小原秀男

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小原 秀男
名前
カタカナ コハラ ヒデオ
ラテン文字 KOHARA Hideo
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1950-12-29) 1950年12月29日
出身地 広島市江田島市
没年月日 (2015-10-02) 2015年10月2日(64歳没)
選手情報
ポジション FW/MF/DF
ユース
1966-1968 広島県立広島工業高等学校
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1969-1981 東洋工業/マツダ 182 (13)
監督歴
マツダコーチ
マツダオート広島コーチ
広島県国体選抜男子監督
2002- MUNE広島FCコーチ
2010-2013 FCマルヤス岡崎監督
2014 FCマルヤス岡崎
テクニカルアドバイザー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

小原 秀男(こはら ひでお、1950年12月29日 - 2015年10月2日)は、広島県広島市佐伯区出身のサッカー選手・指導者[1]

来歴[編集]

広島県立広島工業高等学校卒業。3年時の1968年、同級の荒井公三らと全国高等学校サッカー選手権3位[2]。ユース日本代表にも選ばれ第11回アジアユース選手権(AFCユース選手権)出場。この時の代表メンバーは18人中9人が広島出身者で[3]、多くが日本サッカーリーグ(JSL)に進み、各チームの主力選手として活躍した[2]。(詳細は崎谷誠一の項目を参照)。

高校を卒業後、1969年に東洋工業(現マツダ)へ入社、東洋工業サッカー部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)の選手として活躍した[4]。攻撃の選手としてMF・FWとしてプレーし、現役晩年にはDFラインに入り守備陣をリードした。ミュンヘン五輪代表候補などにも選出され、1972年のJSLではアシストランキング4位(4アシスト)、1978年には古田篤良渡辺由一らと共に天皇杯決勝進出に貢献した。

現役引退後、東洋工業コーチに就任、マツダSC時代もハンス・オフト監督のコーチとして活躍した[1]。その後、広島県国体選抜(成年の部)監督、マツダオート広島サッカー部コーチ等を歴任し、当時中国サッカーリーグに所属していたマツダオートの2度(1986年・1988年)の日本サッカーリーグ(JSL)2部昇格に貢献した[1]

2002年、地元広島でMUNE広島FCコーチとして活動した[1]。また、かつての名選手が数多く在籍する広島四十雀サッカークラブの監督も務める[1]

2010年、当時東海社会人リーグ所属のマルヤス工業/FCマルヤス岡崎監督に就任する[1]。4年目の2013年、東海リーグ1部初優勝を飾るとともに、J3リーグの創設などの複数の要因のためチームをJFL昇格に導いた[4]。ただJFA公認A級コーチジェネラルライセンス(日本サッカー協会指導者ライセンス参照)を持っていないためJFLでは指揮できないことから、2014年監督を退任しテクニカルアドバイザーに就任している。その後退任し帰郷[5]

2015年10月2日、病気療養中に死去[5]。享年64 [5]

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1969 東洋 JSL -
1970 東洋 JSL 11 -
1971 東洋 JSL -
1972 東洋 JSL1部 -
1973 東洋 JSL1部
1974 東洋 JSL1部 -
1975 東洋 JSL1部 -
1976 東洋 JSL1部
1977 東洋 JSL1部
1978 東洋 JSL1部
1979 東洋 JSL1部
1980 東洋 JSL1部
1981 マツダ JSL1部
通算 日本 JSL1部 182 13
総通算 182 13

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f クラブの指導者を紹介します”. MUNE広島FC. 2014年1月20日閲覧。
  2. ^ a b 週刊サッカーマガジン』2011年6月14日号 、p70
  3. ^ 『栄光の足跡 広島サッカー85年史』広島サッカー85年史編纂委員会 財団法人 広島県サッカー協会、2010年、p71
  4. ^ a b 岡崎「マルヤス工業 サッカー部」JFL加入-創部38年目で”. 岡崎経済新聞 (2013年12月10日). 2014年1月20日閲覧。
  5. ^ a b c 訃報連絡(小原秀男氏)”. MUNE広島FC. 2016年8月2日閲覧。

参考資料[編集]

  • 『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ、1993

関連項目[編集]