娘道成寺
『娘道成寺』(むすめどうじょうじ)とは、歌舞伎舞踊の演目のひとつ。またその伴奏音楽である長唄の曲のひとつ。今日では、『京鹿子娘道成寺』(きょうがのこむすめどうじょうじ)が正式な外題である。
概要
- 初演:宝暦3年 (1753年) 3月、江戸中村座の『男伊達初買曽我』(おとこだてはつかいそが)の三番目に上演。初代中村富十郎の白拍子(横笛)[1]。
- 作詞:藤本斗文[2]
- 作曲:初世杵屋弥三郎、補作:初世杵屋作十郎(伝)
- 振付:初代中村傳次郎[3]
かつては道成寺伝説を題材にした「娘道成寺もの」と呼ばれる演目が複数あり、それぞれお家芸である独特の所作や振付けを盛り込んだものだった。外題も、初代瀬川菊之丞は『百千鳥娘道成寺』(ももちどりむすめ〜)、初代中村富十郎は『京鹿子娘道成寺』(きょうがのこむすめ〜)などとそれぞれ異なっていた。このうち、現在まで曲と振付けが揃って伝わるのは中村富十郎の娘道成寺のみになってしまったので、その外題が本外題として定着するようになった。
派生形に、二人の白拍子が踊りを競う『二人道成寺』(ににんどうじょうじ)や、立役が主役の『奴道成寺』(やっこどうじょうじ)などがある。
構成
全体は道行、問答、長唄に大きく分けられる。
幕が開くと「聞いたか、聞いたか」「聞いたぞ、聞いたぞ」の科白を言いながら大勢の所化が登場(俗にこれを聞いたか坊主と呼ぶ)[4]。所化たちが舞尽くしの科白をいうくだりなどあり、それを終えると舞台に並んで座る。下手には後見が寺の入口をあらわす小さな木戸を持ってきて舞台に据える。上手からは義太夫連中の乗った山台を引出して第一段の道行が始まる。
- 第一段(上演時間の関係でこの第一段と次の第二段を略し、すぐに第三段にうつる場合がある)
- 第二段
- 問答:花子と所化が珍問答をするが、この場面も時間の都合上、短く端折られる事が多い。花子は木戸を通って所化から烏帽子を受け取ると、一旦下手へ引っ込み衣装を替え、木戸は片付けられ所化たちも舞台の両側に座り、次の第三段となる。
- 第三段
- 第四段
- 第五段
- 手踊:恋の切なさを娘姿で踊る。
- 第六段
- 鞠歌:少女の鞠つきをまねて踊る。歌詞には遊郭を詠み込む。
- 第七段
- 第八段
- 手ぬぐいの踊り(くどき):女の恋心を歌う。
- 鞨鼓の合方
- 第九段
- 山づくし(鞨鼓の踊り):歌詞は二十二の山の名を詠み込む。胸に鞨鼓を着けて踊る。
- 第十段
- 手踊: 「ただ頼め」の唄で踊る少女らしい踊り。ただしこの段もカットされることが多く、その場合は第九段途中の歌詞「いのり北山稲荷…」から衣装を引き抜き、第十一段の鈴太鼓の踊りとなる。
- 第十一段
- 鈴太鼓:鈴太鼓を手に持って踊る。テンポの速い踊り。田植え歌[7]。
- 第十二段
- 鐘入り:鐘に取り憑く。中村富十郎の初演時はこの段までだった。第十二段以降は能にならって後に付け加えられたものだが、現在でも演じられないことが多い。
- 第十三段
- 祈り:坊主の祈り。このあと鱗四天(うろこよてん)の捕り手たちが花道にかかり、「とうづくし」を演じる。この間、鐘の中では白拍子から蛇体への衣装替えが行われていることになり、この段は全体的に一種の間奏曲の働きを行っている。
- 第十四段
- 蛇体:恐るべき姿の後ジテ(蛇体)が現れる。
- 第十五段
- 押戻:後ジテが花道に。押戻(役名は現行ではふつう大館左馬五郎となっている)があって、本舞台に戻る。ここでは荒事芸が中心となる。最後は、捕り手が蛇の形を表し、後ジテが台の上で、押戻が元禄見得でそれぞれ決まり幕となる。
あらすじと見どころ
桜満開の紀州道成寺。清姫の化身だった大蛇に鐘を焼かれた道成寺は長らく女人禁制となっていた。以来鐘がなかったが、ようやく鐘が奉納されることとなり、その供養が行われることになった。
そこに、花子という美しい女がやってきた。聞けば白拍子だという。鐘の供養があると聞いたので拝ませてほしいという。所化(修行中の若い僧)は白拍子の美しさに、舞を舞うことを条件として烏帽子を渡し入山を許してしまう。
花子は舞いながら次第に鐘に近づく。所化たちは花子が実は清姫の化身だったことに気づくが時遅く、とうとう清姫は鐘の中に飛び込む。と、鐘の上に大蛇が現れる。
…と、一応上のような「あらすじ」ではあるが、実際にはその内容のほとんどが、構成の項で解説した主役による娘踊りで占められている。つまり、本作のあらすじは舞踊を展開するための動機と舞台を用意するための設定で、劇的な展開を期待すると作品の方向性を見失ってしまう。まずは演者の踊りそのものを鑑賞するのが、この作品の要点である。
歌舞伎舞踊の粋
『娘道成寺』は、舞に華麗さ、品格の高さが要求されるのみならず、1時間近くをほとんど一人で踊りきるため、芸の力と高度な技術に加え、相当の体力が必要となる。
歌舞伎舞踊の頂点をなす作品で、過去に多くの名優がこれをつとめてきた。初演以後は、三代目坂東三津五郎、四代目中村芝翫、九代目市川團十郎、五代目中村歌右衛門、六代目尾上菊五郎、七代目坂東三津五郎、六代目中村歌右衛門、七代目尾上梅幸などの名優がつとめ、現在では七代目尾上菊五郎、十八代目中村勘三郎、四代目坂田藤十郎、五代目坂東玉三郎が得意としている。
成駒屋では五代目中村歌右衛門がこれを当たり役として以来、一門の歌右衛門・芝翫・福助の襲名披露興行で必ず出す演目となっている。
「劇聖」と呼ばれた九代目團十郎は、立役でありながら十代の頃は『娘道成寺』を毎日踊ることを日課としていた。後に本人は、この踊りには踊りの要素のすべてが入っており、所作の基礎訓練には格好の教材だったからだと述懐している。また、六代目菊五郎も『娘道成寺』で多く評価を得たが、本人はまだまだ不本意だという感が常にあったらしく、死去するさいの辞世の句「まだ足らぬ おどりおどりて あの世まで」の「おどり」は、この『娘道成寺』を指している。
「白拍子花子」という役名について
現在では『娘道成寺』を上演する際、その役名を「白拍子花子」とするが、江戸時代にはこの役名は一定していなかった[8]。たとえば宝暦3年の時に演じた富十郎の役名は花子ではなく横笛であった。横笛という娘が殺される場面がこの舞踊の前の幕にあり、その亡霊が白拍子となって鐘供養の場にあらわれる…という筋書きが、この時演じられた娘道成寺にあったという[9]。そして富十郎以降においても、『娘道成寺』は違う芝居の一部に加えられ、白拍子もその芝居の中の人物に名を変えて当てはめられた(ちなみに鐘の供養をする寺の名も、当然道成寺に限らなかった)。もっとも江戸時代においても、その時の芝居の内容とは関係なく独立した所作事として上演される例はあったが、それでも役名は「白拍子桜木」や「白拍子桜子」、または単に「白拍子」としていた。「白拍子花子」というのは明治以降定着したものである。
注
- ^ ただし渡辺保は富十郎が『娘道成寺』を初演したのはこの時ではなく、前年の宝暦2年(1752年)、京都嵐三右衛門座(京都北側芝居)において『百千鳥娘道成寺』の外題で演じられたのが最初であるとしている。『娘道成寺(改訂版)』渡辺保著(駸々堂、1992年)の93頁以降より。
- ^ 江戸期の歌舞伎作者。初め三代目澤村宗十郎に役者として弟子入りしたが、享保20年(1735年)作者に転向し澤村斗文と称す。元文2年(1737年)藤本姓に改め中村座や市村座の狂言作者として活動した。『京鹿子娘道成寺』は斗文の代表作である狂言『男伊達初買曽我』の所作事として上演された。
- ^ 初代中村仲蔵はその著書『所作修行旅日記』の中で、『娘道成寺』は中村伝次郎が振付けをしたものだと記している。この中村伝次郎は仲蔵が養子に行った志賀山家(志賀山流)の人物で、中村座専属の振付師だった。
- ^ このあと寺の住職が出て、所化たちに高札を渡す場面があったが現在は出ない。また所化の人数はもとは二人ないし四人であったが、現在のように大勢で出るようになったのは、九代目團十郎の所演以降のことだという。この所化は、襲名披露の上演の際は幹部俳優が御馳走(特別出演)で出る。
- ^ 一番新しい例では平成20年(2008年)12月の歌舞伎座昼の部の公演で、現坂東三津五郎が道行を常磐津『道行丸い字』(みちゆきまるにつのもじ)で演じている。この第一段の道行は古くは上演する度に書き直したもので、その時の役者によって常磐津になったり富本になったりしたが、義太夫のもの以外に現在にまで伝わっているのはこの『道行丸い字』だけだという。ただしこの道行については、これとはまた別の常磐津によるものが楳茂都流と藤間流に伝わっているともいう。
- ^ この所化の踊りは九代目團十郎が踊ったときに付け加えたもので、それまでは花子一人で第六段を踊った。このあとの合方(チンチリレンの合方)も九代目團十郎所演の時に加えられたもの。
- ^ 宝暦三年の富十郎所演の折には、この第十一段のあとに石橋の獅子の所作があって第十二段の鐘入りとなった。
- ^ そもそも劇中において「これはこの国のかたわらに住む白拍子にて候」とはいうが、名は述べてはいない。これは『娘道成寺』のもとになった能の道成寺も同様である。
- ^ 『歌舞伎・問いかけの文学』古井戸秀夫著(ぺりかん社、1998年)の306頁以降参照。
関連項目
- 『娘道成寺~蛇炎の恋』: 本作を題材とし舞台を現代に移した2004年公開の日本映画。
- 『娘道成寺』上演略史
外部リンク
- 京鹿子娘道成寺(歌舞伎 on the web)