後漢書

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『後漢書』

後漢書』(ごかんじょ)は、中国後漢朝について書かれた歴史書で、二十四史の一つ。紀伝体の体裁を取り、本紀10巻・列伝80巻・志30巻の全120巻からなる。「本紀」「列伝」の編纂者は南朝宋范曄で、「志」の編纂者は西晋司馬彪

成立までの経緯[編集]

『後漢書』は、范曄が、先行史書を題材として編纂したものである。後漢の歴史を叙述しようという試みは、後漢王朝在世中から行われていた。まず、明帝のときに班固蘭台令史となり、陳宗・尹敏らとともに世祖(光武帝)本紀や列伝・載記20篇を作った[1]。その後、史書撰述の場は蘭台から東観へと移り、安帝の頃に劉珍李尤らが、桓帝の頃に伏無忌・黄景・朱穆らが、霊帝献帝の頃に蔡邕盧植楊彪らが執筆に当たった。ここで編纂された後漢の歴史書は『東観漢記』と呼ばれる[2]

『東観漢記』は『史記』『漢書』とともに「三史」と呼ばれて世に広まったが、同時代の編纂であるため記述に制約がある点、後漢歴代の多数の官吏が編纂にあたったため、一貫性に欠ける点に問題を抱えていた。そこで、徐々に民間で単独の史家の手になる『後漢書』の執筆が試みられるようになった[3]。以下が代表例である[4]

  • 『後漢書』(謝承
  • 『後漢記』(呉の薛瑩
  • 『続漢書』(西晋の司馬彪
  • 『後漢書』(西晋の華嶠、『漢後書』とも)
  • 『後漢書』(東晋の謝沈
  • 『後漢南記』(晋の張瑩、『漢南紀』とも)
  • 『後漢書』(東晋の袁山松

以上はいずれも紀伝体であり、編年体を取るものとしては、東晋の張璠の『後漢紀』、袁宏の『後漢紀』があり、特に後者は古くから范曄『後漢書』と並び称され、完全な形で現存する[5]

范曄は、学問に秀でた范氏一族の伝統を受け継ぎ、幼い頃から学問に長じ、経書・史書に通じ、文章・音楽が得意であった。432年元嘉9年)に左遷されて宣城郡太守になった際、『後漢書』の執筆を思い立った[1]。范曄は、『東観漢記』と『後漢紀』を始めとする以上の先行資料を利用しつつ、完備した後漢の歴史書を執筆しようと試みた。先行資料の取捨選択と、范曄の文章である序・論・賛の部分に范曄『後漢書』の特色が現れている[6]

范曄が編纂したのは本紀と列伝であり、志を編纂する意思はあったが、皇帝への反逆に連座して処刑されたため、著作物として完成できなかった。後に、南朝梁劉昭は、范曄の『後漢書』に、西晋司馬彪が著した『続漢書』の志の部分を併合し、全体に注釈を付けた。ここで、現在の范曄の本紀・列伝と司馬彪の志からなる『後漢書』が成立した[7]

なお、後漢末期の事績についての記述は『三国志』と重複する部分も多いが、成立年代は陳寿『三国志』が、一世紀半先行する。

構成と本文の概要[編集]

『後漢書』は後漢王朝の栄光と衰退を綴ったものであり、文章は名文として名高い。構成についても先行する史書と比べても著しい特色があるとされる。 以下、内容を簡単に説明しながら後漢書の構成について記す。後漢書は時系列に沿って書かれているので、初期・中期・末期に分けて本紀・列伝のそれぞれの巻の概要を説明し、「列女伝」のように後漢王朝一代の女性を網羅したものは末尾にまとめた。
[8]

後漢初期(光武帝・明帝・章帝)の時代[編集]

まず後漢書の冒頭を飾るのは「光武皇帝紀第一」、すなわち光武帝劉秀の活躍である。十八史略にも採られた昆陽の戦い の描写は精彩を放っている。范曄は光武帝とそれを支えた雲台二十八将及び馬援[9]について列伝の前半でその素晴らしさを綴っている。文選に名文として採用された「光武紀賛」「二十八将伝論」は光武帝と雲台二十八将を称える文章である。
この後漢初期は三代に続いて名君が続き、平和な時代であった。この部分は後漢書の中でも特に有名で、現代日本でも読売新聞の連載小説だった宮城谷昌光の『草原の風』[10]になっていたり、ライトノベル化もされている。[11]朱熹は『東漢総論』において「但だ党錮の諸賢が死に趨りても避けざるは、光武・明・章の烈が為なるを知る」と論じ、後漢中期に衰えゆく王朝を支えた士大夫は後漢初期の名君たちの時代の遺産であると論じている。

後漢中期(外戚・宦官と名士の争い)の時代[編集]

しかし、後漢王朝は中頃から貴族政治の弊害が出て、後世の史家・司馬光から「孝和(和帝)以降に及びて貴戚(外戚)・権を擅(ほしいまま)にし、嬖倖(宦官)事を用(おこな)い、賞罰章(あきらか)なる無く、賄賂公行し、賢愚渾殽し、是非顛倒す。乱れたりと謂うべし。」(『資治通鑑』)[12]と評される暗黒時代が訪れる。司馬光がいうように宦官・外戚が政治を牛耳って賄賂や私利私欲の追求に明け暮れた悪政の時代であった。本紀では巻4の「孝和孝殤帝紀」から巻6の「孝順孝沖孝質帝紀」がこの部分に当たり、列伝では巻45「袁安伝」以降がここに当たる。

范曄はこの時代の記述では外戚の暴政に抵抗した袁安、宦官政治を弾劾して疎んぜられた楊震ら貴族(名士)の正義漢を多く取り上げている。范曄はこの部分では後漢名士を褒め称え、名士の儒教に基づく激しい政治批判や反政府運動(党錮の禁への命がけの反対運動)を著しく重視した記載をしている。[13]後漢書の全訳を行った吉川忠夫も「仁義を重んじ、守節をよしとする直線的な行為、烈しい行為への傾倒」への激しい称賛が見られるとしている。[14]また、党錮の禁に抵触した人物を「党錮伝」でまとめている。名士の政治批判は理想論に過ぎないことも多く、実効性を欠くものも多かった。例えば名士の一人宋梟は涼州の民衆反乱の平定を命じられた時に「民衆反乱が起こるのは道徳の乱れからだ。国民全員に『孝経』を読ませて親孝行を奨励すべき」と述べたほどであった。[15]これは後世の人からも「なまぬるすぎる」「迂遠ではないか」と批判された部分[16]だが、范曄はそのまま掲載している。 歴代諸家の評では、この部分は全く評価しない人と絶賛する人に分かれる。例えば江戸時代の儒学者・中井履軒は著書『後漢書雕題』において「後漢には本当の儒者はいなかった。政治に寄与することもなく、文章をもてあそんだだけだ。少しは役に立つこともしたかもしれないが、大したことはできなかった。」と酷評している。[17]ところが同じ江戸時代の儒学者でも吉田松陰は感激して彼らに詩を捧げており、[18]現代中国の毛沢東は「まあ良く書けており、読む価値がある」と評して特に黄瓊伝・李固伝を褒めている。[19]

後漢末期の混乱の時代[編集]

後漢中期の外戚・宦官の弊害は是正されないまま後漢はいよいよ末期症状を呈するに至る。

本紀では巻7「孝桓帝紀」から巻9「孝献帝紀」、列伝では巻68「郭符許列伝」以降が末期の人物を描く部分である。いわゆる「東夷伝」の「桓霊の間」と言われる乱世である。倭にも「倭国大乱」と言われる混乱が起きていたが、この頃は中国本土でも黄巾の乱のような民衆反乱が頻発している。後に蜀の劉備諸葛亮がこの時代を回想すると、嘆息し痛惜しないことはなかったという時代であった。(出師表による)三国志演義は陳寿『三国志』の他、范曄『後漢書』の該当部分が元にされているとされる。

范曄『後漢書』は民衆反乱により後漢王朝が衰退し、董卓呂布のような群雄が争った後、献帝を奉じた上で、帝位簒奪を図る曹操が献帝を迫害する描写で終わる。范曄は人間の力を信じ、「これは運命だから仕方がない」というような「あきらめ論」を嫌ったと思われる。[13]だから、曹操に対する後漢高官の抵抗が描かれるが、結局それは実らず、後漢は曹操の子・曹丕により簒奪されて終わる。 この部分では、孔融のように事あるごとに曹操を批判する人物が描かれる。曹操は孔融を憎み、罪に陥れて孔融の幼い子供二人共々処刑するという挙に出た。范曄は孔融を称賛し、「曹操が後漢を乗っ取れなかったのは孔融のような忠臣がいたからだ」としている。[20]

後漢最後の皇帝・献帝の伝記「孝献帝紀」は范曄の絶望を表す以下のような言葉で終わる。

「天の漢の徳に厭きることや久し。」(天は漢王朝を見放してしまった)[13]

後漢書本紀の最後は皇后紀下である。この巻は「孝献帝紀」より更にひときわ悲痛を極める。董卓の部下李儒に毒殺された十八歳の少年皇帝・少帝弁の伝記もここに入っている。毒殺される前の最後の酒宴で少帝弁と妻の唐姫が悲しんで詠んだ歌は、藤田至善が「後漢王朝の挽歌」と評した。[21]藤田が「漢王朝の悲運と、その夫を守り通そうとした一人の悲しい女性」[22]と称した献帝の献穆曹皇后は、後漢王朝の禅譲を強要した兄・曹丕に抵抗し、最後まで玉璽を渡そうとせず、「わたしたちには天運がなかった!(天不祚爾)」と号泣した。左右の人々はみな痛ましさに正視することができなかったという。このように後漢書は悲劇的な結末となっている。

通時代的な列伝(雑伝)[編集]

范曄は時系列に沿った上記の本紀・列伝の他、後漢一代を全て網羅した列伝も立てている。これは「雑伝」と呼ばれる。
これは史記の「滑稽伝」「游俠伝」「貨殖伝」などにならったものだが、司馬遷と范曄の考え方が全く違うために列伝の立て方が異なる。その一つが正史で初めての女性の列伝「列女伝」である。列女伝に登場するのも貴族の女性である。逆に司馬遷史記で立てた庶民の活躍を描く「貨殖伝」「游俠伝」などは范曄は立てていない。これは貴族社会を反映したものである。[23]多くの女性が正義を貫いて死んでいく有様が描かれる。当時の儒教では許されない再婚をした蔡琰を列伝に載せて称賛したことは、後世、宋の蘇洵から「蔡琰のような貞操を欠いた女を正史に載せるべきではない」と批判されているが、現代としてはむしろ范曄のほうが評価されるのではないか、と本田済はしている。[13]

この他、後漢末期の戦乱を避けた人々を描く「逸民伝」「独行伝」、文学者たちをまとめた「文苑伝」なども作られている。

逆に范曄が重んじた貴族主義の立場から、庶民の歴史は捨て去られた。このため司馬遷が作っていた庶民の活躍を描く「滑稽伝」「游俠伝」「貨殖伝」などの列伝は作られなかった。范曄はこれらの列伝の削除について何も語っていない。金の王若虚は范曄の意図を推察し、「史書は勧戒を宗とし、必要性があることだけを記載すれば良い。滑稽伝や游俠伝は勧戒の意味がなく、貨殖伝に書かれる市井の卑しい人のわざなど、史書に記載する必要がないからだ」としている。[13]

注釈と日本語訳[編集]

後漢書
南宋紹興年間の版本。李賢注。

范曄『後漢書』はすぐに普及し、南北朝において広く読まれていた。南朝梁の劉昭注など、注釈にも様々なものが生まれていた[24]。ただし、劉昭の注は当時、劉知幾から「范曄が捨て去ったカスばかりを拾い、どうでもいいことばかりを注釈している」と酷評されるなど甚だ評判が悪かった。劉昭は三国志の裴松之注を真似て後漢書に載っていない話を積極的に注釈としたが、唐代の人からすればこういう方向は軽蔑されるもので、新たな注が必要とされていた。このため北魏劉芳による音注や、隋の蕭該『范漢音』など、音訓の注は劉昭注に対抗して多く作られていた。この中で蕭該『范漢音』は評判が良かったという。[25]

高宗のとき、章懐太子李賢が、学者を集めて范曄『後漢書』の注釈を作成した。これを李賢注(もしくは章懐注)という。これは范曄の本紀・列伝部分に附された注釈であり、蕭該『范漢音』や顔師古の漢書注などに基づいた『後漢書』の語句に対する解釈と、『後漢書』に書かれていない史実を補う注釈の二つを兼ね備えたものであった[26]。李賢注は皇太子が自ら行った注ということもあり権威を得、李賢注の成立によって、『後漢書』は本紀・列伝は李賢注、志は劉昭注を附した形が一般的となった。ただし、李賢注は顔師古注などを引用する時に取り違えている所もあるとされる。[27]

清代に入り考証学が発展すると、恵棟の『後漢書補注』、侯康の『後漢書補注続』などが作られ、これらを包摂して王先謙の『後漢書集解』が作られた。

後漢書の日本語訳は、古くは江戸時代の和刻本で訓点を付したものがあり、汲古書院から1992年に復刻されている。これは元の大徳年間に刊行されたものを日本で翻刻したものである。

戦後に入ってからは、本田済藤田至善による部分訳はあったが、完訳はなかった。本田の訳は『漢書・後漢書・三国志列伝選』として平凡社から出ており、当初は中国古典文学大系に入っていたが、後に「中国の古典シリーズ」として単独でも発売された。

後漢書全文の完訳がなされたのは2001年(平成13年)から2007年(平成19年)にかけ、吉川忠夫による原文・読み下し・訓注が岩波書店(全10巻と別巻〈人名索引・地名索引〉)で刊行されてからである(岩波版は范曄による著述ではない「志」は除外)。ただし、これには現代日本語訳はなかった。

完全な日本語訳は、2001年(平成13年)から2016年(平成28年)にかけ、渡邉義浩を代表に原文・読み下し・訓注・現代語訳が、汲古書院(全18巻と別冊)で刊行されている。

評価[編集]

范曄は『後漢書』を高い自負を持って著し、自らの遺書である『諸甥姪に与うる書』題名の訓読は[28] に於いて「私の後漢書は漢書より博覧性は低いが内容は勝っている。特に序・論は賈誼よりも優れており、賛は私の文の中でも傑作で一字の無駄もない。昔からの史書と比較しても構成が雄大で意味が深長なことはわたしの後漢書以上のものは存在しない」と論述した。[29]この范曄の大言壮語は「漢書より上だ」ということを除き、後世の史家による判定で、定まった評価を得ている。一例では、唐の劉知幾は『史通』で范曄の『後漢書』を高く評価している。

後世には、八家後漢書がほぼ散逸し、袁宏『後漢紀』は残ったが、章懐太子は、これに対して范曄の『後漢書』を高く評価したものといえる。

後漢末についての記述は、蜀漢に立場の近い南朝で編纂されたため、西晋で編纂された先行する陳寿の『三国志』に比べて、曹操の悪事を強調した記述を採用する傾向にある。范曄の『後漢書』の曹操悪人説は、趙翼二十二史箚記で「范曄は陳寿が西晋朝をはばかって微妙な書き方をしている曹操の悪事を暴いた真実の書である」と評価したことから有名になったが、現代では趙翼の主張や范曄の『後漢書』の史料編纂に疑問の声も投げかけられており、曹操の評価の回復が見られる[30]

版本について[編集]

范曄『後漢書』は版本ごとの異同・誤刻が非常に多く、張元済によれば4914箇所もあるという。これは、『史記』(異同約4900箇所)とほぼ同じであり、『漢書』(異同4449箇所)『三国志』(異同4605箇所)と比べても多い。誤刻の例を挙げると、『光武帝紀上下』のみでも有名な「中元二年、春正月。(中略)東夷の倭奴国王、使を遣わして奉献す」の箇所も「東夷倭奴国」と宋本(南宋紹興本)では誤刻している。
[31]

主要な版本は以下の通り。

  • 南宋紹興本。日本国国宝の黄善夫本(上杉本)とは異なる。百衲本で「宋本」としているのはこれのことである。
  • 南宋黄善夫本。上杉博物館所蔵。米沢藩家老直江兼続の旧蔵本で国宝に指定されている。黄善夫という学者が自分の書院で出版したもので善本とされる。[32]
  • 元の大徳年間刊行本。
  • 明の汲古閣本。善本とされる。
  • 清の武英殿版。いわゆる「殿版・殿本」。四庫全書所収本だが、汲古閣本を元に復刻した。弁韓を「下韓」と書くなど誤りが多い。これは張元済によると汲古閣本が「辯韓」を略して「弁韓」と書くべきところを「卞韓」と宛て字で表記し、武英殿版は「卞」の字を「下」に誤ってしまったものだという。[33]
  • 張元済百衲本。
  • 中華書局本。張元済百衲本を元にしてさらに校訂したもの。

全巻の目録[編集]

目録も版本により光武帝紀を上下に分けるか分けないかなど、異同があるが、中華書局版によって題目を示す。[34]

本紀[編集]

題名 人物
巻1上 (1/2) 光武帝紀上 光武帝
巻1下 (2/2) 光武帝紀下 光武帝
巻2 顕宗孝明帝紀 明帝
巻3 粛宗孝章帝紀 章帝
巻4 孝和孝殤帝紀 和帝殤帝
巻5 孝安帝紀 安帝
巻6 孝順孝沖孝質帝紀 順帝沖帝質帝
巻7 孝桓帝紀 桓帝
巻8 孝霊帝紀 霊帝
巻9 孝献帝紀 献帝
巻10上 (1/2) 皇后紀上 光武郭皇后光烈陰皇后明徳馬皇后賈貴人章徳竇皇后和帝陰皇后和熹鄧皇后
巻10下 (2/2) 皇后紀下 安思閻皇后順烈梁皇后・虞美人・陳夫人・孝崇匽皇后桓帝懿献梁皇后桓帝鄧皇后桓思竇皇后孝仁董皇后霊帝宋皇后霊思何皇后献帝伏皇后献穆曹皇后

列伝[編集]

題名 人物
巻11 劉玄劉盆子列伝 劉玄劉盆子
巻12 王劉張李彭盧列伝 王昌劉永龐萌張歩王閎李憲彭寵盧芳
巻13 隗囂公孫述列伝 隗囂公孫述
巻14 宗室四王三侯列伝 斉武王縯北海靖王興趙孝王良城陽恭王祉泗水王歙安成孝侯賜成武孝侯順順陽懐侯嘉
巻15 李王鄧来列伝 李通王常鄧晨来歙来歴
巻16 鄧寇列伝 鄧禹鄧訓鄧騭寇恂寇栄
巻17 馮岑賈列伝 馮異岑彭賈復
巻18 呉蓋陳臧列伝 呉漢蓋延陳俊臧宮
巻19 耿弇列伝 耿弇耿国耿秉耿夔耿恭
巻20 銚期王覇祭遵列伝 銚期王覇祭遵祭肜
巻21 任李萬邳劉耿列伝 任光任隗李忠萬脩邳彤劉植耿純
巻22 朱景王杜馬劉傅堅馬列伝 朱祜景丹王梁杜茂馬成劉隆傅俊堅鐔馬武
巻23 竇融列伝 竇融竇固竇憲竇章
巻24 馬援列伝 馬援馬廖馬防馬厳馬棱
巻25 卓魯魏劉列伝 卓茂魯恭魯丕魏覇劉寛
巻26 伏侯宋蔡馮趙牟韋列伝 伏湛伏隆侯覇宋弘宋漢蔡茂郭賀馮勤趙憙牟融韋彪韋義
巻27 宣張二王杜郭呉承鄭趙列伝 宣秉張湛王丹王良杜林郭丹呉良承宮鄭均趙典
巻28上 (1/2) 桓譚馮衍列伝 桓譚馮衍
巻28下 (2/2) 馮衍伝 馮衍・馮豹
巻29 申屠剛鮑永郅惲列伝 申屠剛鮑永鮑昱郅惲郅寿
巻30上 (1/2) 蘇竟楊厚列伝 蘇竟楊厚
巻30下 (2/2) 郎顗襄楷列伝 郎顗襄楷
巻31 郭杜孔張廉王蘇羊賈陸列伝 郭伋杜詩孔奮張堪廉范王堂蘇章蘇不韋羊続賈琮陸康
巻32 樊宏陰識列伝 樊宏樊儵樊準陰識陰興
巻33 朱馮虞鄭周列伝 朱浮馮魴虞延鄭弘周章
巻34 梁統列伝 梁統梁松梁竦梁商梁冀
巻35 張曹鄭列伝 張純張奮曹褒鄭玄
巻36 鄭范陳賈張列伝 鄭興鄭衆范升陳元賈逵張覇張楷張陵張玄
巻37 桓栄丁鴻列伝 桓栄桓郁桓焉桓典桓鸞桓曄桓彬丁鴻
巻38 張法滕馮度楊列伝 張宗法雄滕撫馮緄度尚楊琁
巻39 劉趙淳于江劉周趙列伝 劉平趙孝淳于恭江革劉般劉愷周磐蔡順趙咨
巻40上 (1/2) 班彪列伝 班彪班固
巻40下 (2/2) 班彪列伝 班固
巻41 第五鍾離宗宋寒列伝 第五倫鍾離意宋均宋意寒朗
巻42 光武十王列伝 劉彊劉輔劉康劉延劉焉劉英劉蒼劉荊劉衡劉京
巻43 朱楽何列伝 朱暉朱穆楽恢何敞
巻44 鄧張徐張胡列伝 鄧彪張禹徐防張敏胡広
巻45 袁張韓周列伝 袁安袁京袁敞袁閎張酺韓棱周栄周景
巻46 郭陳列伝 郭躬郭鎮陳寵陳忠
巻47 班梁列伝 班超班勇梁慬何熙
巻48 楊李翟応霍爰徐列伝 楊終李法翟酺応奉応劭霍諝爰延徐璆
巻49 王充王符仲長統列伝 王充王符仲長統
巻50 孝明八王列伝 劉建劉羨劉恭劉党劉衍劉暢劉昞劉長
巻51 李陳龐陳橋列伝 李恂陳禅龐参陳亀橋玄
巻52 崔駰列伝 崔駰崔瑗崔寔崔烈崔鈞
巻53 周黄徐姜申屠列伝 周燮黄憲徐稚姜肱申屠蟠
巻54 楊震列伝 楊震楊秉楊賜楊彪楊修
巻55 章帝八王伝 劉伉劉全劉慶劉寿劉開劉淑劉万歳劉勝
巻56 張王種陳列伝 張晧張綱王龔王暢种暠种岱种払种劭陳球
巻57 杜欒劉李劉謝列伝 杜根成翊世欒巴劉陶李雲劉瑜謝弼
巻58 虞傅蓋臧列伝 虞詡傅燮蓋勲臧洪
巻59 張衡列伝 張衡
巻60上 (1/2) 馬融列伝 馬融
巻60下 (2/2) 蔡邕列伝 蔡邕
巻61 左周黄列伝 左雄周挙周勰黄瓊黄琬
巻62 荀韓鍾陳列伝 荀淑荀爽荀悦韓韶鍾皓陳寔陳紀
巻63 李杜列伝 李固李燮杜喬
巻64 呉延史盧趙列伝 呉祐延篤史弼盧植趙岐
巻65 皇甫張段列伝 皇甫規張奐段熲
巻66 陳王列伝 陳蕃王允
巻67 党錮列伝 劉淑李膺杜密魏朗夏馥宗慈范滂尹勲蔡衍羊陟張倹岑晊陳翔苑康檀敷劉儒賈彪何顒
巻68 郭符許列伝 郭泰符融許劭
巻69 竇何列伝 竇武何進
巻70 鄭孔荀列伝 鄭泰孔融荀彧
巻71 皇甫嵩朱鑈列伝 皇甫嵩朱儁
巻72 董卓列伝 董卓
巻73 劉虞公孫瓚陶謙列伝 劉虞公孫瓚陶謙
巻74上 (1/2) 袁紹劉表列伝 袁紹
巻74下 (2/2) 袁紹劉表列伝 袁譚劉表
巻75 劉焉袁術呂布列伝 劉焉袁術呂布
巻76 循吏列伝 衛颯任延王景秦彭王渙許荊孟嘗第五訪劉矩劉寵仇覧童恢
巻77 酷吏列伝 董宣樊曄李章周紆黄昌陽球王吉
巻78 宦者列伝 鄭衆蔡倫孫程曹騰単超侯覧曹節呂強張譲
巻79上 (1/2) 儒林列伝 劉昆洼丹任安楊政張興戴憑魏満欧陽歙曹曾陳弇牟長宋登張馴尹敏周防孔僖楊倫
巻79下 (2/2) 儒林列伝 高詡包咸魏応伏恭任末景鸞薛漢杜撫楊仁趙曄張匡衛宏董鈞丁恭周澤周堪鍾興甄宇楼望程曾張玄李育何休服虔穎容謝該許慎蔡玄
巻80上 (1/2) 文苑列伝 杜篤王隆夏恭傅毅黄香劉毅李尤李勝蘇順劉珍葛龔王逸崔琦辺韶
巻80下 (2/2) 文苑列伝 張升趙壱劉梁劉楨辺譲酈炎侯瑾高彪張超禰衡
巻81 独行列伝 譙玄李業劉茂温序彭修索盧周嘉范式李善王忳張武陸続戴封李充繆肜陳重雷義范冉戴就張揖趙苞向栩諒輔劉翊王烈
巻82上 (1/2) 方術列伝 任文公郭憲許楊王喬謝夷吾楊由李南李郃段翳廖扶折像樊英
巻82下 (2/2) 方術列伝 唐檀公沙穆許曼趙彦樊志張単颺韓説董扶郭玉華陀徐登費長房薊子訓劉根左慈計子勲上成公解奴辜甘始・王真・王和平
巻83 逸民列伝 野王二老向長逢萌周党王覇厳光井丹梁鴻高鳳臺佟韓康矯慎戴良法真漢陰老父陳留老父龐徳公
巻84 列女伝 鮑宣妻・王覇妻・姜詩妻・周郁妻・曹世叔妻楽羊子妻・程文矩妻・孝女曹娥・許升妻・袁隗妻・龐淯母劉長卿妻・皇甫規妻・陰瑜妻・盛道妻・孝女叔先雄・董祀妻
巻85 東夷列伝 夫餘挹婁高句驪東沃沮三韓
巻86 南蛮西南夷列伝 南蛮・巴郡南郡蛮・板楯蛮夷・西南夷・西南夷・夜郎哀牢・邛都・莋都・冉駹・白馬氐
巻87 西羌伝 無弋爰剣滇良・東号子麻奴・湟中月氏胡
巻88 西域伝 拘彌・于窴・西夜・子合・徳若・條支安息大秦大月氏・高附・天竺・東離・栗弋・厳・奄蔡莎車疏勒焉耆・蒲類・移支・東且彌・車師
巻89 南匈奴列伝 南匈奴
巻90 烏桓鮮卑列伝 烏桓鮮卑

[編集]

題名 項目
巻91 律暦上
巻92 律暦中
巻93 律暦下
巻94 礼儀上
巻95 礼儀中
巻96 礼儀下
巻97 祭祀上
巻98 祭祀中
巻99 祭祀下
巻100 天文上
巻101 天文中
巻102 天文下
巻103 五行一
巻104 五行二
巻105 五行三
巻106 五行四
巻107 五行五
巻108 五行六
巻109 郡国一
巻110 郡国二
巻111 郡国三
巻112 郡国四
巻113 郡国五
巻114 百官一
巻115 百官二
巻116 百官三
巻117 百官四
巻118 百官五
巻119 輿服上
巻120 輿服下

大秦王安敦[編集]

西域伝の大秦国記事に桓帝延熹9年(166年) 日南から象牙タイマイなどをもった「大秦王安敦」の使者がきたと記述されている。この「大秦王安敦」はローマ帝国皇帝のマルクス・アウレリウス・アントニヌスとの説があるが、確かではない。

日本との関係[編集]

国会図書館デジタルコレクション
『後漢書』東夷伝の倭国を記した部分。寛永前期に日本で活字印刷された本。

日本への伝来[編集]

9世紀末の平安時代に存在した漢籍の情報を伝える藤原佐世日本国見在書目録』には、『後漢書』が記録されている[35]

後漢書九十二巻。宋の太子詹事范曄撰。麁本。
後漢書百三十巻。唐の李賢太子。但し志三十巻は梁の剡令劉昭の注と補。
范曄音訓三巻。陳の宗道先生臧兢なり。
范漢音三巻。蕭詠撰。 — 藤原佐世、日本国見在書目録

この頃には、遣唐使などを通して日本にも『後漢書』が将来していたことが分かる。

倭国について[編集]

『後漢書』東夷列伝の中に(後の日本)について記述があり、古代日本の史料になっている。この「倭条」(いわゆる「後漢書倭伝」)は、280年代成立とされる『三国志』の「魏書」東夷伝倭人条(いわゆる「魏志倭人伝」)を基にした記述とされている。

魏志倭人伝」にない記述として、建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 とあり、建武中元二年(57年)に倭奴国が朝貢したとされている。このとき光武帝が与えた金印(漢委奴国王印)が福岡県志賀島で出土している。また、安帝永初元年 倭国王帥升等 献生口百六十人 ともあり、永初元年(107年)に倭国王帥升 が人材(労働者か)を百六十人献上したとされている。これが史料に出てくる名前が分かる初めての倭人と言うことになるが、一文のみであり、詳しいことは分かっていない。また「魏志倭人伝」に年代の指定がない倭国大乱(魏志は「倭国乱」とする)についても桓帝霊帝の間(147年 - 189年)と、大まかではあるが年代の指定がある。

主な訳注書[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b 吉川 2010, p. 40.
  2. ^ 吉川 2010, p. 42.
  3. ^ 吉川 2010, p. 43-44.
  4. ^ 吉川 2010, p. 44-48.
  5. ^ 吉川 2010, p. 48.
  6. ^ 吉川 2010, p. 50.
  7. ^ 吉川 2010, p. 52.
  8. ^ 後漢書を三期間に分けて論じるのは司馬光の『資治通鑑』、朱熹の『東漢総論』(『朱子全書』所収)以来行われている。東漢總論(朱子全書、『古今図書集成』第379卷より)。現在の歴史学(狩野直禎『後漢政治史の研究』京都大学学術出版会、1994)では「後漢初期」「後漢中期」「後漢末期(或いは後漢末)」の3つの名称が用いられるため、それに従った。ただ朱熹と狩野直禎の時代区分は小異がある。中期の期間を司馬光・朱熹は和帝以降とするが、狩野は順帝以降とする。今は范曄の原意をよく受け継いでいる司馬光・朱熹に従う。
  9. ^ 馬援は功績から言って当然二十八将に入っておかしくはないが、娘が明帝の皇后になったために二十八将から外されている。
  10. ^ 宮城谷昌光『草原の風』中公文庫
  11. ^ 称好軒梅庵 (著), 布施龍太 (イラスト) 『光武大帝伝』宙出版、2020
  12. ^ 書き下しは安岡正篤『三国志と人間学』福村出版1987の第三講P50に依拠した。
  13. ^ a b c d e 本田1968
  14. ^ 吉川2010
  15. ^ 巻58傅燮伝に「梟は寇叛多きを患え、勳に曰いて「涼州は学術寡く,故に屢(しばしば)反暴を致す。今、多く孝經を写さしめんと欲し,家家にこれを習わしめれば、或いは人をして義を知らしめん。」と。とある。
  16. ^ 現代の中国学者からも酷評されており、高島俊男『三国志きらめく群像』ちくま文庫は「迂儒(腐れ儒者)の見本のような人」としている。安岡1987でも重病人に病気予防を説くようなものとしている。
  17. ^ この部分は湯浅吉信「『後漢書』「儒林伝」と『史記』「儒林伝」―直言の系譜―」人文学論集 = The humanities : 国際フォーラム / 大阪公立大学人文学会 編 35:2017に依拠した。
  18. ^ 安岡1987
  19. ^ 顧頡剛口述『中国史学入門』研文出版、1987、P27
  20. ^ 本田1968。笵曄「後漢書」では、曹操が献帝の近侍の者をしばしば処刑したことなど、曹操に対する批判が多い。
  21. ^ 藤田至善『後漢書』明徳出版社,1970,P25
  22. ^ 藤田至善『後漢書』明徳出版社,1970,P27
  23. ^ 本田済『漢書・後漢書・三国志列伝選』平凡社・中国古典文学大系1968の解説
  24. ^ 吉川 2010, p. 67-69.
  25. ^ 劉昭注や蕭該『范漢音』に対する当時の人の評価は、渡邉義浩・池田雅典・洲脇武志「『後漢書』李賢注に引く『前書音義』について」,大東文化大学紀要『人文科学』9 284-268, 2004-03-31,大東文化大学人文科学研究所によった。
  26. ^ 吉川 2010, p. 70.
  27. ^ 渡邉ら2004
  28. ^ 湯浅吉信「『後漢書』「儒林伝」と『史記』「儒林伝」―直言の系譜―」人文学論集 = The humanities : 国際フォーラム / 大阪公立大学人文学会 編 35:2017に依拠した。なお、テキストにより「獄中與諸甥侄書」(獄の中にて諸甥侄に与うる書)となっているものもある。
  29. ^ 訳文は『漢書・後漢書・三国志列伝選』平凡社・中国古典文学大系本田済解説によった。ただし要約している。
  30. ^ 中村愿『三国志曹操伝』および『三国志逍遥』がこの説を述べている。中村は、范曄の『後漢書』が、裴松之注を切り貼りして曹操の悪事を創作した可能性を示唆している。ただしこの説は余り受け入れられていない。
  31. ^ 張、『百衲本後漢書校勘記』商務印書館、1999 P16。元本以降は修正されているという。
  32. ^ 朝日新聞社の『週刊朝日百科 日本の国宝050【国所蔵/国立歴史民俗博物館・東京芸術大学・東北大学・京都大学】』1998。渡邉義浩は黄善夫本に基づいて諸本を校訂している。汲古書院や早稲田文庫の訳本はこれによっている。
  33. ^ 張1999、p13
  34. ^ 張1999。例えば武英殿版では光武帝紀を上下に分けないので、本紀十巻としているという。
  35. ^ 吉川 2010, p. 77-78.
  36. ^ 李賢注・志・劉昭注まで訳。訳者の研究に『中国における正史の形成と儒教』(早稲田選書 2021)。大著『「古典中國」における史學と儒教』(汲古書院 2022)。

参考文献[編集]

  • 吉川忠夫「范曄と『後漢書』」『読書雑志 : 中国の史書と宗教をめぐる十二章』岩波書店、2010年。ISBN 9784000241496 
  • 張元済『百衲本後漢書校勘記』商務印書館、1999
  • 陳夢雷:編『古今図書集成』第379巻後漢書部
  • 本田済『漢書・後漢書・三国志列伝選』平凡社・中国古典文学大系1968
  • 藤田至善『後漢書』明徳出版社,1970
  • 顧頡剛口述『中国史学入門』研文出版、1987
  • 安岡正篤『三国志と人間学』福村出版1987
  • 『週刊朝日百科 日本の国宝050【国所蔵/国立歴史民俗博物館・東京芸術大学・東北大学・京都大学】』1998
  • 高島俊男『三国志きらめく群像』ちくま文庫2001
  • 渡邉義浩・池田雅典・洲脇武志「『後漢書』李賢注に引く『前書音義』について」,大東文化大学紀要『人文科学』9 284-268, 2004-03-31,大東文化大学人文科学研究所

関連項目[編集]

外部リンク[編集]