小田切茂富

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小田切 茂富(おたぎり しげとみ、享禄4年(1531年) - 慶長16年(1611年)9月24日)は、戦国時代安土桃山時代武将甲斐武田氏家臣・徳川氏家臣で、徳川四奉行の一人。大隈守。『寛政重修諸家譜』によれば父は不詳で、母は武田家の譜代家老・馬場信春の妹であるという。『寛政譜』によれば、室は牛奥織部の娘。茂富の子・太郎右衛門は牛奥与左衛門尉の養子となっている。『寛永諸家系図伝』『寛政譜』では実名を「昌吉」とされているが、文書上からは「茂富」が確認されている。

略歴

甲陽軍鑑』によれば、茂富は子息の次太夫とともに原昌胤の「おぼへの衆」として配置されたという。武田時代には天正6年(1578年)11月11日付小田切茂富宛武田家官途状に名が見られる[1]

『寛永伝』『寛政譜』『徳川実紀』に拠れば、茂富は天正10年(1582年)3月の武田氏の滅亡後、徳川家康に仕える。家康は天正壬午の乱を経て甲斐国を支配しており、武田遺臣が家康に対して忠誠を誓った「天正壬午起請文」においても信玄近習衆として茂富の名が見られる。茂富は家康の甲斐統治に携わり、「棲雲寺文書」によれば、天正11年4月20日には同じ武田遺臣の桜井信忠と連署で禁制を発している。

豊臣政権時代の天正18年(1590年)には家康が関東へ移封されるが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て甲斐は再び家康が領し、代官頭・大久保長安配下に徳川四奉行が配置される。茂富は桜井信忠、跡部昌忠石原昌明とともにの四奉行に名を連ねている。なお、四奉行は初期に桜井、石原のほか市川元松(家光)、工藤喜盛が務めていたが、両名の死去により小田切・跡部が加わった。

茂富は他の四奉行とともに、慶長検地(石見縄)の連署状や寺社宛の禁制などに多く名を残している。慶長12年8月には桜井とともに平岩親吉から甲府城を受け取っている。

脚注

  1. ^ 望月一樹「新出の戦国期文書二通」『川崎市市民ミュージアム紀要』23集、2011年

参考文献

  • 山梨県史』通史編3近世1
  • 『山梨県史』資料編8近世1(領主)
  • 『武田氏家臣団人名辞典』