平聡
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
カタカナ | タイラ サトシ | |||||
ラテン文字 | TAIRA Satoshi | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1970年7月16日(53歳) | |||||
出身地 | 岩手県花巻市 | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
平 聡(たいら さとし、1970年7月16日 - )は、岩手県花巻市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはフォワード。
来歴
花巻中時代から注目を集め、東北の名将・斎藤重信の誘いで、盛岡商高に入学(当初は同県のライバル校・遠野高進学を希望していた)。
全国高校サッカー選手権では、1年生だった第65回で国見高(同大会準優勝)からゴールを奪うなど、早くからエース級の活躍をみせた。3年生のとき第67回でベスト8まで進出したが、準々決勝で藤田俊哉、三浦文丈、山田隆裕など後に日本代表となる選手たちをそろえた清水市立商高(同大会優勝、現静岡市立清水桜が丘高)に0-0と善戦したが、PK戦は1-3で敗退(最後にPKを外したのは平だった)。この年は東北高等学校サッカー選手権大会で優勝している。
順天堂大学時代はバルセロナ五輪代表候補にも選出されたが、度重なる怪我の影響で最終メンバーに残る事は出来なかった。
大学卒業後、東北電力に就職し、同社サッカー部のエースストライカーに。同部がJリーグ参戦を目指しクラブチーム「ブランメル仙台」となり臨んだ地域リーグ決勝大会では中心選手として活躍し、優勝とJFL昇格に貢献した。まもなく同社を退職し、クラブとプロ契約を結んだ。
JFLやJ2時代は移籍組や外国人選手に押され、相次ぐ怪我にも苦しみ出場機会に恵まれなかったが、キャリア晩年でレギュラーとして定着する。(後述)
東北電力サッカー部を経験した選手で最も長く仙台でプレーしたが、1999年で仙台を退団。天皇杯・水戸ホーリーホック戦が仙台で最後の試合となったが、途中交代するまで泥臭い全力プレーでチームを牽引。試合後のインタビューでは「電力時代の仲間」のことを口にし、涙を流した。
その後、故郷岩手の社会人サッカークラブチーム・盛岡ゼブラへ入団。天皇杯や東北総体などに出場した。
現在は岩手県の高校教員となり、釜石南高で監督を務めた後、母校である盛岡商高サッカー部で副部長を務めている。熱い指導で「頑張るサッカー」を選手に植え付け、数名の教え子を関東を含めた大学サッカー界に輩出した。04年には仙台カップ東北代表のアシスタントコーチを務めた。自らもサッカー岩手教員団に選手登録している。
所属クラブ
- 1986年度-1988年度 岩手県立盛岡商業高校
- 1989年4月-1993年3月 順天堂大学
- 1994年-1999年 東北電力/ブランメル仙台/ベガルタ仙台
- 2000年-2003年 盛岡ゼブラ
- 2004年 新日鐵釜石
- 2005年- サッカー岩手教員団
背番号
ベガルタ仙台
盛岡ゼブラ
- 26(2000年)
- 25(2001年)
- 35(2002年-2003年)
新日鐵釜石
- 25(2004年)
サッカー岩手教員団
- 34(2005年-)
選手時代の特徴
東北大会を制したころの盛岡商高は、全国の強豪校を相手にしても組織的でスピーディーなサッカーをみせ、従来の東北地方の「泥臭いサッカー」のイメージを変えた。その中心にいたのが卓越したボールコントロール・キープからのスルーパスを得意としたテクニック抜群の平だった。
しかし、東北電力→ブランメル仙台→ベガルタ仙台、特にキャリア晩年は、高校時代とは逆に闘志あふれる泥臭いプレースタイルに変わった。相次ぐ怪我の影響もあるが、Jリーグ移行後に戦力外となりチームを去っていった高校・東北電力時代の仲間の分まで、チームに残った自身が全力を尽くすことを志した結果、プレースタイルが変わったとみられている。東北サッカーのイメージを変えた選手が、キャリア晩年で東北サッカーの原点に帰った形となる。
ポストプレーヤーとしてはフィジカルが弱く、前線でつぶされる場面も多かった。しかし、何度も立ち上がり味方にボールをつなぐ姿はまさに「頑張っている」という印象を与えた。また、FWながら守備にも積極的に参加し、一方でマイボールになるとポストに入り、フリーランニングをし…と、とにかく走った。仙台の清水秀彦監督からは「頑張るだけの選手。でも、そういった選手も必要」と評価され、先発FWのポジションを得ていた。
仙台時代のスタメン発表では、「決めろピンポイントシュート」と紹介されるほど、ピンポイントなポジショニングでのワンタッチシュートを得意とした。サッカー漫画「俺たちのフィールド」の桜場慎二のスタイルが似ている。まさに「無駄走り」による「ごっつぁんゴーラー」。1998年の最終節・サガン鳥栖戦では、その特長をいかんなく発揮し、すべてワンタッチのゴールでハットトリックを達成。プロ生活最後のゴールとなった天皇杯・アステール青森戦も「らしい」ヘディングだった。
エピソード
- 全国高校サッカー選手権・清水市立商高戦で、敵将の大滝雅良監督から絶賛された。
- 大学時代、同郷で後に仙台でも同僚となる本明利樹(大船渡高卒)とカラオケに明け暮れていた。
- 練習に支障ができるくらいバイオハザードにはまった時期がある。
- 仙台時代の応援ソングは、野猿の「叫び」。
- 靭帯損傷の大怪我に見舞われたが、ほうっておいたら靭帯が溶けてなくなり結果的に治ったらしい。
- 当時、仙台に所属していた阿部良則と共にイケメン2トップとして人気選手でもあった。また、ベガルタ仙台情報誌の企画の「カッコいいランキング」で3本の指に入っていた。
- 藤原寿徳(現U-22日本代表GKコーチ。元京都パープルサンガ、鹿島アントラーズ、U-15日本代表、U-20日本代表GKコーチ)は、中学及び高校時代のチームメイト。
個人成績
- J2通算 30試合2得点
- JFL通算 36試合12得点
外部リンク