寡頭制

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少数独裁政から転送)

寡頭制(かとうせい、寡頭政: ὀλῐγ-αρχία)は、国を支配する権力が少数者や少数の団体に握られている政治体制のことであり、団体独裁とも言う。

少数が支配側になる体制である故、独裁制の一種と看做され、対比語は多頭制、つまり多数が支配側になる体制。ほとんどの場合には、寡頭制が顕著ではなく、君主制共和制議会制民主制などの皮をかぶって政府の裏側に暗躍している。寡頭制は支配者や支配団体の「数」のみに繋がるモノであり、政治学者や社会学者の中には「どんな制度でも最終的に寡頭制となり、この制度は独裁制であれも民主制であれも関係ない」と主張する者はかなり居る。

なお、権力者が2名の場合は二頭政治、3名の場合は三頭政治、4名の場合はテトラルキアともいう。

語源[編集]

権力を握っている少数の人々は、財産家系軍事力・冷酷さ、あるいは政治的影響力の面で優越していることが多い。

「oligarchy(寡頭制)」という言葉はもともとギリシア語で、「oligo(少数)」と「arkhos(支配)」から成る(オリガルヒの語源でもある)。

少数の力のある家系が政権を支配し、その子供たちが政権の後継者になるよう育てられ、訓練される、ということが寡頭制ではよく見られる。貴族制(語源的には「最上の者による支配」)とは異なり、こうした権力は公開的には行使されず、支配者は「影の権力」にとどまることを好み、経済的手段で支配を行う。アリストテレスはこの用語を、「豊かな者による支配」と同義語として使用したが、寡頭制は富裕な者の支配による必要はなく、単に特権を持った集団による支配であればよい(正確には、豊かな者による支配は、「金権政治 (plutocracy)」の用語が使用される)。

寡頭制の発生[編集]

寡頭制による国家制度は、王政ローマ共和政ローマにおける元老院が有名である。

互いに戦う部族の族長たちが次第に連合を組むことで、社会は自然と寡頭制的になってゆく。またあらゆる政体の政府はその成長の過程で寡頭制に変化してゆくことがある。もっともありうる寡頭制への変化のメカニズムは、外部からのチェックを受けない経済的な力が次第に集積してゆくことによるものだろう。ポリュビオスほか多くのギリシアの思想家は、貴族制が堕落することで寡頭制になると考えていた。寡頭制は、少数支配する家系のうちの一家が他の家族に対して優越的な力をもつ結果、より古典的な権威主義的政体へと変化してゆくこともある。ヨーロッパ中世後期に成立した君主の多くはこのように成立した。

黄金の自由」と呼ばれる貴族共和制が成立したポーランド・リトアニア共和国は、貴族のみが国王選挙などの政治に関与できる寡頭制でもあったが、貴族の数は総人口の1割にも達した。フィレンツェ共和国のような中世の都市国家では市民による共和制が成り立っていたが、その中から有力な家族による寡頭政治が発生し、やがてメディチ家に代表される僭主の支配(シニョリーア)が確立するに至った。

寡頭制は時には、君主や独裁者に対して社会の他の階層が、門戸を開いて権力を分け与えるように主張して、過渡期的に成立することにより、変化の手段になることもある。この例の一つは、1215年イングランドの貴族ら名家が結集して、権力譲渡に気の進まない国王ジョンマグナ・カルタ(大憲章)への署名を強い、ジョン王の政治力の衰退と初期の寡頭制の存在を暗黙のうちに了解させたことである。イングランド社会の成長に伴い、マグナ・カルタは1216年、1217年、1225年と何度も改正され、より多くの人々により大きな権利を認めさせ、イングランドの立憲君主制への変化を用意した。

近代の寡頭制[編集]

20世紀には、アジアラテン・アメリカをはじめとした世界中の多くの国では、政治家の一家や親族による縁故主義や、権力は世襲されないが特定の政党だけが主権を持ち、政治家が国民によって選出されない寡頭共和制(例:ソビエト連邦中華人民共和国などの社会主義国国民党一党独裁下の台湾シンガポールなどの「開発独裁」型国家)が見られる。また、縁故主義や寡頭共和制のあるなしに関係なく、官僚や軍部、大資本家も含めた限られたエリート達による支配も寡頭制といえる。

20世紀南アフリカ共和国にも、近代における寡頭制の一種が見られる。南アフリカの寡頭制は人種に基づいていた。第2次ボーア戦争のあと、イギリス人アフリカーンス語を話すボーア人という2種類の白人は暗黙の同意に達した。彼らは合わせて総人口の20%を占める程度だったが、少数派ながら教育や交易の機会のほとんどを占有し、多数派の黒人にはこれらを認めないようになった。こうした人種隔離は18世紀半ばからあったが、1948年には公式な政府の政策となって「アパルトヘイト」として知られるようになり、1994年まで続いた。

なお、名目上は民主的共和制であっても、選挙制度や法制度、不正選挙等の要因により実質的には寡頭制の性格を帯びることもある。全国民に投票権がありながらも、特定の者への投票を事実上強制されるなど不正選挙が横行している国や、選挙制度が極端に歪んだ国などは、事実上の寡頭共和制といえる。

政党制と寡頭制[編集]

ヴィルフレド・パレートガエターノ・モスカロベルト・ミヒェルスといった学者は、すべての政治体制は寡頭制に変化するとしている(ミヒェルスは『政党社会学』 (1911年) の中でいかなる民主的組織であれ大規模化するにつれて必然的に少数支配へと変質するとドイツやイタリアの社会民主党の分析から明らかにし「寡頭制の鉄則」を提唱した[1])。これらの考えによれば、近代的民主制は選挙で選ばれた寡頭制と見るべきである。この制度のもとで登場する政治的ライバル同士の差は実際的にはほとんど小さく、受け入れやすく立派であるとされる政治的意見を構成する基本的なアイデアは、党上層部などの寡頭的支配者によって厳しい制約が課せられる。さらに、政治家の経歴は、選挙で選ばれない経済界やマスメディアのエリートが決定することになるのである。

脚注[編集]

  1. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『寡頭制』 - コトバンク

関連項目[編集]