岡本太郎

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岡本 太郎
1953年(昭和28年、42歳時)
自宅アトリエにて撮影。
誕生日 1911年(明治44年)2月26日
出生地 日本の旗 日本 神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現・神奈川県川崎市高津区二子
死没年 1996年(平成8年)1月7日(満84歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都新宿区信濃町35(慶應義塾大学病院
国籍 日本の旗 日本
運動・動向 抽象美術シュルレアリスム原始美術
芸術分野 絵画彫刻陶芸書道写真著述業
教育 パリ大学ソルボンヌ校哲学科にて美学履修の記録がある。正規学生か聴講生かは不詳。
代表作傷ましき腕》、《重工業》、《明日の神話》、《マミ会館》、《太陽の塔》、ほか
受賞 芸術文化勲章フランス。1984年、1989年)
影響を受けた
芸術家
岡本一平岡本かの子(父母)、マルセル・モース(師事?)、パブロ・ピカソミルチャ・エリアーデ(戦後)
影響を与えた
芸術家
ゲルダ・タロー
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岡本 太郎(おかもと たろう、1911年明治44年)2月26日 - 1996年平成8年)1月7日)は、日本芸術家。血液型はO型[1]1930年昭和5年)から1940年(昭和15年)までフランスで過ごす。抽象美術運動やシュルレアリスム運動とも交流(ただし合流はしていない)した。第二次世界大戦後、日本で積極的に絵画立体作品を制作するかたわら、縄文土器論沖縄文化論を発表するなど文筆活動も行い、雑誌やテレビなどのメディアにも1950年代から積極的に出演した[2]

経歴

少年時代

太郎は神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現・神奈川県川崎市高津区二子)で、漫画家岡本一平歌人作家かの子との間に長男として生まれる。父方の祖父は書家の岡本可亭であり、北大路魯山人の師匠であった。

父・一平は朝日新聞で"漫画漫文"という独自のスタイルで人気を博し[3]、「宰相の名は知らぬが、岡本一平なら知っている」と言われるほど有名になるが、付き合いのため収入のほとんどを使ってしまうほどの放蕩ぶりで、家の電気を止められてしまうこともあった。

母・かの子は、大地主の長女として乳母日傘で育ち、若いころから文学に熱中。 世間知らずのお嬢さん育ちで、家政や子育てが全く出来ない人物だった。太郎が3~4歳の頃、かまって欲しさに創作の邪魔をすると、かの子は兵児帯でタンスにくくりつけたというエピソードがある。また、かの子の敬慕者で愛人でもある堀切茂雄を一平公認で自宅に住まわせていた。一平には創作の為のプラトニックな友人であると弁明していたが、実際にはそうではなかったという。放蕩三昧の生き方をひと頃していた一平は容認せざるを得なかった。後に太郎は「母親としては最低の人だった。」と語っているが、生涯、敬愛し続けた。

家庭環境の為か、太郎は 1917年大正6年)4月、東京青山にある青南小学校に入学するもなじめず一学期で退学。その後も日本橋通旅籠町の私塾・日新学校、十思小学校へと入転校を繰り返した。慶應義塾幼稚舎で太郎の理解者となる教師、位上清に出会う。クラスの人気者となるも、成績は52人中の52番だった。ちなみにひとつ上の51番は後に国民栄誉賞を受賞した歌手の藤山一郎で、後年太郎は藤山に「増永(藤山の本名)はよく学校に出ていたくせにビリから二番、オレは殆ど出ないでビリ、実際はお前がビリだ」と語ったという。

絵が好きで幼少よりさかんに描いていたが、中学に入った頃から「何のために描くのか」という疑問に苛まれた。慶應義塾普通部を卒業後、画家になる事に迷いながらも、東京美術学校へ進学した。

滞仏生活とピカソの衝撃

父・一平が朝日新聞特派員として、ロンドン海軍軍縮会議の取材に行くことになり、太郎も東京美術学校を休学後、親子三人にかの子の愛人の青年二人を加えた一行で渡欧。一行を乗せた日光丸は1929年昭和4年)神戸港を出港、1930年(昭和5年)1月にパリに到着。太郎は以後約10年間をここで過ごすことになる。

フランス語を勉強するため、パリ郊外のリセ(日本の中学校に相当)の寄宿舎で生活。語学の習得の傍ら、1932年頃、パリ大学ソルボンヌ校においてヴィクトール・バッシュ教授に美学を学んでいる。パリ滞在の後半となる1938年頃から、太郎は「何のために絵を描くのか」という疑問に対する答えを得るため、マルセル・モースのもとで絵とは関係のない民族学を学んだといわれている。

1932年(昭和7年)、両親が先に帰国することになり、パリで見送る。かの子は1939年(昭和14年)に太郎の帰国を待たずに逝去したため、これが今生の別れとなった。

同年、芸術への迷いが続いていたある日、たまたま立ち寄ったポール=ローザンベール画廊ピカソの作品《水差しと果物鉢》[4]を見て、太郎は強い衝撃を受ける。そして「ピカソを超える」ことを目標に絵画制作に打ち込むようになる。岡本は、この時の感動を著書『青春ピカソ』(1953年)において「私は抽象画から絵の道を求めた。(中略)この様式こそ伝統や民族、国境の障壁を突破できる真に世界的な二十世紀の芸術様式だったのだ」と述べている。

1932年、ジャン・アルプらの勧誘を受け、美術団体アプストラクシオン・クレアシオン協会のメンバーとなる。

1932年から1940年までの住所が確認され、川崎市岡本太郎美術館『岡本太郎と潜在的イメージ』展図録において佐々木秀憲によって論文「岡本太郎と潜在的イメージ」の中で発表された。1932‐33年がサン=アマン通り31番地(31 rue Saint-Amand)、1934‐35年がイボリット・マンドロン通り29番地(29 rue Hippolyte Maindron)、そして1936‐40年がエルネスト・クレッソン通り18番地(18 rue Ernest Cresson)であった。

意外なところでは、岡本と親交のあった戦場カメラマンロバート・キャパの公私に亘る相方であった報道写真家ゲルダ・タローに岡本の名前が1936年よりビジネスネームとして引用された。しかしゲルダ・タローの活動期間は、とても短く1937年スペイン内戦ブルネテの戦いの取材に向かったが、この戦場の混乱で発生した自動車事故で重傷を負い、この怪我が原因で死去した。

兵役と戦後

1940年(昭和15年)、ドイツのパリ侵攻をきっかけに日本へ帰国する。帰国後、滞欧作《傷ましき腕》などを二科展に出品して受賞、個展も開く。

1942年(昭和17年)、太平洋戦争下の軍備増強の為、補充兵役であった太郎は召集され帝国陸軍の兵士として中国戦線へ出征。アメリカイギリスのような大国を相手にしたこの戦争は負けると信じており、上官から「日本は勝てるか?」と訊ねられると、婉曲的に「勝てません」と答えている。太郎は(20歳当時の徴兵検査時に甲種合格し現役として)軍隊に入営(入隊)した経験が無い未熟な補充兵(補充兵役)であり、階級は最下級の陸軍二等兵から始まっている。また兵としては高年齢である30代という事もあり、厳しい兵役生活を送ったと岡本は著書で回想している。一方、1942年、依頼に応じて師団長の肖像画をアカデミックな技法で描いているが、その制作中の写真からは、意外にも一般の兵士よりも従軍中も比較的優遇されていた様子がうかがわれる。

1945年(昭和20年)、日本の降伏により太平洋戦争(第二次世界大戦)は終結。太郎は長安で半年ほど俘虜生活[5]を経たのち帰国、佐世保(現ハウステンボスの場所)に到着するが、自宅と作品は焼失していた。東京都世田谷区上野毛にアトリエを構え、ふたたび制作に励む。1947年(昭和22年)、太郎は新聞に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」という宣言を発表、当時の日本美術界に挑戦状を叩きつけた。

1948年(昭和23年)、 花田清輝らとともに「夜の会」を結成。会の名は太郎の油彩画《》から取られた。前衛芸術について論じ合う会で、ほかに埴谷雄高安部公房らが参加した。またこの頃、平野敏子と出会った。敏子は後に秘書・養女となり、太郎が逝去するまで献身的に支え続けた。

1951年(昭和26年)11月7日、東京国立博物館縄文火焔土器を見て衝撃を受ける。翌年、美術雑誌『みずゑ』に「四次元との対話―縄文土器論」を発表。この反響によって、日本美術史は縄文時代から語られるようになったといわれている[6]。おなじように沖縄東北の古い文化や伝統を再発見し広く紹介した。

もっとも、岡本による「縄文土器論」は、1951年11月1日発刊・発売の『芸術新潮』に掲載されている児童文学者の北畠八穂による記事「わびしい村―亀ヶ岡族の藝術―」と論旨展開が似ており、縄文土器を芸術作品としての視点で捉えている点や縄文土器とシャーマニズムとを結び付けて考察している点など、その近似性が繰り返し指摘されている。『芸術新潮』の常連執筆者の一人でもあった岡本が、同誌同号を発刊後間もなく読み、触発されて東博を訪問し自身の「縄文土器論」を執筆した可能性が高いことも考察されなければならない。

岡本太郎の縄文土器論の着想を、ジョルジュ・バタイユが主宰した雑誌『ドキュマン』に掲載された中谷治宇二郎による縄文土器に関する紹介記事(1930年)に求めるものがあるが、岡本が初めて縄文土器論を執筆した1952年から遡ること四半世紀の時間の隔たりがあることから、岡本が縄文土器論を展開し始める直接的な動機の説明としては無理があると考えられる。そもそも、岡本が当該記事を読んだことを論証する客観的証拠はどこにも存在しない。

1954年(昭和29年)、東京都港区青山に自宅兼アトリエを建て[7]、生活と制作の拠点とする。同年、当時光文社社長だった神吉晴夫から、「中学1年生でも理解できる芸術の啓蒙書を書いてくれ」と依頼され、『今日の芸術 時代を創造するものは誰か』を執筆・出版。芸術は小手先の問題ではなく、生きることそのものであると説くとともに、古くさい従来の芸術観を攻撃し、ベストセラーになった。同書において、岡本は「芸術」という言葉は、明治時代になって日本にもたらされた概念であると述べているが、この部分は明らかな錯誤である。諸橋大漢和によれば、「芸術」は、すでに漢時代に存在しており、諸芸術の総称として用いられている。また日本でも「芸術」は平安時代の日記文学に頻繁に登場し、今日の「絵画」とほぼ同義であった(『辻惟雄集 第1巻』2013岩波書店による)。

太陽の塔

太陽の塔

1970年(昭和45年)に大阪で万国博覧会が開催されることが決まり、主催者(国)は紆余曲折の末、テーマ展示のプロデューサーを岡本太郎に依頼した。太郎は承諾すると、「とにかくべらぼうなものを作ってやる」とひたすら構想を練った。そうして出来上がったのが総高70mの《太陽の塔》である。

 1967年、テーマ展示プロデューサに就任後の最初の公式記者発表において岡本太郎は、高さ60mの「(仮称)生命の木」を作ることを発表しており、《太陽の塔》が樹木をモチーフとして造形されていることが判る。このことを裏付けるように、1967年10月26日撮影の原型制作中の岡本の記録写真(吉田優撮影)には、太陽の塔の原型に生命の木の枝と葉が下書きされている。そして左右に刻まれている2本の赤いジグザグは、1950年頃以降、岡本が愛読したミルチャ・エリアーデの著作に記されている「シャーマンの木」の7つないし9つの刻み目(notch)から着想を得ていることが指摘されている。また、内部を過去・現在・未来の三層構造とする着想なども、エリアーデの著作からの影響が指摘されている(佐々木秀憲「岡本太郎におけるミルチャ・エリアーデの影響」『美学』239号、美学会)。

日本万国博覧会は成功のもとに終了。1975年(昭和50年)、《太陽の塔》は永久保存が決定。現在も大阪のシンボルとして愛されている。

茶の間の人気者として

岡本太郎は、テレビ放送草創期の1950年代から、当時のバラエティ番組であったクイズ番組などに多数出演している。

1970年代以降には、日本テレビバラエティ番組鶴太郎のテレもんじゃ』にレギュラー出演。冒頭でリヒャルト・シュトラウスツァラトストラはかく語りき』を鳴り響かせ、ドライアイスの煙の立ちこめる中から太郎が異形の面貌で、 「芸術は爆発だ」「何だ、これは」と叫びながら現れる演出が人気を博すと、流行語にもなった。番組内で出演した子供たちの絵を批評、お眼鏡に適う作品を見出した際には、目を輝かせた。またこの番組内で共演した片岡鶴太郎の芸術家としての才能を見出している。

1987年(昭和62年)にはテレビドラマにも出演。NHKばら色の人生』に俳優(学校校長役)としてレギュラー出演した。

没後

南青山にある岡本太郎記念館

太郎は老いを重ねても創作意欲は衰えず、個展など精力的な活動を続けていたが、80歳のときに太郎が所蔵するほとんどの作品を川崎市に寄贈。市は美術館建設を計画する。

1996年(平成8年)1月7日、以前から患っていたパーキンソン病による急性呼吸不全により慶應義塾大学病院にて死去した(満84歳没)。生前「死は祭りだ」と語り、葬式が大嫌いだった太郎に配慮するため、葬儀は行われず、翌月2月26日にお別れ会として「岡本太郎と語る広場」が草月会館で開かれる。会場には太郎の遺した作品たちが展示され、参加者たちは太郎との別れを惜しんだ。


1998年(平成10年)、青山の太郎の住居兼アトリエ岡本太郎記念館として一般公開された。

1999年(平成11年)10月30日、川崎市岡本太郎美術館が開館(川崎市多摩区枡形の生田緑地内に所在)。

2003年(平成15年)、メキシコで行方不明になっていた大作《明日の神話》が発見された。愛媛県東温市で修復されたのち、2006年(平成18年)、汐留日テレプラザで期間限定で公開、岡本太郎再評価の機運が高まる。現在は京王井の頭線渋谷駅連絡通路に設置され、広く一般に公開されたパブリックアートととして新たな名所となった。

2011年(平成23年)、「生誕100年 岡本太郎」展が東京国立近代美術館で開催された。この展覧会を区切りとして、岡本太郎研究は、堰を切ったかのように、次なる段階へと進展した。

2013年(平成25年)、「岡本太郎のシャーマニズム」展が川崎市岡本太郎美術館で開催された。これに併せて学術団体協力による学術シンポジウムが開催され、1950年頃以降の岡本太郎の創作活動に世界的宗教学者ミルチャ・エリアーデの思想が多大なる影響を与えていたことが、学術的に確認された。同展では岡本太郎の創作活動をイコノロジー図像解釈学)研究の観点から再構成する画期的内容が展開され、各方面からの注目を集めた。

2014年(平成26年)、「岡本太郎と潜在的イメージ」展が川崎市岡本太郎美術館で開催された。同展は、スイス・ジュネーヴ大学教授のダリオ・ガンボーニ博士の著書『潜在的イメージ』に基づいて構成された内容であり、岡本太郎芸術を西洋近現代美術史の観点から検証した初の展覧会であった。従来、日本人の美術評論家等により岡本太郎は独自の創作活動を展開した孤高な作家とされてきたのに対し、同展では岡本の個人様式が西洋近現代美術の諸様式に追従するように展開していることを検証した。岡本太郎の造形作品を美術様式論として紹介した意欲的な展覧会であり、岡本太郎の創作活動を論じるには日本美術史の観点からのみでは無理があることを実証した。また、パリ時代の岡本の住所が判明し同展図録で紹介された。さらに、アヴァンギャルド芸術研究を専門とする美術史家グラディス・ファーブルGladys Fabre)博士によるアプストラクシオン・クレアシオン協会に関する1976年の論文が初めて翻訳され同図録に掲載された。同展以降、ヨーロッパ、とくにスイス系の芸術家(アルプ、レジェ、セリグマン、ヴュリアミ―等)と岡本との交流に関する研究が不十分であったことが認識されるようになり、現在、研究者各位によって調査が進展しつつある。

一方、岡本はスイス系の芸術家との交流があったものの、1930年代後半の作風が、アルプやセリグマンやヴュリアミ―等とも全く異なっていることから、この時期、岡本はアルプ等の作風以外の要素も模索していた可能性を考慮すべきであることも指摘されている(佐々木秀憲「岡本太郎と潜在的イメージ」)。すなわち、アルプ等の作風はこの時期シュルレアリスム的な傾向性を次第に強くしていくが、岡本の場合、シュルレアリスムとも抽象主義とも言い切れない作風となっていく。ゆえに、1937年のパリ万国博覧会のために、パリ市内にナショナリズム的思潮が高揚し市内の各所にネオ・クラシシスム風のモニュメントが設置されていたこと、またパリに隣接するブーローニュ=ビアンクールを拠点とする芸術家たちによってエコール・ド・パリとは異なる作風の芸術活動が行われていたこと(同地の1930年代美術館は優れた展示活動を展開している)など、1930年代後半のパリ市内における芸術思潮の変遷が岡本にも及んで独自の画風を確立しつつあったことを考慮すべきであることが指摘されている(佐々木秀憲「岡本太郎と潜在的イメージ」)。1937年頃以降、岡本がアルプらによる展覧会に出品した記録は管見の限り見当たらない。このことは、岡本自身が自著の中で、この時期、絵が描けなくなりパリ大学に通ってマルセル・モースの下で民族学の研究に没頭したと述べていることと符合している。よって、岡本太郎がアルプ等スイス系芸術家との交流があったからと言って、1930年代後半の岡本の作風をシュルレアリスムに帰属させることができるほど単純では無いと考えられる。

人物

芸術観

芸術一家に生まれ、少年期より既存概念にとらわれる事がなく育った岡本太郎、人間としての自由や権利を阻害する者、権威を振りかざす者、かさにかかって押さえつけようとする者には、徹底的に反抗した。この反逆児ぶりは生涯貫いており、またそれが創作への情熱にもなった。

東京美術学校(現東京藝術大学)油絵科の入試対策として、川端画学校に通いアカデミックな絵画技法を修得した。また、パリ滞在のごく初期である1930年頃にも、パリの画学校であるアカデミー・ランソンに午前、グランド・ショーミエールに午後通い、極めてアカデミックな絵画技法の修得に努めている。この頃のアカデミックな鍛錬が、後年の長期にわたる岡本の造形作品制作を支え続けたのである。

岡本太郎の芸術観は、パリ滞在時代に参加した美術団体アプストラクシオン・クレアシオン協会に所属している間に醸成されたと考えるべきである(『岡本太郎と潜在的イメージ展図録』川崎市岡本太郎美術館、2014年)。

著書『今日の芸術[8]の中で、芸術は「うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。」[9]と宣言している。これは手先の巧さ、美しさ、心地よさは、芸術の本質とは全く関係がなく、むしろいやったらしさや不快感を含め、見る者を激しく引きつけ圧倒する事こそが真の芸術と説いている。

岡本太郎の代表的著作の一つである『美の呪力』は、ミルチャ・エリアーデ著『イメージとシンボル』と近似する部分が多いことが指摘されている。岡本はエリアーデによる同書フランス語初版を所持しており、多数のアンダーラインが施されていることが確認されている。今後、岡本の『美の呪力』とエリアーデの『イメージとシンボル』との比較研究が、宗教学の専門家によって為されることが期待される(『岡本太郎のシャーマニズム 学術シンポジウム報告書』川崎市岡本太郎美術館、2014年)。

岡本太郎が造形作品は無意味であり、作品に込められた意図や思想を解明することは無意味であるとする学識経験者もいるが、それは誤りであると考えられる。岡本は著書『私の現代芸術』(1963)において「私は絵画の訴えるのは単なる視覚、美感覚ではないと考える。(中略)ところが近代造形は意味、内容、思想を不純物のように否定してしまった。(中略)問題はそこにあると思う」(313頁)と述べている。

「職業は人間」「芸術は爆発だ」「芸術は呪術だ」「グラスの底に顔があっても良いじゃないか」などの名言を残した事でも有名である。[10]

一般的には岡本太郎はお笑いタレントにモノマネされたことなども影響してか、人物として正当に評価されてこなかった。もっとも、本人はそれを喜んでいた。岡本太郎没後、岡本敏子らの著作や岡本太郎記念館川崎市岡本太郎美術館による啓蒙活動によって再評価されることとなり、芸術を志す者のみならず広く一般にも共感と影響を与えることになった。

自らの作品をガラス越しで展示されるのを非常に嫌い、そのままの状態で鑑賞してもらうことを善しとする考えであった。それを表す逸話として、国立近代美術館で展示中だった《コントルポアン》を傷つけられたことがあり、それ以降関係者がガラス越しでの展示を提案すると太郎は激怒して、「傷がつけば、俺が自ら直してやる」と言ったという。渋谷駅の駅ビルのような位置づけである渋谷マークシティという、渋谷駅からの電車の微振動や乗降者数の多さ、そして気温・湿度の激しい変化に晒されるなど設置場所としては不向きなところに展示される《明日の神話》も、以上の理由で何の防護措置も施されずに展示されることになった。

恋愛観

プレイボーイとしても名を馳せ、封建かつ閉塞的な男女関係をことに嫌った太郎は、徹底したフェミニスト・ロマンティストである[1]。女性を見下したりすれば、たとえ相手が誰であろうと激しく叱責した[1]

また太郎は、生涯独身を通した。秘書であった岡本敏子を養女とする。太郎は多くの女性との恋愛を志向。これは母かの子の影響に起因するものと思われる(知ってるつもり!?の岡本太郎の回などではこのように触れている)。

スポーツ

じっとしている事が嫌いな太郎は、野球が好きで巨人の千葉茂中西太らと野球を楽しんだ。

スキー愛好家としても知られ、親交があった三浦雄一郎から賞賛される程の腕前だった。太郎はスキーの魅力について「どんな急斜面でも直滑降で滑るのがスキーの醍醐味だ」と語っている。スキーを始めた頃、急斜面コースで上級者が滑っているのを見た太郎は、どんな絶壁なのかと思い登ってみると、実際目もくらむ程の高さであった。後に引くことが許せない性格の太郎はその急斜面に挑戦した。結果は大転倒したが、太郎自身その経験をこう語っている。

「決意して、滑りはじめ、歯を食いしばって突っ込んで行った。とたんに、ステーンと、凄い勢いで転倒した。頭から新雪の中にもぐってしまい、何も見えない。だが嬉しかった。何か自分が転んだというよりも、僕の目の前で地球がひっくりかえった、というような感じ。地球にとても親しみを覚えた」

また、太郎は当時流行していた白いスキー板と白いウェアに対抗して、カラフルなデザインの板とウェアを作ったり、自らのスキー体験を綴った「岡本太郎の挑戦するスキー」(講談社、絶版)という本も出版している。

ピアノ

太郎は1930年代の滞欧時代からピアノに親しんでおり、芸術家仲間の集まりでもよく弾いたという。とくにモーツァルトの作品を好み、帰国後もアトリエにピアノを置き、制作の合間にクラシックやジャズなどを弾いた。太郎のピアノの腕前はプロ級と言われており、その演奏はほとんどが暗譜であったという。太郎がピアノを弾いた映像はいくつか残されており、1978年(昭和53年)にはドキュメンタリー番組『もうひとつの旅』(毎日放送)の撮影のため、ショパンゆかりの地マヨルカ島を訪れ、太郎が作曲家の使用したピアノを弾く映像がテレビ放映された。

その他

ビフテキを調理中(1954年)
  • 俳優の池部良は父方の従兄弟である。
  • 身長156㎝とかなりの小柄であった。(1940年頃の日本人男性の平均身長は、約160cmであった)
  • それまで全く面識がなかった千葉茂に偶然出会った際、お互い「やあやあ」という感じで話し始め、それをきっかけに交友がはじまったという。これが縁となり後日千葉が近鉄バファロー(後のバファローズ)の監督に就任した際、太郎に球団マークの制作を依頼し「猛牛マーク」が生まれる。シーズンは103敗と散々な結果に終わるが、球団帽の売り上げは巨人に次いで2位だったという。
  • 1964年(昭和39年)に開かれた東京オリンピックで、デザインの仕事を依頼される。当初「選手として参加するのか」と勘違いした [11]。そして参加メダルの表側を手がける[12]
  • 1967年(昭和42年)1月、沖縄県久高島に残る風葬を撮影した写真を発表し、タブーを犯したとして酷評される。もっとも、1966年12月のイザイホーを調査する為に久高島を訪問した多くの学識経験者は、現地の代表者に案内されて風葬の地を訪れ写真や映像を撮影している。岡本と同時に案内されたのは約10名であったという。これは、この当時すでに消滅しそうになっていた風葬の風習を記録に残してもらいたいとの現地代表者の善意から発したものであったという。この件で問題とされるのは、岡本の写真に、案内された風葬の奥の地の部分が撮影され、しかも棺桶の蓋が開いている写真があった為に、岡本が蓋を開けたのではないかと疑われたことによる。もっとも、風葬の奥の地の棺桶の蓋が開けられている写真や映像は、他の学識経験者たちも撮影している。この批判に対して岡本は、案内した現地代表者に迷惑が掛かることを気遣って沈黙を保ち続けた。近年も、風葬に関する岡本への批判を回顧する言説が、時々、述べられているが、「何が問題とされたのか」が曖昧であったり、そもそもの問題点を正確に把握していなかったりするものも少なからずあり、注意を要する。また、この件が原因となって自殺者が出たとか、精神を病んだ人がでたという噂は、全くの事実無根であることが確認されている(沖縄テレビ「岡本太郎が恋した沖縄」2012年)。
  • 1970年(昭和45年)に開かれた大阪の万国博覧会のテーマ展示館で、太郎の代表作ともいわれる《太陽の塔》の形式は、ピカソとの関連性を主張する者もあったが、岡本太郎研究が進展した今日では、むしろジャン・アルプの系統とする見解が普通である。[13]。《太陽の塔》の基本モチーフは樹木であることが判明している。
  • 絵具に人工漆のカシューと和絵具の胡粉を用いた作品もある。特殊な事例ではない。
  • 著書『日本の伝統』のための取材以来、岡本にとっての関西方面の主なコーディネーターは、名編集者として知られた淡交社の臼井史朗であった。
  • 作家の司馬遼太郎は、大阪万博プロデューサーを引き受けるべきか否かの相談を受け、就任するよう強く薦めた。
  • ドイツ出身のフランス写真家ゲルダ・タロー(Gerda Taro)は、太郎の名の東洋的な響きに惹かれてタローを姓にした。
  • 太郎は東京・日本堤にある老舗馬肉料理店「中江」の常連のひとりで、店主とも交友を持つほか、店主に「僕がフランスで食べた馬肉のタルタルステーキをこの店でも食べられるようにしてくれ」と提案・依頼し、馬肉のタルタルステーキがメニューに加えられた逸話がある。
  • じっとしていられない性質で、TBSラジオ久米宏土曜ワイドラジオTOKYO」のインタビュー・コーナー「有名人のお宅訪問」に出演した際には、コマーシャルなどの待ち時間に耐えられず、いきなり、裸足で庭へ飛び出して「まだかあ」と叫んだり、2階へ駆けあがってピアノを弾いたり、かと思えばまた1階に戻ってソファに腰かけ、また庭に飛び出し、大きなオブジェをがんがん叩いたり、削ったりしていて、インタビュワーの吉川美代子はそのオーラを感じると共に、笑いを堪えるのに必死だったという。[14]
  • 写真家の荒木経惟は、尊敬する人物に太郎の名前を挙げている。好きで好きで堪らなかったが遂にはレンズを向ける機会に恵まれなかった。1999年(平成11年)に『アラーキーのTARO愛 岡本太郎への旅』を上梓。2006年(平成18年)より、太郎の正体をつかむ為にその作品をカメラに収めることを決意した。
  • 鳥取県米子市野坂寛治元市長と親交があった。安田光昭(元米子市教育長)の著書『「あの人この人」私の交友録』に、二人の交流についての記述がある。
  • 《犬の植木鉢》は常滑の伊奈製陶で3体制作された。伊奈製陶で《犬の植木鉢》制作中の岡本太郎のスナップショットが残されており、そこに3体が写っている。3体の内、1体は岡本太郎記念館蔵、もう1体は川崎市岡本太郎美術館、そして3体目は個人蔵である。制作は、1954年11月19日に常滑の伊奈製陶にて行われ(スナップショット有)、1955年1月7日に焼き上がったので送る旨の連絡が伊奈製陶から岡本太郎にあった記録が確認されていることから、《犬の植木鉢》の制作年は1955年作とするのが妥当である。
  • 近年、岡本太郎が世界的宗教学者であるミルチャ・エリアーデの著作から思想的に大きな影響を受けていることが指摘されている(佐々木秀憲「岡本太郎におけるミルチャ・エリアーデの影響」『美学』239号2011年冬、美学会)。
  • 岡本太郎没後の再評価とブームは、岡本太郎の秘書であり養女であった岡本(旧姓平野)敏子(2005年逝去)の多大なる尽力に負うところが大きい。一方、岡本太郎に関する最善・最良・最高の語り部ではあったものの、近親者ならではの部分、そしてフランス語が得手ではなかったことによるフランス語に関わる岡本太郎情報の欠落などもあり、ポスト生誕100年の研究動向として、岡本敏子情報以外による岡本太郎像の描出が進展しつつあるのが現状である。殊に、2011年以降の研究においては、美術様式論および図像解釈学などを用いた美術史学的な研究と展覧会が展開されている。
  • 岡本太郎の文章はほとんどが岡本敏子によって口述筆記されたものであることを根拠に、岡本太郎の言説は敏子の思想によるものであるとする説があるが、岡本太郎と親交のあった作家であり政治家である石原慎太郎は、岡本敏子は優れた秘書として口述筆記および構成に尽力したのであって、その言説の思想性は岡本太郎がいて初めて成立する内容であることを証言している。
  • 岡本太郎の造形作品の作品名は、すべて岡本敏子によって付けられたとする説もあるが、学術的に実証された事例はない。

年譜

  • 1911年明治44年)2月26日、母の実家である神奈川県橘樹郡高津村二子/現在の川崎市高津区二子に生まれる。
  • 1917年大正6年) 東京・青山の青南小学校に入学
  • 1918年(大正7年) 2回の転校ののち、東京・渋谷の慶應幼稚舎に入学。
  • 1929年昭和4年)
  • 1936年(昭和11年) 油彩《傷ましき腕》(1938年の国際シュルレアリスム・パリ展の出品リストには《La Main douloureuse》とあり、パリ滞在時代から《傷ましき腕》に相当するフランス語タイトルが付されていたことが判明)を制作。アンドレ・ブルトンに絶賛される。二人の交流を裏付けるものとして、戦後にブルトンから岡本に贈った献呈本も何冊か確認されている。
  • 1940年(昭和15年) パリ陥落の直前に帰国。
  • 1942年(昭和17年) 海外に在住していたために延期されていた徴兵検査を31歳にして受け、甲種合格。召集され、中国にて自動車隊の輜重兵として軍隊生活を送る。
  • 1945年(昭和20年)5月、東京・南青山高樹町一帯を襲ったアメリカ軍の焼夷弾による空襲により、岡本太郎のパリ時代の全作品が焼失。
  • 1946年(昭和21年) 復員、東京都世田谷区上野毛にアトリエを構える。
  • 1947年(昭和22年) 後に養女となる平野(旧姓)敏子と出会う。
  • 1948年(昭和23年) 花田清輝埴谷雄高らと「夜の会」結成。
  • 1949年(昭和24年) 翌年の現代美術自選代表作十五人展ために、読売新聞美術記者・海藤日出男のたっての希望により、戦災で焼失した油彩画《傷ましき腕》《露天》を再制作。
  • 1950年(昭和25年) 読売新聞主催の現代美術自選代表作十五人展に11作品を出品。
  • 1951年(昭和26年) 東京国立博物館で縄文土器を見る(11月7日)。
  • 1952年(昭和27年) 「四次元との対話-縄文土器論」を美術雑誌『みずゑ』に発表する。11月に渡欧。翌年にかけてパリとニューヨークで個展を開く。
  • 1954年(昭和29年) アトリエを青山に移し「現代芸術研究所」を設立。『今日の芸術』を光文社からはじめて刊行。
  • 1955年(昭和30年) ヘリコプターで銀座の夜空に光で絵を描く。
  • 1956年(昭和31年) 旧東京都庁舎(丹下健三設計)に《日の壁》《月の壁》など11の陶板レリーフを制作。
  • 1957年(昭和32年) 46歳にしてスキーを始める。
  • 1959年(昭和34年) 初めて沖縄に旅行する。またこの年から彫刻を始める。
  • 1961年(昭和36年) 草津白根山でスキー中に骨折入院(同じ病院には石原裕次郎が入院していた)。療養中に油彩『遊ぶ』、彫刻『あし』を制作。
  • 1964年(昭和39年) 東京オリンピックの参加メダルの表側をデザイン。
  • 1965年(昭和40年) 名古屋久国寺に梵鐘《歓喜》制作。
  • 1967年(昭和42年) 大阪万国博覧会のテーマ展示プロデューサーに就任。
  • 1968年(昭和43年) 初めての建築作品《マミ会館》が竣工。
  • 1969年(昭和43年) 1968年から制作が開始された《明日の神話》を完成させた。
  • 1970年(昭和45年) 大阪の日本万国博覧会のテーマ展示館《太陽の塔》完成。
  • 1973年(昭和48年) 岡本太郎デザインの飛行船レインボー号が空を飛んだ。スポンサーは積水ハウス
  • 1974年(昭和49年) NHK放送センター・ロビーにレリーフ壁画《天に舞う》制作。
  • 1976年(昭和51年) キリン・シーグラムから発売されたブランデーの記念品として《顔のグラス》を制作。「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」が流行語になる。
  • 1977年(昭和52年) スペイン国立版画院に、日本人作家として初めて銅版画が収蔵される。
  • 1978年 (昭和53年) 毎日放送のテレビ番組『もうひとつの旅』撮影のために訪れたマヨルカ島で、ショパンが使用したピアノを弾く。
  • 1979年(昭和54年) 慶應義塾大学の卒業記念品としてペーパーナイフを制作。はじめての著作集が講談社から翌年にかけて刊行される。
  • 1981年(昭和56年) 初めてコンピューターで絵を描く。日立マクセルのCMに出演。ピアノを叩き叫んだ言葉「芸術は爆発だ!」が同年の流行語大賞の語録賞を受ける。
  • 1984年(昭和59年) フランス政府より芸術文化勲章を受ける。
  • 1985年(昭和60年) つくば万博のシンボルモニュメント《未来を視る》を制作。あわせて万博記念発売の洋酒ボトルをデザインする。こどもの城のシンボルモニュメント、《こどもの樹》を制作。
  • 1986年(昭和61年) 福井県三方町で復元された縄文前期の丸木舟の進水式で舟長として舟を漕ぐ。
  • 1988年(昭和63年) ダスキンのCMに出演。翌年アメリカの第29回国際放送広告賞を受賞。
  • 1989年平成元年) フランス政府よりフランス芸術文化勲章を受章。
  • 1991年(平成3年) 東京都庁舎移転のため、旧庁舎に設置されていた1956年作の陶板レリーフが取り壊される。
  • 1992年(平成4年) 油彩《疾走する眼》制作。
  • 1994年(平成6年) 三重県で開催される世界祝祭博覧会のシンボルモニュメント《であい》制作。
  • 1996年(平成8年)1月7日 急性呼吸不全のため慶應義塾大学病院にて逝去(満84歳没)。

没後

  • 1998年(平成10年) 青山の住居兼アトリエ跡に岡本太郎記念館が開館。
  • 1999年(平成11年) 神奈川県川崎市多摩区生田緑地内に川崎市岡本太郎美術館開館。
  • 2005年(平成17年) 養女・岡本敏子逝去(79歳)。
  • 2006年(平成18年)
    • 7月7日 大作の壁画《明日の神話》が汐留日テレプラザにて初公開される。これを期に岡本太郎ブームが再燃する(Be TAROと呼んでいる)。
    • 11月28日 約60年間行方不明になったものと思われていた1947年(昭和22年)制作の油彩画《電撃》と、敏子をモデルとしたと見られる未発表の女性のデッサン画が、11月中旬に東京都港区の岡本太郎記念館で発見されたと発表。
    • 11月29日《電撃》を一般公開(修復に出す12月10日までの期間限定)。
  • 2007年(平成19年)2月15日 《明日の神話》の制作初期のものとみられる最初期の下絵(縦29センチ、横181.5センチ)が、岡本太郎記念館(東京都港区)で発見される。
  • 2008年(平成20年)3月 《明日の神話》の恒久設置場所が東京都渋谷区京王井の頭線渋谷駅連絡通路に決まる。同年11月17日より一般公開開始。
  • 2011年(平成23年) 1月 太郎の生誕100年を記念し出身地の川崎市を本拠地とするJリーグ所属の川崎フロンターレがユニホームデザインの一部として、生前に製作したデザイン文字「挑」を採用することを発表。

主な作品

平面作品

※所蔵先記載無は、川崎市岡本太郎美術館蔵

  • 敗惨の歎き(1924年)- 現存する太郎の最古の作品。
  • 空間(油彩、1933年)- 戦災により焼失し、1954年に再制作された。
  • コントルポアン(油彩、1935年東京国立近代美術館蔵) - 戦災により焼失し、1954年に再制作された。
  • 傷ましき腕(油彩、1936年)- 戦災により焼失し、1949年に再制作された。満州鉄道のプロパガンダ雑誌である『FRANCE-JAPON』誌の1937年9・10月合併号の97頁において《傷ましき腕》がモノクロ挿絵付で作品名《La Main douloureuse》として紹介され、また1938年の国際シュルレアリスム・パリ展の出品リストには《La Main douloureuse》と記されていることから、同作品は、岡本のパリ滞在時代から《傷ましき腕》に相当するフランス語のタイトルが付されていたことが判明している。
  • 露店(油彩、1937年グッゲンハイム美術館蔵) - 戦災により焼失し、1949年に再制作された。
  • 憂愁(油彩、1947年、草月美術館蔵)
  • 重工業(油彩、1949年
  • 赤い兎(油彩、1949年、富山県立近代美術館蔵)
  • 森の掟(油彩、1950年
  • 燃える人(油彩、1955年、東京国立近代美術館蔵)
  • 裂けた顔(油彩、1960年
  • 遊ぶ(油彩、1961年、東京国立近代美術館蔵)
  • 装える戦士(油彩、1963年
  • 愛撫(油彩、1964年
  • 千手(油彩、1965年
  • 明日の神話(油彩、1968年
  • 哄笑(油彩、1972年
  • 記念撮影(油彩、1975年
  • 黒い太陽(リトグラフ、1979年
  • 遭遇(油彩、1981年
  • 森の家族(油彩、1983年
  • 疾走する眼(油彩、1992年、岡本太郎記念館蔵)

立体作品

  • 顔(陶、1952年)- 全部で3点制作され、うち1点が一平の墓碑となっている。
  • 日の壁・月の壁(陶、1956年)- 旧東京都庁陶板レリーフ[15]
  • 坐る事を拒否する椅子(陶器1963年
  • 梵鐘・歓喜(ブロンズ、1965年
  • 若い時計台(コンクリート、アルミニウム、1966年)- 銀座数寄屋橋公園内に設置。
  • 午後の日(ブロンズ、1967年)- 東京都立多磨霊園にある岡本太郎の墓碑にもなっている。
  • 生誕 - 黒川紀章が設計し1967年竣工した山形県寒河江市役所のシャンデリアとして寄贈した。市役所5階部吹き抜け天井から鎖で吊るされ2階ホールに常設。
  • マミフラワー会館(鉄筋コンクリート建築、1968年)- フラワーデザイナー・マミ川崎の依頼で大田区山王に竣工されたが、建替えのため現存していない。
  • 若い太陽の塔1969年)- 愛知県犬山市日本モンキーパーク内に現存する。
  • 緑の太陽(1969年)- 大分県別府市田の湯町サンドラッグビルの陶板壁画。現存し、JR別府駅ホームからも見ることができる。
  • 太陽の塔(鉄筋コンクリート、1970年
  • ノン(FRP、1970年)
  • オリエンタル中村(現・名古屋三越 栄店)光るレリーフ大壁画(1971年)- 三越改称時に撤去されたため現存していない。
  • 樹人(FRP、1971年)- パリのフォーブール・サントノレ通りの芸術祭「街の美術館」で、祭りの王様に選ばれた。岡本太郎記念館、川崎市岡本太郎美術館、箱根彫刻の森美術館、山梨県立美術館に常設されている。
  • 躍進(陶、1972年)- 山陽新幹線岡山駅内の陶板壁画。
  • 千手(アルミニウム、1975年
  • 足あと広場(造園、1978年)- 広島県福山市松永町日本はきもの博物館中庭に造成。
  • 河童像(FRP、1981年)
  • 縄文人(ブロンズ、1982年
  • 神話(1982年) - 島根県松江市松江総合運動公園モニュメント。
  • 未来を視る(FRP、1985年)- つくば科学万博のシンボルモニュメント。2005年つくばエクスプレス万博記念公園駅前に移設。
  • こどもの樹(FRP、1985年)- こどもの城のシンボルモニュメント
  • 太陽(1985年)- 9月にそごう横浜店のオープンに合わせて屋上に建立された、万博の太陽の塔とは直接関係のないオリジナルのモニュメント。
  • 平和を呼ぶ像(1988年)- 10月に船橋市の平和都市宣言記念シンボル像として建立。
  • 未来を拓く塔(1988年)- ぎふ中部未来博のシンボルとして建立。跡地に作られた岐阜メモリアルセンター内に現存。
  • 母の塔(原作)
  • 歓び - 川崎市内の小学校にある作品。『赤いリボンの少女』などと呼ばれていたこともある。
  • 河神 (アルミ合金、1995年)- 青森県奥入瀬渓流ホテル内の暖炉彫刻。
  • 花炎 (陶、1995年)- 1996年7月、佐賀県有田町において開催されたジャパン・エキスポ「世界炎の博覧会」の記念モニュメントとして制作された噴水の作品。会期終了後、跡地は「歴史と文化の森公園」となり現在に至る。太郎存命中の最後の作品とされているが、本人がどこまで関与できたかは不詳(岡本太郎は1996年1月7日没)。

インダストリアル・デザイン

ギャラリー

書籍

作品集

  • 『OKAMOTO』(G.L.M.社、1937年) - 評論家ピエール・クールティオン編著による初の画集。フランスにて出版。(1冊目から30冊目までは連番が付された特製本であった。全発刊部数多数。30冊しか発刊されなかったと誤解して日本の古書市場で高額なのは疑問。欧州古書市場では、¥3,000~¥10,000が普通。G.L.M社が閉鎖されるまでは、同社を訪問しさえすれば、残部を数フランで入手できたとの証言がある。)ちなみに、クールティオンによってG.L.M.社から刊行されたクルト・セリグマンとの共著(1936年刊)の場合、販売用500部と関係者用30部、計530部が出版されたことが判っており、『OKAMOTO』も、少なくともこれと同程度の部数が出版されたことが考えられる。
  • 『画文集 アヴァンギャルド』(月曜書房、1948年)
  • 『T.OKAMOTO』(美術出版社、画集、1954年) - 仏語版も同時出版。
  • 『画文集 黒い太陽』(美術出版社、1959年)
  • 『岡本太郎』(美術出版社、画集、1968年) - 海藤日出男の編集。
  • 『絶対的、そして無目的に』(セリグラフィー、版画集、1974年)
  • 『デリシュール』(版画集、1976年)
  • 『TARO OKAMOTO 対極に遊ぶ男』 (画集、1976年) - フランスにて出版。
  • 『画文集 挑む』(講談社文庫、1977年)
  • 『岡本太郎』(平凡社、網羅的作品集、1979年)
  • 『遊ぶ字』(日本芸術出版社、墨蹟集、1981年)
  • 朝日美術館 日本編2『岡本太郎』(朝日新聞社、絵画・立体作品集、1995年)
  • 『歓喜』(二玄社、網羅的画文集、1997年)
  • 『TARO 川崎市岡本太郎美術館所蔵作品集』(二玄社、網羅的作品集、2005年)
  • 『ドキドキしちゃう』(小学館、墨蹟集、2010年) - 「遊ぶ字」の再編集版。

評論・エッセイ等

  • 『母の手紙』
  • 『ピカソ』(アテネびじゅつぶんこ)編集はアテネ文庫在職時の臼井史朗が担当したとのこと。
  • 『随筆集・夢と誓い』
  • 『青春ピカソ』
  • 今日の芸術 時代を創造するものは誰か』
    • 光文社版(1954年
    • 光文社カッパブックス版(1963年10月)
    • 講談社文庫版(ASIN B000J93GS0、1973年)
    • 講談社「岡本太郎著作集」第1巻(1979年)
    • 知恵の森文庫版(ISBN 978-4334727895、1999年)
  • 『日本の伝統』
  • 『芸術と青春』
  • 『日本再発見 芸術風土記』
    • 新潮社版(1958年)
    • 講談社「岡本太郎著作集」第4巻(1979年)
  • 『忘れられた日本沖縄文化論
  • 岡本太郎の眼
    • 朝日新聞社版(1966年)
    • 講談社「岡本太郎著作集」第8巻(1980年)
    • チクマ秀版社版「眼 美しく怒れ」(ISBN 978-4805003237、1998年)
    • チクマ秀版社新装版「眼 美しく怒れ」(ISBN 978-4805004272、2004年)
    • 角川oneテーマ21版「美しく怒れ」(ISBN 978-4041100240、2011年)
  • 『今日をひらく 太陽との対話』
    • 講談社版(1967年)
    • 講談社「岡本太郎著作集」第3巻、第4巻、第7巻、第8巻(1979年、1980年)
  • 『原色の呪文』(人と思想シリーズ)
    • 文芸春秋社版(1968年)
  • 『日本列島文化論』 - 泉靖一との対談。
    • 大光社版(1970年)
    • 講談社「岡本太郎著作集」第6巻(1980年)
    • ミュゼ版「日本人は爆発しなければならない 日本列島文化論」(ISBN 978-4944163175、2000年)
  • 『美の呪力』
    • 新潮社版(1971年)
    • 講談社「岡本太郎著作集」第6巻(1980年)
    • 新潮文庫版 (ISBN 978-4101346229、2004年)
  • 『にらめっこ』
    • 番町書房版(1975年)
    • 講談社「岡本太郎著作集」第7巻、第8巻(1980年)
    • イースト・プレス版「人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている。」 (ISBN 978-4872577969、2007年)
    • イースト・プレス文庫版「人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている。」 (ISBN 978-4781670027、2009年)
  • 『岡本太郎の挑戦するスキー 白い世界に燃える歓び』
    • 講談社(ASIN B000J8SPZU、1977年)
    • 講談社「岡本太郎著作集」第8巻(1980年)
  • 岡本太郎著作集』 全9巻(講談社、1979年、1980年)
  • 『迷宮幻想』(遊びの百科全書⑩、日本ブリタニカ、1980年12月1日、企画制作:株式会社カマル社桑原茂夫)
  • 『ピカソ講義』 - 宗左近との対談。
  • 『にらめっこ問答』 人生相談
  • 『人生は夢 にらめっこ問答』 人生相談
    • 集英社版(1981年)
    • 青林工藝舎版「太郎に訊け!2 岡本太郎流熱血人生相談」(ISBN 4-88379-080-0、2001年)
    • 青林工藝舎版「太郎に訊け!3 岡本太郎流激突人生相談」(ISBN 4-88379-081-9、2001年)
  • 『美の世界旅行』(新潮社、1982年)
  • 『自分の中に毒を持て あなたは"常識人間"を捨てられるか』
  • 『一平かの子 心に生きる凄い父母』(チクマ秀版社、ISBN 978-4805002698、1995年) - 太郎の生前最後の著作
  • 『岡本太郎の本』 全5巻(みすず書房)ダイジェスト編集版であることに注意。
    1. 『呪術誕生』(ISBN 978-4622042563、1999年)
    2. 『日本の伝統』(ISBN 978-4622042570、1999年)
    3. 『神秘日本』(ISBN 978-4622042587、1999年)
    4. 『わが世界美術史 美の呪力』(ISBN 978-4622042594、1999年)
    5. 『宇宙を翔ぶ眼』(ISBN 978-4622042600、2000年)
  • 『リリカルな自画像』(みすず書房、2001年)
  • 『疾走する自画像』(みすず書房、2001年)

編集著書

  • 『世界の仮面と神像』(朝日新聞社、1970年)- 泉靖一、梅棹忠夫との共編
  • 岡本太郎編『迷宮幻想』(遊びの百科全書⑩、日本ブリタニカ、1980年12月1日、企画制作:株式会社カマル社桑原茂夫)

監修著書

  • 福田和彦編 『日本名品聚芳』 全3巻(芳賀書店
    1. 『秘巻浮世絵』(1973年) - 小林和作埴谷雄高との共同監修(但し、名義だけ)
    2. 『秘巻浮世絵大錦』(1973年) - 同上
    3. 『秘巻肉筆浮世絵』(1973年) - 同上
  • 福田和彦編 『草紙本浮世絵名品選』 全4巻(芳賀書店)
    1. 『秘版 英泉』(1974年) - 小林和作、埴谷雄高との共同監修(但し、名義だけ)
    2. 『秘版 国貞』(1975年) - 埴谷雄高との共同監修(但し、名義だけ)
    3. 『秘版 国芳』(1975年) - 同上
    4. 『秘版 北斎』(1975年) - 同上

評伝

  • 『岡本太郎の全貌』(編集・山本太郎アトリエ社、1959年)
  • 『別冊太陽 日本のこころ94 岡本家の人びと』(平凡社、1996年)
  • 『芸術新潮 さよなら岡本太郎』(新潮社、1996年)
  • 『岡本太郎と横尾忠則』(倉林靖白水社、1996年)
  • 『岡本太郎に乾杯』(岡本敏子、新潮社、1997年)
  • 『芸術は爆発だ 岡本太郎痛快語録』(岡本敏子、小学館文庫、1999年)
  • 『岡本太郎の絵本 あいしてる』(舟崎克彦・文、小学館、1999年)
  • 『アラーキーのTARO愛 岡本太郎への旅』(荒木経惟 光文社、1999年、ISBN 4-334-97239-X
  • 『ユリイカ 1999年10月号 特集・岡本太郎』(青土社、1999年、ISBN 4-7917-0050-3
  • 『太郎神話』(岡本敏子編、二玄社、1999年)
  • 『岡本太郎が、いる』(岡本敏子、新潮社、1999年)
  • 『太陽の人・岡本太郎』(JTB、1999年、ISBN 4-533-03374-1
  • 『岡本太郎の世界』(岡本敏子、斎藤慎爾編、小学館、1999年)
  • 『岡本太郎宣言』(山下裕二、平凡社、2000年、ISBN 4-582-20633-6
  • 『「新」太郎神話』(二玄社、2000年、ISBN 4-544-02029-8
  • 『恋愛芸術家』(岡本敏子、マガジンハウス、2001年、ISBN 4-8387-1301-0
  • 『岡本太郎の遊ぶ心』(岡本敏子、講談社、2005年、ISBN 4-06-269252-X
  • 『Be TARO! 岡本太郎に出会う本』(学習研究社、2006年、ISBN 4-05-403165-X
  • 『岡本太郎と太陽の塔』(平野暁臣、小学館、2008年)
  • 『この人を見よ!歴史をつくった人びと伝〈5〉岡本太郎』(ポプラ社、2009年)
  • 『岡本太郎「太陽の塔」と最後の闘い』(平野暁臣、PHP研究所、2009年)
  • 『岡本太郎という思想』(赤坂憲雄、講談社、2010年)
  • 『[新版]岡本太郎と横尾忠則』(倉林靖BOOKEND、2011年、ISBN 978-4-903295-37-4
  • 『もっと知りたい岡本太郎―生涯と作品』(佐々木秀憲、東京美術、2013年)

映像出演

映画

  • 誘惑』 (1957年)- 原作:伊藤整、監督:中平康日活配給。東郷青児とともに画家役で出演。
  • 『岡本太郎 マルセル・モースの肖像』 (1975年)- パリ大学民族学教授、ジャン・ルーシュが手がけたドキュメンタリー映画。イタリアのアゾロ映画祭で芸術家の伝記大賞受賞。
  • 『山形は白い国 岡本太郎のスキー』 (1983年)- 山形県の観光映画。

テレビ番組

後年は民放テレビ局のバラエティ番組等にも積極的に出演していた。

死後の特集番組

テレビドラマ

本人出演
岡本太郎を扱った作品

CF

関連施設・団体・褒賞等

脚注・出典

  1. ^ a b c 新潮社「岡本太郎が、いる」"フェミニスト・自由人"より
  2. ^ テレビ出演の映像は今日もビデオアーカイブなどで見ることができる。
  3. ^ 夏目漱石の推薦によるという。
  4. ^ 《水差しと果物鉢》(Pichet et coupe de fruits)。油彩画で1931年制作。現在はソロモン・R・グッゲンハイム美術館に収蔵されている。
  5. ^ http://www.taro-okamoto.or.jp/chorology.html 岡本太郎記念館-岡本太郎年表]
  6. ^ 春原史寛「「縄文」は「芸術」か-岡本太郎の「縄文土器論」『縄文土器名宝展~縄文芸術の到達展~』山梨県立考古博物館、2011年
  7. ^ 友人の建築家・坂倉準三の設計による。ここで『燃える人』等の作品を生み出した。
  8. ^ 岡本太郎『今日の芸術』光文社、2012年10月15日。
  9. ^ 岡本太郎[2012年]『今日の芸術』、p.98。
  10. ^ 最晩年には、「爆発は今も続いている」という言葉も残している。
  11. ^ 岡本敏子の談話による。
  12. ^ なお裏側のデザインは田中一光である。
  13. ^ ヴァロリスの平和の殿堂のための戦争 1952年 ピカソ作
  14. ^ 吉川美代子著『アナウンサーが教える 愛される話し方』、朝日新書2013年 31~32頁
  15. ^ これらのレリーフ計11点は、1957年に都庁舎が建てられた際、1階正面ロビーや中二階などに設置された。特に、1階正面ロビーの「日の壁」は縦横7×6メートルの壁面を覆い、来庁者がまず目にする「都庁の顔」ともいうべき作品だった。1991年に都庁舎を解体する際、作品の材質や傷みを理由にいったんは廃棄が決まり、太郎も了承したが、瀬木慎一らが反対。最終的に太郎が個人的に引き取ることとなった。(朝日新聞 1991年3月10日 朝刊31面より)
  16. ^ 収録曲目は、レナード・バーンスタイン指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団およびイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団の演奏による、ベートーヴェン:交響曲第3番と、バーンスタイン:交響曲第3番。

参考文献

  • 世田谷美術館『世田谷時代の岡本太郎 1946-1954―戦後復興期の再出発と同時代人たちとの交流①』、2007年。
  • 川崎市岡本太郎美術館『北大路魯山人と岡本家の人びと』展図録、2005年。
  • 川崎市岡本太郎美術館『岡本太郎の絵画―衝動から実現まで』展図録、2006年
  • 川崎市岡本太郎美術館『開館10周年記念 岡本太郎の絵画』展図録、2009年。
  • 佐々木秀憲『もっと知りたい岡本太郎―生涯と作品』東京美術、2013年。
  • 『美術評論家著作選集 第8巻 松尾邦之助』ゆまに書房、2011年。
  • 佐々木秀憲著「岡本太郎におけるミルチャ・エリアーデの影響」『美学』239号、美学会、2011年
  • 佐々木秀憲著「岡本太郎のシャーマニズム―ミルチャ・エリアーデの影響」佐々木秀憲編『岡本太郎のシャーマニズム展図録』川崎市岡本太郎美術館、2013年
  • 江川純一・奥山倫明・近藤幸夫著『岡本太郎のシャーマニズム 学術シンポジウム報告書』川崎市岡本太郎美術館、2014年
  • 佐々木秀憲著「岡本太郎と潜在的イメージ」佐々木秀憲編『岡本太郎と潜在的イメージ展図録』川崎市岡本太郎美術館、2014年
  • 栗本慎一郎著『幻想としての経済』青土社、1980年。
  • 藤原聖子著『「聖」概念と近代』立正大学出版会、2006年。
  • 明神勲著『戦後史の汚点 レッド・パージ』大月書店、2013年。
  • 辻惟雄著『辻惟雄集 第1巻』岩波書店、2013年。
  • ミルチャ・エリアーデ著(石井忠厚訳)『エリアーデ日記―旅と思索と人 上』未来社、1984年。
  • ミルチャ・エリアーデ著(石井忠厚訳)『エリアーデ日記―旅と思索と人 下』未来社、1986年。
  • ミルチャ・エリアーデ著(奥山倫明・木下登・宮下克子訳)『ポルトガル日記1941-1945』作品社、2014年
  • 五十殿利治著「岡本太郎とスイス・コネクション―ネオ=コンクレティズムと1930年代の「総合」の芸術」『美術運動史』149号、2015年6月20日

関連項目

  • 岡本可亭 - 祖父、書家。北大路魯山人の師匠。函館の女学校にて書道を教えた経歴を持つ。
  • 岡本一平 - 父
  • 岡本かの子 - 母
  • 岡本敏子 - 養女
  • 池部良 - 従兄弟
  • 瀬戸内寂聴 - 秘書になってもらうよう頼んだことがある
  • ジミー大西 - 「君は画家になりなさい」と手紙を送った。
  • ジョルジュ・バタイユ - 1939年頃に思想上の相違から訣別したことを、岡本自身が繰り返し述べている。第二次世界大戦後、岡本とバタイユとの交流は、1953年の挨拶程度の再会を除外すると、確認できる証拠は未だ発見されていない。岡本太郎論においては、強引なほどにバタイユと岡本を結び付けようとする言説が多くあり注意を要する。
  • マルセル・モース - フランスの社会学者。エミール・デュルケームの甥。聖俗概念の研究を中心課題とし、パリ大学では宗教学、社会学、民族誌学の講座を担当した。
  • ミルチャ・エリアーデ - 1950年代以降の岡本の文筆・造形活動にとって重要な影響を与えた。術語「ヒエロファニー」の提唱者であり「シャーマニズム」や「イニシエーション」についても先駆的な研究を残している。岡本が面談した記録は確認できないが、エリアーデのフランス語著書初版6冊が岡本の蔵書に確認され、多数のアンダーラインや書き込みが確認された。よって著作を通して岡本に多大なる影響を与えたと考えられる(佐々木秀憲「岡本太郎におけるミルチャ・エリアーデの影響」『美学』239号、美学会)。その研究は世界的な影響力が大きく、日本の山口昌男大江健三郎栗本慎一郎そして岡本太郎にも及んでいる。日本人研究者による最初の書評は、主著『シャーマニズム』(1951)に関する山口昌男によるものであり、1959年、学術誌『民族学研究』に掲載された。これに先んじて、フランス語が堪能であった岡本は、同書を発刊後まもなく入手し読了したものと考えられる。
  • 丹下健三
  • 川端康成 - 戦後、太郎は鎌倉の川端康成宅に1ヶ月ほど居候していた
  • 北大路魯山人 - 太郎の祖父・岡本可亭に弟子入りし、そこから岡本家との家族ぐるみの付き合い
  • 司馬遼太郎
  • 藤山一郎 - 慶應義塾幼稚舎の同級生
  • 野口冨士男 - 慶應義塾幼稚舎の同級生
  • 勅使河原宏
  • 石原慎太郎
  • 荒川修作
  • 野坂寛治
  • ヤノベケンジ
  • 横尾忠則
  • 新藤兼人
  • 坂倉準三 - アトリエ(現・岡本太郎記念館)設計
  • 藤田嗣治

外部リンク