尾崎豊

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尾崎おざき ゆたか
渋谷クロスタワーテラスにある尾崎の記念レリーフ
基本情報
生誕 (1965-11-29) 1965年11月29日
日本の旗 日本東京都世田谷区
自衛隊中央病院
出身地 日本の旗 日本・東京都練馬区
死没 (1992-04-25) 1992年4月25日(26歳没)
日本の旗 日本・東京都文京区
日本医科大学付属病院
学歴 練馬区立練馬東中学校卒業
青山学院高等部中退
ジャンル ロック
フォーク
職業 歌手
作詞家
作曲家
編曲家
詩人
実業家
担当楽器 ボーカル
ギター
ピアノ
ハーモニカ
カスタネット
活動期間 1983年 - 1992年
レーベル CBS・ソニー
(1983年 - 1986年)
MOTHER&CHILDRENWARNER MUSIC JAPAN、1987年 - 1989年)
CBS・ソニー
(1990年)
Sony Records
(1991年 - 1992年)
配偶者 尾崎繁美
(1988年 - 1992年)
著名な家族
尾崎裕哉(長男)
事務所 マザー・エンタープライズ
(1983年 - 1989年)
ROAD AND SKY
(1990年)
アイソトープ(1991年 - 1992年)
共同作業者 須藤晃
西本明
田島照久
町支寛二
福田信[注釈 1]
佐藤輝
公式サイト YUTAKA OZAKI OFFICIAL SITE

尾崎 豊(おざき ゆたか、1965年昭和40年〉11月29日[1] - 1992年平成4年〉4月25日[1])は、日本シンガーソングライター青山学院高等部中退[1]血液型はB型[2][3][4]身長178cm。既婚。

概略[編集]

1983年昭和58年)12月シングル15の夜」とアルバム十七歳の地図』で高校在学中にデビュー[1][5]。ライブでの派手なパフォーマンスや、夢や愛、生きる意味をストレートに曲にし、同世代の若者たちからカリスマ的圧倒的支持を得た。

1992年平成4年)4月、26歳で急死し、メディアにて連日報道がされた[注釈 2]。死後30年を過ぎてもなお幅広く支持され、楽曲は多くのアーティストにカバーされている[5][6]

ジャクソン・ブラウンブルース・スプリングスティーンビリー・ジョエル浜田省吾佐野元春井上陽水アナーキー甲斐バンドさだまさしなどから強い影響を受けている[3][7][8]

長男の尾崎裕哉は、同じくシンガーソングライターとして活動。

生涯[編集]

幼少 - 学生時代[編集]

1965年昭和40年)11月29日東京都世田谷区自衛隊中央病院にて、陸上自衛隊防衛事務官の尾崎健一と妻の絹枝の次男として生まれる[1]。兄弟は5歳年上で、弁護士・元裁判官・埼玉弁護士会長の兄、尾崎康がいる。練馬区で育ち、練馬区立春日町第二保育園から練馬区立田柄第二小学校に入学した[1]が、1976年(昭和51年)8月、尾崎が小学5年生の時に埼玉県朝霞市へ転居し[9]、朝霞市内の公立小学校へ通う[1]。しかし、転校先の学校に馴染めず、毎朝登校するふりをして家を出たあと1時間ほどして家に帰り、実際には登校していない日々が続くようになった[9]。尾崎が音楽に触れるきっかけとなったのは、兄が購入して使用されていなかったクラシック・ギターを手に取り始めたことであった[9]。あらゆるフォークソングシンガーソングライターの曲に興味を持っていた尾崎は、特に井上陽水が描き出す詞の世界観に強く惹かれていた[9]。小学校6年生になると半年に渡り登校拒否を続けており、その間、井上陽水やさだまさしイルカの曲をギターを弾きながら歌う日々が続いていた[10]

小学校を卒業すると、本人の希望で[11]練馬区立練馬東中学校越境入学[1]、中学の同級生に元バレーボール全日本代表の中田久美がいる。生徒会副会長、文化祭実行委員長を務めたが、喫煙により停学処分が下る[12]。高校受験では、第一志望であった慶應義塾志木高等学校には不合格だったものの、青山学院高等部に合格。さらに、陸上自衛隊少年工科学校の1次試験にも20倍の競争率を突破して合格した[13][14]。少年工科学校では髪を短くしなくてはいけないと知り、それを嫌った尾崎は青山学院高等部に進学することを決めた[14]。高校在学中には喫煙やオートバイでの事故などで停学、さらに、高校3年生の時には渋谷で同級生らと飲酒し、同じクラスの女子生徒が一気飲みをした事によって急性アルコール中毒で搬送された挙げ句、その直後には大学生のグループとパトカーが出動するほどの乱闘騒ぎを起こし、無期限停学処分を下される[15]。のちに停学処分は解けたが、出席日数が足りず留年となり、自主退学した。高校在学時には新聞配達[注釈 3]と飲食店でのアルバイトをしていた[17]。また、高校時代は剣道部に所属していた[18]

その後、ジャケットを見ただけで何となく購入(ジャケ買い)したジャクソン・ブラウンの「ランニング・オン・エンプティ」を聴いて衝撃を受ける[19]。その影響で「街の風景」や「ダンスホール」などの曲が制作された[19]

デビュー - 10代全盛期[編集]

高校2年生の秋、音楽で生計を立てていくことを決意した尾崎はCBS・ソニーが主催した『CBS/SONY Sound Development Audition 1982』、ビクター主催のオーディションにそれぞれ応募し[20]、CBS・ソニーのオーディションに合格する[1][21]

尾崎は浜田省吾の音楽が好きで[8]、プロデューサーの須藤晃も作品の匂いに浜田との共通点を感じて[8]、デビュー・アルバム『十七歳の地図』のレコーディングには浜田省吾と佐野元春のツアーバンドを半々起用した[8][22]。『十七歳の地図』は初回プレスが2,000枚ほどであり[23][24]、事務所やレコード会社も積極的なプロモーションも行わなかったためにセールスは伸び悩んだ。

その後口コミにより人気が出て、4thシングル「卒業」の中の過激な歌詞が話題となり[25]、2ndアルバム『回帰線』は大手音楽チャート1位を記録[26]、尾崎の名は瞬く間に全国へと広がっていった[5]

特に10代のころは「社会への反抗・疑問」や「反支配」をテーマにした歌を多く歌い、マスメディアからは「10代の教祖」などと呼ばれた[27][28]校内暴力や学生による飲酒・喫煙が横行し、偏差値教育や受験戦争のひずみが露呈していた時代世相と相まって一部の若者の間で社会現象となる[27][注釈 4]。10代最後の日に3rdアルバム『壊れた扉から』を発売しヒット、同時期に行われていたツアーも満員となるなど人気は絶頂を迎える。当時の「シンプジャーナル」編集長・大越正実は「尾崎が3年前にデビューしていたらバカにされたんじゃないかと思う。ちょうどフォークソングを見直しする機運があり、若い人たちが"軽薄短小"に不安になってきて、言葉を聴き始めたからではないか」などと評している[29]

無期限活動休止 -覚醒剤取締法違反で逮捕−完全復活[編集]

一世を風靡した尾崎は、20歳になり方向性を見失い突然無期限活動休止を宣言し単身渡米する[1][5]。当時曲を生み出せないことに苦悩していた尾崎は、何の収穫もないままその年の末に帰国する[30]。そんな中で所属事務所が立ち上げたレコード会社への移籍が決定[1][5]、プロデューサーの須藤ら懇意にしていた音楽スタッフとも離れてしまい、新しいアルバムの制作は何度も中断された[30]。その後、新曲の発売がないまま1年半ぶりのライブツアーが始まるも、9月に肉体的な疲労から倒れ、残りのツアーは中止となる[1][13]。その年の暮れには覚醒剤取締法違反で逮捕され精神的に低迷[31]、バックバンド「Heart Of Klaxon」のメンバーとも関係が悪化する[31]。復帰後にリリースした「太陽の破片」がヒット、フジテレビ系列の『夜のヒットスタジオ』に最初で最後のテレビ出演を行い、東京ドームにて復活ライブを行うが、同時期に制作していたアルバム『街路樹』は発売延期を繰り返し、シングル「核 (CORE)」の完成度を含め満足のいく活動からは程遠かった。

一方プライベートでは一般人の女性と結婚、長男が生まれ、新たな価値観を見出した尾崎は1990年(平成2年)、レコード会社を古巣のCBS・ソニーに復帰、2枚組アルバム『誕生』をリリースし、オリコン1位を記録。翌年には大規模ツアーを行うなど、尾崎は完全復活を遂げる。しかし同時に事務所やマスコミへの猜疑心は止むことはなく[32]、尊敬する浜田省吾の個人事務所であるロード&スカイも短期間で契約を解除した[32]。個人事務所「ISOTOPE」(アイソトープ)を立ち上げるも経営面の管理のほかにプロモートからライブスケジュールを自ら取り仕切らなければならず、多忙な日々を送る中で、再び精神的に追い詰められた尾崎は自殺を図るなど混迷を深めていった[33]。その後、遺作となる『放熱への証』の制作に取りかかるが、1991年(平成3年)末に母親が急死。交友関係も狭くなっていき、精神的状況はさらに悪い方向へ向かっていた。

20代になってからの尾崎は、かつての「自由」「反支配」といったものとは違い、「真実の愛」「贖罪」「罪」といったものを主題にした歌を多く作っていった。

26歳での突然死[編集]

1992年(平成4年)4月25日(土)早朝、当時の尾崎の自宅であるマンションから約500メートル離れた、足立区千住河原町の民家の軒先に全裸で傷だらけで倒れていたところを、家主の妻に発見された[34]。5時45分ごろ、通報で墨田区内の白鬚橋病院に運び込まれる[35]。診察した医師は「生命に関わることも考えられるので、専門医に診てもらった方がいい」と診断したが[36]、尾崎は妻と兄とともに自宅マンションに戻る[36]。しかし、10時頃になって容体が急変、呼吸が止まっているのに気がついた家族が約1時間後の11時9分に119番通報。日本医科大学付属病院で手当てを受けるも、午後0時6分に死亡した[1][37][38][39]。死因は肺水腫[40](詳細は後述)。

後日、雨の降る中4月30日(木)東京都文京区護国寺にて葬儀・追悼式が行われ、参列者は4万人近く[注釈 5]に上り、規模は美空ひばり吉田茂に匹敵するものとなった[注釈 6]。密葬は日蓮正宗にて営まれた。戒名は「頌弦院智心碩豊居士」[42]、墓所は埼玉県所沢市の狭山湖畔霊園にある[注釈 7][43]

略歴[編集]

生前、活動期の詳しい経歴はHeart Of Klaxonも参照。

人物[編集]

クールで尖ったイメージのある尾崎だが、プライベートの尾崎は明るい好青年であった。

当時はロックバンド「OZONE」でボーカルとして活躍し、尾崎と同じCBS・ソニーに所属していた俳優の坂上忍は、インタビューで「尾崎はいつも暗い顔して写真に写ってたけど、プライベートはホントに明るくて。こっちのほうがよっぽど暗かったですから。『忍ちゃーん!』とか言って登場して来るぐらいですからね」と語っている[54]。別の対談では、坂上は尾崎のファースト・アルバムを聴いて「クドくない?」と思ったという。坂上は一度だけ尾崎と2人きりで飲む機会があったが、そこで尾崎から「もう曲が書けない」という本音を聞いた。それでも尾崎が(吉川晃司本田恭章を含めた)4人の中では最後まで歌い続けるだろうと思ったが、26歳の若さで誰よりも先に亡くなるとは信じられなかったと語っている[55]

2013年(平成25年)12月1日にWOWOWで放送された『尾崎豊デビュー30周年記念日-THE DAY』で、尾崎の曲のアレンジャーも務めたギタリストの町支寛二は「話を交わすときはいつも純真な青年ってイメージで。だから初めてライブを観に行ったとき、スイッチがひとつ入っちゃう感じに鳥肌が立ちましたね」と述べた。また、RED WARRIORSの小川清史は「リハーサルの間に「実は尾崎、俺『Bow!』って曲凄く好きなんだ」って言ったら、顔をくしゃくしゃにして『本当?』って喜んでくれて」と語っている[56]

1991年(平成3年)の「1991 BIRTH TOUR」のサポート・ベーシストを務めた渡辺茂は「初対面のときに、それまでいろんな仲間から変わってる奴だと散々聞いてたが、普段は礼儀正しくて大人しかった。でもステージの上では破壊的で、跳ぶわ、ピアノの上に寝るわでびっくりしました」と述べた。サクソフォーンを担当した関誠一郎は「服装は派手だけど、普通の人で、気さくな感じだ」と、パーカッションの里村美和は「熊本(熊本県・阿蘇で行われたロックイベントBEAT CHILDのこと)で僕が佐野元春とやってるときに初めて会ったんだけど、真面目で礼儀正しいやつだと思った」と語っている[57]

また、10代のころは尾崎自身のカリスマ性やイメージを保つために、写真はすべてモノクロームで掲載され、笑顔の写真も自粛された。

バックバンド[編集]

尾崎のバックバンドは、ツアーやライブごとに名称やメンバーが異なっている。

尾崎の交友関係[編集]

尾崎の友人の一人として、デビューが同期の吉川晃司が挙げられる。2人は1984年(昭和59年)8月5日に日比谷野外音楽堂で開催予定だった「TOKYO ROCK FEELING FESTIVAL」で共演しようとしたが、尾崎が前日の「アトミック・カフェ」出演中に足を骨折してしまい、実現しなかった[注釈 24]。その後、無期限活動休止中の1986年(昭和61年)1月31日にHOUND DOGの日本武道館での公演で吉川と共演している[58]

吉川のほか、岡村靖幸[注釈 25]金山一彦RED WARRIORS渡辺美里川上麻衣子白井貴子中村あゆみ南野陽子白竜村上龍坂本龍一米米CLUB石井竜也チェッカーズ藤井フミヤ沢木耕太郎筑紫哲也、元横綱の北勝海[注釈 26]との交流もあり、大友康平泉谷しげるキラー・カーン本田恭章坂上忍、横山蒼空、とんねるず石橋貴明中山秀征加藤登紀子Mr.Children桜井和寿福山雅治小田和正なども素の尾崎を懐かしむコメントを出している[注釈 27]光GENJIとしてデビューする以前の大沢樹生とも、よく夜の六本木で遊んでいた。また、俳優・歌手の高橋克典は青山学院高等部の1年先輩で、さらにバレーボール全日本女子元代表・ロサンゼルス五輪銅メダリスト中田久美は練馬東中学校の同級生で、1年生の時同じクラスメートだったという。

オーディション受賞が同じだった辻仁成とはニューヨーク滞在時にも会っており、自身の悩みを相談していた関係であった[60]

死因について[編集]

当初の公表と死体検案書との乖離
初めは事件性がないとして行政解剖が行われる予定だった。しかし千住署、警視庁、検察庁が前日夜に協議した結果、全身にすり傷があり右目の上にコブもあることから司法解剖に切り替えられ、午前10時から東京監察医務院の医師らによって検視、その後解剖が行われた[61]。その結果、死因は肺に水がたまる肺水腫であると発表され、極度の飲酒によるものだと考えられた[61][62]。しかし1994年(平成6年)、司法解剖時に尾崎の体内から覚醒剤が検出されていたことが明らかとなった。覚醒剤について記された「死体検案書」がマスコミに流出すると、尾崎の死因について様々な憶測を呼んだ[62]
司法解剖医による見解
検視を担当した支倉逸人によれば、尾崎の死因は肺水腫であることのみを発表し、肺水腫の原因が覚醒剤中毒であることは伏せられていた。中毒は経時的な悪化によるものではなく、大量の覚醒剤服用(オーバードース、薬の多量摂取)による急性メタンフェタミン中毒が引き起こした肺水腫と結論づけられている。内臓も覚醒剤を経口摂取した形跡があり、肺にも覚醒剤中毒の症状が見られたという[63]
他殺の疑惑
尾崎の遺体には全身のほとんどに多数の傷やあざがあり、亡くなった当初は傷害致死の可能性も指摘された。しかし警察は状況捜査や司法解剖を行った結果から「事件性なし」として調査を終結している。検死をした支倉逸人の著書によれば、擦過傷と打撲傷をじっくり調べた結果、他者からの暴行によって生じるものとは異なる状態であったとの記述がある。またそれを裏付けるように尾崎が転倒したり暴れて転げ回っていたという証言を警官が確認しており、このような異常行動は覚醒剤中毒者によく見られるものである。なお、支倉によれば頭部に小さな外傷性くも膜下出血も確認されているが極めて微量の出血であり、死に至るほどの重症ではなかったという[63]
1994年(平成6年)にはテレビ朝日が、流出した「死体検案書」のコピーやジャーナリストが取材した結果を元に妻と知人が覚醒剤を飲ませて殺害したとする説を主張、尾崎の死を検証する番組を制作した。ところが尾崎の妻がテレビ朝日と記事を執筆したジャーナリストを相手取り訴訟を起こしたため、番組はお蔵入りとなり放送されることはなかった[64]。結果は原告の尾崎の妻が一審・二審・最高裁すべてで勝訴した[63]。テレビ朝日は一審判決後原告と和解。
7年後の1999年(平成11年)には週刊誌『フライデー』に蘇生措置を施されている尾崎の写真と死体検案書が掲載された。しかし、この記事は検死を行った支倉に対して一切の取材を行わずに書かれたものであったことが著書で述べられている。支倉は著書内で覚醒剤の致死量は個人差が大きく、薬殺の手段として用いるには酒と同じくらい不確実性が高いと述べている[63]

死後のエピソード[編集]

死亡直後の影響
尾崎の死後、尾崎のアルバムが急激に売れる現象が起こり、1992年(平成4年)5月25日付のオリコンアルバムチャートではTOP10中6作を尾崎が占める現象が起こった(1位『放熱への証』、4位『回帰線』、5位『十七歳の地図』、6位『LAST TEENAGE APPEARANCE』、7位『壊れた扉から』、9位『誕生』。なお、TOP10外に14位『街路樹』がある)。また、同年6月16日 - 17日の初の日本武道館ライブを含む全国コンサートツアーが予定されていたが、尾崎の死によって中止となった。しかし、その死を惜しんでチケットを手元に置くファンが多かったためか、払い戻しに来る人はほとんど居なかったとされ、各所への賠償や音楽関係者との交渉等尾崎の事務所の後始末を行った兄の康によると、驚くべきことに事務所の収支は黒字になったという[65]
尾崎ハウス
尾崎が倒れていた足立区千住河原町の民家は、1人の女性ファンが毎日訪問したことをきっかけに、所有者が厚意で1階の六畳間をファンに開放、「尾崎ハウス」と呼ばれてファンの交流の場になっていたが、2011年(平成23年)10月、建物の老朽化のため解体された[66]
教科書への掲載
その思想や活動、若者におけるカリスマ的人気から、中学・高校などの教育現場で長らくタブー視されてきた。死後10年以上経った現在では評価も変わってきており、高校教科書に顔写真や「15の夜」の歌詞が掲載されている(『高等学校 新倫理 - 人間とは何か 思索の糧に - 』 清水書院2002年)。『新課程用 倫理用語集』(山川出版社2005年)には、「尾崎豊」は用語頻度「3」で掲載され[注釈 28]、「1980年代に活躍し、夭折したシンガーソングライター」「自ら作詞・作曲した歌の世界に没頭しながら全身全霊をこめて歌い」というように記述されている(ISBN 4634053500)。
海外でのカバー化
尾崎の代表曲である「I LOVE YOU」はアジアのみならず世界各国の歌手にカバーされ、カバー曲を含めた総売上は全世界で1,000万枚に達する。
遺書の公開
2011年(平成23年)11月9日、翌10日発行の『文藝春秋』に、尾崎の遺書とされる文書の全文が公開されることが報じられた。記事はジャーナリストの加賀孝英が執筆した。「遺書」の存在は1994年(平成6年)の月刊誌で既に報じられており、加賀が同年に入手していたが、尾崎の妻から「長男の尾崎裕哉が物心つくまで公表しないでほしい」と要請され、全文公開を控えていた。その後、裕哉が成人してアーティストとしてCMで歌声を披露したことや、上述の「尾崎ハウス」が解体されたことを契機として、初の全文公開に至ったとしている[67]
一方、NEWSポストセブンによると、1994年(平成6年)に本来なら非公開であるはずの「死体検案書」が一部のマスコミに流出して他殺説が噂されたり、当時尾崎の父親が署名を集め警察に再捜査を要請したなどの経緯もあることから、父親は遺書の公開についても真偽について疑念を抱いており、「いまとなっては、他殺だとは思ってないけど、あれは自殺ではない。豊じゃないからわからないけど、なんで死んだんだって…いまでも思ってます」と自殺であることを否定した[68]

ファンクラブ[編集]

尾崎の公式ファンクラブは「Edge Of Street」と呼ばれており、1991年(平成3年)3月に設立された。

ファンクラブでは同名の会報も発行されており、0℃から3℃[注釈 29]までは尾崎自身が手がけていた[注釈 30]。尾崎の死後も会報は発行されていたが、57℃をもって、発行を休止している。

ファンクラブは尾崎の死後も活動を続けていたが、2005年(平成17年)末をもって、一旦休止している。公式サイトでは『2006年春以降に新しい形態でスタートする予定』と発表されているが、現在は新規入会を受け付けていない[69]

「Edge Of Street」という名称については、会報の創刊号である「Edge Of Street 0℃」において、『浜田省吾が「ROAD[注釈 31]」なら、自分は「Edge」だ[注釈 32]。』と書かれている。

死後の特集番組[編集]

尾崎の死後には様々な特集番組が放送されている。

テレビ[編集]

NHK[編集]

BS2」・「BSプレミアム」では尾崎の特集番組[注釈 33]1999年(平成11年)からほぼ毎年放送されている。

NHK総合
  • 1993年(平成5年)4月25日「I LOVE YOU 真実の証」
  • 1998年(平成10年)9月15日「僕が僕であるために」- リハーサル中の映像などが初公開となる。
  • 2012年(平成24年)4月28日「SONGS」- 尾崎のライブ映像で構成。出演は尾崎の他に須藤晃ら。
  • 2019年(令和元年)12月19日「SONGS 第519回 令和の時代に響く 尾崎豊」 - 眉村ちあき、石崎ひゅーい、秋山黄色らが尾崎のカバーを披露。秋元才加、Mattがコメントを寄せた。
BS2
  • 1994年(平成6年)4月4日 BSヤングナイト 真夜中の王国「尾崎豊の世界1 疾走の軌跡」
  • 1994年4月5日 BSヤングナイト 真夜中の王国「尾崎豊の世界2 青春の聖痕」
  • 1994年4月6日 BSヤングナイト 真夜中の王国「尾崎豊の世界3 優しさの迷路へ」- 『復活 尾崎豊 YOKOHAMA ARENA 1991.5.20』にも収録されなかった、横浜アリーナの「音のない部屋」「禁猟区」などの公演を放送。
  • 1998年(平成10年)4月24日 「ありがとう尾崎豊 リクエストで甦る永遠の詩」- 電話でリクエストを募集。リクエストランキング総合1位は「シェリー」。
  • 1999年(平成11年)12月9日「21歳の夏」- 1987年8月29日、30日に行われた有明コロシアムでの舞台裏での様子やライブ映像を放送。「TREES LINING A STREET TOUR」のライブ映像は初公開となった。後にこの番組の映像に未公開映像を加えたライブ・ビデオ「OZAKI FILM ALIVE AT ARIAKE COLOSSEUM IN 1987 THE TWENTY-FIRST SUMMER」が発売。
  • 2000年(平成12年)4月20日「永遠の詩」- 電話でリクエストを募集。リクエストランキング総合1位は「卒業」。
  • 2001年(平成13年)4月20日「尾崎豊への伝言 10th Anniversary」-「Rock」・「BALLAD」・「MESSAGE」の分野別にリクエストを募集。リクエストランキング総合1位は「 I LOVE YOU 」。
  • 2002年(平成14年)4月21日「尾崎豊 青春の叫び BORN TO RUN」- 初公開となる1985年8月25日の大阪球場でのライブ映像を中心に構成。「BORN TO RUN」は尾崎に大きな影響を与えたブルース・スプリングスティーンの曲[注釈 34]
  • 2003年(平成15年)4月26日「永遠の肖像」- 1987年8月22日に開催されたロックイベント「BEAT CHILD」の「Driving All Night」、「Bow!」などのライブ映像が初公開となる。出演は白井貴子加藤登紀子島田紳助ら。
  • 2003年11月29日「迷宮美術館」- 尾崎が描写したパステル画「動脈静脈」を紹介。
  • 2004年(平成16年)4月24日「尾崎豊 十代の素顔」- サブタイトルは「不滅の名曲・その原点に帰る」。1988年9月12日に東京ドームで行われた「LIVE CORE」のリハーサル映像が初公開される。
  • 2005年(平成17年)4月23日「尾崎豊に会える日」- サブタイトルは「帰らざる青春の光と風」。1987年8月29日の有明コロシアムでの「誰かのクラクション」や1985年11月15日に代々木オリンピックプールで歌われた「米軍キャンプ」などが初公開となる。
  • 2007年(平成19年)4月28日「尾崎豊15年目のアイラブユー」- 1988年9月12日に東京ドームで開催された「LIVE CORE」での「遠い空」や1987年8月22日の「BEAT CHILD」での「街角の風の中」などが初公開となる。
BSプレミアム
  • 2010年(平成22年)4月24日「歌伝説 尾崎豊 〜少年のように駆け抜けた男〜」- 主に尾崎の同級生らの話で構成されている。
  • 2012年(平成24年)11月10日「ヒーローたちの壮絶人生 おとなになった君たちへ 尾崎豊 20年目の真実」- 1984年8月4日に開かれた反核イベント「アトミック・カフェ」で「Scrambling Rock'n'Roll」の間奏の際に高さ7mの照明器具から飛び降りる映像がテレビ初公開となる[注釈 35]
NHKハイビジョン

テレビ東京系列[編集]

テレビ東京
BSテレビ東京

フジテレビ系列[編集]

フジテレビ
  • 1992年(平成4年)6月2日「尾崎豊 〜作られた教祖〜」
  • 1993年(平成5年)5月5日「絆の証」
  • 2019年(平成31年)4月25日「直撃!シンソウ坂上」

日本テレビ系列[編集]

日本テレビ

テレビ朝日系列[編集]

テレビ朝日
  • 1999年(平成11年)12月31日「今夜蘇るカリスマ尾崎豊の光と影」
ABCテレビ

WOWOW[編集]

  • 2001年(平成13年)8月19日「尾崎豊 もうひとつのリアリティ “Live + Documentary”」- 尾崎のライブツアー『1991 BIRTH TOUR』から1991年(平成3年)8月27日の郡山市民文化センターでのライブ映像や須藤晃による尾崎のインタビュー映像を放送。のちに、未公開映像3曲を加えてこの番組を再編集したライブビデオ『もうひとつのリアリティ “LIVE + DOCUMENTARY”』が発売されている。
  • 2013年(平成25年)12月1日「尾崎豊30周年記念日-THE DAY∼prologue∼」、「尾崎豊30周年記念日-THE DAY-」、「復活 尾崎豊 YOKOHAMA ARENA 1991.5.20」- デビュー30周年を記念して3つの番組で計3時間以上にわたって特集された。1982年(昭和57年)秋にCBSソニーにデモテープが届いてからデビューアルバム『十七歳の地図』が出来上がるまでのストーリーを描いた『尾崎豊デビュー30周年記念日-THE DAY- 〜prologue〜』[注釈 36]、デビューから1992年(平成4年)4月25日に26歳の若さで夭折するまでの約9年間を特集した『尾崎豊デビュー30周年記念日-THE DAY-』が放送されている。出演は須藤晃田島照久藤井フミヤら。また、昨年、期間限定で劇場公開された尾崎の生前最後のツアーとなった「1991 BIRTH TOUR」の横浜アリーナでの初日公演の模様を収録した『復活 尾崎豊 YOKOHAMA ARENA 1991.5.20』が放映されている[70]

SKY PerfecTV![編集]

1998年(平成10年)「19651129-19920425」

ラジオ[編集]

NHK-FM
ニッポン放送
  • 1992年(平成4年)6月22日「15の夜 ラストナイト」- サブタイトルは「尾崎豊 FINAL TOUR 92 ON THE RADIO」。尾崎が高校生のときに組んでいたバンド「NOA」時代に歌った「町の風景」が初公開された。
  • 2009年(平成21年)4月20日「オールナイトニッポンGOLD」- パーソナリティーは早乙女太一
TOKYO FM
  • 2003年(平成15年)5月4日「Hits from the Radio〜感動へのトリビュート」- 西本明が「I LOVE YOU」の誕生秘話を語る。出演は他に須藤。
  • 2004年(平成16年)4月29日「僕が僕であるために 26歳のメッセージ」- リスナーからのリクエスト番組。リクエストのベスト5は一位から順に「I LOVE YOU」、「卒業」、「僕が僕であるために」、「15の夜」、「シェリー」。
  • 2009年(平成21年)4月25日「KDDI presents 尾崎豊メモリアルスペシャル BIRTH 〜From 1991 to 2009〜」- 1991年5月20日に横浜アリーナで行われたツアー初日の初公開音源に加え、須藤によるエピソードで構成された。
東海ラジオ
  • 1997年(平成9年)11月29日「だから僕には君のクラクションが聞こえる」- 1985年11月20日に放送された「誰かのクラクション[注釈 37]」の再放送。
  • 2006年(平成18年)3月18日「誰かのクラクション Again」- 「誰かのクラクション」の再放送。 パーソナリティーは須藤が務める。
北日本放送
  • 2003年(平成15年)4月26日「おかしな惑星」- 須藤が「Scrambling Rock'n'Roll」について語っている。
  • 2004年(平成16年)2月7日「続・おかしな惑星」
TBSラジオ
  • 2009年(平成21年)3月30日「kakiiin尾崎豊」- プロデビュー前の1980年に原宿音楽祭で歌った「町の風景」や1984年6月の札幌ペニーレインでの「OH MY LITTLE GIRL」が初公開される。
InterFM
  • 2010年(平成22年)10月2日「CONCERNED GENERATION」- この番組で尾崎の長男・尾崎裕哉がDJデビュー。

作品[編集]

公演[編集]

同じツアー内でも、ライブ会場によってセットリストは一部異なっていた。

形態 タイトル 公演規模・会場・セットリスト 収録作品
1984年 単発コンサート LIVE HOUSE APPEARANCE
全6公演

2月12日 千葉マザース[注釈 38]
2月14日 藤沢BOW
3月15日 新宿ルイード
5月8日 新宿ルイード
5月9日 新宿ルイード
5月10日 京都ビブレ

全6曲+全13曲

1984年2月12日
千葉マザース

1. 僕が僕であるために
2. 傷つけた人々へ
3. はじまりさえ歌えない
4. 15の夜
5. 愛の消えた街
6. 十七歳の地図
1984年3月15日
デビューライブ

1. 街の風景
2. はじまりさえ歌えない
3. Bow!
4. 傷つけた人々へ
5. 僕が僕であるために
6. I LOVE YOU
7. OH MY LITTLE GIRL
8. ハイスクール Rock'n'Roll
9. 十七歳の地図
10. 愛の消えた街
11. 15の夜
アンコール
12. シェリー
13. ダンスホール

ビデオ『OZAKI・18』
DVD『625 DAYS』
アルバム『SATURDAY 〜ROCK'N'ROLL BEST OF YUTAKA OZAKI』
コンサートツアー 六大都市ライブハウス・ツアー
6都市6公演

6月15日 札幌ペニーレイン
6月17日 仙台モーニングムーン
6月23日 名古屋ハートランドスタジオ
6月25日 大阪バナナホール
6月26日 広島ウッディーストリート
6月28日 福岡ビブレホール

全19曲

1. シェリー
2. はじまりさえ歌えない
3. BOW!
4. 傷つけた人々へ
5. 誰かのクラクション
6. 僕が僕であるために
7. 街の風景
8. OH MY LITTLE GIRL
9. 反核[注釈 39]
10. 卒業
11. SCRAP ALLEY
12. ハイスクールRock'n'Roll
13. Scrambling Rock'n'Roll
14. 十七歳の地図
15. 愛の消えた街
16. 15の夜
アンコール
17. FREEZE MOON
18. I LOVE YOU
19. ダンスホール

-
単発コンサート -
全4公演

7月1日 日比谷野外音楽堂[注釈 40]
7月16日 千葉文化会館
7月20日 横浜教育会館
7月21日 浦和市民会館

-
単発コンサート アトミック・カフェ・ミュージック・フェスティバル'84
全4曲

1. 反核
2. Scrambling Rock'n'Roll
3. 十七歳の地図
4. 愛の消えた街

-
1984年 - 1985年 コンサートツアー FIRST LIVE CONCERT TOUR
21都市全21公演

1984年
12月3日 秋田市文化会館
12月4日 新庄市民文化会館
12月5日 仙台市民会館
12月10日 島根県民会館
12月11日 岡山市民文化ホール
12月13日 山口市民会館
12月15日 福岡都久志会館
12月20日 広島県真講堂
12月21日 大阪厚生年金会館
12月25日 石川県教育会館
12月27日 新潟市公会堂
1985年
1月7日 高松オリーブホール
1月8日 松山市民会館
1月10日 高知県民会館グリーンホール
1月12日 日本青年館
1月18日 浜松福祉文化会館
1月22日 宇都宮文化会館
1月23日 群馬県民会館
1月28日 京都会館
2月5日 名古屋市芸術創造センター
2月7日 札幌教育文化会館

全20曲

1. シェリー
2. はじまりさえ歌えない
3. Driving All Night
4. Bow!
5. 傷つけた人々へ
6. ドーナツ・ショップ
7. 僕が僕であるために
8. 街の風景
9. OH MY LITTLE GIRL
10. 反核
11. 卒業
12. Scrap Alley
13. ハイスクールRock'n'Roll
14. Scrambling Rock'n'Roll
15. 十七歳の地図
16. 愛の消えた街
17. 15の夜
18. Freeze Moon
19. I LOVE YOU
アンコール
20. ダンスホール(アンコール)

ビデオ『OZAKI・19』
DVD『625 DAYS』
アルバム『LIVEBEAT BOX』
1985年 コンサートツアー TROPIC OF GRADUATION TOUR
38都市全38公演

5月6日 立川市民会館
5月7日 千葉市民会館
5月8日 神奈川県青少年センター
5月12日 大宮市民会館
5月14日 水戸市民会館
5月15日 桐生産業文化会館
5月19日 沖縄県労働福祉会館
5月28日 静岡市民文化会館
6月4日 富山県民会館
6月5日 福井文化会館
6月7日 新潟県民会館
6月10日 島根県民会館
6月11日 岡山市民会館
6月18日 広島郵便貯金会館
6月20日 神戸文化会館
6月21日 和歌山市民会館
6月22日 京都勤労会館
6月24日 松山市民会館
6月25日 高知県民会館グリーンホール
6月27日 福山市民会館
6月28日 山口市民会館
7月5日 名古屋勤労会館
7月8日 旭川市民会館
7月9日 札幌道新ホール
7月14日 鹿児島市民会館
7月16日 熊本県立演劇会館演劇ホール
7月17日 長崎市民会館
7月18日 福岡郵便貯金会館
7月29日 金沢観光会館
7月30日 長崎県民文化ホール
8月12日 福島公会堂
8月13日 岩手教育会館
8月15日 秋田市文化会館
8月16日 青森市文化ホール
8月17日 弘前市民会館
8月20日 仙台電力ホール
8月22日 前橋市民文化ホール
8月23日 栃木会館
8月25日 大阪球場[注釈 41][71]

全18曲

1. 米軍キャンプ
2. Driving All Night
3. はじまりさえ歌えない
4. Bow!
5. 街の風景
6. ドーナツ・ショップ
7. ダンスホール
8. 卒業
9. 坂の下に見えたあの街に
10. Scrap Alley
11. 存在
12. ハイスクールRock'n'Roll
13. Scrambling Rock'n'Roll[注釈 42]
14. 十七歳の地図
15. 愛の消えた街
アンコール
16. Freeze Moon
17. I LOVE YOU
18. シェリー

アルバム『MISSING BOY』
アルバム『OSAKA STADIUM on August 25th in 1985 Vol.1』
アルバム『OSAKA STADIUM on August 25th in 1985 Vol.2』
DVD『625 DAYS』
アルバム『LIVEBEAT BOX』
1985年 - 1986年 コンサートツアー LAST TEENAGE APPEARANCE TOUR
26都市全27公演

1985年
11月1日 四日市市民文化会館
11月4日 山梨県民文化ホール
11月5日 浜松市民会館
11月7日 豊橋勤労福祉会館
11月8日 岐阜市民文化会館
11月14日 代々木オリンピックプール第一体育館
11月15日 代々木オリンピックプール第一体育館
11月18日 三次市文化会館
11月19日 徳山市民文化会館
11月21日 鳥取市民会館
11月22日 豊岡市民会館
11月26日 帯広市民会館
11月27日 釧路市民文化会館
11月29日 室蘭文化センター
12月5日 奈良県民文化会館
12月7日 舞鶴総合文化会館
12月9日 大分文化会館
12月11日 久留米市民会館
12月12日 小倉市民会館
12月15日 平市民会館
12月17日 山形県民会館
12月18日 新庄市民会館
12月19日 郡山市民文化センター
12月24日 松本社会文化会館
12月26日 新潟県民会館
12月27日 長岡市立劇場
1986年
1月1日 福岡国際センター

全20曲

1. 卒業
2. 彼
3. Driving All Night
4. Bow!
5. 街の風景
6. ダンスホール
7. Teenage Blue
8. 米軍キャンプ
9. 坂の下に見えたあの街に
10. Scrap Alley
11. 存在
12. ハイスクールRock'n'Roll
13. Scrambling Rock'n'Roll
14. 十七歳の地図
15. 愛の消えた街
16. 路上のルール
17. 15の夜
アンコール
18. Freeze Moon
19. I LOVE YOU
20. シェリー

アルバム『LAST TEENAGE APPEARANCE』
アルバム『MISSING BOY』
ビデオ『LAST TEENAGE APPEARANCE』
DVD『625 DAYS』
アルバム『LIVEBEAT BOX』
1987年 - 1988年 コンサートツアー TREES LINING A STREET TOUR[注釈 43]
25都市全26公演

1987年
7月1日 茨城県民文化センター
7月2日 宇都宮市文化会館
7月4日 群馬県民会館
7月8日 横須賀市文化会館
7月15日 静岡市民文化会館
7月16日 沼津市文化会館
7月20日 島根県民会館
7月21日 広島郵便貯金会館
7月23日 倉敷市民会館
7月24日 徳山市民会館
7月26日 松山市民会館
8月3日 大阪球場
8月14日 伊勢崎市民文化会館
8月17日 浜松市民会館
8月19日 日立市民会館
8月29日 有明コロシアム
8月30日 有明コロシアム
9月6日 那覇市民会館
9月10日 神戸国際会館
9月11日 和歌山県民文化会館
9月13日 守山市民ホール
9月15日 舞鶴市総合文化会館
9月16日 豊岡勤労会館
9月21日 岐阜市民会館
9月22日 四日市市文化会館
9月24日 豊橋勤労福祉会館[注釈 44]

以下、全公演中止
9月28日 新潟県民会館
10月1日 石川観光会館
10月2日 富山市公会堂
10月4日 秋田県民会館
10月6日 宮城県民会館
10月7日 山形県民会館
10月9日 福島県文化センター
10月10日 郡山市民文化センター
10月12日 岩手県民会館
10月13日 青森市文化会館
10月20日 北見市民会館
10月22日 釧路市民文化会館
10月24日 旭川市民文化会館
10月26日 帯広市民会館
10月29日 北海道厚生年金会館
11月14日 京都会館第一ホール
11月16日 姫路市文化センター
11月24日 大分文化会館
11月25日 長崎市公会堂
11月27日 熊本市民会館
11月28日 北九州厚生年金会館
11月30日 鹿児島市民文化センター
12月2日 久留米市民会館
12月3日 宮崎市民会館
1988年
1月21日 日本武道館
1月22日 日本武道館
1月25日 日本武道館
1月26日 日本武道館

全19曲

1. LIFE
2. Driving All Night
3. Bow!
4. 街角の風の中
5. 失くした1/2
6. 誰かのクラクション
7. Forget-me-not
8. I LOVE YOU
9. 15の夜
10. 十七歳の地図[注釈 45]
11. 路上のルール
12. 存在
13. ハイスクールRock'n'Rool
14. Scrambling Rock'n'Roll
15. 核 (CORE)
16. 街路樹
アンコール
17. 紙切れとバイブル[注釈 46]
18. Freeze Moon
19. 卒業
20. シェリー

アルバム『MISSING BOY』
DVD『OZAKI FILM ALIVE AT ARIAKE COLOSSEUM IN 1987 THE TWENTY-FIRST SUMMER』
アルバム『LIVEBEAT BOX』
1987年 単発コンサート 広島平和コンサート「ALIVE HIROSHIMA '87」
全7曲

1. LIFE
2. Driving All Night
3. Bow!
4. 街角の風の中
5. Scrambling Rock'n'Roll
6. 存在
7. 核 (CORE)

アルバム『Alive! HIROSHIMA 1987』
単発コンサート 熊本BEAT-CHILD
全7曲

1. シェリー
2. Driving All Night
3. Bow!
4. 街角の風の中
5. 十七歳の地図
6. Scrambling Rock'n'Roll
7. Freeze Moon

映画『ベイビー大丈夫かっ BEATCHILD1987』
1988年 単発コンサート LIVE CORE
全26曲

1. COLD WIND
2. ・ISM
3. Driving All Night
4. 彼
5. 米軍キャンプ
6. Teenage Blue
7. 群衆の中の猫
8. Forget-me-not
9. LIFE
10. 時
11. 卒業
12. 遠い空
13. Scrap Alley
14. Scrambling Rock'n'Roll
15. 紙切れとバイブル
16. Freeze Moon
17. 十七歳の地図
18. 路上のルール
19.愛の消えた街
20. 核 (CORE)
21. 太陽の破片
22. 街路樹
アンコール1
23 .シェリー
24. I LOVE YOU
25. 理由
アンコール2
26. 僕が僕であるために[注釈 48]

ビデオ『LIVE CORE』
アルバム『MISSING BOY』
アルバム『LIVEBEAT BOX』
Blu-ray & DVD『LIVE CORE 完全版〜YUTAKA OZAKI LIVE IN TOKYO DOME 1988・9・12』
アルバム『LIVE CORE LIMITED VERSION YUTAKA OZAKI IN TOKYO DOME 1988/9/12』
1991年 コンサートツアー TOUR 1991 BIRTH
34都市全48公演

5月20日 横浜アリーナ
5月21日 横浜アリーナ
5月22日 横浜アリーナ
6月1日 大阪厚生年金会館
6月2日 大阪厚生年金会館
6月3日 大阪厚生年金会館
6月8日 佐賀市文化会館
6月10日 宮崎市民会館
6月11日 鹿児島市民文化ホール第1ホール
6月13日 大分文化会館
6月14日 九州厚生年金会館
6月22日 香川県県民ホール
6月23日 愛媛県県民文化会館メインホール
6月25日 倉敷市民会館
6月26日 徳山市文化会館
6月29日 名古屋国際会議場センチュリー・ホール
6月30日 名古屋国際会議場センチュリー・ホール
7月2日 静岡市民文化会館
7月3日 静岡市民文化会館
7月12日 長崎市公会堂
7月13日 熊本市公会堂
7月15日 福岡サンパレス
7月16日 福岡サンパレス
7月17日 福岡サンパレス
7月23日 青森市文化会館
7月24日 秋田県民会館
8月4日 群馬県民会館
8月6日 宇都宮市文化会館
8月11日 京都会館第一ホール
8月14日 岡山市民会館
8月15日 メルパルクホール広島
8月16日 メルパルクホール広島
8月19日 島根県民会館
8月22日 北海道厚生年金会館
8月23日 北海道厚生年金会館
8月27日 郡山市民文化センター
8月29日 岩手県民会館
8月30日 岩手県民会館
8月31日 宮城県民会館
9月2日 山形県民会館
9月5日 神戸文化ホール
9月6日 神戸文化ホール
9月20日 茨城県立県民文化センター
9月24日 新潟県民会館
9月25日 新潟県民会館
9月27日 石川厚生年金会館
9月28日 長野市民会館

全24曲

1. FIRE
2. Driving All Night
3. 十七歳の地図
4. Scrambling Rock'n'Roll
5. 僕が僕であるために
6. ロザーナ
7. 黄昏ゆく街で
8. 音のない部屋
9.虹
10. COOKIE
11. きっと忘れない
12. 卒業
13. LOVE WAY
14. 禁猟区
15. COLD JAIL NIGHT
16. KISS
17. RED SHOES STORY
18. Freeze Moon
アンコール1
19. 永遠の胸
20. 太陽の破片
21. 誕生
アンコール2
22. I LOVE YOU
23. シェリー
24. 15の夜

ビデオ『TOUR 1991 BIRTH』
アルバム『MISSING BOY』
DVD『AFTER THE BIRTH』
DVD『もうひとつのリアリティ “LIVE + DOCUMENTARY”』
映画『復活 尾崎豊 YOKOHAMA ARENA 1991.5.20』[注釈 49]
アルバム『LAST TOUR AROUND JAPAN YUTAKA OZAKI』
コンサートツアー TOUR 1991 BIRTH ARENA TOUR 約束の日 THE DAY
全8公演

10月2日 大阪城ホール
10月3日 大阪城ホール
10月13日 名古屋レインボーホール
10月14日 名古屋レインボーホール
10月24日 代々木オリンピックプール第一体育館
10月25日 代々木オリンピックプール第一体育館
10月29日 代々木オリンピックプール第一体育館
10月30日 代々木オリンピックプール第一体育館

全20曲

1. FIRE
2. Driving All Night
3. 十七歳の地図
4. Scrambling Rock'n'Roll
5. 僕が僕であるために
6. ロザーナ
7. 虹
8. きっと忘れない
9.COOKIE
10. 卒業
11. LOVE WAY
12. KISS
13. RED SHOES STORY
14. Freeze Moon
15. 永遠の胸
16. 太陽の破片
17. 誕生
アンコール1
18. I LOVE YOU
19. シェリー
アンコール2
20. 15の夜
アンコール3(最終日のみ)
21. ダンスホール

ビデオ『TOUR 1991 BIRTH』
アルバム『約束の日 Vol.1』
アルバム『約束の日 Vol.2』
ビデオ『約束の日 LAST APPEARANCE』
DVD『約束の日 LAST APPEARANCE 完全版』
アルバム『WEDNESDAY 〜LOVE SONG BEST OF YUTAKA OZAKI』
アルバム『LIVEBEAT BOX』
アルバム『LAST TOUR AROUND JAPAN YUTAKA OZAKI』
1992年 コンサートツアー TOUR 1992 “放熱への証” Confession for Exist[注釈 50]
公演中止

6月11日 大阪城ホール
6月16日 日本武道館
6月17日 日本武道館
6月19日 名古屋国際会議場センチュリーホール
6月20日 名古屋国際会議場センチュリーホール
6月24日 福岡サンパレス
6月25日 福岡サンパレス
6月27日 鹿児島市民文化ホール
6月29日 徳島市文化センター
6月30日 香川県県民ホール
7月2日 高知県民文化ホール
7月3日 松山市民会館
7月5日 徳山市文化会館
7月6日 倉敷市民会館
7月19日 熊本市民会館
7月20日 佐賀市文化会館

-

書籍[編集]

著書[編集]

写真集[編集]

関連書籍[編集]

  • 尾崎豊ストーリー 未成年のまんまで(1985年、落合昇平著、ソニー・マガジンズISBN 4789701964
  • 失くした1/2 尾崎豊にアンサー・コール(1986年、ソニー・マガジンズ)ISBN 4789702464
    ファンからのメッセージ集
  • 尾崎豊「誕生」想い出の幼少年時代(1993年、尾崎健一著、リム出版新社)ISBN 9784898000083
    尾崎の父による著作
  • 放熱の行方(1993年、吉岡忍著、講談社ISBN 978-4062063593
    ノンフィクション作家によるドキュメンタリー
  • 弟尾崎豊の愛と死と(1994年、尾崎康著、講談社)ISBN 4062070049
    尾崎の兄による尾崎伝
  • 尾崎豊 きっと忘れない。母・妻・女優との秘められた日々(1995年、鬼頭明嗣著、主婦と生活社ISBN 4391117223
    尾崎が設立した個人事務所アイソトープの初代副社長による著作
  • 尾崎豊が伝えたかったこと(1995年、須藤晃著、主婦と生活社ISBN 439111741X
  • 尾崎豊覚え書き(1998年、須藤晃著、ソニーマガジンズ、小学館ISBN 4094021019
    尾崎を育てたプロデューサーによる尾崎伝
  • 親愛なる遥(とお)いあなたへ 尾崎豊と分けあった日々(1998年、尾崎繁美著、東京書籍) ISBN 4487754089
    尾崎の妻の著作
  • 尾崎豊物語(ヤング・ジャンプ・コミックス愛蔵版)(1998年、堀口純男著、集英社ISBN 4087825582
  • KAWADE夢ムック 尾崎豊(2001年、河出書房新社ISBN 4309976069
  • 尾崎豊 目覚めゆく魂 - 母と子の物語(2001年、尾崎健一著、春秋社ISBN 4-393-33196-6
    尾崎の父による著作
  • 尾崎豊物語(KCデラックス)(2002年、長緒隆也著、講談社)ISBN 4063346048
  • 愛すること、それがすべて 尾崎豊との永遠の絆(2003年、鬼頭明嗣著、扶桑社ISBN 4594041930
    尾崎の元マネージャーによる著作
  • 誰が尾崎豊を殺したか(1993年、大楽光太郎著、ユニオンプレス)ISBN 4-946485-01-5
  • 新 誰が尾崎豊を殺したか(1995年、大楽光太郎著、松文館)ISBN 978-4790100898
  • 尾崎豊 7年目の真実(1997年、大楽光太郎著、ジャパンミックス)ISBN 978-4883214358
  • 最後のひとかけら - 誰が尾崎豊を殺したか 最終章(2003年、大楽光太郎著、サウンドシャワーパブリッシャー)ISBN 978-4860620134
    尾崎の最後のマネージャーであり、死を看取った一人による著作

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 尾崎の所属事務所『マザー・エンタープライズ』およびレーベル『MOTHER&CHILDREN』の社長。
  2. ^ 当時、1ヶ月にも及んで、民放のみならずNHKも含めたテレビ各局は連日のように尾崎の特集を組んだ。
  3. ^ 月給は2万円で、尾崎の担当区域は180部だった[16]
  4. ^ 実際に当時は「卒業」の歌詞に影響されて、学校の校舎の窓ガラスを割るといった事件が発生した[27]
  5. ^ 参列者数は3万8000人、4万人、5万人、5万3000人などと言われている。
  6. ^ それぞれ、美空ひばり、忌野清志郎の追悼式は4万2000人、坂井泉水の追悼式は4万100人、吉田茂の国葬は4万人という規模であった[41]
  7. ^ 防犯上、警備上の理由のため、実際にはこの墓地には尾崎の遺骨は納骨されていない。
  8. ^ 尾崎豊の父が躰道の前身である玄制流空手を習っていた影響も受けている。
  9. ^ のちに、Mr.Childrenらを生んだ小林武史が優勝している。
  10. ^ a b ファーストアルバム『十七歳の地図』に収録されている『街の風景』の原曲。
  11. ^ 原宿音楽祭での「町の風景」は平成21年(2009年)3月30日に放送されたTBSラジオのラジオ番組「kakiiin尾崎豊」にて公開されている。
  12. ^ 十七歳の地図」の原曲。尾崎がつけたタイトルは「野良犬の道」。
  13. ^ オーディションは前日の10月10日に行われたが、尾崎はオーディションを受けなかった。翌日、CBSソニーのプロデューサーである丸沢和宏に説得され、オーディションを受けた[46]
  14. ^ 正確には「Scrambling Rock'n'Roll」の間奏中。
  15. ^ その後もなんとかスタッフに支えられステージに這いつくばりながらセットリストのすべての曲を歌い切った
  16. ^ 大阪球場でのライブはライブツアー「Tropic of Graduation Tour」時に開催されたものであるが当時のツアーパンフレットには日程が記載されておらず、大阪球場での公演2日前の8月23日でツアーは終了する予定であったがツアー開始初日の5月6日に関係者の間で会見を行い公表した。チケットは発売後に即日完売したことからも当時、尾崎の人気が一気に高まっていたことがうかがえる。
  17. ^ 最初にニューヨークへ渡ったのは1月で、その後は行ったり帰ったりを繰り返し、6月から長期滞在していた。
  18. ^ 同社はのちにアルファ・ムーンと合併しエム・エム・ジーとなり、その後イーストウエスト・ジャパンとなる。
  19. ^ 日本武道館でのライブは尾崎の夢だったが、同じく日本武道館での公演がプログラムされた「放熱への証」ツアーも尾崎の急死によって中止に終わり、結局叶うことはなかった。
  20. ^ 裁判官は尾崎に対して「人気歌手として社会に与えた影響は大きい。仕事上のスランプは理解できないわけではないが、法律が厳禁している覚せい剤の使用は決して許されるべきではない。両親が歌手生命が絶たれても警察に通報して救おうとした熱意などもあり、もう一度更生の機会を与える。一日も早く立ち直るように」と話した。また尾崎は判決が下されるまで実刑を信じていたという[49]
  21. ^ 釈放時、右手には手垢が滲みた村上春樹の「羊をめぐる冒険」を持っていた[50]。またファンらが彼の出所を祝うかのように「存在」や「卒業」を歌ったという[51]
  22. ^ 2013年現在、シングルではこのCDの売り上げが尾崎史上最高となっている。
  23. ^ このライブの模様は映像作品『OZAKI・19』に収録
  24. ^ 結局「TOKYO ROCKFEELING FESTIVAL」は尾崎以外の出演者で行われた。
  25. ^ 岡村とは1987年8月6日の広島平和コンサート「ALIVE HIROSHIMA '87」で共演し、岡村の楽曲「Young Oh! Oh!」を岡村とともに歌っている。
  26. ^ 北勝海とは亡くなる前々日の1992年4月23日に東京・六本木スナックで知り合っている。その際に尾崎は北勝海に「次の僕のコンサート必ずきてくださいよ。チケット送りますから。」と話したという[59]
  27. ^ RED WARRIORSや大友康平(HOUND DOG)らは尾崎と同じ事務所であるマザーエンタープライズに所属していた。
  28. ^ 現行教科書11種類のうち3種類の本に記述があること。
  29. ^ 巻数は『〜℃』で表されていた。
  30. ^ 3℃は1992年4月に発行され、その直後の4月25日に尾崎は急死した。
  31. ^ 浜田は事務所の名や曲名などに「ROAD」を多用している。
  32. ^ 尾崎は自分のイメージを鋭く尖ったナイフのような『Egde』だと解釈していたことによる。
  33. ^ 主にライブ映像を中心として構成されている。
  34. ^ 今番組内で放送された「ハイスクールRock'n'Roll」のMCでブルース・スプリングスティーンに関する話をしている。
  35. ^ 既に2010年に開催された音楽イベント「フジロックフェスティバル」において公開されていた。
  36. ^ この番組は無料放送として放送された。
  37. ^ 「誰かのクラクション」は尾崎がパーソナリティを務めた唯一のレギュラー番組で、1985年10月から1986年3月、1986年10月から1987年3月にオンエアされていた。番組ディレクターは加藤与佐雄。
  38. ^ アマチュアバンドの前座として参加。
  39. ^ 核 (CORE)」の原曲。
  40. ^ 白井貴子の前座として参加。
  41. ^ 当初はナゴヤ球場にて予定されていたが、会場の使用許可が下りず、大阪球場での開催となった。
  42. ^ 一部の関連本で、大阪球場での「Scrambling Rock'n'Roll」はプログラムからカットされた、とあるのは誤り。
  43. ^ ツアー途中に尾崎本人の急病により、ツアーが中断している。
  44. ^ 4日後の9月28日に公演会場である新潟県民会館へ入るも、ライブ前に倒れ、ツアーは中断されたため、結果的にこの日が本ツアーの最後の公演となった。
  45. ^ 多数の関連書では「15の夜」がプログラムされておらず、「十七歳の地図」となっているが、両曲ともに演奏されている。
  46. ^ 「・ism」が演奏された公演もあり
  47. ^ 6日の出演は予定になく、急遽出演したため「シェリー」、「僕が僕であるために」のみを演奏している。
  48. ^ 一部の関連本では、アンコールに「15の夜」がプログラムされているが誤り。
  49. ^ 2012年12月1日公開。
  50. ^ 尾崎本人が急死したため全公演中止となった。
  51. ^ 後に、未収録写真を76点を追加して「FREEZE MOON+」として再発売されている《2009年、春日出版、ISBN 4863211546》。

出典[編集]

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参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]