御霊神社 (鎌倉市)

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御霊神社

権五郎神社社殿

地図
所在地 神奈川県鎌倉市坂ノ下
位置 北緯35度18分40.0秒 東経139度31分58.0秒 / 北緯35.311111度 東経139.532778度 / 35.311111; 139.532778 (御霊神社 (鎌倉市))座標: 北緯35度18分40.0秒 東経139度31分58.0秒 / 北緯35.311111度 東経139.532778度 / 35.311111; 139.532778 (御霊神社 (鎌倉市))
主祭神 鎌倉権五郎景政
社格 村社
創建 不明(平安時代後期と推定)
別名 (鎌倉)権五郎神社
札所等 鎌倉江の島七福神(福禄寿)
例祭 9月18日(本文参照
主な神事 7月(本文参照
地図
御霊神社の位置(神奈川県内)
御霊神社
御霊神社
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御霊神社(ごりょうじんじゃ)は神奈川県鎌倉市にある神社旧社格は村社。鎌倉市にはこの名前をもつ神社が2か所あるが、本項では鎌倉市坂ノ下にある、通称(鎌倉)権五郎神社((かまくら)ごんごろうじんじゃ)として知られている神社について述べる。

由緒[編集]

権五郎神社の創建年代は詳らかではないが、御霊信仰の広がりと鎌倉氏による地方開発の展開を考慮すると、平安時代後期であると推定することができる。もとは坂東平氏鎌倉党の五家、鎌倉氏梶原氏・村岡氏・長尾氏大庭氏の5氏の霊を祀った神社であったとされ、五霊から転じて御霊神社と通称されるようになった。後に、鎌倉権五郎景政の一柱のみに祭神は集約され、祭神の名から権五郎神社と呼ばれた。

鎌倉景政は、平安時代後期の坂東平氏の一族であり、鎌倉・梶原・村岡・長尾・大庭の5氏とともに鎌倉武士団を率い、現在の湘南地方一帯の地方開発に従事した。景政はまた、その武勇をもって知られ、16歳の時、源義家の陣営に連なって後三年の役1083年-1087年)に従軍して活躍した際のエピソードがよく知られている。『奥州後三年記』の伝えるところによれば、景政は左目を敵に射られながらも屈することなく、射手を倒し帰還した。左目に突き刺さった矢を抜こうと、一人の武士が景政の顔に足をかけたところ、景政はその非礼を叱責したと言う。かかる伝承から、志の成就(学業成就、必勝招来)の神徳があるとされる。また、林羅山の考定によれば眼病平癒にも効験があるとされる(『本朝神社考』)。

境内[編集]

境内社[編集]

タブノキ[編集]

社務所の前にそびえるタブノキは、樹高20m、推定樹齢350年に達し、冠状に広がった樹枝が見事である。鎌倉市指定天然記念物、および神奈川県選定「かながわの名木100選」(1984年12月選定)。

祭事[編集]

  • 1月1日 元旦祭
  • 7月25日に近い日曜日 石上神社例祭 — 御供流し神事(ごくながししんじ)と呼ばれる。海神の霊を鎮め、海難の犠牲者の霊を慰めるために御供(神前に供えた赤飯)を献げる。例祭当日に先立つ7月20日に神幸祭を執り行う。権五郎神社の前浜(現在の由比ガ浜)の海中に御供を捧持した若者たちが泳ぎ出て、船に乗せた神輿を拝してから、海中に御供を流す。
  • 9月17日 敬老祭
  • 9月17日 例祭 — 宵宮祭 (よいみやさい)
  • 9月18日 例祭 — 面掛行列神奈川県指定無形民俗文化財)、鎌倉神楽、神幸祭

交通機関[編集]

同系列の神社[編集]

神奈川県内には当神社と同系列の神社が多数存在する。詳細については各項目参照。

その他[編集]

御霊神社の御朱印

桑田佳祐サザンオールスターズ)はこの神社を含む鎌倉周辺を散策コースとして気に入っており、自身の楽曲の歌詞のモチーフになることもある。『週刊文春』2014年9月18日号でのインタビュー特集『僕はポップスとニッポンを愛す』でこの神社を訪れ、後述した力餅屋の「権五郎力餅」を食べている写真が掲載された[1]

脚注[編集]

出典[編集]

  1. ^ 週刊文春』2014年9月18日号でのインタビュー特集『僕はポップスとニッポンを愛す』(p18 - 19)

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]