小沢茂弘

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おざわ しげひろ
小沢 茂弘
本名 小沢 茂美(おざわ しげよし)
別名義 小沢 宏瑞(おざわ こうずい)
生年月日 (1922-08-29) 1922年8月29日
没年月日 (2004-10-12) 2004年10月12日(82歳没)
出生地 日本の旗 長野県東筑摩郡四賀村
死没地 日本の旗 京都府京都市左京区
職業 映画監督脚本家易者山伏
ジャンル 映画テレビ映画
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小沢 茂弘(おざわ しげひろ、1922年8月29日 - 2004年10月12日)は、日本映画監督脚本家易者山伏[1]

戦後、日本映画の最盛期に娯楽性の高い作品を世に数々送り出し[2][3]職人アルチザン監督と評されている[1][4][5][6]長野県東筑摩郡四賀村出身[7]

易者・山伏名:小沢 宏瑞(おざわ こうずい)、本名:小沢 茂美(おざわ しげよし)[1]

生涯[編集]

少年時代は松本市で上映される無声映画を頻繁に見ていた[7]1930年旧制松本中学に入学[8]日本大学芸術科専門部映画科へ入学し、演劇科には三木のり平、映画科には沼田曜一がいた[9]。在学中の17歳に映画研究会を作り、熊谷久虎マキノ正博らに講演依頼をしたのが縁で、やがて正博の家に居候をし、薫陶を受ける[10]。正博から役者を勧められるが、監督を目指していた[10]

1943年、休学して松竹下加茂撮影所の所長になっていた正博の元で『坊ちゃん土俵入り』『不沈館撃墜』を手伝っていたが、学徒出陣で同年12月1日に陸軍松本第150部隊入隊、1944年5月に豊橋第一陸軍予備士官学校入学する[11]

1946年1月に正博の元へ戻り[12]、暮れに正博の弟・マキノ光雄がいた松竹の社員となる[13]1947年7月14日、東横映画へ移っていた光雄を追うように、同社へ移籍[13]稲垣浩倉田文人小杉勇佐々木康山本薩夫渡辺邦男らの映画スタッフを経て[14]1950年の『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』の助監督となる[15]。しかし酒癖が悪いため、宿屋の二階から机を放りだして玄関のガラスを叩き割り、このような行為が原因で、監督への昇進が遅れることとなる[16]

助監督の4年を経て、1954年の『追撃三十騎』で初監督[17]。同年9月、東映と専属契約を結ぶ[17]。以降は時代劇・刑事映画・ギャング映画任侠映画アクション映画など幅広いジャンルを演出した。東千代之介伏見扇太郎波島進片岡千恵蔵鶴田浩二若山富三郎千葉真一らのシリーズ化された主演映画で2作以上監督している。

映画は113作品を監督したが、自身は「全身全霊を込め、必ず当たるというつもりで作った一本」として、『博徒』(1964年)、『人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊』(1968年)、『激突! 殺人拳』(1974年)の3作を挙げている[18][注釈 1]

1976年7月28日、佐川清鈴木正文らと(株)正武プロダクションを設立したが、具体的な活動には進展しなかった[19][20]

55歳の1977年に東映を辞め、映画界から離れる[21]。異業種に転身を図るが、新たな仕事はなかなか見つからず[16]、1年3ヵ月無収入で精神的に追い込まれた[16][19]。ようやく見つけたのが易者で、京都の高嶋易断で2年の修行を経て[19]1978年1月から石川県金沢市で高嶋宏瑞として易者を開業[16][19][22]。同年に山伏の修行を始める[23]

2004年10月12日午前8時40分、京都市左京区の病院でリンパ腫のため死去、82歳[24]

作風[編集]

自身が企画した映画はなく[25]、製作費をオーバーせず期日をキチンと守る手法ながら[26]、多くのヒット作を作り上げてきた[27][28]

『博徒』ではヤクザ博奕の中盆を[29]、『激突! 殺人拳』では空手家を重要なキャストに充てがうなど[30]、俳優に演じさせるよりその業界の本職を出演させ、リアルな画を撮る演出をしている[29][30]

深澤哲也は「概して作風は荒っぽく、きわめて多作な職人監督なので、当然のことながら失敗作や出来損ないも少なくない」と評している[17]

人物[編集]

映画の製作会議で脚本家がシナリオを読み上げた後、不出来のものには「チートモおもろないワ!」と大声で宣告を下し[31]、“小沢天皇”と恐れられていた[32]笠原和夫は『博徒七人』で、小沢にこれを言われたとき、「まずい下手はあるだろうが、どこがまずいのか、どうして欲しいのかくらい言うべきだろう[28]」と、小沢の目の前で脚本を引き裂き、「降りる」と怒った[33][34]クランクインまで5日と迫っていたために小沢とプロデューサーが青ざめ、小沢が笠原に手をついて謝罪したことで、矛を収めて書き直し、製作にこぎつけたが、同作は当たったと笠原は証言している[35]

1957年の『天狗街道』で[36]、大ベテランの原健策が演技した後、カットをかけて「まぁ、いいでしょう」と言ったため、原が「小沢くん、いま何て言った!」と激怒し、最後は小沢が原に「すいません」と謝り[36]、これが撮影所内で有名な事件になった[36][37]。同作が本格的な役者デビューだった里見浩太朗は「原さんの心意気に痺れた」と話している[36]。1968年の『人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊』にキャスティングされていた高倉健から「小沢作品には出たくない」と断られたことがあり[16][注釈 2]、小沢は「『役者なんて小道具じゃないか』という考えがあったことは確か」と答えている[16]#著書で「自分は“困った奴ちゃ”なんで、この態度が原因で東映から解雇された」と認めており[38]岡田茂 (東映) から「君には徳がない」と言われもした[19]

一方で石橋雅史は『激突! 殺人拳』で毎日「今日も一日、よろしくお願いしまーすッ」と大きな声で挨拶されたと証言している[39]。笠原和夫は「元来気が小さく、悪い男ではない[40]」、「きちんとした脚本ほんを持っていったときは、芯から嬉しそうな爽やかな笑顔を見せてくれる人でもあった[41]」、唐沢民賢は「口が悪いので誤解されやすい」と、異なる一面を述べている[37]

作品[編集]

小沢茂弘監督「若君と次男坊」

映画[編集]

※は脚本を共作

テレビ映画[編集]

  • プレイガール(1969年、東京12ch.
    • 第7話「女が命を賭けるとき」
    • 第9話「女は潜って勝負する 」
  • 新選組(1973年、CX
    • 第1話「芹沢鴨死す 豪雨止まず」
    • 第2話「池田屋にきらめく白刃」
    • 第6話「三条大橋に黒い人影」
    • 第7話「祇園小路の人質」
    • 第12話「近藤勇に危機迫る」
    • 第13話「決死隊京に突入す」
    • 第18話「鳥羽伏見の戦い(前)」
    • 第19話「鳥羽伏見の戦い(後)」
  • 江戸を斬る 梓右近隠密帳(1973年、TBS
    • 第5話「和蘭陀囃子の謎」
    • 第9話「決闘鍵屋の辻」
  • 賞金稼ぎ(1975年、NET
    • 第1話「墓場なき兵士たち」
    • 第3話「獄門台のガンマン」
    • 第5話「地獄のハンター」
    • 第18話「国境のローンウルフ」
    • 第19話「謎のスーパーガン」
  • 人形左七捕物帳(1977年、ANB
    • 第33話「泥棒市が結ぶ恋」
    • 第34話「逆夢を買った女」

著書[編集]

  • 小沢茂弘、高橋聡『困った奴ちゃ - 東映ヤクザ監督の波乱万丈』(初版第一刷)ワイズ出版(原著1996年11月10日)。ISBN 9784948735576OCLC 676010450 

参考文献[編集]

※異なる頁を複数参照をしている出典のみ。出版年順。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 助監督で関わった『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』(1950年)も挙げている[18]
  2. ^ 2年後の1970年に小沢が監督をした『遊侠列伝』に高倉は主演している。

出典[編集]

  1. ^ a b c 高橋聡 「困った奴ちゃ」、6頁。
  2. ^ 安井喜雄 プラネット映画資料図書館代表 「きがつけばそこに小沢茂弘がいた 東映やくざ映画考にかえて」、113頁。
  3. ^ 高橋聡 映画評論家 「きがつけばそこに小沢茂弘がいた 東映やくざ映画考にかえて」、114頁。
  4. ^ 松村晃 シネマ自由区店長 「きがつけばそこに小沢茂弘がいた 東映やくざ映画考にかえて」、106頁。
  5. ^ 高橋聡 映画評論家 「きがつけばそこに小沢茂弘がいた 東映やくざ映画考にかえて」、115頁。
  6. ^ 石橋雅史 (2008年8月4日). “負けるわけにゃいきまっせんばい! 66”. 石橋雅史の万歩計. 2018年7月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年9月15日閲覧。
  7. ^ a b 「少年時代から色情注意」、9頁。
  8. ^ 「少年時代から色情注意」、9 - 10頁。
  9. ^ 「少年時代から色情注意」、11 - 12頁。
  10. ^ a b 「少年時代から色情注意」、12頁。
  11. ^ 「少年時代から色情注意」、13頁。
  12. ^ 「終戦後のヒロポン時代」、15頁。
  13. ^ a b 「札つき助監督 酒と喧嘩の日々」、17頁。
  14. ^ 「札つき助監督 酒と喧嘩の日々」、18, 21頁。
  15. ^ 「札つき助監督 酒と喧嘩の日々」、21頁。
  16. ^ a b c d e f 関本郁夫「連載・映画人(烈)伝 小沢茂弘―職人監督の栄光 小沢茂弘インタビュー(インタビュー日は1979年12月28日)」『ムービーマガジン』1980年8月1日発行 Vol.23、ムービーマガジン社、3–17頁。 
  17. ^ a b c 「小沢茂弘」、88 - 89頁。
  18. ^ a b 「札つき助監督 酒と喧嘩の日々」、22頁。
  19. ^ a b c d e 第7章 小沢茂弘の活劇世界 娯楽映画はこういう具合にしやしゃんせ 義理も人情も神風船だ」、280 - 284頁。
  20. ^ 今村三四夫他「映画界重要日誌」『映画年鑑 1978年版(映画産業団体連合会協賛)』1977年12月1日発行、時事映画通信社、2頁。 
  21. ^ 「落ち目の時代へ」、94頁。
  22. ^ 「落ち目の時代へ」、97頁。
  23. ^ 「映画よさらば、易者・山伏時代へ」、98頁。
  24. ^ “小川茂弘監督死去、映画全盛時に活躍”. 日刊スポーツ. (2004年10月14日). オリジナルの2004年10月17日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20041017015411/http://www.nikkansports.com/ns/entertainment/f-et-tp0-041014-0019.html 2021年12月14日閲覧。 
  25. ^ 高橋聡 映画評論家 「きがつけばそこに小沢茂弘がいた 東映やくざ映画考にかえて」、107頁。
  26. ^ 大越正輝 元朝日新聞映画記者 「きがつけばそこに小沢茂弘がいた 東映やくざ映画考にかえて」、115頁。
  27. ^ 安井喜雄 プラネット映画資料図書館代表 「きがつけばそこに小沢茂弘がいた 東映やくざ映画考にかえて」、107頁。
  28. ^ a b 「揉めれば、当たる」、37頁。
  29. ^ a b 「流れを変えた衝撃作『博徒』」、60 - 61頁。
  30. ^ a b 「カラテ映画でもう一花」、91 - 92頁。
  31. ^ 「映画監督悪魔論」、133頁。
  32. ^ 「高田浩吉・鶴田浩二との出会い」、44頁。
  33. ^ 「映画監督悪魔論」、134頁。
  34. ^ 「揉めれば、当たる」、36 - 37頁。
  35. ^ 「揉めれば、当たる」、38 - 41頁。
  36. ^ a b c d “我が道(21) 八犬伝と富士山から命名”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 30. (2012年7月22日) 
  37. ^ a b 高鳥都「悪役一代 唐沢民賢インタビュー 『役者一筋"芸歴"67年 87歳 未だ現役』」『別冊裏歴史 昭和の不思議101 2021年夏の男祭号 ミリオンムック83』2021年7月15日号、大洋図書、106頁。 
  38. ^ 「困った奴ちゃ…なんです」、7頁。
  39. ^ 石橋雅史 (2008年8月6日). “三十九歳の挑戦”. 石橋雅史の万歩計. 負けるわけにゃいきまっせんばい! 68. 2014年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年9月29日閲覧。
  40. ^ 「揉めれば、当たる」、38頁。
  41. ^ 「映画監督悪魔論」、140頁。

外部リンク[編集]