川口能活

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川口 能活
キリンチャレンジカップ、ボスニア戦
(2008年1月30日、国立霞ヶ丘競技場陸上競技場にて)
名前
カタカナ カワグチ ヨシカツ
ラテン文字 KAWAGUCHI Yoshikatsu
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1975-08-15) 1975年8月15日(48歳)
出身地 静岡県富士市
身長 180cm[1][注 1]
体重 77kg[1]
選手情報
ポジション GK
利き足 右足
ユース
0000-1987 天間小サッカー少年団(天間小SS)
1988-1990 東海大第一中学校
1991-1993 清水商業高校
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1994-2001 日本の旗 横浜F・マリノス 193 (0)
2001-2003 イングランドの旗 ポーツマスFC 12 (0)
2003-2004 デンマークの旗 FCノアシェラン 8 (0)
2005-2013 日本の旗 ジュビロ磐田 228 (0)
2014-2015 日本の旗 FC岐阜 43 (0)
2016-2018 日本の旗 SC相模原 43 (0)
代表歴2
1995-1996  日本 U-23
1997-2010[3] 日本の旗 日本 116 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。2018年12月2日現在。
2. 2010年5月21日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

川口 能活(かわぐち よしかつ、1975年8月15日 - )は、静岡県富士市出身の元プロサッカー選手スポーツ科学者、サッカー指導者。学位修士スポーツ科学)(早稲田大学2023年[4]

現役時代のポジションゴールキーパー(GK)。元日本代表

概要[編集]

FIFAコンフェデレーションズカップ2001ベストイレブン、AFCアジアカップ2004ベストイレブンなどの受賞歴を持つ。国際Aマッチ出場数は日本代表歴代3位、同ゴールキーパー歴代1位の116試合を記録[5]。4大会連続でFIFAワールドカップメンバーに選出されている(1998年 W杯フランス大会2002年 W杯日韓大会2006年W杯 ドイツ大会2010年W杯 南アフリカ大会)。オシムジャパン、岡田ジャパンでは主将を務めた[6]。 2016年にJFA B級コーチライセンスとゴールキーパーC級コーチの資格を取得すると、日本代表等のGKコーチとして日本代表を裏で支えている。 2022年には日本代表等のGKコーチを退任し、古巣ジュビロ磐田のトップチームでGKコーチとして帰還した。

来歴[編集]

プロ入り前[編集]

サッカー漫画『キャプテン翼』の影響や兄の薦めから9歳でサッカーを始め、富士市立天間小学校時代は富士市内のサッカースポーツ少年団でプレーした。当初はポジションを転々としたが、小学校4年生から本格的にGKに専念する[7]

1988年東海大学第一中学校に入学。在学中に3年連続で全国中学校サッカー大会出場を経験し、2年時・3年時の2度、大会優秀選手に選出された[8]

1991年清水市立商業高等学校(現静岡市立清水桜が丘高等学校)に入学。 1年生時からレギュラーとして試合に出場した[9] 第70回全国高等学校サッカー選手権大会望月重良平野孝らと共に出場し、前園真聖を擁する鹿児島実業に1-2で敗れ3回戦で敗退した。

2年生時は出場はならなかったが、翌年の第72回全国高等学校サッカー選手権大会に出場。 田中誠小川雅己佐藤由紀彦安永聡太郎鈴木悟ら後のJリーガーを多く擁するチームを、キャプテンとして率いた。 予選から準々決勝まで11試合連続無失点を記録すると[10]、準決勝で城彰二を擁する鹿児島実業高校と再び対戦。 試合は2-2でPK戦にもつれ込むが、鹿児島実業4人目の藤崎義孝を川口がセーブして5-4で制した。 決勝戦では前年度王者の長崎県立国見高等学校と対戦し、2-1で勝利。 5年ぶり3回目の選手権優勝を果たした。

クラブ歴[編集]

横浜マリノス/横浜F・マリノス時代[編集]

1994年横浜マリノスに加入。当時、マリノスには日本代表GK松永成立が在籍していたが、松永の出場停止で浦上壮史が先発出場した試合で、初めてリザーブとして公式戦でベンチ入りした。2年目の1995年シーズン途中に、監督のホルヘ・ソラリとヘッドコーチの早野宏史が若手の川口を正GKに抜擢。これにより、4月26日第11節柏レイソル戦でJリーグ初出場を果たした。初出場で浮足立ったプレーもあったがゴールを守り、無失点で勝利した。この後もポジションを確保し、この年のNICOSシリーズは全試合出場。

7月19日に優勝が懸かったサントリーシリーズ第25節清水エスパルス戦で、1-2でリードされた後半ロスタイム、コーナーキックのチャンスでゴール前に上がりヘディングシュートをするもののゴールポストに当たり得点にはならなかった。この試合には敗れたもののチームは1stステージ優勝を経験し、1995年度のチャンピオンシップヴェルディ川崎を下し年間優勝。自身も初タイトルとなる、Jリーグ新人王を獲得した。

ポーツマスFC時代[編集]

2001年10月21日イングランドフットボールリーグ・チャンピオンシップ(2部)に所属するポーツマスFCへ移籍し、日本人GKとして初の欧州移籍を果たした。移籍金180万ポンド(当時のレートで3億円)は、ポーツマス史上最高額(当時)であった[11][12]。これにより10月20日の2ndステージ第10節セレッソ大阪戦がマリノスでのラストゲームになった。

新天地でのデビューは11月3日のリーグ戦第8節シェフィールドW戦で、チームは3-2で勝利した。また、2002年1月4日に行われたレイトン・オリエントFC戦で日本人選手として初めてFAカップに出場した。

2001-02シーズンはリーグ戦11試合に出場したが、レギュラー確保には至らなかった。2002年にはウェストハム・ユナイテッドFCからトリニダード・トバゴ代表シャカ・ヒスロップが加入したこともあって、シーズンの大半をリザーブリーグで過ごす。イングランドでの2年目は1試合の出場にとどまり、プレミアリーグ(1部)に昇格した2003-04シーズンは出場機会を完全に失った。結局、2002-03シーズンに途中出場した2003年5月4日第44節ブラッドフォード・シティAFC[13] がポーツマスでの最後の試合となり、プレミアリーグでは出場できなかった。

FCノアシェラン時代[編集]

試合の出場機会を求め、2003年9月4日デンマークFCノアシェランに移籍。10月5日SASリーガ第11節ヘアフュルエBK英語版戦にてスーペルリーガ公式戦に初出場した。しかし、後にデンマーク代表にも名を連ねたキム・クリステンセン英語版にポジションを奪われ、2004年4月12日第25節ヴィボーFF戦以降出場機会はなかった。

ジュビロ磐田時代[編集]

2005年にノアシェランから地元・静岡県のチームであるジュビロ磐田へ移籍。同年4月10日のJ1第4節FC東京戦で、約4年ぶりにJリーグ公式戦に出場した[14]

2006年は全34試合に出場し、Jリーグベストイレブンに選ばれた[15]

2008年5月10日の第12節アルビレックス新潟戦(東北電力スタジアム)で史上32人目、GKとしては史上3人目のJ1通算300試合出場を達成[16]。しかしこの年チームは終始低迷し、残留のかかった最終節の大宮アルディージャ戦も敗れて16位でシーズンを終えた。12月13日、J2・3位のベガルタ仙台とのJ1・J2入れ替え戦第2戦では、後半24分の平瀬智行のループ気味のヘディングをセーブ[17][18]、後半ロスタイムでの顔面でのセーブ[19] などの働きを見せ、磐田のJ1残留に貢献した。

2009年バーレーン遠征中の1月24日に右脹脛を負傷。肉離れと診断され、Jリーグ開幕戦の出場は微妙と報道されていたが[20]、開幕戦に間に合わせた。しかし守備の乱れなどもあり、モンテディオ山形戦(2-6@ヤマハ)、第2節ガンバ大阪戦(1-4@万博)の2試合で計10失点を喫し、更に第6節清水エスパルス戦まで5試合勝利がなく、その後失点は減ったものの波に乗り切れず低空飛行が続いた。9月19日、第26節京都サンガF.C.戦でFW金成勇と接触した際に右脛骨骨幹部骨折で負傷、右脛骨骨幹部骨折により全治6ヶ月と診断され[21] 離脱。残りのシーズンを棒に振ることとなった。

2010年序盤はリハビリのためベンチ入りすらなかったが、自身も代表に選出された南アフリカW杯後の8月7日、第17節山形戦(0-1)で約1年ぶりに公式戦に復帰した。この年はリーグ戦17試合に出場。リーグ戦こそ前年同様序盤の出遅れもあって2年連続で11位に留まったものの、第32節では敵地で鹿島アントラーズ相手に好セーブを連発して8年ぶりの勝利を挙げた。ナビスコカップでは決勝トーナメント4試合に出場し、9年ぶりの決勝進出。決勝のサンフレッチェ広島戦では槙野智章のPKを止めるなど好プレーを披露し、12年ぶりの優勝を達成した(なお、この優勝が磐田にとっては7年ぶりのタイトルだった)。

2011年8月3日に行われたスルガ銀行チャンピオンシップでは、2-2で迎えたPK戦で2人目と3人目を止めて優勝に導いた。また5年ぶりに全34試合にフル出場し、順位も4年ぶりに1桁(8位)を記録した。

2012年3月10日コンサドーレ札幌との開幕戦で史上3人目のJ1通算100完封を達成した[22]。続く3月17日サガン鳥栖戦では史上8人目のJ1通算400試合出場を達成した[23]。しかし、3月22日の練習中に右アキレス腱を断裂。全治6ヶ月と診断され、長期離脱となってしまった[24]。その後、12月15日の天皇杯4回戦・鹿島戦にて約9カ月ぶりに公式戦に復帰するも、チームは逆転負けを喫した[25]

2013年シーズンはチームの成績低迷の影響もあり徐々に出場機会を失い、8月10日第20節サンフレッチェ広島戦(1-2@Eスタ)以降はスターティングメンバーから外れるようになる。8月31日第24節ヴァンフォーレ甲府戦(1-1@ヤマハ)では5試合ぶりに復帰するが、その後のリーグ戦での出場はなく、以降は腰痛の影響もあり登録メンバーから外れることもあった。最終節となる12月7日の大分トリニータ戦(3-1@ヤマハ)で久々の出場を果たし、9試合ぶりの勝利に貢献するが、翌年のJ2降格が決定しているチームからの契約期間満了の通達により、この試合をもってジュビロ磐田での最終ゲームとなり、9年間在籍したチームを去ることになった[26]

FC岐阜時代[編集]

2014年1月17日、J2に所属するFC岐阜へ移籍[27]。同年リーグ戦37試合に出場した。

2015年1月15日、FC岐阜が15年シーズンの契約を更新したことを発表[28]。同年より背番号が22から1に変更される[29]。2015年シーズンはプロ入り後初のひざの故障に悩まされ[30]、第7節の東京ヴェルディ戦を最後に長期離脱。同年11月14日カマタマーレ讃岐戦で7か月ぶりにベンチ入り。リーグ最終節のアビスパ福岡戦で約7か月半ぶりにスタメン出場を果たした[31]

同年11月27日、FC岐阜は契約満了により川口の契約更新を行わないことを発表し、退団することとなった[32]

SC相模原時代[編集]

2016年にJ3所属のSC相模原に完全移籍した[33]。3月の開幕直前に左足首を負傷したが、同年5月8日の第8節ブラウブリッツ秋田戦に出場してJ3初出場[34]。2017年11月19日、第32節のFC東京U-23戦で通算500試合に出場した。

2018年11月にシーズン終了と共に現役引退することをクラブが発表した[1]。引退の理由は「日本サッカーに、自分が選手としてではなくて、違った形で貢献したいという思いが強くなって、それで引退する覚悟を決めました」と引退会見で話している[35]。12月2日、現役最後の試合となったJ3最終節の鹿児島ユナイテッドFC戦では、キャプテンマークを巻いてスタメンで出場、無失点でチームの勝利に貢献した[36]。試合後に行われた引退セレモニーでは、ライバルだった楢﨑正剛が花束を持ってサプライズで登場した[37]。楢﨑も翌年1月に引退を発表し、3月2日に行われた楢﨑の引退セレモニーでは、逆に川口がサプライズで花束を持って登場した[38]

引退後[編集]

2019年2月、有望な若手選手を育成するナショナルトレーニングセンターのGKコーチに就任する事が発表された[39]。5月29日には、6月に行われるU-18日本代表のポルトガル合宿に、GKコーチとして参加する事が発表された[40][41]

2019年10月24日に開催されたJリーグ理事会において同年開催のJリーグアウォーズJリーグ功労選手賞の授与が決定した[42]

2022年1月、U-19日本代表のGKコーチに就任[43]

2023年シーズンから古巣ジュビロ磐田のトップチームGKコーチに就任した[44]

日本代表歴[編集]

1994年2月2日マレーシア国際トーナメント、U-23マレーシア代表戦に初出場を果たす。以降U-23サッカー日本代表としてアトランタオリンピック予選に正GKとして出場し、メキシコオリンピック以来となる28年ぶりのオリンピック出場に貢献する。その後、オリンピックのサッカー競技・日本代表選手のメンバーに選出される。

1996年7月22日アトランタオリンピック1次リーグ第1戦、ロナウドリバウドといった錚々たる面々を揃えたブラジル代表と対戦。防戦一方の展開の中、素早い飛び出しと堅い守備で相手の攻撃を凌ぎ、28本にも及ぶシュートを無失点に抑え込む。ブラジル相手に1-0の完封勝利を収めた大波乱の立役者として大きく賞賛された(マイアミの奇跡も参照)。ブラジルの代表監督マリオ・ザガロは「日本のGKは素晴らしかった」と語っている[45]。チームはグループリーグを2勝1敗で終えるも3位となり決勝トーナメント進出を逃す。

1996年8月25日ウルグアイ戦に、当時監督の加茂周によりフル代表へ初招集される[46]1997年2月13日、キングスカップスウェーデン戦において国際Aマッチ初出場を果たし[3]、以降はコンスタントに出場機会を増やしていく。フランスW杯・アジア最終予選の全試合に唯一出場し、特に苦戦を強いられたアウェー戦での活躍が光り、9月19日アブダビでのUAE戦では劣勢の状況の中、相手を無失点に封じ込め勝ち点1をもたらした。日本のサッカーの歴史に深く刻まれる“ジョホールバルの歓喜”でも2失点はしたが、安定した守備を披露し歴史的な場面に立ち会った。

1998 FIFAワールドカップのメンバーに選出され、初戦のアルゼンチン戦では相手の23本のシュートを1失点のみで抑え、敗れたものの善戦した。その後のクロアチア戦(0-1)、ジャマイカ戦(1-2)でも奮闘するが敗れグループリーグ敗退となった。

フランスワールドカップ後に監督に就任したフィリップ・トルシエの下では、楢﨑正剛の台頭もあり徐々に出場機会が減り、2000年シドニーオリンピックの代表からも外れた。しかし、出番が回ってきたAFCアジアカップ2000ではグループリーグの1試合を除く全試合に出場。決勝のサウジアラビア戦では完封勝利し優勝に貢献した。

FIFAコンフェデレーションズカップ2001には正GKとして出場。グループリーグではカナダ戦とカメルーン戦の2試合に出場し、何れも完封勝利を収める。カメルーン代表監督のルシャントルは試合後「GKの並外れた実力を前に、我々はチャンスを阻まれてしまった」と語った[45]。準決勝のオーストラリア戦では、豪雨に見舞われる難しい環境下での一戦となったが、大会を通じての4試合連続完封を成し遂げる。フランスとの決勝戦ではパトリック・ヴィエラに決勝点となる1点を許し、敗戦を喫した。日本代表は準優勝を収め、自身は同大会のベストイレブンに選出された。その後は海外移籍による出場機会の激減で試合勘など不満の残る状況が続き、コンディションが整わない日々が続いた。自国開催の2002 FIFAワールドカップでは代表に選ばれたものの出場機会は無かった。

日韓W杯後にジーコが監督に就任してからも控えの立場が続き、FIFAコンフェデレーションズカップ2003のメンバーに選出されるが出場機会は無かったが、AFCアジアカップ2004では全6試合に出場[5]。決勝トーナメント準々決勝のヨルダン戦、1-1のまま縺れ込んだPK戦ではいずれも入れられたら敗退が決まる状況で2本のシュート(3回終了時1-3)を阻止する。結果的にヨルダンは3人成功後4人連続で失敗し、日本の逆転勝利となった。ホスト国中国との決勝戦でも大会で披露した好調ぶりを発揮し、チームは2大会連続3度目優勝を果たす。自身もアジアカップ2004 ベストイレブンのタイトルを獲得。同大会ではシュート阻止率94.0%を記録した(サッカー解析システム「opta(オプタ)」より)[47]

FIFAコンフェデレーションズカップ2005は国内組として出場。初戦となるメキシコ戦は1-2で敗れるが、続くギリシャ戦は無失点に抑えて1-0で勝利する。第三戦のブラジル戦では2点を先取される展開となったが、その後は得点を許さず、後半にはフアンが放った至近距離のシュートを顔面で阻止する気迫のセーブを見せる。その影響で一時的に脳震盪を患うが[48][49]、その後もプレーを続け、日本は2点ビハインドから2点を取り返し引き分けに持ち込んだが、グループリーグ1勝1敗1分の3位で終え決勝トーナメント進出を逃した。

2006年、自身3度目となるワールドカップのメンバーに選ばれ全3試合に出場。初戦のオーストラリア戦は相手の再三の攻撃を凌ぐも、スローインへの飛び出しから同点にされ[50]、終盤に3失点を喫して1-3で敗れた。第2戦のクロアチア戦では、キックに定評があるダリヨ・スルナのPKを止め勝ち点1を呼び込んだ(0-0)。このプレーによって、ワールドカップでPKを止めた史上20人目のGKとして名を残した[51][52]。またドイツ紙は川口に対し「何度も止めた英雄」と絶賛した[53]。第3戦のブラジル戦では、次々に放たれる21本のシュートを浴び4失点を喫するも孤軍奮闘の守りを見せたが、1-4で敗戦。しかし英メディアはブラジルの猛攻を再三好セーブで凌いだ川口を絶賛し[54]、ブラジルメディアも好セーブを連発した川口を高く評価した[55][56]。チームはグループリーグ2敗1分けで決勝トーナメント進出を逃したが、自身はFIFAが選定した「グループリーグ敗退国ベストイレブン」の控えGKに選ばれた[57]。また、ブラジル戦で前半ジュニーニョ・ペルナンブカーノのミドルシュートを止めたセーブが「2006 FIFAワールドカップスーパーセーブベスト10」ランキングの6位に選ばれた。

ドイツワールドカップ後にイビチャ・オシムが監督に就任して以降は、キャプテンに指名されると共に背番号1を与えられた。2007年3月24日キリンチャレンジカップペルー戦で国際Aマッチ100試合出場を達成[58]。自身3度目となるアジアカップには正GKとして全試合出場した。決勝トーナメント準々決勝のオーストラリア戦では、1-1で延長戦も終了し引き続き行われたPK戦では1番手のハリー・キューウェル、2番手のルーカス・ニールを連続で阻止する活躍を見せ4-3で勝利した[59]。しかし、準決勝のサウジアラビア戦では2-3で敗戦。3位決定戦の韓国戦ではまたしてもPK戦にもつれたが5-6で敗戦し、3連覇は成らなかった。

2008年3月26日に行われた2010 FIFAワールドカップ・アジア3次予選のアウェーバーレーン戦で、相手のセンタリングのボールを捌ききれず失点し、この試合を最後に約4年守っていた正GKのポジションを剥奪されたが、11月13日シリア戦では楢﨑の負傷により国際Aマッチ11試合ぶりとなる出場を果たした(3-1で勝利)[60][61]。その後の2010 FIFAワールドカップ・アジア最終予選カタール戦では完封勝利を果たす(3-0)[62]2009年1月20日AFCアジアカップ2011・最終予選イエメンには欠場したが、1月28日のバーレーン戦では出場濃厚だったものの練習中に右脹脛を負傷[63][64]。欠場となった。

3月19日にはコンディション不調と所属する磐田の不振により、3月28日の2010 FIFAワールドカップ・アジア最終予選のバーレーン戦での招集が見送られた。怪我以外で代表メンバーから外れたのは4年4か月ぶりだった[65]。さらに9月19日の第26節京都戦で相手選手と接触し、右脛骨骨幹部骨折で全治6か月の大けがを負った[66]

2010年5月10日の南アフリカワールドカップに向けた最終メンバー発表までJリーグの公式戦に出場していなかったが、代表監督の岡田武史からチームキャプテンとしての役割を求められ2010 FIFAワールドカップの代表メンバーに選出された[67][68]。本大会で出場機会は無かったがまとめ役としてチームに貢献[69]、岡田から賞賛を受けた[70]

プレースタイル[編集]

キャプテンシーに優れ、逆境に立たされた際に存在感を発揮するプレイヤー[71]。しばしば「炎の守護神」[31][72][73]、「魂の守護神」[74] と表現される。

ゴールキーパーとしては小柄な体格であるが、飛び抜けた瞬発力と集中力、判断力の良さを持ち[75]、ゴール前での飛び出しと俊敏な反応を武器としている[76]。 大舞台に強いメンタルの強さも長所と言われており[77]、実際に重要な国際試合では何度も神懸かり的な活躍を見せてきた[78]。特にペナルティーキックでの勝負強さには定評があり、川口がPKを行うときの周りの雰囲気・キッカーの動きを予測するここ一番の集中力は奇跡と称される[79][80]中村俊輔は「能活さんとのPK戦は、どこに蹴っても届きそうな気がするし、読まれている気がする」「蹴る前から『あ、ここだと反応されそう』という画が、頭によぎってしまう。その時点で、こっちはゾーンに入れない。もし決まったとしても、それは“たまたま”に過ぎなくて、勝負は負けているんです。能活さんはキーパーなのにゲームを勝たせる力がある。これって絶対に抜きんでた力がないとできない。0-2、0-3で負けてもおかしくないゲームを1-0で勝ったとしたら、絶対にキーパーの力。能活さんには、そういう試合がありすぎる」と述べている[81]

重心を低く保ち、コンパクトな前傾姿勢が特徴的である[82]

ロングキックを得意とする[83]。マリノス時代から得意としていたが、ノアシェランで更に磨きをかけた[83]。カウンターでも狙う相手によっては球種を変えており、スピードを持つ選手には速いボール、高さ、強さのある選手には受けやすいボールを蹴り分けている[83]

評価[編集]

  • ラモス瑠偉は川口について「日本の宝。キーパーとしてNO.1だと思っている。プロフェッショナル意識を持っているし、他の選手たちからも尊敬されている」と語っている[84]

人物[編集]

  • 地元である富士市富士山には深い思い入れがある[85][86]
  • 横浜F・マリノス時代にチームメイトであった中村俊輔のフリーキック練習に遅くまで付き合うことも少なくなく、中村からは度々感謝されている[87]
  • 楢﨑正剛とはライバル関係にあり[76][88][89]、メディアからは新人の頃から比較され続けた。日本代表の練習中に2人が話していると、報道陣がざわつくこともあり[89]、代表合宿でのハイボール処理の特訓においての川口と楢﨑の対決では、その気迫にチームメイトも足を止める一幕もあった(結果は12戦中9勝2敗1分)[88]。川口自身は楢﨑との関係について「普通」と語っており、楢﨑も「全然普通」と賛同している[89]
  • マリノス時代やオリンピックや日韓W杯でチームメイトだった松田直樹とは、シーズンオフに一緒に練習していた。川口は松田の事を“戦友”と言っている[90]。また、松田が心筋梗塞で亡くなる日の前日(2011年8月3日)に行われたスルガ銀行チャンピオンシップ2011で、PK戦で2本止めて優勝した。試合後のインタビューでは「マツが力を貸してくれた。あいつも今、闘っている最中。僕も負けられないと思いました。」と答えていた[91]
  • ホセ・ルイス・チラベルトを尊敬する[45]
  • 現役時代はベスト体重の維持の為1日5度体重計に乗り、100グラム単位まで気を使っていた[45]。この他食事はもちろん、睡眠時間の確保にも気を使っていたため、現役時代を「常に張り詰めた生活」と述べている[92]。引退後の2018年12月13日に「プロサッカークラブをつくろう!ロード・トゥ・ワールド」のメディア発表会に登場した際には前日にレモンケーキ[93] を食べたということを明かし、「甘い物っておいしいですね」とコメントしている[92]

私生活[編集]

所属先(指導者時代含む)[編集]

ユース経歴
プロ経歴
指導歴

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1994 横浜M/
横浜FM
- J 0 0 0 0 0 0 0 0
1995 41 0 0 0 2 0 43 0
1996 15 0 13 0 0 0 28 0
1997 1 22 0 0 0 2 0 24 0
1998 34 0 0 0 1 0 35 0
1999 J1 28 0 6 0 2 0 36 0
2000 28 0 5 0 3 0 36 0
2001 25 0 7 0 - 32 0
イングランド リーグ戦 FLカップFAカップ 期間通算
2001-02 ポーツマス 37 FLC 11 0 0 0 1 0 12 0
2002-03 29 1 0 0 0 0 0 1 0
2003-04 - プレミア 0 0 0 0 0 0 0 0
デンマーク リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
2003-04 ノアシェラン 30 SASリーガ 8 0 1 0 - 9 0
2004-05 0 0 0 0 - 0 0
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2005 磐田 1 J1 29 0 1 0 3 0 33 0
2006 34 0 3 0 1 0 38 0
2007 32 0 3 0 1 0 36 0
2008 33 0 1 0 0 0 34 0
2009 26 0 4 0 0 0 30 0
2010 17 0 4 0 1 0 22 0
2011 34 0 3 0 1 0 38 0
2012 2 0 0 0 1 0 3 0
2013 21 0 1 0 1 0 23 0
2014 岐阜 22 J2 37 0 - 0 0 37 0
2015 1 6 0 - 0 0 6 0
2016 相模原 23 J3 19 0 - - 19 0
2017 1 18 0 - - 18 0
2018 6 0 - - 6 0
通算 日本 J1 421 0 51 0 19 0 491 0
日本 J2 43 0 - 0 0 43 0
日本 J3 43 0 - 0 0 43 0
イングランド プレミア 0 0 - - 0 0
イングランド FLC 12 0 0 0 1 0 13 0
デンマーク SASリーガ 8 0 1 0 0 0 9 0
総通算 546 0 52 0 20 0 599 0

その他の公式戦

国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
UEFAUEFA EL
2003-04 ノアシェラン 30 1 0
AFCACL
2005 磐田 1 1 0
通算 UEFA 1 0
通算 AFC 1 0

その他の国際公式戦

代表歴[編集]

主な出場大会[編集]

試合数[編集]


日本代表国際Aマッチ
出場得点
1997 21 0
1998 9 0
1999 3 0
2000 8 0
2001 9 0
2002 2 0
2003 2 0
2004 11 0
2005 14 0
2006 19 0
2007 12 0
2008 6 0
2010 0 0
通算 116 0
サッカー五輪代表
出場 得点
1994 8 0
1995 15 0
1996 13 0
通算 36 0

記録[編集]

  • ワールドカップ予選5試合連続完封 ※歴代最多記録[97](当時[98])

初出場[編集]

開催年月日 サッカーリーグ カテゴリー 対戦相手 開催地 勝敗
1995年4月26日 Jリーグ J1(第11節) 日本の旗柏レイソル 国立競技場 ○1-0
2014年3月2日 J2(第1節) 日本の旗カマタマーレ讃岐 長良川競技場 ○3-1
2016年5月8日 J3(第8節) 日本の旗ブラウブリッツ秋田 相模原ギオンスタジアム △2-2
2001年11月3日 フットボールリーグ チャンピオンシップ(第8節) イングランドの旗 シェフィールド・ウェンズデイFC ヒルズボロ・スタジアム ○3-2
2003年10月5日 デンマーク・スーペルリーガ SASリーガ(第11節) デンマークの旗ヘアフュルエ ヘアフュルエ・スタジアム ●1-2
開催年月日 ナショナルチーム 大会名 対戦相手 開催地 勝敗
1994年2月2日 U-23サッカー日本代表 マレーシア国際トーナメント マレーシアの旗 U-23マレーシア代表 クアランプール ○1-0
1997年2月13日 サッカー日本代表 第28回キングス・カップ スウェーデンの旗 スウェーデン ナショナルスタジアム(バンコク ●0-1

タイトル[編集]

チーム[編集]

個人[編集]

サッカー

その他

出版[編集]

書籍[編集]

  • ゴールはオレにまかせろ!「川口能活」―アトランタ若き守護神 (1996年7月発売、著・大貫哲義 主婦と生活社ISBN 4391119129
  • 川口能活〈PERSONAL BOOK〉YOSHIKATSU (1996年12月発売、小学館ISBN 4091023266
  • 魂のゴールキーパー 川口能活 (2006年3月発売、著・西川昭策 アールズ出版ISBN 4862040128
  • 川口能活 証 (2006年5月発売、著・山中忍 文藝春秋ISBN 4163680101
  • 月刊コロコロコミック』 (1998年6-7月号でドキュメント漫画「川口能活物語」を掲載、作画はかとうひろし)
  • 壁を超える (2017年10月10日発売、著・川口能活 角川新書ISBN 9784040821665 [99]

ビデオ[編集]

出演[編集]

メディア出演[編集]

CM[編集]

イメージキャラクター[編集]

  • セキュリティハウス・センター (契約会社)[107]

関連項目[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ただし、川口は自ら実際の身長が179cmだったことを明かしている[2]。なお、4度出場したワールドカップにおいてはフランス大会では181cm、日韓大会では179cm、ドイツ・南アフリカ大会では180cmで登録されていた[2]

出典[編集]

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  23. ^ 磐田駒野FK弾 川口400戦達成飾る/J1 日刊スポーツ 2012.3.18付ニュースリリース
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外部リンク[編集]