小山伸一郎

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小山 伸一郎
東北楽天ゴールデンイーグルス コーチ #75
現役時代
(2013年5月12日、QVCマリンフィールド
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 三重県度会郡二見町(現:伊勢市
生年月日 (1978-06-13) 1978年6月13日(45歳)
身長
体重
180 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1996年 ドラフト1位
初出場 1999年6月9日
最終出場 2015年10月6日
年俸 3,200万円(2015年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 東北楽天ゴールデンイーグルス (2016 - )

小山 伸一郎(こやま しんいちろう、1978年6月13日 - )は、東北楽天ゴールデンイーグルスに所属していた元プロ野球選手投手)。2016年からは二軍投手コーチを務める。

経歴

プロ入り前

三重県出身。二見小学校3年時に友達の影響で地元の軟式野球チーム「二見スポーツ少年団」に入団し、野球を始める。小学6年のころは外野手の補欠だった。二見中学校では軟式野球部に入り、8番一塁手。三重県大会で春夏連覇、東海大会で準優勝した。

三重県立明野高等学校に進学し、はじめは三塁手だったが、強肩を見出されて1年夏から投手に転向。2年秋からエースをまかされた。3年夏、三重大会決勝戦で海星高校に敗退し甲子園への出場はならなかった[1]

140km/hを超す速球がスカウト陣の目にとまり、1996年のドラフト会議中日ドラゴンズから1位指名を受けて入団。それまで郭源治がつけていた背番号「33」をもらうなど期待された。中日の同期には森野将彦などがいる。

中日時代

1997年1998年は一軍登板がなかった。1999年6月9日の巨人戦で一軍初登板を果たす。伸びのよいストレートを持ち、ファームではストッパーを務める事が多かった。「入団当時は160キロを出したいと言っていた」と野球名鑑に書かれていた[2]

2001年ウエスタン・リーグ最多勝(10勝)を獲得。2002年2003年にはウエスタン・リーグで2年連続の最優秀救援投手賞を受賞した。しかし、一軍では安定した成績を残すまでには至らなかった。

2004年オフ、無償トレードで新規球団の東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍。

楽天時代

2005年
3月29日、ソフトバンク戦(ヤフードーム)の8回裏に移籍後初登板し無失点に抑える。地元開幕戦(仙台)である4月1日の西武戦にも登板し、無失点に抑えた。翌日の試合でもラスト2イニングを1安打無失点に抑え球団史上初の救援勝利を記録、小山にとっても1年半ぶりの勝ち星となった。また、チームはこの試合により球団史上初の連勝となった。しかし、制球力に難があり好不調の波が激しく、5月下旬には2軍降格となった。シーズン当初はクローザーに期待されながらセーブ数は0となった。
2006年
開幕から抑え候補に挙げられたが1セーブも上げられず中継ぎに降格。シーズンの防御率は8.56と悪く、27回1/3を投げて被本塁打6。四球の多さも相変わらずで投球回と失点(26失点)がほぼ同じであった。反面ボールの勢いはよく、1イニングに1つ程度の奪三振を挙げた。プレッシャーのかかる場面と気楽な場面での投球が余りに違いすぎるため、精神面の脆さが指摘された。
2007年
過去2年から一転して開幕を2軍で迎えた。2軍では抑えを任され好投するものの、1軍昇格は遅れて交流戦が明けてからとなり、当初は中継ぎで起用された。ところが、チームのストッパーである福盛和男が右肘の手術を受けるために7月24日を最後に戦線離脱。そのため福盛に代わる抑えとして、翌日7月25日の西武戦に登板してプロ初セーブを記録。その後は抜群の安定感を誇り、抑えに指名されてから12試合連続無失点を記録した。シーズン途中からの1軍合流だったため登板機会が30試合と少なかったが、3勝1敗16セーブ、被本塁打0、防御率0.58の成績を残し見事に抑えの代役を務め、楽天の4位への立役者の1人になった。
2008年
キャンプの紅白戦から打ち込まれ、更にオープン戦でも失点し続けたため二軍降格となってしまい、開幕1軍メンバー入りを逃した。その後3月29日に1軍に昇格。4月1日のロッテ戦に4番手の投手として登板し、2回を無失点に抑え、救援勝利を得る。以後中継ぎ・抑えとして起用されるが、不安定なピッチングが多くリリーフ失敗が続き、一時は敗戦処理に近い起用法になってしまう。しかしシーズン後半には徐々に安定感を取り戻し、中継ぎの一人として最後まで1軍に残り続けた。
2009年
抑え候補として名前が挙がっており、この年の抑えに指名された川岸強が怪我で登録抹消された後、4月9日のソフトバンク戦でシーズン初セーブを挙げた。シーズン前半はセットアッパー、抑えを任されていたが打たれるケースが目立ち、その後は主に敗戦処理やロングリリーフで起用された。後半になると段々と安定感を増し、直球で空振りを取れるという理由で終盤には抑えに指名される。結局チーム最多の56試合に登板し、防御率は2.97と中継ぎの中では安定した成績を残した。日本ハムには15回1失点、オリックスには11回無失点だったが西武・ロッテ・ソフトバンクには防御率5.74と得意不得意がはっきりしていた。また、5月28日の中日戦に登板し打順が回った際、控え野手を使い果たしていた為、楽天に入団してから初めて打席に立った。結果は空振り三振。
2010年
開幕2戦目で初登板をするものの、いきなりサヨナラ暴投という失態を犯す。当初は抑えは福盛、セットアッパーは川岸で小山はロングリリーフのような役割であったが、早々に福盛が不調で離脱したため抑えに川岸、セットアッパーに小山という形になった。初登板こそ最悪な形ではあったがその後は比較的安定した成績を残し、7月頃になると川岸が不調によって抑えを外された為、抑えを任されることになった。中盤以降は新たにセットアッパーに定着した青山浩二片山博視と共に「スリーマウンテンズ」と呼ばれる強力なリリーフ陣を形成。シーズン序盤から大車輪の活躍をしたがシーズン閉幕直前の西武戦で登板中に右肘に違和感を訴え途中降板、右肘の炎症と診断され最後の最後でリタイアとなってしまった。しかしチーム最多の55試合に登板し、5勝4敗15ホールド11セーブ、防御率2.41と2007年に次ぐ好成績を残した。
2011年
この年は序盤戦はやや不安定な投球が目立ったが尻上がりに調子を上げ、50試合に登板して自己最多の68回2/3イニングを投げ、防御率2.88と安定した数字を残した。また接戦での登板が多かったこともありリリーフながら田中将大に次ぐチーム2位の8勝を挙げた。5月22日の古巣中日戦では約11年ぶりに先発を務めたが、このときは2回5失点と結果を残せなかった。オフの契約更改で年俸が1億円に達した。
2012年
この年は名字の漢字表記が同じ小山桂司(こちらは「やま」と読む)が中日から移籍してきたため、スコアボード上の表記は「小山伸」に変更されている。新加入の加藤大輔が主にロングリリーフ、敗戦処理を担当したため、開幕から接戦時のピンチの火消し役やセットアッパーとして起用されることが多く、57試合に登板して5年連続50試合登板を達成。1勝2敗25ホールド、防御率1.99という好成績を挙げた。同年には山村宏樹が引退、有銘兼久が戦力外となった事で球団創設時から唯一残っている投手となった。オフの契約更改では「マイナーでもいいので最後は向こうで(現役を)終わりたい」と将来的なメジャー挑戦志向があることを明らかにした[3]
2013年
このシーズンを通して投球内容が不安定で、故障以外では2007年以来となる出場選手登録抹消も味わった。また、安定感の無さから登板機会が減って45試合の登板に留まり、6年連続50試合登板とはならなかった。成績も1軍に定着した2007年以降では最悪となる防御率3.94となったものの、中継ぎとしてチームのリーグ初優勝、日本一に貢献した。
2014年
この年は早い段階で打ちこまれ、また他の若手投手が台頭したこともあり、10試合しか登板できなかった。2007年後半からの1軍定着後、最悪のシーズンとなった。
2015年
4月10日に右肩関節唇損傷のため内視鏡手術を行うことを発表した。実戦復帰まで3カ月かかることになった[4]9月20日に翌年の戦力構想から外れていることがわかり、この年限りでの現役引退を表明した[5][6]10月6日のロッテ戦が引退試合となり、9回から登板した。これがシーズン初の1軍登板だったが、先頭の代打高浜卓也二塁打を浴びて降板した。チームは延長戦の末敗れ、同じく引退する永井怜と共に現役生活に別れを告げた[7]10月13日に任意引退公示され[8]、同時に来季の二軍投手コーチ就任が発表された[9]

プレースタイル

スリークォーターから平均球速約144km/h[10]、最速153km/hのストレートを誇る速球派リリーフ右腕。フォームのテークバックタイムが異様に短い。また、毎年高い奪三振率を記録しているのも特徴。

以前はこのストレート以外の実戦的な球種がなく、活躍はままならなかったが、2007年に高速シンカー(一般的なシンカーというよりも、ツーシーム握り方、曲がる遅めなストレートと言ったほうが近い)を習得。スライダーと組み合わせてよく投げている。2012年にはスライダーの切れ味が増して被打率は.155を記録[11]、決め球として絶大な威力を誇った。その他に、まれにフォークカーブも投げる。

2011年には中田翔を6打数無安打、中村剛也を5打数無安打に抑えるなど力勝負の打者に強い[12]

2008年から2012年まで5年連続50試合登板とタフネスさも備えていた。

人物

楽天投手陣のリーダー的存在。2005年の球団創設時から在籍しており、2015年に現役引退する際は投手陣で唯一の球団創設時のメンバーだった。時に後輩の若手選手を厳しく叱り[13]、時に兄貴分として若手と食事会を開くなどまとめ役としてもチームに貢献しており[3]、楽天監督の星野仙一には「ピッチャーは小山がまとめてくれるから大丈夫や」と全幅の信頼を置かれている[13]

登板時にゴーグルを着用する。ゴーグルにはが入っており、捕手の出すサインが見えなくなったため2003年ごろにかけ始めた。練習時やブルペンにいるときにはかけず、マウンドに行く時に初めて身に付け、モチベーションと気合を高めるための道具としている[14]。また、ゴーグルの色は楽天移籍1年目は赤、2年目は青、3年目は赤[15]と、色をシーズン前に決めて1年間使い続けている[16]

春先の肌寒い時期でもひとりだけ半袖ユニフォームで登場したことから「半袖魔神」「半袖王子」と呼ばれている。特に「半袖魔神」については、雑誌や楽天球団の公式ページ、スポーツニュースサイトなどでも用いられており、公式のニックネームとなっている。いつも半袖でいる理由は、裾が気になって投げにくいから、中日在籍時代にクローザーとして活躍していたエディ・ギャラードに触発されたから[17]、と本人が語っている。また、パフォーマンスの意味もあったという[18]。しかし2008年シーズンは春先は半袖だと体温が下がりやすく、筋肉のパフォーマンスが悪くなるため長袖シャツを導入。ところがオープン戦から不調が続き、二軍からのスタートとなったため、すぐに半袖アンダーシャツに戻した。2010年の自主トレ中に生涯半袖アンダーシャツでの投球を宣言した。しかし、2012年に田中将大から肘が冷えることを指摘され、半袖を卒業。自分で作った右腕側だけ七分丈のアンダーシャツを使用することになった[18]

マウンドに上がる際は、白線の前で一度帽子をとり、一礼してから線をまたぐということが恒例になっている。


2007年度の好調について、本人は以下の点を挙げていた。

  • 技術面では踏み出す足の位置を馬原孝浩のフォームを参考に変え、加えて野村克也監督(当時)の助言も参考にしたところ、フォームの修正が以前に比べ簡単になったこと。
  • 精神面では、自分以外に抑えができる選手がいなかったというチーム事情や、同僚からの声がけによって精神的に開き直れ、救援失敗を引きずることが無くなったこと。

楽天球団一のサッカー通であり、日刊スポーツでは小山のサッカー評論が記事になることもある[19]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1999 中日 3 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 30 6.1 5 0 6 1 0 3 1 0 3 3 4.26 1.74
2000 29 3 0 0 0 2 4 0 -- .333 226 50.0 45 7 32 2 6 41 2 0 33 31 5.58 1.54
2001 4 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 28 5.2 8 0 4 0 0 4 0 0 4 3 4.76 2.12
2002 21 0 0 0 0 1 3 0 -- .250 101 24.1 20 6 11 0 1 14 0 0 15 13 4.81 1.27
2003 12 0 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 88 17.1 18 2 15 1 4 13 3 0 18 18 9.35 1.90
2004 2 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 20 4.0 6 1 3 0 0 6 0 0 4 4 9.00 2.25
2005 楽天 30 0 0 0 0 1 2 0 1 .333 186 42.0 39 8 25 2 0 46 5 0 22 21 4.50 1.52
2006 22 0 0 0 0 0 2 0 1 .000 135 27.1 30 6 19 0 3 27 2 0 26 26 8.56 1.79
2007 30 0 0 0 0 3 1 16 2 .750 125 31.0 20 0 13 2 1 27 1 0 3 2 0.58 1.06
2008 54 0 0 0 0 3 5 4 6 .375 283 67.2 58 8 25 0 5 71 3 0 29 28 3.72 1.23
2009 56 0 0 0 0 1 4 5 6 .200 267 63.2 53 4 23 5 3 74 2 1 22 21 2.97 1.19
2010 55 0 0 0 0 5 4 11 15 .556 249 59.2 49 5 23 3 3 54 2 0 18 16 2.41 1.21
2011 50 1 0 0 0 8 4 0 11 .667 280 68.2 53 5 22 1 3 51 2 0 27 22 2.88 1.09
2012 57 0 0 0 0 1 2 0 25 .333 202 49.2 34 3 21 0 2 42 5 0 13 11 1.99 1.11
2013 45 0 0 0 0 1 4 0 16 .200 197 45.2 40 6 20 1 4 42 1 0 22 20 3.94 1.40
2014 10 0 0 0 0 1 0 0 1 1.000 48 9.1 13 1 4 0 1 6 2 0 8 7 6.75 1.82
2015 1 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 1 0.0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ----
通算:16年 481 4 0 0 0 28 36 36 84 .438 2466 572.1 492 62 275 19 39 521 31 1 267 246 3.87 1.34

記録

  • 初登板:1999年6月9日、対読売ジャイアンツ10回戦(東京ドーム)、8回裏から3番手で救援登板・完了、1回無失点
  • 初奪三振:1999年6月10日、対読売ジャイアンツ11回戦(東京ドーム)、6回裏に二岡智宏から空振り三振
  • 初勝利:2000年8月9日、対広島東洋カープ18回戦(ナゴヤドーム)、7回表に3番手で救援登板、1回無失点
  • 初先発:2000年8月23日、対横浜ベイスターズ19回戦(ナゴヤドーム)、5回1失点
  • 初ホールド:2005年4月30日、対西武ライオンズ7回戦(フルキャストスタジアム宮城)、9回表に3番手で救援登板、1回無失点
  • 初セーブ:2007年7月25日、対西武ライオンズ15回戦(グッドウィルドーム)、9回裏に3番手で救援登板・完了、1回無失点
  • 5年連続50試合以上登板:2012年9月19日、対千葉ロッテマリーンズ22回戦(東京ドーム)、8回表に2番手で救援登板・完了、1回無失点 ※史上11人目(2008年~2012年)

背番号

  • 33 (1997年 - 2004年)
    • 一旦18番で発表されたが、春季キャンプ開始までに変更となった。同時に33番で入団発表していた中野栄一捕手は27番に変更となった。
  • 57 (2005年 - 2015年)
  • 75 (2016年 - )

登場曲

  • 「Hells Bells」 AC/DC(2007年 - 2008年)
  • 「Welcome to the Jungle」 Guns N' Roses(2009年)
  • 「Enter Sandman」 Metallica(2010年 - 2012年)
  • 「Shoot To Thrill」 AC/DC(2013年 - 2015年)

脚注

  1. ^ 参照:楽天野球団発行 ホームゲームプログラムvol.14 小山伸一郎
  2. ^ 『1997年プロ野球選手写真名鑑』(日刊スポーツグラフ)より。
  3. ^ a b “小山伸 “おごり代込み”2000万円増 来オフは米挑戦?”. Sponichi Annex. (2012年12月16日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/12/16/kiji/K20121216004783560.html 2013年2月24日閲覧。 
  4. ^ 楽天小山伸、右肩内視鏡手術 実践復帰まで3カ月日刊スポーツ.2015年4月10日
  5. ^ 小山伸一郎選手 記者会見 | 東北楽天ゴールデンイーグルス オフィシャルサイト - 2015年9月20日
  6. ^ 【楽天】小山伸、引退会見「最高の仲間に出会えた」スポーツ報知.2015年9月20日
  7. ^ 【楽天】小山、トレードマークのゴーグル&半袖で現役ラス投スポーツ報知.2015年10月7日
  8. ^ 2015年度 任意引退選手(10月13日付け)
  9. ^ 梨田楽天、打撃コーチに池山隆寛 来季陣容発表日刊スポーツ.2015年10月13日
  10. ^ 『2012プロ野球オール写真選手名鑑』日本スポーツ企画出版社、2012年、67頁頁。ISBN 978-4-905411-04-8 
  11. ^ 『週刊プロ野球データファイル』2012年91号、ベースボール・マガジン社、雑誌27201-2/6、10頁。
  12. ^ 小関順二、西尾典文、石川哲也、場野守泰『プロ野球スカウティングレポート2012』廣済堂出版、2012年、174-175頁頁。ISBN 978-4-331-51613-3 
  13. ^ a b 「AURORA VISION」『週刊ベースボール』2012年10月15日号、ベースボール・マガジン社、40頁、雑誌20443-10/15。 
  14. ^ 参照:河北新報 週刊イーグルス2007年8月30日
  15. ^ Date FM「アスリートリクエスト vol.10 小山伸一郎」2007年11月16日
  16. ^ 「道具の流儀」『週刊ベースボール』2011年10月31日号、ベースボール・マガジン社、68-69頁、雑誌20445-10/31。 
  17. ^ “小山伸、マー君助言で半袖シャツと決別”. スポーツ報知. (2013年1月31日). http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20130131-OHT1T00058.htm 2013年2月5日閲覧。 
  18. ^ a b “小山半袖やめた 肘冷やすことに気付く…”. nikkansports.com. (2013年1月31日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20130131-1078881.html 2013年1月31日閲覧。 
  19. ^ “小山ズバリ!日本2-0シリア!”. nikkansports.com. (2011年1月12日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20110112-723821.html 2011年12月4日閲覧。 

関連項目

外部リンク