岡崎トミ子
岡崎 トミ子 おかざき とみこ | |
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生年月日 | 1944年2月16日(80歳) |
出生地 | 福島県福島市 |
出身校 |
福島県立福島女子高等学校 (現福島県立橘高等学校) |
前職 | 東北放送アナウンサー |
所属政党 |
(日本社会党→) (社会民主党→) (旧民主党→) 民主党 |
公式サイト | 参議院議員 岡崎トミ子 公式サイト |
第83代 国家公安委員会委員長 | |
内閣 | 菅改造内閣 |
在任期間 | 2010年9月17日 - 2011年1月14日 |
内閣 | 菅改造内閣 |
在任期間 | 2010年9月17日 - 2011年1月14日 |
選挙区 | 宮城県選挙区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1997年 - 現職 |
選挙区 | 旧宮城1区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1990年 - 1996年 |
岡崎 トミ子(おかざき とみこ、1944年2月16日 ‐ )は、日本の政治家、元アナウンサー。民主党所属の参議院議員(3期)。
民主党副代表、衆議院議員(2期)、参議院総務委員長、参議院災害対策特別委員長、国家公安委員会委員長(第83代)、内閣府特命担当大臣(消費者及び食品安全・少子化対策・男女共同参画)を歴任した。
概要
略歴
福島県福島市生まれ。福島県立福島女子高等学校(現福島県立橘高等学校)卒業。1962年、ラジオ福島に入社し、アナウンサーを務める。1967年に東北放送へ移籍し、「希望音楽会」「子ども音楽コンクール」「歌のない歌謡曲」「クイズみやぎ東西南北」等の教養、娯楽番組や、毎年終戦記念日の前後に放送される反戦平和がテーマの特別番組を担当した。また東北放送では、同社労働組合の副委員長を務めた。
1990年、東北放送を退社。第39回衆議院議員総選挙に日本社会党公認で旧宮城県第1区から出馬し、初当選を果たした。1993年の第40回衆議院議員総選挙で再選。1994年、村山内閣で文部政務次官に任命された。1996年、社会党解党に伴い、事実上の後継政党である社会民主党結党に参加したが、間もなく離党。同年、新党さきがけを離党した菅直人や鳩山由紀夫、新進党の鳩山邦夫、元北海道知事の横路孝弘らが結成した旧民主党結党に参加し、党副代表に就任。しかし、結党直後の第41回衆議院議員総選挙で落選した。
1997年、自由民主党の市川一朗の辞職に伴う参議院宮城県選挙区補欠選挙に出馬し、参院で初当選(市川は宮城県知事選挙に出馬したが、浅野史郎知事に敗れ落選)。2001年、第19回参議院議員通常選挙で再選。2004年9月、民主党副代表に就任。2007年7月、第21回参議院議員通常選挙で3選。
2010年9月の民主党代表選挙では菅直人首相の推薦人に名を連ね、選挙対策副本部長を務め菅の再選に尽力する。選挙後の内閣改造により発足した菅改造内閣で国家公安委員会委員長(内閣府特命担当大臣(消費者及び食品安全・少子化対策・男女共同参画)を兼務)に任命され、初入閣を果たした。しかし、2003年に大韓民国の日本大使館前で行われた反日デモに参加していた問題や、北朝鮮が韓国延坪島へ砲撃(詳細は延坪島砲撃事件参照)した際に即日警察庁へ登庁しなかった責任を問われ、菅再改造内閣では再任されず、半年弱で退任した。2011年1月、民主党副代表に就任。併せて、党中央代表選挙管理委員長に就任。
政治活動
- 国旗及び国歌に関する法律に反対した。
- 2001年8月9日、野党有志議員が呼びかけた「小泉首相の靖国神社参拝反対の集い」に参加し、閉会の挨拶で「国民の意見が二分し、国益を大きく損なうと思われる中、あえて首相が参拝することに強く抗議する」と非難した[1]。
- 李容洙や宋神道などの慰安婦を称する女性が日本政府に公式謝罪と賠償を求めている運動に深く関わっており、彼女たちの要望を実現するため戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案の成立を目指している。
問責決議案の提出
2001年3月14日、森喜朗首相の問責決議案の答弁に立ち、森政権下で起きた数々の事件や問題をあげて「あなたがこの事態を深刻に受け止め、リーダーシップを発揮して立ち向かっている姿は全く見えてこない」と非難し、森内閣が推進していた「教育改革」についても「様々なスキャンダルを引き起こし、真相究明から逃げているあなたが、どんなに立派なことを言っても、子どもたちは絶対にあなたの話を聞かないだろう」「あなたには教育をする、教育改革を語る資格はない」「あなたにできる唯一の教育は、静かにこの壇上から立ち去ること」などと非難した[2]。
韓国との関係
- 2004年4月、岡崎の政治団体が2001年7月の第19回参議院議員通常選挙の際、政治資金規正法で禁止されている外国人からの寄付として、朝鮮学校を運営する朝鮮籍の理事長と、パチンコ店を経営する韓国籍の会社社長からそれぞれ2万円の寄附を受けていたことが判明した[3][4]。
- 2008年1月、在日韓国人らが要求している外国人への参政権を付与を目的とする「在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟」に参加。
- 民主党日韓議員交流委員会の幹事を務める。
- 2004年12月、韓国にクォータ制に関する勉強団の顧問として訪韓し、韓国政府の関係者と交流を深めた[5]。
- 2005年12月5日、韓国のウリ党女性議員を日本に招いた懇談会で挨拶に立ち「韓国の選挙制度、男女共同参画社会の実現にむけた韓国の政策、選挙のあり方、新人を発掘の仕方などについて、たくさんの勉強をさせていただいた」と述べた[6]。
- 2006年1月26日、日本の戦争責任を検証することを目指す政策勉強会日本の歴史リスクを乗り越える研究会の発起人になる[7]。
- 2006年3月6日、民主党の党本部に韓国の国会議員2名を迎えた少子高齢社会と男女共同参画に関する意見交換で挨拶に立ち、2005年に韓国を訪問した際の謝辞を述べた上で「韓国で学んだ内容も活かして、わが国における真の男女共同参画社会の実現のために今後も努力していきたい」などと語った[8]。
- 2010年11月23日に発生した延坪島砲撃事件において、事件明けの24日、国家公安委員会委員長として全国の警察本部に在日本朝鮮人総聯合会の動静を収集するよう指示[9]。一方自身は事件発生日の23日は警察庁に登庁せず自宅待機していたことが明らかになった[10]。
従軍慰安婦問題関連
戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案に深く関わっており、法案成立のために積極的な活動を行なっている。
- 2001年10月3日、参議院本会議で小泉純一郎総理大臣の所信表明演説に対する代表質問に立ち、「過去と向き合えない日本」という国際的イメージを払拭するためにも、自らが行なった過去の不正義のすべてに取り組むべきだと戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案の成立を迫った[11]。
- 2001年12月18日、韓国の大韓民国女性家族部長官の韓明淑を招いて、『戦時性的強制被害者問題解決の促進に関する法律案』に対する意見交換会を開催する[12]。
- 2002年2月11日、インドネシアを訪問。報道機関や要人を通じてインドネシア女性に従軍慰安婦として名乗りでるように活動を行った[13]。
- 2002年5月、衆院第二議員会館で開催された「元『慰安婦』の補償と名誉回復のために! 決起集会」に参加し、戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案の成立を訴えた。
- 2002年7月18日、参議院内閣委員会で民主党、共産党、社民党3党で共同提出された「戦時性的強制被害者問題解決促進法案」について、提案者を代表して趣旨説明を行った。[14]また、23日の審議には、慰安婦に名乗りをあげている宋神道の書いた手紙をそのまま読み上げ、日本政府を糾弾した[15] 。
- 2003年「戦時性的強制被害者問題解決促進法案」を参議院に提出。
- 2003年韓国への海外視察の際、元慰安婦関係者が毎週水曜日に行う日本大使館へ対する恒例の抗議行動(通称水曜デモ)に参加(大使館の公用車で送迎)し、応援のコメントをした。産經新聞は「国費を利用しての反日デモ参加」と報道した。そのため国会の内外から国会議員としての見識を疑われると批判された。
- 2004年12月3日、「被害者とともに『戦時性的強制被害者問題解決促進法案』の早期成立を求める集い」に参加。同日の昼、慰安婦に名乗りをあげて日本に謝罪と賠償を求めている李容洙を細田博之官房長官と面会させた。さらに、日本としてきちんと謝罪し、法的賠償を求める小泉総理あての要請書を手渡した[16]。
- 2005年2月28日、戦時性的強制被害者問題解決促進法案を再提出。法案提出後の記者会見で、慰安婦を称する女性たちが高齢化している現状を指摘し、内閣委員会での一刻も早い積極的な審議を求めた。[17]
- 2005年3月24日、中国人従軍慰安婦問題について国会で開催された集会に、円より子と一緒に参加。[18]
- 2005年6月15日、内閣委員会理事懇談会で戦時性的強制被害者の問題の解決の促進に関する法律案の審議を始めることを、近藤正道らと求めるが、却下される[19]。
- 2007年2月21日、マイク・ホンダがアメリカ合衆国下院121号決議を成立させる動きに連動し、米議会の公聴会で慰安婦を名乗り証言した李容洙を招いて開催した集会に参加。「現在、『促進法案(戦時性的強制被害者問題解決促進法案)』が(審議されず)吊るしっぱなしになっている。法案を通過させ被害者の名誉を回復したい。そのために通常国会で審議されるよう努力していく」と述べた。集会後は、浅野勝人副大臣と李容洙を引き合わせて、促進法案の早期成立を求めた。[20]
- 2007年3月8日、安倍晋三総理大臣が従軍慰安婦問題で「強制はなかった」と発言したことに対して、市民団体『日本軍「慰安婦」問題行動ネットワーク』が国会前で抗議のデモを行うと、福島瑞穂、吉川春子らと一緒に激励の挨拶をした。[18]
- 2008年11月25日、第9回日本軍「慰安婦」問題アジア連帯会議に参加。日本政府に対して、慰安婦への公式謝罪と補償、歴史を教科書に、これらを核とする立法を、必ず実現させると訴えた[21]。
- 2008年11月25日、円より子と一緒に『日本軍「慰安婦」問題アジア連帯会議』と面談。従軍慰安婦問題は軍人個人の意思の問題ではなく、国家的犯罪であると指摘し、従軍慰安婦への保障を推進することを約束した。
不祥事
- 2004年の年金未納問題の際に1年11か月間未納であったことが発覚した。
所属議員連盟
- 在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟
- 新政局懇談会
- 歴史リスクを乗り越える研究会 呼びかけ人
- リベラルの会
- 人権政策推進議員連盟 呼びかけ人 副会長
- 戦後補償を考える議員連盟 会長
- 連合国捕虜問題と取り組む小委員会 副委員長[22]。
関連項目
脚注
- ^ 民主党ホームページ:野党有志議員の「小泉首相の靖国参拝反対の集い」ひらく [1]
- ^ 民主党ホームページ:指導力なし・緊張感なし・責任感なしの“最低・最悪内閣”は即刻辞任を~参議院で問責決議案採決 [2]
- ^ “朝鮮学校理事長らから寄付 民主・岡崎議員の政治団体”. 47NEWS (共同通信社). (2004年4月3日) 2011年8月17日閲覧。
- ^ “民主・岡崎参院議員の政治団体 北朝鮮男性から寄付”. 産経新聞. (2004年4月3日)
- ^ 民主党ホームページ:党男女共同参画委員会「クォータ制に関する勉強・調査」のため訪韓[3]
- ^ [4] 民主党:韓国・ウリ党女性議員と女性の政治参加・発展に向け懇談
- ^ 岡崎トミ子氏ら 戦争責任検証へ研究会…民主有志議員、26日設立 (読売新聞)[リンク切れ]
- ^ 民主党ホームページ:男女共同参画推進本部、韓国の議員と少子高齢化などで意見交換 [5]
- ^ “朝鮮総連情報の収集指示=岡崎国家公安委員長”. 朝日新聞. (2010年11月24日) 2010年11月25日閲覧。
- ^ “危機管理監到着1時間10分後 首相は『迅速対応』強調”. (2010年11月25日) 2010年11月25日閲覧。
- ^ 民主党:小泉総理の所信表明演説に対する代表質問(岡崎議員)[6]
- ^ 参議院議員 岡崎トミ子 公式サイト | 2001年12月18日 [7]
- ^ 参議院議員 岡崎トミ子 公式サイト | 2002年02月27日 [8]
- ^ 民主党:【参院内閣委】岡崎議員、戦時性的強制被害者問題法案の趣旨を説明[9]
- ^ 民主党:【参院内閣委】戦時性的強制被害者問題法案、審議入り [10]
- ^ 民主党:岡崎副代表、戦時性的強制被害者問題解決促進法案早期成立へ決意 [11]
- ^ 民主党:民主党などが「戦時性的強制被害者問題解決促進法案」を再提出 [12]
- ^ 赤旗 中国人「慰安婦」問題 院内集会開く/運動の再出発めざす [13]
- ^ こんどう正道公式サイト [14]
- ^ 朝鮮新報 国会議員、市民団体ら 参院議員会館で集会 「慰安婦」解決促進法、早期制定を [15]
- ^ 第9回アジア連帯会議報告 [16]
- ^ 戦後処理に関するPT捕虜問題小委員会発足のご挨拶とご協力のお願い [17]
外部リンク
- 参議院議員 岡崎トミ子のホームページ(公式サイト)
- 民主党宮城県総支部連合会
議会 | ||
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公職 | ||
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先代 玄葉光一郎 |
特命担当大臣(少子化対策) 第7代:2010年 - 2011年 |
次代 与謝野馨 |
先代 玄葉光一郎 |
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次代 与謝野馨 |