小田原征伐

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小田原征伐
小田原城
小田原城(但し江戸時代期の城を元にした復元)
戦争安土桃山時代
年月日1590年天正18年)2月 - 7月
場所相模国小田原、関東一帯
結果:豊臣軍の勝利 後北条氏は降伏。
交戦勢力
豊臣軍 北条軍
指導者・指揮官
豊臣秀吉 北条氏直
戦力
本隊 161,135
九鬼・毛利勢(水軍)20,630
前田・上杉勢 35,000
(諸説あり)
82,000(諸説あり)
損害
不明 不明
豊臣秀吉の戦闘

小田原征伐(おだわらせいばつ)は、1590年(天正18年)に豊臣秀吉大義名分によって後北条氏征伐し降した歴史事象・戦役。惣無事令違反を名目に起こした征討で、天皇は後北条氏討伐の勅書を発していなかったものの[1]太閤であった豊臣秀吉は、天皇の施策遂行者として名分を備えていたという立場で臨んでいた[2]。小田原城の攻囲戦だけでなく、並行して行われた後北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含むものとする。

小田原攻め小田原合戦小田原の役北条征伐小田原の戦い小田原の陣小田原城の戦い(天正18年)[3]とも呼ばれる。

北条氏康から氏政の時代へ

戦国時代に新興大名として台頭した北条氏康武蔵国進出を志向して河越夜戦で、上杉憲政足利晴氏を駆逐し、甲斐国武田信玄駿河国今川義元との甲相駿三国同盟を背景に関東進出を本格化させると関東管領職を継承した越後の上杉謙信と対峙し、特に上杉氏の関東出兵には同じく信濃侵攻において上杉氏と対峙する武田氏との甲相同盟により連携して対抗した。

戦国後期には織田・徳川勢力と対峙する甲斐の武田信玄がそれまでの北進策を転換し駿河の今川領国への侵攻(駿河侵攻)を行ったため後北条氏は甲斐との同盟を破棄し、越後の上杉謙信と越相同盟を結び武田氏を挟撃するが、やがて甲相同盟を回復すると再び関東平定を進めていく。

信玄が西上作戦の途上に急死した後、越後では謙信の死によって氏政の庶弟であり謙信の養子となっていた上杉景虎と、同じく養子で謙信の甥の上杉景勝の間で御館の乱が勃発する。勝頼は氏政の要請により北信濃まで出兵し両者の調停を試みるが、勝頼が撤兵した後に和睦は崩れ、上杉景勝が乱を制したことにより、武田家との同盟は手切となる。なお、武田勝頼と上杉景勝は甲越同盟を結んだ。1580年天正8年)、氏政は氏直に家督を譲って江戸城に隠居したあとも、北条氏照北条氏邦など有力一門に対して宗家としての影響力を及ぼし、実質的当主として君臨していた。

武田氏との手切後、勝頼は常陸国の佐竹氏ら反北条勢力と同盟を結び対抗し、信長とも和睦を試みているが1582年(天正10年)に織田信長徳川家康は本格的な甲州征伐を開始し、後北条氏もこれに参加している。この戦いで武田氏は滅亡し、後北条氏は上野や駿河における武田方の諸城を攻略したものの戦後の恩賞は皆無であり、北条家は織田家へ不満を抱くようになる。

同年末の本能寺の変で信長が自刃した直後に織田家と断交し、織田家臣の滝川一益を敗退させた神流川の戦いを経て武田遺領の確保を目指した徳川家康との間に天正壬午の乱が勃発する。一時は東信濃を支配下に置いたが、武田遺臣の真田昌幸が離反する。後方に不安を抱えたままの合戦を嫌った後北条氏は、家康の娘・督姫を氏直の正室に迎え、武田遺領のうち後北条氏が上野、徳川氏が甲斐・信濃を実質領有することで講和の道を選んだ。しかし、徳川傘下となった真田昌幸は勢力範囲の一つ沼田の割譲が講和条件とされたことに激怒、徳川氏からも離反し上杉景勝を頼ることとなった。

後北条氏は徳川氏との同盟締結によって、全軍を関東に集中できる状況を作りあげた。既に房総南部の里見家を事実上の従属下に置いていた北条氏は北関東に軍勢を集中させることとなった。

下野南部祇園城小山氏を滅ぼし唐沢山城佐野氏を乗っ取り、下野中央部宇都宮城宇都宮国綱を攻撃するが、国綱は常陸佐竹義重下総結城晴朝奥州白河小峰義親白河結城氏)らと同盟して独立を保ちつつ、居城を宇都宮城から要害地多気山多気城に移す。

宇都宮周辺部では壬生城および鹿沼城壬生義雄はもともと親北条であり、宇都宮家重臣で真岡城城主の芳賀高継も当初こそ主家に従い北条に抵抗するも天正17年(1589年)終にこれに屈し、那須一族とは主導的な盟約を結び、小田原開戦時点では下野の大半を勢力下に置いていた。さらに常陸南部にも進出し、奥州の伊達政宗と同盟を結ぶなど、一族の悲願である関東制圧は目前に迫った。しかし、追い詰められた佐竹義重、宇都宮国綱、佐野房綱らは秀吉に近づくこととなる。豊臣政権側としても、以前から後北条氏を警戒していたようである。

そんな最中、真田氏との領土紛争を起こした後北条氏は一旦は秀吉の仲裁によって、後北条氏が沼田城を領有して紛争地域の大半を後北条領とする事で和解する事になった。その和解の条件として秀吉は氏政・氏直のどちらかの上洛を要求した(これは徳川家康や島津義久義弘兄弟が豊臣政権に従った時にも条件の一つとして行われており、上洛以後は過去の敵対行為は一切不問とされている)。だが、後北条・真田双方ともその内部には仲裁案に不満を抱く者もおり、北条父子の上洛の話は実現しなかった。

代わりに板部岡江雪斎を使者として送り、一旦は氏政上洛という返事もあった。ところが、天正17年(1589年)11月、後北条方で沼田城将猪俣範直による(真田氏の墳墓があったため、特に真田側の領有とされていた)名胡桃城占領と言う事態を迎える。これに対し秀吉は後北条氏の惣無事令違反を非難して、その討伐令を全国の諸大名に通知した。範直の名胡桃城占領に関しては、範直の独断ではなく同時期に北条氏邦が宇都宮に侵攻していることから、暗に氏政の指示があったという説もあるが定かではない。同年12月13日、秀吉は宣戦布告の朱印状を以って陣触れを発した。

秀吉との戦い

後北条氏側は関東諸豪制圧の頃から秀吉の影を感じ始めていたと言われ、その頃から万が一の時に備えて15歳から70歳の男子を対象にした徴兵や、大砲鋳造のために寺の鐘を供出させたりするなど戦闘体制を整えていた。また、ある程度豊臣軍の展開や戦略を予測しており、それに対応して小田原城の拡大修築や八王子城山中城韮山城などの築城を進めた。また、それらにつながる城砦の整備も箱根山方面を中心に進んでいった。

一方、豊臣側では傘下諸大名の領地石高に対応した人的負担を決定(分担や割合などは諸説ある)。また、陣触れ直後に長束正家に命じて米雑穀20万石あまりを徴発し、天正大判1万枚で馬畜や穀物などを集めた。長宗我部元親宇喜多秀家九鬼嘉隆らに命じて水軍を出動させ、徴発した米などの輸送に宛がわせた。毛利輝元には京都守護を命じて、後顧の憂いを絶った。豊臣軍は大きく2つの軍勢で構成されていた。東海道を進む豊臣本隊や徳川勢の主力20万と、東山道から進む前田・上杉勢を中心とする北方隊3万5千である[4]。これに秀吉に恭順した佐竹氏小田氏大掾氏真壁氏結城氏宇都宮氏那須氏里見氏の関東勢1万8千が加わった[4]

豊臣側の主だった大名

推定総計約21万。

後北条側の主だった諸将

豊臣側の基本的戦略としては、北方隊で牽制をかけながら、主力は小田原への道を阻む山中、韮山、足柄の三城を突破し、同時に水軍で伊豆半島をめぐって小田原に迫らせる方針であった。一方、兵力で劣るとは言いながらも後北条氏側も5万余の精鋭部隊を小田原城に集め、そこから最精兵を抽出[要出典]して山中、韮山、足柄の三城に配置した。主力を小田原に引き抜かれた部隊には徴兵した中年男子などを宛てた。各方面から豊臣側が押し寄せてくるのは明らかであったが、それ以上に主力が東海道を進撃するのが明らかだったため、箱根山中での持久戦を想定した戦略を推し進めることになった。野戦を主張した氏邦がこの戦略に異を唱え、手勢を率いて鉢形城に帰る事態となったが、最終的にこの戦略が採られる事となった。とはいえ、松井田城には大道寺政繁率いる数千の兵が、さらに館林城にも同程度の兵が割り振られていた事を考えると、北関東にもある程度の備えは配置されていたといえる。

小田原城包囲

北条支城攻略

石垣山城より小田原城(中央)を望む
蓮上院土塁

1590年(天正18年)春頃から豊臣軍主力が、かつて源頼朝平家打倒の挙兵の際に兵を集めた黄瀬川周辺に集結。それを察知した後北条側はゲリラ戦法を以ってこれに対抗。[要出典]兵糧を焼くなど一定の戦果があったらしく[要出典]豊臣軍の兵は忽ち食糧不足に陥り[要出典]略奪や狩猟などで食糧を確保していたようである。[要出典]3月27日には秀吉自身が沼津に到着。29日に進撃を開始。進撃を阻む山中城には秀次・徳川勢を、韮山城には織田信雄勢を宛てて攻撃を開始した。


秀吉は山中城攻撃軍の大将を兵数と官位のより高い家康ではなく、秀次と認識していた[6]。山中城では一柳直末討死したものの数時間の戦闘の後落城し、松田康長は北条氏勝を逃して手勢を率いて玉砕。徳川勢は山中城落城の同日に鷹之巣城を、翌日に井伊直政隊が攻城を開始した足柄城を4月1日に落とし、先鋒部隊は早くも4月3日には小田原に到着した。


1590年(天正18年)3月29日から6月24日まで続いた。

韮山城では攻撃側の10分の1しかいない城兵が織田信雄勢を阻み包囲戦となる。そのため、秀吉は韮山城包囲のための最小限の兵力を残し、織田信雄以下の主力は小田原方面に転進させた。


水軍部隊は後北条氏配下の伊豆水軍を撃破して伊豆半島沿岸の諸城を落とし、小田原沖に展開する。

小田原包囲戦が始まると秀吉は氏直の戦意低下のため、石垣山に石垣山城を築き、茶人の千利休を主催とし大茶会などを連日開いた。茶々などの妻女も呼び寄せ、箱根温泉旅行などの娯楽に興じ、富と権力を誇示するための示威行為を小田原を中心として繰り広げることとなった。

1590年(天正18年)3月28日から4月20日まで続いた。

一方、前田勢・上杉勢ら北国勢と、途中で合流した信州勢を主力とする北方隊は、3月に入るや否や松井田城攻略に取り掛かった。大道寺政繁は嫡男を脱出させ自らは激しく抵抗するも、連合軍の猛攻の前に4月20日についに降伏。道案内をすることとなった。その後、厩橋城(4月19日)、箕輪城(4月23日)と上野の各城を開城勧告などで難なく攻め落とした。一方、小田原包囲勢から主に徳川勢から兵力を抽出して北方隊を助ける部隊を編成し、武蔵に進撃。玉縄城(4月21日)、江戸城(4月27日)と武蔵の諸城を次々に陥落させると、戦力を二手に分け、片方は下総方面に向かわせた。浅野長政内藤家長(徳川家臣)らによる下総方面軍は小金城(5月5日)、臼井城(5月10日)、本佐倉城(5月18日)と次々と落とし、逆に秀吉から浅野に対して敵である房総諸将の不甲斐無さを詰って房総諸城の攻略は戦功として認めないとする書状が送られたほどであったという(5月20日付、「浅野家文書」)。もう一方は河越城を陥落させ、岩付城5月20日に徳川勢の働きもあって落城した。


1590年(天正18年)5月19日から22日まで続いた。

この房総・武蔵の諸城の異常な速さでの陥落は、各城の兵力のほとんどが小田原城の籠城戦のために引き抜かれたために最低限の守備兵すら確保できない状態での籠城戦となったためである(例えば、小金城の高城氏の軍事力は豊臣側が作成した「関東八州諸城覚書」では700騎と記されているが、実際には城主の高城胤則ら大半が小田原城に籠城し、小金城が包囲された時に残されたのは200騎と軽卒300名であったという(「小金城主高城家之由来」) )。ある程度の兵士が確保されていた鉢形城館林城などは攻め倦み、そこでは進撃の速度は大幅に落ちている。


1590年(天正18年)5月14日から6月14日まで続いた。

忍城の戦い

1590年(天正18年)6月5日から7月17日まで続いた。

忍城攻めでは、石田三成を大将、長束正家を副将に佐竹義重宇都宮国綱結城晴朝などの常陸下野下総の諸大名や真田信繁など上野の諸将を先鋒に、本陣を忍城を一望する近くの丸墓山古墳(埼玉古墳群)に置いて忍城を包囲した。秀吉は三成に近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うよう命じ、岩槻城を抜いた徳川勢の後詰も導入され、利根川から忍城付近まで石田堤の建設が進められたが、利根川の水量が貧弱であったため水攻めの効果は薄かった。その後の増水により堤が決壊して石田方に溺死者がでるなど水攻めは失敗に終わり、忍城攻めは7月に入っても続くことになる。最終的には落城しないまま小田原城開城を受けて開城することになった。

八王子城の戦い

1590年(天正18年)6月23日。

  • 八王子城守備軍(北条氏照の配下) 総勢3,000人

八王子城攻めには、上杉景勝前田利家らの部隊約1万5千人が動員された。当時八王子城は城主氏照が不在で、場内には城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵中山勘解由家範近藤出羽守綱秀ら約3000人が立てこもっていたとされる。 詳しくは八王子城も参照。

小田原開城へ

5月9日には後北条と同盟を結んでいた奥州の伊達政宗が、秀吉の参陣要請に応じて本拠から小田原へと向かった[7]。開城への勧告は5月下旬頃から始められており[7]、それに伴う交渉は、支城攻略にあたった大名たちなどによって、それぞれに行われていた[8]。6月に入ると、小田原を囲む豊臣軍主力の中に乱暴狼藉を働く者や逃散が頻発するようになる(「家忠日記」)。包囲中、戦らしい戦と言えば、太田氏房が蒲生勢に夜襲をかけたのが後北条側唯一の攻勢であり、囲む方は、井伊直政が蓑曲輪に夜襲を仕掛けた作戦と、6月25日夜半に捨曲輪を巡る攻防があったぐらいであった(それ以外は、互いの陣から鉄砲を射掛けるぐらいのものであったという)。さらに、包囲中の5月27日には堀秀政が陣没するなど、優勢とはいえ暗いムードが漂い始めた。[要出典]

そんな中、後北条側から離反の動きが見えるようになった。6月初旬に家康の働きかけによって上野の和田家中と箕輪城家中が城外に退去している[8]6月16日には、松田憲秀の長子であった笠原政晴が数人の同士とともに豊臣側に内通していたことを、政晴の弟の松田直秀が氏直に報告して発覚。政晴は氏直により成敗された[8]。また、その数日後に氏政の母である瑞渓院と、継室の鳳翔院が同日に死去しており、「大宅高橋家過去帳」の鳳翔院の記載から共に自害と見られている[8]。さらに6月23日に北方隊によって陥落させられた八王子城から首多数が送られ、また将兵の妻子が城外で晒し者にされたことが後北条側の士気低下に拍車をかけ、6月26日には石垣山一夜城が完成したことも後北条側に打撃をもたらした。このとき、北条氏の一族・重臣が豊臣軍と徹底抗戦するか降伏するかで長く紛糾したため、本来は月2回ほど行われていた北条家における定例重役会議であった「小田原評定」という言葉が、「一向に結論がでない会議や評議」という意味合いの故事として使われるようになった。

6月に入ると、氏房、氏規、氏直側近が、家康と織田信雄を窓口とした和平交渉が進んでいた[7]。後世になって成立した『異本小田原記』では伊豆・相模・武蔵領の安堵の条件での講話交渉は行われ、同じく『黒田家譜』では、その講和条件を後北条が拒否したために秀吉が黒田孝高に命じて交渉に当たらせた事などが記されているが、この頃には後北条領は家康に与えられることになっており、伊豆は4月中旬には家康の領国化が始まっていた。[9]。鉢形城は6月14日に氏邦が出家する形で開城となり、韮山城も6月24日に開城。八王子城の落城に続いて、鉢形城・韮山城と津久井城も開城し、氏規が秀吉の元に出仕したため、秀吉は孝高と織田信雄の家臣である羽柴雄利を使者として氏政、氏直の元に遣わした。[8]7月5日、氏直は雄利の陣に向かい、己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出、秀吉に氏直の降伏が伝えられた[9]

天下統一

戦後、秀吉は、前当主である氏政と、御一家衆筆頭として北条氏照、及び家中を代表するものとして宿老の松田憲秀と大道寺政繁に、開戦の責があるものとして切腹を命じた[9]7月7日から9日にかけて片桐且元脇坂安治榊原康政を検使とし、小田原城受け取りに当たらせた。7月9日、氏政と、その弟の氏照は最後に小田原城を出て番所に移動。7月11日、康政以下の検視役が見守る中、氏規の介錯により切腹した。氏政・氏照兄弟の介錯役だった氏規は、兄弟の自刃後追い腹を切ろうとしたが、果たせなかった。その氏規と当主氏直は家康と昵懇の仲(氏直は家康の娘婿、氏規は家康の駿府人質時代の旧知)が故に助命され、紀伊国高野山に追放された。

一方、小田原城開城後、忍城は氏長の降伏を受けて使者が送られ、7月16日に開城した。これにより戦国大名としての後北条氏は滅亡、秀吉は天下を統一した。秀吉はその後鎌倉幕府の政庁があった鎌倉に入り、宇都宮大明神に奉幣して奥州を平定した源頼朝に倣って宇都宮城へ入城し、宇都宮大明神に奉幣するとともに関東および奥州の諸大名の措置を下した(宇都宮仕置)。後北条の旧領はほぼそのまま家康にあてがわれることとなった。

脚注

  1. ^ 岡本良一「天下人」『国民の歴史』 第12、文英堂、1969年、[要ページ番号] 全国書誌番号:73001143
  2. ^ 下山(1996) pp.91-96。
  3. ^ 『戦国合戦史事典』小和田秦経(新紀元社、2010年4月)、『戦国合戦大事典(二)』戦国合戦研究会(池田公一、下山治久、湯山学、伊藤一美、柴辻俊六)(新人物往来社、1989年)
  4. ^ a b kuroda(2013)pp150-163。
  5. ^ a b c d e f g h 『小牧・九州・小田原の役』(1965)
  6. ^ a b c d 矢部健太郎「秀吉の小田原出兵と「清華成」大名」(『國學院大学紀要』49号、2011年)
  7. ^ a b c kuroda(2013)p207。
  8. ^ a b c d e kuroda(2013)pp208-212。
  9. ^ a b c kuroda(2013)pp213-215。

参考文献

関連項目

外部リンク