常盤御前

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。ロンドル (会話 | 投稿記録) による 2021年11月21日 (日) 07:51個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎登場作品)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

常盤御前(歌川国芳
常盤御前(歌川国芳
常盤御前と子どもたち(歌川国貞

常盤御前(ときわごぜん、保延4年(1138年) - 没年不詳)は、平安時代末期の女性で、源義朝側室

阿野全成(今若)、義円(乙若)、源義経(牛若)の母。後に一条長成との間に一条能成をもうける。字は常葉とも[1]

生涯

平治物語』等の軍記物語や『尊卑分脈』によれば、近衛天皇中宮・九条院(藤原呈子)の雑仕女であったとされている。両親については素性が不明(『平治物語』)。

源義朝側室になり、今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)、そして牛若(後の源義経)を産む。後に一条長成との間に一条能成長寛2年(1163年)生)や女子[2](生誕時期不明)を産んだ[3]

義朝の死から一条長成に嫁ぐまでの消息は『平治物語』『義経記』等に記されているが、事実がどのようなものであったかは不明である。軍記物語の『平治物語』『平家物語』などによれば、平清盛に請われてとなり、一女(廊御方)を産んだとされるが、史実としては確認されていない。

やがて治承・寿永の乱が勃発し、義経は一連の戦いで活躍をするものの、異母兄である頼朝と対立、没落し追われる身の上となる。都を落ちたのちの文治2年(1186年)6月6日、常盤は京都の一条河崎観音堂(京の東北、鴨川西岸の感応寺)の辺りで義経の妹と共に鎌倉方に捕らわれている。義経が岩倉にいると証言したので捜索したが、すでに逃げた後で房主僧のみを捕らえたとある(『玉葉』)。『吾妻鏡』には同月13日に常盤と妹を鎌倉へ護送するかどうか問い合わせている記録があるが、送られた形跡はないので釈放されたものとみられる[4]。常盤に関する記録はこれが最後である。

常盤について、その後の詳細は不明である。侍女と共に義経を追いかけたという伝承もあり、常盤の墓とされるものは岐阜県関ケ原町群馬県前橋市鹿児島県郡山町(現鹿児島市)、埼玉県飯能市と各所にある。さらに、飯能市に隣接する東京都青梅市成木の最奥部、常盤の地には常盤が人目を避けて一時隠れ住まわされたという伝承があり、地名は常盤御前に因むと伝えられる。

また、かつて東京・渋谷にあった松の老木、「常磐松」には、常盤が植えたことに由来するとの説がある。

物語上の常盤

以下は主に『平治物語』『義経記』による物語上の常盤の話である。したがってどこまでが事実であるか不明であるがこの物語がその後の文学や芸術に大きな影響を与えたことは事実である。

常盤は近衛天皇中宮・九条院(藤原呈子)の雑仕女で、雑仕女の採用にあたり藤原伊通の命令によって都の美女千人を集められ、その百名の中から十名を選んだ。その十名の中で聡明で一番の美女であったという。後に源義朝側室になり、今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)、そして牛若(後の源義経)を産む。平治の乱で義朝が謀反人となって逃亡中に殺害され、23歳で未亡人となる。その後、子供たちを連れて雪中を逃亡し大和国にたどり着く。その後、都に残った母が捕らえられたことを知り、主であった九条院の御前に赴いてから(『平治物語』)、清盛の元に出頭する。出頭した常盤は母の助命を乞い、子供たちが殺されるのは仕方がないことけれども子供達が殺されるのを見るのは忍びないから先に自分を殺して欲しいと懇願する。その様子と常盤の美しさに心を動かされた清盛は頼朝の助命が決定していたことを理由にして今若、乙若、牛若を助命したとされている。

なお、室町以降に成立したとみられる『義経記』ならびに室町以降に成立した流本系『平治物語』においては常盤に清盛がよしなき心を抱き、常盤に文を送って子供の命を盾に返答を強要したという内容が記されている(流布本『平治物語』では清盛から子供の命を絶つと言われても常盤は返事せず、母親に説得されて初めて常盤が返答したとある)。しかし鎌倉時代に成立した『平治物語』においては、常盤が清盛から局を与えられ後に女子を一人産んだとの記載があるが、それには常盤が清盛の意に従う事と子供達の助命の因果関係は記されていない。古態本『平治物語』において清盛と常盤が男女関係となったのは子供達の助命決定後の事となっている。なお、『平治物語』諸本においての常盤の言動は、常盤と子供達が姿を消した為に囚われの身になった母親の助命のみに終始しており、子供達の助命を清盛に対して一切申し入れていない。子供達が殺されるのを見るのは辛いから先に自分を殺して欲しいという言動がのみが記されている。また『平治物語』においては子供達の助命の理由が清水寺の観音のご加護であるという点が強調されている。

『義経記』においては清盛の意に従ったがゆえに子供たちがそれなりに身が立つようになったと記されている。

なお、常盤逃亡談は『平治物語』にくわしいが、この物語はもともと清水寺の観音信仰から生まれたものでもともとは『平治物語』とは別個の物語として存在していたものがやがて『平治物語』に組み込まれていったという見解が強い[5]。一方、義経が頼朝に追われた際に常盤母娘が捕らえられたのも一条河崎観音堂であったことから、常盤が深い観音信仰の持ち主であり、清水寺とのつながりも否定できないとする見解もある[6]

この常盤の逃避行の話はその後室町期の幸若舞の『伏見常盤』『常盤問答』『笛の巻』などによって発展していくことになり、その発展していった常盤の物語はよりいっそう「強い母」という面が強調されていくことになる[7]

清盛による子供たちの助命について

ゆかりの寺、寶樹寺

尊卑分脈』の系図には、清盛の八女に常盤の娘として「廊御方」が記されているが、軍記物を読んだ『尊卑分脈』編者が廊御方という存在を作り出したとの説もある。従って常盤と清盛の間に子が生まれていたこと、さらには男女関係があったということに対しても疑問が提示されている(廊御方参照)。

常盤が清盛と男女関係になることによって子供達の助命がかなったということが、一般的に知られている話である。上記の通り室町以降に成立した物語では常盤が子供たちの命がかかわっているために清盛と男女関係になったということが記されているが、鎌倉時代に成立したとみられる古態本『平治物語』においては子供達の助命と常盤が清盛の子を産んだ話の間には一切の関連性がない。

また、平治の乱において戦闘にまで参加している義朝の嫡男・頼朝の助命が決定していたということ、最近の研究の結果、平治の乱に対する評価が変化して、真の首謀者は藤原信頼で義朝は信頼に巻き込まれたに過ぎず、この乱が源氏と平家の戦いという側面ではとらえられなくなっていること(平治の乱を参照)、清盛に対して義朝の勢力は都における軍事動員力や官位経済力という面においてはるかに遅れをとっていたという事実[8]などから、常盤と清盛に男女関係があろうがなかろうが、常盤の三人の子供の助命に大きく影響したとは考えがたいという見解が強い。[9]

登場作品

映画

テレビドラマ

脚注

  1. ^ 公卿補任』健保六年十二月九日藤能成項においては、能成の母の欄には次のように記され母の本名や母の父親の名前は不詳である。「母半物云々(伊予守義顕母也)」。なお伊予守義顕とは朝廷において改名させられた源義経のことを指す。また誰に仕える「半物」であるかも記されていない。
  2. ^ この女子は源有綱の室になったと言われている(保立道久『義経の登場』日本放送出版協会および細川涼一「常盤」『京都橘大学女性歴史文化研究所紀要』17号の説)。
  3. ^ 尊卑分脈』『公卿補任』藤原能成項
  4. ^ 細川涼一は「常盤」(『京都橘大学女性歴史文化研究所紀要』17号、2009年3月)/所収:細川『日本中世の社会と寺社』(思文閣出版、2013年3月) ISBN 978-4-7842-1670-3)の中で、阿野全成(かつての今若)が弟の義経に連座せずに引き続き頼朝に仕えていることから、母親である常盤を処罰する予定はなかったとする。また、彼女が義経が岩倉にいると証言したという話も、常盤が義経の正室である郷御前の出産のために大雲寺(岩倉観音)に匿っていたことを伝えている話ではないか、と推測する。
  5. ^ 五味文彦『源義経』(岩波新書)、日下力『古典講読シリーズ 平治物語』(岩波書店
  6. ^ 細川涼一「常盤」(初出:『京都橘大学女性歴史文化研究所紀要』17号(2009年3月)/所収:細川『日本中世の社会と寺社』(思文閣出版、2013年3月) ISBN 978-4-7842-1670-3
  7. ^ 五味文彦『源義経』(岩波新書)
  8. ^ 元木泰雄『保元・平治の乱を読み直す』(NHKブックス)、野口実『武家の棟梁源氏はなぜ滅んだのか』(新人物往来社
  9. ^ 黒板勝美『義経伝』(中公文庫)においては、頼朝の助命が常盤の三人の子を含む全ての弟達の助命を決定付けたとし、五味文彦『源義経』(岩波新書)では頼朝と希義が流刑で済むなど義朝の遺児に対する平家の追及はさほど厳しいものではなかったとする。野口実『源氏と坂東武士団』(吉川弘文館)においては平治の乱というものの本質が伝統的院近臣と新興勢力信西の対立の結果であり、源平という武門同士の対決の帰結としてみなされていなかった当時の人々の認識が義朝の嫡子頼朝の助命、そして戦闘に加わらなかった全ての弟達(希義、今若、乙若、牛若)の処分に影響したと述べている。岩田慎平は『乱世に挑戦した男 平清盛』(新人物往来社)の中で義朝縁者への待遇はむしろ保護とも見えるもので、これには義朝が信頼一派に巻き込まれただけだという同情が当時の貴族社会にあったのではないかと見ている。また、岩田慎平は、常盤の一条長成との再縁については再縁は懲罰でなないとしている。元木泰雄『河内源氏ー頼朝を生んだ武士本流』では、頼朝の助命の結果が弟たちの助命につながったが、それだけではなく皇統をかけた保元の乱と違い私戦と見なされた平治の乱においては信頼に巻き込まれただけとみなされた人々の関係者に対する処罰はもともと厳しくない方針であり、義朝も巻き込まれた人物とみなされていた為、子や郎党たちに対する処分は最初から厳しいものになるはずはなかったのではないかと見ている。また菱沼一憲『源頼朝』(戎光祥出版)では当時公法的には謀反に直接関わらなければ女性や未成年の子供は縁座で処分されることはなかったとしている。

関連項目