小野伸二

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小野 伸二
名前
愛称 シンジ、センセイ
カタカナ オノ シンジ
ラテン文字 ONO Shinji
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1979-09-27) 1979年9月27日(44歳)
出身地 静岡県沼津市
身長 175cm
体重 76kg
選手情報
在籍チーム 日本の旗 コンサドーレ札幌
ポジション MF(CH,OH)
背番号 44
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1998-2001 日本の旗 浦和レッドダイヤモンズ 79 (20)
2001-2005 オランダの旗 フェイエノールト 112 (19)
2006-2007 日本の旗 浦和レッドダイヤモンズ 53 (8)
2007-2010 ドイツの旗 VfLボーフム 29 (0)
2010-2012 日本の旗 清水エスパルス 70 (8)
2012-2014 オーストラリアの旗 ウェスタン・シドニー・ワンダラーズ 47 (9)
2014- 日本の旗 コンサドーレ札幌 24 (2)
代表歴2
1998-2008[1] 日本の旗 日本 56 (6)
1. 国内リーグ戦に限る。2015年4月25日現在。
2. 2008年8月20日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

小野 伸二(おの しんじ、1979年9月27日 - )は、静岡県沼津市出身のプロサッカー選手ポジションミッドフィールダー(MF)。J2リーグコンサドーレ札幌所属。元日本代表

FIFAワールドユース準優勝、FIFAコンフェデレーションズカップ2001準優勝、日韓ワールドカップGL1位通過、UEFAカップ優勝を達成してアジア年間最優秀選手賞を受賞。FIFA世界大会、UEFAクラブ国際大会のすべてに出場した唯一の日本人選手である。

来歴

小学生時代から「天才」と呼ばれ地元では名前を知られていた。10人兄弟の内で5番目の子で、母子家庭で育ち小学校時代は家庭が貧しく、サッカー少年団にも入っていなかったが、小野が一人でサッカーをしているのを見た少年団の監督から「お金はいらないからぜひ入ってくれ」と勧誘された。1993年に13歳でU-16日本代表に初選出され、以降も各年代の代表チームの中心選手として活躍した。1994年には第6回U-16アジアユース選手権で優勝し、1995年にはFIFA U-17世界選手権大会に出場している。

清水商業高校に入学し、同級生には平川忠亮池端陽介などがいた。1年後輩には池田学がいる。チームの中心としてプレーしていたが全国高等学校サッカー選手権大会には静岡県予選で敗退し本大会出場を一度も果たせなかった。高校3年時1997年の全日本ユース選手権では準優勝、インターハイベスト8、他校の選手と合同チームを組んだ国民体育大会では静岡県選抜・少年男子の部で2年連続となる優勝をはたした。卒業に際してはJリーグの13クラブからオファーを受け、浦和レッズに入団し、背番号は28を与えられた。

浦和レッズ

1998年にはアジアユース選手権で準優勝し、自身もMVPを獲得した。韓国とのワールドカップ共催記念試合で岡田武史監督に抜擢され、18歳でA代表初出場を果たした。フランスW杯の日本代表に選出され、第3戦のジャマイカ戦で15分間の途中出場した。この試合ではファーストタッチで相手選手を股抜きでかわすなど好プレーを連発した。浦和ではデビュー2戦目の横浜フリューゲルス戦でプロ初得点を挙げた。このシーズンは合計9得点を挙げ新人王Jリーグベストイレブンを受賞した。

1999年は浦和での背番号を8に変更した。ナイジェリアで開催されたFIFAワールドユースでは、決勝のスペイン戦は累積警告で出場停止となったものの、キャプテンとして準優勝に貢献し、ベストイレブンにも選出された。7月5日に行われたシドニーオリンピックのアジア地区一次予選、対フィリピン戦において、相手ディフェンスに後方からのタックルを受け、左膝靭帯断裂の重傷を負った。この怪我により長期離脱を余儀なくされ、リーグ戦の半分以上を欠場した。リハビリを経て復帰したが、この怪我に由来する慢性的な痛みやケガの頻発を抱えるようになる。浦和も成績が低迷し、J2に降格した。

2000年はコンディション不良が続きシドニーオリンピックの本大会メンバーには選出されなかったが、アジアカップレバノン大会の日本代表に選出された。クラブのJ2降格に伴い清水エスパルスを始め他チームから獲得オファーがあったが、チームへの残留を決断しクラブ史上最年少のキャプテンとしてチームを牽引し最終節でJ1昇格を果たした。

2001年には日本で開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2001において日本代表のレギュラーとして準優勝に貢献した。J1の1stステージ終了後にオランダリーグの強豪クラブであるフェイエノールトへの移籍が決定した。

フェイエノールト

UEFAカップ2001-02決勝、ボルシア・ドルトムント戦のスターティングメンバー

フェイエノールトでは背番号14を与えられた(小野が以前日本ユース代表で14番を付けていたことがあるのがこの番号を選んだ理由)[2]。2001-02シーズンに加入するとすぐにスターティングメンバーに定着し、5月にはUEFAカップ準決勝でインテル相手にアウェイで1‐0と先勝、ホームでも2‐2と勝ち上がり、決勝ではACミランを大差で破り勝ち上がってきたボルシア・ドルトムントを破り優勝、プロ入り後初となる所属クラブでのビッグタイトル獲得となった。6月には日韓ワールドカップでの日本代表に選出され、虫垂炎を患いながらも全4試合に出場し、日本代表として史上初のベスト16に貢献した。

フェイエノールト移籍後はベルト・ファン・マルワイク監督により中盤でゲームを組み立てる役割を与えられ、主にボランチでプレーした。

2002-03シーズンの8月に行われた2002-03UEFAチャンピオンズリーグ予備予選で、トルコのフェネルバフチェと対戦し、ホームとアウェイそれぞれで決勝ゴールを奪い、チームを本選へ導いた。新たに日本代表監督に就任したジーコにも招集され初戦でもゴールを決めた。これらの活躍が評価され、2003年にはアジアサッカー連盟(AFC)から2002年度の年間最優秀選手賞を送られている。

2003-04シーズンは左足首骨挫傷など負傷欠場が多く、クラブもタイトルを獲得できなかった。日本代表でもコンフェデレーションズカップや親善試合を怪我で辞退している。

2004年も前年からの怪我の影響もあったが復帰後すぐに日本代表に招集されW杯3次予選突破に貢献した。欧州遠征にも参加し、イングランド戦ではボランチとして出場し、アウェイにおけるベストメンバーのイングランドを相手にゴールを決めるなど活躍した。アテネオリンピックにはオーバーエイジとして出場し、1次リーグ3試合でPKによる2得点をあげたが、決勝トーナメント進出はならなかった。

2004-05シーズンはルート・フリットの下でフェイエノールト在籍4年目を迎えた。日本代表やアテネでの過密日程の影響もあり、負傷が多いシーズンになった。このシーズンはフェイエノールト在籍期間中で最も多い7ゴールを挙げた。

2005-06シーズンは2005年W杯最終予選バーレーン戦前の練習中に疲労骨折し、更に以前の怪我の再手術もありシーズンを棒に振った。コンフェデレーションズカップも欠場した。

フェイエノールト在籍5年で欧州サッカー連盟主催の国際大会に7回出場。これは2015年現在日本人最多である。

浦和レッズ復帰

2006年1月13日に浦和への復帰が決定し、1月26日に正式契約を結んだ。背番号は18を与えられた。6月に3大会連続となるドイツW杯日本代表メンバーに選出され、初戦のオーストラリア戦で交代出場を果たしたが、交代直後に3失点し逆転負けを喫した。この大会での出場はこの試合のみに終わった。12月に天皇杯準々決勝のジュビロ磐田戦で途中出場し、一時は逆転となる2得点を決め、続く準決勝の鹿島アントラーズ戦では先発出場し先制得点を挙げ、ロブソン・ポンテとのワンツーから決勝点もアシストする活躍で天皇杯優勝に貢献した。リーグ戦では怪我の影響、守備を重視するギド・ブッフバルト監督の戦術により、レギュラーとして出場できない試合もあった。

2007年三都主アレサンドロがオーストリアのレッドブル・ザルツブルクに移籍したため背番号を8に変更した。6月30日の磐田戦における直接フリーキックとループシュートによる2得点など天才的なプレーを見せることも多かったが、ブッフバルトに引き続き守備的戦術を採用したホルガー・オジェック監督の方針のため途中出場することもあった。

ボーフム

2008年1月に浦和からドイツブンデスリーガVfLボーフムに移籍した。2007-08シーズンのデビュー戦となったヴェルダー・ブレーメン戦では途中出場ながら2アシストを決め勝利に貢献した。怪我の影響もあり先発機会は少なく、途中出場が多くなった。

2008-09シーズンはキリンチャレンジカップのウルグアイ戦に2年2ヶ月ぶりとなる代表復帰を果たした。ペナルティーエリア内に走り込む中村憲剛に、得意のダイレクトスルーパスを通し先制点の起点になるが試合は敗戦した。この試合後監督の岡田は一部の選手に見切りが付いたという趣旨の発言を残し[3]、これ以降小野は代表に招集されなかった。ボーフムでは、9月に監督が交代後からスタメンでの出場が増え、ボランチやトップ下でプレーし、ハンブルガーSVに勝利するなど低迷するチームの浮上に貢献した。好調を維持していたが、シーズン中に移籍することになる。なお、その後ボーフムは2部に降格している。

清水エスパルス

高校時代から獲得の意思が強かった清水エスパルスからのオファーを受けて2010年1月に移籍を決めた。背番号は当時自身の年齢であった30番を選択した。ベテランとしてチームをまとめ[4]インサイドハーフのポジションを確保したが、W杯のメンバーには選ばれず、連続出場記録は3で止まった。

2010年J1第30節の湘南戦の得点は、ゴール破損による中断のため、前半のアディショナルタイムが10分以上あり、ゴール時間が45+13分という珍記録となる[5]

ウェスタン・シドニー・ワンダラーズFC

2012年9月28日、オーストラリアAリーグウェスタン・シドニー・ワンダラーズFCに移籍[6]アレッサンドロ・デル・ピエロエミール・ヘスキーらと共にAリーグにおいて高い注目を集められた。1年目は26試合で8ゴールを挙げ、チームリーグ参入初年度でのレギュラーシーズン優勝に貢献した。また、ファイナルシリーズ準決勝のブリスベン・ロアー戦で決めたループシュートは相手チームの監督やフェイエノールトで共にプレーしたピエール・ファン・ホーイドンクがツイッターで小野のゴールを絶賛している。また、シドニーFCとのシドニーダービー英語版で合計2得点を挙げている。 ユニフォームの選手ロゴは「SHINJI」。

コンサドーレ札幌

2014年1月16日、J2のコンサドーレ札幌と仮契約、6月から加入予定であることが発表された[7]。同年6月8日に北海道入りした際には、新千歳空港で200人のファンと40人の報道陣に迎えられ、翌9日にさっぽろテレビ塔下で入団会見を行った[8]。2014年シーズンは、怪我の影響もあり7試合のみの出場でとどまった。2015年シーズンも怪我で出遅れたが、10月5日に行われた東京ヴェルディ1969戦で札幌移籍後初ゴールを挙げた[9]

評価・プレースタイル

中盤の攻撃的な位置から攻撃を組み立てるゲームメーカー・チャンスメーカーである。また、ボールコントロールの正確さから、「ボールと会話できる選手」と呼ばれる[10]。右足、左足の両方の精度が高く、繊細なボールタッチを持ち、主にダイレクトプレーで、テンポよくゲームをコントロールする。また、あたかも上空からピッチ全体を俯瞰しているかのような広い視野を持つ一方で、「ベルベット・パス」と評されるパスで多くのアシストを記録している。また、FWではないもののシュート技術にも秀でており、小学校時代以来、GKとの一対一の場面やPKでシュートを外したことがないと言われている。[11][12]

かつては中盤の激しいプレスを求められる現代サッカーにおいて、目立った運動量や献身的な動きが少ないことが最大のネックとされていた。そのため、持久力が無いと思われがちだが、2010年から所属する清水エスパルスや過去の代表合宿でのインターバル走では、常にトップ3以内にいる[13]。清水エスパルス移籍後は、運動量や守備にも磨きがかかり、攻守に貢献するようになった[14]

走るスピードもファン感謝デーで見せているように俊足である[15]

人物・エピソード

  • 10人兄弟の5番目だが、漢字の「二」が入る「伸二」という名前が付けられた。その理由として、本人は「母が牧伸二の大ファンだった」と述べている[16]
  • 自伝で述べているように、彼の最大の特徴である総合的なテクニックの高さは少年期からボールの1人壁打ちや、ボールリフティングにより磨かれた努力の賜物である。
  • 同学年の高原直泰稲本潤一らと仲がよい。この3人を追ったフジテレビ系の正月恒例の特別番組「ワールドカップをめぐる冒険」が2002年から2007年まで放送された。また、高原とは清水、稲本とは札幌でチームメイトになっている。
  • 浦和で仲が良かったのは1年先輩の田畑昭宏で、2人でファン感謝デーのトークショーなどに登場した。2001年には田畑がジェフ市原に移籍して対戦したが、小野のフリーキックが田畑の頭に入ってゴールになった。これがフェイエノールト移籍前のラストゴールで、試合後のセレモニーでは田畑からも花束を受け取った。その後、札幌に移籍した田畑の応援に小野が札幌の練習場や試合に来る事もあり、自らの移籍前にその環境を知る機会があった。
  • 2001年7月19日、元読者モデルの女性と入籍。2004年12月19日に長女、2007年3月には次女が誕生している。
  • 麻雀好きである事をサッカー誌で語っている。
  • 大島司の漫画作品『シュート!』の物語終盤で、高原直泰とともに実名で登場している。
  • かつてFC琉球に所属した小野正朋は実弟。
  • 2009年に元日本代表三浦泰年と対談した際に、「今は海外でやっているけど、最終的には清水エスパルスでプレイしたい」と発言し、その清水に2010年に加入した。
  • ナイキと契約していたが、後にアシックスと契約している。
  • オランダ・テレグラフ紙の企画において、アルゼンチン人ながらオランダ王室に嫁いだマクシマ・ソレギエタと共に『2001年、最もオランダ語の上達した外国人』に選ばれた[17]。ちなみに、同じくオランダ・テレグラフ紙の企画における『オランダ国内で一番知られている新外国人』としても、マクシマ・ソレギエタに次ぐ第2位に選ばれている[18]
  • 2006年のW杯が開催されている間のボン合宿においては、中田英寿と準備運動や2人組のパス練習でペアを組み、「2人でやった方がおもしろいので」と言って居残りのシュート練習にも付き合っていた[19]
  • スーパーサッカーのインタビューで、ジーコの意図が理解できなかったことや自分が入ってから立て続けに3失点し逆転負けしたことを挙げ、2006 FIFAワールドカップのオーストラリア戦の交代出場が4年間トラウマになっていたと発言した。
  • サッカー雑誌のインタビューで、オランダ代表スナイデルが、今までで対戦した選手の中で最も上手いと思った選手に小野伸二の名前を挙げた[20]
  • フェイエノールト時代の恩師であるオランダ代表元監督のベルト・ファン・マルワイクは、「今の日本代表に第2の小野伸二はいない」[21]、「シンジは今まで一緒に働いた中で、一番良いプレーヤーだった。日本に戻って、また活躍してくれていると聞いてうれしいよ」[22] と語った。

所属クラブ

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1998 浦和 28 J 27 9 0 0 2 0 29 9
1999 8 J1 14 2 0 0 2 0 16 2
2000 J2 24 7 0 0 2 1 26 8
2001 J1 14 2 4 3 - 18 5
オランダ リーグ戦 リーグ杯KNVBカップ 期間通算
2001-02 フェイエノールト 14 エールディヴィジ 30 3 - 2 1 32 4
2002-03 29 7 - 2 0 31 7
2003-04 24 2 - 1 0 25 2
2004-05 8 25 7 - 2 0 27 7
2005-06 4 0 - 0 0 4 0
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2006 浦和 18 J1 28 5 1 1 4 3 33 9
2007 8 25 3 2 1 0 0 27 4
ドイツ リーグ戦 リーグ杯DFBポカール 期間通算
2007-08 ボーフム 23 ブンデス1部 12 0 - - 12 0
2008-09 8 0 - 2 0 10 0
2009-10 9 0 - 1 0 10 0
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2010 清水 30 J1 30 2 6 1 5 1 41 4
2011 18 26 6 2 1 2 1 30 8
2012 14 0 0 0 0 0 14 0
オーストラリア リーグ戦 リーグ杯FFA杯 期間通算
2012-13 WSW 21 Aリーグ 24 7 - - 24 7
2013-14 23 2 - - 23 2
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2014 札幌 44 J2 7 0 - 0 0 7 0
2015 17 2 - 2 0 19 2
通算 日本 J1 178 29 15 7 15 5 208 41
日本 J2 48 9 0 0 4 1 52 10
オランダ エールディヴィジ 112 19 - 7 1 119 20
ドイツ ブンデス1部 29 0 - 3 0 32 0
オーストラリア Aリーグ 47 9 - - 47 9
総通算 414 66 15 7 29 7 458 80

その他の公式戦

  • 2006年
  • 2007年
    • スーパーカップ 1試合0得点
  • 2013年
    • Aリーグ ファイナルシリーズ 2試合1得点
  • 2014年
    • Aリーグ ファイナルシリーズ 2試合0得点
国際大会個人成績 FIFA
年度 クラブ 背番号 出場 得点 出場 得点 出場 得点
UEFAUEFA ELUEFA CL-
2001-02 フェイエノールト 14 8 2 4 0 -
2002-03 - 5 0 -
2003-04 4 0 - -
2004-05 8 7 1 - -
2005-06 1 0 - -
AFCACL-クラブW杯
2007 浦和 8 8 2 - 1 0
2014 WSW 21 6 1 - -
通算 UEFA 20 3 9 0 -
AFC 14 3 - 1 0

その他の国際公式戦

タイトル

チーム

  • 1994年 - U-16アジアユース選手権優勝
  • 1999年 - FIFAワールドユース準優勝
  • 2000年 - アジアカップ優勝
  • 2001年 - FIFAコンフェデレーションズカップ準優勝
  • 2002年 - UEFAカップ優勝
  • 2002年 - UEFAスーパーカップ準優勝
  • 2006年 - Jリーグスーパーカップ優勝
  • 2006年 - Jリーグ優勝
  • 2006年 - 天皇杯優勝
  • 2007年 - AFCチャンピオンズリーグ優勝
  • 2013年 - Aリーグ レギュラーシーズン優勝

個人

代表歴

出場大会など

試合数

  • 国際Aマッチ 56試合 6得点 (1998-2008)[1]


日本代表国際Aマッチ
出場得点
1998 3 0
1999 0 0
2000 12 1
2001 9 1
2002 8 1
2003 5 0
2004 7 2
2005 2 0
2006 9 1
2007 0 0
2008 1 0
通算 56 6

ゴール

# 開催年月日 開催地 対戦国 勝敗 試合概要
1. 2000年10月14日 レバノンサイダ サウジアラビアの旗 サウジアラビア ○ 4-1 AFCアジアカップ2000
2. 2001年5月31日 日本新潟 カナダの旗 カナダ ○ 3-0 FIFAコンフェデレーションズカップ2001
3. 2002年10月16日 日本、東京 ジャマイカの旗 ジャマイカ △ 1-1 キリンチャレンジカップ2002
4. 2004年6月1日 イングランドマンチェスター イングランドの旗 イングランド △ 1-1 国際親善試合
5. 2004年9月8日 インドコルカタ インドの旗 インド ○ 4-0 2006 FIFAワールドカップ・アジア予選
6. 2006年2月22日 日本、横浜 ○ 6-0 AFCアジアカップ2007予選

CM出演

脚注

  1. ^ a b “小野 伸二”. サッカー日本代表データベース. http://www.japannationalfootballteam.com/players_a/shinji_ono.html 
  2. ^ https://www.feyenoord.nl/nieuws/nieuwsoverzicht/67696
  3. ^ http://supportista.jp/news/1656
  4. ^ 小野伸二、清水に変化をもたらしたカリスマ (2/2) “王国”の名にふさわしいチームへ
  5. ^ 公式記録 2010Jリーグ ディビジョン1 第30節第1日
  6. ^ 豪州クラブが清水MF小野伸二の獲得を発表
  7. ^ “小野 伸二 選手との仮契約締結のお知らせ”. コンサドーレ札幌. (2014年1月16日). http://www.consadole-sapporo.jp/news/2014/01/015951.html 2014年6月9日閲覧。 
  8. ^ “小野伸二J2札幌入りでファン200人歓迎”. nikkansports.com (日刊スポーツ新聞社). (2014年6月8日). http://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp1-20140609-1314721.html 2014年6月9日閲覧。 
  9. ^ “札幌MF小野伸二が加入17試合目で初ゴール…札幌が敵地で東京V下す”. nikkansports.com (サッカーキング). (2015年10月4日). http://www.soccer-king.jp/news/japan/jl/20151004/356566.html 2015年10月4日閲覧。 
  10. ^ http://labola.jp/player/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E4%BC%B8%E4%BA%8C
  11. ^ http://www.nikkansports.com/news2/japan/rensai/m_ono.html
  12. ^ http://www.resonacard.co.jp/reds/column/onceupon/column_0202.html
  13. ^ 小野に競り負けガックリ 伊藤翔いきなり“FW魂”見せた
  14. ^ http://www.plus-blog.sportsnavi.com/dsinput2/article/219
  15. ^ 運動会で奮闘 ゴトビ監督「あんなに速く走った伸二は見たことない」
  16. ^ ドイツニュースダイジェスト、2008年2月29日号での小野のインタビュー記事、[1]
  17. ^ 『NIKE football(Kodansha mook)』講談社刊、2002年4月20日発行
  18. ^ http://www.tv-asahi.co.jp/ss/46/news/top.html
  19. ^ http://germany2006.nikkansports.com/paper/p-sc-tp4-20060622-0052.html
  20. ^ http://netherlands.worldcupblog.org/world-cup-2010/wes-sneijder-analysis-of-world-class-player.html
  21. ^ http://www.sponichi.co.jp/soccer_worldcup/special/2010news/0618news/KFullNormal20100619141.html
  22. ^ http://number.bunshun.jp/articles/-/46024?page=2

関連項目

外部リンク