御輔長道

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御輔 長道(みふ の ながみち、延暦18年(799年) - 貞観2年9月26日860年10月14日))は、平安時代前期の貴族・明法家。名は永道とも記される。氏姓は安倍宿禰のち御輔朝臣。官位従五位下勘解由次官

経歴

御輔氏(御輔朝臣)は安倍氏の一族。承和6年(839年)安倍真雄らが御輔朝臣姓を賜与された際、長道も同時に改姓したと考えられる。

長道は左京出身。当初明経生となるがのちに律令を学び、別勅生と称して得業生と同様に朝廷から衣食が支給された。のちに奉試に及第し、承和7年(840年明法博士となる。承和13年(846年善愷訴訟事件に際しては、法隆寺僧侶善愷の訴状を受理した弁官罪状について意見を求められ、右大判事・讃岐永直らとともに公罪とする断文を提出している。

仁寿3年(853年従五位下斉衡2年(855年)大判事、天安2年(858年)従五位下・勘解由次官に叙任された。貞観2年(860年)9月26日卒去。享年62。最終官位は勘解由次官従五位下兼行明法博士。

参考文献