尖閣諸島問題

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尖閣諸島問題(せんかくしょとうもんだい)とは、尖閣諸島について、日本台湾中華民国)、中国(中華人民共和国)がそれぞれ領有権を主張している問題[1]

尖閣諸島の位置。
青:魚釣島、黄:久場島、赤:大正島
左から尖閣諸島の魚釣島北小島南小島を空撮
東シナ海ガス田の位置と日中中間線。日本名:春暁は「白樺」、断橋は「楠」、冷泉は「桔梗」、天外天は「樫」、龍井は「翌檜(あすなろ)」

経緯

以下では原則として「尖閣諸島」の呼称に統一して表記する。

第二次世界大戦以前の概要

大日本帝国陸地測量部作成「吐噶喇及尖閣群島地図」(1930年測図・1933年発行)

尖閣諸島は琉球王国から中国大陸への航路上にあり、その存在は古くから琉球王国や中国歴代王朝で知られていた。近代以前は琉球人が航路の標識として利用する程度で、人の住む地から遠く離れていたので動力船の無い時代は漁に来ても魚を持ち帰ることができず、島そのものにも利用価値は無く漁に来たり上陸居住する者はいなかった。

1872年の琉球処分後には内務省地理局発行の『大日本府県管轄図』に魚釣島が記載されるなど、日本国内で発行される地図には尖閣諸島は琉球諸島に含められて記載されていた。

1885年8月に内務卿であった山県有朋は沖縄県に対して、魚釣島、大正島、久場島の三島への調査を命じた。沖縄県令の西村捨三は部下の石澤兵吾に現地住人からの聞き取り調査を行わせ、9月21日に石澤が現地住人から受け取った報告書では、「『中山伝信録』の赤尾嶼は久米赤島、黄尾嶼は久場島、釣魚台は魚釣島に相当すへき」と記された[2]。石澤からの報告を受けた西村は翌日の9月22日に山県有朋に「既に清國も旧中山王を冊封する使船の詳悉せるのみならず、夫々名称をも附し、琉球航海の目標と為せし事明らかなり。依て今回大東島同様、踏査直に國標取建候も如何と懸念仕候間。」と国標建設に懸念を表明したが[3]、同年10月9日、山県有朋は外務卿である井上馨に「清国所属の証跡は少しも相見え申さず」と書簡を送り意見を求めた。

10月21日、外務卿の井上馨から山県有朋宛ての書簡では、「之候様に付此際遂に公然國標を建設する等の處置有之候ては清國の疑惑を招き候間差向実地を踏査せしめ港湾の形状并に土地物産開拓見込有無等詳細報告せしむるのみに止め、國標を建て開拓等に着手するは、他日の機会に譲候方可然存候且曩に踏査せし大東島の事并に今回踏査の事共官報并に新聞紙に掲載不相成候方可然存候間夫々御注意相成置候様致度候右回答旁拙官意見申進候也」と回答し、清国がその存在を知り清国の新聞が注意を促している時期に公然と国標を建てるのは政治的に好ましくないとした[4]。そのため、この時は沖縄県から要求のあった国の標杭を立てることに日本政府は同意しなかった。

11月4日、石澤は「魚釣島外二島巡視取調概略」と題する報告書を提出した。石澤ら一行は10月30日午前8時に釣魚島の西岸に上陸し午後2時に離陸、計6時間の現地調査を行い、調査の中で石澤は「最も目新しく感じたるは長貳間半許、幅四尺許の傅馬船の漂着せしものなり。形甚だ奇にして曾て是聞せさるものなれば、之を出雲九乗組人に問うに、曰く支那の通船なりと答へり」と、魚釣島に漂着した中国の通商船を確認している[5]。魚釣島を後にした一行は久場島を目指すが、「先づ上陸踏査せんと欲すれども、惜むらくは日は西山に落んとし時恰も東北の風を起し倍す強大ならんとす。案外港湾はなし。」とあり上陸できず、久米赤島についても、「帰路久米赤島を見ん事を船長に約し進航せしに、風は愈よ強きを加へ、夜は暗黒にして終に瞭然見る事能はさりしては甚だ遣憾とす。」とあり上陸調査は出来なかった。

1887年の軍艦「金剛」の発着記録によれば,同艦は水路部測量班長・加藤海軍大尉を乗船させ,同年6月に那覇から先島群島(尖閣諸島方面)に向かっており,また,『日本水路誌』(1894年刊)等には1887年及び1888年の加藤大尉の実験筆記(実地調査に基づく記録)に基づくものとして魚釣島等の概況が記載されているが、笹森儀助著「南島探験」には、金剛の場合は附近を回航したのみであり、一方の「海門」は沖縄県より調査を命ぜられるも尖閣諸島へは回航すらしなかったと記されている。日本政府はそれ以降も、1890年に沖縄県属の塙忠雄による漁業状況聞取調査、1893年に沖縄県八重山島取調書(野田正以下の提出資料他尖閣諸島に関する聞き取り調査)を行い、尖閣諸島における漁業者(糸満人)の活動実態を確認しているが[6][7]龍谷大学民際学研究センターの倪志敏は、「日本政府が尖閣諸島に上陸して現地調査したのは魚釣島の一島のみであり、それ以降に行われたのは聞き取り調査のみで、更なる実地調査が行われたことはなかった。」と主張している[8][疑問点]

尖閣諸島 魚釣島の住民

その後日本人が入植し、アホウドリ羽毛の採取や海鳥剥製の製作、そして鰹節の製造などが行われた。特に鰹節の製造は島の基幹産業となり、最盛期、同島には99戸、248人もの日本人が暮らしていた。しかし南洋諸島からの安価な製品が出回るようになると経営が苦しくなり、米軍の沖縄侵攻の可能性があり鰹節工場は閉鎖され1940年に無人島となった。

このような事から日本政府は「尖閣諸島は、歴史的にも一貫して日本の領土である南西諸島の一部を構成しています。即ち、尖閣諸島は、1885年から日本政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行い,単に尖閣諸島が無人島であるだけでなく,清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重に確認した上で、1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行って、正式に日本の領土に編入しました。この行為は、国際法上、正当に領有権を取得するためのやり方に合致しています(先占の法理)。尖閣諸島は、1895年4月締結の下関条約第2条に基づき、日本が清国から割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれません。」としている[9]

一方、中国政府は、の時代、琉球への冊封使の報告書である古文書に釣魚台を目印に航行したとの記述があることや、江戸時代の日本の学者林子平が書いた三国通覧図説にある地図の彩色などを主張の根拠に挙げているほか、日本政府が密やかに「領有」を閣議決定し国際社会に宣言しなかった等の歴史的な経緯から見ると、日本のいわゆる「領有権の取得」は国際法上の意味を持たないと主張している。

アメリカ合衆国による沖縄統治時代

人民日報の沖縄に関する記事。冒頭で尖閣諸島は琉球群島に含まれるとの主旨が記述されている(1953年1月8日紙面)
中国・北京市にある地図出版社が出版した中国地図集より。台湾、南沙諸島など中国政府が領有を主張する地域に国境線が引かれているが、尖閣諸島の記載がなく現在発行の地図のように国境もない(1958年出版)
台湾の中華郵政が発行した中華人民共和国から金門島馬祖列島を防衛したことに対する記念切手。それ故、尖閣諸島と南海諸島は記されていない(1959年9月3日発行)

第二次世界大戦後は一時連合国(実質的にはアメリカ合衆国)の管理下に置かれた。連合国の一員であった中華民国1945年10月25日[注 1]台湾総督府が統治していた台湾と澎湖諸島を接収し[注 2]、日本も1951年に締結したサンフランシスコ平和条約で最終的に放棄した。台湾は1945年以降に中華民国台湾省となったが、尖閣諸島は含まれていなかった。尖閣諸島を行政的に管轄していた八重山支庁が機能不全に陥り八重山自治会による自治が行われていたが、12月になって11月26日に告示された「米国海軍軍政府布告第1-A号」によってアメリカ軍による軍政下に入り、その後琉球列島米国民政府および琉球政府が管轄する地域に編入された。またアメリカ空軍が設定していた防空識別圏も尖閣諸島上空に設定されていた。この時期の中華人民共和国および中華民国で編纂された地図では尖閣諸島を日本領として明記している(後述)。

日本は1952年に台湾に逃れた蒋介石中国国民党政権との間で、その支配下にある台湾を適用範囲とする日華平和条約(1972年失効)を締結しており、同2条で台湾における日本の領土権の放棄を規定しているが、ここでは「日本国は、1951年9月8日にアメリカ合衆国のサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第二条に基き、台湾及び澎湖諸島並びに新南群島[注 3]及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄したことが承認される」としているものの尖閣諸島は台湾に属するとは解釈されていなかった。

また、1953年1月8日付けの中国共産党中央委員会の機関紙人民日報は「琉球群島人民による反米闘争」と題する記事で、琉球群島(当時の米軍占領地域)の範囲を記事冒頭で「琉球群島は我国(中国)の台湾東北(北東)と日本の九州島西南の海上に位置する。そこには尖閣諸島、先島諸島、大東諸島、沖縄諸島、トカラ諸島、大隈諸島など7つの島嶼からなっており(後略)」と紹介しており、琉球群島に尖閣諸島が含まれていると紹介している。

これに対し清華大学国際関係研究院の劉江永は、「この記事は1953年1月8日4面の資料欄に掲載されたもので、日本語の資料を翻訳した無署名の資料で、評論でも社説でもない。よって中国政府の釣魚島帰属に関する立場を代表するものではない。いわゆる中国側が釣魚島は日本に属すると認めたとの説は成立しない。」と反論している。[10][11]

尖閣諸島近海は好漁場であるため、台湾漁民による操業が行われており日本側漁民との摩擦が生じていた。1955年には第三清徳丸襲撃事件が起き、中華民国国旗を掲げた海賊船による襲撃で死者行方不明者6名を出す事件が発生している。

1960年代に入っても尖閣諸島に大量の台湾人漁民が入域し、島に生息する海鳥とその卵を乱獲したほか、付近海域で密漁する事態は続発していた。日本の気象庁離島課は絶滅危惧種のアホウドリが尖閣諸島に生息している可能性があるとして、関係部署に依頼し琉球大学の高良鉄夫教授らを1963年春に調査団として派遣した。この調査団は100万羽以上の海鳥が生息する事を確認したが、アホウドリではなく台湾漁船をも発見した。この漁船は夜の漁のために停泊していたが、その合間に海鳥を乱獲していた。そのため調査団は不法行為だと注意したが無視されたという。そのため高良教授は「このまま放置しておいたら現在生息している海鳥も衰亡の一途をたどる。何か保護する方法を考えなければいけない」と語ったが[12]、実行力のある対処は行われなかった。

これは尖閣諸島を管轄する琉球政府には外交交渉権がなく、また本来主権を持つ日本政府も当時の沖縄の施政権は返還されていなかったため、当時国家承認していた中華民国(台湾)に対して尖閣諸島における台湾漁民の傍若無人ぶりを抗議できなかったという。そのうえ琉球政府の上部にある琉球米民政府およびアメリカ合衆国政府は、在台北のアメリカ大使館を通じて「抗議」したものの、台湾当局が積極的な取締りをしなくても、台湾の蒋介石政権との「米華関係」を重視したため不問にしたとみられている[13]

1968年に行われた調査では台湾漁民の乱獲による海鳥の激減ぶりが数字の上でも明らかになった。5年前の調査と比較して南小島のカツオドリが20万羽から1万羽、北小島のセグロアジサシは50万羽から10万羽に激減していた。これは島から漁民が台湾に海鳥の卵を菓子の原料として大量に運び去ったうえに、無人島ゆえに人間を警戒しない海鳥を捕獲していたためであった。調査団は台湾人に食べられた大量の海鳥の屍骸や漁船だけでなく、南小島において台湾人60人が難破船を占拠しているのも確認している。

このような台湾人による領土占拠の既成事実が積み重なることで、当時から地元西南群島の住民から第二の竹島になる危惧を指摘する声もあったが[13]、この当時は日本国内では尖閣諸島における台湾人の不法入域は殆ど重要視されることはなかった。なお南小島の占拠者であるが、退去勧告を発し再度の入域を希望する場合には許可証を得るように指導した。彼らは解体作業を片付けるために翌年にかけて入域したが、この時は琉球列島高等弁務官の入域許可を得た合法的な行為であり、この措置に対し台湾の中華民国政府からの異議はなかった。

その後も台湾漁民による不法入域は続き、朝日新聞1969年7月11日付け夕刊には「沖縄の島に招かざる客」との題で、北小島に停泊している台湾漁船と漁の合間に海鳥の卵を取っている漁民の写真が掲載されている。この記事を執筆した筑紫哲也は、「(沖縄への)日本人の出入域にはきわめてきびしい統治者の米国もこの"お客様"には寛大」と揶揄するとともに、「地元の声」として台湾との間で第二の竹島になる可能性があることを警告していた。

当時の琉球政府も、尖閣諸島が石垣市に属することを前提に警察本部救難艇による警備を実施し[14]、接近した台湾漁船に退去を命令する等の活動を実施していた。1970年7月には領域表示板の建立を行っている。

問題の生起

1968年の海底調査の結果、東シナ海の大陸棚に石油資源が埋蔵されている可能性があることが指摘され、1970年に台湾が領有権を主張しはじめ、これに中国も追随した。1969年および1970年に国連が行った海洋調査では、推定1,095億バレルという、イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵量の可能性が報告された。結果、周辺海域に豊富な天然資源があることがほぼ確実であると判明すると、1970年7月に台湾はアメリカ合衆国のパシフィック・ガルフ社に周辺海域の大陸棚探査権を与え領有権を主張した。(1971年4月パシフィック・ガルフ社は米国務省の意見で撤退。)[15] また、石原慎太郎によれば、江藤淳との共著において次のように記している[16]

「尖閣列島周辺の海底に油田があるという話が持ち上がって以来次々と妙なことが起こった。返還前のことですが、米国の石油メジャー会社が、時の佐藤首相に、外相がらみで自分たちによる試掘を持ちかけてきた。佐藤首相は自国日本のことだからといってそれを退けた。すると彼らは同じ話を台湾と北京に持ち込み、「あの島々は本来なら中国の領土の筈だ」とそそのかした。」

1970年9月2日には、台湾の水産試験所の船が魚釣島に上陸、台湾の国旗である青天白日旗を掲揚した。この際周辺海域で操業中の台湾漁船からは拍手と万歳の声が挙がったという[17]。台湾当局はこの時の「青天白日旗」を掲揚した写真を撮らせ世界中の通信社に配信したため、日本政府が抗議した。なおこの「青天白日旗」はその後間もない9月中旬に琉球政府によって撤去され、米国民政府に保管されている[18]

1971年2月にはアメリカ合衆国在住の台湾人留学生らによる尖閣諸島は中国固有の領土だと主張する反日デモが発生し、6月に台湾、12月に中国が相次いで領有権を主張した。1972年(昭和47年)5月15日に沖縄は日本へ返還されており、沖縄返還の直前に主張し始めた。その根拠は、尖閣諸島が中国側の大陸棚に接続しているとの主張にくわえ、古文書に尖閣諸島を目印として航海に役立てていたという記述が見られることで、最も古くから同諸島の存在を認識していたという解釈による。中国人が先に発見したから領有権を主張できるというものである[注 4]

ただし、1970年以前に用いていた地図や公文書などによれば両国とも日本領であると認識していたようで、米国の施政時代にも米国統治へ抗議したことはないため、中国と台湾が尖閣諸島の領有権を主張し始めた動機としては海底油田の発見しか考えられない。そのため、国際判例上、以前に黙認によって許容した関係に反する主張は、後になって許されないとする禁反言が成立する可能性も指摘されている[注 5]

海底油田という要素のほかに中国で流布している言説によれば、中華人民共和国との国交樹立締約に怒った中華民国が国交締結前日にいやがらせとして提出した領土主張を、機をみて中華人民共和国側(周恩来)も同日に領有問題の追加主張を開始したところ、これを当時の日本国交渉担当の福田赳夫 大平正芳が「棚上げして後世に託す」という玉虫色のままで国交樹立を妥結させ、今日の領土主張の齟齬にいたったとされている。「棚上げ合意」については、龍谷大学の倪志敏が史的経緯を上梓している[19][20][21]

中国共産党は、清がイギリスなどの西欧列強に領土を奪われた経験から、軍事的実力のない時期に国境線を画定してはならないという考え方をもっている[要出典]。中国とインドの事例(中印国境紛争)では、1954年の周恩来とネルー平和五原則の合意および中国国内のさらなる安定を待って、インドが油断している機会を捉えて、1962年11月、大規模な侵攻により領土を拡張した[22]。当時はキューバ危機が起きており、世界がそちらに注目している中での中国による計算し尽くされた行動であった[23]

軍事的優位を確立してから軍事力を背景に国境線を画定するという中国の戦略の事例は、中ソ国境紛争などにも見られ、その前段階としての軍事的威圧は、東シナ海および南シナ海で現在も進行中である。日中国交正常化時の中国側の領土棚上げ論は、中国に軍事的優位を確立するまでの猶予を得るための方便である。2011年現在、中国人民解放軍の空軍力は、日本、韓国、在日在韓米軍を合計したものに匹敵し、インドを含むアジアで最強であり、その急激な近代化がアジアの軍拡を誘発している。このように尖閣問題の顕在化は、中国の軍事力が優位になってきた事がもたらしたものである[24][25]

また1968年に地下資源が発見された頃から、中国と台湾は領有権を主張しはじめた。例えば、1970年に刊行された中華人民共和国の社会科地図において南西諸島の部には、"尖閣諸島"と記載され、国境線も尖閣諸島と中国との間に引いてあった[26]。しかし、1971年の版では、尖閣諸島は"釣魚台"と記載され、国境線も日本側に曲げられている。

1978年4月機銃で武装した100隻を超える中国漁船が海上保安庁の退去命令を無視して領海侵犯を繰り返した[27]福田赳夫内閣が抗議すると中国は事件は偶発的と応えた[27]1978年8月鄧小平が「再び先般のような事件を起こすことはない」と約束し、福田内閣は日中平和友好条約に調印した[27]

現状

日本・中国・台湾の主張

中国および台湾は尖閣諸島を「固有の領土」であるとの主張を繰り返している。

中国のメディアでは、「中国的聖神領土釣魚列島」他、神聖な領土と形容している[28][29]

政府レベルでは中国・台湾ともに話し合いでの問題解決を主張しているが、実際には相互に事前通報する取り決めが日中政府間で結ばれている排他的経済水域(EEZ)内はおろか、尖閣諸島周辺の日本の領海内で中国人民解放軍海軍の艦船による海洋調査が繰り返されていたり、台湾および香港の中国人活動家の領海侵犯を伴った接近が繰り返されている。このような行動に対して日本政府はことあるごとに抗議しており、台湾側は民間抗議船の出航を止めたことがある。中国側は日本政府の抗議を無視している。なお、日本は実力行使に訴えたことはないが、偶発的事故によって台湾の民間抗議船を沈没させる事故(後述。日本側が過失を認め賠償金を支払っている)が発生している。

また地元八重山諸島の漁民によれば、日本の排他的経済水域(EEZ)内の尖閣諸島近海で操業していると、中国の海洋調査船にはえ縄を切断されたり、台湾の巡視船から退去命令を受けたりと中台双方から妨害されているうえ、台湾漁船が多く操業しているため、自分達が中国の漁業取締船に逆に拿捕される危惧があることを訴えている[30]

日本の対応

日本は「尖閣諸島は歴史的にも国際法上も明らかに日本固有の領土であり、かつ、実効支配していることから、領土問題は存在せず、解決すべき領有権の問題はそもそも存在しない」とする立場を取っている[31]。なお、国連による国連憲章は第6章で紛争の平和的解決を定めており、軍事的手段による解決を否定している。また安全保障理事会は、武力による紛争解決を図った国に対する軍事制裁などを定めた国連憲章第7章に基づく行動を決めることが出来る。なお当事者のひとつである中華人民共和国は常任理事国であるため拒否権をもっているが、第27条3項は『その他のすべての事項に関する安全保障理事会の決定は、常任理事国の同意投票を含む9理事国の賛成投票によって行われる。但し、第6章及び第52条3[注 6]に基く決定については、紛争当事国は、投票を棄権しなければならない。』としており、仮に中国が武力による尖閣諸島問題の解決を図った場合、賛否すら表明することが出来なくなる。

日本の国内には民間レベルで灯台の建設を進めたり、定住しようとする計画もあるが、日本政府はそれを押し留めている。外務省が中国に対して弱腰であるという意見[誰?]も存在する。

国連海洋法条約は、平和や安全、秩序を脅かさない限り、軍艦であっても他国の領海を自由に通航できる無害通航権を定めているが、日本政府は「中国が無害通航を主張することは、日本の尖閣諸島領有権を認めることと同義になるため、中国が無害通航を求める可能性は低い」とみており、中国軍艦が尖閣諸島の領海へ侵入した場合、無害通航を認めず、海上警備行動を発令して自衛隊の艦船を派遣し、中国軍艦に速やかな退去を促す方針である[32]。また、自衛隊は尖閣諸島防衛のために2016年3月末までに、与那国島に沿岸監視部隊を新設し150人を配備する方針である[33]

1969年発行の中国の公式地図の発見

2015年2月、1969年に中国で刊行された「中華人民共和国国家測絵(そっかい)総局(現・国家測絵地理信息局)」の「公式地図」で魚釣島から赤尾嶼(大正島)まで「尖閣群島」として掲載されていたことが判明した。巻頭には毛沢東国家主席の言葉が掲載されており、尖閣諸島海域で海洋資源が発見されたのが1968〜69年であったことから、資源が発見される直前まで日本領だと判断していたとみられる[34]

国際法の観点

※本記事「争点」を参照。

国際法判例のひとつのプレア・ビヘア寺院事件では、紛争発生以降の片方の当事国による実効的支配が領有権主張の有利な条件と認められなかった。この紛争発生の時点を決定的期日(Critical date)といい、国際裁判で領土をめぐる紛争を審理する場合、どのような事実に対し国際法の原則と規則を適用するかが重要になるが、紛争国は互いに自国にとって有利になる行動や措置を実行しているので、時間的範囲を決定する必要がある。この場合中国側が領有権を主張し始めた以降の日本の実効的支配や中国と台湾による主権行使行動については認められないことになる。国際司法裁判所の判例(1953年マンキエ・エクレオ事件)も、紛争が発生した日以後の紛争当事国の行動を重視しないとしている。そのため、決定的期日以前の紛争国の行動が審議されることになる。裁判例としてクリッパートン島事件がある。

中国の対応

中国で発行された地図に対する見解

中国で発行された地図に尖閣諸島が日本名で記載されているものがあることについて、中国の人民日報は、「地図の一部は植民地時代の地図を使用したもので、改訂されず日本風の名称のまま記載されている。」「戦後中国が復興する過程で過去の古い地図を修正していた。」との理由を述べ、過去の地図の名称や国境が矛盾している事は現在の中国政府の立場と無関係だと主張している[35]。また上海国際問題研究院の廉徳瑰は、「日本の1970年代以前の地図にも、釣魚島が日本に属すことを明らかにしていないものが多数ある。」「1946年1月29日に外務省が米軍に提供した「西南諸島一覧表」では「赤尾嶼」「黃尾嶼」などの中国語の名称が使われている[36]。」との主張をしている[37]

中国による沖縄の領有権の主張

近年、中国は沖縄の領有権を主張する動きを見せている。また台湾もかつて沖縄返還に抗議していた(中華民国#沖縄県への認識参照)。例えば政府系研究機関が「沖縄県は終戦によって日本の支配から脱しているが、いまだ帰属先の策定が行われていない」と沖縄未定論を主張しはじめている。これに対して日本側で尖閣諸島問題は将来的な沖縄侵攻の布石と見ることも出来るとの指摘もある[38]

韓国の東亜日報によれば、2012年7月12日に中国国防大学戦略研究所長の金一南少将は中国ラジオ公社において「釣魚島(尖閣諸島)に関しては日本側に必ず、行動で見せてやらなければならない」「沖縄の中国への帰属問題を正式に議論しなければならない」「沖縄は本来、琉球という王国だったが1879年に日本が強制的に占領」したとしたうえで、「琉球がどの国に帰属し日本がいかに占領したのか、詳しく見なければならない」「日本は琉球から退くのが当然」と主張した[39]

2012年11月14日、中国、韓国、ロシアによる「東アジアにおける安全保障と協力」会議で、中国外務省付属国際問題研究所のゴ・シャンガン副所長は「日本の領土は北海道、本州、四国、九州4島に限られており、北方領土、竹島、尖閣諸島にくわえて沖縄も放棄すべきだ」と公式に演説した。そのためには中国、ロシア、韓国による反日統一共同戦線を組んで米国の協力を得たうえで、サンフランシスコ講和条約に代わって日本の領土を縮小する新たな講和条約を制定しなければいけない、と提案した。モスクワ国際関係大学国際調査センターのアンドレイ・イヴァノフは、この発言が中国外務省の正式機関の幹部で中国外交政策の策定者から出たことに対し、中国指導部の意向を反映していると述べている[40]

中国は、ロシアに対し、北方領土問題においてロシアを支持する代わりに、ロシアも尖閣諸島問題において中国の主張を支持するよう2010年ごろから働きかけている。ただし、日本との関係を重視するロシアは、中国の提案を受け入れていない[41]

中国脅威論と日本脅威論

日本で中国脅威論があり、事実として中国の核ミサイルの射程に日本はいる。一方、中国でも日本は尖閣諸島を足がかりに台湾、アメリカなどと同盟を組んで中国を再侵略しようとしているという、日本の軍国主義化を恐れる日本脅威論の調も見られ、双方ともに不信感と、それを政治的に利用しようとする民族主義的、国家主義的な意図が絡み合っており解決が困難となっている。

「核心的利益」

2010年3月、南シナ海に関して戴秉国国務委員が「南シナ海は中国の核心的利益に属する」と、米政府スタインバーグ国務副長官へ伝えた[42]。のちに中国は「そんなことはいっていない」「南シナ海問題の解決が核心的利益といった」と発言を修正した[43]。従来「核心的利益」の語は、台湾チベット自治区新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)に限って用いられていたもので、毎日新聞は「安全保障上で譲歩できない問題と位置づける」用語であると解説している[44]

同2010年10月には中国が東シナ海を、国家領土保全上「核心的利益」に属する地域とする方針を新たに定めた[42]2012年1月17日には人民日報は尖閣諸島を「核心的利益」と表現した[43]2012年10月25日には中国国家海洋局の劉賜貴局長が再び「南シナ海での権益保護は我が国の核心的利益にかかわる」と発言し、同局サイトにも掲載され、事実上公式の発言となった[45]2013年4月26日には中国外務省の華春瑩副報道局長が「釣魚島問題は中国の領土主権の問題であり、当然中国の核心的利益に属する」と明言したが[44]4月28日の同省の公式サイトの掲載文では曖昧な表現に改竄された[46]

台湾の対応

台湾の場合、尖閣諸島は台湾島に付随する諸島の一つであったが、1895年の併合地化以来、日本に領有権が移っている。そのため尖閣諸島沖の漁業権問題の他に日本の併合地責任論も絡んでいるともいわれる。ただし前述の「問題の生起」の項でも触れているように、1970年以前に用いていた台湾の地図や公文書などでは尖閣諸島を日本領であると認識しており、米国の施政時代にも米国統治に対して抗議しておらず、台湾による尖閣諸島の領有権主張は周辺海域に豊富な天然資源があるとの国連の調査結果が公表されてからである。

1971年4月10日、国民政府外交部は、4月9日にアメリカ国務省のスポークマンであるチャールズ・ブレイが「アメリカは来年、尖閣列島を含む南西諸島の施政権を日本に返還する」と発言したことに対して、情報司長談話を発表してこれに対抗し、尖閣列島は国民政府に返還すべきであると発表した。台湾の国民政府が尖閣の領有権に関してアメリカ政府に要求したのはこれが初めてである。また、4月10日午後、アメリカ東部の大学に留学している中国人留学生を中心にした尖閣列島の日本領有に反対するデモ隊が、ワシントンのアメリカ国務省横の広場で集会を開いたのちに、アメリカ国務省、国民政府大使館、日本大使館に向かい、抗議行動を行った。ロサンゼルスでも、中国系のアメリカ人学生200人が日本総領事館にデモ行進を行い、「大東亜共栄圏粉砕」「佐藤内閣打倒」などのプラカードを掲げながら、20分にわたり気勢を上げた[47]

中華民国台湾)の台湾独立派の政党で李登輝率いる台湾団結連盟(台連)は、尖閣諸島は日本固有の領土であると主張しているが、台湾では少数派にとどまっている。

当時台北市長であった馬英九は、「台湾は日本と交戦することを躊躇してならず、台湾は東京に対し漁業域の確定を要求すべき」と発言していたが、総統就任後、2008年秋に尖閣諸島の主権問題の棚上げ・周辺海域の共同資源開発を提案し、漁業権交渉を優先させる方針を明らかにしている。中国の海洋調査活動については「問題を複雑化する」として否定的であり、日台間にトラブルに対処する緊急連絡窓口を設けることで合意するなど、「主権問題棚上げ論」に傾きつつある。また、台湾当局は尖閣諸島問題で中国側との連携、協力は一切しないと再三にわたり言明している。

2008年6月に発生した聯合号事件では、台湾側が中華民国行政院海岸巡防署の巡視船を派遣するなど緊張が高まったが、日本の海上保安庁が謝罪と賠償を表明して収束した。

中国漁船衝突事件直後の2010年9月13日には、日本側EEZ内に侵入した台湾の抗議船を保護する名目で、海岸巡防署巡防船12隻を派遣している。

また、2012年には台湾の漁船団を護衛するため尖閣諸島海域に入った台湾の巡視船が日本の巡視船に放水するなどした[48]

台湾による領有権宣言

2012年10月19日、台湾の立法院は尖閣諸島の領有を宣言する決議を史上初めて行った。野党の親民党が提案し、与党の国民党や最大野党の民進党の賛成により可決した[49]

漢疆計画

2012年11月9日中国新聞網は、1990年に台湾軍による尖閣諸島強襲作戦「漢疆計画」があったことを報じた。

その中で香港の亜州週刊(2012年11月18日号)における馬英九総統のインタビューを紹介。漢疆計画とはヘリコプターで台湾兵士が尖閣諸島に上陸をして日本の灯台を破壊し、中華民国国旗を建てその後に撤退する計画であったという。当時の柏村(ハオ・バイツン)行政院院長が計画を支持し、45人の兵士が訓練にあたっていた。しかし馬は、最終的に当時の李登輝総統が計画中止を命じたと述べている[50]

中国と台湾の共闘

中国政府は、日本の揺さぶりのため、台湾や香港の領有権主張に賛意を示している。中国共産党は、尖閣海域に侵入しようとする台湾や香港の活動家に資金援助を行なっているとされる。台湾や香港が前面に出てくれば、日中の対立構図から外れ、アメリカの介入が少なくなるとの読みがある[51]

2013年1月24日、台湾の抗議船と巡視船が、一時、尖閣諸島沖の接続水域に入った。この時、中国の海洋監視船も入り、台湾の抗議船に同行する姿勢を見せた。これは、中台共闘を日米両国にアピールする思惑があったとされる。ただし、この時は台湾の巡視船が、中国の海洋監視船に離れるように警告している。台湾側は、中台共闘が、中国の統一工作に利用されるとの恐れがあると見られる。この24日の抗議船の出港情報は、事前に日本にも台湾から伝えられており、台湾は中台連携と受け取られないように注意している[52]

台湾外交部は、中国が平和的解決に向けた構想を示していないことなどを理由に、尖閣諸島問題では中国と「連携しない」と表明している[53]

日本側は、台湾と中国の連携阻止のため、2013年4月10日、尖閣周辺の日本の排他的経済水域の一部海域を「共同管理水域」に指定し、台湾漁船の漁業権を認める[54]

アメリカの立場

アメリカは尖閣諸島を日本へ返還する際、中台両国の領有権主張にも配慮し、主権の帰属については判断を避けた[55]1972年5月に、アメリカニクソン政権でキッシンジャー大統領補佐官の指導の下、ホワイトハウス国家安全保障会議において「尖閣諸島に関しては(日中などの)大衆の注目が集まらないようにすることが最も賢明」とする機密文書をまとめた。同年2月に訪中に踏み切ったニクソン政権にとって歴史的和解を進める中国と、同盟国日本のどちらにつくのかと踏み絵を迫られないようにするための知恵だった。この機密文書には、日本政府から尖閣諸島が日米安保条約が適用されるかどうか問われた際の返答として「安保条約の適用対象」と断定的に答えるのではなく「適用対象と解釈され得る」と第三者的に説明するように政府高官に指示している。

1996年9月15日、ニューヨーク・タイムズ紙はモンデール駐日大使の「米国は諸島の領有問題のいずれの側にもつかない。米軍は条約によって介入を強制されるものではない」という発言を伝え、10月20日には大使発言について「尖閣諸島の中国による奪取が、安保条約を発動させ米軍の介入を強制するものではないこと」を明らかにした、と報じた。この発言は日本で動揺を起こし、米国はそれに対して、尖閣は日米安保5条の適用範囲内であると表明した。米国政府は1996年以降、尖閣諸島は「領土権係争地」と認定(「領土権の主張において争いがある。」という日中間の関係での事実認定であって、米国としての主権に関する認定ではない。)した。その一方では、日本の施政下にある尖閣諸島が武力攻撃を受けた場合は、日米安保条約5条の適用の対象にはなる、と言明している。この見解は、クリントン政権時の1996年米政府高官が示した見解と変わらないとされる。ブッシュ政権時の2004年3月には、エアリー国務省副報道官がこれに加え「従って安保条約は尖閣諸島に適用される」と発言し、それが今でも米政府関係者から繰り返されている。ただし「安保条約5条の適用」は米国政府においても「憲法に従って」の条件付であって米軍出動は無制限ではない(条約により米国に共同対処をする義務が発生するが「戦争」の認定をした場合の米軍出動は議会の承認が必要である)ことから、「尖閣諸島でもし武力衝突が起きたなら初動対応として米軍が戦線に必ず共同対処する」とは記述されていない(これは尖閣諸島のみならず日本の領土全般に対する可能性が含まれる)。むろん「出動しない」とも記述されていない。第5条については条約締改時の情勢を鑑み本質的に「軍事大国日本」を再現することで地域の安定をそこなわないための米国のプレゼンスに重点がおかれているものと一般には解釈されている[注 7]。なお、米国の対日防衛義務を果たす約束が揺るぎないものであることは、累次の機会に確認されていると日本の外務省は主張している[56]

2009年3月、アメリカのオバマ政権は、「尖閣諸島は沖縄返還以来、日本政府の施政下にある。日米安保条約は日本の施政下にある領域に適用される」とする見解を日本政府に伝えた。同時に、アメリカ政府は尖閣諸島の領有権(主権)については当事者間の平和的な解決を期待するとして、領土権の主張の争いには関与しないという立場を強調している[57]

2011年11月14日、フィールド在日米軍司令官は日本記者クラブで記者会見し、尖閣諸島について日米安全保障条約の適用対象とする従来の立場を確認しつつも、「最善の方法は平和解決であり、必ず収束の道を見つけられる。軍事力行使よりもよほど良い解決策だ」と述べ、日中関係改善に期待を示した[58]

2010年9月に起こった尖閣諸島中国漁船衝突事件の際は、ヒラリー・クリントン国務長官は、日本前原誠司外務大臣との日米外相会談で、「尖閣諸島は日米安全保障条約第5条の適用対象範囲内である」との認識を示し[59][60]、同日行われた会見でロバート・ゲーツ国防長官は「日米同盟における責任を果たす」「同盟国としての責任を十分果たす[61]」とし、マイケル・マレン統合参謀本部議長は「同盟国である日本を強力に支援する」と表明している[62]

2012年11月29日、米上院は本会議で、日米安保条約第5条に基づく責任を再確認する」と宣言する条項を国防権限法案に追加する修正案を全会一致で可決した [63][64]

2012年12月14日、中国が記録上初めて日本の領空を侵犯した。飛行高度60メートルとされ、侵犯した領空は尖閣諸島上空であり、日本政府は中国政府に抗議した。また米国政府は中国政府に懸念を直接伝え、日米安全保障条約の適用対象であることなど、従来の方針に変更はないとも伝えたことを国務省は同日記者会見で明らかにした[65][66][67]

2013年1月2日、前月20日アメリカ下院、翌21日アメリカ上院で可決された尖閣諸島が日米安全保障条約第5条の適用対象であることを明記した条文を盛り込んだ2013年会計年度国防権限法案に、オバマ大統領が署名し、法案が成立した[68]

2013年3月21日岩崎茂統合幕僚長と、サミュエル・J・ロックリア英語版太平洋軍司令が会談し、尖閣諸島での有事に対処する共同作戦計画を策定することで合意した[69]。2013年7月、アメリカ上院は東シナ海と南シナ海での中国の「威嚇行為」を非難する決議を採択した[70]

2014年4月6日チャック・ヘーゲル国防長官は、小野寺五典防衛大臣との会談で、尖閣諸島は日本の施政権下にあり、日米安全保障条約の適用対象に含まれると明言した[71]。ヘーゲルは2014年4月8日、常万全国防相と会談し、アメリカは日米安保条約などで定められた同盟国の防衛義務を「完全に果たす」と主張した[72]。2014年4月11日、第三海兵遠征軍司令官のジョン・ウィスラー中将は、星条旗新聞で「尖閣諸島を占拠されても、奪還するよう命じられれば遂行できる」と主張した[73]

2014年4月24日、国賓として来日したオバマ大統領は、安倍晋三内閣総理大臣との首脳会談後の共同記者会見と共同声明で、沖縄県尖閣諸島が日米安全保障条約第5条の適用範囲内にあるとし、米国が対日防衛義務を負うことを表明した[74][75][76][77][78][79][80][81]。また、これに先立つ来日前の4月23日、読売新聞の単独書面インタビューに応じたオバマ大統領は、沖縄県尖閣諸島が日米安全保障条約第5条の適用範囲内にあるとし、歴代大統領として初めてこの適用を明言している[82][83][84]

2014年9月30日、アメリカ国防副長官であるロバート・ワークがワシントン市内の講演で、「尖閣奪取の企てがあれば対応し、同盟国の日本を支援する」と述べた[85]

2016年1月27日、アメリカ太平洋軍ハリス司令官は「尖閣諸島の主権について米国は特定の立場を取らない」と従来の見解を繰り返しつつ、「中国からの攻撃があれば、我々は必ず(日米安全保障条約に基づき尖閣諸島を)防衛する」と米軍の軍事介入を表明した[86][87][88]。アメリカ政府・軍関係者が、尖閣諸島について中国を名指しし防衛義務を述べることは異例であるとされている[89]

保釣運動

保釣運動のプラカード(香港で撮影)

保釣運動とは、「中国固有の領土である釣魚台列島(尖閣諸島)を守れ」と中国人社会で湧き起こっている運動。1971年、アメリカに留学中だった台湾人学生の間から発生したのが始まりといわれる[1]。1996年以降、頻繁に日本の領海を侵犯をするなど、活動は活発化している。

1996年以降の動きの中心になっているのは香港(中国)や台湾の活動家であり、1997年の香港中国返還を目前にして盛り上がった民族主義的な動きの反映との見方もある。最近は憤青やその代表格の童増のようにネットも活用している。

保釣運動を中国政府が煽っているのではないかと考える日本人もいるが、保釣運動の激化は、中国政府にとって必ずしも好ましいものとは限らない。中国政府が現状維持や日本への譲歩を望む場合、中国国民や軍部から弱腰であると突き上げを受けるからである。

なお、保釣運動に参加するのは中国人だけでなく香港や台湾の中国人活動家も含まれているほか、大陸の中国共産党政権に反対する立場の反共愛国連盟も含まれている。

海洋調査

排他的経済水域内での海洋調査は、一般には主権国の同意のもとでおこなわれる限りなんら問題のない科学探査であるが、同意を得ない場合は問題となる。海洋調査船が政府所属の船舶(公船)である場合、国連海洋法条約により公船に対し拿捕・臨検等の執行措置をとることはできないとされており、同意のない海洋調査について可能な対応に限界がある。この場合相手国政府に対して現場水域での、あるいは外交ルートを通じての中止要請をおこなうことや再発防止の要請をおこなうことになるが、中国の海洋調査行動については違反調査が繰り返されている状況にある[90]

軍事的衝突の可能性

また、元外交官防衛大学教授をつとめた孫崎享は、2012年時点での日中軍事力の比較では、中国の方が圧倒的に優位にあるため、仮に日中がこの尖閣諸島問題で軍事的に衝突した場合、日本は必ず敗北すると自著その他で訴えている[91]

2012年7月11日中国国土資源省国家海洋局所管の海洋環境監視監測船隊(海監総隊)の孫書賢副総隊長が「もし日本が釣魚島(尖閣諸島)問題で挑発し続けるなら、一戦も辞さない」と発言した[92]。また南シナ海南沙諸島問題に関してベトナムフィリピンに対しても同様に一戦も辞さないと発言した[92]。さらに7月13日には、中国共産党機関紙の人民日報が論説で、野田政権の尖閣諸島国有化方針を受けて「釣魚島問題を制御できなくなる危険性がある」「日本の政治家たちはその覚悟があるのか」と武力衝突に発展する可能性を示唆した[93]。尖閣諸島問題について、同紙が武力行使を示唆するのは異例とされる[93]

他方、2012年7月19日には、元中国海軍装備技術部長で少将だった鄭明は「今の中国海軍は日本の海保、海自の実力に及ばない」と発言したと台湾の中国国民党系の聯合報や中国時報が報道した[94]

2012年8月20日にアメリカの外交専門誌フォーリン・ポリシーに発表された米海軍大学教授のジェームズ・ホルムス(James R.Holmes)(戦略研究専門)の記事では[95]、日中が尖閣諸島海域で軍事衝突した場合、米軍が加わらない大規模な日中海戦でも日本側が有利と総括した。ホルムスのシミュレーション分析では日中両国の海洋部隊が戦闘に入った場合、まず戦力や艦艇の数量面では中国がはるかに優位に立つが、しかし実際の戦闘では日本が兵器や要員の質で上位にあり、さらに日本が尖閣や周辺諸島にミサイルを地上配備すれば、海洋戦でも優位となる。中国側の通常弾頭の弾道ミサイルは日本側の兵力や基地を破壊する能力を有するが、日本側が移動対艦ミサイル(ASCM)を尖閣や周辺の島に配備し防御を堅固にすれば周辺海域の中国艦艇は確実に撃退でき、尖閣の攻撃や占拠は難しくなるとした[96]

なお、通常は軍事的衝突の前後に、経済関係が衝突して国交の制限、交易の制限や許認可停止、制裁という局面を生む。

2013年8月23日陸上自衛隊中部方面隊総監に着任した堀口英利陸将は、尖閣での中国の動きなどを念頭に「純然たる平時と言えない」と厳しい見方を示した[97]

2013年11月23日、中国国防省は東シナ海に「防空識別圏」を設定したと発表。そして、それについて声明と公告を発表。公告では午前10時(日本時間午前11時)より施行されたと明記している。設定された防空識別圏には尖閣諸島が含まれ、日本がすでに設定している防空識別圏と重なっているところがあり、緊張が高まるとされている[98]

「六場戦争」

2013年7月、中国政府の公式見解ではないが、中国新聞網[99][100]や文匯報など中国メディアのBBS等で、中国は2020年から2060年にかけて六場戦争(六つの戦争)を行うとする記事が掲載された[101][102][103][104][105][106][100]。この「六場戦争」計画によれば、中国は2020年から2025年にかけて台湾を併合し、2028年から2030年にはベトナムとの戦争でスプラトリー諸島を奪回し、2035年から40年まで南チベットアルナーチャル・プラデーシュ州)を手に入れるためインドと戦争をし、2040年から45年にかけて尖閣諸島と沖縄を日本から奪回し、2045年から2050年にかけて外モンゴルを併合、2055年から2060年にかけてロシアが中華帝国から奪った160万平方キロの土地を取り戻し国土を回復するという[101][102][104][103]

オーストラリア国立大学客員研究員Geoff Wadeは、この記事について一部の極端な急進主義者の個人的な見解にすぎないという意見があるが、中華人民共和国国営新聞も報道しており、中国政府の非常に高いレベルで承認されたものとみなすことが可能とし、また中国の「失われた国土の回復」計画はすでに1938年から主張されていたと指摘している[102]。また、インドのシンクタンクCenter for Land Warfare Studiesの研究員P.K.Chakravortyは、この記事で中国はインド北東部のアッサム州シッキム州で独立運動や反乱活動を扇動し、またパキスタンへの武器供与によるカシミール攻略などが示唆されており、それらが失敗した後にインドとの全面戦争という段階が想定されているが、シッキムの現状は中国の執拗な工作がなされているにも関わらず安定しており独立運動を扇動するのは困難であり、また中国がミャンマーを介して発生させたアッサム州での暴動はインド政府とミャンマー政府の交渉によって沈静化しているとしながら、2035年までにインド軍は近代化を推進しその能力を高める必要があると指摘した[103]。また、ユーラシアレビューでキースK.C.フイは、汚職や縁故資本主義縁故主義などで自滅する脆弱性をもった中華人民共和国政府は張り子の虎だと批判した[107]

争点

尖閣諸島を巡る日中間の争点については以下、日中両国の主張を整理する。

1971年12月30日中華人民共和国外交部声明は釣魚台は中国領であると主張した[108]。また、中国に領域権原があるという主張は日本の歴史学者井上清の1972年の著書『「尖閣」列島--釣魚諸島の史的解明』でも行われた[109]。井上の主張について、1972年7月28日竹入義勝公明党委員長との会談で周恩来は「尖閣列島の問題にもふれる必要はありません」と述べたうえで「石油の問題で歴史学者が問題にし、日本でも井上清さんが熱心」であると述べた[110]。この会談での周恩来の発言について村田忠禧は、あえて井上の名前を出したことは井上の研究成果に耳を傾けるよう促しているのであるとし、井上と同じく中国に領有権があると主張している[110][111]。以下の争点の表では、こうした中国政府以外の、中国に領有権があるとする主張についても記載する。

日本の主張は外務省HP「日本の領土をめぐる情勢 尖閣諸島に関するQ&A」(平成25年6月5日)にまとめられているが、政府以外の日本に領有権があるとする主張についても記載する。

誰が最初に発見し、実効支配をしたか

日本側の主張では尖閣諸島は中国に属したことは一度もなく、先占を領有権の根拠としている[108]。尖閣諸島の西方には、1461年から1871年まで、歴代の中国王朝の領土線が存在し、尖閣は一貫して領土外であったとする[112]

 国際法上の領域権原としての先占は、権原取得のための事実が不明確であるゆえに紛争が発生することがあり、1928年パルマス島の判例では先占や時効ではなく、「領域主権の継続的かつ平穏な行使」が有効とされた[113]。また、東グリーンランドの裁判において「定住に向かない、無人の地では、他国が優越する主張をしない限り微かな実効支配でも有効」と判示され、近年の無人島の判例(ライタン・シパダン島等)でも支持されている。また、マンキエ・エクレオの判例(1953年)において、中世の諸事情に基づく間接的推定は実効支配と認定されず、当該地の課税や裁判の記録等の司法、行政、立法の権限を行使した直接的証拠が必要とされた。

領土権原に関する歴史的記録
中国・台湾の主張 日本の主張
洪武5年(1372年)に福建三十六姓が皇帝から琉球国を下賜された。その航路上で必ず尖閣を経由したはずであり、発見者は明国人である。 尖閣海域で操船した琉球人は閩人(福建人)の子孫「三十六姓」だが、『皇明實録』嘉靖26年(1547年)の記録によれば、早くから琉球国に入籍していた[114]。三十六姓の祖先は洪武25年(1392年)に琉球国に入籍したとされるが、それよりも前に、洪武5年(1372年)からほぼ毎年のように琉球国は福建まで往復渡航の船を派遣しており、尖閣航路を土着の琉球人が先に知っていた上で帰化人三十六姓に教えたと推測される[115]。よって琉球人が中国人より先に尖閣諸島を発見していた歴史は明らかである。
北小島南小島は「薛坡蘭」(せっぱらん)と呼ばれ、地誌に記載されている。 「薛坡蘭」(せっぱらん)は台湾の花蓮であることは史学の常識であり、尖閣とは全く無縁だ[116]北小島南小島沖の北岩沖の南岩飛瀬については中国の古文書に記載すらなく、日本の無主地先占は確定している。

また沖縄本島の住民は、尖閣列島を「ユクン・クバジマ」、八重山では「イーグン・クバジマ」と呼んでいた[117]。また、沖縄の先島諸島では、魚釣島をユクン、久場島をクバシマ、大正島を久米赤島と呼んでいた。他にも沖縄では、魚釣島をヨコンシマ・和平山、大正島をエクンシマ、久場島をチャウス島、北小島を鳥島やシマグワー、南小島を蛇島やシマグワーなどと呼んでいた[118][119][120][121][122]

1403年(明代)に著された『順風相送』という書物に釣魚台の文字がある。 『順風相送』原写本[123]の巻前付記には西洋航路だけが載っており、前半の西洋部分は1403年に成立し、後半の東洋部分は1570年以後に成立し、後から付加された。後半の末尾に載る尖閣航路は、1403年とは無関係である[124] [125]。『順風相送』後半には「長崎にポルトガル人がいる」と記されているので、『順風相送』後半は長崎が開港しポルトガル人が居住し始めた1570年頃より後に著された書物である[126]。また、『順風相送』に記された尖閣航路は中国の一般的な航路とは異なる琉球人に特有な航行なので、この航海の記述は琉球側の記録に依存している[127]
1461年の明国『大明一統志』には福建省浙江省など各地の東端が「海岸まで」と明記されており、明国の東端は海岸までである[128]。また琉球の西端は赤嶼(今の大正島)までだと明の冊封使・郭汝霖が明の皇帝に上奏している[129]。東端と西端との間は無主地である。
1534年冊封使陳侃(ちんかん)の報告書『使琉球録』に「釣魚台を目印に航行した」との記述がある。このように明の時代にすでに中国人が釣魚台(尖閣諸島)の存在を知っていたのは明らかであり、釣魚台を最初に発見したのは中国人である(井上清)[109]。同『使琉球録』に「平嘉山を過ぎ、釣魚嶼を過ぎ、黄毛嶼を過ぎ、赤嶼を過ぎ」、「古米山〔久米島〕が見えたが、すなわち琉球に属する」とあり、また久米島には琉球側の役人が出迎えた。これは久米島から琉球の領内であったことを明かしてをり、そこから以西の尖閣は中国領である(村田忠禧)[110] 最古の記録の陳侃を乗せた冊封船は、朝貢に来た琉球人の先導と操船によって運用され、このことを陳侃は出航前に非常に喜んでおり[130](「陳侃の三喜」という)、中国が発見する前に琉球人が発見し航路として使用していた証拠である[131]。久米島で役人が迎えたのは琉球国の西端を示し、一方明国の東端は「大明一統志」など諸史料に記載の通り大陸沿岸であった。中間の尖閣は無主地である[132]
1556年鄭舜功『日本一鑑』に「釣魚嶼、小東小嶼也。」とあり、小東は台湾である[133] 『日本一鑑』の「小東」は台湾島ではなく、福建から見た近東海域(台湾を含む)である。『日本一鑑』の中で台湾島は「小東島」「小東之島」と記載されている[134]。また漢文地誌用語には大遠小近という法則性があり、大琉球は沖縄、小琉球は台湾島、大西(大西洋)はヨーロッパ付近、小西(小西洋)はインド付近、大東(大東洋)は日本付近である。小東=近東=小東洋の海域には釣魚嶼だけでなく与那国島も含まれ得た可能性があり、釣魚嶼が台湾附属島嶼だった証とならない[135]。そもそも小東・小東洋は台湾が中国の領域外だったことを示す用語である[136]。また、当時の中国は台湾を統治しておらず、『明史』でも台湾は「東蕃」として外国列伝に収録されており、台湾は外国であった[133]。したがって台湾が中国領土でなかった以上、尖閣諸島が中国領土であった証拠とはならない(台湾が清に編入されたのは1684年)[133]

明国の冊封使郭汝霖が『石泉山房文集』及び『重編使琉球録』で述べる「赤嶼」の「界」は、中国の界であり、琉球の界は久米島までである[137]

1561年(嘉靖40年)、明国の冊封使郭汝霖が上奏文[138]で「嘉靖40年5月28日に洋行を始め、行きて閏5月3日に至り、琉球境に渉る。界地は赤嶼と名づけられている」と記す[139]。「赤嶼(せきしょ)」は現在の大正島。同じ郭汝霖の『重編使琉球録』によれば閏5月6日の午刻でもまだ久米島に到達しないため、閏5月3日の「琉球境」は久米島でなく赤嶼である。尖閣最東端の赤嶼から琉球国が始まる[140]。 また『歴代宝案』巻30に、1558年「琉球国王が天使(冊封使)の船を導引して琉球国に到らしむ」と記録される。この年福建に渡航して、1561年の明国の冊封使郭汝霖を導引したことを指す。同じく『歴代宝案』巻30に、1560年「琉球国王が天使(冊封使)の船を導引して琉球国に到らしむ」と記録される。この年福建に渡航して、1561年の明国の冊封使・郭汝霖を導引したことを指す。したがって「赤嶼と名づけらる」は琉球人が郭汝霖に告げたと考えられる[141]

明代1562年倭寇討伐の最高統帥である胡宗憲と鄭若曽の著作『籌海図編(ちゅうかいずへん)』(四庫全書)にある「沿海山沙図」と言う海図に釣魚台が描かれており、「明、清時代以来、中国の海防の管轄範囲」に含まれていた[109][110][133]。また、『籌海図編』巻二「福建使往日本針路」には「梅花東外山至大琉球那覇」とあり、これらは当時の明朝政府が遷界令を出すなど沿海海防に注意を払っており、防衛対象に釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼が含まれていたことを明かす(鞠徳源、村田忠禧)[110][142] 『籌海図編』の「福建兵防官考」に記載された明国外海防の管轄範囲は、全て福建沿岸十数キロメートルの範囲内であり、尖閣は明確に範囲外である。大明一統志の「領土は海岸まで」の基準によれば、これら沿岸島嶼は全て国外である[128]。更に『籌海図編』の同時代諸史料でも明国の海防範囲は沿岸島嶼にすら到達せず、沿岸島嶼は倭寇に占領されていて、戚継光らが倭寇を撃破したのは大陸海岸においてである[143]。また同じく『沿海山沙図』には「釣魚嶼」だけでなく当時は倭寇の根拠地であった台湾島北端の山「鶏籠山」も記されている。また『沿海山沙図』では化瓶山(花瓶嶼)が釣魚嶼より東に書かれており不正確である[144][133]。『籌海図編』巻四「福建沿海総図」には尖閣諸島も、さらに台湾、基隆嶼、彭佳嶼も描かれておらず、当時明は本土沿岸の防衛にも汲々としており、防衛力は澎湖島にさえ及んでいなかったのであり、『沿海山沙図』に尖閣諸島が記載されたのは逆に「敵方区域」であることを示す[145][146][133]

1562年『籌海図編』の「沿海山沙図」で尖閣附近に見える橄欖山は、今の南小島北小島である[147]

『籌海図編』の「沿海山沙図」で尖閣付近に見える「橄欖山」は、今の南小島北小島ではなく、福建省寧徳市三都澳の沿岸の島「橄欖嶼」であり、尖閣の西方170キロメートルほどの位置にある。 「橄欖山」の傍らには「酒嶼」も見えるが、明の古書「寧徳県志」では「橄欖嶼」「酒嶼」とも福建省寧徳県沿岸部の島名として記録される。さらに「橄欖嶼」を「一丸(いちがん)」(球形もしくは楕円形)と詠んだ漢詩も古書に引用されるが、尖閣諸島の南小島・北小島は球形ではない。現在でも福建海岸の寧徳市三都澳には「橄欖嶼」が存在し、景勝地とされる[148][149]

 1566年の鄭若曾「江南経略」[150]巻八「洋山記」に、杭州湾の外側の嵊泗列島中の羊山が「限華夷」(華夷を限る)と述べる。嵊泗列島が西の明国と東の国外との中間に位置することを指す。また曰く「陳銭者、中国海山之尽処也」(陳銭とは、中国海山の尽くる処なり)と。陳銭は嵊泗列島の最東端に位置し、明国の最東端だという意である[151]。「洋山記」は『武備志』巻209にも引かれ、東シナ海全域に対する中国の海防範囲が沿岸島嶼までに過ぎないことを総合的に示す[152]
1579年万暦7年)に成立した蕭崇業(しょうすうぎょう)「使琉球録」には「彼の国の夷船、汛を以て期す、宜しく境上に候ふべし。乃ち戊寅(西暦1578)年、独(ひと)り爽(たが)ひて至らず」とある。この汛(しん)とは季節風のことで、年末の季節風に乘って琉球船が福建に来航し、翌年使節船が出航するまで「境上」で伺候するのが通例だったという意である。福建海岸の国境から琉球航路への出航を待つのだから、尖閣は必然的に境外である。通例だから二度以上は前例があったことになるが、前の二度は最古の陳侃(1534年)及び、二番目に古い郭汝霖(1561年)だけであり、最古の記録から既に国境は福建海岸であった[153][154]
1606年の冊封使である夏子陽「使琉球録」にも久米島が見えると同航した琉球人が喜び、出迎えにきた久米島の頭目が海螺数枚を献呈したことが記載されており、久米島が琉球の境界であった(村田忠禧)[110] 夏子陽「使琉球録」には「渡海所用の金銀酒器、共じて二百三十余両を以て、これを境上に追送す」とある。これは使節船が琉球へ出航する前に、福建の長官が国境付近まで金銀酒器を届けて来たという記述であり、ここでも国境は尖閣でなく大陸の海岸を指す[154]
1616年、明国の「湘西紀行」「東西洋考」「盟鴎堂集」によれば、日本から台湾征討のため派遣された使者明石道友が漂流し、福建沿岸の東湧島(今の馬祖列島東端)に停泊した。その際、明国の偵察員に対し「大明の境界に入らず」(明国の領土には立ち入っていない)と述べた。明石は出航前にも、長崎代官から「天朝の一草一粒をも犯すを許さず」(明国の領土に立ち入るな)と厳命されていた。この史料では、日本が明国の領土を犯さないように、東湧から東が無主地だと事前確認した上で渡航したことを示している[155]。当時の尖閣航路は季節風を利用する帆船の一本道で、その西の出入口に東湧が位置するため、尖閣航路全体を無主地として日本側が確認していたことが分かる[155]。またこれは1895年の尖閣編入の際の明治政府の確認が決して一夜づけでなかったことを示す証拠でもあり、中国側の『盗んだ』などの主張は成り立たない[155]

明国の公式日誌『皇明実録』西暦1617年8月1日に収める皇帝への上奏文によれば、福建海道副使(沿岸警備と外交の長官)韓仲雍は長崎からの使者明石道友を逮捕・尋問した。韓仲雍は福建省の支配海域が福建最北端の台山島から最南端の彭山島まで六島の内側だと明石に告げた。いづれも沿岸島嶼であり、特に沿岸から約40kmの東湧島(現在の馬祖列島東端・東引島)は尖閣航路への入り口である。したがって尖閣航路上の全島嶼は明国支配外である。また韓仲雍は、六島線の外側の海は「華夷の共にする所なり」として、中国でも他国でも自由に使える海域だと説明した。したがって尖閣海域は公海であった。[156][157][158]

施永図編纂『武備秘書』巻二「福建防海図」(1621年〜1628年)にも釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼が含まれていた(鞠徳源、村田忠禧)[110] 施永図編纂『武備秘書』巻二「福建防海図」は、『籌海図編』の「沿海山沙図」と同一である。
正保年間(1644年1647年)の薩摩藩作成「琉球国絵図」(島津家文書)は奄美諸島、沖縄本島、先島諸島の3枚があり、宮古島の北にある珊瑚礁まで描かれている。しかし描かれたのは琉球と三十六島であり、釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼は含まれない(村田忠禧)[110] 中国側の主張は、中国の国境を無視して、琉球国の国境だけを問題にしている。琉球国境まで全て中国の領土であり、尖閣も含まれるという論法である。実際には福建沿岸及び台湾東北海岸に中国国境が存在したが、彼らの論法では完全に無視している。あらゆる史料にこの論法をあてはめただけの単純な話である。両方の国境の中間の尖閣は無主地であった[159]
1662年、冊封使張学礼は福州より出航し、その翌日に『使琉球記』に「白水一線有り、南北に横互す。舟子曰く分水洋を過ぎたりと。此れ天の中外を界する所以の者なり」と記述している。中外分水の箇所は福州から遠からず、清国の海域はそこで終わり、釣魚嶼は遠く清国の界外にある[160]
1683年、清の冊封使汪楫は赤嶼の東に「中外之界」があったと記録する。これは中国と外国との分界である[161]。赤尾嶼と久米島の間に「郊」とあり、これが「中外ノ界」であったと説明される[162] 1683年、清の冊封使汪楫の「観海集」の漢詩の題によれば、福州を出航し、福建沿岸約15キロメートルの東沙山(馬祖列島の一つ)で「閩山の尽くる処」(福建省の終わり)と記録しており、そこから東の尖閣も「中外之界」も共に清国外である[129][163][164][165]

 また「中外」は琉球の内外を指し、「中外の界」は赤嶼の東の遠からぬ海域であり、歴代史料の琉球の西界と一致する。歴代記録には琉球道教の風水観念「案山」「鎮山」等が載り、汪楫が聞いた「郊」も琉球道教の風水語である。「案山」は風水穴の前の低く小さな山のことで、那覇の前方(西方)の渡鳴喜島(土納己山)を指す。「鎮山」とは「表鎮」であり、各州の主山のうち外に近いものを指し(周礼賈疏に拠る)、黄河文明では海に近い泰山になぞらえ得るが、琉球では国境線付近の久米島(古米山)を指す。「郊」は城邦の内外の界線であり、琉球では領土領海の西端ラインである。また徐葆光の詩句に「中山の大宅、中央に居す」とあるのも琉球を中とする風水観念である[166][167][168]。また那覇の首里王府は東に坐し西に面する構造で知られ、1534年の陳侃の時からすでに怪事として記録されている。清国初期の琉球の首相蔡温は長篇の奏疏を書いて、これを北に坐し南に面するよう建て替えることに反対した。ここから分かることは、琉球の国のかたちは西を前としており、中(東)から外(西)に向かって順次「弁岳」(背後の鎮山)、「大宅」(那覇)、「案山」(土納己)、「鎮山」(久米島)、「郊」(中外之界)、「界地」(赤嶼)、尖閣(界外)と、整然と列する。これらの道教の術語を統一的に理解すれば、中外の界は琉球の内外であり、清国の内外ではない[169][170]。「使琉球雑録」によれば、汪楫は台湾海峽で南寄り針路を取ったが、大きく南にそれたので、最終的には琉球人の主張する北寄り航路を採用したが、琉球人の北寄り、福建人の南寄りというのは長年にわたる争いであった。熟練の琉球人は北寄りに東シナ海を直航したが、未熟な福建人は南寄りで台湾島など島づたいに進みたがったのであり、したがって汪楫の時に台湾海峽以東で針路を司ったのは琉球人であり、赤嶼附近で汪楫に「中外の界」を告げたのも琉球人であった[171]。赤尾嶼と久米島の間の「郊」は、久米島から琉球領土と記述したのではなく、航路の目標として記載したにすぎない[172]

 「郊」や「中外の界」は、国の内外の境という意味でなく、水域や海流の内外のことである[172]

 1534年「使琉球録」、1561年「重編使琉球録」、1683年「使琉球雑録」、1719年「中山伝信録」などの冊封琉球使の記録から解読できるのは久米島が琉球に属するということだけである[162]

台湾が清に編入されたのは1684年であるが、この時に尖閣諸島も編入された証拠はなく、同年清朝政府が編集した『福建通誌』や1838年の『重纂福建通誌』でも記載はない[162]。また清朝編入以降の台湾府誌でも、台湾の北端は鶏籠嶼とされ、花瓶嶼、棉花嶼、彭佳嶼さえも行政範囲ではなく、それより遠い尖閣諸島が編入されたのではない[162]
村田忠禧によれば、1719年の徐葆光「中山伝信録」では「姑米山」を「琉球西南方界上鎮山」とし、また「福州五虎門至琉球姑米山共四十更船」とある。1756年の周煌「琉球国志略」の「琉球国全図」でも琉球最南端は「由那姑」(与那国島)、最北端は「奇界」(喜界島)、西端は「姑米山」で、釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼は琉球に属しない島々は書かれていない[110]。また、「輿地」では姑米山を基準にして針路を取るとある[110]。また、潘相の『琉球入学見聞録』には久米島で琉球側から出迎えがあったと書かれており、これらの記録から琉球国の領域は久米島からであった[110]。また、釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼と、久米島との境界には海溝があり容易に渡航できないにも関わらずこの航路を使用したのはこれが政府公式の航路であったためで、中国の領海意識は明確である[110]

村田忠禧の主張は、中国の国境を無視して、琉球国の国境だけを問題にしている。琉球国境まで全て中国の領土であり、尖閣も含まれるという論法である。実際には福建沿岸及び台湾東北海岸に中国国境が存在したが、彼らの論法では完全に無視している。あらゆる史料にこの論法をあてはめただけの単純な話である。両方の国境の中間の尖閣は無主地であった[173]。 また村田忠禧のいわゆる政府公式の航路(釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼)とは、琉球人の案内に頼る航路であった [174]。琉球人はほぼ毎年のように尖閣航路を渡航し、熟練していたため、直線的航路を好んだ[175]

琉球国正史『中山世譜』(1724年改訂)では「明以来、中華人の称する所の琉球三山六六島なる者即ち是なり」とあり、三十六島までが領域である(村田忠禧)[110] 村田忠禧の主張は、中国の国境を無視して、琉球国の国境だけを問題にしてゐる。琉球国境まで全て中国の領土であり、尖閣も含まれるという論法である。実際には福建沿岸及び台湾東北海岸に中国国境が存在したが無視している。あらゆる史料にこの論法をあてはめただけの単純な話である。両方の国境の中間の尖閣は無主地であった[176]
1736年の『台海使槎録』では台湾の葛瑪蘭(宜蘭)の項目に「釣魚台」が載っており、今の宜蘭の所属領土である。釣魚台とともに載る「薛坡蘭」は尖閣の南北小島である。 『台海使槎録』では、台湾の葛瑪蘭(宜蘭)の項目に「薛坡蘭」(花蓮)とともに「釣魚台」が載っており、花蓮は宜蘭の外であり且つ当時の清国の外であるから、釣魚台も宜蘭の所属領土ではない[177]。薛坡蘭は現在の花蓮の地名「奚卜蘭」と同音の轉であり、諸史料では泗波蘭、薛波蘭、秀孤鸞、秀姑巒、芝波蘭、芝舞闌、薛波闌、繍孤鸞、秀孤鸞、秀姑蘭などに作る[178]

 また「釣魚台」は台湾島の鶏籠の北方にもあり、全魁《乘槎集》、周煌《海東集》、陳観酉《含暉堂遺稿》が証となる。『台海使槎録』の釣魚台は琉球航路上で記述されたものではなく、鶏籠の北方の釣魚台である可能性が高い。尖閣だとは言えない[179]。尖閣を台湾附属島嶼とする依拠はこの系列だけなので、附属島嶼説は根本から否定される。

 『台海使槎録』の釣魚台がどの島を指すかについては諸説ある。白壽彝『中国通史』(上海人民出版社1991)第十巻「台湾的開発」p.366では秀姑巒溪口だとする。程大学『台湾開発史』(衆文図書公司1991)p.114では台東だとする。安倍明義『台湾地名研究』(番語研究会1937)によれば台東の三仙台が古名釣魚台であり、黎蝸藤『釣魚台是誰的』(五南2014)p.69はこれに基づき『台海使槎録』の釣魚台は三仙台かも知れないと推測する。平野聡「尖閣は台湾の一部分ではないことを読み取れない中国」(wedgeインターネット版2015年04月27日)では、黎蝸藤の見解に賛同する[89],[90],[91]

1743年に清の乾隆帝の命により編纂された地理書『大清一統志』の第335巻には、台湾府の北東端が「鶏籠城」(現基隆市)と記され、また同本に収録の「台湾府図」にも「鶏籠城界」と書かれており、その更にはるか東北の尖閣群島は清国の界線外であることが明示されている[180][181][182]
1743年の署理福建巡撫・周学健の上奏文に、同年5月に琉球国の官船の出国記録があり、出国後に馬祖列島まで護送したと述べる(中国第一歴史档案館「中琉歴史関係档案」)。これは18世紀の「清朝通典」巻60と「大清会典」巻56、琉球朝貢船が帰国する時、福建の役人が朝貢使を辺境より送り出す、伴送して境を出でしむ、とする出国規定に合致する。尖閣は更に300キロメートル先なので、清国国境外である[154]
1756年、清国の冊封使全魁『乘槎集』の十四首の漢詩で西から東への航路を詠じる。その第五首で中国大陸が遠く消え去り、第六首で螺旋形(卷き貝)の如き釣魚台を遠望する。第七首で大洋を高速で進み、第八首で華夷の界を詠じ、第九首で黄尾嶼が赤尾嶼に連なると詠じる。詩中の「釣魚台」から黄尾嶼までの間は長距離であるが、尖閣魚釣島から黄尾嶼(久場島)までの間は30キロメートルの短距離であり、一致しない。これらの「釣魚台」は台湾北方三島を指す[183]
江戸時代1786年(天明6年)に日本の経世論家林子平によって書かれた『三国通覧図説』の付図『琉球三省并三十六嶋之図』[184][185]という地図で、九州を含む日本が緑色、琉球王国は薄茶色で彩色されているのに対して、尖閣諸島が中国大陸と同じ色で彩色されている[162]。これは日本においても尖閣諸島が中国の領土と認識されていた証である(井上清[109]村田忠禧)[110]
林子平作「琉球三省其三十六島之図」
三国通覧図説』の「琉球三省并三十六嶋之図」では[184][185]では、台湾を黄色、尖閣を桃色に分けて彩色しており、中国政府の「台湾の附属島嶼」という公式見解を否定している。中国政府は付属島嶼説を棄てるか、『三国通覧図説』を棄てるか、いづれか一つを選ばねばならない。[186]

また、台湾を中国と異なる黄色で彩色しており、大きさを沖縄本島の3分の1に描いており不正確な地図である[162]。また、台湾島内に記載された「台湾県」「諸羅県」「鳳山県」は、対岸の福建省に属する公式の行政府でありながら、大陸側は赤、台湾は黄であるから、色分けと公式領土とが全く一致しない[187]。また小笠原諸島蝦夷地はそれぞれ日本とは異なる桜色と橙色で彩色されている。しかも林子平は当時、仙台藩伊達家の家臣であって琉球王国の尚氏とは無関係であり、また同書は林子平が私人としての見解を示したものに過ぎず日本政府の見解を反映したものでもない[188]。幕府は『三国通覧図説』を「地理相違の絵図」として著者林子平を罰しており[189]。したがってこの地図の彩色と領土とは全く関係しない。なお林子平は注釈で『中山伝信録』(1722年)を参考に作成したと書いている[190]

   1804年,ドイツのシュティーラー「支那地圖」(Charte von China)ではラペルーズの探査記録にもとづき、釣魚臺を琉球の欄線中に置き、琉球と同じ黄色に塗る。該圖は地方行政單位で分色し、琉球欄中の薩摩國を赤色に塗りながら、釣魚臺は分色しない。明らかに琉球に歸屬させる意圖である[191]
 1810年日本山田連の《地球輿地全圖》では釣魚台・黄尾嶼・赤尾嶼を清国と同じ灰色に塗られている。  山田連と同時代の清国で刊行された多くの史料が清国台湾府の界域を東は大山(台湾島中央山脈)まで、北は鶏籠(今基隆)までと記録しており、釣魚台・黄尾嶼・赤尾嶼は全て清国の界外にあるため、山田連の色と衝突する。清国自身の記載を基準とすべきで、山田連の色は事実に符合しない。例えば1810年斎鯤『渡海吟』で鷄籠山(今基隆)を「鶏籠山に過ぐ中華の界」と詠んでいる。また、1744年初修『大清一統志』巻271台湾府及び1820年『嘉慶重修一統志』巻437台湾府によると「東のかた大山の番界に至り、北のかた鷄籠城の海に至る」と詠んでいる。[192]。また山田連の図ではマリアナ諸島も清国と同じ灰色である。
1819年陰暦9月18日、琉球国の王族向鴻基(今帰仁朝英)が公務を帯びた船で「魚根久場島」に至ったことが具志川家『向姓家譜』・「十二世尚鴻基」に見える。ユクン(ヨコン)・クバジマと読むべきで、尖閣諸島中の久場島もしくは魚釣島である[193]。その地で三日間飲み水を探し、地理を考察した。尖閣最古の上陸記録と考えられる。島の特徴は、碇泊地付近で淡水が見つからず、無人であり、周囲に他島が見えず、帆柱を失った状態で漂流して与那国島まで四日間で到達でき、島名によればクバが生育していることである[194]
井上清と琉球国史料「球陽」によれば、1845年6月にイギリス軍艦が花瓶嶼から釣魚島を測量しようとしたところ、福州の琉球館を通じて福建布政司(行政長官)に申請したことが記載されており、中国政府の許可がないと上陸できなかった[195] 測量申請書原文の島々は尖閣を限定していないし、尖閣を含むとしても、英国人が尖閣を琉球領とみなして琉球館に申請したのである[196]香港総督ヘンリー・ポッティンジャーは英国軍艦サマラン号に対して清領土に近づくことを禁止する命令を通達していた。これは1842年の清国と締結した南京条約で開港地以外でのイギリス軍の退却が定められていたからである。サマラン号はその上で台湾東北側の島々ならば問題ないと判断し、尖閣及び八重山諸島を測量した[197]。福建当局はイギリス軍がこの海域の島々を測量することを把握していたが、イギリスに条約違反として抗議しなかった。また「サマラン号航海志」では測量対象地を宮古列島(八重山を含む)として、台湾を対象としていないので、尖閣は八重山列島に属する扱いとなっており、尖閣の台湾付属説はイギリス史料によっても否定されている[198]
1845年に英艦サマラン号が尖閣海域に到達した際、八重山の人は「そんな島は知らない」と言った。八重山では尖閣諸島の存在は全く知られていなかった(劉江永説)。 1845年の英艦サマラン号の航海録では、魚釣島を指す「Hoa-pin-san」(花瓶山)について「八重山の水先案内人若干名は、この島名を以ては知らなかった」(not known by this name by our Pa-tchung-san pilots)、また「今までこの附近の諸地名の認定は急ぎ過ぎた」(the names assigned in this region have been too hastily admitted)と述べて、八重山の案内人が別の島名で尖閣の存在を認識していたことを示している[199]
台湾政府は、尖閣諸島は宜蘭に所属すると公式に発表している[131][200] 台湾の宜蘭の官製地理書「葛瑪蘭廳志」(1852年)の「蘭界外」(宜蘭境界の外)の項目で、釣魚台について述べており、中華民国主張の宜蘭所属との公式見解は誤りである[131][200]。「蘭界外」の部分に記載される「泖鼻山」もまた宜蘭界線上もしくは界外であり、「蘭界外」の條に界内の地は一つも含まれない[201]
1871年に発生した台湾出兵の事後処理のために清朝政府を訪れた日本の外務卿・副島種臣に対して清朝政府は責任を負わないと言明している。尖閣諸島よりも大陸に近い台湾ですら実効支配している認識がなかったのであるから、清朝が尖閣諸島の領有を認識していないのは明白。
1873年の地理書「全臺圖説」には、清国外の奇来(花蓮)の項目で釣魚台が記録されるので、尖閣は清国外である[131][200]。かつ「全臺圖説」の釣魚台は「臺海使槎録」(1736年)の記載にもとづき北方に位置するもので、台湾北方三島を指し、尖閣ではない[202]
1879年の琉球に関する日清交渉で琉球36島に尖閣諸島は含まれていないし、このことは日本も認めている[203] この時点で尖閣諸島は福建省、台湾府の行政範囲にも琉球国にも含まれず、無主地であった。交渉で尖閣諸島について明言されなかったことが中国に属することの証拠とはならない[203]。しかし1872年の琉球藩設置から1879年沖縄県設置にいたる琉球処分において、日本の内務省免許「大日本全図」(1879年、英文も作成)や、内務省地理局の「大日本府県分割図」で日本は領有意思を示している[204]
 1847(明治18)年・1885(明治18)年に古賀辰四郎が尖閣に上陸したというのは古賀自身の捏造である[205]。捏造とする根拠は、〔子〕、「借地願」では明治18(1885)年に上陸したと述べるが、「履歴」では明治17(1884)年に尖閣に人を派遣したと述べ、相矛盾する。〔丑〕、1884年に古賀は永康丸で尖閣に行ったとされるが、その年代に永康丸は未建造である。〔寅〕、古賀が那覇および石垣島に本店支店を開設した時期が史料により異なり、矛盾する。〔卯〕、1884年からアホウドリを捕獲しつづければ3、4年以内に減少したはずだ。〔辰〕、1885年の政府上陸調査では島中に人跡無しと述べるので、古賀が人を派遣しつづけた自述と矛盾する。〔巳〕、1896(明治29)年に至って伊澤弥喜太を案内人的業務で尖閣に派遣したが、それまで古賀が尖閣に進出して事業をつづけた以上、案内人は不要のはずである。

捏造とする根拠は全て成立しない。なぜなら、 〔子〕、1885年の「借地願」では鳥毛若干を採取と述べるが、最初の上陸だと述べない。派遣と書かずただ上陸と書くのは事業主として当然だ。「履歴」では1884年に上陸した後、更に人を派して鳥毛を採取と述べ、1885年「借地願」とよく一致する。 〔丑〕、1885年に尖閣に行ったとする永康丸は昭和40年代の論文の誤記である。 〔寅〕、古賀の那覇・石垣島の本店支店開設時期が矛盾する史料は後年の不確かなものだ。早期史料では詳略の差が有るのみで、矛盾は無い。 〔卯〕、古賀は1884年から海産物漁業を営んだのであり、当初アホウドリは試採したに過ぎないので、3、4年以内に減少することは有り得ない。 〔辰〕、1885年の政府上陸調査は魚釣島6時間であり、1884・85年の古賀雇員上陸は久場島であるから、魚釣島で人跡無しとするのは当然だ。しかも上海「申報」で1885年までに日本人が上陸した記録があり、人は確かに存在した。 〔巳〕、1896(明治29)年に伊澤弥喜太を派遣したのは海産物からアホウドリ事業に転ずるためであり、道案内人としてではない[206]

 1971年8月及び1972年1月の伊澤真伎の口述によれば、父伊澤弥喜太は1891年及び日清戦争後(1895年以後)に、尖閣諸島中の各一島(魚釣島及び久場島)に最初の上陸を果たし、そこには清国服の遺骸が存在し、清国の領土であった(劉江永新発見史料)[207]  伊澤真伎口述記録の1971(昭和46)年8月と翌年1月と各特徴は、〔甲〕伊澤弥喜太の尖閣上陸年度を、1971年口述では明治28(1895)年の日清戦争以後間もなくとし、1972年口述では記録により1891(明治24)年だとする。〔乙〕、1971年口述では尖閣が中国領か日本領か不明として、ただ筆録者の付言では中国領だとの意を暗示する。1972年口述では、「今考へてみると」島内に中国服の遺骸が有ったのだから中国領土だと自ら述べる。〔丙〕1891年でも1895年でも、遭難船救助および治療の任務で航行する途中、海藻の流れによって尖閣を見つけたと述べる。以上甲乙丙の特徴からみて言えることは、〔子〕ともに救助治療海藻とともに述べるので、上陸は二度でなく一度であり一島である。〔丑〕先に1895年以後上陸としたものを、翌年1月には史料にもとづき1891年と訂正している。〔寅〕中国服の遺骸は父の目撃として語られず、今考えた中での記述であるから、目撃証言でなく1972年の伝聞に過ぎない。以上子丑寅三点により、証言は不確かであり且つ遺骸は証言とは認定できない。このほか、高橋庄五郎「尖閣列島ノート」[208]には伊澤真伎の口述とほぼ同一の内容(上陸及び遺骸など)が述べられているが、情報源が誰とは明示されていない。しかし劉江永の発見により、高橋の叙述は伊澤真伎の不確かな口述に基づくものだったと分かる。そもそも1971年の口述は尖閣問題が表面化した後であるから無効である[209]

1895年の日本による尖閣諸島編入の有効性

国際法で言う先占の法理で領土編入の有効性が認められるとされる。古文書の島名は自動的に命名者の領土となるのか、議論の前提として中国側は自国が命名したと主張し、日本側は琉球人が漢文で命名した可能性が極めて高いと主張する[210]。しかし近代国際法に則り島の名前を記しただけでは何処の領土か不明であり実効支配していなければ無主地であるとされる。命名者不明の無主地であるならば先占の法理を適用し得るし、日本の1885年から1895年1月まで行われた編入の手続きはその手順に則っているのだから有効である、というのが日本側の主張である[211]。ただし、その最終決定は日清戦争中であった。

国際法判例においては、不明瞭な記録による間接的推定は認められず、課税や裁判記録といった行政、司法、立法の権限を行使した疑義のない実効支配の直接的かつ近代的な証拠が要求されている[212][213]

1895年の日本による尖閣諸島編入に関する争点
中国側の主張 日本側の主張
多くの文献に明らかなようにの時代から中国では知られていたのだから無主地でなく日本の先占は無効。 明国人が尖閣を知っていたのは琉球人の案内のおかげである。琉球側も明国側も永続的に実効支配し続けようという国家意思が見られない島については、無主地と判断するのが国際法上妥当である。
1880年日清修好条規追加条項で、日本と清国で琉球を分割しようとする分島改約問題が発生した。日本は宮古・八重山群島を清国領とし、沖縄群島以北を日本領とする案を提示したが交渉は決裂し、琉球帰属問題は未解決である(村田忠禧説)[110] 尖閣の東には久米島附近の琉球国領土線が存在し、尖閣の西には台湾島北端及び福建沿岸の中国領土線が存在した。日清兩國にとって領土線外の無主地であったから、分島改約案もカイロ宣言も適用できない[214]
日本政府は沖縄県に対して内々の調査を命じている。これは中国領と認識していたことを示す。 1885年から日本政府は現地調査を行い、尖閣諸島が無人島であるだけでなく清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重に確認した上で1895年1月14日の標杭建設の閣議決定によって正式に日本の領土に編入した。これは国際法の先占の法理にもとづく[211]。国内を調査するのに大々的に発表したり外国に報告する必要はないし、正式な領有宣言まで10年間以上も調査を行い、この間に中国など他国が尖閣諸島に全く関与していないことを確認している[215]
1885年10月21日井上馨外務大臣から山縣有朋内務大臣への書簡「沖縄縣久米赤島、久場島、魚釣島、國標建設ノ件」では清国政府を警戒させてはならないとあり、もし清仏戦争で劉銘伝がフランス軍を撃退できず、清国の台湾統治の弱体ぶりが明らかになっていたならば日本はこの段階で国標建設を実施していた可能性がある[110] 10月21日の書簡は、清が領有していると認識していたとは全く読み取れず、むしろ日本が丁寧かつ慎重に領土編入の手続を進めてきたかを示すものである[211]。また、すでに1885年10月9日山縣有朋内務大臣から井上馨外務大臣への書簡には「清国所属の証跡は少しも相見え申さず,かつ名称のごときは我と彼と各その唱うるところ異にして沖縄所轄の宮古八重山等に接近したる無人の島嶼にあり,同県において実地踏査の上国標建設の義差し支えなしと考える」とあり、明確に清の領有権を否定している[211]
 1893年6月、井澤弥喜太は八重山(石垣島)より胡馬島に向かう際、風に遭って漂流した。胡馬島(くばしま)は尖閣である。しかし福建に漂流し、福建の海防道員(長官)に保護され、「鹿児島から八重山に向かう途中で胡馬島に漂着し、付近の台湾に行ってから帰国しようとした」と供述した。そして日本の駐上海総領事館を経て日本に送還された。同年12月、外務大臣陸奥宗光の命により、上海領事館は井澤が「胡馬島に向かって航往する」中途で漂流して救助された事につき、福建道員に謝意を傳達した。福建道員からの返信では「胡馬島に向かって航往す」等の全文を引いて、国内各職に「呈報移行」(報告及び通知)することを承諾した。胡馬島は元々無人島で、かつ台湾に近いので、福建当局はそれが台湾北方三島でなければ尖閣列島中の一島だと判断できた。もし当局が胡馬島は尖閣だと分からなかったのなら、福建当局は尖閣付近の海域について何も知らなかったことになる。1885年、清仏戦争で基隆が戦場となり、基隆で日本軍がフランス軍と協力するという噂もあり、それ以後は日清の建艦競争もあり、清国は台湾の東北側海域に領土があればその動向に注目したはずである。しかし清国はこの事件で日本人が胡馬島に自由に渡航していることを知っても何の抗議も申し入れもしなかったので、尖閣付近を自国の領土と認識していなかったことが分かる[216]
井上清によれば、1894年(明治27)12月27日の内務大臣野村靖から外務大臣陸奥宗光に宛てた秘密文書「秘別第一三三号」がある(『日本外交文書』第23巻)。しかし、村田忠禧によれば「秘別第一三三号」としてアジア歴史資料センターに所蔵されているものは1895年1月12日の文書「標杭建設ニ関スル件」である[110]。これらの史料の背景について井上清は、1894年12月初め、日本の勝利は確実となり、伊藤博文首相は渤海湾口を要する威海衛を攻略し北洋艦隊を全滅させ、他日の天津北京への進撃路を確保し、他方で台湾にを占領するという威海衛攻略作戦台湾占領作戦を主張し、ここで釣魚諸島を奪取する絶好の機会とした、と解釈した[110] 外務大臣井上馨などの政府文書では、尖閣が清国国境に「接近してゐる」と明記する。尖閣の西に清国の国境線が存在し、尖閣がその外の無主地だと確認していたことが分かる。井上清らの主張とは全く逆に、日本がこの十年後に領有した正当性を示すのが政府諸文書である。歴史上、つねに明国清国の領土線外に存在した尖閣は、情勢を問わず中国と無関係である[217]
甲午中日戦争(日清戦争)に勝利した勢いで、その戦後処理を取り決めた馬関条約(下関条約1895年5月10日公布)になく、条約によらず不法に奪い取ったものである。したがって、釣魚台列島は中国に返されるべきである。 下関条約第2条に基づき、日本が清国から割譲を受けた台湾及び澎湖諸島に尖閣諸島は含まれないし、含まれるという解釈を根拠づけるものは何もない[211]下関条約には尖閣諸島の割譲は記されていない、従って条約締結以前から日本の領土であったと中国側も認めていたのであり、日清戦争で奪ったものではない(日本は下関条約の10年も前から尖閣諸島の調査、開拓を始めている)。また、東沙島を台湾(当時日本領)に編入しようとする日本の動きに対し、清国は1909年に抗議を行ったが[注 8]、尖閣諸島が日本に編入されたことを知っても抗議を行っていない。中国側が尖閣諸島を沖縄の属島とみなし、日本の領土であったと認識していたのは明白である。
下関条約の「台湾の附属島嶼」に尖閣が含まれており、尖閣は清国が日本に割譲した土地であるから、中国に返還すべきである。 下関条約で割譲できるのは、清国の統治する土地だけであり、清国は尖閣を統治していなかったので、地理的付属いかんを問わず法的に割譲する権限がない[218]。また、尖閣は清国台湾府の統治に属していなかっただけでなく、地理的にも付随していなかった。『臺海使槎録』などに述べる「釣魚臺」は台湾北方三島であり、尖閣ではない[179]

第二次世界大戦終結前までの管轄

第二次世界大戦終結前まで何処の管轄だったか、台湾か沖縄かについても争点がある。

第二次世界大戦終結前までの管轄
中国側の主張 日本側の主張
中華民国駐長崎領事・馮冕から石垣島島民への感謝状

1920年(中華民国9年)5月20日付け中華民国駐長崎領事馮冕による福建省恵安県の漁民遭難事件についての石垣村長への感謝状には、「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」と記載されている[211]

1937年から1940年の間に、台北州と沖縄県の尖閣諸島の漁場を巡る争いがあった。 1937年から1940年の「争い」とは、漁業権や一時的な防衛担当範囲のことであり行政区分では一貫して沖縄県に属しており、尖閣諸島が台湾に属していた事実はない[注 9]
1944年東京法院が尖閣諸島は台北州の管轄下にあるとの判決を下した。 東京法院のそのような判決は記録になく、存在しない。『臺灣日日新報』によれば、判決でなく和解案であり、尖閣より西側の東径122度を分界線とするもので、且つ和解案は実施されなかった[219]
日本統治時代末期に台湾防衛を担当していた高雄警備府長官を務めていた福田良三の証言によると、当時、釣魚島などの諸島は高雄警備府の管轄範囲内にあつた。

第二次世界大戦の戦後処理、条約、抗議時期に関する争点

第二次世界大戦の戦後処理についても対立している。現在事実上台湾を統治する中華民国政府も中華人民共和国も、連合国と日本との戦争状態を終結させた日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の締結に加わっていない(中華民国とはその後、日華平和条約を締結)。中華人民共和国政府はこの点を捉えて、この条約の合法性と有効性を承認しないという立場を取っている。

一方、日本政府は第二次世界大戦の戦後処理は妥当なものであり、尖閣諸島は1895年1月14日の編入以来一貫して日本が統治し続けてきた固有の領土であって、このことは国際社会からも認められている、としている。

第二次世界大戦の戦後処理、条約、抗議時期に関する争点
中国の主張 日本の主張
清国政府が締約した各種条約は帝国主義国家の不当な侵略の元で締約されたものであり、国家の継承の観点から承服できかねる点が多い。[要出典]
1943年カイロ宣言では、日本は中国東北部満州)や台湾、澎湖列島などを含める土地を返還すると規定している。釣魚台(尖閣諸島)はそれらの地域に含まれているのだから、返還されるべきである。 カイロ宣言上,尖閣諸島が台湾附属島嶼に含まれると連合国側が認識していたとの事実を示す証拠はない[211]。また、戦争の結果としての領土処理は平和条約に基づいて行われる。大戦後の日本の領土を法的に確定したのはサンフランシスコ平和条約であり,カイロ宣言やポツダム宣言は日本の領土処理について最終的な法的効果を持ち得ない[211]

そもそもカイロ会談では宣言文は出されておらずカイロ宣言と云われるものは実在しないので、カイロ宣言云々は無意味である。

中華人民共和国政府は日本国とのサンフランシスコ平和条約に参加していないのでこの条約に拘束されない(「非合法であり無効」の立場)。 1895年1月14日の編入以来、南西諸島の一部を構成するものであり、下関条約によって割譲された台湾および澎湖諸島には含まれていない。このことは尖閣がすでに日本の一部(沖縄県)を構成することを双方に了解していたことを示しており、中国が主張する「サン・フランシスコ平和条約は非合法であり無効」の立場あるいは平和条約に参加していないこととは無関係な事実であり日中共同声明の前提である。また、中華人民共和国政府はサンフランシスコ平和条約締結時から1970年代まで尖閣諸島に関して何ら異議を唱えなかったし、また異議を唱えてこなかったことについて何らの説明も行っていない[211]
米国国務省のマッククラウキーは「米国が返還したのは沖縄の施政権であるが、米国は施政権と主権が別個のものであると考える。主権について食い違いが起きた場合は当事国が協議して解決すべきである」と発言している。 中国が尖閣諸島を台湾の一部と考えていなかったことは、サン・フランシスコ平和条約第3条に基づき米国の施政下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実に対し何等異議を唱えなかったことからも明らかである。また、1946年の「連合国軍最高司令官総司令部覚書」667号「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」(SCAPIN667 (Supreme Command for Allied Powers Instruction Note No.677, January 29,1946))に同諸島が含まれている事実に対しても何等異議を唱えなかった。また米国施政下の1950年代から米軍が尖閣諸島の一部(大正島,久場島)を射爆撃場として利用したが中国側は何等異議を唱えなかった[211]。また、米国は日米安全保障条約第5条にもとづき1972年の沖縄返還以降,尖閣諸島は日本施政の下にあり,日米安保条約は尖閣諸島にも適用されると明確にしている[211]。また1971年のCIA報告書でも「尖閣諸島の主権に対する日本の主張は強力であり,その所有の挙証責任は中国側にある」と報告されている[211]
1952年の日華平和条約の交渉過程でも尖閣諸島の領有権は一切議論されなかった。これは尖閣諸島が日本領土であることが当然の前提とされていたためである[211]
1954年2月15日参議院水産委員会立川宗保説明員は「ヘルイ演習場と申しますのは、私どもどこかはっきりわかりませんが、想像いたしますのに、漁釣島だろうと思います」とのべ、1954年3月26日参議院大蔵委員会の伊関佑二郎政府委員も「私のほうもあの点は詳しいことは存じません」とのべ、この頃、日本政府も領土認識はこの程度であった[110] 1953年1月8日人民日報の「琉球諸島における人々の米国占領反対の戦い」記事で「琉球諸島は尖閣諸島を含む7組の島嶼からなる」と記載されている[211]
地図の記載のみをもって当時の中国政府が日本の尖閣諸島への支配を認めていたという根拠にはなり得ないし、同地図の注記には「中国との国境線の部分は,抗日戦争前の地図を基にしている」とある[211] 1958年に中国の『世界地図集』(1960年二刷)では「尖閣群島」を沖縄の一部として取り扱っている[211]。また、中国側が指摘する注記原文は「本図集中国部分的国界線根据解放前申報地図絵制(本地図集の中国部分の国境線は解放前の申報(中国の新聞)の地図を基に作成」とのみあり、具体的にどの部分が解放前のものかは不明であるし、そもそもこの地図では台湾を「中華人民共和国」の領土として記載しており,台湾の附属島嶼であると主張する尖閣諸島に関する記述だけを台湾が日本の植民地であった時代の表記で残すことは不自然である[211]
1969年に中華人民共和國の測繪總局が刊行した「分省地圖」は、尖閣群島を枠外に張り出して描いてをり、チャイナの領有を示す。石垣島は日本の領土なので枠外に張り出さず切斷されてゐる。(武漢大學の大學院生劉文祥の説、外交部が採用。)[220] 1969年の測繪總局圖は、海底油田情報が世に出た以後の製作であり、枠外に張り出したことは領有の根據とならない[221]。また、釣魚島列嶼ではなく尖閣群島と明記し、日本式に赤尾嶼まで尖閣群島に含めてゐる。且つ釣魚島でなく魚釣島と明記してゐる。[222]
1885年から1895年にかけて計画された久場島魚釣島標杭建設は、下関条約で台湾を得たため忘れられており、石垣市が地籍表示のための標柱を建てたのは1969年5月10日、また琉球政府の領有宣言は1970年9月10日であり、石油が産出すると聞いて日本政府はあわてて領有権を主張しだした[110] 中国政府と台湾当局は、東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化した1970年に入って以降、初めて尖閣諸島の領有権を主張し始めた[211]。石油目的なのは明らかであり、これは1972年7月28日と9月27日の周恩来発言からも明らかである[注 10]
日本は実効支配していない。現在も無人島である。 沖縄返還後、領海内で違法操業を行う外国漁船の取締りなど警備・取締りを実施している。民有地である久場島は土地所有者による固定資産税の納付、大正島や魚釣島等は国有地としての管理をしている。久場島と大正島は1972年以降、日米地位協定に基づき演習用地として米国に提供している。ほか、1979年には沖縄開発庁による利用開発調査(仮設へリポートの設置等)、1981年の沖縄県による漁場調査、1994年の環境庁のアホウドリ航空調査など調査を実施しており、実効支配している[211]
日本の尖閣諸島における立場とやり方は,世界反ファシスト戦争の勝利の成果に対する公然たる否定であり,戦後国際秩序と国連憲章の趣旨・原則に対する深刻な挑戦である[211] 日本による尖閣諸島の領有権の取得は第二次世界大戦とは何ら関係がない[211]。また、サンフランシスコ平和条約に基づいた戦後処理に対して異議を申し立てている中国こそが戦後国際秩序への深刻な挑戦を行っている[211]

尖閣諸島の領有が影響する問題

尖閣諸島の領有が影響を与える問題が存在する。

尖閣諸島が中国領
尖閣諸島が日本領

尖閣諸島年表

明治維新以前

鄭若曾の『琉球図説』(16世紀)。「琉球国図」の中に釣魚嶼が描かれている。
  • 1350年:琉球で英祖王統が滅び三山時代が始まる。
  • 1368年国の建国。
  • 1372年:明国が楊載を招諭使として琉球に送り、それに応じ琉球中山王察度朝貢。この時、釣魚嶼(尖閣)の記録は無い。以後、琉球から明国、清国に進貢船などの使船が241回も派遣される。これに対し明国、清国側は琉球へ23回の冊封使しか派遣していない[223]
  • 琉球の統一
  • 1461年:明国勅撰『大明一統志』(だいみんいっとうし)に、福建省と浙江省の東端が「海岸まで」と明記される。一例として福建省福州府の條に曰く「東のかた海岸に至る一百九十里」と。百九十里(現在の約百キロメートル)は、福州の本府所在地から海岸までの距離である。他の各地も同樣であり、明国の領土は海岸までであったことを示す[128]。『大明一統志』はその後何度か増補重刊された。
  • 1534年:琉球の貿易船が明国に入港、更に琉球から迎接船が入港、琉球人の水先案内人が同船し明国の琉球冊封使陳侃(ちんかん)を琉球に案内した。その報告書『使琉球録』に「(五月)十日、南風甚だ迅く、舟行飛ぶが如し。然れども流に順ひて下れば、(舟は)甚だしくは動かず、平嘉山を過ぎ、釣魚嶼を過ぎ、黄毛嶼を過ぎ、赤嶼を過ぐ。目接するに暇あらず。…(略)…十一日夕、古米山(今の久米島)を見る。乃ち琉球に属する者なり。夷人(冊封使の船で働いている琉球人)舟に鼓舞し、家に達するを喜ぶ。」とある(尖閣諸島は中国領と主張する歴史家の井上清による)[109]
  • 1558年:『歴代寳案』巻三十に、「琉球國王が天使(冊封使)の船を導引して琉球國に到らしむ」と記録される。この年福建に渡航して、1561年の明国の琉球使節郭汝霖を導引したことを指す[224]
  • 1560年:『歴代寳案』巻三十に、「琉球國王が天使(冊封使)の船を導引して琉球國に到らしむ」と記録される。この年福建に渡航して、1561年の明国の琉球使節郭汝霖を導引したことを指す[224]
  • 1561年:明国の琉球使節郭汝霖が上奏文[225]で「嘉靖40年5月28日に洋行を始め、行きて閏5月3日に至り、琉球の境に渉る。界地は赤嶼と名づけられている」と記す[139]。「赤嶼(せきしょ)」は現在の大正島。同じ郭汝霖の『重編使琉球録』によれば閏5月6日の午刻でもまだ久米島に到達しない[226]
  • 1562年:明国の冊封使・郭汝霖の報告書『重編使琉球録』[227]に「閏五月初一日、釣嶼を過ぐ。初三日、赤嶼に至る。赤嶼は琉球地方を界する山なり。再一日の風あらば、即ち姑米山(今の久米島)を望む可し」とある[109][228]
  • 16世紀:明国の鄭若曾[229]著『琉球國説』の「琉球國図」に琉球国及び福建省とともに「釣魚嶼」が描かれる。
  • 1570年:長崎開港。
  • 1570年頃:手書きの航路書『順風相送』の末尾附近に「釣魚嶼」が記載され[230]、また「長崎に佛郎蕃(ポルトガル人)がゐる」及びマニラの「銃城」(要寨)が記録される[231][232]
  • 1573年:マニラ要寨が建設される。
  • 1579年:蕭崇業「使琉球録」に曰く、「彼の國の夷船、汛期なるを以て、宜しく境上に候ふべし。乃ち戊寅(西暦1578)年、獨(ひと)り爽(たが)ひて至らず」と。汛(しん)とは季節風である。年末の季節風に乘って琉球船が福建に來航し、翌年使節船が出航するまで「境上」で伺候するのが通例だったという意である[154]
  • 1606年:夏子陽「使琉球録」に曰く、「渡海所用の金銀酒器、共じて二百三十餘兩を以て、これを境上に追送す」と。使節船が琉球へ出航する前に、福建の長官が国境附近まで金銀酒器を屆けて來たという記述である。尖閣でなく大陸の海岸を指す[154]
  • 1616年:明国の「湘西紀行」「東西洋考」「盟鷗堂集」によれば、元和二年(1616年)、日本から台湾征討のため派遣された使者明石道友が漂流し、福建沿岸の東湧島(今の馬祖列島東端)に停泊した。その際、明国の偵察員に対し「大明の境界に入らず」(明国の領土には立ち入っていない)と述べた。明石は出航前にも、長崎代官から「天朝の一草一粒をも犯すを許さず」(明国の領土に立ち入るな)と厳命されていた[155]
  • 1617年:明国の公式日誌『皇明実録』の中の皇帝への上奏文として納められている8月の記述に、海道副使(沿岸を守る地方長官)韓仲雍が長崎からの使者(明石道友)を逮捕・尋問した際、明国の支配する海域が沿岸から約40kmの東湧島(現在の馬祖列島東端・東引島)など島々を明示し、その外側の海は「華夷の共にする所なり」とし中国でも他国でも自由に使える海域だと明石道友に対して説明したとある[233][234]
  • 1635年頃: 鎖国以前の長崎〜呂宋間の朱印船航路を記録した「寛文航海書」(佐倉、国立民俗学博物館蔵)に、「レイシ島から南南西に進むと與那國島に至る」と記載される。レイシ島は尖閣諸島である[235]
  • 1644年国が明国を滅ぼし中国を支配する。
  • 1662年:冊封使張學禮は福州より出航し、翌日の記載に曰く「白水一線有り、南北に横亙す。舟子曰く分水洋を過ぎたりと。此れ天の中外を界する所以の者なり」と(使琉球記)[160]
  • 1683年:6月、国の汪楫が福州を出航し、福建沿岸約15キロメートルの東沙山(馬祖列島の一つ)で「閩山の盡くる處」(福建省の終り)と記録して[236]、その後尖閣航路を通過して琉球国に至った。
  • 1683年末 台湾西南部沿海地區が武力により清国の統治下に這入る。
  • 1650年:羽地按司朝秀(のちの向象賢)が著書『琉球国中山世鑑』で釣魚諸島と表記[109][237]。ただし、陳侃の『使琉球録』からの航路記事を抄録したもの[109]
  • 1686年:清国の冊封使・汪楫の報告書『使琉球雑録』巻五に、「(康煕廿二年六月)二十四日(1683年7月18日)の天明に及び、山を見れば、則ち彭佳山なり…辰刻に彭佳山を過ぎ、酉刻に釣魚嶼を遂に過ぐ。…二十五日、山を見る、まさに先は黄尾後は赤尾なるべきに、何も無く赤嶼に遂至す、未だ黄尾嶼を見ざる也。薄暮、郊(原註:或は溝に作る)を過ぐ。風涛大におこる。…之を久しうして始めてやむ。(汪楫は)問ふ、『郊の義は何に取れるや?』と。(相手は)曰く、『中・外の界なり』と。」とある。
  • 1708年:琉球士族、唐名程順則大和名・名護親方寵文、1663年 - 1734年)の著した『指南広義』(1708年)に「釣魚台」「赤尾嶼」「黄尾嶼」「姑巴甚麻」の表記があるが[109]、姑米山(久米島)を「琉球西南方界上鎮山」と記し、釣魚島・黄尾嶼・赤尾嶼は琉球境内に組み入れていない。[238]
  • 1717年康煕帝イエズス会の宣教師に命じて1699年から中国全土で大規模な測量を行い作製させた初の近代的地図『皇輿全覧図』には台湾西海岸や澎湖諸島は描かれているが、台湾東海岸も尖閣諸島も描かれていない。
  • 1743年乾隆帝の命で編纂された地理書『大清一統志』の第335巻と同本収録の「台湾府図」において、それぞれ「北至鶏籠城」「鶏籠城界」と書かれており、鶏籠城(現・基隆市)が台湾の北東端と記されている。この書において、尖閣諸島は台湾に含まれていない[180][181]
  • 1743年の署理福建巡撫・周學健の上奏文に、同年五月に琉球国の官船の出国記録があり、出国後に馬祖列島まで護送したと述べる(中国第一歴史档案館「中琉歴史関係档案」)[154]
  • 1756年:清國の册封使全魁『乘槎集』の十四首の漢詩で西から東への航路を詠じる。その第五首でチャイナ大陸が遠く消え去り、第六首で螺旋形(卷き貝)の如き釣魚臺を遠望する。第七首で大洋を高速で進み、第八首で華夷の界を詠じ、第九首で黄尾嶼が赤尾嶼に連なると詠じる。詩中の「釣魚臺」から黄尾嶼までの間は長距離であるが、尖閣魚釣島から黄尾嶼(久場島)までの間は30kmの短距離であり、一致しない[239]
  • 1785年:日本の学者・林子平(はやし しへい)によって書かれた『三国通覧図説』という書物に付属している『琉球三省并三十六嶋之圖』という地図で、尖閣諸島が台湾と異なる色に塗られている。更に当時の福建省台湾府の台湾県・鳳山県・諸羅県は中国福建省とは異なる黄色で塗られている[184][185]
  • 1804年:ドイツのシュティーラー「支那地圖」(Charte von China)ではラペルーズの探査記録にもとづき、釣魚臺を琉球の欄線中に置き、琉球と同じ黄色に塗る。該圖は地方行政單位で分色し、琉球欄中の薩摩國を赤色に塗る[240]
  • 1819年:具志川家『向姓家譜』・「十二世尚鴻基」に[241]よれば、この年の陰暦九月十八日、琉球國の王族向鴻基(今歸仁朝英)が公務を帶びた船で「魚根久場島」に至り、三日間飲み水を搜した。更に帆柱を失った状態で漂流して與那國島まで四日間で到達した[242][243]
  • 1843年11月30日、イギリス軍艦H.M.S.サマラン号が八重山に寄港し測量する。
  • 1844年1月、サマラン号が宮古島に寄港し測量する。
  • 1845年6月、英艦サマラン号が福州の琉球館に島々の測量を申請した後、与那国、石垣、尖閣諸島を測量して那覇に入港、8月6日には長崎に入港する、その後再び那覇に入港[244]
  • 1845年:英艦サマラン號が尖閣海域に到達した際の航海録では、魚釣島を指す「Hoa-pin-san」(花瓶山)について「八重山の水先案内人若干名は、この島名を以ては知らなかった」(not known by this name by our Pa-tchung-san pilots)、また「今までこの附近の諸地名の認定は急ぎ過ぎた」(the names assigned in this region have been too hastily admitted)と述べる[245]
  • 1852年:台湾の宜蘭の官製地理書『葛瑪蘭廳志』の「蘭界外」(宜蘭境界の外)の項目で、釣魚台について述べる[246]
  • 1859年:この年から3〜4年の間に、琉球国の通事大城永保は、清国へ2〜3度航海した帰路、魚釣島・黄尾嶼(久場島)、赤尾嶼(大正島)を実見した。そして南方へ通商の途中で魚釣島に接岸して、これら三島の地勢・植物・鳥類を調査した。石澤兵吾が1885年(明治18年)9月21日報告書に示されている[247]
  • 1867年以後、英國海軍刊『The China Sea Directory』第四卷の諸版本で、尖閣は宮古諸島に屬する[248]

明治維新から第二次世界大戰まで

  • 明治維新
    • 1868年:ドイツの「シュティーラー氏ハンドアトラス」(1868年製作)で、尖閣の西側に境界線を描く[249]
    • 1868年1月3日王政復古、中央政府が江戸幕府から朝廷へ移る。
    • 1869年7月25日版籍奉還、土地と人民は明治政府の所轄する所となるが各大名は知藩事として引き続き藩の統治に当たる。
    • 1871年8月29日、在東京の知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じ、藩は県となって知藩事は失職。旧知藩事へ東京への移住を命じる。
    • 1877年西南戦争
  • 1869年:ドイツのシュティーラー製「支那東部及び高麗圖」(Karte vom östlichen China & Korea)で尖閣の西側に界線を描く[250]
  • 1871年牡丹社事件発生。台湾南部に漂着した琉球国宮古島の住民66人の内54名が「牡丹社」という排湾族原住民に殺害される。明治政府は清国に対して事件の賠償などを求めるが、清国政府はこの地域は管轄外として拒否。
  • 琉球処分
    • 1872年9月14日琉球王国を廃止して琉球藩を設置。
      • 内務省地理局発行の『大日本府県管轄図』に魚釣島が記載される。松井忠兵衛が作成し内務省の版権を得て刊行された『大日本全県地図』及び英文の『大日本全図』でも尖閣諸島は琉球諸島に含められ、和平島(釣魚島)、赤尾嶼、黄尾嶼などが日本領土として記載される。柳田赳編作成した『大日本全図』でも尖閣諸島は日本領土として記載される。
    • 1879年3月11日琉球藩の廃止を布達し、鹿児島県に編入。同年4月4日に沖縄県を設置。国王(藩主)であった尚泰は侯爵に叙せられ、東京への定住を命ぜられる。
    • 琉球の領有権を主張した清国に対し、日本は日清修好条規への最恵国待遇条項の追加とひき替えに旧琉球王国南部の先島諸島の清国への割譲を提案し仮調印したが、李鴻章の反対により琉球帰属問題が棚上げ状態になった。(日清戦争により撤回)
  • 1873年、台湾知府周懋琦(しうぼうき)著の地理書「全臺圖説」の奇來(花蓮)の項目に、「釣魚台」が記録される[251]
  • 1874年:前年の1873年、日本政府は牡丹社事件について清国に再度問いただすが、台湾先住民は「化外」であり、清国の統治のおよばぬ領域での事件であると回答してきたので台湾出兵を行い牡丹社など事件発生地域を占領する。清国は日本軍の出兵を保民の義挙と認め、遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(テール)、戦費賠償金40万両の計50万両を日本側に支払い、生蕃取締を保証したので日本軍撤退。
  • 1875〜1878年 清国開山撫蕃の武力征討により、台湾東部の奇來(花蓮)が清国の統治下に這入る。
  • 1884年
    • 福岡県出身の実業家・古賀辰四郎が久場島に人を派して探検させた後、開拓に着手させる。
  • 1885年
    • 清國への朝貢船乘組員大城永保が1859年以後に尖閣諸島に接岸し、無人島であることを調査し、1885年に至って沖縄県庁の石澤兵吾に報告した[252]
    • 9月6日、上海の新聞『申報』は、英字新聞Shanghai Mercury(文匯報)を引用し、臺灣の東北側の小島に日本人が上陸し、日章旗を立てたと報じた。
    • 古賀辰四郎が尖閣諸島での事業展開のため沖縄県に借地契約を請求。古賀の請求を受けて沖縄県庁は内務省に相談。内務省は沖縄県庁にこの島の調査を内々に命令する。
    • 9月22日:沖縄県令・西村捨三は、「久場島、魚釣島は、古来より本県において称する島名ではあり、しかも本県所轄の久米・宮古・八重山等の群島に接近している無人の島であるので沖繩県下に属しているのであるが、『中山伝信録』(中国の古文書)に記載されている釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼と同一のものではないと言いきれないので、慎重に調査する必要がある」と、内務省に報告。雲出丸による現地調査の結果を追って伝えると連絡。
    • 雲出丸により尖閣列島および大東島の調査
    • 10月9日:内務卿山縣有朋は実地調査の結果を受け「清国所属の証拠は少しも見えない」と外務卿井上馨に報告。
    • 10月21日:外務卿井上馨は、「清の新聞が自国の領土である花瓶嶼や彭隹山を日本が占領するかもしれないなどという風説を流していて、清の政府や民衆が日本に対して猜疑心を抱いている。此んな時に、久場島、魚釣島などに国標を建てるのは徒に不安を煽るだけで好ましくない」として「国標を建て開拓等に着手するは、他日の機会に譲り候方然るべしと存じ候」と山縣に回答。
    • 11月5日:沖縄県令は、「出雲丸報告書で熟考すると、最初は何方に属するかは甚だ決断しないで上申したが、今回の復命及び報告書によれば、本県の所轄と決定した。」として本県所轄の標札建設を上申した。
    • 11月24日:沖縄県令は国標建設について、「清国との関係がないともいえず、万一不都合が生じては申し訳ないので、どうするべきか早く指揮してほしい」との上申書を内務卿へ提出。
  • 1886年長崎事件
  • 1887年:『スタンフォード世界地理圖册』(Stanford's London atlas of universal geography)の「支那」(China)で、尖閣の西方に明治元年のシュティーラー圖と異なる形態の界線を描く[253]
  • 1887年:軍艦「金剛」の発着記録によれば同艦は水路部測量班長・加藤海軍大尉を乗船させ,同年6月に那覇から先島群島(尖閣諸島方面)に向かい宮古、八重山を調査。尖閣列島付近を通過。[254]
  • 1889年及び1892年,ドイツの百科全書《Meyers Konversations-Lexikon》が釣魚島の西側で界線を描く[255]
  • 1890年1月13日:沖縄県知事・丸岡莞爾が国標を建てる事を国に要請。
  • 1890年:絲滿村民78名が尖閣に上陸し、三ヶ月間に亙り巨額の漁利を得た。沖繩縣廳はこれに對して聽き取り調査を行なった[256]
  • 1891年:熊本県の伊沢矢喜太が魚釣、久場島に沖縄漁民とともに渡航し、海産物とアホウ鳥を採集する。
  • 1892年軍艦「海門」が尖閣列島を調査。[要出典]
    • 沖縄群島探検并復命書:海軍省の公文備考・艦船下水路兵員巻4の軍艦海門沖縄群島探検并復命書の中で、沖縄県知事の丸岡莞爾が久米赤島、久場島、魚釣島の三島を調査未済島嶼(調査の済んでいない島)として報告しており、[257]海軍側の調査の必要性に関する質問に対し沖縄県側が「久米赤島・魚釣島・久場島三島は先の踏査不十分のため右二島探検の序を以て今一度探検ありたしとの主意に外ならず」と回答した記述がある。[258]また、この際の航海図も海門が北大東島と南大東島とラサ島(現・沖大東島)を調査し、尖閣諸島は調査していない事を示している。
  • 1893年:花本外三名が久場島に赴く。
  • 1893年:伊沢矢喜太が再び赴き海産物とアホウ鳥を採集する。
  • 1893年:6月、井澤彌喜太は八重山(石垣島)より「胡馬島に向かって航往」する際、風に遭って漂流し、附近の臺灣に行ってから歸國しようとした。胡馬島(くばしま)は尖閣である。しかし福建に漂流し、福建の海防道員(長官)に保護され、日本の駐上海總領事館から日本に送還された。同年12月、外務大臣陸奧宗光の命により、上海領事館は井澤が「胡馬島に向かって航往する」中途で漂流して救助された事につき、福建道員に謝意を傳達した。福建道員からの返信では「胡馬島に向かって航往す」等の全文を引いて、國内各職に「呈報移行」(報告及び通知)することを承諾した[259]
  • 1893年11月2日:沖縄県知事・奈良原繁が国標を建てる事を国に要請。
    • ※時期は確定できないが、このころ、古賀辰四郎による開拓が本格化。船着場や鰹節工場を建設。
  • 1894年
    • 5月12日:沖縄県知事の奈良原繁から内務省県治局長の江木千之に宛てた尖閣諸島の調査報告である「秘第12号ノ内 復第153号 内務省県治局長宛書簡」の中で「十八年中県属警部等派出踏査せしめ候。以来更に実地調査致ささるを以て確報難、」(「明治18年(1885年)の県属警部による踏査以来実地調査を行っていないため正確なことは報告できない」)とする記述や、「該島に関する旧記書類及我邦に属せし証左の明文又はロ碑の傳説等も無、」(「該島に関する旧記書類および我国に属せし証拠の明文又は口碑の伝説等もこれ無し」)との記述がある。[260]
    • 7月朝鮮を巡る対立から日清戦争が勃発。
    • 12月15日:標識建設について、「島は別に従来何れの領土とも決まっていない。地形上沖繩群島中の一部と認めるべきは当然の義」として、閣議提出が上伸された。
  • 1895年
    • 1月11日:外務大臣・陸奥宗光は、内務大臣・野村靖に国標を建てることに同意すると伝える。
    • 1月14日:日本政府が尖閣諸島の沖縄県への編入を非公開の閣議で決定し、正式に日本領とした。しかし、この決定は尖閣諸島を今まで領土とした国がないことから周辺国には特に伝えられなかった。
    • 1月21日:内務大臣から沖縄県知事に魚釣、久場両島に沖縄県所轄の標杭を建てるよう指令。
    • 4月17日日清講和条約(下関条約)が締結され終戦。清が台湾と澎湖諸島を日本に割譲。
    • 6月10日:古賀辰四郎が「官有地拝借願」を内務省に提出。
  • 1896年:日本政府が古賀辰四郎への30年の無償貸与を許可。
  • 1900年:沖縄県師範学校教諭黒岩恒が「尖閣列島」と命名する(尖閣諸島は中国領と主張する歴史家の井上清による)[109]
  • 1912年中華民国が樹立され清が滅亡。
  • 1918年:古賀辰四郎、死去。事業は息子の古賀善次が継承。
中華民国駐長崎領事・馮冕から石垣島島民への感謝状
  • 1920年:中華民国駐長崎領事・馮冕より魚釣島に前年漂着した遭難者(福建省恵安の漁民)の救護に対し、当時の石垣村長・豊川善佐、石垣村衛生係雇・富田孫伴こと玉代勢孫伴(たまよせそんばん)、尖閣諸島を開拓した古賀辰四郎の子息の古賀善次らに感謝状が贈られる。それには尖閣諸島のことが「日本帝國沖繩縣八重山郡尖閣列島」と明記されていた。この感謝状は全部で4通あった。中国側からの通報によれば7通という説もあるようだが、確認はされていない。現在4通の内の1通は石垣市立八重山博物館に寄贈され現物が保管されている。またこれとは別に、手が加えられていない(八重山博物館のものは掛け軸にする際に周囲が切断されている)当時の石垣村長である豊川善佐宛の感謝状が現存していることが2010年11月28日に判明している[261][262]。これにより2通目の感謝状の現存が確認された。記録上は、この1919年に救助された漁民が尖閣に初めて上陸した中国人である。
  • 1932年:魚釣島、久場島、南小島、北小島の4島が古賀に対し有償で払い下げられる。
  • 1940年:古賀が事業継続を断念。尖閣諸島は無人島になる。台湾と那覇を結ぶ航空機「阿蘇号」が魚釣島に不時着する事故が発生[263][264]
  • 1945年8月15日:日本、ポツダム宣言を受諾。

第二次世界大戦以後

  • 1946年1月29日:「連合国軍最高司令官総司令部覚書」677号[265]により、尖閣諸島を含む南西諸島の施政権を日本から連合国に移管。
  • 1949年中華人民共和国が建国され中華民国は台湾へ逃れる。
  • 1950年
    • 4月より琉球大学高良鉄夫による「高良学術調査団」が、尖閣列島探訪、生態調査を行う。上陸は以後1968年7月まで5度に渡る[266]
    • 5月15日:中華人民共和国外交部が「対日和約(対日講和条約)における領土部分の問題と主張に関する要綱草案」という外交文書を作成した(2012年12月27日の項目を参照のこと)。
    • 11月頃、伊良部島の漁師たちが、南小島にカツオの加工所を造り漁師や女性従業員ら計22人が最大3か月間暮らす。
  • 1951年9月8日日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)調印。
  • 1952年
    • 2月29日:この日に公布された琉球列島米国民政府の米国民政府布令第六十八号「琉球政府章典」の第一条において、「琉球政府の政治的及び地理的管轄区域は、左記境界内の諸島、小島、環礁、及び領海とする。北緯二八度東径[注 11]一二四度四〇分の点を起点として北緯二四度東径一二二度、北緯二四度東径一三三度、北緯二七度東径一三一度五〇分、北緯二七度東径一二八度一八分、北緯二八度東径一二八度一八分の点を経て起点に至る。(改正五)」としており、尖閣諸島はこの境界内にあるため地理的管轄区域に含まれる[267][268][269]
    • 4月28日:日本国との平和条約発効。条約第3条により尖閣諸島を含む南西諸島がアメリカ施政下に置かれる。アメリカ軍が大正島(1956年4月16日以降アメリカ海軍の艦砲と爆撃の射的して使用)および久場島(1955年10月以前はアメリカ空軍が、以降はアメリカ海軍が使用)を実弾演習地域として使用[270]。同日、日華平和条約調印。
  • 1953年
    • 1月8日中国共産党中央委員会機関紙『人民日報』が資料欄において、「琉球群島人民のアメリカによる占領に反対する闘争」と題した記事を掲載。尖閣諸島を日本名で「尖閣諸島」と表記し、琉球群島(沖縄)を構成する一部だと紹介する。
    • 12月25日奄美諸島の日本返還に伴い、アメリカの施政権下にある琉球列島の地理的境界を再指定するため、1953年12月19日に再指定され、同年11月24日に遡及施行された、同年12月25日付の琉球列島米国民政府の米国民政府布告第二十七号「琉球列島の地理的境界」の第一条において、「琉球列島米国民政府及び琉球政府の管轄区域を左記地理的境界内の諸島、小島、環礁及び岩礁並びに領海に再指定する。北緯二十八度・東経百二十四度四十分を起点とし、北緯二十四度・東経百二十二度、北緯二十四度・東経百三十三度、北緯二十七度・東経百三十一度五十分、北緯二十七度・東経百二十八度十八分、北緯二十八度・東経百二十八度十八分の点を経て起点に至る。」としており、尖閣諸島はこの地理的境界内にあるため管轄区域に含まれている[271][118][272][273][274] [275]
  • 1955年
    • 3月2日:尖閣諸島魚釣島近海で中華民国旗を掲げたジャンク船2隻による第三清徳丸襲撃事件が起こる。第三清徳丸の船員9名中2名が射殺され4名が行方不明となる。
    • 3月16日:この日に公布された琉球列島米国民政府布令第百四十四号「刑法並びに訴訟手続法典」の第二部罪・第一章定義の九(すなわち二、一、九)において「本法にいう「全琉球列島領域」とは、左記境界内のすべての土地、岩石、岩礁、砂洲及び海をいう。北緯二十八度・東経百二十四度四十分の点を起点として北緯二十四度・東経百二十二度の点北緯二十四度・東経百三十三度の点北緯二十七度・東経百三十一度五十分の点北緯二十七度・東経百二十八度十八分の点及び北緯二十八度・東経百二十八度十八分の点を経て起点に至る。」としており、尖閣諸島はこの境界内にあるため全琉球列島領域に含まれている[276][277]
  • 1958年11月:北京の地図出版社、『世界地図集』発行。尖閣諸島を日本領として扱い「尖閣群島」と日本名で表記。
    • これに対して人民日報の特約論説員の劉江永は2012年9月6日付けの人民日報の中で「この地図帳の扉ページには『中国の一部国境線は抗日戦争前の申報の地図に基づき作成した』と明記してある。よってこの地図は当時の中国の立場を代表したものではない。1956年に中華人民共和国地図に基づき作成された『世界分国図』の日本の版図には、いわゆる『尖閣諸島』は含まれていない。」と反論した[278]
  • 1963年5月:アホウドリの生息調査団が尖閣諸島を調査。アホウドリは居なかったが海鳥の楽園であるとともに、台湾漁民が多数不法停泊していることが明らかになる。
  • 1965年10月:中華民国国防研究院、『世界地図集第1冊東亜諸国』初版出版。尖閣諸島を日本領として扱い「尖閣群島」と日本名で表記[279]
  • 1968年
    • 6月:5年ぶりに環境調査が行われたが、台湾漁民による乱獲で海鳥が激減していたことが判明。
    • 8月12日:台湾のサルベージ業者が南小島で沈没船解体作業を琉球政府の入域許可を得ず行っていたことが発覚。退去させられたうえに、再度入域許可を得た上で残りを作業を続けたが、この措置に対し中国側および台湾側から抗議は無かった。
    • 10月6日:台湾最大紙『聯合報』が記事「琉球尖閣諸島 我国の漁船操業禁止[280]」を掲載。
    • 10月12日 - 11月29日:日本、中華民国、大韓民国の海洋専門家が国連アジア極東経済委員会(ECAFE)の協力の下に東シナ海一帯の海底を学術調査。海中放電(スパーク)の衝撃を震源にした地震探査法での簡易的な海底調査の結果、「東シナ海の大陸棚には、石油資源が埋蔵されている可能性がある」ことが指摘されるが、後の1994年の調査により埋蔵量が予想より少ない事が発表される。現在では尖閣諸島周辺にはイラクの原油の推定埋蔵量の1,125億バレルに匹敵する、1,000億バレル以上の埋蔵量があることがほぼ確実とされている。[要出典]
  • 1969年
    • 5月:中華民国当局は付近海域の石油採掘権をアメリカのガルフ社に与えると共に、「青天白日旗」を尖閣諸島に掲揚し、世界中の通信社に配信した。
    • 5月10日5月11日琉球政府が石垣市に命じて魚釣島、北小島、南小島、大正島、久場島の5つの島に標杭を建てる[281][282]
    • 中華人民共和国が、中国共産党が現在主張している「釣魚台」という呼称ではなく、日本が過去に使ってきた「尖閣群島」と明記した地図を発行する。尖閣群島には魚釣島から赤尾嶼まで含まれる[222]
    • 7月11日:朝日新聞那覇支局のカメラマンが撮影した尖閣諸島北小島に不法停泊している台湾漁船と漁民の写真が掲載[283]
  • 1970年
    • 1月:中華民国の国定教科書「国民中学地理科教科書第4冊」[284]で、尖閣諸島は日本領として「尖閣群島」という日本名で表記。
    • 7月:台湾籍船をはじめとした外国人の不法上陸や密漁に悩まされていた琉球政府は、出入管理庁の人員ら22名を米軍の支援を受けて尖閣諸島へ送り、違反事件の調査を行った。また、以前から検討されていた不法侵入に対する警告版(領域表示板)を、琉球列島米国高等弁務官の命により琉球政府法務局出入管理庁警備課が7月8日から13日にかけて、魚釣島と北小島に2ヶ所ずつ、南小島と大正島と久場島に1ヶ所ずつ、計5島7ヶ所に建てる。警告版(領域表示板)には、それぞれ英語・中国語・日本語で「警告 此の島を含む琉球列島のいかなる島又はその領海に琉球列島住民以外の者が無害通行の場合を除き、入域すると告訴される。但し琉球列島米国高等弁務官により許可された場合はその限りでない。琉球列島米国高等弁務官の命による 琉球政府建立す」と書かれている。[282][285][286][287][288][289]
    • 8月31日琉球政府立法院が尖閣諸島の領有権を主張する中華民国に抗議したうえで、その主張を放棄させるようアメリカ政府と日本政府に対し「尖閣列島の領土権防衛に関する要請決議」、決議第十二号、決議第十三号を採択[109][118][274][290][291][292][293]
    • 9月:琉球政府は警察本部救難艇「ちとせ」を尖閣諸島に派遣し、魚釣島に掲揚されていた青天白日旗を撤去。米国民政府に保管[18]
    • 9月10日:アメリカのロバート・マクロスキー国務省報道官は「対日平和条約第3条によれば、米国は「南西諸島」に対し施政権を有している。当該条約中のこの言葉は、第二次世界大戦終了時に日本の統治下にあって、かつ、同条約中ほかに特別の言及がなされていない、北緯29度以南のすべての島を指すものである。平和条約中におけるこの言葉は、尖閣諸島を含むものであることが意図された。当該条約によって、米国政府は琉球列島の一部として尖閣諸島に対し施政権を有しているが、琉球列島に対する潜在主権は日本にあるものとみなしている。」としたうえで、「主権の対立がある場合には、右は関係当事者間で解決さるべき事柄であると考える。」と述べる[294]
    • 同日 : 琉球政府は「尖閣列島の領有権および大陸棚資源の開発権に関する主張」という声明を発表[109]
    • 9月17日:琉球政府は、「尖閣列島の領土権について」と題して[109]尖閣列島の領土権に関する声明(琉球政府声明)を発表する[118][291][295]
  • 1971年
    • 1月29日:アメリカ合衆国サンフランシスコで中国人留学生らが尖閣諸島は中国固有の領土であると主張するデモを決行。後に全米だけでなく世界中の中国人社会にも広がり、「保釣運動」へと発展した。
    • 3月15日:中華民国(台湾)がアメリカ合衆国政府に対し、同日付の国務省宛て文書の中で、尖閣諸島を日本への沖縄返還から除外し、中華民国(台湾)の主権下に置くことを要求[296]
    • 6月11日:中華民国(台湾)が尖閣諸島の領有権を主張。
    • 6月17日沖縄返還協定に調印[297]。また、沖縄返還協定に付随している「合意された議事録」において、「第1条に関し、同条2に定義する領土は、日本国との平和条約第3条の規定に基づくアメリカ合衆国の施政の下にある領土であり、1953年12月25日付けの民政府布告第27号に指定されているとおり、次の座標の各点を順次に結ぶ直線によつて囲まれる区域内にあるすべての島、小島、環礁及び岩礁である。北緯28度東経124度40分北緯24度東経122度北緯24度東経133度北緯27度東経131度50分北緯27度東経128度18分北緯28度東経128度18分北緯28度東経124度40分」としており、尖閣諸島はこの区域内にあるため、沖縄返還協定の第1条の2に定義する領土に含まれている[297][298][299][300][301]。なお、この沖縄返還協定の返還領域に関する表現について、尖閣諸島での紛争に巻き込まれたくないアメリカ側は、日本側が主張する経緯度線で返還領域を示す方法に難色を示し、「奄美返還協定の対象地域を除く北緯29度以南の南西諸島」と表現する案を示していたが、最終的に、日本側が尖閣諸島の地名及び沖縄返還協定本文での返還領域掲載を譲ったうえで、沖縄返還協定付随の合意議事録に経緯度線で返還領域を示すことでアメリカ側と合意している[302][303][304]
    • 9月 : 国士舘大学助教授奥原敏雄(国際法)が雑誌『中国』1971年9月号に「尖閣列島の領有権と『明報』の論文」を発表[109]
    • 12月30日:中華人民共和国が尖閣諸島の領有権を主張。同国外交部声明で「早くも明代に、これらの島嶼はすでに中国の海上防衛区域にふくまれて」いたと発表した[109]
  • 1972年
    • 3月3日:琉球政府立法院において、「尖閣列島の領土権問題に関する琉球政府立法院決議」、決議第三号と決議第四号を採択[274][305]
    • 3月8日:日本国外務省は「尖閣諸島の領有権問題について」と題した政府見解を発表[306][307]
    • 3月20日 : 朝日新聞は社説で「尖閣列島の存在は、すでに十四世紀の後半には知られており、琉球や中国の古文書には、船舶の航路目標として、その存在が記録されている。だが尖閣列島を自国の領土として明示した記録は、これらの文献には見当らず、領土の帰属を争う余地なく証明するような歴史的事実もない」と発表[109]
    • 3月30日 : 日本共産党が「明国や清国が、尖閣列島の領有を国際的にあきらかにしたこともない」と見解を発表[109]
    • 5月15日:沖縄返還協定が発効。琉球が日本に返還され、再び沖縄県となる。
    • 7月28日日中国交正常化交渉の一環として北京で行われた竹入義勝衆議院議員と周恩来国務院総理との会談の中で、周恩来が「尖閣列島の問題に関心がなかった」としたうえで、「石油の問題で歴史学者が問題にした」と述べ、中国が尖閣諸島の領有権を主張し始めたのは、付近に眠る石油資源が目当てだったことを認めている[308][309]。この件は、2010年9月30日に行われた衆議院予算委員会の尖閣諸島中国漁船衝突事件に関する集中審議で取り上げられている(質問者は富田茂之衆議院議員。)[310][311]。この周恩来の発言は、日本政府の「中華人民共和国政府の場合も台湾当局の場合も1970年後半東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化するに及びはじめて尖閣諸島の領有権を問題とするに至ったものです。」とする主張を証明するものである[312]。なお、この会談を記録した中国側の資料では、会談内容が省略されているため「石油の問題で歴史学者が問題にした」に関する部分が記載されていない[313][314]
    • 9月27日:日中国交正常化交渉のため中国を訪問した田中角栄内閣総理大臣と周恩来国務院総理との第三回首脳会談の中で、田中角栄が尖閣諸島について問うと、周恩来は「尖閣諸島問題については、今回は話したくない。今、これを話すのはよくない。石油が出るから、これが問題になった。石油が出なければ、台湾も米国も問題にしない。」と述べており、同年7月28日に続いて石油を問題視する発言をしている[315][316][317][318]
    • 9月29日日中共同声明により日中国交正常化。日本と中国共産党率いる中華人民共和国とが国交を結び、日中共同声明に基づきそれまで国交のあった中華民国には断交を通告。
    • 10月:日本の歴史家である井上清が著書『「尖閣」列島--釣魚諸島の史的解明』(現代評論社)を発表。中国は歴史的に尖閣諸島を認識しており、日本の「無主地先占」に基づく領有は国際法的に無効と主張した[319]。のちに原田禹雄らは井上の史料解釈が杜撰であったと指摘した[320]
  • 1978年
    • 4月:約100隻の中国漁船が尖閣諸島に接近し、領海侵犯、領海内操業を行う。
    • 5月11日:日本の政治団体「大日本赤誠会」の「尖閣諸島領有決死隊」が海上保安庁の制止を振り切り、戦後初めて領有権を主張して上陸。日章旗を掲揚。
    • 8月12日:日本の政治団体「日本青年社」が魚釣島に灯台を建設。
    • 10月23日:日中平和友好条約の批准書交換のため訪日していた中国の鄧小平国務院常務副総理は、日本記者クラブで行われた会見の席上で、「尖閣諸島を中国では釣魚島と呼ぶ。名前からして違う。確かに尖閣諸島の領有問題については中日間双方に食い違いがある。国交正常化の際、両国はこれに触れないと約束した。今回、平和友好条約交渉でも同じように触れないことで一致した。中国人の知恵からしてこういう方法しか考えられない、というのは、この問題に触れるとはっきり言えなくなる。こういう問題は一時棚上げしても構わない、次の世代は我々より、もっと知恵があるだろう。皆が受け入れられるいい解決方法を見出せるだろう」と述べる。
  • 1979年5月17日海上保安庁は、魚釣島に仮設ヘリポートを設置するため、第一管区海上保安本部釧路海上保安署所属の巡視船そうや」を派遣。仮設ヘリポートについては後に中華人民共和国の抗議があり、日本国政府が独自に撤去した。
  • 1988年:日本青年社が灯台設置10周年を記念し、魚釣島の灯台を新調。航路標識法に基づく正式な灯台として認可するよう海上保安庁第十一管区海上保安本部に申請書を提出し、受理される。
  • 1990年8月:台湾聖火リレー船領海侵犯事件 - 尖閣諸島の領有権を主張するために、「台湾地区スポーツ大会」の聖火リレーを行っていた台湾船2隻が、魚釣島周囲の領海を侵犯。
  • 1992年2月25日:中華人民共和国領海法制定。釣魚列島(尖閣諸島)が自国領であると記載。これにより、中国側が存在したと主張している「棚上げ合意」が反故にされたとする見方もある[321][322]
  • 1994年近代的地震探査の結果を踏まえ68年、69年頃の調査の結果を見直し経済産業省の石油審議会開発部会がまとめたところによると、日中中間線(日本側主張のライン)の日本側で、究極可採埋蔵量が5.18億キロリットル(32.6億バレル)と公表され、当初の見込みである1000億バレルより大幅に減少した。
  • 1996年
    • 日本青年社、北小島に第二灯台を建設。日本政府に海図への記載を求める。中国政府は日本政府に圧力をかけ、海図への記載を止めさせた。
    • 7月国連海洋法条約発効。日本政府は排他的経済水域を設定。
    • 9月26日香港から出港した抗議船が領海侵犯し活動家数名が海に飛び込み、1人(陳毓祥)が溺死する。
    • 10月:台湾・香港の活動家等が乗船する小型船41隻が領海侵犯。4人が魚釣島に不法上陸。
  • 1997年
    • 5月6日:新進党(当時)衆議院議員西村眞悟が国会議員で初めて上陸・視察。
    • 5月:30隻の台湾抗議船等が尖閣諸島に接近し、そのうち3隻の抗議船が警告を無視して領海侵犯。
    • 7月:1隻の台湾抗議船が尖閣諸島の領海侵犯。日本の海上保安庁により領海外へ退去させられる。
  • 1998年6月:香港と台湾の抗議船6隻が尖閣諸島領海付近に接近。うち香港の抗議船「釣魚台号」と同船から降ろされたゴムボートが領海侵犯。その後、領海外に退去させられた釣魚台号は、遭難信号を発信し、乗員は付近の台湾抗議船および日本の海上保安庁の巡視船に救助された。釣魚台号には人為的原因によると思われる浸水が発生しており、海上保安官が応急的な漏水防止措置などを施したものの魚釣島付近海域で沈没。
  • 2006年第164回国会行政監視委員会で、政府参考人細野哲弘氏が、究極可採埋蔵量は約5億キロリットル(31.4億バレル)と答弁している。

2000年代

  • 2001年5月:日本の「日本人の会」のメンバーが尖閣に上陸した。同会は西村眞悟が顧問で、「建国義勇軍」を名乗る団体でもあったことが後に確認される。
  • 2002年
    • 4月1日:日本政府は埼玉県在住の地権者(栗原家)と魚釣島、北小島、南小島を年間賃貸料計約2450万円で賃借契約を結ぶ。
    • 9月16日沖縄タイムスのインタビューで、李登輝元台湾総統は尖閣諸島について、「尖閣諸島の領土は、沖縄に所属しており、結局日本の領土である。中国が、いくら領土権を主張しても証拠がない。国際法的にみて、何に依拠するのかが明確でない。国際法的な根拠「中国の領土権」があって、第二に「兵隊が駐屯した事実」がないと、領土権をうんぬんする資格はない。」と述べる。これに対し台湾、中国、香港の報道機関などは猛反発した[323][324]
    • 10月20日:李登輝元台湾総統は台湾での研討会において、「一九七〇年に、海底油田説が浮上してから、この島をめぐる争いが始まった。清朝は「台湾」を日本に譲渡した時、釣魚台はその範囲に含まれておらず、当時の地図を見てもこのことは明らかである。釣魚台はもともと琉球王国の中山王の土地であり、琉球王国は中国明朝の一部ではない。琉球は現在、日本の県であるから、どこに領土権があるかは明らかだ。」と述べたうえで、「台湾にあるのは漁業権のみ」と主張する[324]
  • 2003年12月26日廈門市で開催された全世界華人保釣フォーラムにて「中国民間保釣連合会」結成を決定。
  • 2004年
    • 1月: 台湾当局が魚釣島を土地登記 (4月に判明)。
    • 1月15日:中国の民間団体「中国民間保釣聯合会」などの抗議船2隻が領海侵犯し、魚釣島から約3海里の地点(東経123度17分、北緯25度40分)で20個の石碑を海に沈める[325]
    • 3月24日:日本の海上保安庁の警備の隙を突いて中国人活動家7名が領海侵犯し魚釣島に不法上陸したが、沖縄県警察本部は全員を出入国管理法違反(不法入国)の疑いで現行犯逮捕。上陸した活動家などが逮捕されたのはこれが初めてである。
    • 3月24日:アメリカのアダム・エレリ国務省副報道官が「尖閣諸島に日米安保条約が適用される」との見解を表明。
    • 3月26日:出入国管理法違反で逮捕されていた7名の中国人活動家が強制退去処分となる。
    • 3月30日:例年行われていた対中円借款の交換公文署名式を中国外務次官・王毅が当日になって突然欠席。日本の外務省幹部は不快感を示しながらも「(中国人活動家の逮捕をきっかけに高まっている)国内の反日世論に配慮せざるを得ないのだろう」とコメントした(注:対中円借款の交換公文署名式は日本の援助に対して中国が公式に感謝を表明する唯一の場)。同日、衆議院安全保障委員会は、尖閣諸島への中国人の不法上陸事件を受けて、政府に警戒・警備で万全の対策を求める「我が国の領土保全に関する件」と題する決議を全会一致で可決。
    • 4月15日 :台湾当局がこの年1月、魚釣島を土地登記していたことが明らかになる。
    • 11月10日 : 漢級原子力潜水艦領海侵犯事件が発生。中国人民解放軍海軍漢型原子力潜水艦石垣島周辺海域を領海侵犯した。日本政府海上警備行動を発令。
  • 2005年
    • 2月9日:日本青年社が魚釣島に建設した灯台を、所有権放棄に伴い日本政府が国有化、海上保安庁が保守・管理すると発表。
    • 7月:台湾の巡視船が2回にわたり、尖閣諸島から12海里以内の海域に入り、海上保安庁の巡視船と対峙した。日本側は「領海侵犯」にあたるとして抗議。台湾側は「台湾漁船を保護するため当然の行為」と反論した[326]
  • 2007年10月28日:中国の「保釣(釣魚島防衛)行動委員会」の抗議船が領海侵犯、海上保安庁の警告で引き返す。
  • 2008年
    • 6月10日:領海侵犯した台湾の遊漁船「聯合号」に海上保安庁の巡視船「こしき」が衝突し、聯合号が沈没する聯合号事件が発生。台湾の一部から反日世論が沸騰し、数日後に台湾の巡視船など4隻が尖閣諸島沖の領海を侵犯、海保巡視船とにらみ合い、駐日代表を召還させる措置をとった。劉兆玄行政院長立法院(議会)の答弁で、立法委員(議員)の追及に応える形で「最終手段としての軍艦派遣も排除できない」とした。日本側が海保巡視船の過失を認め謝罪を表明し、同年12月、3,000万円相当の賠償で和解が成立。
    • 9月24日:沖縄に訪問中の李登輝元台湾総統が「尖閣諸島は日本の領土」と発言。台湾政府はこれを個人的見解と一蹴[327]
    • 11月9日:台湾で尖閣諸島の領有権を主張する団体中華保釣協会が設立。中国や在外華僑の反日活動家と連携するとみられている。
    • 12月8日中国国家海洋局所属の海洋調査船「海監46号、海監51号」2隻が初めて、尖閣諸島付近の日本領海内を約9時間半にわたって侵犯した(尖閣諸島領海内侵入事案[328]。翌日、中国国家海洋局海監総隊の孫書賢副隊長が「中国も(主張するだけでなく)管轄海域内で存在感を示し、有効な管轄を実現しなければならない」と述べ、海洋調査活動を強化する方針を示した。翌年2月16日には、国家海洋局の孫志輝局長が「実際の行動で中国の立場を示した」と述べ、中国の主権を主張する目的で侵入したことを明らかにしている。
    • 12月9日:訪日中の呉伯雄国民党主席が尖閣諸島付近の共同資源開発を改めて提案。中国の海洋調査活動について「問題を複雑化する」と牽制。
    • 12月19日:12月8日の尖閣諸島沖の日本領海に中国の海洋調査船が侵入した問題で沖縄県議会が「尖閣諸島は沖縄・石垣市に属する、我が国固有の領土である」として中国政府に抗議する決議を全会一致で採択[329]
  • 2009年
    • 2月1日:海上保安庁が尖閣諸島周辺の監視態勢強化のため、PLH型巡視船を常駐化[330]。報道から約1週間後、中国外交部当局者が北京の日本大使館に「日本が行動をエスカレートさせれば、中国は強硬な反応を示さざるを得ない」と抗議。
    • 4月3日:石垣市の大浜長照市長が地方税の調査を行う目的のために尖閣諸島への上陸を求める書簡を中曽根弘文外務大臣あてに申請[331]。同月8日、政府は上陸を認めない方針を示す[332]

2010年

  • 2010年
    • 5月27日石原慎太郎東京都知事の尖閣諸島に関する発言に対し、鳩山由紀夫首相は「日中の間で衝突があったとき、アメリカは安保条約の立場で行動する。しかし(尖閣諸島の)帰属問題は日中当事者同士で議論して結論を出す、と私は理解をしている」と述べる。[333]。翌28日、岡田克也外務大臣が「尖閣に日本の領土問題はない。議論の余地はない」と述べ、鳩山発言を修正した[334]
    • 8月16日:アメリカのフィリップ・クローリー国務次官補(広報担当)は「尖閣諸島は日本の施政下にある」「日米安保条約5条は、日本の施政下にある領域に適用される」としたうえで、「条約が尖閣諸島に適用されるかと問われれば、そうだ」と述べる[335]
    • 9月7日午前、中国漁船が日本の領海を侵犯して沖縄県尖閣諸島付近で操業中、日本の海上保安庁の巡視船が発見。停船を勧告するもそれを無視して漁船は逃走。逃走時に海上保安庁の巡視船に衝突を繰り返し、巡視船2隻を破損。同漁船の船長を公務執行妨害で逮捕するという事件が起きる[336]
以降、中国漁業監視船が尖閣諸島周辺海域を徘徊する事案が多数発生した[337]
中国公船等による尖閣諸島周辺の領海侵入隻数[337]
期間 中国漁業監視船舶名
9月10日 - 9月17日 漁政201, 202, 204[338][339]
 (うち9月10日 - 13日)  (漁政202)
 (うち9月13日 - 14日)  (漁政201, 202)
 (うち9月14日 - 17日)  (漁政201, 204)
9月24日 - 10月6日 漁政201, 203[339][340]
10月24日 - 25日 漁政118, 202[341][342]
11月20日 - 21日 漁政201, 310[343][344][345][346]
11月28日 - 29日 漁政201, 310[347][348]
  • 9月13日中華民国行政院海岸巡防署は巡防船12隻を派遣、台湾の抗議船を保護。しかし海上保安庁の艦船と双方が対峙したうえ、海岸巡防署の官吏が日本側に対して領土声明を発表した。この時台湾の抗議船がEEZ内まで侵入したことに対して台湾政府は「民間の自発的行動」と表明した[注 12]
  • 9月18日:中国国内4都市で数百人規模の反日デモ[349]
  • 9月23日:ニューヨークでのヒラリー・クリントン米国務長官と前原誠司外務大臣の会談の中で、クリントン国務長官は尖閣諸島中国漁船衝突事件に関する日本側の対応に理解を示したうえで、「尖閣諸島には、日米安保条約5条が適用される」と述べる[350]
  • 9月24日:公務執行妨害の疑いで逮捕した中国人船長を処分保留のまま釈放すると発表[351]。船長は25日未明に釈放された[352]。民主党、岡田克也(幹事長)は「政治的な介入はしておらず、検察がみずからの判断で行った。」と政治責任問題を回避する発言に終始する[353][354]。この間にも中国の漁船(工作船とおぼしき船を含む)は20隻以上、日本の領海である沖縄県尖閣諸島付近に入り込んでいるが、日本政府は特に対応を行っていない。
  • 9月25日:中国政府が中国人船長逮捕に関して日本に謝罪と賠償を要求[355]菅直人首相は26日、「尖閣はわが国固有の領土だ。そういう観点から賠償は考えられず、全く応じられない」と拒否する考えを示した[356]
    「10.2中国の尖閣諸島侵略糾弾!全国国民統一行動」
  • 9月27日:中国側は、これまで不定期だった尖閣諸島付近での漁業監視船による巡視を日常的に行う方針を示す[357]
  • 9月28日:アメリカのウォレス・グレグソン国防次官補が尖閣諸島中国漁船衝突事件に関し「日本政府の立場を全面的に支持する」としたうえで、尖閣諸島について「1972年の沖縄返還の際、沖縄県とともに日本に返還したのが事実だ」と述べる[358]
  • 10月2日尖閣諸島中国漁船衝突事件を巡り、中国への抗議および日本政府の対応に対して日本で東京など7都市でデモが行われた。渋谷でのデモは頑張れ日本!全国行動委員会が主催し、参加者は2,700人。海外メディアでは「日本では珍しい大規模デモ」として大きく扱われた[359][360][361][362][363][364][365]。日本国内では、ジェイ・キャスト日本文化チャンネル桜などのインターネットメディアによって報じられたが[366][367][368]、大手の国内報道機関は一切報道を行わなかった[367][368]
  • 10月4日中山義隆石垣市長を始めとする石垣市議団と竹富町町長が尖閣防衛を訴えるために上京し複数の省庁を回ったが、総務大臣以外は応対しなかった[369]。石垣市議団は石破茂防衛大臣や沖縄選出の島尻議員らと東京で上陸許可と防衛を訴える街頭演説を行った[369]
  • 10月9日:超党派による「国家主権と国益を守るために行動する議員連盟」の座長原口一博と、藤田幸久河井克行柿沢未途の4人が民間チャーター機で尖閣諸島を上空から視察した[370]
  • 10月15日:アメリカ国務省で行われた安倍晋三元首相とジェイムズ・スタインバーグ国務副長官との会談の中で、同副長官は、紛争が尖閣諸島で発生した場合、「日米安全保障条約第5条が適用される」と述べる[371]
  • 10月16日:2週間前に行われた、「頑張れ日本!全国行動委員会」によるデモに反発した中国人による数万人規模の大規模な反日デモが成都鄭州西安杭州で発生。成都では日系デパートが襲撃された[372]
  • 10月18日:アメリカ国防総省で行われた安倍晋三元首相らと、ミシェル・フロノイ国防次官(政策担当)とウォレス・グレグソン国防次官補[373]との会談の中で、フロノイ国防次官は尖閣諸島が中国に占領された場合、「日米安全保障条約第5条により日本を助ける」と述べ、尖閣諸島が日本の施政下から離れても、日米安全保障条約の適用範囲との認識を示す。[374]
  • 10月21日前原誠司外務大臣が衆議院安全保障委員会の席上で、1978年10月23日に鄧小平副首相が表明した尖閣諸島領有権棚上げ論について、「鄧氏が一方的に言った言葉であり、日本側が合意したことではない」と述べる[375]
  • 10月26日:日本政府は、1978年10月23日に鄧小平副首相が尖閣諸島の領有問題に触れないと両国が約束したなどと発言したことについて、「約束は存在しない」との答弁書を閣議決定する[316]
  • 10月28日:ヒラリー・クリントン米国務長官は、ホノルルで行われた前原誠司外務大臣との会談で「はっきりあらためて言いたい。尖閣諸島は日米安保条約第5条の(適用)範囲に入る。日本国民を守る義務を重視している。」と述べ、中国は反発[376]
  • 10月29日:ワシントンで行われた記者会見で、フィリップ・クローリー米国務次官補は、昨日のクリントン国務長官の発言に中国が反発している件について、「米国は尖閣は日米安保条約5条の範囲ととらえている」と再び述べ、同年8月16日に続いて日米安全保障条約が尖閣諸島に適用されるとの認識を示す[377]
  • 10月30日:ハノイで行われたアメリカのヒラリー・クリントン国務長官と中国の楊潔チ外交部長との会談の中で、同年10月28日にクリントン国務長官が尖閣諸島は日米安全保障条約第5条の適用範囲だと発言したことに対し、楊外交部長は「誤った発言をすべきではない」としたうえで「高度に敏感な問題については言葉を慎み、慎重に行動するよう」と抗議した[378]
  • 11月4日:午後9時頃[379]、2010年9月7日に起きた尖閣諸島中国漁船衝突事件で、海上保安庁が撮影したとみられるビデオ映像がYouTubeに流出[380]、以後ネット上で流出した映像が拡散する[381]。これに対して、政府は国家公務員法の服務規程違反として捜査を開始し、同年11月10日、神戸市にある第五管区海上保安本部海上保安官が映像を流出させたことを上司に名乗り出ていることが判明[382]。これについて国家情報管理のずさんさ、国家公務員法服務規定の罰則の軽さなどの指摘がなされ、一方「なぜこれをもっと早く国民に見せなかったのか」と批判がなされた。また、国家公務員法の禁止する「秘密漏洩」に該当するのかどうか疑念が提示され、この流出を支持する国民からは海上保安庁へ「流出をさせた犯人を探さないで」等の要望が寄せられた[注 13]
  • 12月10日:石垣市議の仲間均市議と箕底用一市議の2人が尖閣諸島の南小島に上陸。9日に漁船で石垣島を離れ、9日夜に南小島付近に近づき、10日午前8時50分頃に海に入り泳いで上陸し、40分ほど調査したという。今回の上陸にはフジテレビのヘリコプターも同行していた。帰港途中に海上で海上保安庁の事情聴取を受け、10日午後8時39分頃石垣島に戻る[383][384]。翌11日、中国外務省は日本に抗議した[385]
  • 12月17日:石垣市議会の12月定例会最終本会議において、尖閣諸島が1895年1月14日に閣議決定で日本領土に編入されたことに因み、1月14日を尖閣諸島開拓の日と定める「尖閣諸島開拓の日を定める条例」(提案者:仲間均市議)を可決、同日施行される[386]

2011年

  • 2011年
    • この年、中国漁業監視船が尖閣諸島周辺海域へ9回接近した[337]
中国公船等による尖閣諸島周辺の領海侵入隻数[337]
期間 中国漁業監視船舶名
1月27日 漁政201[387][388]
3月5日 漁政202[389]
3月9日 漁政202[390]
3月10日 - 12日 漁政202[391]
7月3日 漁政201[392][393][394]
7月30日 漁政204[395]
8月24日 漁政201, 31001[396][397]
9月26日 - 9月27日 漁政202, 32501[398]
10月24日 漁政201, 35001[399][400]
その他の動向
    • 1月2日:香港の民間団体「保釣行動委員会」が、世界各国の保釣運動6団体を結集した「世界華人保釣連盟」を設立[401]。会長には台湾の「中華保釣協会」秘書長の黄錫麟が就任[402]
    • 1月7日:アメリカ国務省で行われた前原誠司外務大臣とヒラリー・クリントン国務長官との会談の中で、尖閣諸島が日米安全保障条約の適用範囲だとの再確認がなされた[403][404]
    • 3月2日中国海軍のY8情報収集機とY8哨戒機の2機が尖閣諸島の北50、60キロまで接近したため、領空侵犯の恐れがあるとして自衛隊の戦闘機緊急発進させた。領空侵犯は無かったが、防衛省は「中国軍機が日中中間線を超え尖閣諸島にここまで近づくのは初めて」としている[405]
    • 3月7日:中国国家海洋局が東シナ海の監視活動を行っているとされるヘリコプターが、日中中間線付近で、警戒監視中の海上自衛隊護衛艦の約70メートルまで異常接近し、その周囲を1周した。また、国際慣例上、それ以上近づいてはいけないとされる距離を超えていた[406]
    • 3月26日:中国国家海洋局のヘリコプター「Z9」が日中中間線付近で海上自衛隊護衛艦「いそゆき」に異常接近し、周りを1周した[407]
    • 4月1日:中国の海洋警備機関の中国海監所属の「Y12」プロペラ機が日中中間線の西側で海上自衛隊護衛艦「いそゆき」に異常接近し、上空を2周した[408][409]
    • 6月29日:午前6時45分頃、台湾の中華保釣協会の活動家2人らが乗った漁船「大發268」が、尖閣諸島付近の日本の接続水域に侵入しているのを海上保安庁の巡視船が確認。漁船は巡視船に接触させようとしてきた他、航行と停船を繰り返した後、同日午前11時10分頃に接続水域を離れる[410][411]。この件に対し、日本の枝野幸男官房長官は6月29日午前に行われた記者会見の席上で、「尖閣諸島がわが国固有の領土であることは歴史的にも国際法上も疑いがない。台湾漁船が領海内に入らないように申し入れた」と述べる[412]。また同日、中国空軍のスホイ30戦闘機2機が台湾海峡の中間線を越えて、尖閣諸島から与那国島にかけて飛行したため、日本(F15戦闘機4機)と台湾が戦闘機を緊急発進させた、との報道が台湾の「蘋果日報」によって2011年8月22日になされた。台湾国防部はこれを否定、防衛省統合幕僚監部は非公表としている[413]
    • 7月31日:午前7時25分頃、中国の海洋調査船「北斗」が、尖閣諸島魚釣島北北西約61キロ地点の日本の排他的経済水域内で、ワイヤー状のもの4本を曳いた状態で航行しているのを海上保安庁の航空機が確認。無線で調査中止を呼びかけたが返答がなく、およそ9時間後に日本の排他的経済水域から離れた[414]
    • 8月10日:参議院沖縄及び北方問題に関する特別委員会において、江口克彦参議院議員(みんなの党)による質問に対し、枝野幸男官房長官は「尖閣諸島については、我が国が今、有効に支配をいたしております。わが国が有効に支配をしてる尖閣諸島に対して、他国が侵略をしてきたら、これは、あらゆる犠牲を払ってでも、自衛権を行使してこれを排除いたします」と述べた[415][416]
    • 9月8日:昼頃、中国人民解放軍のY8情報収集機1機が、尖閣諸島の北100〜150キロまで近づいたため、航空自衛隊の戦闘機が緊急発進させた。日中中間線を越えたが、領空侵犯はなかった[417]
    • 9月25日:午後5時55分頃、中国の海洋調査船「北斗」が、尖閣諸島久場島北北東121キロ地点の日本の排他的経済水域内で、ワイヤー状のもの3本を曳いた状態で航行しているのを海上保安庁の航空機が確認。事前通報で示された海域から西に約20キロ離れた海域で調査していたため、無線で警告、およそ4時間半後に事前通報で示された海域に向かった[418][419]
    • 9月29日:午前8時50分頃、中国の海洋調査船「科学3号」が、尖閣諸島久米島北西約246キロ地点の日本の排他的経済水域内で、ワイヤー状のものを曳いた状態で航行しているのを海上保安庁の航空機が確認。事前通報で示された海域と異なる海域で調査していたため、無線で警告したが応答はなかった。同船は同日午後8時35分頃にも、尖閣諸島久場島北約45キロ地点の日本の排他的経済水域内でワイヤー状のものを曳いた状態で航行しているのを海上保安庁の巡視船が確認。事前通報で示された海域と異なる海域で調査していたため、無線で警告したところ、午後9時5分頃に事前通報で示された海域に向かった[420][421]
    • 10月7日:午前9時5分頃、中国の海洋調査船「北斗」が、尖閣諸島大正島北約155キロ地点の日本の排他的経済水域内を航行しているのを海上保安庁の航空機が確認。事前通報で示された海域と異なる海域で調査していたため、無線で警告したが応答はなく、約2時間半後に事前通報で示された海域に向かった[422]

2012年

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  • 2012年
    • 1月3日:午前9時半から10時頃にかけ、石垣市議ら4人が漁船で尖閣諸島魚釣島に近づきゴムボートで相次いで上陸。その後、午前11時55分頃に同島を離れ、3日夜に漁船で石垣港に到着した。これに対し、中国外務省は日本側に抗議した[423]
    • 1月17日:日本政府が尖閣諸島周辺の4島を含む39の離島の名称を決めることについて、17日付の中国共産党機関紙、人民日報の記事は「釣魚島と周辺諸島に命名する企ては公然と中国の核心的利益を損なう振る舞いだ」などとし、中国政府及び政府系報道機関を含め初めて尖閣諸島を核心的利益と表現した[424]
    • 1月21日:早朝、向山好一新藤義孝両衆議院議員と石垣市議ら8人は尖閣諸島付近の海域を漁船で訪れ、諸島や漁業活動を視察し、午後4頃石垣島に戻った[425]
    • 3月3日:日本政府は排他的経済水域の基点で名称の無い沖縄・尖閣諸島周辺の4島を含む39の離島の名称を決定した[426]。中国国家海洋局は、尖閣諸島周辺の71島に対し中国側の標準名称を公表し、一部の島を中国の領海基点と「正式」に定めた[427][428][429]
    • 3月16日:中国国家海洋局所属の「海監50」と「海監66」が接続水域に進入し、このうち1隻が25分間に渡って領海を侵犯した[431]
    • 3月21日:同日付の人民日報に掲載されたインタビュー記事において、中国国家海洋局の海監東海総隊責任者は、2012年3月16日に行われた尖閣諸島周辺での海洋調査船の活動について「日本の実効支配打破を目的とした定期巡視」と述べる[432]
    • 4月16日:アメリカのヘリテージ財団を訪れていた石原慎太郎東京都知事が、東京都が魚釣島、北小島、南小島の3島を埼玉県在住の地権者から購入する方針を決めたことを発表した。購入資金として募金が呼びかけられ、9月11日の国有化直後の9月13日までに102,622 件、14億7327万円の募金が集まった[433][434]
    • 4月19日:同日付の環球時報の記事において、台湾の李登輝元総統は「これまで何度も話しているが、尖閣諸島は日本の領土だ」とし、中国政府の領有権主張について「中華帝国覇権主義的な領土観に基づいた主張であって、かつて朝貢していた国を自分たちの領土の外周だと考えている」とした上で、中国政府が領有の根拠としている古文書について「清の光緒帝が皇太后の病気を治すため、民が尖閣諸島近海で採った薬草を使い、後に島をその民に与えたというだけで、国際法上何の根拠にもならない」と述べる[435]
    • 5月22日:中国の王家瑞中国共産党対外連絡部長は、北京で行われた江田五月元参院議長との会談の中で「中国にとって釣魚島もウイグルも核心的利益だ」と述べる。同年5月3日の習近平中国国家副主席や同年5月13日の温家宝中国首相の核心的利益発言は世界ウイグル会議問題を指すとの見方があったが、中国高官が尖閣諸島を核心的利益と公言するのは初めて[436][437]
    • 6月5日:台湾の李登輝元総統は、台湾桃園県の中央大学での講演の中で、中国の学生による尖閣諸島の帰属に関する質問に対し、「領有権は日本にある。中国固有の領土というなら、裏付けとなる証拠の提出が必要」と述べる[438]
    • 6月9日:第1回尖閣諸島沖漁業調査、頑張れ日本!全国行動委員会メンバー、森岡洋一郎高邑勉下村博文など衆議院議員6人、石垣市職員1人、県外の賛同者、東京都議、八重山地域の漁業者、イギリスのフィナンシャル・タイムズなど外国メディアを含む計約120人が、9日午後9時半頃に漁船14隻に分かれ尖閣諸島へ向けて出港。翌10日に尖閣諸島周辺海域で集団漁業や海上から島の調査活動を行った[439][440]。これに対し、台湾外交部が抗議声明を出した[441]
    • 6月26日台湾の海岸巡防署の巡視船が大正島の領海を侵犯した[442]
    • 7月4日:香港に本部があり中国本土が資金源となっている世界華人保釣連盟[443]の台湾人活動家を乗せた遊魚船1隻と台湾の海岸巡防署の巡視船4隻が魚釣島の領海を侵犯し、海岸巡防署の巡視船1隻が接続水域内で海上保安庁の巡視船「みずき」と接触した。接触した台湾の巡視船の電光掲示板には日本語で「ここは中華民国領土だ」と表示されていた[444]。これについて藤村修官房長官は「領海に入ったことは絶対に認められない」と台湾を非難した。
    • 7月11日 : 中国国土資源省国家海洋局所管の海洋環境監視監測船隊(海監総隊)の孫書賢副総隊長が、「もし日本が釣魚島(尖閣諸島)問題で挑発し続けるなら、一戦も辞さない」と発言し、また南シナ海南沙諸島問題についてベトナムフィリピンに対しても同様に一戦も辞さないと発言した[445]
    • 7月11日 - 7月12日:7月11日に中国の漁業監視船「漁政35001・同204・同202」の3隻が領海侵犯した。漁政は海上保安庁の退去の呼びかけに対して「妨害をするな。直ちに中国領海から離れなさい」「魚釣島を含む島嶼(とうしょ)には中国の領土である」などと返答した[446]。また翌12日にも漁政35001が領海侵犯をして徘徊した。
    • 8月16日 : 香港の保釣行動委員会らの活動家14名を乗せた抗議船「啓豊2号」が魚釣島の領海を侵犯し、このうち7名が島に上陸、島で待ち構えていた警察官と海上保安官に逮捕された。また漁船に残っていた活動家も逮捕された。中国の報復措置を恐れた民主党政権により活動家らは起訴されず、翌17日に強制送還された。尖閣諸島に中国の活動家が上陸したのは2004年以来8年ぶりとなった。この逮捕を受けて中国各地では破壊活動を伴った反日デモが繰り広げられた。
    • 8月19日 :「日本の領土を守るため行動する議員連盟」と「頑張れ日本!全国行動委員会」が一般の参加者を募って 尖閣諸島戦時遭難事件の慰霊祭を魚釣島の領海の洋上で開いた際に、日本の地方議員と頑張れ日本のメンバーらの10人が魚釣島に上陸。灯台や奈良原岳頂上の岩壁に日本国旗を掲げ、2時間程度滞在した(伊藤祐靖のみ約6時間)[447][448][449]。翌日、上陸した10人のうち5人が沖縄県警八重山署で軽犯罪法の疑いで事情聴取されたが逮捕等はなかった[450]
    • 9月3日 : 人民日報(海外版)は、中国国家海洋局が尖閣諸島スカボロー礁(黄岩島)と西沙諸島の周辺海域を人工衛星や航空機で遠隔監視する「海域動態監視観測管理システム」の範囲内に組み込んだと報じた[451][452]
    • 9月11日 : 日本政府は魚釣島北小島南小島の3島を海上保安庁に20億5千万円で埼玉県在住の地権者から買取らせ、所有権移転登記を完了し国有化した[453]。この国有化は、石原慎太郎東京都知事東京都による購入計画(実効支配強化のために島に様々な施設を作る)を阻止し、日本の実効支配強化が進むことへの中国の反発を抑え、尖閣諸島の「平穏かつ安定的な維持管理」を行うことを目的として行われた。この国有化に対して中国では反日感情が高まり、上海で日本人が暴行される事例が相次いだ[454]
    • 魚釣島、北小島、南小島の国有化以降、中国公船の尖閣諸島の接続水域内入域は常態化し、荒天の日を除きほぼ毎日となった。うち、9月から12月までの領海侵入はのべ20日68隻にのぼった[455]
中国公船等による尖閣諸島周辺の領海侵入隻数[455]
日数 のべ隻数
9月 3 13
10月 5 19
11月 4 15
12月 8 21
20 68
    • 9月13日 : 中国政府は尖閣諸島の領海基線を記した海図国連に提出[456][457]
    • 9月14日 : 午前6時20分ころ「海監51」と「海監66」が大正島の領海に侵入し、午前7時5分頃には「海監50」「海監26」「海監27」「海監15」が久場島の領海に侵入した。中国の公船6隻が同時に領海侵犯するのは過去最多となる[458]
    • 9月15日 : 日本政府による尖閣諸島3島の国有化を受けて、中国各地の50以上の都市で日中国交正常化以降最大規模となる反日デモが発生した。各地のデモ隊の一部は暴徒化し、日本大使館に投石、各地のイオン、平和堂イズミヤセブンイレブンや、トヨタ日産自動車販売店パナソニックミツミ電機工場日本料理を扱う飲食店が大規模に破壊・略奪放火された。
    • 9月16日 : 中華人民共和国外交部は「国連大陸棚限界委員会」に排他的経済水域日中中間線を越え沖縄トラフまでとする大陸棚自然延長の案を正式に提出すると発表[459]
    • 9月18日 : 幸福実現党青年局長のTOKMAトクマ)と、「薩摩志士の会」のメンバー1名が、尖閣諸島の国有化後に初めて魚釣島に上陸。慰霊碑に献花し、日章旗を掲げて慰霊を行った。
    • 9月25日 : 午前7時40分頃から11時45分頃まで台湾の漁船40隻と台湾の巡視船12隻が領海侵犯した。これを阻止しようとする海上保安庁の巡視船は放水による進路規制を行ったが、これに対抗して台湾の巡視船が海上保安庁の巡視船に向けて放水を行った[460]
    • 11月29日 : 米上院は本会議で日米安保条約第5条に基づく適用範囲であるとした責任を再確認する」と宣言する条項を国防権限法案に追加する修正案を全会一致で可決[63][461]
    • 12月13日 : 海監4隻が領海侵犯したうえ、国家海洋局所属の航空機1機が魚釣島を領空侵犯した。中国機の領空侵犯は史上初である。中国機は海保の巡視船の退去命令に「ここは中国の領空である」と返答した。領空侵犯を受けて航空自衛隊F15J戦闘機8機と早期警戒機E-2Cをスクランブル発進させたが、中国機は既に領空外に飛び去った後だった[462]
    • 12月14日 : 前日の領空侵犯に関し米国政府は中国政府に懸念を直接伝え、日米安全保障条約の適用対象であることなど、従来の方針に変更はないとも伝えたことを米国国務省は記者会見で明らかにした[463][464][465]
    • 12月21日 : 前日20日のアメリカ下院に続いてアメリカ上院でも「2013会計年度国防権限法」が可決された。この国防権限法では「第3国のいかなる行為によっても尖閣諸島に日本の施政権が及んでいるという米国の認識は変らないこと」、「日本の施政権下にある地域が侵略される場合には日米安全保障条約が適用されること」が明記された[466]。尖閣諸島が日米安保の適用内であるということがアメリカの公文書に明記されることは初めてのことである[467]。またジム・ウェッブ上院議員(上院外交委員会委員長)が「日本の施政権が尖閣諸島に及ぶとの米国の立場が脅迫、強要、軍事的行動によってゆらぐことはない」との声明を発表した。
    • 12月27日 : 時事通信は北京の中国外務省档案館(外交史料館)が所蔵する1950年5月15日に作成された「対日和約(対日講和条約)における領土部分の問題と主張に関する要綱草案」(領土草案、計10ページ)の原文コピーを入手公表した[468]。この「領土草案」の「琉球の返還問題」の項目には「琉球は北中南の三つに分かれ、中部は沖縄諸島、南部は宮古諸島と八重山諸島(尖頭諸嶼)」という記述があり、日本名である「尖頭諸嶼」という名称を用いた上で尖閣諸島を琉球の一部に含めている。また「琉球の境界画定問題」の項目には「尖閣諸島」という言葉が明記され、「尖閣諸島を台湾に組み込むべきかどうか検討の必要がある」という文言がある。「釣魚島」の文言はない。これは少なくとも1950年の段階では、中国政府が尖閣諸島を台湾の一部ではなく琉球の一部と考えていたことを示している。またこの領土草案は2012年12月時点には非公開とされる。
    • 12月29日 : 在日中国大使館は、ホームページ上に「領土草案」に対するコメントを発表した[469]。この中で、この文書に署名がないことを言挙げ「日本側が無署名の参考資料を使って、自己の誤った立場を支えようと企てているのは、自信のなさの現れだ」「日本側がどんな小細工をしようとも、釣魚島が中国に属するという基本的事実を揺るがすことはできない」とした。中国の主要メディアは、一部のニュースサイトを除き、この問題を報じていない[470][471][472]

2013年

  • 2013年
    • この年の中国公船の尖閣諸島に付属する領海への侵入は、のべ54日188隻にのぼった[455]
    • 1月2日 : 2012年12月20日アメリカ下院、翌21日アメリカ上院で可決された尖閣諸島が日米安全保障条約第5条の適用対象でることを明記した条文を盛り込んだ2013年会計年度国防権限法案にオバマ大統領が署名し法案が成立した。尖閣諸島の条文には「武力による威嚇や武力行使」問題解決を図ることに反対するとしている[473][474]
    • 4月23日:海監8隻が領海侵犯し、頑張れ日本!全国行動委員会のメンバーが乗り込んだ漁船10隻の内の9隻の漁を妨害した。これに対して海上保安庁の巡視船20隻以上が警戒にあたったが、漁船は海上保安庁の指示で危険を避ける為に石垣港に引き返した。中国公船の8隻同時の領海侵犯は尖閣諸島国有化以降最多であった[475]。また、これと同時に、中国の戦闘機などの軍用機延べ40機が日本の防空識別圏を侵犯し、これに対応するために航空自衛隊のF-15J戦闘機がスクランブル発進した[476]
    • 5月3日:尖閣諸島防衛作戦を指揮する防衛省統合幕僚監部特殊作戦室長黒沢晃1等陸佐がバイクに跳ねられて死亡する[477]。事件について中国新聞網は黒沢晃を尖閣諸島防衛指揮における最高軍事幹部であると報じるとともに、日本では暗殺説が浮上した[477]
    • 10月から「尖閣諸島に関する動画」を日本語版と英語版でYouTubeに掲載していた外務省は、12月、中国語版等9言語版を追加した[478][479]。これに対し、中国と台湾が反発した[480][481]
    • 10月に北京で行われた日中平和友好条約35周年を記念する有識者フォーラムにおいて、唐家璇元中国外相が「尖閣諸島をめぐる日中対立の責任は、40年間の「棚上げ」を破った日本側にある」と発言[482]

2014年

2015年

  • 2015年
    • この年の中国公船の尖閣諸島に付属する領海への侵入は、のべ35日95隻にのぼった[455]
    • 3月16日 : 日本の外務省は中国政府が1969年に発行した尖閣諸島を日本語名で表記した地図をホームページに掲載(他にも中国共産党機関紙が尖閣諸島を日本領土と示している資料等も提示)。中国政府は、国連アジア極東経済委員会が69年に東シナ海に石油埋蔵の可能性があるとの報告書を発表した後の、71年から領有権を主張し始め、地図もそれとともに改変させてきた経緯を中国政府が発行してきた地図を掲載して説明し、中国政府の主張の矛盾を指摘をした[491][492]。これに対し中国政府は翌17日、「1、2枚の地図を探したところで覆せない」「必要ならば中国に属していることを示す地図を100枚、1000枚でも探し出せる」との主張をした[493]

脚注

注釈

  1. ^ 日本統治時代 (台湾)#日本の敗戦と中華民国による接収を参照のこと
  2. ^ 中華民国および中華人民共和国にも返還されていないとする台湾地位未定論もあるが、広く認められたものではない。
  3. ^ 南シナ海南沙諸島を意味する。
  4. ^ 日本人が先に発見していなくても、沖大東島南鳥島のように日本領に編入された島も存在する。
  5. ^ タイ王国カンボジアが当事者のプレア・ビヘア寺院事件(1962年6月15日国際司法裁判所判決)で、1904年の条約で決定した国境線が不正確であることをもって、解釈を変更することは条約の安定性と確実性にそわないとして、1934年に地図の不正確であったと判ってから、相当年数が経過した1946年以降寺院を武力占領したタイの主張を退けた。
  6. ^ 『安全保障理事会は、関係国の発意に基くものであるか安全保障理事会からの付託によるものであるかを問わず、前記の地域的取極又は地域的機関による地方的紛争の平和的解決の発達を奨励しなければならない。』
  7. ^ それゆえ米国の再検討派は5条ではなく6条に重点を移動させるべきだとする。「第1次クリントン政権下における日米防衛関係」
  8. ^ 詳細は東沙諸島を参照。
  9. ^ 紛争地点は魚釣島南方の石垣島、西表島と与那国島との間、西表島の西南約80海里の東経123度と124度、北緯24度と26度との間の海域。1940年1月、沖縄県は台湾に対し、与那国島と台湾との中間線(東経122度)を双方の許可権の区画線とする妥協案を提示、2月双方は円満解決を図ることで一致、4月双方共同による資源開発を決定。
  10. ^ 詳しくは、尖閣諸島年表の1972年7月28日と9月27日の項を参照。
  11. ^ 以下、径の下にママとルビ。原文のままという意。
  12. ^ 詳細は尖閣諸島中国漁船衝突事件#台湾を参照
  13. ^ 詳細は尖閣諸島中国漁船衝突映像流出事件を参照

出典

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  2. ^ (石澤兵吾「久米赤島久場島魚釣島三島之取調書」(1885年 9 月21日)B03041152300-9、外交史料館蔵)
  3. ^ 西村捨三「第315号 久米赤島外二島取調の儀ニ付上申」(1885年 9 月22日)外務省編纂『日本外交文書』(第 18 巻)日本国際連合協会1951年12月573-574頁
  4. ^ 外交史料館蔵 井上馨「親展 第38号」(1885年10月21日)『日本外交文書』(第18巻)575頁
  5. ^ 石澤兵吾「魚釣島外二島巡視取調概略」(1885年11月4日)B03041152300-18〜21、外交史料館蔵
  6. ^ 2009年度 尖閣研究・尖閣諸島海域の漁業に関する調査報告2:第1章その1 尖閣諸島文献資料編纂会
  7. ^ 石澤兵吾「魚釣島外二島巡視取調概略」(1885年11月4日)B03041152300-18〜21、外交史料館蔵
  8. ^ 魚釣島(尖閣諸島)領有権問題に関する日本政府の主張を検証する-日本側の史資料を中心に-
  9. ^ Q2 尖閣諸島に対する日本政府の領有権の根拠は何ですか。外務省。
  10. ^ 人民日報 2012年10月9日 <人民日報の古い記事は日本を救う藁ではない>
  11. ^ 人民日報 2011年01月13日 从历史事实看钓鱼岛主权归属
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アジア歴史資料センターのサイト

  • アジア歴史資料センター:数字はレファレンスコード
    • 「沖縄県ト清国福州トノ間ニ散在スル無人島ヘ国標建設ノ件」(公文別録・内務省・明治十五年〜明治十八年・第四巻・明治十八年) - A03022910000
    • 「1. 沖縄県久米赤島、久場島、魚釣島ヘ国標建設ノ件 明治十八年十月」(帝国版図関係雑件) - B03041152300
    • 「沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島魚釣島ヘ標杭ヲ建設ス」(公文類聚・第十九編・明治二十八年・第二巻・政綱一・帝国議会・行政区・地方自治一(府県会・市町村制一)) - A01200793600
    • 「新領土ノ発見及取得ニ関スル先例」(新領土ノ発見及取得ニ関スル先例) - B04120002200

海洋政策研究財団・島嶼資料センターのサイト

中国の文献

  • 中国福建省・琉球列島交渉史研究調査委員会編『中国福建省・琉球列島交渉史の研究』第一書房 1995年2月
  • 鞠徳源著『日本国窃土源流 釣魚列嶼主権辨』上下冊 首都師範大学出版社 2001年5月
  • 『国家図書館蔵琉球資料匯編』上中下冊、2000年10月、『同続編』上下冊、2002年10月、北京図書館出版社。

関連項目

外部リンク