市谷柳町

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市谷柳町
市谷柳町交差点
市谷柳町交差点
日本
都道府県 東京都
特別区 新宿区
地域 牛込地域
人口
2015年(平成27年)12月1日現在[1]
 • 合計 1,257人
等時帯 UTC+9 (JST)
郵便番号
162-0061

市谷柳町(いちがややなぎちょう)は、東京都新宿区町名[2]住居表示未実施。郵便番号は162-0061。

地理

新宿区の東部(旧東京市牛込区)に位置する。北部は弁天町、東部は市谷山伏町市谷甲良町、南部は市谷薬王寺町、西部は原町に接する。町域内を南北に外苑東通り、東西に大久保通りが通り、市谷柳町交差点で交差している。これらの幹線道路沿いには商店やマンションなどが立ち並んでいる。一方で幹線道路を離れると閑静な住宅地が広がる。この地区周辺は牛込台地を開析する浅い支谷の谷頭部分に位置しており窪地であり、淀橋台における武蔵野面と下末吉面の境となっている。また、毎年7月には、隣町の市谷薬王寺町と共催で祭礼が催されている。

市谷柳町交差点で停止する車両を減らすための信号機(2011年6月19日)

市谷柳町交差点は大久保通りからの下り坂同士の谷部分に位置し、住宅が密集していたことや坂道発進もあいまい自動車排気ガスによる大気汚染が発生したと考えられ、この問題は社会的に大きな影響を与えた。1970年に民間の医療団体が付近の住民の健康診断を行い、「多数の住民が中毒に罹患している疑いがあり、その鉛は自動車の排気ガスが原因である。」と発表した。この民間の医療団体による発表をきっかけに排気ガスによる鉛中毒問題がマスコミに大々的に取り上げられた。しかしながら、その後の東京都の健康調査により、実際には周辺住民に鉛中毒の恐れがほとんどなかった事が判明した。この一連の事件(牛込柳町鉛中毒事件)は、都内の生活道路で最大積載量3トン以上の貨物自動車の乗り入れを禁止するきっかけとなった。当時朝日新聞に連載されていた「サザエさん」にも、この通行規制をネタにしたエピソードがある[3]。大久保通りに市谷柳町交差点で停止する自動車を制限するための信号機も設置されていた(2015年に撤去)。

市谷柳町交差点付近に都営大江戸線牛込柳町駅があり、多く利用されている。バスの便もある。牛込柳町駅の名称は東京市牛込区の市谷柳町を意味する。これは、明治大正期には、同じく都電の停留所である小石川区の柳町(小石川柳町)との区別が必要であったことによる。


歴史

 市谷村牛込村の一部、明暦以前は武家地寺社領であった。明暦の大火以降、被災者の移住により現在の町域に一谷柳町や牛込南寺町と呼ばれる町人地が成立した。当初は代官領だった。1713年正徳3年)に町奉行管轄とされる。

由来は不明だが、窪地ということから、柳が多く派生していたとの伝承もある。多くは町人地で、かなりの賑わいを見せた地域でもある。寺町ということもあり、蝋燭問屋が多く存在したという。

明治4年、市ヶ谷柳町、御先手組大縄地、御旗組大縄地、牛込川田ケ窪町、光徳院、宗圓寺、清内屋敷、甲良屋敷の一部、牛込原町二丁目の一部および武家地が合併し、市谷柳町が成立。1878年(明治11年)に旧甲良町1番地を編入し、番地の組み換えが行われて現在に至る。

1895年(明治28年)から1912年(明治45年)にかけて、外苑東通り、および大久保通りの開削により、一部の番地は消滅している。

1970年昭和45年)、「牛込柳町鉛中毒事件」が社会的に影響を与えた。

地名の由来

一帯にが多かったためとされるが、詳細は不明である[4]

施設

脚注

  1. ^ 住民基本台帳の町丁別世帯数及び男女別人口(日本人と外国人の合計) 新宿区
  2. ^ 『角川日本地名大辞典 13 東京都』、角川書店、1991年再版、P872
  3. ^ サザエがすれ違った肥満体の女性に行き先を尋ねると「牛込柳町の叔母の家」と答えたが、そのときサザエと一緒にいたカツオが「3トン以上の車の乗り入れ禁止されてますよ」と言ってその女性を怒らせる、というもの。
  4. ^ 近藤富枝・小林信彦『対談・地名が消えて、町が変わった。』「東京人 2005年5月号」所収、都市出版、2005年、P22。

外部リンク