如信

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如信

嘉禎元年 - 正安2年1月4日
1235年 - 1300年2月2日
1235年 - 1300年1月26日

上段・旧暦 中段・グレゴリオ暦換算[1] 下段・ユリウス暦
法名 如信
尊称 如信上人
生地 京都
没地 法龍寺(茨城県)
宗旨 浄土真宗
宗派 (後の本願寺系諸派・錦織寺系)
寺院 願入寺・法龍寺
親鸞
弟子 乗善房信海、浄如覚如など
大谷祖廟 (真宗大谷派)
法龍寺
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如信(にょしん)は、鎌倉時代中期から後期にかけての浄土真宗親鸞の孫、善鸞の子。浄如の父。歿後、従子の覚如により本願寺第二世に位置づけられる。本願寺宗主御歴代のうち、唯一、が伝わっていない。

生涯

年齢は、数え年。日付は文献との整合を保つため、いずれも旧暦(宣明暦)表示を用いる(生歿年月日を除く)。

  • 嘉禎元年(1235年)頃、京都で生まれる。幼少の頃より祖父・親鸞から、教えを授かる。
  • 建長5年(1253年)頃、父・善鸞と共に東国(関東)に赴き、陸奥国において布教活動を行った。建長8年(1256年)に、善鸞は親鸞によって義絶されるが、如信は陸奥国に残り布教活動を続けた。陸奥国の大網(現、福島県石川郡古殿町)に草庵(現、如信上人願入寺跡)を構え拠点とする。この地での如信の活動は、非常に大きな門徒集団を形成する事となり、大網門徒と呼ばれた。
  • 弘安3年(1280年)、覚信尼(親鸞の末娘、如信の叔母)とその子覚恵の依頼により、大谷廟堂(親鸞の廟処。後の、本願寺)の法灯を継ぐ。しかし寺務は、そのまま覚信尼と覚惠に委ね、陸奥国での活動を続ける。
  • 永仁7年(1299年)、報恩講のために京都に赴いた帰路の際、門弟乗善房信海より請われ、常陸国の上金沢(現、茨城県大子町)の太子堂〈現、法龍寺)に入り布教活動する。
    • 太子堂は、如信が道場として建てた物を、乗善房に守らせたとされる。その地に、法龍寺(茨城県久慈郡大子町上金沢)が建てられ。現在も真宗大谷派寺院として存続している。
    • 大網の草庵は、後に願入寺となる。寺格化後、願入寺第一世に位置づけられる。その後願入寺は、移転を繰り返す。延宝の頃に水戸藩藩主徳川光圀[2]によって、茨城県東茨城郡大洗町岩船に移される。江戸末期には焼失するものの、昭和37年(1962年)に再建され、現在は、原始眞宗大本山願入寺(大洗町磯浜町)。 同寺には光圀の遺品や多数の書状が残っている。
  • 正安2年(1300年1月4日、常陸国上金沢の草庵にて入滅する。66歳(62歳とも)。願入寺は子の浄如が継いだ。
    • 祖父である親鸞の祥月忌(報恩講が営まれ始めたのは永仁2年〈1294年〉頃より)には上洛し、覚如に宗義を伝授した。このことから没後に、覚如は如信を本願寺第二世に位置づけられる。

文献

  • 坂東性純編 『親鸞面授の人びと 如信・性信を中心として』 京都:自照社出版、1999年

脚注

  1. ^ グレゴリオ暦換算。本願寺派では、グレゴリオ暦に換算した生没年を用いる。
  2. ^ 光圀は、願入寺15世如高の娘を養女に迎えている。 門主の子孫が領内で零落しているのに心を痛め、娘を城内に入れ鶴子姫と称し、東本願寺琢如の次男である如晴(瑛兼)を婿に迎える。 再興には寺領300石を与えた。