徳山則秀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。EmausBot (会話 | 投稿記録) による 2013年4月4日 (木) 18:17個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (ボット: 言語間リンク 1 件をウィキデータ上の (d:Q7813779 に転記))であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

徳山 則秀(とくのやま・のりひで、天文13年(1544年) - 慶長11年11月22日1606年12月21日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将江戸幕府旗本。通称は孫三郎、五兵衛。二位法印秀現。父は少左衛門(貞孝)。

生涯

天文13年(1544年)、徳山貞孝の子として美濃国で生まれる。徳山氏は土岐氏の庶流で、美濃国大野郡徳山の土豪であった。

はじめ斎藤氏に属したと思われ、後に織田信長に臣従し、柴田勝家の与力となる。一向一揆など北陸地方の平定に尽力し、加賀国松任城4万石の主となる。信長死後も勝家に従い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは佐久間盛政隊の先鋒として奮戦した。戦後、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に赦され、丹羽長秀に仕えた。その後、主君・丹羽長重が減封された時に召し放たれて前田利家に仕え、天正13年(1585年)に末森城の戦いに従軍して佐々成政と戦った。早くから徳川家康に通じ、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い直前に前田家を出奔し、家康に仕えて5,000石を領した。

慶長11年(1606年)、死去。子孫は旗本として続いた。

関連項目