後土御門天皇

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後土御門天皇

元号 寛正
文正
応仁
文明
長享
延徳
明応
時代 室町時代戦国時代
先代 後花園天皇
次代 後柏原天皇

誕生 1442年7月3日
崩御 1500年10月21日
陵所 深草北陵
般舟院陵
父親 後花園天皇
母親 大炊御門信子
典侍 庭田朝子
勧修寺房子
子女 勝仁親王(後柏原天皇
尊敦親王
応善女王
仁尊法親王
今若宮
大慈光院宮
知円女王
理秀女王
皇居 京都御所
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後土御門天皇(ごつちみかどてんのう、嘉吉2年5月25日1442年7月3日) - 明応9年9月28日1500年10月21日))は、室町時代の第103代天皇(在位寛正5年7月19日1464年8月21日) - 明応9年9月28日1500年10月21日))。成仁(ふさひと)。

系譜

後花園天皇の第一皇子。生母は、藤原孝長の女で大炊御門信宗の養女の大炊御門信子(嘉楽門院)。

  • 典侍:庭田朝子(1437-1492) - 庭田重賢
  • 典侍:勧修寺房子(阿茶局) - 勧修寺教秀
    • 第一皇女(大慈光院宮・岡殿)(?-?)
    • 皇女(1485、即日没)
    • 第四皇女:智円女王(1486-1513) - 安禅寺
    • 第五皇女:理琇女王(1489-1532) - 宝鏡寺
  • 宮人:花山院兼子 - 花山院持忠
    • 第二皇女(保安寺宮)(1473-1533) - 和泉宝安寺
    • 第三皇女:応善女王(1476-1497) - 安禅寺
    • 第三皇子:仁尊法親王(仁悟法親王)(1482-1515) - 円満院
    • 第四皇子(法蓮院宮・下河原宮)(1484-1494) - 上乗院
  • 母不詳
    • 皇女:慈勝女王(1470-1509) - 大聖寺

系図

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
102 後花園天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
103 後土御門天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
104 後柏原天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
105 後奈良天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
106 正親町天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
誠仁親王
(陽光院)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
107 後陽成天皇
 
良恕法親王
 
八条宮(桂宮)
智仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
智忠親王
 
広幡忠幸
広幡家始祖)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

略歴

長禄元年(1457年12月19日親王宣下、寛正5年(1464年)7月19日に後花園天皇譲位を受けて践祚(即位日は、寛正6年(1465年12月27日)。文明2年(1470年)まで後花園上皇による院政が行われた。

践祚後ほどなく応仁の乱が起き、寺社や公卿の館は焼け、朝廷の財源は枯渇して朝廷は衰微した。乱を避けるため、足利義政室町第に10年の間避難生活を強いられた。避難生活中には、義政正室の日野富子に仕える上臈の花山院兼子と密通して皇女を出産している(『親長卿記』文明5年10月22日条)。屋敷内での密通は本来であれば室町第の主人である義政や兼子の主人である富子によって厳罰に処せられる行為であったが、その当事者の身分ゆえに天皇・兼子ともに不問にされている[1]。また、その富子との密通も噂されていた。更に応仁の乱の最中にも関わらず義政が度々室町第で酒宴を開いていたとされているが、その酒宴には常に天皇が同席して一緒に飲酒している有様であった(『親長卿記』文明3年11月25日・同4年4月2・3日条、『実隆公記』文明4年4月2日条など)[2]。乱の終結後、朝廷の古来の儀式の復活に熱意を注ぐが、思うように行かなかった。それでも、元日白馬踏歌の三節会は再興され、現在は国立歴史民俗博物館に所蔵されている「節会諸役人控」は当時(後土御門天皇期)の節会に参列した公家たちの交名(名簿)である[3]

明応の政変に憤慨して一時は譲位を決意するが、老臣である権大納言甘露寺親長の諫奏によって取りやめる(『親長卿記』明応2年4月23日条)。その背景には、朝廷に譲位の儀式のため費用がなく、政変を起こした細川政元にその費用を借りるという自己矛盾に陥る事態を危惧したとも言われている。

後土御門天皇は5回も譲位しようとしたが、政権の正統性を付与するよう望んでいた足利将軍家に拒否された[4]

明応9年9月28日、崩御。享年58。葬儀の費用もなく、40日も御所に遺体がおかれたままだった[5]。このことは近衛政家による『後法興院記』の明応9年11月11日条に「今夜旧主御葬送と云々。亥の刻許(ばか)り禁裏より泉湧寺に遷幸す。(中略)今日に至り崩御以降四十三日なり。かくの如き遅々、さらに先規あるべからず歟(か)。」と記されている[6]。一方で、平安時代後一条天皇の崩御を隠して後朱雀天皇への譲位を行って以来、在位中の天皇の崩御は禁忌となったため、10月に後柏原天皇への「譲位」による践祚を行った後に「旧主(上皇)」としての葬儀を行ったとする解釈もある[7]。また、江戸時代に書かれた『続本朝通鑑』には「霊柩在黒戸四十日余、玉体腐損、而蟲湧出、古来未曾有焉(霊柩黒戸にあること四十余日、玉体腐損し、虫湧出し、古来未曾有)」と記されているが、同書以外にそのことを記した記録はない。奥野高広は論文「戦国時代の皇室御経済」(1944年)の中に出征中に急死した足利義尚の遺体が水銀による防腐措置が採られていた例を挙げて否定的な評価をした。これに対して久水俊和は防腐措置があっても43日間は余りにも長く、鎌倉時代四条天皇の棺が葬儀の遅延に伴う長期の放置によって「御骨許相残」の状態(『平戸記』仁治3年2月2日条)になったのと近い状態だったのではないかと推定している。なお、後土御門天皇の葬儀に関しては東坊城和長が詳細な記録(『明応凶事記』)を残しているが、天皇の遺体の状態については記されていない[8]

和歌

[9]後土御門天皇は敬虔な仏教徒であり、貧窮は自分の罪障が原因と考えて、阿弥陀仏の慈悲に希望を託した。後土御門天皇は、以下の和歌を詠じた。

誓ありと 思ひうる身に なす罪の 重きもいかで 弥陀はもらさむ
罪びとのだれよりも重いのだ
朕の犯せる罪は。
救われると知っておかしたものだから
どうして阿弥陀さまは
仏の誓願から朕をはずされないであろうか

(別解釈)

(罪人や極悪人をも救うという弥陀の)誓願のあることを
思いながら自らの手で
作った罪が
どれ程に重く深いかを(知っていながらも)
阿弥陀如来は決して漏らす事なくお救い下さる

在位中の元号

陵・霊廟

深草北陵

(みささぎ)は、京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)に治定されている。公式形式は方形堂。

また、遺骨の一部は、父・後花園天皇と同様に、京都市上京区般舟院陵(はんしゅういんのみささぎ)に分骨された。

皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

脚注

  1. ^ 井原今朝男『中世の国家と天皇・儀礼』校倉書房、2012年、ISBN 978-4-7517-4430-7 p.220-222
  2. ^ 石原比位呂「義政期の将軍家と天皇家」『室町時代の将軍家と天皇家』(勉誠出版、2015年) ISBN 978-4-585-22129-6 P332-343
  3. ^ 井原今朝男『室町期廷臣社会論』塙書房、2014年、ISBN 978-4-8273-1266-9 p.311-312
  4. ^ 『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』p136(第4章「非力で女性的な天皇像」、9「ソフトで柔弱な君主たち」)。
  5. ^ 『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』p137(第4章9)。さらに本書の出典として、林陸朗監修『歴代天皇100話』立風書房、1988年、p239。
  6. ^ 今谷明『戦国時代の貴族―『言継卿記』が描く京都』(講談社学術文庫、2002年、ISBN 4-06-159535-0)、p240。
  7. ^ 井原今朝男『中世の国家と天皇・儀礼』校倉書房、2012年、ISBN 978-4-7517-4430-7 p.168
  8. ^ 久水俊和「東坊城和長の『明徳凶事記』」(初出:『文化継承学論集』5号(2009年)/改題所収:「〈凶事記〉の作成とその意義」久水『室町期の朝廷公事と公武関係』(岩田書院、2011年) ISBN 978-4-87294-705-2
  9. ^ この章は『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』p135-136より。

参考文献

関連項目