建部光重

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建部 光重(たけべ みつしげ、天正6年(1578年) - 慶長15年5月27日1610年7月17日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。通称、弥作。官途は従五位下内匠頭。父は建部寿徳(高光)、母は山村甚右衛門娘。室は下間頼龍の娘(池田輝政養女)。子に吉政重政政長光延

父の寿徳の摂津尼崎郡代を継ぎ、豊臣秀吉秀頼父子に仕えた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、長宗我部盛親毛利秀元らと富田信高の守る伊勢安濃津城攻めに加わり、所領(700石)を一時没収されたが、義父池田輝政の取り成しで赦された。慶長9年(1604年)、秀頼の命により奉行として吉野水分神社を完成させた。慶長15年(1610年)、33歳で没した。徳川家康の特別の計らいにより、僅か8歳の政長が郡代を継いだ。政長は大坂の役の功により1万石に加増され尼崎藩主となり、後に播磨林田藩に転封されそのまま建部氏は林田藩主として明治維新まで存続した。

参考文献

  • 日本人名大辞典(講談社)