎないとの見解もある[5]。
この慶長遣欧使節の目的は、仙台藩とスペインとの貿易(太平洋貿易)交渉にある[2]。その意味で、この使節はこれに先んじた天正遣欧少年使節が「キリシタンの本山詣で」であったこととはその意義が異なる。天正遣欧少年使節が大友宗麟・大村純忠・有馬晴信らキリシタン大名によって主に宗教上の理由から行われたのに対し、政宗には自らがキリシタンとなったり領内でキリスト教を広めようとしたりする意図はなかったとみられるため、同じ西洋へ派遣された使節といっても両使節の目的は根本的な点で異なったものである。
この使節はスペイン国王フェリペ3世やローマ教皇パウルス5世宛ての書状を携行していた[9]。この書には政宗自身の署名捺印と花押が記入されているが、その文中にはスペイン語で政宗自身も洗礼を希望しており奥州領内にキリスト教を広めるつもりであり、そのために宣教師を派遣していただきたくその場合には宣教師の生活援助も行いたい、といった旨が記載されていた。しかし政宗が既存の神社仏閣を手厚く保護し、キリスト教を信仰しようとしたとされる傍証も存在しないため、これらの内容は貿易のための方便であったか、スペイン語で書かれた内容を政宗自身が把握していなかった可能性がある。のちに政宗は幕府の方針に従ってキリスト教を弾圧したため、結果的に虚偽の内容の国際文書を発行したことになった[5]。
慶長遣欧使節は「日本人が初めてヨーロッパの国へ赴いて外交交渉をした」画期的な出来事であった。常長らは「初めて太平洋・大西洋の横断に成功した日本人」である。のちに江戸幕府崩壊後、明治新政府は岩倉具視を全権大使として欧米視察の使節を送ったが(岩倉使節団)、その際に欧州で常長らの遺した事跡に出遭い、日本ではほとんど忘れられていた常長達の存在が再び注目されることとなる。明治新政府の首脳たちは欧米視察によって日本がいかに遅れた国であるのかを痛感し大きな劣等感に苛まれていたが、このとき250年以上も先立つ昔に日本の外交使節がスペインで外交交渉を行いローマまで派遣されていたという衝撃的な事実を知った。常長達の足跡を目の当たりにして、岩倉たちは大いに勇気づけられたという。
政宗がローマ法王へ宛てて書いた芸術的な親書、ローマ法王の肖像画、常長の肖像画、常長のローマ市民権証、常長がスペイン・ローマ・フィリピンから持ち帰った品々などは、現在仙台市博物館に収蔵されている。これらは「慶長遣欧使節関係資料」[10]として、歴史資料としては日本で初めて国宝に指定された。2013年6月18日、「慶長遣欧使節関係資料」は、御堂関白記とともにユネスコ記憶遺産に登録された[11]。これらの品々を見たスペインやローマ法王庁の人々は、自分達とは遠く離れた国に高度な文化と技術を持った国があるという事実を知った。また、支倉常長らの姿、彼らの堂々とした言動も、ヨーロッパ人を感心させた。常長らが和紙(白石和紙)で鼻をかみそれを投げ捨てると、ヨーロッパ人はその鼻紙を得ようとして群がったという[12]。
「慶長遣欧使節関係資料」(仙台市博物館蔵、国宝)の画像
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(上から)短剣(クリス型)、同鞘、短剣(護拳付)
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支倉常長像
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十字架とメダイ
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ロザリオ
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コリア・デル・リオのハポン姓[編集]
慶長遣欧使節団はスペイン南西の都市セビリア近辺にあるコリア・デル・リオに長期滞在した。この小さな港町には常長を記念する銅像が建てられている。また、この町にはハポン(Japón=日本)姓もしくはXapón姓の人が数百人住んでおり、この使節団の中で日本に帰らず現地に留まり移住したキリスト教徒の仙台藩の藩士や使節の現地人水夫、その支援者の子孫であると言われている。ハポンの表記は、スペイン北方のガリシア州におけるガリシア語では現在もXapónである。
1996年に、駐スペイン日本国大使の坂本重太郎がラジオで呼びかけ、ハポン姓を持つ650人や、使節ゆかりの東北地方の裏千家メンバーなどを集めた「ハポン・パーティー」を、セビリアで開催した[13]。
交流[編集]
日本・スペイン国交400年[編集]
2013年6月、日本とスペインとの国交400年を記念して、日本の皇太子がコリア・デル・リオを訪問し、植樹式を行なった[14][15]。
慶長遣欧使節出帆400年[編集]
2014年7月、慶長遣欧使節出帆400年記念事業の一環として宮城県内の高校生10人らで構成する「平成青少年遣欧使節団」がスペインを訪問する[16]。
脚注[編集]
- ^ カトリックのスペイン人やポルトガル人を、日本人は南蛮人と呼び、プロテスタントのイギリス人やオランダ人は紅毛人と呼んで区別していた。
- ^ a b 大泉光一『支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇』など。
- ^ 箕作元八「伊達政宗羅馬遣使の目的」『史学界』三の十一、明治34年(1901年)
- ^ 小林清治『伊達政宗の研究』吉川弘文館、平成20年(2008年)、239頁
- ^ a b c d 松田(1987)
- ^ 松田(1987)。政宗から幕府の船手奉行向井将監に宛てた、船大工派遣についての礼状が史料として残っている。
- ^ この年の9月から10月にかけ、日本では修道会士や高山右近らの主だったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放された。
- ^ 同年(1615年)の6月4日(慶長20年5月8日)に「大坂夏の陣」で激戦の末大坂城が落城した。
- ^ これに先立ち徳川秀忠がムニョス神父に託した手紙の宛先は、実際に国政を担当していたレルマ公爵である。これは「披露状」と呼ばれる形式で、高貴な身分の人物を直接宛名とするのは失礼に当たるという考えから、側近を宛名として、側近から主君に披露させるという形式を取る。(松田(1987))
- ^ 慶長遣欧使節関係資料 - 文化遺産オンライン
- ^ “「御堂関白記」及び「慶長遣欧使節関係資料」のユネスコ記憶遺産登録審議結果について”. 文部科学省 (2013年6月19日). 2013年6月19日閲覧。
- ^ このエピソードは事実ではあるが、常長達の持ち物なら何でもほしがったという意味ではなく、当時の西洋では懐紙を用いて鼻をかむという習慣がなく、大変珍しがられたためである。常長が鼻をかんだ懐紙は、その後バチカンの人類博物館にしばらく展示されていた。
- ^ 1994年12月2日 朝日新聞
- ^ 皇太子さまのスペイン訪問決定、時事通信社、2013/05/21
- ^ 皇太子さま、スペインで桜植樹 支倉常長ゆかりの地、共同通信, 2013/06/14
- ^ “平成遣欧使節団いざ出帆 大使に抱負”. 河北新報. (2014年7月24日) 2014年7月24日閲覧。
参考文献[編集]
史料[編集]
- 東京大学史料編纂所編『大日本史料 第十二編之十二』昭和57年(1982年)(初版明治42年(1909年))
- 『仙台市博物館収蔵資料図録 国宝「慶長遣欧使節関係資料」』仙台市博物館、平成13年(2001年)
研究文献[編集]
- 松田毅一『伊達政宗の遣欧使節』新人物往来社、昭和62年(1987年)9月25日。ISBN 4-404-01448-1
- 大泉光一『支倉六右衛門常長 慶長遣欧使節を巡る学際的研究』文眞堂、平成11年(1999年)
- 大泉光一『支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇』中公新書、平成11年(1999年)
- 太田尚樹『ヨーロッパに消えたサムライたち』角川書店、平成11年(1999年)
- 松田毅一『慶長遣欧使節 徳川家康と南蛮人』(新装版) 朝文社、平成14年(2002年)
- 五野井隆史『人物叢書 支倉常長』吉川弘文館、平成15年(2003年)
- 田中英道『支倉常長 武士、ローマを行進す』ミネルヴァ書房、平成19年(2007年)
関連項目[編集]
- 日西関係史
- 仙台フィルハーモニー管弦楽団(支倉常長を題材にしたオペラ「遠い帆」(作曲:三善晃)を初演。初の海外公演先の1つはローマ)
- 日系スペイン人
外部リンク[編集]
- 宮城県慶長使節船ミュージアム(愛称:サン・ファン館)- 復元船が展示されている。
- コリア・デル・リオの「ハポン」姓の起源についてのページ (スペイン語) - ウェイバックマシン(2009年12月16日アーカイブ分)
- “特集「潮路はるかに 慶長遺欧使節船出帆400年」”. 河北新報社. 2013年8月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年6月17日閲覧。