川嶋辰彦

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川嶋 辰彦(かわしま たつひこ、1940年4月20日 - )は、日本の経済学者学位Ph.D. in Regional Science(ペンシルベニア大学、1971年)。称号学習院大学名誉教授。研究の専門は、空間経済学統計学計量経済学。主要な研究テーマは、都市化、最適交通混雑税、地域発展政策と環境保全政策などである。

人物

文仁親王妃紀子の実父。学習院馬術部大学部長であり、明仁親王一家とは部の会合で何度か顔を合わせ、面識があった。

日タイ間の学生交流やボランティア活動にも力を入れており、講演活動や学校の総合学習などの講師などの活動も盛んに行っている。

礼宮と長女・紀子の婚約内定の報道がなされた際、社内の表記基準に従い標準字体の「川島」と報道した媒体も存在したが、宮内庁関係者などからの強い要望もあり、異体字を使用した戸籍名の「川嶋」に表記を改めた[1]

略歴

学歴

職歴

  • 1972年 ペンシルベニア大学大学院専任講師
  • 1973年 学習院大学経済学部助教授
  • 1976年 学習院大学経済学部教授
  • 1977-1979年 国際応用システム分析研究機構(IIASA:所在地オーストリア)主任研究員
  • 1994-1996年 学習院大学東洋文化研究所長
  • 1997-2011年 学習院海外協力研修プログラム(GONGOVA)企画・実施責任者
  • 2011年 学習院大学名誉教授

所属学会

  • 国際地域学会(Regional Science Association International)
  • 応用地域学会
  • 日本交通学会

学外における役職

業績

川嶋辰彦の最大の業績の一つは、我が国の都市圏人口サイクルを分析するためのROXY(ロキシー)指標を考案したことにある。川嶋は、このROXY指標について「ROXY指標を構成する主要素は人口変化の加乗平均(X)と人口変化単純平均(Y)の比率であり、英語ではRatio of X and Yと表現される。この英語表現の大文字部分を前から後ろへ並べるとROXYとなるからである」と述べている。川嶋が考案したこの指標は、ROXY Index Analytical Methodとしてヨーロッパや北米の研究者たちの論文の中で引用、参照の件数も多い[2]

ゼミにおけるテーマ

川嶋家について

川嶋家は、江戸時代から和歌山市の本町8丁に居を構え、市内の府中、粟地区に広大な土地や田畑を所有し、多くの小作人を抱え庄屋等の役職を多年務めた旧家である。辰彦で9代目となる。川嶋家が所有していた土地は戦後の農地改革で没収されたが、同市黒岩に川嶋家がかつて所有していた山が残っている。その山は、地元の人たちの間で今も「川嶋山」と呼ばれている[3]

川嶋家の菩提寺・専念寺の古河英雄住職によれば、そもそも川嶋家のルーツは、現在の和歌山市を拠点に江戸時代から手広く海運業を営んだ有田屋であるという[4]。当主は代々庄右衛門を襲名した。明治初期に当主となった6代目庄右衛門には跡継ぎとなる男子がいなかったため、長女の志まの婿養子を探した。そこで目に留まったのが、和歌山県有田郡安諦村(現・有田川町)の農家・松浦平吉の三男で、当時東京高等師範学校に在学していた松浦力松であった。松浦力松は、庄右衛門から「庄」の一字をもらって1894年(明治27年)3月21日に庄一郎と改名し、3月25日に庄右衛門の長女・志まと結婚した。

庄一郎は、京都、富山、滋賀の師範学校教諭を歴任したあと、1899年18(明治32年)に東京高等師範学校の研究科に入学。卒業した1901年(明治34年)12月に学習院教授に任ぜられ、初等学科長も兼任した。その後、佐賀県師範学校長、奈良県師範学校長を務め、1920年(大正9年)から1924年(大正13年)まで和歌山市視学の任にあった。1945年(昭和20年)7月9月のアメリカ軍の大空襲により、本町8丁の川嶋邸は焼失。庄一郎は、一時期東京の長男・孝彦のもとに身を寄せるが、すぐに和歌山に戻り隠居生活に入り、1947年(昭和22年)2月12日、当時の海草郡紀伊村弘西(現在の和歌山市弘西、または同市府中あたり)で亡くなった。

庄一郎の長男である孝彦は、旧制佐賀中学校、第一高等学校から東京帝国大学へ進み、在学中に高等文官試験に合格し、1923年(大正12年)に内務省入り。地方事務官、地方警視として長崎、広島などで勤務したあと、内閣書記官であった1935年(昭和10年)に永野修身全権の随員としてロンドン軍縮会議に出席。東郷平八郎元帥の葬儀委員も務めた。1947年(昭和22年)、内閣統計局長を最後に退職。その後、参議院人事委員会専門委員、国会図書館専門調査員を務め、1958年(昭和33年)2月に亡くなった。孝彦は生前、故郷の和歌山への思いをよく語り、東京育ちの子どもたちも「私たちの故郷は和歌山」(三男・行彦)と紀州人の心を継承。辰彦らは毎年欠かさず和歌山市の菩提寺・専念寺を訪ね、先祖の墓参をしている。

専念寺には川嶋家代々の墓が建ち並んでいるが、最も新しい墓は、1992年(平成4年)に辰彦が川嶋家代々の墓として建立したものである。

家族・親族

その他

2006年9月6日に長女紀子愛育病院にて悠仁親王を出産した際に夫人とともに「誠におめでとう存じます。『清流に臨みて詩を賦す』心に重なる感懐を覚えます。お健やかな御成長を謹んでお祈り申し上げます」と祝意を述べた。

脚注

  1. ^ 静岡新聞1989年8月27日
  2. ^ http://scholar.google.co.jp/scholar?hl=ja&lr=&q=Tatsuhiko+kawashima&lr=
  3. ^ 朝日新聞和歌山版 1989年9月13日<これらの土地は戦後の農地改革で没収されたが、同市黒岩に川嶋家の山が残っている。その山は、地元の人たちの間で今も「川嶋山」と呼ばれている>
  4. ^ 『週刊現代』2006年9月2日号 <前出の古河住職が話す「'89年には、紀子さまら川嶋家のみなさんが、ご先祖さまに結婚の報告をするためにいらっしゃいました。ここには先祖代々の墓が建ち並んでいます。(中略)そもそも川嶋家のルーツは、いまの和歌山市内を拠点に江戸時代から手広く海運業を営んでいた『有田屋』です。第2次大戦後の農地改革で土地を没収されるまでは、市内に何町もの土地をもち、多くの小作人を抱えた庄屋でした」>

外部リンク