山中幸盛

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山中 幸盛
落合芳幾『太平記英勇伝 三十六 山中鹿之助幸盛』(東京都立図書館所蔵)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文14年8月15日1545年9月20日)?
死没 天正6年7月17日1578年8月20日)?
改名 山中甚次郎、亀井甚次郎、山中鹿介幸盛
別名 鹿介[注釈 1]、鹿之介、鹿之助、鹿助[注釈 2](通称)
山陰の麒麟児(渾名)
戒名 幸盛寺殿潤淋淨了居士
幸盛寺殿潤林淨了居士
幸盛院殿鹿山中的大居士
幸盛院殿大誉淨了大居士
秋峰億勇居士(鴻池家系図)
幸盛院鹿山的中居士
忠光院信譽宗英居士(久徳寺過去帳)
墓所 阿井の渡し、観泉寺、幸盛寺本満寺玉林院金戒光明寺、徳雲寺、静観寺
主君 尼子義久勝久
氏族 山中氏出雲源氏尼子氏流、または橘姓近江山中氏庶流)
父母 父:山中満幸、母:なみ(立原綱重の娘)
養父:亀井秀綱
兄弟 幸高幸盛、女(飯田定正の正室)
正室亀井秀綱の娘
幸元幸範吉和義兼
養女:亀井茲矩
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山中 幸盛(やまなか ゆきもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方武将尼子氏家臣通称鹿介(しかのすけ)[注釈 1]。巷間では山中鹿介の名でよく知られる。幼名は甚次郎[注釈 3](じんじろう)。尼子三傑の1人。優れた武勇の持ち主で「山陰の麒麟児」の異名を取る。

尼子十勇士の筆頭にして、尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦[注釈 4]を与えたまえ」と三日月に祈った逸話で有名。

生涯[編集]

出自・若き日[編集]

幸盛の前半生は、確実な史料が残っておらず不明な点が多い。通説によれば、天文14年8月15日(1545年9月20日)に出雲国富田庄(現在の島根県安来市(旧能義郡広瀬町))に生まれたとされる(詳しくは#出自の謎を参照。)。

山中氏の家系も不明な点が多い。山中家の系図はいくつか存在するが[注釈 5]、有力な説としては宇多源氏の流れを汲む佐々木氏京極氏)の支流で、尼子氏の一門衆である。尼子清定の弟である山中幸久を祖とし、幸盛はこの幸久の4代(又は6代)後裔である。

山中家は尼子氏の家老[注釈 6]であったが、父・満幸が早世していたため生活は貧しく、幸盛は母1人の手によって育てられた[5]。幼少の頃より尼子氏に仕え、8歳のとき敵を討ち[6]、10歳の頃から弓馬や軍法に執心し、13歳のとき敵の首を捕って手柄を立てた[7]

16歳のとき、主君・尼子義久伯耆尾高城攻めに随行し、因伯(因幡国伯耆国。現在の鳥取県)に鳴り響く豪傑、菊池音八を一騎討ちで討ち取った[7]

幸盛は次男であったため、尼子氏の重臣である亀井氏の養子となるが[注釈 7]、後に山中家に戻り当主である兄の幸高(甚太郎)に替わって家督を継いだ。

尼子氏の滅亡[編集]

永禄5年7月3日(1562年8月2日)、毛利氏は尼子氏を滅ぼすため出雲国へ進軍する[9]。毛利氏は去る天文4年10月1日(1555年10月16日)に陶晴賢厳島の戦いで破ると[10]弘治3年(1557年)には大内氏を滅ぼし[11]、防長(周防国長門国)を新たに支配していた。また、永禄5年6月には石見国を勢力下に治め[12]中国地方の一大勢力となっていた。一方の尼子氏は、当主であった尼子晴久が永禄3年12月24日(1561年1月9日)に急死したため[13]、晴久の嫡男・義久が跡を継いでいたが、外交政策の失敗等[注釈 8]もあり勢力が衰えつつあった。

毛利元就に率いられた毛利軍は出雲へ入国すると、尼子方の有力国人らを次々と服従させつつ陣を進めていく。そして、永禄5年12月(1563年1月)には荒隈(洗合)へ本陣を構え[15]、尼子氏の居城・月山富田城攻めを本格化させる。

永禄6年8月13日(1563年8月31日)、毛利軍は、尼子十旗の第1とされる[16]白鹿城へ攻撃を開始する[17]。この白鹿城は、宍道湖の北岸に位置し、日本海に面した島根半島と月山富田城を結ぶ要衝であり、補給路を確保する上でも重要な拠点であった。

9月21日(10月8日)、尼子氏は白鹿城を救援するため、尼子倫久を大将とした軍を派遣し、幸盛もこれに従軍する[16]。戦いの結果、毛利軍が勝利し尼子軍は月山富田城へ撤退した(白鹿城の戦い)。退却の際、軍の後陣に控えていた幸盛は、約200の兵を率いて殿を担当し、追撃する吉川元春小早川隆景の両軍を7度にわたって撃退し、敵の首を7つ討ち取った[18][注釈 9]。なお、白鹿城は10月中旬頃に落城している[20] [注釈 10]

永禄7年(1564年)、尼子軍は杉原盛重率いる毛利軍と美保関[注釈 11]・弓浜[注釈 12]で戦い、幸盛もこれに参戦する(弓浜合戦[注釈 13]。このとき、日本海側からの補給拠点である白鹿城を攻略された尼子氏は、中海方面からの補給路を確保するため伯耆国の拠点確保と勢力の挽回に努めていた。尼子軍はこの戦いには勝利するも、続く伯耆国の重要拠点の1つである尾高城の戦いで毛利軍に敗れた[22]。 以後、伯耆国は毛利軍によって制圧されていくこととなる。こうして尼子軍は各地で敗れつつ補給の道を絶たれ、尼子氏の居城・月山富田城は完全に孤立化していくのである。

永禄8年4月(1565年5月)[23]、毛利軍は、月山富田城の北西3kmにある星上山(現在の島根県松江市八雲町) に本陣を構えると[24][注釈 14]、城下で麦薙ぎをおこない[25]月山富田城へ攻撃を開始する。

4月17日(5月16日)、毛利軍は月山富田城へ総攻撃を行う[24][注釈 15]第二次月山富田城の戦い)。幸盛は塩谷口(しおたにぐち)[注釈 16]で吉川元春らの軍と戦い、これを撃退した[26]。 また、この戦いで幸盛は、高野監物を一騎討ちで討ち取った[7]

4月28日(5月27日)、毛利軍は城を落とすことができず敗れ[27]、月山富田城から約25km離れた荒隈城まで撤退した[24]

9月、毛利軍は再び月山富田城を攻めた。この戦いで幸盛は品川将員[注釈 17]を一騎討ちで討ち取った(山中幸盛・品川将員の一騎討ち)。また同月、幸盛は、白潟(現在の島根県松江市)に滞在していた小河内幸綱ら率いる毛利軍を夜討ちし、多数の兵を討ち取った[24][注釈 18]

永禄9年5月24日(1566年6月11日)、毛利軍は三たび月山富田城へ総攻撃を行う。しかし、城を落とすことが出来なかった[29]

11月21日(1567年1月1日)、城内の兵糧が欠乏し将兵の逃亡者も相次いだため[30]、これ以上戦うことが出来ないと判断した尼子義久は、毛利軍に降伏を申し出る[31]。そして11月28日(1月8日)、義久は城を明け渡し[注釈 19]、ここに戦国大名尼子氏は一時的に滅びることとなる[33]。義久ら尼子3兄弟[注釈 20]は、一部の従者[注釈 21]と共に円明寺[注釈 22]へ連行され幽閉されることとなった[21]。幸盛は随従を願い出たが許されず、出雲大社で主君と別れた[21][24]。その後、幸盛は尼子家を再興するため尽力することとなる。

尼子再興運動[編集]

幸盛の尼子再興運動は、概ね3回に分けて見ることができる。

第一次尼子再興運動[編集]

ひとよしさん(島根県松江市八雲地域)。幸盛が毛利との戦いの時、腰かけ休憩したとされる岩。幸盛の手の跡が残っていると伝えられる。
蹄の滝(島根県安来市広瀬町布部)。布部山の戦いに敗れた幸盛が逃れる際に、この滝から馬で飛び降りたと伝わる。滝壷にはその際にできた蹄の跡が残る。

尼子氏滅亡後、幸盛は牢人となる。その後、永禄9年 - 同11年の間(1566年 - 1568年)の幸盛の足取りは定かでない。諸説によれば、有馬温泉で傷を癒した[35]後に順礼の姿をして東国へ赴き、武田氏武田信玄)・長尾氏上杉謙信)・北条氏北条氏康)などの軍法をうかがい、越前国朝倉氏の家風を尋ね入り[36]、その後、に上ったとされる[21]

永禄11年(1568年)、幸盛は立原久綱ら尼子諸牢人とともに、京都の東福寺で僧をしていた尼子誠久の遺児・勝久還俗させると[37]、各地の尼子遺臣らを集結させて密かに尼子家再興の機会をうかがった。

永禄12年4月(1569年5月)、毛利元就が大友氏を攻撃するため北九州へ軍を派遣すると[38]、挙兵の機会をうかがっていた幸盛は、出雲国へ侵攻を開始する[39]

このとき、幸盛ら尼子再興軍を支援していたのは山名祐豊であった[注釈 23]山名氏の総帥として、長年にわたって尼子氏と敵対してきた祐豊であったが、領国であった備後・伯耆・因幡を毛利氏によって制圧されてきており、勢力回復を図るにあたって手を結んだと考えられる[40]。もっとも、その後に毛利氏から要請を受けた織田信長の軍によって領内を攻められ[注釈 24]、支援はままならなかったようである。

6月23日(8月6日)[36]、幸盛らは丹後国もしくは但馬国から数百艘の船に乗って海を渡り島根半島に上陸すると[42][注釈 25][注釈 26]、近くにあった忠山(ちゅうやま)の砦を占拠する[44]。幸盛らがここで再興の檄を飛ばすと、国内に潜伏していた旧臣らが続々と集結し、5日の内に3,000余りの軍勢になったという[43][36]。そして同月下旬、幸盛ら尼子再興軍は、多賀元龍が籠もる新山城(真山城)を攻略すると[45]、続いて宍道湖北岸に位置する末次(島根県松江市末次町。現在の松江城の建設地。)に城を築いて[46]ここを拠点(末次城)とし[47]山陰地方の各地で合戦を繰り広げつつ勢力を拡大していった(尼子再興軍の雲州侵攻)。

7月中旬[48]、幸盛は、かつての尼子氏の居城・月山富田城の攻略に取りかかる(尼子再興軍による月山富田城の戦い)。この戦いは、力攻めによる攻略とはならなかったものの、城に籠もる毛利軍の兵糧は欠乏しつつあり[37]、また、城内より投降者がでる[49]など尼子方が優勢であった。

しかし、石見国で活動していた尼子再興軍が、毛利軍に攻められ危険な状態となると、幸盛は、城攻めを一旦中止して救援に向う[50]。 石見に駆けつけた幸盛は、毛利軍を原手郡( 現在の島根県出雲市斐川地域の平野部あたり )で撃破すると(原手合戦)、その後、出雲国内において16の城を攻略[51][注釈 27]し、その勢力を6,000余りにまで拡大させた[51]

また、元就が尼子再興軍を討伐するため、九州より帰陣させた米原綱寛[注釈 28]三刀屋久扶などの出雲国の有力国人を相次いで味方につけると[注釈 29]、出雲国の一円を支配するまでになった[56][37]

さらに、伯耆国においても尾高城を始め、中央の八橋城、因幡国との境にある岩倉城など、多くの主要な城を攻略[57]。謀略を用いて末吉城の神西元通を寝返らせたのをはじめ[58]日野郡一帯を支配する日野衆を味方につける[59][注釈 30]など、伯耆国全土にも勢力を拡大していった。その他、美作高田城で城番をしていた姉婿の佐伯七郎次郎を謀略により寝返らせるなど[45]、因幡・備後備中美作においても勢力を拡張し、戦いを繰り広げていたことが分かっている[注釈 31][注釈 32][注釈 33]

加えて10月11日(11月19日)、大内輝弘が大内家再興を目指して周防国山口へ攻め込み[64]、築山館跡を占領する事態が発生する[65]。10月15日(11月23日)、相次ぐ領内の反乱により支配体制の危機を感じた元就は、反乱軍の鎮圧を優先させるため、九州から軍を撤収させることを決定する[66]。10月18日(11月26日)、吉川元春・小早川隆景ら毛利軍は、九州から陣を撤収して長府に帰着すると[64]、10月25日頃に大内家再興軍の反乱を鎮圧する[67]。輝弘は富海で自刃し[68]、大内家再興の戦いは僅か半月足らずで終結した(大内輝弘の乱)。反乱を鎮圧した毛利軍は、12月23日に長府にあった陣を引き払い、居城である吉田郡山城へ帰還している[37]

永禄13年1月6日(1570年2月10日)、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景らは、尼子再興軍を鎮圧するため吉田郡山城より大軍を率い出陣する[69]。毛利軍は北上して出雲国へ入国すると、尼子方の諸城を次々と攻略しながら月山富田城へ陣を進めていった。 一方の尼子再興軍は、先の原手郡の戦いや隠岐為清の反乱(美保関の合戦)などによって時間をとられ、出雲国の拠点である月山富田城を攻略することができないでいた。そのため尼子再興軍は、毛利軍の進軍を防ぐため布部(現在の島根県安来市広瀬町布部)に陣を張り決戦に備える[注釈 34]

2月14日(3月20日)[71]、尼子再興軍は、布部で毛利軍と戦い敗北する(布部山の戦い)。幸盛は、味方が敗走するなかで最後まで殿として残り、軍の崩壊を防いだ後に居城の末次城へ帰還している[72]。戦いに勝利した毛利軍は、翌2月15日に月山富田城に入城し[37]、尼子再興軍の包囲から城を解放する。一方の尼子再興軍は、この戦いに敗れたことにより、以後衰亡していくこととなる。

6月、布部の敗戦により出雲における尼子再興軍の勢力は、新山城と高瀬城の2城となるまで追いつめられていた[73]。7月 - 8月には、両城下で毛利軍による麦薙ぎが行われる[74]など危険な状態となるが、9月5日(10月4日)、安芸国で元就が重病に陥り、吉川元春を残して毛利輝元・小早川隆景らの軍が国許へ帰還する[75]と状況が一変する。山陰地方の毛利軍が手薄になったことにより、幸盛ら尼子再興軍は再びその勢力を盛り返した。

清水寺島根県安来市清水町)の札打ち巡拝路にある、山中鹿介の槍砥石。この石で幸盛が槍を砥いだとされる。

幸盛ら尼子再興軍は、中海における海運の重要拠点である十神山城や末吉城など、出雲・伯耆の国境にある城を次々と奪還するとともに[76]、一時、清水山要害を攻略して[77]再び月山富田城へ迫った。また、高瀬城に籠もる米原綱寛との連携を図るため、宍道湖北岸に満願寺城を奪い[78]増築する[79]。 吉川元春を追い詰め、その居城である手崎城(平田城)へ攻め込む[80]など、その攻勢を強めている。さらに、隠岐国国人・隠岐弾正左衛門尉を味方につけることに成功しており[81]、日本海側の制海権も取得しつつあった尼子再興軍は、再びその勢力を島根半島全域にまで拡大する。

元亀元年10月6日(1570年11月3日)、出雲国における毛利軍劣勢の知らせを受けた元就は、毛利軍を援護するとともに、日本海側の制海権を奪還するため、直属の水軍部隊・児玉就英を派遣する[82]。この援軍によって、その後の戦いは次第に毛利軍が優勢となり、10月下旬頃には十神山城が[83]、12月には満願寺城が落城する[84]など、尼子再興軍の勢力は次第に縮小していった[注釈 35]

そして、元亀2年8月20日(1571年9月8日)頃には、最後の拠点であった新山城が落城[87][注釈 36]。籠城していた尼子勝久は、落城前に脱出して隠岐へ逃れている[89]

同じ頃、末吉城に籠もり戦っていた幸盛も敗れ[90]、吉川元春に捕らえられた[91]。捕らえられた幸盛は尾高城へ幽閉されることとなったが、宍戸隆家口羽通良の助命嘆願により周防国佐波郡徳地伯耆国汗入郡大山に各1000貫の所領を与える約束がなされた。しかし幸盛はこれを受け入れず、その後に隙をついて脱出している[91]。こうして山陰地域から尼子再興軍は一掃され、1回目の再興運動は失敗に終わった。

第二次尼子再興運動[編集]

尾高城から脱出した幸盛は、海を渡って隠岐国へ逃れると、元亀3年3月 - 4月(1572年2月 - 3月)頃には再び海を渡って本土へ戻り、但馬国に潜伏する[92]。 そして、瀬戸内海の海賊・村上武吉美作三浦氏の重臣・牧尚春らと連絡を取りつつ[93]、再び尼子家再興の機会をうかがっていた。なお、このとき幸盛は亀井姓を名乗っていたようである[92]

元亀4年(1573年)初頭、幸盛は但馬国から因幡国へ攻め込み、桐山城を攻略して拠点とすると[94]、様々な軍事活動を開始する。幸盛は、因幡国を足がかりに、伯耆・出雲方面への勢力の拡大を計画していたと思われる。

このとき、因幡国の実質的な領主は、毛利方の国人・武田高信であった。高信は、去る永禄6年(1563年)に当時の因幡国主・山名豊数と争って勝利を収めると[95]、毛利氏と連携をとりつつ因幡の地で勢力拡大をしてきた人物である。

幸盛ら尼子再興軍は、豊数の弟で山名氏再起を目指す山名豊国を味方につけると[35][94]、因幡国の各地で転戦し勝利を収め、勢力を拡大する。そして、天正元年8月1日(1573年8月28日)[96][注釈 37]、甑山城(こしきやまじょう)の戦いで武田軍に決定的な勝利を得ると(鳥取のたのも崩れ[97][注釈 38]、高信の居城・鳥取城攻めを本格化させる。

尼子再興軍は、約1,000の兵で武田軍5,000が籠もる鳥取城へ攻め寄ると[35]、その後も攻勢を続け、同年9月下旬に鳥取城を攻略した(尼子再興軍による鳥取城の戦い[98]。 城に籠もっていた武田家臣らは、尼子再興軍に人質を差し出し降伏した。

鳥取城には山名豊国が入り、尼子再興軍は、私部城に本拠を構え居城とした[99][注釈 39]。 幸盛はその後、10日の間に15城を攻略するなどして勢力を3,000余りに拡大し[100][注釈 40]、東因幡一円の支配に成功した[102]

ところが11月上旬[103]、山名豊国が、田公高次などの懐柔により毛利方に寝返る[104]。尼子再興軍は、わずか1ヶ月余りで毛利氏に鳥取城を奪い返されてしまった。鳥取城を奪われ勢力が不安定となった幸盛は、その後、因幡各地でさまざまな軍事活動・調略を行い[104]、因幡平定に向けて尽力することとなる。

因幡国内で毛利軍と交戦する一方[注釈 41]、美作三浦氏や備前国浦上氏豊前国の大友氏などの反毛利勢力と連携を図るとともに[106]、密かに織田信長配下の柴田勝家と連絡を取って[107]体制の立て直しを図っていった。

これら戦いの中で幸盛は、天正2年11月(1574年12月)、美作三浦氏の居城・高田城宇喜多直家軍を撃退し功績を挙げたとして、大友宗麟から火薬の原料となる塩硝1壷をもらい受けるなどしている[108]

天正3年5月(1575年7月)、但馬国の山名祐豊が毛利氏と「芸但和睦」と呼ばれる和平交渉を成立させる[109][注釈 42]。 かつて毛利氏と敵対し、尼子再興軍を支援していた祐豊であったが、この頃は信長に但馬の支配権や生野銀山に対する権益を脅かされつつあり、毛利氏と手を組むことは重要であった[111]

但馬山名氏の支援を受けられなくなった幸盛は、天正3年6月14 - 15日(7月21 - 22日)に因幡国の若桜鬼ヶ城を攻略し、拠点をここに移す[112]。元の居城・私部城には亀井茲矩が入ったとされる。 この若桜鬼ヶ城は、因幡国から但馬・播磨へ向かう山間交通路の結節点に位置しており、敵対する山名氏の本拠である但馬を避けつつ、播磨から京都へ向かうルートを確保するという目的があったと思われる[113]

6月、吉川元春と小早川隆景は、約47,000[114][注釈 43]の兵を率いて因幡国へ軍を進め、尼子再興軍への総攻撃を開始する[注釈 44]。 元春ら毛利軍は、尼子再興軍の諸城を次々と攻略するとともに、8月29日(10月2日)には幸盛が籠もる若桜鬼ヶ城へ攻撃を開始する[116]。尼子再興軍は、毛利軍の攻撃を防ぎ撃退することに成功するも、10月上旬頃には私部城が落城し[117]、因幡における尼子再興軍の拠点はこの若桜鬼ヶ城の1城を残すのみとなるのである。しかしながら、その後の尼子再興軍の奮戦や、山陽方面で織田氏と毛利氏との間の緊張が高まったことなどにより、10月21日(11月23日)、毛利軍は若桜鬼ヶ城の周辺に多数の付城を築いて[118]因幡から撤退する[119]

ところが、反毛利勢力の三村氏の滅亡[注釈 45]、浦上氏の衰退[注釈 46]、また支援を受けていた美作三浦氏が毛利氏に降伏したこと[注釈 47]などもあり、尼子再興軍は因幡国において完全に孤立化する。

さらに、元春ら毛利軍主力の撤退後も因幡の毛利勢から圧力を受け続けたこともあって、天正4年(1576年)5月頃、尼子再興軍は若桜鬼ヶ城を退去し因幡国から撤退する[124]。こうして、2回目の尼子再興運動も失敗に終わった。

第三次尼子再興運動 - 幸盛の死[編集]

因幡国より撤退した幸盛は、織田信長を頼り京へ上る[注釈 48]。 京で信長に面会した幸盛は、信長より「良き男」と称され、「四十里鹿毛」という駿馬を賜わったという[125]。その後、幸盛は織田軍の下で尼子家再興を目指すことになる。

天正4年(1576年)、幸盛ら尼子再興軍は明智光秀の軍に加わり、但馬八木城攻めや丹波籾井城攻めに参加する[126]。11月、明智軍が籾井城を攻めて敗れると、幸盛ら尼子再興軍は明智軍の殿となり、追撃する波多野赤井軍を迎え撃って切り崩し、軍の崩壊を防いだことで光秀より褒美を賜っている[126]。その他、丹波攻めの際には2度の比類ない働きをした[35]

天正5年(1577年)、幸盛は、信長の嫡子・織田信忠に従い、片岡城攻めや松永久秀が篭城する信貴山城攻めに参加する(信貴山城の戦い[126][35]。幸盛はこのとき、片岡城攻めでは1番乗り[126]、信貴山城攻めでは2番乗りの功績を上げた[35]。また、この戦いで幸盛は、久秀配下の将・河合将監を一騎討ちで討ち取っている[126][35][注釈 49]

10月、信長の命令を受けた羽柴秀吉が播磨へ進軍を開始すると、幸盛ら尼子再興軍は明智軍を離れ、秀吉軍の下で戦うこととなる。

12月(1578年1月)、秀吉が、播磨西部の毛利方の拠点である上月城を攻略すると、幸盛は、主君・尼子勝久と共にその城に入る[127]。尼子再興軍は、この城を拠点として最後の尼子家再興を図って行く[注釈 50]。 上月城は小城であったが、備前・美作・播磨の国境に位置し、この地域を治める上で重要な拠点であった。城番となった幸盛は、この区域の守備を行うと共に、織田氏と美作江見氏との仲介を行うなど、美作国人の懐柔・調略を行っていく[129]

天正6年2月1日(1578年3月9日)、宇喜多軍の将・真壁次郎四郎が約3,000の兵で上月城を攻める[注釈 51]。この戦いは、幸盛が約800の兵を率いて宇喜多軍を夜討ちし、次郎四郎を討ち取って尼子再興軍が勝利している[130][注釈 52]

2月中旬(3月下旬)、三木城別所長治が信長に叛旗を翻し、毛利氏に味方する[131]。 織田氏と交戦状態にあった毛利氏は、これを好機と捉え、4月、吉川元春・小早川隆景ら率いる3万以上の兵[注釈 53]をもって播磨に進軍する。そして4月18日(5月24日)、尼子再興軍が籠もる上月城を包囲する[134]

5月4日(6月9日)、毛利軍による上月城包囲の知らせを受けた秀吉は、荒木村重らと共に1万の軍[132]を率いて上月城の救援に向かい、高倉山に布陣する[135]。しかし、秀吉軍は、信長から三木城の攻撃を優先するよう命じられたことや[136]、6月21日(7月25日 )の高倉山合戦で毛利軍に敗れたこともあって[137]、6月26日(7月30日)に陣を引き払い書写山まで撤退する[136]。その結果、上月城は孤立無援となり、兵糧が底を突き、また城を離れる者も後を絶たなくなったため[132]、7月5日(8月8日 )、尼子再興軍は毛利軍に降伏する[138]上月城の戦い)。

降伏の条件として、尼子勝久及び弟の助四郎は切腹、幸盛と立原久綱は生け捕られ人質となる[139]。その他、毛利氏に敵対した多くの者は処刑され[注釈 54]、それ以外の者は許され解放された[138]

人質となった幸盛は、備中松山城に在陣する毛利輝元の下へと連行されることとなる[139][140]。しかし、途上の備中国合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)にて、毛利氏家臣の福間元明により謀殺された[141]。享年34[142]または39[143][5][144]

その後[編集]

鹿介神社(島根県安来市広瀬町布部)。幸盛を祀った神社。霊験あらたかにして、願解きには古武器類を奉納する習わしがあった。

幸盛の死は尼子再興運動の終幕ではあったが、上月城陥落時に尼子氏庶家亀井茲矩率いる部隊は秀吉に従い難を逃れていたため尼子遺臣団の完全な解体とはならなかった。尼子遺臣団の一部は庶家たる亀井家の家臣団として再編成され近世大名への道を歩み始める。

出雲半国”という恩賞約束のもと秀吉麾下にて転戦を続けるも、本能寺の変の際の秀吉の中国大返しにおける毛利家との講和に従いその約は反故とされ、以後は亀井茲矩が官職名「琉球守」を名乗り琉球国を欲して秀吉よりその認可を得るも、しかし警戒した島津家の琉球侵攻の前に阻まれる形となる。朝鮮出兵にも従軍、秀吉の逝去後は東軍に属し関ヶ原の戦いにて前衛の部隊として参陣、斎村政広の寝返り受諾・鳥取城下焼き討ち・近江水口城主長束正家の追撃包囲開城などに参加し、徳川幕藩体制に組み込まれる。出雲に隣接する因幡国鹿野を拝領、鹿野藩として朱印船貿易を行いシャム朱印船を派遣。そして千姫事件後に長州毛利家に程近い石見国津和野へ転封し、そのまま津和野藩4万3000石として幕末を迎えた。

長男とされる山中幸元(鴻池新六)は父の死後、武士を廃して摂津国川辺郡鴻池村(現・兵庫県伊丹市)で酒造業を始めて財をなし、のちに大坂に移住して江戸時代以降の豪商鴻池財閥の始祖となった。ただし、鴻池新六を山中幸盛の子とする鴻池家の家伝を疑う見解もある。

衰亡した主家に忠誠を尽くして戦い続け、その有り様が後人の琴線に触れ、講談などによる潤色の素地となった。特に江戸時代には忠義の武将としての側面が描かれ、悲運の英雄としての「山中鹿之助」が創られていく。これが世に広く知られ、武士道を精神的な支柱とした明治以降の国民教育の題材として、月に七難八苦を祈った話が教科書に採用された。

出自の謎[編集]

月山富田城にある「山中屋敷跡」。幸盛誕生の地とされる。
幸盛の屋敷にあったとされる五輪塔 。現在は近くの常光寺の墓地に移転されている。

幸盛の前半生は、確実な史料が残っておらず不明な点が多い。軍記史料も、生まれた場所や年など記載に相違がある。

出生の日[編集]

一般的に、出生日は『太閤記』『後太平記』に記載される[7][6]天文14年8月15日(1545年9月20日)とされる。『名将言行録』によれば「天正6年7月2日(1578年8月5日)に34歳で死亡」と記載され[142]、逆算すると天文14年に生まれたことになり、『太閤記』『後太平記』に記載される年と一致する[注釈 55]

しかし、もっとも成立の古い『雲陽軍実記』では、天正6年7月13日(1578年8月16日)に39歳で死亡したと記載される[143]。これを逆算すると、生まれた年は天文9年(1540年)になる。また、『陰徳太平記[5]、『中国兵乱記』[144]においても天正6年に39歳で死亡したとする。そのため、出生年を天文9年とする説がある。

なお、通説では、死亡した日は天正6年7月17日(1578年8月20日)とされる。これは『山中系図草案』『片寄家譜』によるものである[145]

出生の地[編集]

出生地においても定かでない。一般には、月山富田城の麓(現在の島根県安来市広瀬町 (島根県))に生まれたとする。これは『太閤記』によって記載され[7]、現在も屋敷跡が存在する。『雲陽軍実記』『後太平記』では鰐淵寺の麓(現在の島根県出雲市別所町)に生まれたと記載され[100][6]、屋敷があった地が伝えられている[146]

その他、信濃国の見上城で出生した説もあり[147]長野県南相木村には「山中鹿之助幸盛公生誕の地資料館」がある[148]

評価[編集]

山中幸盛像「月百姿」(月岡芳年作・1886年、ウォルターズ美術館所蔵)
吉川元長
鹿介は正真正銘、天下無双の武将である[149]
頼山陽
嶽々(がくがく)たる驍名(ぎょうめい)、誰が鹿と呼ぶ、虎狼(ころう)の世界に麒麟(きりん)を見る[150]
訳文:勇名をはせた幸盛(鹿介)は、鹿という名前であるけれども、誰が鹿と呼べようか。幸盛は戦国乱世(食うか食われるかの世界)の麒麟である。
勝海舟
ここ数百年の史上に徴するも、本統の逆舞台に臨んで、従容として事を処理したる者は殆ど皆無だ。先づ有るというならば、山中鹿介と大石良雄であろう[151]
訳文:ここ数百年間の歴史を遡って見ても、本当の逆境に挑んで、慌てず落ち着いて処理した者はほとんどいない。もしいるとするなら、山中鹿介と大石良雄だろう。
板垣退助
私は常に山中鹿之介なるものを愛するのであります。彼は尼子の忠臣でありまして、尼子の衰運回復すべからざる時に、身を致して顧みなかった男であります[注釈 56]
陰徳太平記
尼子再興軍の大将は尼子勝久であったが、軍事計略のすべては幸盛の脳裏より出たものであった。数年間、山陰山陽に武威を振るい、寡兵で大軍に勝つこと数え切れないほどであった。その武名は天下に響き渡り、樵(きこり)の子供や猟師の老人までもが日常の会話にしたほどであった。しかし、果報にも限りがあるように、天運を使い果たして意味も無く誅されたことは無残であった[5]
『中国兵乱記』[注釈 57]
武勇の達人として天下にその名を知られていたが、天命を全うできず、39歳で討ち滅ぼされ、名を後世に残した。惜しまない者はなかった[144]
義残後覚
幸盛の勇力は抜群であり、才智にも長けていた。当時の人は幸盛を「楠木正成より勝る」と言って褒めたたえた。そのため、七重八重に取り囲んだ敵も幸盛の姿を見ると皆退却した。また、幸盛が城に籠もると敵は和談して戦いを避けた[153][注釈 58]
名将言行録
主家再興を自らの使命とし、各地をさ迷いながらも幾度の苦難を乗り越え、兵を起し戦い続けた。その道のりは厳しく、100度打ちのめされ、1,000回挫折を味わうものであったが、進むことはあっても退くことはなかった。最後は志半ばで倒れてしまったが、その義勇の名は一時天下に鳴り響いた[142]

人物・逸話[編集]

月山富田城跡の太鼓壇公園に建つ山中鹿介幸盛の銅像。1978年、幸盛没後400年を記念して建立された。

容貌[編集]

勇猛な美男子であったとされる幸盛であるが、その容貌については諸説がある。

太閤記』(幼少期)
普通の子供とは容姿が違っていて、眼光がすぐれ、手足も太く逞しかった。幼いながらもその立ち振る舞いは、たいそうきっぱりしていて、不敵にすらあった[7]
雲陽軍実記』(19歳 、品川将員との一騎討ちの時)
背丈は5尺あまりと見えて中肉で色白く、容貌がすぐれた男であった[154]
名将言行録』(34歳、死亡時)
幸盛は討ち取られたとき、たいへん立派な髭を生やしていた。その髭は、針先のように鋭く尖って非常に堅く、障子を突くと簡単に貫くほどであった[142]

鎧冑の姿[編集]

幸盛は三日月の前立てに鹿の角の脇立ての冑をした姿でよく知られる。講談や小説などにおいてもこの姿で描かれることが多い。月山富田城跡に建つ、幸盛の銅像もこの姿で作成されている。通説では、この冑は山中家に先祖代々から伝わるもので、幸盛が家を継ぐにあたって譲られたとされる。しかし『太閤記』や『雲陽軍実記』などの軍記資料によると、その冑の様相は多少異なる。

太閤記
「16歳の春、半月の前立てがある冑をつけていた」と記載され、鹿の角の脇立ての描写はなく、前立ても三日月でなく半月である[7][142]
雲陽軍実記』・『陰徳太平記
「赤糸縅(おど)しの鎧に、牡鹿の角を備えた冑をしていた。その牡鹿の角は、銀粉で装飾され5節に分かれていた」と記載され、鹿の角の立物はあるが、三日月の前立ての記載はない[154][155]
名将言行録
太閤記』に記載される「半月の前立がある冑」の描写ほかに、幸盛が病弱であった兄から冑を譲り受ける記載がある。その冑は「長さ6尺の鹿の双角を前立てに挿めていた」とあり、冑に備え付けられた鹿の角は、脇立ではなく前立てにあったと記載している[142]

鹿介という名[編集]

幸盛の通称(字)、鹿介の命名についての逸話がある。幸盛の幼名は甚次郎といい、病弱な兄に代わって家督を継ぐときに改名して鹿介と称した。一般には、このとき譲り受けた冑に三日月の前立てと鹿の角の脇立がついていたため、冑にちなんで名前を鹿介と改めたとされる。その他には、山の中で鹿の如く走り廻る姿を見て名前を鹿介としたとする説[156]などもあるが、軍記資料に残る改名の理由は次のとおりである。

太閤記
長月(9月)のある日、甚次郎(幸盛)は同輩の秋宅甚介と寺本半四郎と共に夜番をしていた。甚次郎は退屈していたので「苗字にちなんで名前を変えてみようではないか」と両友にもちかけた。2人も「なるほど、それは良いことだ」と言って了解したので、3人はそれぞれ、山中鹿介、秋宅庵之助、寺本障子之助と名乗るようになった[7]
義残後覚
幸盛は、尼子晴久の末子として生まれたが、2歳になったときに毛利元就によって晴久(尼子家)が滅ぼされてしまっため、乳母に抱えられ「山中」という所へ逃れ隠れ住んだ。その地で16・17歳まで成長した幸盛は、人品骨柄に優れ手足の節々にひとつかみの毛が生えていたので、山中鹿介と名乗った[153]
名将言行録
あるとき、甚次郎(幸盛)は兄の甚太郎から、長さ6尺の鹿の双角を前立てに備えた冑を譲り受けた。甚次郎はその冑を身につけ戦場に出ると、人はその威風堂々とした姿を見てたちまち恐れ服した。これにより、幸盛は自らを鹿之助(鹿介)と称するようになった[142]

所持品[編集]

  • 総長約264cm(刃長172.0cm、反り3.0cm、茎長 92.0cm)の石州大太刀(石州和貞 作)を使用していたとされ、大山祇神社へこの太刀を奉納している。現在もこの太刀は大山祇神社に展示され、観覧することができる。
  • 上月城落城後、吉川元春に投降した際に所持していたと伝わる「鉄錆十二間筋兜(てつさびじゅうにけんすじかぶと)」が現存する。護符を兜の中に入れて用いたと伝えられ、現在は吉川史料館に展示されている。
  • 「荒身国行の太刀[157]」を所持していた[37]。阿井の渡しで殺害された時に持参しており、その後は毛利輝元が所持した[158][注釈 59]
  • 『享保名物帳』 によると、天下五剣の1つ「三日月宗近」を一時所持したとされる[160]
  • 「不動国行の太刀」を所持していた[153]

武勇[編集]

山中鹿之助幸盛 月岡芳年画「芳年武者无類」
  • 尼子十勇士」の筆頭とされる[注釈 60]。 また、尼子武将の中で特に智勇・忠義に優れた3人[注釈 61]、「尼子三傑」(「尼子三勇」)の1人とされる[154]
  • 山名軍で猛将として知られた菊池音八や、高野監物、有名な品川将員との闘い、松永久秀配下の河合将監をいずれも一騎討ちで討ち取っている。
  • 首供養を2度行っている[161][142]。首供養は、33の首級を挙げたら1回行う。つまり、生涯で66以上の首級を挙げたことになる。
  • 幸盛は、生まれて数ヶ月で4・5歳の子供のように見え、2・3歳頃には武勇と智略が優れ遊戯も普通の子供と異なり、8歳のとき人を討った[6]。10歳の頃から弓馬・軍法を学び、13歳のときに敵を討ち取って手柄をたてた。成長するにつれ、器量は世に超え、心は強く深謀遠慮、人を賞するにあたって依怙贔屓(えこひいき)がなかった[7][142]
  • 16歳のある春の日、幸盛は「今日より30日以内に武勇の誉れ(戦功)を挙げたい」と三日月に祈った。ほどなくして、主君の尼子義久山名氏の伯耆尾高城を攻め、幸盛もこれに随行する。この戦いで幸盛は、因伯(現在の鳥取県)に鳴り響く豪傑、菊池音八を一騎討ちで討ち取り戦功を挙げる。このため幸盛は、これより一生の間、三日月を信仰したという[7][142]
  • 永禄5年(1562年)、毛利軍は出雲へ攻め入り、尼子軍拠点の月山富田城を包囲する。幸盛が1人城下の民家で休息していると、毛利軍の兵30 - 40騎余が攻め寄せてきた。幸盛は民家から出ると、最初に乗り駆けてきた2人の兵を切って落とし[注釈 62]、続いて来た兵も乱戦して16・17人を討ち取った。残った兵も幸盛1人で切り立てて撃退している。撃退後、幸盛は民家の年老いた尼に「飯はないか」と言って尋ね、出された椎の葉に盛られた飯を食べ、富田月山城へ帰った[7][142]
  • 尼子氏が滅亡し、諸国を放浪していた幸盛が一晩の宿を借りて寺に泊まっていた際、盗賊14人が寺を襲ってきた。幸盛は謀略を用い、1人で盗賊すべてを生け捕りにしてしまった。盗賊は「今まで盗みをすること約100回、戦いも70回あまり行いましたが、このようなことは初めてです。名前を教えてください」と尋ねたが、幸盛は「何を言う、さっさと去れ」と言って[注釈 63]、名前を告げずに立ち去った[142]
  • 品川大膳との一騎討ちについては、史料により異同がある。尼子側の記述『雲陽軍実記』や『太閤記』では、品川は弓を使って鹿介を攻撃しようとしたが、尼子氏の武将に弓を用いて邪魔をされ失敗し、鹿介と品川は接近戦を行い、一進一退の攻防の末に鹿介が品川を見事に討ち取ったと記されている。毛利側の資料『陰徳太平記』では、品川が優勢に勝負を進め、鹿介は追い詰められたが僚友の秋上宗信の助力で勝ったと記されている。史料によって異同があり事実は不明であるが、参考として史料の成立としては『雲陽軍実記』の方が『陰徳太平記』より100年前後古く、『太閤記』は『陰徳太平記』より数十年早く執筆されている。なお、それぞれの史書は、その成立上の経緯もあり、歴史上の事実とは異なる部分も多く、一次資料としての信憑性については、各項目を参照のこと(詳細は「山中幸盛・品川将員の一騎討ち」を参照)。

武辺への助言・判断[編集]

  • 明智光秀の家臣であった野々口丹波が、幸盛に「自分は一騎討ちを3度行い首級をあげましたが、その時の様子は良く分からず朦朧としたものです。しかし世の中には、たった1度の戦いで詳細に覚えている者もいます。その人は生まれつき勇気があるのでしょうか」と幸盛に尋ねた。幸盛はたいへん感心し、「あなたは正直な人だ。言葉を飾り、嘘をついて名をあげようとする人が多い世の中にあってはめずらしい人だ。自分も4 - 5個の首級をあげたときは、あなたと同じだった。7 - 8個のときに夜が明けたようになり、10個の首をとることには、敵の内冑を突いた場所までよく見え、子供の遊びのように杖で討ち倒すことができた。あなたも経験を重ねれば、自分の言ったことが分かるだろう」と答えた[161][142]
  • 明智光秀の家臣であった野々口彦助(野々口丹波と同一人物か?)が、幸盛に功名をあげる方法を尋ねた際、幸盛は「合戦の前には必ず目が見えなくなるものだ。よく心得ておかれよ」と言ったが、彦助は最初それほどのこととも思わなかった。しかし、朝霧がなびいて物の色も区別がつかない戦場に立ったとき、彦助は幸盛が教えたことを思い出した。「ここで目が見えないのは私が気おくれしているからだろう」心を静めるため目をふさぎ、そして目を開くと、心もさわやかに目もはっきり見えたので、みごと敵の首を取って功名をあげたとされる[162]
  • ある日、初陣を終えた2人の若者が幸盛にそれぞれ話しかけた。ひとりは「敵に向かうと震えが生じて、しっかり敵を見ることもできず、討ち取った敵がどんな鎧であったかも覚えていません」と話した。別のひとりは「自分はそうではありません。敵がどんな鎧を着て、どんな馬に乗り、組み合った場所など鮮明に覚えています」と話した。2人が帰った後、幸盛は傍の人に「最初に話した若武者は、立派で勇敢な武士になるだろう。後に話した若武者は、はなはだ心もとない。もしかしたら、他人のあげた敵の首を拾い取って自分の手柄としたのではないだろうか。さもなくば、次の戦で討たれてしまうだろう」と語った。はたして後日、その言葉のとおりとなった[163]

心遣い[編集]

  • 隠岐為清らが美保関で反乱を起こした際(美保関の合戦)、幸盛らはこれを制圧するため攻めるが、為清に反撃され窮地に追い込まれる。その後、横道兄弟(横道高光、横道高宗)、松田誠保らが救援に駆けつけ奮戦、結果、為清を捕縛しこの戦いに勝利した。この時、尼子勝久は幸盛らに遠慮して、横道らに感状を出すことを差し控えていた。しかし幸盛は「この合戦で彼らの加勢がなければ、自分の一命はなかったことでしょう。緒戦に敗れた我々に遠慮することはありません。賞罰は明らかにし、政道に依怙贔屓があってはなりません」と勝久を諫め、早々に感状を渡すよう言上した。勝久はこれを喜び、すぐに横道らに感状を渡したとされる[164][165][142]
  • 明智光秀の家臣であった野々口丹波が幸盛を我が家へ招待した後に、光秀からも「風呂を炊いたから家に来ないか」と招待があった。野々口の家はあばら家であったが、幸盛は「野々口と先約があるので、いけません」と笑って光秀に答えた。光秀もまた笑って、「幸盛をこれで招待してやれ」と野々口に言い、雁1羽と鮭1尾を授けた[161][142]
山中幸盛の花押天正6年7月8日 遠藤勘介宛書状より。
  • 幸盛から配下の進藤勘介に宛てた書状が残っている。捕らえられ、阿井の渡しで殺害されるまでの間に書かれた、幸盛の最後の書状とされる。長年の牢人時代を労い、上月城のでの戦いぶりを「生涯忘れない」と褒め、今後は何処へでも仕官するように(自分との主従関係は解除する)という内容である[注釈 64]

その他[編集]

  • 幸盛の母、山中なみはたいへんな賢母であったとされる[注釈 65]。幸盛の父は若くして亡くなったため、なみ1人の手で幸盛は育てられた。稼ぎ手がいなかったため家は貧しく、衣服を買うお金に困るほどであった。そのため、自ら畑で麻を育て、その麻で幸盛に服を作っていたが、自分はぼろぼろな服を着て生活していた。また、同じように貧しい子供がいれば、服を与え、宿泊させ、食事をふるまった。世話になった子供らは皆これに感心し、大きくなってから幸盛に協力するようになったとされる[7][5][142]
  • なみは幸盛に対し「そなたに従う人々と苦楽を共にしなさい。戦いに敗れたときに仲間を見殺しにしたり、また手柄を独り占めにするようなことをしてはいけません。」と言って教えた。幸盛も常にその言葉を忘れず、教えに従ったとされる[7][142]
  • 幸盛が尼子勝久を擁して出雲へ攻め入ったとき、かつての同僚・神西元通は毛利方に属し[注釈 66]伯耆の末石城の城番をしていた。元通と旧交のあった幸盛は、元通を味方にしたいと考え、まずその心情を探ろうと計画する。幸盛は元通に禅僧を遣わすと、今の心情を扇に書くようお願いする[注釈 67]。元道は「ふるから小野の 元柏(もとがしわ)」とだけ記し禅僧に渡すと、幸盛にこの扇を届けるよう伝える。届いた扇を見た幸盛は「これは『いそのかみ ふるから小野の 元柏 元の心は わすられなくに[注釈 68]という古歌の一節だ。元通も尼子のことが忘れられないだろう」と考え、再び禅僧を元道へ遣わし、尼子に味方するようお願いする。はたして元通はお目付け役の中原善左衛門を切り、尼子再興軍に味方することとなった。なお、元通はその後上月城落城まで付き従い、尼子勝久と共に切腹し自害している[58][166][142]
  • 尼子氏滅亡後、幸盛は尼子家再興を目指し出雲で戦いを繰り広げていたが、敗れて末吉城で降伏することとなる。その後、尾高城へ幽閉されることとなった幸盛は「赤痢になった」と偽って何度もへ通い[注釈 69]、あまりの頻度に付き添っていた監視役が付いてこなくなると、その隙を突いて逃げ出すこと[注釈 70]に成功したという[167][168]
  • 秀吉は上月城救援を諦め退却する際「返す返すも幸盛を見捨てる口惜しさよ。もし信長様が上月城の救援に向かわれたなら、毛利家は滅び中国筑紫まで信長様のお心のままになっていただろう。しかしながら佞臣らの讒言によって[注釈 71]幸盛は見捨てられ、その悪評は西国の果てまで広まってしまった。佞臣の志しは今も昔もかくやあらん」と信忠に向かって憚りもせず怒鳴り散らした[169]
  • 天正6年7月(1578年8月)、幸盛の籠もっていた上月城は毛利軍に攻められ、援軍の羽柴秀吉軍が撤退したこともあり、毛利氏に降伏することになる。幸盛は降伏に際し、尼子勝久の助命を再三にわたり毛利軍の吉川元春小早川隆景に申し立てたが、両将は「勝久が切腹しなければ、城内の者を悉く皆殺しにする」と言って許さなかった。万策尽きた幸盛は、勝久に向かい涙を流しながら「 このたびは殿の命を救うため再三にわたって申し立てしましたが、元春・隆景は承知しませんでした。この上は、力なく武運も尽きたと思って御自害ください。自分もお供するのは当然ですが、特に敵の吉川元春は憎い仇なので、偽って降参し近くに寄ったとき刺し違え、当家多年の鬱憤を晴らすつもりです。命を惜しみ不義の降人と思われるのは口惜しいですが、すぐに三途の川で追いつき、その時こそ忠義に嘘偽りのないことをお示しします」と申し立てた。それに対し、勝久は「自分は、普通なら法衣を纏い抖藪行脚(とそうあんぎゃ)をして生涯を終える身なのに[注釈 72]、一時的とはいえ尼子家の大将として数万の軍勢を率いることができた。わずかな期間であったが良い夢を見させてもらった。今ここに自害するに及んで何の恨みがあるだろうか。ましてや、自分が死ぬことで部下の命が助かるならば、むしろ大将としては幸いなことだ。また、元春と刺し違えて仇をとることはたいへん立派なことだが、元春は智勇に優れておりそのような機会は訪れないだろう。それよりは、生き長がらえ、別の尼子庶子を探し出し、その者を大将として助け、尼子の再興を目指して欲しい」と言って幸盛に別れを告げた[170][注釈 73]
  • 上月城落城後、幸盛は捕らわれの身となる。さて、毛利軍の中には岡筑前守元良という背が低く不細工ではあるが武勇抜群の者がいた。その元良が会いに訪れたため、幸盛は「筑前殿に実際にお会いしてみると、そのお姿、聞くと見るとでは大きな違いです」と笑いながらあいさつをした。幸盛のこの言葉は悪気があった訳ではなくむしろ褒めるつもりで言ったのだが、侮辱されたと受け取った元良は「貴殿のおっしゃるとおり人は聞くと見るとでは違うものです。幸盛殿のことは日本に隠れなき勇士と聞いていましたが、君主に自害を薦め、敵方に降参する侍とはゆめゆめ思いませんでした。まさに聞くと見るとは大きな違いです」と言って幸盛を非難した。この言葉を受けた幸盛は、ただ黙してはらはらと涙を流すだけであったという[171][172]
  • 毛利の家臣・粟屋就光は同じ家臣の口羽通良がたいへん心を病んでいたため、どうしてそうなったかを輝元に聞いたところ「幸盛の殺害について事前に通良に伝えてなかったのでショックでああなったのだ。そっとしといてやれ」と答えた[173]
  • 幼いときに毛利氏に祖国を滅ぼされた幸盛は、300ばかりの屈強の者達を率い、各国より依頼を受けて戦う傭兵団として中国五畿内を巡っていた。この有様を聞いた小早川隆景は「幸盛は武略が備わりその器量も無双の勇士であるが、表裏の侍で今日は敵、明日は味方となる弓箭の本意に背く武士である」として毛利輝元に殺害を主張し、それにより刺客を送られ幸盛は殺害されてしまった[174][153]
  • 幸盛が毛利の刺客・綿抜左馬介(卯月一日左馬介)に殺害された際、幸盛には2人の小姓がいた。その小姓らは、幸盛の亡骸を川岸へ埋めてを作ると、3月上旬のことでもあったのでの花の枝を折ってその塚の上へ刺し「殺害されたとはいえ山中鹿介も名誉ある侍の1人である。もし天に情けがあるならばこの花を根ざし給へ」と言って念仏を唱え切腹し果てた。左馬介がこの2人の亡骸を幸盛の塚に並べて埋めると、その後、この枝は根付き大木になるまで成長した。しかし誰が言い出したのか「この木を飲めば瘧(おこり)が治る」との噂が広まり、国内外より人が来ては削っていったのでそのうち削り枯れてしまった[153]

墓所[編集]

阿井の渡し(岡山県高梁市)にある幸盛の墓所
観泉寺(岡山県高梁市落合町)にある幸盛の墓所
幸盛寺(鳥取県鳥取市鹿野町鹿野)にある幸盛の墓所
巌倉寺(島根県安来市広瀬町富田)にある供養塔
静観寺山門前(広島県福山市鞆の浦)にある幸盛の首塚
阿井の渡しの墓(岡山県高梁市落合町阿部)
幸盛は、備中松山に在陣する毛利輝元へ送られる途中、阿井の渡しで殺害される。正徳3年(1713年)10月、幸盛の死を哀れみ、松山藩士であった前田市之進時棟と佐々木軍六が、この地に墓石を建立した。碑文に次のように記載される。「尼子十勇、儕輩絶倫、不得伸志、無遭干時、忠肝義膽、爰樹爰封、殊勲偉績、千載流芳。前田時棟謹銘」[175]
観泉寺境内の墓(岡山県高梁市落合町阿部)
幸盛の遺体は、曹洞宗観泉寺の住職、珊牛和尚がその遺体を引き取り、石金堂(清講堂)に埋葬されたと伝える。寺内には幸盛の位牌も安置されている。戒名は「幸盛院鹿山中的居士」。また、明治35年には、第14世金地祖英師が新たに墓石を建設した。戒名も追贈され「幸盛院殿鹿山中的大居士」となる[176]
大徳寺玉林院内の墓(京都府京都市北区紫野大徳寺町)
寛保3年(1743年)5月22日、幸盛の子孫である大坂の商人、鴻池家当主をはじめ18名によって建立された。 鴻池家は先祖の菩提を弔うために、江戸時代中期の寛保年代に、玉院林の中に位牌堂を創建した。この位牌堂は「南明庵」と称され、幸盛の位牌もそこに安置されている。この南明庵の向かいの墓所に幸盛の墓がある。墓の裏面には、次のように記載される(原文は漢文)。「尼子忠臣山中幸盛、幼きより勇彊にして、軍鋒の魁たり。年三十四にて備中阿部に戦死す。実に惟れ天正六戊寅五月廿二日也、子孫一宗、鴻池十八人相與に謀り、樹石を紫野玉林禅院に奉り、先ず本に報じ、以て無窮に示す。 寛保三年歳舎癸亥五月廿二日 現住比丘大龍宗丈誌す」[177]
本満寺実泉院内の墓(京都府京都市上京区寺町
宝暦14年(1764年)5月22日、幸盛の子孫である山中永辰と山中一信によって建立された。幸盛の墓は本堂脇の墓所中央に位置し、周囲に山中一族の墓碑がある。墓の裏面には、次のように記載される(原文は漢文)。「尼子忠臣山中幸盛、幼きより勇彊にして、軍鋒の魁たり。年三十(四)にて備中阿部に戦死す。実に惟れ天正六戊寅五月廿二日也。子(孫)山中永辰、同一信、相與に謀り、樹石を広宣し、流布山本願満足寺に奉り、先ず本に報じ、以て無窮に示す。 宝暦十四年歳舎甲申五月廿二日 当山丗七世日視誌す」[178]
金戒光明寺金光院内の墓(京都府京都市左京区黒谷町 )
金光院の奥の墓所中央、文殊堂へ通じる石段の登り口に、幸盛の五輪塔が建立されている。傍には、亀井茲矩と茲矩の妻(幸盛の養女)の2基の五輪塔がある。幸盛の五輪塔には、次の銘文が刻まれる。「雲州山中鹿介、潤林院殿太誉淨了大禅定門 、天正六年七月十七日」[179]
幸盛寺内の墓(鳥取県鳥取市鹿野町鹿野)
元は明照山持西寺と称し、宝徳年中(1449年 - 1452年)に凝阿上人によって開かれた寺である。場所も今の場所でなく、鹿野西北山麓にあった。文禄元年(1592年)、鹿野城主であった亀井茲矩が、幸盛の菩提を弔うため、明照山持西寺の住職照誉に命じて寺を現在の場所に移し、名も鹿野山幸盛寺と改称し建設した。慶長13年(1608年)には、茲矩によって、備中の遭難地より幸盛の遺骨の数片が集められ、境内に幸盛の墓が建設されている。墓碑銘には次のように記載される。「天正十一癸未七月二日 為幸盛寺殿潤琳淨了居士 沙門蓮社照誉上人建之」。寺内には幸盛の位牌も安置される。戒名は「幸盛寺殿潤淋淨了居士」[180]
巌倉寺内の供養塔(島根県安来市広瀬町富田)
慶長7年(1602年)7月、堀尾吉晴の夫人(奥方)が幸盛の忠義を讃え、巌倉寺の境内に建立した。一時、第2次世界大戦中に食糧増産のあおりをうけ、甘藷(さつまいも)畑になり、境内の世代墓の片隅に移転されていた。寺内には幸盛の位牌も安置される。位牌の裏には次のように記載される。「天正六年戊寅七月十七日 於備中阿部渡為毛利氏討死 寛永二十年癸未二月 當山二十二世観譽建之」。戒名は「幸盛寺殿潤林淨了居士」[181]
静観寺山門前の首塚(広島県福山市鞆町後地
備中松山城で毛利輝元の首実検を受けた幸盛の首は、ここの地に送られたとされる。当時、毛利氏に身を寄せていた足利義昭はこの地に滞在していたので、その首実検に供するためである。石碑は自然石をそのまま利用して刻文はなく、近くに「山中鹿之助首塚」の標石がある。寺内には幸盛の位牌も安置される。戒名は「幸盛院殿大譽淨了大居士 」[182]

系譜[編集]

山中幸盛を主題とした作品[編集]

小説
絵本
  • 文:鹿介を子どもたちに伝える会 絵:玉井詞『山中鹿介-やまなかしかのすけ』(ハーベスト出版 1998年) ISBN 4-938184-17-6
漫画
テレビドラマ
舞台

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b 鹿介が正しい。自筆状[1]にそのように自署している。ただし、現代では鹿之介という表記も非常に広く及んでいる。海音寺潮五郎は「武将列伝・山中鹿之介」で、鹿介が正しいことに触れた上で、シカスケと読み誤りやすいのであえて鹿之介と表記する旨を注記している。
  2. ^ 鹿之介、鹿之助、鹿助は間違って広まった名前である。
  3. ^ 『太閤記』では山中甚次郎(巻十九 山中鹿助伝)。『陰徳太平記』では池田甚次郎(巻第五十六 山中鹿の助最後の事)。『後太平記』では山川甚次郎(巻第四十 山中鹿之助品川狼介勝負之事)
  4. ^ ありとあらゆる苦難のこと。「七難」は7種の災難で経典により内容が異なる。『法華経』では、火難・水難・羅刹難・王難・鬼難・枷鎖難・怨賊難。『薬師経』では、人衆疾病難・他国侵逼難・自界叛逆難・星宿変怪難・日月薄蝕難・非時風雨難・過時不雨難。『仁王経』では、日月失度難・星宿失度難・災火難・雨水難・悪風難・亢陽難・悪賊難。「八苦」は人生上の8種の苦難のこと。生・老・病・死の4苦に愛別離(あいべつり)・怨憎会(おんぞうえ)・求不得(ぐふとく)・五陰盛(ごんじょう)を加えたもの(広辞苑より)。
  5. ^ 個人所蔵のものが2点[2][3]と島根県が所蔵するもの[4]がある
  6. ^ 『佐々木文書』「尼子家分限牒」によれば中老。ただし、尼子家分限牒は江戸時代に製作され、その信憑性については諸説ある。
  7. ^ 幸盛は一時期、亀井姓を名乗っていたため[8]亀井家の養子であったとされる。
  8. ^ 永禄4年(1561年)、毛利氏による石見国への侵攻に際し、室町幕府から毛利氏(・大友氏)との和睦の斡旋を受けていた[14]義久は、積極的に毛利軍と戦うことをしなかった(毛利氏は朝廷の斡旋に従わなかった)。その結果、石見の尼子方の国人は見捨てられた格好となり、滅亡又は毛利方へ味方する者が続出した。そして、この情勢を見た他国の尼子方の国人も次々と毛利方へ鞍替えした。
  9. ^ 『中国兵乱記』では、撃退は4度、敵の首は5つ。[19]
  10. ^ 『二宮佐渡覚書』では、永禄6年10月29日(1563年11月14日)に落城。[21]
  11. ^ 現在の美保関町
  12. ^ 現在の弓ヶ浜)。
  13. ^ 幸盛は第2陣に在する。
  14. ^ 『二宮佐渡覚書』では星上山でなく京羅木山と記載。[21]
  15. ^ 『雲陽軍実記』では4月17日は凶日なので、1日伸ばした18日とする。
  16. ^ 月山富田城への3つの進入口の1つ。塩谷口は南側に位置する。他は、北側の菅谷口(すがたにぐち)と西側の御子守口(おこもりぐち)。
  17. ^ 品川 大膳(しながわ だいぜん)あるいは棫木 狼之介(たらぎ おおかみのすけ)ともいう。
  18. ^ 『陰徳太平記』では、船陰に隠れていた幸綱に、幸盛は膝口をしたたかに切られ負傷している。[28]
  19. ^ 開城時、義久らに従う尼子家家臣は、わずか134名しかいなかった。[32]
  20. ^ 義久、秀久、倫久の3人。
  21. ^
    • 義久へは、宇山右京亮・立原備前守・本田豊前守・同与二郎・大西十兵へ(大西十兵衛)・牧彦右衛門・力石兵庫・津野森四郎二郎・福頼四郎右衛門・本田太郎左衛門・真野甚四郎・高尾惣五郎・正覚寺(大塚助五郎)の21名。
    • 倫久へは、多賀勘兵へ(多賀勘兵衛)・佐藤助三郎・重蔵坊・山崎惣左衛門の5名。
    • 秀久へは、松浦治部丞・松井助右衛門・他9名(宇山被官・矢田五郎左衛門・作野助四郎・立原被官・河上助四郎・小者之聟・本田被官・広江彦五郎・中間源右衛門)。[34]
  22. ^ 広島県安芸高田市向原町長田にあった。現在は屋敷跡が残る。
  23. ^ 『陰徳太平記』によれば、但馬国の垣屋播磨守を頼ったとする。[36]
  24. ^ 当時、毛利氏と織田氏は友好的な関係であった。毛利氏は、京都に送り込んだ使僧の朝山日乗を通じて信長に合力を要請。「雲伯因三ヶ国合力」として、織田軍の木下藤吉(木下秀吉)、坂井右近(坂井政尚)が2万の兵で但馬国に攻め込み、生野銀山、子盗、垣屋などの城を攻略している。また、「備作両国御合力」として、木下助右衛門尉、同左衛門尉(木下祐久)らが2万の兵で播磨国に攻め込み、増井、寺蔵院などの城を攻略。その後、備前国に進んで天神山城に攻め込む予定であることが記されている。[41]
  25. ^ 同日、同人に宛てた尼子勝久の寄進状には「但馬国」と記載されており、他の資料の関係から「但州(但馬国)」の誤りではないかとの指摘もある。
  26. ^ 『雲陽軍実記』『陰徳太平記』によれば、但馬国から海賊・奈佐日本之介の手を借りて隠岐国へ渡り、隠岐の国人・隠岐為清の協力を得て島根半島に上陸したとする。[36][43]
  27. ^ 『陰徳太平記』では、15城。[52]
  28. ^ 綱寛は、以前より尼子方から誘いを受けており[53]、大友宗麟の勧めもあって[54]尼子方へ寝返った。
  29. ^ 毛利方についていた三沢為清、三刀屋久祐、高瀬備前守、米原綱寛が、幸盛の誘いにより尼子方についた。ただし三沢氏、三刀屋氏は後に毛利につく。[55]
  30. ^ 以後、日野衆は、尼子再興軍が上月城の戦いで滅ぶまで、一貫して支え続けていく。
  31. ^ 毛利方の山田重直が、尼子方の因幡国の荒神山城(現在の鳥取市鹿野町河内)を攻撃している。[60]
  32. ^ 永禄13年3月 - 元亀2年5月にかけて、尼子方の日野衆と毛利方の宮氏が備中・備後の国境付近で戦っていた。[61][62]
  33. ^ 雲州牢人(尼子再興軍)が、美作国の高田城を攻めた。[63]
  34. ^ 1月28日には多久和城(島根県雲南市三刀屋町多久和)を毛利軍が攻め落としており[70]この布部の地を抜けると月山富田城はすぐそこである。
  35. ^ 高瀬城は元亀2年3月19日に落城[85]、伯耆の岩倉城は元亀2年5月14日に落城[86]など
  36. ^ 同じ頃、伯耆における尼子再興軍の最後の拠点・八橋城も落城している[88]
  37. ^ 天正元年8月1日に、尼子再興軍が鳥取城下で武田軍の兵を討ち取っていることが分かる。
  38. ^ その他、甑山城の戦いは『雲陽軍実記』や『陰徳太平記』にも記載がある。『因幡民談記』は天正元年8月1日。『雲陽軍実記』は天正元年8月。『陰徳太平記』は元亀3年8月に戦いがあったと記載。
  39. ^ 『太閤記』では鳥取城の本丸に尼子再興軍が、二の丸に豊国が入ったとする[35]。また、『雲陽軍実記』や『陰徳太平記』などの軍記資料では、その後、幸盛は鳥取城を退出し、京に上り織田信長に謁見。そして再び因幡国へ攻め入り、再度鳥取城を落としたとする。
  40. ^ 『陰徳太平記』では13城。[101]
  41. ^ 鳥取城下や岩井方面(鳥取県岩美郡岩美町)で合戦に及んでいる。[105]
  42. ^ 山名豊国らの仲介によって、天正3年正月頃には和平に向けた合意がなされていた。[110]
  43. ^ 『雲陽軍実記』では45,000の兵。[100]
  44. ^ このとき、山名豊国が但馬国の山名祐豊にも因幡への出兵を要請していた[115]
  45. ^ 三村氏の居城・松山城は6月7日の時点で既に落城[120]。なお、『備中兵乱記』によれば5月22日に落城[121]。三村氏の当主・三村元親は6月2日に自害[122]
  46. ^ 浦上氏の居城・天神山城が、9月14日までには落城していた。[123]
  47. ^ 9月11日、三浦氏の居城・高田城が落城し、これにより三浦氏は事実上滅亡した。[123]
  48. ^ 『太閤記』では、天正3年正月10日に近江国の安土山へ行き信長に謁見。その後、岐阜にいる織田信忠へ会いに行った[35]。『 陰徳太平記』では元亀2年、明智光秀の仲介で信長に謁見した[125]
  49. ^ 『太閤記』では信貴山城を攻めた際、『渡辺助允覚書』では片岡城を攻めた際のこと。また『渡辺助允覚書』では河合将監を河人将監と記載。
  50. ^ 勝久は、このとき遠く離れた出雲の熊野大社安堵状を出すなど、出雲への復帰の意思を示している。[128]
  51. ^ 天正6年1月末に出陣、翌日に上月城の手前60余りで布陣した。
  52. ^ 『備前軍記』や『陰徳太平記』などによれば、
    上月城を秀吉軍が落とす。
    →尼子勝久・山中幸盛らが京へ上った隙をついて宇喜多軍が上月城を落とし、真壁彦九郎が城主となる。
    →尼子再興軍が上月城を攻め、奪回。
    →上月城に籠もる尼子再興軍が、宇喜多軍の真壁次郎四郎を撃退。
    →宇喜多直家が自ら大軍を率い上月城を攻め、尼子再興軍は上月城を捨て撤退。
    →再度、秀吉軍が上月城を攻め落とし、尼子再興軍が入城。
    と上月城の所有が二転三転している。
  53. ^ 吉川元長の書状には「此方の軍は3万」と記載されているが[132]、此方とは吉川軍だけか、または小早川・宇喜多軍を含めてかは不明。『家忠日記』では毛利軍は8万[133]
  54. ^ 『桂岌円覚書』によれば53人。「芸州へ不忠の者五三人、勝久同前に打果し・・・」。
  55. ^ ただし、『後太平記』巻第四十二 「山中鹿之助被誅事」には、天正6年(1578年)に39歳で死亡したと記載され、年齢があわない。
  56. ^ 明治26年(1893年)12月29日、議会解散の前日に、当時の自由党総理(党首)であった板垣退助は以下のように話を続け、解散に屈してはならないと党員を激励した。「彼は常に七難八苦に遭わしめ給えと、三日月を拝したということであります。又彼の述懐に、憂きことの なおこの上に 積もれかし 限りある身の 力ためさん ということを申しております。彼の三日月を拝したというのは、如何なる意を以て拝したのであるかということは、出雲の人に就いて聞きましても分りませんが、私自ら解釈したつもりで居りまする。彼の満月となります時は必ず欠くるものである。彼の三日月の微々として雲間に光る処が、其不満なる有様、是れ士志の同感をなす処であるということでありまする」。[152]
  57. ^ 元和元年(1615年)、賀陽郡刑部郷経山城主であった中島大炊助元行が、自己の体験した合戦とその功績を子孫に残すため著したもの。
  58. ^ 『名将言行録』にも記載あり。[142]
  59. ^ 『桂岌圓覚書』の内容に加え、幸盛が頸にかけた袋の中に「大海のつぼ(茶入れ)」を持っていたこと、及びこれら太刀と茶入れは毛利輝元に献上され「荒身国行の太刀」については輝元が所持したことが記載されている。『陰徳太平記』・『後太平記』にも同様の内容が記載[5][159]。後に輝元から豊臣秀吉に献上されたとされる。
  60. ^ 名将言行録』によれば、尼子十勇士とは、尼子晴久が部下4万人余りの中から選び出した、勇力の優れた10人の人物と記載する。その中でも幸盛を第一とした。
  61. ^ 山中鹿介、立原源太兵衛、熊谷新右衛門の3人。
  62. ^ 幸盛が最初の兵を切って落とすと、次の兵は馬から降り立ち、3尺5寸の太刀を抜いて向かってきた。幸盛は「やさしのおのこや(けなげな奴だ)」と言って、おがみぎりに切ると、相手は微塵になって谷底へ転がり落ちていった。
  63. ^ 神仏がご覧になっている前で殺生は良くないと思い、寺の住職と相談して盗賊は解放することにしていた。
  64. ^
    (原文)永々被遂牢、殊当城籠城之段無比類候、於向後聊忘却有間敷候、然者何へ成共可有御奉公候 恐々謹言 七月八日 幸盛(花押) 〆進藤勘介殿 山鹿

    (書き下し)永々牢を遂げられ、殊に当城籠城の段、比類無く候。向後において、いささかも忘却有るまじく候。然れば、何くへなりとも、御奉公あるべく候 恐々謹言

    (訳)長い間の牢人生活を終えられ、特にこの前の籠城戦(上月城の戦い)では、比類の無い戦いぶりでした。このことは今後一生忘れません。これからは何処へでも奉公されますように、恐れながら謹んで申し上げます
  65. ^ 崔元暉、呂栄公の母にも劣らないと記載される[5]
  66. ^ 元通は以前尼子家に使えていたが、永禄6年(1564年)の月山富田城の戦いのときに降伏して、以後毛利氏に従っていた。
  67. ^ 禅僧は「幸盛殿と元通殿は現在敵味方に分かれていますが、幸盛殿は元通殿と旧交忘れがたく、貴殿をなにかと心配しておられます。貴殿がご健在であることをお伝えしますので、この扇に何か一筆お書きください。持ち帰って幸盛殿に見せれば安心なさるでしょう」と言って元通へお願いした。
  68. ^ 意味は「古い枯れた幹ばかりの野に 古くからある柏 その柏のように 以前からの気持ちを忘れてはいません」。古今和歌集 巻第十七 雑歌上886 題知らず よみ人知らず
  69. ^ 『雲陽軍実記』では昼夜70 - 80回。『陰徳太平記』では一晩に170 - 180回厠に通ったと記載。
  70. ^ 『雲陽軍実記』では、厠の透垣(板と板、または竹と竹との間を少し透かしてつくる垣根)を乗り越え、底樋(ため池などの底の水を取水する)の水門を抜けて逃げたと記載。『陰徳太平記』では、 厠の樋を游り(くくり)て逃げ出したと記載。
  71. ^ 佐久間信盛滝川一益らが秀吉の功を妬み、信長自ら救援に向かうことなく秀吉に軍を退却させるよう申し立てた[169]
  72. ^ 勝久は当初、京都の東福寺の僧であった。
  73. ^ 『武者物語』『武者物語之抄』にも同様の記載あり[171][172]

出典[編集]

  1. ^ 「尼子氏家臣連署奉書/(永禄12年)10月1日/富兵部大夫宛」(『富家文書』)ほか
  2. ^ 『尼子盛衰人物記』p309
  3. ^ 『山中鹿介幸盛-戦国ロマン広瀬シリーズ4-』p104
  4. ^ 『島根縣史 六-守護地頭時代』 大正15年6月30日 島根県内務部島根縣史編纂掛
  5. ^ a b c d e f g 『陰徳太平記』巻第五十六「山中鹿の助最後の事」
  6. ^ a b c d 『後太平記』巻第四十「山中鹿之助品川狼介勝負之事」
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m 『太閤記』巻十九「山中鹿助伝」
  8. ^ 亀井鹿介幸盛・立原源太兵衛尉久綱 尼子勝久袖判奉行人連署奉書/(元亀2年)3月11日/松田兵部丞宛」(『鴻池家旧蔵文書』)ほか
  9. ^ 「三吉隆亮書状写/(永禄5年)7月29日/心東堂宛」(『閲覧録遺漏4-1』『浄泉寺文書』)
  10. ^ 「小早川隆景感状/天文24年10月20日/井上又右衛門宛」(『閥閲録11』)ほか
  11. ^ 「毛利隆元書状/(弘治3年)4月3日/阿曾沼少輔十郎宛」(『閥閲録35』)ほか
    「毛利元就書状/(弘治3年)5月9日/刑部大輔・兒玉若狭守宛」(『閥閲録84』)
  12. ^ 「毛利元就 ・同隆元連署書状写/(永禄5年)6月23日/川尻浦齋藤源左衛門所持」(『閥閲録遺漏4-1』)
  13. ^ 尼子義久家臣人数帳(『佐々木文書』「佐々木文書237」)
  14. ^ 「足利義藤御内書/(永禄)4年4月10日/大館伊予守・進士美作守宛」(『佐々木文書235』)ほか
  15. ^ 「毛利元就書状写/(永禄5年12月)/兼重彌三郎宛て(『閥閲録52』)ほか
  16. ^ a b 『雲陽軍実記』第三巻「富田勢出張先鋒争ひ 並びに白鹿の麓合戦、尼子方敗北の事」
  17. ^ 「毛利元就書状/(永禄6年)8月20日/棚守左近衛将監宛」(『厳島野坂文書』)
  18. ^ 『後太平記』巻第三十六「出雲国馬潟原合戦之事」
  19. ^ 『中国兵乱記』一の巻「毛利元就が雲州へ攻め入った事」
  20. ^ 「吉川元春巻数并供米返事/(永禄6年)10月17日/棚守左近衛将監返報」(『厳島野坂文書』)
  21. ^ a b c d e 『二宮佐渡覚書』「出雲富田の開城」
  22. ^
    • 『雲陽軍実記』第三巻「杉原播磨守盛重と山中、立原、秋上等三保関軍のこと」
    • 『陰徳太平記』巻三十七「杉の原盛重伯州泉山の城に入る 付 弓の浜合戦之事」及び「泉山合戦之事」
  23. ^ 「乃美隆興書状写/(永禄8年)6月14日/村山四郎大夫宛」(『毛利氏四代実録考証論断』)ほか。
  24. ^ a b c d e 『森脇覚書』「雲州御弓矢最初之事」
  25. ^ 「毛利元就書状写/(永禄8年)5月2日/児玉若狭入道宛」(『閲覧録84』)ほか
  26. ^
    • 『雲陽軍実記』第三巻「富田惣攻め三所合戦 並びに毛利勢、荒隈帰陣の事」
    • 『陰徳太平記』巻三十八「富田城下三箇所合戦之事」
  27. ^ 「毛利元就・同輝元連署感状写/永禄8年5月9日/井上又右衛門尉宛」(『閲覧録11』)ほか。
  28. ^ 『陰徳太平記』巻三十九「富田所々付け城 並 山中鹿助夜討事」
  29. ^ 「平賀広相感状写/永禄9年5月28日/原田長左衛門尉宛」(『平賀共昌集録旧記』)ほか
  30. ^ 「毛利元就書状写/(永禄9年)6月28日/児玉若狭入道宛」(『閥閲禄84』)
  31. ^ 「毛利元就他3名連著血判状写/永禄9年11月21日」(『佐々木家旧蔵文書』『閥閲禄29』)
  32. ^ 「永禄9年11月28日下城、相届供仕衆中(『佐々木文書237』)
  33. ^ 「小早川隆景書状/(永禄9年)11月28日/冷泉四郎御返報」(『冷泉家文書』『閥閲禄102』)
  34. ^ 『二宮佐渡覚書』「尼子三兄弟御供の衆」
  35. ^ a b c d e f g h i 『太閤記』巻十九「鹿助度量広く武勇にかさ有事」。
  36. ^ a b c d e 『陰徳太平記』巻第四十三「尼子勝久雲州入 付 松永霜台事」
  37. ^ a b c d e f 『桂岌圓覚書』
  38. ^ 「毛利輝元書状/(永禄12年)4月28日/赤名右京亮宛」(『閥閲録37』)
  39. ^ 「吉川元春起請文/元亀2年4月5日」(『三沢文書』)
  40. ^ 山本浩樹『西国の戦国合戦-戦争の日本史-』(吉川弘文館、2007年、P180)
  41. ^ 「日乗朝山書状安/(永禄12年)8月19日/毛利元就ほか13名宛」(『益田家文書28』)
  42. ^ 「尼子氏家臣連署奉書/永禄12年9月15日/日御碕検校宛」(『日御碕神社文書』)
  43. ^ a b 『雲陽軍実記』第四巻「尼子勝久雲州へ攻め入り、並びに旧交馳け集まり敵城を攻め落とす事」
  44. ^ 「尼子勝久寄進状//永禄12年9月15日/日御碕検校宛」(『日御碕神社文書』)
  45. ^ a b 『森脇覚書』「九州御陣之事」。
  46. ^ 小早川隆景書状/(永禄12年)7月20日/湯原右京進宛(『閥閲録115ノ3』)
  47. ^ 『吉川家旧記五』
  48. ^ 「毛利元就書状/永禄12年7月19日/野村信濃入道宛」(『閥閲録123』)ほか
  49. ^ 「天野隆重書状/永禄12年9月27日/加儀太郎右衛門尉宛」(『閥閲録160』)ほか
  50. ^ 『雲陽軍実記」第四巻「所々尼子方蜂起 並びに富田合戦の事」
  51. ^ a b 『雲陽軍実記』第四巻「秋上伊織介富田敗北 並びに山中鹿之助異見の事」
  52. ^ 『陰徳太平記』巻四十三「諸国毛利家に背く 付 立花の城明け渡す事」
  53. ^ 「尼子勝久書状/永禄12年8月12日/米原平内兵衛尉宛」(『松原家文書』)
  54. ^ 「大友宗麟書状/永禄12年5月17日/米原平内兵衛尉宛」(『松原家文書』)
  55. ^ 『太閤記』巻十九「元就群難之事」
  56. ^ 「天野隆重書状/永禄12年7月25日/新藤就勝宛」(『竹矢家文書』)
  57. ^ 「吉川元春書状写/永禄13年3月3日/湯原平次宛」(『閥閲録115』)
  58. ^ a b 『雲陽軍実記』第五巻「神西三郎左衛門再び尼子方一味の事」
  59. ^ 「某興幸感状/永禄12年7月27日」「某興幸感状/永禄12年9月10日」(『米井家文書』)
  60. ^ 「吉川元春書状写/元亀2年5月15日/山田出雲守宛」(『山田家古文書』)
  61. ^ 「日野土佐守秀清・進玄蕃充允幸経連署書状/永禄13年3月14日/進平次郎宛」(『閥閲録130』)
  62. ^ 「某興幸感状/永禄13年4月4日」「某興幸感状/元亀2年3月19日」「尼子勝久感状/元亀2年5月9日/原又太郎宛」(『米井家文書』)
  63. ^ 「香川美作守光景・蔵田与三右衛門尉元貞連署起請文写/永禄(1)2年7月21日/足立十兵衛尉宛」(『香川家文書』ほか)
  64. ^ a b 「吉弘左近太夫鑑理書状写/(永禄12年)10月28日/立花勤番・各御中御陣所宛」(『無尽集』)
  65. ^ 「小早川隆景書状/(永禄12年)11月18日/野村信濃入道宛」(『閥閲録123』)
  66. ^ 「小早川隆景書状/元亀4年10月2日/井上又右衛門尉宛」(『閥閲録11の2』)
  67. ^ 「毛利輝元書状/永禄12年10月25日/舟越淡路守宛](『閥閲録159』)
  68. ^ 「毛利秀就加冠状/寛永12年1月11日/新屋山三郎宛」(『閥閲録85』)
  69. ^ 「吉川元春自筆書状/(永禄13年)1月5日/毛利輝元宛」(『毛利家文書』)
  70. ^ 「毛利元秋書状写/(永禄)13年2月1日/南湘院・南方宮内少輔宛」(『閥閲録47』ほか)
  71. ^ 「毛利元就書状写/(永禄13年)2月18日/赤名右京亮宛」(『閥閲録37』ほか)
  72. ^ 『雲陽軍実記』第五巻「毛利大勢攻め上り多久和城明渡し 並びに布部大合戦の事」
  73. ^ 「吉川元春書状写/(元亀元年)6月8日/堀立壱岐守宛」(『堀立家証文写』)
  74. ^ 「小早川隆景書状/(元亀元年)7月29日/棚守左近衛将監宛」(『切り紙、厳島野坂文書』)
    「毛利元就書状写/(元亀元年)8月26日/乃美兵部丞宛」(『閥閲録11』ほか)
  75. ^ 「毛利輝元・小早川隆景連署書状写/(元亀元年)9月5日/渡辺左衛門太夫ほか3名宛」(『閥閲録55』)
  76. ^ 「毛利輝元・毛利元就・小早川隆景連署書状写/(元亀元年)9月25日/湯原右京進宛」(『閥閲録115』ほか)
  77. ^ 「毛利元就書状写/(元亀元年)10月14日/国司雅楽允宛」(『閥閲録55』)
  78. ^ 毛利輝元・同元就・小早川隆景連署書状写/(元亀元年)9月25日/湯原右京進宛(『閥閲録115』)
  79. ^ 「毛利輝元・毛利元就連署書状/(元亀元年)10月25日/名井豊前守ほか5名宛」(「知新集」所収文書『閥閲録124』)
  80. ^ 「吉川元春・口羽通良連署書状/(元亀元年)10月15日/岡又十郎宛」(『折紙、岡家文書』ほか)
  81. ^ 「尼子勝久宛行状写/永禄13年9月29日/隠岐弾正左衛門尉宛」(『国代考証』所収文書)
  82. ^ 「毛利元就書状写/(元亀元年)10月6日/児玉与八宛」(『閥閲録100』)
  83. ^ 「毛利輝元・毛利元就連署書状写/(元亀元年)11月1日/児玉与八宛」(『閥閲録100』)
  84. ^ 「毛利輝元書状写/(元亀元年)12月12日/末国左馬助宛」(『閥閲録128』)
  85. ^ 「毛利輝元・毛利元就連署書状写/(元亀2年3月22日)/国司雅楽允ほか2名宛」(『閥閲録55』)
  86. ^ 「吉川元春書状写/(元亀2年5月15日)/山田出雲守宛」(『山田家古文書』)
  87. ^ 「毛利輝元書状/(元亀2年)8月24日/野村信濃守宛」(『野村家文書』
  88. ^ 「吉川元春書状/(元亀2年)8月27日/山田出雲守宛」(『山田家古文書』)
  89. ^ 「志賀鑑信書状/(元亀3年)6月20日/牧兵庫助宛」(『切紙、石見牧家文書』)
  90. ^ 「毛利元秋書状写/(元亀2年)8月20日/湯原右京進宛」(『閥閲録115』)
  91. ^ a b 『森脇覚書』「雲州御弓矢最終の事」
  92. ^ a b 「牧尚春書状写/(元亀3年)3月11日/村上中務少輔宛」(『島家遺事』所引森藩島家文書)ほか。
  93. ^ 「村上武吉書状写/(元亀3年)4月8日/牧兵庫助宛」(切紙、石見牧家文書)ほか
  94. ^ a b 因幡民談記』国主之部「山中鹿之助当国に来り、所々戦之事」
  95. ^ 「山名豊数宛行状写/永禄6年12月11日」「山名徳寿丸・宗詮連署書状/(永禄6年)閏12月14日」(『譜録』秋里)
  96. ^ 「尼子勝久感状写/天正元年8月21日/中井与三郎宛」(『閥閲録120』)
  97. ^ 因幡民談記』国主之部「鳥取タノモ崩之事」
  98. ^
    • 「吉川元春・元長連署覚書/(天正年間)10月18日」(『藩中諸家古文書纂』)
    • 「吉川元春書状写/天正元年9月27日/久芳因幡守宛」(『閥閲録117』)
    ほか
  99. ^ 鳥取県, p. 94.
  100. ^ a b c 『雲陽軍実記』第五巻「山中鹿之助漂泊、社寺宝物押領 並びに因伯度々合戦の事」
  101. ^ 『陰徳太平記』巻第五十一「山中鹿助と大坪甚兵衛与合戦之事」
  102. ^ 「毛利輝元書状写/(天正元年)9月22日/野村信濃入道宛」、「粟屋就秀・粟屋元勝・粟屋元真連署書状写/(天正元年か)9月24日/野村信濃入道宛」(『閥閲録123』)
  103. ^ 「毛利輝元書状写/(天正元年か)11月12日/井原小四郎宛」(『閥閲録40』)
  104. ^ a b 「吉川元春書状写/(天正2年)3月26日/田公次郎左衛門尉宛」(『吉川家中并寺社文書』)
  105. ^ 吉川元春感状写/(天正2年)10月5日/牛尾大蔵左衛門尉(春信)宛」(『集古文書』)ほか
  106. ^ 「大友宗麟書状/(天正2年カ)8月2日/牧兵庫助宛」、「浦上左京入道(宗鉄)書状/(天正2年)11月18日/牧兵庫助宛」(切紙、石見牧家文書)
  107. ^ 安国寺恵瓊自筆書状/(天正元年)12月12日/井上又右衛門尉宛」(『吉川家文書610』)
  108. ^ 「大友宗麟書状/(天正2年か)11月19日/亀井鹿介宛」(切紙、橋本家文書)
  109. ^ 「山名韶熈(祐豊)・山名氏政連署書状/天正3年5月28日/吉川駿河守(元春)宛」(『吉川家文書577』)
  110. ^ 山名韶熈書状/(天正3年)正月26日/吉川駿河守(元春)宛」(『吉川家文書580』)
  111. ^ 鳥取県, p. 98.
  112. ^ 『中務大輔家久公御上京日記』天正3年6月17日条「国立国会図書館所蔵」。天正3年、島津家久が京へ上った時につけていた日記。6月17日の下京中に通りかかった際に、2、3日前に山中鹿助が若桜鬼ヶ城の城主を謀略により生け捕り、城に入ったという見聞が記されている。
  113. ^ 鳥取県, p. 99.
  114. ^ 『陰徳太平記』巻第五十一「私部の麓合戦之事」。吉川軍27,000、小早川軍20,000の兵。
  115. ^ 「垣屋豊続書状/天正3年6月7日/吉川駿河守(元春)宛」(切紙、『吉川家文書597』)
  116. ^ 「草刈氏軍忠状写/(天正3年)9月18日」(『閥閲録34』)
  117. ^ 「山名韶熈(祐豊)書状/(天正3年)10月13日/吉川駿河守(元春)宛」(切紙『吉川家文書584』)
  118. ^ 「毛利輝元書状写/(天正3年)10月15日/国対(国司就信)・黒三(黒川蒼保)宛」(『閥閲録55』)
  119. ^ 「吉川元春書状/(天正3年)10月21日/大坪甚兵衛尉宛」(切紙、中村家文書)
  120. ^ 「垣屋豊続書状/(天正3年)6月7日/吉川駿河守(元春)宛て」(切紙『吉川家文書597』
  121. ^ 『備中兵乱記』巻の中「元親が阿部山へ落ちたこと」
  122. ^ 『備中兵乱記』巻の下「元親の最後の事」
  123. ^ a b 「毛利輝元書状写/(天正3年)9月14日/吉見正頼宛」(『閥閲録6』)
  124. ^ 「八木豊信書状/(天正4年)5月7日/吉川駿河守(元春)宛」(切紙、『吉川家文書599』)
  125. ^ a b 『陰徳太平記』巻第四十九「山中幸盛立原久綱信長に謁する」
  126. ^ a b c d e 慶長16年3月13日『渡辺助允覚書』「島根県立図書館蔵文書」。
  127. ^ 「羽柴秀吉書状/(天正5年)12月5日/下村玄蕃助宛」(『下村家文書』)
  128. ^ 「尼子勝久安堵状写/天正5年12月8日」(切紙、『熊野神社文書』)
  129. ^ 「羽柴秀吉書状写/(天正6年)正月18日/江見九郎次郎宛」(『美作古簡集』)ほか
  130. ^ 『備前軍記』巻第四「羽柴秀吉と宇喜多勢が播州で合戦の事」。『陰徳太平記』巻第五十四「尼子勝久上月城に入事」。
  131. ^ 「織田信長朱印状/(天正6年)3月22日/小寺官兵衛尉宛て」(『黒田文書』)
  132. ^ a b c 「吉川元長自筆書状/(天正6年)5月晦日/以徹尊老宛」(『西禅永興両寺旧蔵文書』)
  133. ^ 『家忠日記』天正6年5月「増補史料大成」
  134. ^ 「吉川元春書状写/(天正6年)4月22日/湯原弾正忠宛」(『閥閲録115』)
  135. ^ 「吉川元春書状写/(天正6年)5月6日/内藤小七郎宛」(『閥閲録125』)
  136. ^ a b 『信長公記』巻十一
  137. ^ 「毛利輝元書状写/(天正6年)6月28日/児玉元良宛」(『閥閲録17』)
  138. ^ a b 「吉川元春外三名連署起請文写/(天正6年)7月5日/日野五郎・立原源太兵衛・山中鹿助宛」(『天野毛利譜録』)
  139. ^ a b 「吉川元春自筆書状/(天正6年)7月12日/一色式部少輔宛」(『吉川家文書』)
  140. ^ 「小早川隆景書状/(天正6年)7月10日/楢崎三河守宛」(切紙、『楢崎家文書』)
  141. ^ 「福間元明覚書写/天正14年」(『閥閲録83』)
  142. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 名将言行録』巻三「山中幸盛」
  143. ^ a b 雲陽軍実記』第五巻「木下藤吉郎秀吉、播州上月城加勢 並びに尼子勝久、氏久生害の事」
  144. ^ a b c 『中国兵乱記』四の巻 「山中鹿之助が誅せられた事」
  145. ^ 米原, p. 118。また『山中家譜草案』は、享年37歳と記載されるとする。
  146. ^ 『島根県口碑伝説集』「幸盛誕生の地と垂水神社」。
  147. ^ 依田, p. 169.
  148. ^ 依田, p. 264.
  149. ^ 「吉川元長自筆書状/年月日未詳(天正6年5月ヵ6月)/周伯恵雍宛」(『西禅永興両寺旧蔵文書』)
  150. ^ 「山中幸盛」と題する七言絶句(漢詩)より。「山陰の麒麟児」と呼ばれるゆえんとされる。(原文)「存孤杵臼何忘趙 乞救包胥暫託秦 嶽々驍名誰喚鹿 虎狼世界見麒麟
  151. ^ 氷川清話』第七章 世人百態より。
  152. ^ 米原, p. 149.
  153. ^ a b c d e 『義残後覚』巻第六「綿抜左馬介鹿介を討給事」
  154. ^ a b c 雲陽軍実記』第四巻 山中鹿之助、品川大膳、富田川中嶋合戦の事 より
  155. ^ 『陰徳太平記』巻三十九「 山中鹿の助品川狼の助合戦之事」より。「赤糸縅しの鎧に小男鹿の五鎖打たる角を、銀にて泥みて卓物とし・・・」
  156. ^ 依田, p. 177.
  157. ^ 鎌倉時代中期の京の刀工「来国行」作の太刀。
  158. ^ 『老翁物語』より。
  159. ^ 『後太平記』巻第四十二「山中鹿之助被誅事」
  160. ^ 『享保名物帳』 下巻 「宗近、國近、國俊、國次、長谷部、信國、了戒、當麻、包永、貞宗の部」。
  161. ^ a b c 武将感状記』巻の四「山中鹿之助の述懐」。
  162. ^ 『常山紀談』巻十一による
  163. ^ 『耳嚢』巻一による。
  164. ^ 陰徳太平記』より。
  165. ^ 『雲陽軍実記』より。
  166. ^ 『陰徳太平記』巻四十三 神西三郎左衛門志を変する事 より。
  167. ^ 『雲陽軍実記』第五巻「毛利元就公病死、山中鹿之助偽りて降参、並びに勝久公隠州落ちの事」。
  168. ^ 『陰徳太平記』巻第四十八「山中鹿の助出奔 付り 尼子勝久走於隠州に逃之事」。
  169. ^ a b 『豊鑑』 豊鑑一
  170. ^ 『陰徳太平記』巻五六「上月城没落 付 勝久自害の事」より。
  171. ^ a b 『武者物語』武者物語 中
  172. ^ a b 『武者物語之抄』武者物語之抄 四
  173. ^ 「毛利輝元書状写/(天正6年)7月23日/あは彦右宛」(『吉川家中并寺社文書』)
  174. ^ 土井大介 2008, p. 344-345.
  175. ^ 米原, pp. 223–224.
  176. ^ 米原, pp. 224–225.
  177. ^ 米原, pp. 230–231.
  178. ^ 米原, pp. 231–232.
  179. ^ 米原, p. 232.
  180. ^ 米原, p. 215.
  181. ^ 米原, p. 212.
  182. ^ 米原, pp. 228–229.
  183. ^ “ラピスラズリ、戦国武将・山中鹿介の子孫 英国人の祖父を持つ歌姫”. サンケイスポーツ. (2017年10月20日). オリジナルの2017年10月21日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20171020154444/http://www.sanspo.com/geino/news/20171020/geo17102020300027-n1.html 

参考文献[編集]

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  • 三坂圭治 校注『戦国期 毛利氏史料撰 』(マツノ書店、 1987年) 中に『桂岌圓覚書』『老翁物語』を含む)
  • 米原正義 校注『戦国期 中国史料撰』(マツノ書店、 1987年) 中に『二宮佐渡覚書』『森脇覚書』を含む)
  • 松江市『松江市史-史料編4中世Ⅱ』松江市史編集委員会 編集(松江市、 2014年)
  • 早稲田大学編集部 編集『通俗日本全史 第六巻』(早稲田大学出版部、 1913年) 中に『後太平記』を含む
  • 早稲田大学編集部 編集『通俗日本全史 第七巻』(早稲田大学出版部、 1913年) 中に『後太平記』を含む
  • 香川景継陰徳太平記 全6冊』米原正義 校注(東洋書院、1980年) ISBN 4-88594-252-7
  • 河本隆政『尼子毛利合戦 雲陽軍実記』勝田勝年 校注(新人物往来社、 1978年)
  • 河本隆政『新雲陽軍実記-戦国ロマン広瀬町シリーズ6』(ハーベスト出版、1973年) ISBN 978-4-938184-10-0
  • 小瀬甫庵太閤記-新日本古典文学大系60』檜谷昭彦・江本裕 校注(岩波書店、 1996年) ISBN 4-00-240060-3
  • 土肥経平『新釈 備前軍記』柴田一 編著(山陽新聞社、 1986年)ISBN 4-88197-598-6
  • 著者不明(中国兵乱記:中島元行)『 新釈 備中兵乱記(中に中国兵乱記を含む)』加原耕作 編著(山陽新聞社、 1987年) ISBN 4-88197-517-X
  • 湯浅常山 原著『戦国武将逸話集-注釈『常山紀談』巻一 - 七』大津雄一・田口寛 訳注(勉誠出版、 2010年) ISBN 978-4-585-05441-2
  • 湯浅常山 原著『続 戦国武将逸話集-注釈『常山紀談』巻八 - 十五』大津雄一・田口寛 訳注(勉誠出版、 2011年) ISBN 978-4-585-05442-9
  • 岡谷繁実名将言行録(一)〔全8冊〕』(岩波書店、 1943年) ISBN 4-00-331731-9
  • 熊沢猪太郎『武将感状記-智・仁・勇 逸話集』真鍋元之 訳・編(緑樹出版、 1991年)
  • 菊池真一・西丸佳子 編『武者物語・武者物語之抄・新武者物語 本文と索引』(有限会社 泉書院、1994年)ISBN 4-87088-651-0
  • 塙 保己一 編纂『群書類従 第二十輯 合戦部』(株式会社 平文社、 1932年) 中に『豊鑑』を含む
  • 近藤瓶城 編輯『続史籍集覧第七冊』(近藤出版部、 1930年) 中に『義残後覚』を含む
  • 根岸鎮衛耳嚢(上)〔全3冊〕』長谷川強 校注(岩波書店岩波文庫〉、1991年) ISBN 4-00-302611-X
  • 勝海舟『氷川清話』江藤淳・松浦玲 編(講談社、 2000年) ISBN 4-06-159463-X
  • 広瀬町教育委員会 編集『尼子氏関係資料調査報告書』(広瀬町教育委員会、 2003年)
  • 広瀬町教育委員会 編集『出雲尼子史料集(上巻)(下巻)』(広瀬町教育委員会、 2003年)
  • 平原金造監修『ふるさと絵本「井上赳・山中鹿介」』(安来市教育委員会、 2012年)
  • 島根縣学務部島根縣史料編纂掛『島根縣史 六』(島根県、 1927年)
  • 島根県古代文化センター『戦国大名尼子氏の伝えた古文書-佐々木文書-』(島根県古代文化センター、 1999年)
  • 山本浩樹『西国の戦国合戦-戦争の日本史12-』(吉川弘文館、 2007年) ISBN 978-4-642-06322-7
  • 鳥取県公立文書館 県史編さん室 編『尼子氏と戦国時代の鳥取』〈鳥取県史ブックレット4〉2010年。 
  • 米原正義 編『山中鹿介のすべて』新人物往来社、1989年。ISBN 4-404-01648-4 
  • 妹尾豊三郎『山中鹿介幸盛-戦国ロマン広瀬町シリーズ4』(ハーベスト出版、1971年) ISBN 978-4-938184-07-0
  • 妹尾豊三郎『詩文に表れた月山と幸盛-戦国ロマン広瀬町シリーズ9』(ハーベスト出版、1976年) ISBN 978-4-938184-11-7
  • 依田武勝『山中鹿之助 - 歴史新発掘 - 川中島合戦の落し子の生涯』叢文社、2010年。ISBN 978-4-7947-0648-5 
  • 土井大介「山中鹿介異聞 : 『義残後覚』に見る「戦国咄」のありかた」『藝文研究』第95巻、慶應義塾大学藝文学会、2008年。 
  • 徳地町史編纂委員会編集『徳地町史』(徳地町役場、2005年)

関連項目[編集]

先代
山中幸高
山中氏歴代当主
1560年 - 1578年
次代
山中幸元