川合玉堂

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妻・とみとともに(1949年)

川合 玉堂(かわい ぎょくどう、本名:川合 芳三郎(かわい よしさぶろう)、1873年明治6年)11月24日 - 1957年昭和32年)6月30日)は、日本の明治期から昭和期にかけて活躍した日本画家

人物

1873年(明治6年)、愛知県葉栗郡外割田村(現在の一宮市木曽川町)に、筆墨紙商の長男として生まれる。12歳頃より絵に親しみ、京都にてはじめ望月玉泉門下、後に幸野楳嶺門下で円山四条派を学ぶ。「玉堂」と号するのは1890年(明治23年)、17歳のとき。この際「春渓群猿図」「秋渓群鹿図」は第3回内国勧業博覧会に入選している。

1896年(明治29年)、23歳のとき上京し橋本雅邦に師事する。岡倉覚三(天心)、雅邦、横山大観らの創立した日本美術院1898年)には当初より参加。1900年(明治33年)頃からは私塾「長流画塾」を主宰、1907年(明治40年)には第1回文部省美術展覧会(文展)審査員に任命され、また1915年大正4年)からは東京美術学校日本画科教授、1917年(大正6年)6月11日帝室技芸員[1]に任じられ日本画壇の中心的存在の一人となる。1931年(昭和6年)にフランス政府からレジオンドヌール勲章1933年(昭和8年)にはドイツ政府から赤十字第一等名誉章を贈られ、1940年(昭和15年)には文化勲章を受章した。

第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)に、かねてより頻繁に写生に訪れていた東京都西多摩郡三田村御岳(現・青梅市)に疎開、住居を「偶庵」、画室を「随軒」と称した。第二次世界大戦後にも、同地の自然を愛する玉堂はそのまま定住、同地で1957年(昭和32年)没した。没後、勲一等旭日大綬章を賜わる。また、神奈川県横浜市金沢区には1917年(大正6年)頃に建設した別邸「二松庵」があり、横浜市指定の有形文化財として月1回の一般公開もなされていたが[2]2013年平成25年)10月16日に発生した火災により全焼した[3]

日本の四季の山河と、そこで生きる人間や動物の姿を美しい墨線と彩色で描くことを得意とした。

玉堂には長野草風池田輝方池田蕉園松本姿水山内多門ら多くの門人がいた。

玉堂美術館

青梅市の玉堂美術館

玉堂は1944年から没する1957年まで東京都青梅市御岳で過ごし、玉堂の愛でた御岳渓谷に美術館を設置しようという声があがった。香淳皇后や諸団体、地元有志、ならびに全国の玉堂ファンから多大な寄付を受け、没後4年の1961年(昭和36年)5月に玉堂が青梅で過ごしたのを記念した玉堂美術館が開館した[4]

代表作品

「漁村渡舟」
行く春(左隻) (同右隻)
行く春(左隻)
(同右隻)

脚注

  1. ^ 『官報』第1458号、大正6年6月12日。
  2. ^ 横浜市 旧川合玉堂別邸 トップページ
  3. ^ 旧川合玉堂別邸が全焼 横浜・金沢区 朝日新聞 2013年10月16日
  4. ^ 玉堂美美術館概要”. 玉堂美術館. 2016年2月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月15日閲覧。

関連項目

外部リンク