恵本裕子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。帯ベスト (会話 | 投稿記録) による 2016年1月18日 (月) 08:53個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

獲得メダル
日本の旗 日本
柔道
オリンピック
1996 アトランタ 61kg級
アジア大会
1994 広島 61kg級
アジア柔道選手権
1993 マカオ 61kg級
1995 ニューデリー 61kg級

恵本 裕子(えもと ゆうこ、1972年12月23日 - )は、日本の女性柔道家。段位は四段。身長163cm。 北海道旭川市出身。1996年アトランタオリンピック柔道女子61kg級金メダリスト[1][2]。2016年現在、三井住友海上柔道部の特別コーチを務めている[3]

経歴

旭川市立明星中学校から旭川南高校に入学後、「なにか青春したい」と、テニス部に入部。球拾い中、あまりにも蚊に刺された事で嫌になり一日で辞めた。担任の先生がラグビー部の顧問で、ホームルームでラグビー部の勧誘をした際、かつてテレビで見たスクールウォーズのファンだったため、軽い気持ちで女子も入部できるか尋ねたところ「ラグビーは顔に傷がつくから女子には勧められない」と断られた。「そんなに格闘技がやりたいなら柔道をやってみないか」と誘われたことがきっかけで柔道を始めたと言われているが[1][4]本当の理由は、同じクラスに48キロ級の女子柔道部員がおり、「柔道をやるとダイエットになる」と誘われ柔道部の門を叩く。高校一年の秋だった。 当時の旭川南柔道部の女子選手は、全員が高校入学時から始める素人軍団であった。柔道部顧問の中野政美先生は、「世界に勝つには左組みが有利だ」とし、女子は全員、左組みにするよう指導した。[要出典]

入部一週間後には、市の新人戦に56キロ級で出場。受け身も教えてもらわない状態で、大内刈のみで優勝した[1]。 その後、高校1年生では全道大会2位。高校2年生では、全道大会61キロ級で優勝して春の全国高校選手権では61キロ級でベスト8に入った。 高校3年生では全日本体重別選手権大会でベスト8になり、住友海上のさわやかホープ賞を受賞。 同年の宮城インターハイの団体戦ではチームメイトの斉藤穂子などとともに活躍して3位になった。さらに、柔道を始めて僅か1年半で全日本ジュニア強化選手に選ばれた[1]

なお旭川南高柔道部は、後に世界で活躍する上野雅恵上野順恵佐藤愛子の出身校でもある[5]

進路を決める際には、本人は短大進学から警察官になることを希望していた。しかし、別の選手をスカウトする目的で道場にやってきた住友海上コーチの持田典子ソウルオリンピック61キロ級銅メダリスト)の目に留まって、勧誘を受けることとなった。1991年に住友海上女子柔道部に入部すると、急激に力を付け始めた[6][7]

1993年の選抜体重別61キロ級では決勝で埼玉大学4年の北爪弘子に1-2の判定で惜敗したが、2位になったことで世界選手権の補欠になり、全日本強化選手A指定にもなった[1]

1994年には選抜体重別の決勝であさひ銀行の北爪に2-1の判定で辛勝して初優勝を飾った[1]広島アジア大会では決勝で韓国の鄭成淑体落で技ありを取られて2位にとどまった[8]

1995年のフランス国際では後にオリンピックの決勝で対戦する世界チャンピオンであるベルギーのジェラ・バンデカバイエ送足払で崩すなどして判定勝ちを収めたものの、その後敗れて5位に終わった[9]。選抜体重別では2連覇を果たして、幕張で開催された世界選手権代表になったが、初戦でチェコのミハエラ・ヴェルネロヴァに開始僅か11秒の送足払で敗れた[8]。 その後、この大会で取れなかったオリンピック出場権を取るべくニューデリーで開催されたアジア選手権に出場して3位に入り、何とか出場権を確保した[8]

1996年のフランス国際では世界チャンピオンである鄭成淑に内股で敗れるなどして前年に続き5位に終わったが、コーチからは格下相手に確実に勝てる安定感は付いてきたとの評価を得た[10]

続く体重別では初戦で敗れるが、敗者復活戦を勝ち上がり3位になった。選考会議では「世界で戦えるのは恵本しかいない」と満場一致で、オリンピック代表選手に選ばれた。[要出典]。本人は「代表に選ばれて驚いています」とコメントしていた[11]。前年の幕張世界選手権では初戦僅か11秒で敗れたこともあって、柔道のオリンピック代表選手で最も期待されておらず、マスコミにもほとんど注目されることがなかった[8][12]

しかしながら、アトランタオリンピックにおいては、前回のバルセロナ五輪金メダリストであるフランスのカトリーヌ・フローリ、バルセロナ五輪銀メダリストであるイスラエルのヤエル・アラド、幕張世界選手権2位のオランダのジェニー・ハルといった有力選手を次々と破る快進撃を見せ、決勝においても1993年の世界チャンピオンであるジェラ・バンデカバイエを内股一本で破り、見事金メダルを獲得した[13]。なお、今大会は強豪との対戦が続いたものの、苦手意識を持っていた鄭成淑が別ブロックになったことで、優勝するならこの組み合わせが良いのではないかと思っていたという。実際、準決勝でハルと対戦していた時には同時に別の畳でバンデカバイエと鄭成淑が対戦していたが、「『韓国が負けてベルギーが決勝に上がってくるな』っていうことが一瞬でわかったんです」と語っている[8]

高校1年の秋から柔道を始めて、アトランタ五輪で優勝するも柔道経験年数はわずか8年。 日本の女子柔道選手の金メダリストの中で8年は最短となった。 また女子柔道がアトランタオリンピックでの正式種目になり、はじめての金メダルでもあった。 試合後のインタビューでは「コーチには、オリンピックには魔物がいると聞いていましたが、わたしには神様がいました。」と応えた[8][14]。さらに、「オリンピックの試合が始まるとゴールにたどり着いたような気分で、無欲で戦えた」「今、振り返ってみると、金メダルを獲ったことがすごいんじゃない。金メダルを目指して稽古している姿がすごかったんだって思います」ともコメントした[6]。 また、記者会見ではハンガリーの記者から、「YUKO(裕子)という名は柔道の有効ポイントにちなんで付けられた名前か」という頓珍漢な質問をされたが、「優しい子供になるように親がつけました。柔道とは関係ありません」と答えている[4]。 さらに、「もし世界選手権でのどん底を味わっていなければ、絶対にオリンピックでは勝てなかった」と五輪後の凱旋インタビューで応えている[要出典]

常に一本を取る柔道を目指し、内股を中心にした立ち技主体な攻撃柔道である。 「判定で負けるのも一本で負けるのも負けは負けだ」とし、白黒はっきりさせる試合を信条としていた。 そのかたわら、対戦相手には緻密な研究やイメージトレーニングをもする選手であった[要出典]

1998年8月、強化選手を辞退することによって第一線から退いた[15]

1999年には世界選手権65kg級で優勝したことのある韓国の金赫と結婚した[16]

主な戦績

(出典[8]JudoInside.com)。

受賞

  • 1996年度JOCスポーツ賞最優秀賞
  • 1996年度北海道 道民栄誉賞
  • 1996年度東京都 都民栄誉賞

脚注

  1. ^ a b c d e f 「ZOOM IN 素顔 恵本裕子」近代柔道 ベースボールマガジン社、1994年9月号、92-93頁
  2. ^ アトランタオリンピック1996 金メダリストインタビュー 恵本裕子選手
  3. ^ 選手・監督のプロフィール : 恵本 裕子 | 三井住友海上
  4. ^ a b [金1号 恵本裕子] サンケイスポーツ 1996年7月25日
  5. ^ 北海道旭川南高校 柔道チャンネル
  6. ^ a b 金メダリストインタビュー 恵本裕子選手 女子柔道 61キロ級 JOC
  7. ^ スポーツ伝説 【女子柔道 恵本裕子選手】 ニッポン放送
  8. ^ a b c d e f g 「CLOSE-UP 恵本裕子」近代柔道 ベースボールマガジン社、1996年10月号 61-67頁
  9. ^ 「1995年フランス国際柔道大会」近代柔道 ベースボールマガジン社、19955年4月号 57項
  10. ^ 「1996年フランス国際柔道大会」近代柔道 ベースボールマガジン社、1996年4月号 17項
  11. ^ 「第19回全日本女子柔道選抜体重別選手権大会」近代柔道 ベースボールマガジン社、1996年5月号 43-45頁
  12. ^ 【第91号】恵本裕子-伏兵が女子柔道初の金メダル サンケイスポーツ
  13. ^ 「第26回オリンピックアトランタ大会柔道競技」近代柔道 ベースボールマガジン社、1996年9月号、12頁ー15項
  14. ^ 恵本裕子 魔物じゃなくて神様がいた スポーツニッポン 2012年2月11日
  15. ^ 「感動大賞」近代柔道 ベースボールマガジン社、1998年10月号 66項
  16. ^ <アトランタ・金>柔道 恵本裕子

関連記事

外部リンク