宮古島

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宮古島

池間島(手前)方向から宮古島を望む
所在地 日本の旗 日本沖縄県宮古島市
所在海域 東シナ海太平洋フィリピン海
所属諸島 宮古列島
座標 北緯24度48分17秒 東経125度16分52秒 / 北緯24.80472度 東経125.28111度 / 24.80472; 125.28111座標: 北緯24度48分17秒 東経125度16分52秒 / 北緯24.80472度 東経125.28111度 / 24.80472; 125.28111
面積 158.93[1] km²
海岸線長 133.5[2] km
最高標高 114.8 m
宮古島の位置(沖縄県内)
宮古島
宮古島
宮古島 (沖縄県)
宮古島の位置(日本内)
宮古島
宮古島
宮古島 (日本)
プロジェクト 地形
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宮古島の位置(日本内)
宮古島
宮古島
東平安名岬
与那覇前浜
伊良部大橋

宮古島(みやこじま)は、沖縄県宮古島市に属する宮古列島である。

沖縄本島から宮古海峡を経て南西に約290 km、東経125度、北緯24度に位置し、太平洋東シナ海の間にある。面積は158.93 km2[3] である。近隣には、池間島大神島伊良部島下地島来間島がある。

島名の由来

「宮古(ミヤコ)」という地名の由来には諸説がある。

代初期の『元史』仁宗記や1605年の『温州府志』には、1317年に「波羅公管下密牙古人」が温州永嘉に漂着したとの記載があり[4][5]、一般にはこれが文献における宮古島の初出とされる。「波羅公管下密牙古人」の解釈としては、「婆羅公」を琉球士族の親雲上と推定し「密牙古」を宮古の意味であるとする説[6]や、「波羅」は保良(宮古島内の地名)であり「密牙古」は宮古の意であるとの説[7]があるが、温州府志の数十年後に書かれた『明史』では「婆羅」はボルネオの意味であると説明されており[8]、解釈は定まっていない。また、『朝鮮王朝実録』(李朝実録)には、1477年(成宗8年)に与那国島に漂着した朝鮮人が宮古島を経て帰還した際の記録が残っており、宮古島は「悖羅彌古」や「覓高」と記されている[5]

1509年に首里城正殿の欄干に設けられた尚真王の事跡を讃える碑文「百浦添欄干之銘」には、1500年のオヤケアカハチの乱について「当西南、有国、曰太平山、弘治庚申春、遣戦艦一百艘、攻之」と記されており、当時、「太平山」は宮古と八重山の総称であった[7]

1701年に成立した『中山世譜』には、「庇郎喇(平良)、姑李麻(来間)、烏喝彌(大神)、伊奇麻(池間)、面那(水納)、伊良保(恵良部)、達喇麻(多良間)、以上七島、総称之曰宮古島、又曰麻姑山」と記されており、「宮古島」や「麻姑山」は宮古島ではなく宮古列島を指して用いられ、宮古島は「庇郎喇」とされている[5]。慶世村恒任は『宮古史伝』において、「ピサラ(ヒララ)」とも「ミヤコ」とも呼ばれていたものが、一方は村落の名前に、他方は島の名前になったと考察しており、「ヒララ」は平地を意味し、「ミヤコ」は都の意で勢力の中心を示すとする[7]

冊封副使として琉球王国に赴いた徐葆光1721年に著した『中山伝信録』には「太平山、一名麻姑山 始為宮古、後為迷姑、今為麻姑」と記されている[5]。前半は宮古島が「太平山」や「麻姑山」とも呼ばれていたことを示しており、後半は「はじめはミヤコ(又はミヤク)といい、後にメークといい、今はマークという」と解されている[7]

地理

直角三角形のような形をした島で、南東端に東平安名岬が、北西端に西平安名岬がある。周囲には、北西に池間島、北大神島、西に伊良部島下地島、南西に来間島が位置している。池間島、来間島、伊良部島とは、それぞれ池間大橋(1,425 m)、来間大橋(1,690 m)、伊良部大橋(3,540 m)で結ばれており、下地島とも伊良部島を介して繋がっている。唯一陸路のない大神島との間には定期航路がある。

主として石灰岩からなる台地の島で、全般に平坦。最高地点のンキャフス嶺(旧城辺町砂川小学校付近)とナカオ嶺(旧城辺町比嘉集落付近)でも標高115 mである[9]。古い文献等では島の中央部に聳える野原岳(標高108.6 m)が最高地点とされていたが、後の精密な測量により最高地点ではないことがわかっている。川らしい川はないが地下水が豊富であり、上水道の水源として湧水や地下水が利用されている。地下水を堰き止める福里ダム砂川ダムなどの地下ダムが建設された。

島の北側の海域には、「八重干瀬(やびじ)」と呼ばれる、宮古島の面積の約10分の1に及ぶ日本最大級のサンゴ礁群が広がっており、漁場やダイビングスポットとなっている。八重干瀬は、大潮干潮時には海面から露出し、特に春等の干満差の大きな時期には広大な島のようになるため「幻の大陸」とも呼ばれる[10]

宮古島や、近隣の池間島、来間島、大神島、伊良部島、下地島に加えて、多良間島水納島を合わせて、宮古列島と呼んでいる。1995年(平成7年)に不動産登記が行われた無人島フデ岩を含めると、宮古列島の島は9つになる。海を隔てた南西側約250 kmには八重山列島、さらには台湾がある。

行政区域としては、2005年10月にいわゆる平成の大合併により、5市町村が新設合併し誕生した宮古島市に属する。旧5市町村のうち、宮古島を市町村域としていたのは、平良市(宮古島北部及び池間島)、宮古郡城辺町(宮古島南東部)、下地町(宮古島南西部及び来間島)、上野村(宮古島南部)であった。

天気予報では「宮古島地方」という場合と「宮古島」という場合とがあるが、「宮古島地方」は宮古列島全域のことを指し、「宮古島」は宮古島地方のうち宮古島市に属する地域(多良間村に属する多良間島及び水納島を除く地域)を指す[11]

地質

宮古島の地質は、上から島尻マージ(赤土)、琉球石灰岩島尻層泥岩からなる[12]。琉球石灰岩は海水準変動沈降により浅い海底となった時にサンゴ礁が発達してできたもので、厚い層をなしており、旧上野村付近で厚さ50 m、島の北東部においては120 mに達する。基盤となっている島尻層泥岩は島の北東部にわずかに露出する。琉球石灰岩は多くの空隙を含んでおり、水を通しやすいため、地表を流れる大きな川はない。宮古島周辺で海の透明度が高いのは、河川水を通じて泥などが流入しないためといわれる。

島の北西から南東へ数条の活断層が延びており、断層に沿って幅約100 m、高さ約30 mの石灰岩からなる堤防状地形が見られる。この地形は断層によって露出した部分が浸食されにくいという琉球石灰岩の性質によってできたものであり、東側が急斜面、西側が緩斜面となっている[13][14][15]

気候

宮古島市
雨温図説明
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気温(°C
総降水量(mm)
出典:宮古島地方気象台平年値
インペリアル換算
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気温(°F
総降水量(in)

宮古島の気候は亜熱帯海洋性気候に属する[16][17]。また月別平均気温の平年値(1981年 - 2010年)に基づけば熱帯雨林気候 (Af) に相当する。気象庁の1971年 - 2000年の平年値では最寒月平均気温が17.7°Cで、18°Cをやや下回り温帯湿潤気候に相当していたが、1981年 - 2010年の平年値で最寒月平均気温が18.0°Cとなり熱帯雨林気候の条件を満たした。

  • 宮古島地方気象台(宮古島市平良字下里)
    • 位置 : 北緯24度47.6分、東経125度16.6分、39.9メートル
    • 年平均気温 23.6°C(1981年 - 2010年累年平均)
    • 最寒月平均気温 18.0°C(1月)
    • 乾燥限界 612 mm、年平均降水量 2021.0 mm
    • 最少雨月降水量 130.8 mm(1月、7月)

また、宮古島は台風の常襲地域(台風銀座)でもあり[18]、毎年夏から秋にかけて多くの台風が同島を通過する。過去には、宮古島台風をはじめ第2宮古島台風第3宮古島台風など、被害や影響が大きかった同島にちなんだ名称の台風も複数存在する。

生物

琉球諸島の面積の大きい島の中では、唯一のハブが生息しない島である。これは、標高が低いため、過去の海進の時に水没し、それ以来は他の島と陸続きになる機会がなかったためとされてきた。しかしながら、ミヤコカナヘビやミヤコサワガニなどの固有の陸生・陸水動物が分布することや、絶滅した大型のシカ類であるミヤコノロジカの化石が発掘されることから、この仮説には疑問が呈されている[19][20][21]

島全体が低い丘陵地で、森林は海岸性のものがわずかにある程度である。固有種は少ないが、カタツムリや植物がいくつか知られている。

宮古島に由来する名を持つ生物に、以下のようなものがある。

歴史

有史以前

約50万年-40万年前に浅い海でサンゴ礁が発達して、琉球石灰岩層が形成され[22]、その後の隆起により島嶼化したと考えられている[23]最終氷期(7万年-1万年前)には海水面が120 m低下し、アジア大陸と陸続きとなった。

1979年(昭和54年)、旧上野村字野原にあるピンザ・アブ(宮古方言で「山羊の穴」)と呼ばれる洞穴で、約2万6000年前の化石人骨が発見され、ピンザアブ洞人と命名された。沖縄本島の港川人よりも古く、後頭骨については港川人に共通するもので、更新世後期には宮古島に人類がいた可能性が指摘されている[24]

最終氷期が終わると海面上昇によりいったん水没したとする仮説があるが、疑問が呈されている(#生物参照)。

宮古島の南東海岸の砂丘地にある無土器時代(紀元前900年頃-西暦100年頃)の浦底遺跡、アラフ遺跡等からは、シャコガイ製貝斧やイモガイ製装身具等が出土する。しかし、人骨等の直接人に関わる考古学上の発見がないため、その当時どの様な人々が住んでいたかは不明である。沖縄本島奄美大島の同時代の遺跡からは同様な貝製品は出土せず、台湾などの同時代の遺跡からは貝製品が出土するため、台湾等の南方との交流もあったと考えられている[25][26]

城辺友利のインギャー海岸近くにある友利元島遺跡では、2012年の発掘調査で無土器時代及びグスク時代(12-16世紀)の人骨各1体が発掘されるとともに、11世紀から14世紀にかけて鹿児島県奄美群島徳之島で作られていたカムィ焼(高さ約11cm、 幅約15cm)が完全な形で出土しており、無土器時代とグスク時代の間にある宮古島の歴史の空白を解明する手掛かりとして期待されている[27][28]

古琉球時代

  • 1317年 - 中国代初期に書かれた元史や、万暦33年(1605年)の温州府志において、婆羅公管下密牙古人が温州に漂着したことが記される。
  • 1340年頃 - 豪族が起こり、争闘がおよそ半世紀におよぶ。
  • 1388年 - 宮古の豪族・与那覇勢頭豊見親真佐久(よなはせどとぅゆみゃまさく)が中山国に上がる。
  • 1390年 - 与那覇勢頭が、中山王察度に八重山の使者と共に朝貢を行い臣下の礼をとる。
    • 14世紀から15世紀には、宮古・八重山も琉球の統治下に入ったとする説もある。15世紀ごろの宮古の有力な豪族達は、中山を後見に八重山を統治しようとしていたともされている。
    • 「豊見親(とぅゆみゃ)」の称号は、「名高き領主」の意で宮古の豪族をまとめる人物に与えられた。
  • 1429年 - 与那覇勢頭が朝貢した中山の尚巴志が琉球(第一尚氏王統)の王となる(琉球国の成立)。
  • 1500年 - 八重山でオヤケアカハチを首領とするオヤケアカハチの乱が起きる。またこの頃、与那国島サンアイイソバを攻める。
    • この乱の鎮圧に功績をあげた仲宗根豊見親(なかそねとぅゆみゃ)は、琉球国の王である尚真第二尚氏王統)によって宮古の頭職に任じられた。また、次男・祭金(まつりかね)豊見親も八重山守護職に任じられたが1504年に病死したため、三男の知利真良(ちりまら)豊見親が後任となった。
  • 1522年 - 与那国島で鬼虎が乱を起こしたが仲宗根豊見親に鎮圧される。仲宗根豊見親は琉球を後見として、武力で宮古と八重山を統治下におさめた。
    • 以後、19世紀・琉球処分までの約380年間、仲宗根豊見親の子孫・忠導氏(ちゅうどううじ)。知利真良豊見親の子孫・宮金氏(んみゃがーにうじ)。与那覇勢頭豊見親の子孫・白川氏(しらかわうじ)の3つの氏族が門閥を作り、宮古島の頭職をはじめ多くの官職をその子孫達が占めるようになった。
    • 仲宗根豊見親の死後、宮古島の頭職を仲宗根豊見親の長男・仲屋金盛(なかやかなもり)豊見親が、継承した。しかし、人々の名声は現在の城辺町字友利の豪族で勇知に優れ、善政を行った金志川那喜太知(きんすかーなぎたつ)豊見親に集まった。
  • 1532年 - 金志川への誹謗中傷を信じた仲屋金盛は、金志川那喜太知をだまし討ちに掛け殺す(大嶽城の変)。
    • この変を起因として「豊見親」の称号は、琉球国王の令で廃止される。また、仲屋金盛は自害させられた。このとき琉球より任命された平良大首里大屋子(うぷしゅりうぷやぐ・琉球国王の代官)と下地大首里大屋子の二人が頭職として統治を始める(これをもって、宮古・八重山が実質的な琉球の統治下に入ったともされる)。
  • 1583年 - 稲石刀自が綾錆布を尚永王(琉球国王)に献上し(夫が褒賞を受けた返礼として)宮古上布の端緒となった。
    • 稲石刀自の夫は、下地真栄(ムアテガーラ)と言い明国への進貢船に乗り組み、嵐の中船を修復し国王より報償を受けた。
  • 1597年 - 長眞氏旨屋(ちょうしんうじしや)が、福建より甘藷を持ち帰ったとする伝承がある。

江戸時代

  • 1609年 - 薩摩藩(島津氏)が琉球を武力で侵攻する(琉球侵攻)。
  • 1611年 - 祥雲寺(山号は龍宝山、臨済宗妙心寺派)が建立される。
  • 1612年 - 琉球が頭職を2人から3人として、宮古八重山を検地する。
  • 1628年 - 島内が平良、砂川、下地の3つの間切に分けられる。この行政区分は明治末期まで続いた。
  • 1637年 - 琉球が人頭税を施行する。
  • 1655年 - 下地恵根が松苗数本を持ち帰り大武山・島尻後に試植する。
  • 1681年 - 下地恵根が約二千本を洲鎌村に植え造林の端緒を拓く。
  • 1696年 - 大地震により祥雲寺の寺院や石垣が崩れる(元禄9年)。
  • 1701年 - 『宮古島旧記』(歴史書)が刊行される。
  • 1706年 - 『御嶽由来記』が記される。
  • 1720年 - 大和井が掘られる[29]
  • 1727年 - 咲田川近くに池田矼(はし)を架橋する[29]
  • 1747年 - 『雍正旧記』(ようぜいきゅうき、歴史書)が刊行される。
  • 1748年 - 『宮古島記事仕次』(みやこじまきじしつぎ、歴史書)が刊行される。
  • 1770年 - 『宮古島在番記』が刊行される。
    • 上地与人白川氏恵 賛。1897年まで書き継がれる。歴代の首里王府派遣在番、三間切頭、大安母、祥雲寺詰僧、詰医者、異国船の寄港・漂着、その他疾病、災害、事件などを記録する[30]
  • 1771年 - 八重山地震による大津波(明和の大津波)。宮古地方での死者行方不明2,548人。

村立て

  • 村立て(むらたて)とは、沖縄県の離島宮古島の人口が増えたりして生活が成立しなくなったために一部の人々が別の場所に新たに村を作ることをいう。薩摩藩の琉球侵攻を受けた琉球王府が貢租確保の手段として、先島の経営強化を打ち出した後のことである。琉球王府からの指示もあり、土地を開拓し耕地を増すことが重要課題であった。通常人々の強制移住を伴う。平良市史によると1686年から明治時代に及ぶ。習慣などは古い集落の習慣を引き継ぐ。新しい村に重要なことは水源地が近くにあり耕地があることである。[31]

明治-昭和時代前期

※以降については、平良市#歴史宮古島市#沿革も参照。

  • 1873年7月9日 - ドイツの商船「R・J・ロベルトソン号 (R.J.Robertson) 」(エドュアルト・ハイムスハイム (Eduard Heimsheim) 船長)が宮古島南岸付近で台風により座礁し、島民に救助される。
  • 1874年 - 宮古島島民遭難事件に関係して、明治政府が台湾に出兵する。
  • 1879年4月 - 明治政府は、琉球王府側の納得・同意が十分に得られないまま、琉球藩を廃止して沖縄県を設置する。いわゆる琉球処分への抵抗として、同年7月にサンシー事件が起きる。
  • 1893年3月 - ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世が、独逸商船遭難救助の謝意として軍艦チクロープ号を派遣する。下地玄信がドイツ政府より鉄十字章を受ける。
  • 1893年 - 中村十作らが、第五回帝国議会に人頭税廃止の請願書を提出する。
  • 1903年 - 人頭税が廃止され、地租改正が行われる。
  • 1905年5月 - 日露戦争時に、ロシア海軍のバルチック艦隊に奥浜牛が遭遇する。久松五勇士により八重山に報が送られ、那覇を経由して大本営に報が届く。
  • 1908年4月1日 - 島嶼町村制施行に伴い、平良・下地・砂川の3間切と多良間島をもって平良村、下地村、城辺村、伊良部村の4村が成立する。
  • 1913年2月14日 - 平良村多良間島(水納島も含む)が多良間村として分村となる。
  • 1924年2月1日 - 平良村が町制施行し、平良町(たいらちょう)となる。
  • 1929年 - ウリミバエが宮古列島に侵入する。
  • 1943年9月 - 七原・屋原・クイズの土地を強制接収し、海軍飛行場の建設が始まる[32]
  • 1944年
    • 10月5日 - 下地村字野原の土地を強制接収し陸軍中飛行場が、下地村洲鎌・与那覇の土地を強制接収し陸軍西飛行場が建設される[32]
    • 10月10日 - いわゆる「10・10空襲」。軍要員10人死傷、民間人4人死亡、住家13件全半焼の被害が生じる。以後、空襲が続き、平良をはじめとする民家の密集地の大半が焼失[33]
  • 1945年9月15日 - 米軍が宮古島に上陸する[34]

米国統治時代

日本への復帰以降

文化

パーントゥ(宮古島総合博物館)

神話

宮古の伝承をまとめた18世紀初頭の『御嶽由来記』には、以下が記されている。

宮古島が島の形もなしていない太古、天帝(あめのてだ)が天岩戸柱の端を折り、弥久美神(やぐみのかみ)に授け、「下界の風よからんところに島を造りなせ」と命じ、天の夜虹橋(あめのゆのづはず)から下界の大海原に岩柱を投げさせ、固まったのが今の宮古島となった。天帝は次いで赤土を下し、古意角(こいつの)神に「下界に降りて人の世を建てて守護神となれ」と命じたが、古意角が「我に足らざる片つからだを賜え」、天帝「汝六根五躰を備う、また何の不足かあらん」、古意角「すべてあればあり、陰あれば必ず陽あり」との問答を経て、天帝はようやく古意角の願いを入れ、女神の姑依玉(こいたま)の共を認めた。

古意角・姑依玉の両神は、豪勇の盛加神(もりかのかみ)を始めとした八十神百神(やそかむももかむ)を連れて天の夜虹橋を渡り、七色の綾雲に乗って地上に降った。彼らは漲水天久崎(ぴゃるみずあめくざき)の地(漲水御嶽の東側にあった岬、現在は埋め立てられている)に宮居を定め、宗達(むにだる)・嘉玉(かだま)の男女児が生まれた。また、島は赤土ばかりであったので、天帝が再度黒土を下し、宮古島は五穀が実るようになった。

十幾年かが過ぎ、宗達・嘉玉が大きくなった頃、天帝は葉を身にまとった木装神(きそうのかみ)という男神、青草を身にまとった草装神(ふさそうのかみ)なる女神を下した。それぞれ宗達・嘉玉の夫婦となり、東地・西地に住んだ。彼らが住んだこの地は、現在の東仲宗根・西仲宗根という。宗達夫婦は世直真主(たよなおしのまぬす)なる男児を、嘉玉夫婦は素意麻娘(そいまらつかさ)なる女児を産んだ。のち、この二神が夫婦となり、子孫が栄え、宮古島民の祖となったと云う。

アヤグ(綾語)とクイチャー(声合)

アヤグもしくはアーグとは、宮古方言を用いた詩歌のことである。宮古列島#アヤゴ(アヤグ)も参照。

クイチャーとは、クイチャーアーグの省略のことである。標準語に直訳すると、「アヤグの声に(クイ)合わせ(チャー)」という意味である。アーグ(歌)に合わせた踊りのことで、踊られる地域もしくは、歌の内容によって様々な振り付けがある。

御嶽への信仰

宮古列島には、約900近い御嶽(宮古方言では、各村々によって「う」の発音に違いがあり、「うたき」又は「おたけ」という。)が存在している。古くから信仰の対象として人々が祭祀を行う聖地は存在していた様であり、それらの聖地は様々な名称で呼ばれていたようである。しかし、15世紀から16世紀に琉球王国の支配が強固になり、琉球王国領内の土着の聖地を御嶽と名付け、体系化し、王家(尚氏)と関連づけ、神女制度を整えた。御嶽とは、琉球の聖地で、本土の神社に相当する。しかし、神社とは全く異なった祭祀儀礼を行う。祭祀集団は地縁血縁で組織され、御嶽の中へは、祭祀を行う時以外入ってはいけないとされている。一般の人々も、神社でそうするようには参拝を行わない。ただし、明治時代から昭和の初期に地域の文化を否定し、日本全国を均一化しようとした運動があり、その中で神社化された御嶽は例外となっている。

御嶽への信仰は、「生命が自然界と人間社会を循環している」との思想に基づくものである。そのため、御嶽の領域内に生えている植物を切ってはならないと言うタブーが存在し、そのため、広い領域を持った御嶽の周辺には、御嶽林(うたきりん)と呼ばれる植生が生育していることがある。各々の御嶽にはさまざまな神々が祀られている。島の創造神・精霊・村の守護神・歴史上の偉人・氏神などである。なお、「島尻のパーントゥ」で有名な「パーントゥ・プナハ」も、神々がパーントゥに姿を変えて、元(ムトゥ・氏神を祭る家)の祭礼に現れるというものである(#外部リンクに列挙した各サイトも参照)。

御嶽への信仰が成り立っていた条件は、琉球王府時代に、その人物が所属する村(字)内での結婚しか認められなかったこと、及び、住居の移動が禁止されていたことによって、より強固な祭祀集団が結成できたことと、「御嶽の中には入ってはいけない」という強力なタブーが存在してきたことにある。近年は、社会的な状況が変わり、これらの条件が無くなってしまい、御嶽への信仰もかつてのようには盛んではない。御嶽に籠って身を清めた女性によって行われる秘儀祭祀として知られるウヤガン祭も存続するのは大神島のみである[35]

稲作の伝来

柳田國男は民俗学研究の仕上げとなる「海上の道」において、「中国で貨幣とされた宝貝を中国南部から宮古に求めにきた人々が伝え、稲作栽培が島伝いに日本列島を北上し伝えられた」という稲作伝来の黒潮ルートを唱えた。しかし、弥生時代の稲作遺跡が沖縄・奄美などの北部琉球には無く、考古学的な確証が得られていなかった。

しかし後に、水田に限定しない稲作が考慮されたことで柳田説が見直される。また、古代九州の島嶼におけるジャポニカ米の存在や古代温帯ジャポニカ米DNA解析における熱帯ジャポニカDNAの類似なども確認されたことで、弥生以前の縄文黒潮ルートによる稲作伝来は有力説の一つとなっている。

芋の伝来

長真氏や河充氏の家譜によると、1594年に長眞氏旨屋(ちょうしんうじしや。琉球王国の官吏であり、後の役職は砂川親雲上)もしくは、ウプザ・ガーラ(標準語に直訳すれば「大座のカシラ」、字松原出身の船頭)という人物が、沖縄本島より宮古島への航海中、嵐に遭い、の福州(福建省)まで漂流し、1597年にそこから金藷という品種の甘藷(サツマイモ)を持ち帰ったという伝承がある。1706年に宮古島・蔵元より琉球王府に報告された『御嶽由来記』という書物にも、この旨が記されている。

これが真実であれば、沖縄本島読谷村に野国総監が甘藷を伝えたよりも7年早く、宮古島が現在の日本の領域内で最も早く甘藷が伝来した場所になる。

しかし、甘藷がフィリピンから中国・福州に伝来したのは、旨屋が福建省に漂着したのと同じ1594年のことであり、1597年はそのわずか3年後であることや、『御嶽由来記』は宮古島の神話伝説を記述した本であることから、この説には疑問が呈されており、『宮古史伝』や『宮古島庶民史』は家譜の記述を誤記として退け、宮古への伝来を1618年としている[36]。また、沖縄本島や八重山列島には別系統での伝来が伝えられており、宮古島を経由して伝来したとはされていない。

ちなみに、長眞氏旨屋(字松原・字久貝では、ウプザ・ガーラ)に対して、宮古島の人々は、ンムヌシュウ(宮古方言で芋の主、甘藷神)として、芋報礼(ンムプーリ)という感謝祭を昭和の中頃まで捧げていた。しかし、宮古島でのサツマイモの栽培が廃れると、次第にこのンムプーリも盛大には行われなくなった。

宮古上布

一反織るのに数ヶ月かかる上布の最高級品で、「東の越後、西の宮古」と呼ばれ越後上布と並び日本を代表する上布である。国の重要無形文化財。

1583年に稲石刀自(いないしとぅじ)が創製したと伝えられる。明治初期以前は人頭税として琉球王府に貢租。琉球から薩摩に貢納された後、薩摩上布として全国に販売・流通されていた。

ドイツ商船遭難事件とその後の交流

1873年7月9日、宮古島南岸の上野村沖で、ドイツ商船「R・J・ロベルトソン号」(エドュアルト・ハイムスハイム船長)が台風のため座礁した。この船は中国の福建でを積み、オーストラリアアデレードへ向かう途中だった。

船はマスト2本が折れ、船員2名が死亡、ボート2艘も流失し、干潟に乗り上げた状態で座礁。近海を航行していたイギリス船が座礁を目撃し、小船を出して救出しようとしたが、高波のため断念した。ほぼ同じ時期に島の役人も座礁を発見し、船を出そうとしたものの、夜間で高波のため断念、島民は沿岸に篝火を焚いて、座礁船に残る乗組員を励まし続けた。

翌朝、まだ高い波の中、小船2艘を出し、船に残っていた1艘と合わせた3艘のボートに生存者8名(ドイツ人6名、うち女性1名、中国人2名)を救出した。

役人は役場を宿泊所として提供、自らはその周りに仮小屋を立てて過ごした。当時の島民の主食はキビだったが、遭難者にはや鶏肉を与え、看護し続けた。

34日間を宮古島で過ごした後、彼らは台湾基隆へ渡り、イギリスの汽船で中国へ、中国から祖国ドイツに帰ることができた。船長がこの一連の遭難話を「ドイツ商船 R.Jロベルトソン号宮古島漂着記」と題して新聞に公表したところ、大反響を呼び、時の皇帝ヴィルヘルム1世が知るところとなった。その博愛精神に感動した皇帝は3年後の1876年、軍艦チクローブドイツ語版号を派遣し、皇帝の誕生日でもある3月22日に感謝の石碑を建立した。中央政財界に進出し海外と交流のあった下地玄信が、ドイツ政府より友好の証として鉄十字を受賞している。

日独間が同盟関係を結んでいた1936年には、外務省や日独親善団体、宮古教育部会の協力のもと、遭難現場近くの宮国ンナト浜に「獨逸商船遭難の地」の碑が建てられた。また、翌1937年には、文部省が全国から募集した「知らせたい美しい話」で、この史実が1等に選ばれ、小学校修身教科書に載り、「博愛」という題で全国の子供たちに紹介されることになった。

1996年、遭難地近くに「うえのドイツ文化村」という施設が建設されたが、2000年主要国首脳会議沖縄で開催されており、ドイツ首相のゲアハルト・シュレーダーが親善訪問した。

交通

  • 空港
  • 港湾
    • 平良港 - 多良間島との定期旅客航路や、那覇・石垣・本土等との定期貨物航路が就航している。
    • 島尻漁港 - 大神島との定期旅客航路が就航している。
  • 路線バス

防衛

陸上自衛隊の宮古島駐屯地[37]、航空自衛隊のレーダーサイト基地である宮古島分屯基地が置かれ、後者は南西諸島に接近する航空機を監視している。

沖縄本島と宮古島の間にある290 km(158.9海里)の宮古海峡は排他的経済水域にあり、東シナ海と太平洋を隔てる要衝(チョークポイント)である。なかでも西太平洋への進出を目指す中国海軍にとって、宮古海峡は最短で太平洋に進出できる出口として重要視しているとされ[38] 、宮古島を含む境界線上の島々は第一列島線と表現され、海洋戦略上重要な概念になっている。近年の中華人民共和国は、海洋利権拡張のために尖閣諸島南沙諸島西沙諸島といった離島の領有権を主張し、宮古島近海でも領土拡張を示唆する中国軍機の動きが見られる[39]。また、沖縄に関しても中国側の政治的意図を示す言説が近年に浮上しており、かつての大陸国(など)と琉球との交流を根拠とする中国主権説や沖縄独立を標榜する主張等もみえ、2016年には中国北京でこうした沖縄関連の学術会議が開催されている[40][41]。宮古島では、中国の軍国主義姿勢を脅威として現実的に受け止める人々がいる[42]。また一方で、近隣国と軍事的緊張を高めるとして自衛隊配備に反対を唱える人々もいる[43]

26中期防に基づき同島の防衛を主任務とする陸上自衛隊の部隊(離島警備部隊及び地対空・地対艦ミサイル部隊)配備が決定し、防衛省は2017年10月に地元自治体との契約を締結[44]。2019年2月22日の閣議決定を経て、2019年3月26日に宮古島駐屯地が開庁した[37][45]

放送

島内に中継局(沖縄県域民放ラジオは伊良部島)があり、テレビ・ラジオともこれらの中継局から受信可能である。このほか、ケーブルテレビ宮古テレビがあり、島内のほか、宮古列島ほぼ全域(大神島及び水納島を除く)で受信可能である[46]

2002年コミュニティーFMFMみやこが開局し、島内のほか、宮古列島ほぼ全域で受信可能である[47]

観光

ダイバーには洞窟潜水で有名。

名勝・旧跡・観光スポット

砂山ビーチ

著名な出身者

脚注

  1. ^ 平成30年全国都道府県市区町村別面積調 付3 島面積” (PDF). 国土地理院. p. 109 (2018年10月1日). 2019年6月23日閲覧。
  2. ^ 平成30年度版「統計みやこじま」 I.土地及び気象』宮古島市、2019年3月https://www.city.miyakojima.lg.jp/gyosei/toukei/files/H30_01.pdf 
  3. ^ 平成30年全国都道府県市区町村別面積調” (PDF). 国土地理院. p. 109 (2018年10月1日). 2019年3月16日閲覧。
  4. ^ 展示案内 第一展示室(考古、歴史)” (PDF). 宮古島市総合博物館. 2020年3月3日閲覧。
  5. ^ a b c d 史料にみる「宮古=太平山」の呼称の変遷”. 宮古5市町村合併推進協議会. 2020年3月7日閲覧。
  6. ^ 藤田豊八『東西交渉史の研究 南海篇』荻原星文館、1943年、410頁。 
  7. ^ a b c d 仲宗根將二「「宮古の地名」を歩く(3)-地名の語る「宮古の歴史と文化」」(PDF)『宮古島市総合博物館紀要』第16号、宮古島市総合博物館、2012年3月、114-149頁。 
  8. ^ 明史 巻323 列伝第211外国4
  9. ^ 宮古の概要”. 宮古5市町村合併推進協議会. 2020年3月6日閲覧。
  10. ^ “幻の大陸に400人上陸 八重干瀬、国指定後初”. 宮古新報. (2013年4月12日). http://miyakoshinpo.com/news.cgi?no=7858&continue=on 
  11. ^ 気象警報・注意報や天気予報の発表区域”. 気象庁. 2020年3月7日閲覧。
  12. ^ 宮古島の地質”. 宮古土地改良区. 2020年3月7日閲覧。
  13. ^ 目崎茂和『南島の地形 沖縄の風景を読む』pp.106、沖縄出版、1988年
  14. ^ 町田洋他編『日本の地形 7 九州・南西諸島』pp.256、東京大学出版会、2001年、ISBN 4-13-064717-2
  15. ^ 平良市史編さん委員会編『平良市史第1巻通史編1先史-近代編』pp.9、平良市役所、1979年
  16. ^ 佐々木喜一(2005)、「宮古島サトウキビ畑における蒸発散量」 農業氣象 2005年 61巻 1号 p.77-81, doi:10.2480/agrmet.61.77
  17. ^ 宮古島地方の気候特性 - 宮古島地方気象台
  18. ^ デジタル大辞泉プラス,日本大百科全書(ニッポニカ),世界大百科事典内言及. “宮古島台風(みやこじまたいふう)とは”. コトバンク. 2020年4月6日閲覧。
  19. ^ “サワガニの新種確認/覆る?宮古島水没説”. 琉球新報. (2001年12月12日). オリジナルの2009年7月19日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090719054014/http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-110374-storytopic-86.html 2008年8月10日閲覧。 
  20. ^ 宮古列島の外来種』(PDF)環境省那覇自然環境事務所、2016年3月http://kyushu.env.go.jp/okinawa/%E5%AE%AE%E5%8F%A4%E5%88%97%E5%B3%B6.pdf 
  21. ^ 太田英利・高橋亮雄「琉球列島及び周辺島嶼の陸生脊椎動物相 -特徴とその成り立ち-」『美ら島の自然史 サンゴ礁島嶼系の生物多様性』琉球大学21世紀COEプログラム編集委員会編、東海大学出版会発行、2006年、2-15頁、ISBN 4-486-01731-5
  22. ^ 安谷屋昭「巨大石灰岩層の島・宮古島と八重干瀬台礁」(PDF)『平良市総合博物館紀要』第8号、平良市総合博物館、2001年3月、37-52頁。 
  23. ^ 矢崎清貫(著)、地質調査所(編)「南島つれづれの記(その4) 石灰岩からみた宮古島のおいたち」(PDF)『地質ニュース』第264号、実業公報社、1976年8月、41-51頁。 
  24. ^ ピンザアブ洞人 ピンザアブ洞窟 宮古島に2万6千年前に住んでいた人々の話”. 宮古島キッズネット. 2020年3月7日閲覧。
  25. ^ “アラフ遺跡を文化財指定へ/城辺新城”. 宮古毎日新聞. (2018年12月21日). http://www.miyakomainichi.com/2018/12/115269/ 
  26. ^ “【美ぎスマ】浦底遺跡出土品文化財指定へ/城辺地区福北集落”. 宮古毎日新聞. (2019年4月27日). http://www.miyakomainichi.com/2019/04/119532/ 
  27. ^ “宮古の先史時代解明に手掛かり - 友利元島遺跡調査”. 宮古新報. (2013年1月17日). http://miyakoshinpo.com/news.cgi?no=7319&continue=on 
  28. ^ “宮古に無土器時代人骨 友利元島遺跡”. 琉球新報. (2013年1月13日). オリジナルの2020年3月7日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200307012553/https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-201323.html 
  29. ^ a b 『雍正旧記』より。
  30. ^ 仲宗根 將二(宮古郷土史研究会 会長、平良市史編さん委員会 委員長)『国内最古の石橋 池田矼(橋)』
  31. ^ 平良市史1-通史編1[1979:171-177]
  32. ^ a b “戦争の記憶伝承へ 博物館で平和展開幕 「3つの飛行場」テーマ”. 宮古毎日新聞. (2019年5月25日). http://www.miyakomainichi.com/2019/05/120221/ 
  33. ^ 宮古島市(旧平良市)における戦災の状況(沖縄県)”. 一般戦災死没者の追悼. 総務省. 2019年7月25日閲覧。
  34. ^ 『沖縄宮古島戦記』 藤井正道 著
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  36. ^ 仲宗根将二『宮古風土記』ひるぎ社、1988年。 
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  38. ^ 宮古海峡を堂々と通過した中国海軍の真意 阿部純一 - Japan Business Press (2010年4月20日号掲載)
  39. ^ “中国軍機13機、宮古沖往復 空自が緊急発進 スクランブルで過去最大規模”. (日本経済新聞). https://www.nikkei.com/article/DGXLASFS02H5K_S7A300C1PP8000/ 2017年3月2日閲覧。 
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  41. ^ “「『琉球独立』標榜する日本の団体関係者と学術交流」「日本国内の分断を図る戦略的な狙い」 公安調査庁「回顧と展望」で中国の動きに警鐘”. 産経ニュース. (2016年12月28日). オリジナルの2017年2月26日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170226050946/www.sankei.com/affairs/news/161228/afr1612280029-n1.html 2017年3月14日閲覧。 
  42. ^ “中国軍事情勢を紹介 未来を考える会 宮古で「国防勉強会」”. 宮古毎日新聞. (2012年8月25日) 
  43. ^ “「自衛隊配備に反対」/5・15行進”. 宮古毎日新聞. (2012年5月13日). http://www.miyakomainichi.com/2012/05/34194/ 
  44. ^ “宮古島陸自駐屯地、年内に着工へ”. 産経ニュース. (2017年11月4日). https://www.sankei.com/politics/news/171104/plt1711040006-n1.html 2018年6月10日閲覧。 
  45. ^ 防衛省人事発令(2019年3月26日1佐職)
  46. ^ サービスエリア”. 宮古テレビ株式会社. 2019年2月9日閲覧。
  47. ^ FMみやこについて”. FMみやこ. 2019年2月9日閲覧。
  48. ^ a b c “全部行きたい! 日本のベストビーチに沖縄から8カ所 美しさ・アクセス・インスタ映え高評価 トリップアドバイザーがランキング”. 沖縄タイムス. (2019年6月12日). オリジナルの2019年6月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20190623021728/https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/431504 

関連項目

外部リンク